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『マザーエルザの物語・終章 33』


 あおいは、近い将来、それはごく数秒後のことなのだが、自分もそのプラットホームに呑みこまれていくことを信じられなかった。
「あおい、早く来てよ、ドアが閉まっちゃうわよ」
「うん・・・・・・」
 手首を返してわざと女の子らしい仕草を演出しながら、少女は立ち上がった。しかる後に、その腕を無理矢理に親友によって摑まれながら、かつて観察した客たちと同じ運命を辿ることになった。
 行き交う人々はどれもプラスティックで構成されている。どんなにおせじを使っても、とても生きているように見えない。
 とうぜんのことなのだが、みんな、彼女とは無関係のように思える。じっさい、そうなのだから仕方ないが、誰も 自分に意識を集中しないことには、例えようもない不自然さを感じる。
 自分が何事か偉いことを成し遂げたわけではないが、意識の何処かでそのような自分がティッシュペーパーを出会う人に配り歩いている。それらには、きっとこう書いてあるにちがいない。

 「私を見て、注目して!」

 そのような雑然とした思考の沼に心を浸していたのが、そうとう、異様に見えたのか、啓子はしゃっくりを上げるような声を出した。
「何をぐずぐずしているのよ」
「あ、ごめん ―――」
 そのとき、少女の小さな頭の中に設置してある映画館では、啓子が見ている作品とはまったく違うそれが上映されていた。
 あおいは一人、列車に取り残されている。プラットホームにいるある人物を視界に収めるのに必死だ。
 少女が聞いたこともない轟音が彼女から聴力を奪っている。口を必死に動かしているはずだが、自分の声すら聞こえない。プラットホームに立つ人々は一様に手を振っているが、しかし、どれもおかしな恰好をしている。女性は袋のようなものを頭に、そして、男性は変な帽子を被っている。
 その上、みんな、明かに日本人ではない。その服はどれも薄汚れていて、彼女が慣れ親しんでいる駅の風景とはあきらかにちがう。
 しかしながら、何か旧い映像を見せられているというかんじではない。たしかに、彼女はそこにいて、世界を体験しているという現実感が真に迫ってくる。けっして、彼女はこの世界にとって客などではなく、住人なのだ。当事者なのだ。
 何処にも不自然なことがあろうはずがない。
 列車がプラットホームを消滅させようとしたとき、目標の人物が見付かった。
 小髭の人物。

――――旅立つまでに、切っておいてって頼んでおいたのに。
 あきらかに似合っていない。ありもしない威厳をそなえるために生やしているのだ。そのままで十分ハンサムなのに。
 青年はプラットホームを喰い殺さんばかりに口を動かしているが、轟音のために何も聞こえない。旧いトーキー映画を見せられているようだ。

―――ええい、演者は一体どこにいったというのか。
 彼はきっと自分の名前を呼んでいるのだろう。
 そう思った、いや、確証したあおいも彼の名前を呼んだ。
 しかし、その時にはもうプラットホームごと彼は虚空に消え去っていた。
 深い黄昏が西の空に、まるでドラゴンの目のように意地悪く光っていた。何処かの国の何処かの文学者が書いた童話に、ドラゴンの目が発する光によって石になってしまう話があったはずだが、あおいも石化して誰もいない墓場に放り出されたような気がした。

―――それでも行かねばならない。
 少女は何者かにそう語っていた。
 少女は何者かにそう語っている。
 啓子はあおいがわけのわからないことを呟いていていることに気づいた。
「啓子ちゃん、私、あの列車に乗らないと ―――」
 「どうしたの?あおいちゃん!?」
 別の世界に行ってしまったかのように佇む啓子。その顔を見せつけられると思わず体の芯を奪われてしまったかのような虚脱感に襲われた。それはあきらかに既視感と呼ばれる感覚にちがいなかった。

―――奪われてしまう。
―――このままだと永遠に、あの列車に乗って
―――無知な土人のために。
――――だから、いっそのこと爆破してしまおう。
 
 気が付くと、啓子は親友を鷲の目で睨んでいたらしい。
「どうしたの? 啓子ちゃん、怖い」
怯えた顔を一目見れば、アウシュビッツに連行されるユダヤ人少女よろしく、完全に色を失っているのがわかる。
しかし、あえて優しい声をかけようとは思わなかった。
「悪かった、ごめん、時間がないから、先を急ごう」
 「け、啓子ちゃん」
 新鮮なレタスのような手を握りしめながら、改札に向かう啓子。あおいはそれに付いていく、いや、その手を切断しないかぎりは付いていかされるのだが、引きずられながら啓子が感じているそれとは、また別の、既視感の火に煽られていた。
啓子の手は限りなく冷たかった。まるで、ドライアイスのように、このまま押しつけられていたら凍傷するのではないかと怖れるくらいに、存在そのものが鉄の氷と化していた。それは、あおいに何かを訴えているように感じた。

―――自分を見捨てるな。
――置いていかないでくれ。
―――自分を裏切るのか。

 さまざまな怨嗟の声があらゆる時間から聞こえてくるような気がした。その中には、未来から響いてくるそれすらあった。

―――自分がいったい、何をしたというのだろう。
 
 改札を抜けるために手を離されたときには、心底ほっさせられた。
このまま摑み続けられていたら、本当に肩からもぎ取られてしまうのではないかと、思った。じっさいに痛みすら感じていた。刃物が触れる冷たさすら予感することができた。
町中を行き交う人々も、やはり蝋人形のように、どれも目がうつろだった。あおいの主観がそうさせるのかもしれないかと、幼い少女に洞察させるのは無理なはなしだろう。
 世界がぜんぶ、自分のためにあると思うのは、子供の特権である。大人がそう思ったら人間性からの逸脱以外の何物でもないが、子供ならば例外的にそれが許される。

 精一杯ではないが、あおいは、それを満喫していた。ドールハウスをそのまま大きくしたような街を駈け抜けていく。大人と大人の間をすり抜けていく。初夏の太陽はまだ健在で若々しい陽光を人々の頭に降り注いでいる。
そう大きな駅に隣接する街ではないので、目抜き通りはそう大がかりというわけではない。しかしながら、意図して造られたのか、ほぼ赤煉瓦に統一された瀟洒な雰囲気は、あおいの目を楽しませるのに十分だった。
馬車が走っていてもおかしくないと思われる通りを10分ほど歩いた先に、その建物はあった。

 正面に設えられた看板には『代ゼミ美術科』とある。
 まるで白黒写真のような鉛筆画が正面の窓に所せましと貼られている。人物や静物を描いたそれらの作品をデッサンと呼べるほど、少女は、美術に明るいわけではなかった。自動ドアが開くと、啓子は、いかにも当然という顔で入っていく。一方、あおいは、きょきょろきょろと落ち着かない仕草で奥に向かう。ここは当然、美大受験生が通う学校なので、当然のことながら、最低でも15歳には達している。普通の小学生にとって、彼らは考えるまでもなく大人に見えることだろう。
 受験生たちは、珍獣でも見るような顔であおいを見送る。啓子の方は相当慣れたようすで彼らの視線を全く意に介さない。
 高級ホテルじみたエントランスを抜けて、廊下の一番奥まったところに、その部屋はあった。ドアには所長室と書かれたプレートが貼られている。啓子は、大人びた仕草でノックすると、奥から男の声が聞こえた。
 それに返事をする啓子は、普段の彼女よりもさらに年齢を先に行っていて、あおいは、何だか取り残されているような寂しさを感じた。横顔を盗み見すると、その目つきに愕然とさせられた。とても小学生がするような表情ではなかったからだ。さらに居たたまれない気持に苛まれながらも、啓子が教師だと仰ぐ男性の挨拶に応じる。

――啓子ちゃんの絵だ!
 
 所長室に入ったとき、あおいの目を惹いたのは、所長でもこのような教室に不釣り合いに豪華な調度品たちでもなかった。この部屋にあるていどの品は自宅にいくらでも並んでいるから、彼女の注意を惹くはずがなかったのである。
 その絵は正面の右側の壁を覆っていた。正確にはかかっていたと表現すべきだろう。油絵で五号の大きさは35センチ、27センチだから、それほど大きいわけではない。しかし、その絵が醸し出す迫力は、まるで絵そのものが壁と入れ代わったのではないかと、錯覚させる。
 女性 ―――が描かれている。なんと言うことはない、よくある肖像画である。
「その絵に興味を惹かれるのかい、お嬢ちゃん ―」
 所長の声があおいを現実に引き戻した。
「きっと、この前、みんなで見に行ったから憶えているんだと思います、佐々木先生」
「ぁ・・・・・・、こんにちは、榊あおいです」
「へえ、きみが」
 いざ立ち上がった姿を見上げると、佐々木とかいう教師がわりと背が高いことがわかる。彼女の父親よりも頭一つ分くらい割高である。
「・・・・・・・!?」
 
 佐々木は、あおいを見つめる視力を弱めない。それは完全に意識せずに行われた。
 美術家というものは、気が付かないうちにそのようなことをしているものだが、それは、普段、彼がモティーフとしている対象に限ったことで、あおいのような、一般的な言い方で表現する小娘などに、貴重な意識を集中させるなどということが、よく、あることではない。重ねて、彼にその手の趣味があるわけでもない。
 だが、しばらく意識を損なっていたために、教え子の声を聴き取ることに失敗していた。
「先生!」
 啓子は、不満そうな色を表情に載せて抗議の言葉を吐く。
「ああ、ごめんよ、赤木さん、宿題は持ってきたかい?」
「はい、これ」
 スケッチブックを差し出す。
「―――――!」

 とつぜん、あおいは不吉な予感に襲われた。もしかして、自分のあられもない姿を描いた絵が眠っているのではないか。
「ちょ、ちょっと、待って。私に見せてよ!」
やおら、動いた少女は俊敏な動作で教師に渡される瞬間に、スケッチブックを奪い去った。
「何するのよ!! あおい!?」
「私の絵よ、まず、先に見る!」
 権利とか義務とか言った言葉が出てこないところが、あおいらしいところである。しかし、啓子の網膜にはその2文字が刻印されていた。
「全部、見せたでしょう!?」
「完成してなかったもん」
 思わずトラフグを口の中に抱いて見せた。
 それに、思わず微笑んでしまったのは教師である。
「ほらほら、喧嘩しないで、モデル殿は自分がちゃんと美人に描かれたのか心配のようだよ」
 ふくれっ面の美少女を優しげな笑いでやり過ごしながら、スケッチブックを受け取る。そして、彼女の視線に密やかな針を感じながらも開く。
「・・・・・!? やはり!!」
 ページを開いた、まさにその瞬間、しかし、あおいの、いや、啓子の存在すら、彼の脳裏から消えて去っていた。
 思考停止。
 彼の脳内はただ、その四文字だけが空回転していた。
 しかし、次の瞬間には別の3文字が彼の頭を席巻することになる。
 それは ――――。
 井上順。
 ある帰化人画家の名前である。
 そう、この部屋を支配している小さな絵の作者である。







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『由加里 82』
「照美お姉ちゃん、予め、西宮先輩にも聞いてるんだけど、 ―――」
 ここまで言って、ミチルは声のトーンを落とした。さりげなく由加里を見る目には、彼女を思いやる気持がこもっている。それを目敏く見破った照美は、本人でさえ理解できない感情に心を侵食されるあまり、少女を踏みつけにしてやりたくなった。
 しかし、このときばかりは、辛うじて理性が打ち勝った。
「西宮さんがどんな目にあってきたか ――――ね」

――――私の口からいわせる気?
 
 このとき、照美は妹を見る姉の顔になっていた。由加里はそれを見つけると、嫉妬心でいっぱいになった。絶世の美少女と違うのは、後者が自分で自分の気持ちを理解していることだった。あきらかに芽吹いている作家としての才能は、あきらかに彼女に自分を取り巻く世界を、いや、それだけでなくて、自分自身さえ ―――将棋の駒として見るくせを強要していた。

――――あ、そうだ。

  由加里は、ノートパソコンのモニターを思い浮かべた。まるで、目の前にそれが存在して、単調なオンとオフで表示されるグラフィックを見せられているかのようだ。
「か、海崎さん! ・・・・」
 由加里はめまぐるしく表情を変容させる。提示されているものの簡素さと対照的に少女の精神はアラベスクのような複雑さを呈していた。
 はるかをちらりと見てみる。照美は背後で陣取っているために、彼女を見ることはできないが、ダウナーなオーラーはひしひしと伝わってくる。
 彼女らが要求していることはわかっている。
 それは、モニターに映っていた文字が連なってつくる文学の世界。しかし、それを音声化するには相当の勇気が必要だと思われた。

―――――こ、これは、私が考えることじゃない。い、言わされるのよ。だから ―――。

 そう考えたとしてもなかなか、口が動いてくれない。その内容があまりに屈辱的なので口の端にのぼせることすら憚られる ―――ということである。
 由加里は自分の口が自分のものではないような錯覚に陥った。
 言い換えれば、口吻部に回された細胞が反乱かゼネストを起こしてしまったのではないか ―――と考えた。
 しかし、ようやく舌を動かすことできた。
「海崎さん、い、鋳崎さん、わ、私のこと、ゆ、由加里ちゃんって、お呼びくだ、いえ、呼んで・・・・くれない?」
 敬語とざっくばらんな言い方がミックスして、異様な味を醸し出している。しかし、照美は、その声にいっさい不快な色を沁みさせずに、返事を返した。
「そうね、お友達ならそう呼んでもいいわね、由加里ちゃん」
 この時、はるかは誰にも知られないように、照美に目で合図をした。美少女は、それを受け取ると、彼女じしん、とても信じられない言葉を吐いた。
「ウ・ウ・・ウ・ウ・ウ、じゃあ、にし、西宮さん、いえ、由加里ちゃん、わ、私たちを許してくれるの?」
 改めて、由加里の前に居直ると、とつぜん、しゃがんで彼女を見上げた。そして、堰を切ったように、嗚咽を上げながら許しを乞いはじめたのである。
 はるかは、まったく表情を変えていないが、実は、複雑な感情に鍛えきった身体を浸らせていた。
 
 あまりに見え透いた照美の演技を見ていると笑いを抑えるのにくろうする。親友と違って常に感情を直に表現してきた少女だけに、自分でプロデュースした状況にも係わらず、目的を全うするのに首を捻らざるを得ないのだった。
 彼女の演技が二人を騙せるのかと思うと気が気でない。ここは、自分も口を出すべきだと判断した。
「私も本当に悪かったと思っている ―――」
 はるかは、50年ぶりに戦友と邂逅した元兵士のような仕草で犠牲者の肩に触れた。
「ウウ・ウ・・・ウウ!!」
 まるで、発作のような嗚咽が由加里を襲う。

――これは嘘よ! 嘘に決まっている ―――――だけど。

 そもそも最初からそうだと宣言されている嘘ほど白けるものはない。知的な少女は、回りくどい言い方でそれを嘘だとみなしたのだ。
 裏を返せば、二人の言葉を信頼したい自分が何処かに存在する。

―――ああ、なんて、温かい手だろう。それにこんなに大きい。

 はるかの手はピアニストのそれのように、芸術的な繊細さをも併せ持っている。 ―――少なくとも、このときの由加里はそう受け取っていた。
だが、それを即座に否定されるような出来事が起こった。
「アウ・・・・あぐう!?」
 照美によってあてがわれた股間の異物が疼いたのである。
 普段、挿入させられている卵よりも少し目方が大きい。しかし、簡単にすっぽりと胎内に収まってしまった。可南子からさんざん受けた性的な虐待は、少女の性器をして、ほぼ生理的に処女喪失の状態に貶めていた。
 照美が由加里の恥部を調べたとき、彼女に意外な顔をさせたからくりはここにあるのだ。

 由加里は腰をくの字にして屈む。いじめっ子たちの都合がいいことに、犠牲者は自ら自分に括り付けられた足枷手枷を見せまいとしてくれる。
 言うまでもなく、股間に挿入された異物のことだ。あたかも寄生虫のように宿主に住みつきすべてを奪おうとしている、その心さえも。

「どうしたんですか? 西宮先輩!?」
 思わず駆け寄るミチルと貴子。
 これではいかんと、アスリートの卵は分け入るようにして二人と由加里の間に分け入った。
「ミチル、貴子、私から話そう ――――彼女が、西宮、いや、由加里ちゃんがどんな目にあってきたのか、話してもいいか?」
「ウウ・ウ・ウ・ウ・ウ・ウ・ウウウ!?」
 由加里は涙に濡れた顔をはるかに向けた。
―――?!
 はるかは、目を見ひらいた。
 西沢あゆみのボールを始めて受けたときのことを思い出す。当時、小学生、それも低学年にすぎなかったはるかだが、彼女に叶うクラブ生は上級生や中学生を含めても誰もいなかった。それこそ、神童と呼ばれていた ―――それは今も変わらないが、そんな彼女が始めて自分の分際というものを知った。
 愕然としてはるかだったが、同時に、テニスの喜びをも知った。クラブの首脳部から解く別扱いされていた彼女は、知らず知らずのうちに孤独を穿つようになっていた。それは自分でも気づかないうちに始まっていたのである。 それは生来のプライドの高さが原因だったのかもしれない。
 ともかく、それらを綺麗さっぱり払拭してくれたのが、あゆみのサーヴィスだったのである。
 あの日、人並み外れた才能を持つ少女は、人目をはばからずに泣いた。それを見たクラブ生は彼女が普通の少女であることを知った。そして、クラブ内でもうち解けられるようになったのである。

 いま、はるかは由加里のあられもない顔を見せられて、それを思いだしている。
 まったく無防備な顔。まるで幼児のように、普通の人間ならば常備している警戒心すら解いていた。頭の中は粥のようにぐじゃぐじゃになって何も考えられなくなっていたのである、この知的な少女をが、である。彼女をここまで追い込んだ張本人のうちのひとりにそれを向けている。
 しかし、それも一瞬のことで、すぐに虐待者の顔を思いだしていた。
「由加里ちゃんは、かわいそうに裁判に掛けられていたんだ、それも、冤罪でね。クラスメートが裁判長とか、検察官とか役割を果たしてね」
 ここまで聞いていて、照美は、はっとさせられた。何故ならば、その時、弁護士の役割を買って出てさんざん由加里を慰み者にしたのは記憶に新しいことだからだ。しかし、二人の様子を伺うに、詳しいことは知らないように見受けられる。
 それに ――。
 照美はすぐに胸をなで下ろした。由加里にあてがわれている台詞を思いだしたからだ。美少女は、二人に見付からないように、密やかな手つきで外で犠牲者の性器をいたぶるだけだ。
――――早く言いなさいよ! あんたの台詞でしょう?
 無言でそう言っているだけだ。
「ウウ・ウ・ウ・、て、照美さんは・・・あううう・・・」
 ここで、照美が由加里の下半身をどさくさに紛れて体重を押しつけた。おそらく、少女の下半身はとんでもないことになっているだろう。卵はそれに助けられて、密かに内奥を目指している。
「照ちゃんって呼んで ―――」

―――アホか、照ちゃんだって? 笑わせるな! 照美。

 今度ばかりは、さすがのはるかも、笑いを完全に封印することができなかった。二人に背中を向けることで、ようやく自分を欺くことに成功した。
 しかし、由加里の方では、とても理性を保っていられる状況ではなかったのである。何故ならば、下半身は彼女じしんが分泌している粘液でおもらし状態であるし、照美の意地悪な指は、絶え間なく刺激を繰り出してくる。まるでマグダラのマリアのように、贖罪に満ちあふれた表情とは裏腹に、底意地の悪い感情の排泄物を送り込んでくる。

―――ここまで、私の心を弄んで、踏みにじって、そんなに楽しいの? そんなに私が憎いの?
 地獄の責め苦に喘ぐ少女は、すこしでも気を抜いたら、あの恥ずかしいオルガルムスを感じると思うと、かすかに 残った理性を総動員して自分を保とうと必死なのだった。
 しかし、それよりも怖ろしいのは照美が送ってくる悪意に他ならない。そんなに自分が憎らしいならば、いっそのこと、ひと思いに殺してくれたらどんなに楽だと何度思ったかわからない。

――――きっと、何度、自分を殺しても憎しみは磨り減らないにちがいない。だけど、そんなにひどい憎しみってどうしたら生まれるものなの? 私は何もしていない。彼女に、私がどんなひどいことをしたっていうの?

 由加里は、今年になって何度その言葉を頭の中で反芻しただろうか。しかし、消化液か消火用の石が足りないのか、何度繰り返そうとも答えらしい答えは出そうにない。
 ご存知の通り、牛などの反芻動物の胃には植物の繊維を消化するための石が蓄えられている。もしかしたら、人間の心には、同じように辛い記憶を消化し栄養にすることを助ける石のようなものがあるのではないか。
 それにも係わらず由加里は相も変わらず同じことをぐるぐると悩み続けている。いや、それは外からやってくるのだが、さいきんの彼女は被害者としての意識さえ喪失してしまっている。自分が悪いのではなくて、自分が悪いという、いわば、被害妄想ならぬ自悪妄想とてもいうべき意識に苛まれている。
 
 照美やはるかは、こんなにすばらしい人間なのだから、自分に対して行っていることはけっして、いじめや虐待ではない。きっと、罰なのだ。西宮由加里という人間は、それに相応しいいかがわしい唾棄すべき存在なのである。
何処をどう間違えたら、そのような思考に陥るのだろう。
 ちなみに、その論理に、金江や高田といった人物群は組み入れられていない。きっと、彼女の無意識が自分よりもはるかに劣る人間を思考から排除したのだろう。照美やはるかはともかく、金江や高田にそのような高級な思考を理解する余地がその心にあるわけがない。
 しかし、由加里はそのように考えていない。知らず知らずのうちに思考の対象から外しているだけである。
 他人を貶めるということを何よりも嫌うこの少女にはよくあることだが、そんなことをしていたら、いじめっ子たちの毒牙の餌食になる理由とも知らずに、彼女らの蜘蛛の巣に飛び込んでしまう。哀れな虜となって生きながら、その肉体ばかりか、心まで喰われてしまうことも知らずに、身を投じるのである
 我が身の保全よりもこの世に大切なものがある。
 そのような命題が存在することにすら気づかない、高田や金江のような連中にとってみれば、全く理解できない行動にちがいない。
 もっとも、照美やはるかたちでさえ、意識の周辺が辛うじて摑んでいる感覚である。それを由加里はごく制限された能力とはいえ ―――、意識的にそうしている。わずか14歳の少女としては驚くべき精神年齢だと言うしかない。
 だが、そのことは、必ずしも少女の苦痛を和らげることにはならない。いや、むしろ、何度も、奈落の底へと墜落する帰結になってしまうのである。

 哀れな少女を言わば地獄のそこに叩き落としている人物群の中で、最たる存在ある照美が口を開いた。
「由加里ちゃん、小学生時代にしてもいないことで責め立てられたりしたんだよね ――」
 絶世の微笑の流れるような手の動きは、由加里を籠絡するのに十分だった。
少女は、優しく髪を撫でられることによって、嘘を嘘とみなすことを止めてしまった。言い換えれば、俳優が演技中に舞台の上にいることを忘れてしまったのである。これは、女優としてはあきらかに致命的な失点と言わねばならない。
 由加里の小さな口はあきらかに台本にないことを発してしまう。
「嘘だって、わかっているなら!?・・・・あぁ」
 はるか的に言えば、死刑もあたいする罪なのである。しかしながら、零れたミルクは元には戻らない。
 由加里はただ慌てるしかない。だが、ここで不幸中の幸いとでもいうべき状況が存在した。それは、彼女の股間を摑んでいる照美が台本のすべてを暗唱していたわけではないこと、そして、はるかがかなり離れたところにいたことである。
 そして、ミチルと貴子の目が光っているために、面だって行動することが、はるかには不可能だったことである。 しかし、若きアスリートの一睨みは、知的な少女を狼狽させるのに十分すぎるほどだった。
「あぁあうう・・・・」
 由加里は、肺の障害があるように身体をうならせる。それは少女の身体を振動させ、より照美の指を膣の内奥深くしのばせることになった。
 心ならずも自らの動きによって、より官能を求めることになった。
「西宮先輩、そんなひどいことを ―――」
「貴子ちゃん、知らなかったの?」
しらっと、打ち出の小槌から吐き出すように照美は言葉を並べる。
「ある男子の心を弄ぶようなことを ―――」
「だめでしょう!? はるか!! 由加里ちゃんが可哀想でしょう!?」
「・・・・・・・・・・」
 はるかは驚いた。実は、これは照美のアドリブである。なぜだか、演技の妙を身につけ始めてきたようだ。素人監督兼プロデューサーはひそかにほくそ笑んだ。
――――おもしろいことになりそうだ。









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『新釈氷点2009 6』
 ルリ子の墓参りはしとしとと、いささか鬱陶しい雨が降りしきる日に行われた。
 初夏だというのにやけに雨に濡れた肩が冷たい。助手席に座る夏枝は、バックミラーで愛しい娘の顔に視線を送っている。
 銀色に鈍く輝くフィルムからにょきっと花束が生えている。それは、まるで雨後の茸のように見えた。やけに元気に見えるのは、持ち主から栄養を奪っているからにちがいない。
 俗にそれは寄生と呼ぶのだろうが、夏枝はそれを嫌な記憶ともに呼び起こしていた。それは、彼女が少女時代、家族でパリに旅行したときに美術館で見た絵画のことだ。『寄生』と題されたある有名画家の作品だが、無数の茸が美しい少女からにょきにょきと生えていた。
 夏枝はそれを見たとたんにトイレに駈け込んだものだ。寄生されている少女はそれは美しい少女だった。ちょうど横にかけられているラファエルロの作品に棲まう少女のように、この世のものとは思えないほど清らかで美しい少女だった。

――――ちょうど今の陽子のように。
 きがかりでたまらない。ふとした仕草で彼女が真実を気づいてしまわないだろうか。
夏枝の期待以上に知的に育っていることが、この時ばかりは恨めしい。絶対に、あのことだけは気づかれてはならない。
 自分と彼女との間に偽りがたい断線があるなどと。

―――もしも、陽子と薫子の間に囲まれているのが、春実ではなかったら、どんなに幸せだったろう。
こんな憎々しい雨空などではなく、麗しい初夏の陽光に祝福されて辻口家3人姉妹と両親は、仲良くピクニックとあいなる ―――はずだった。

――――いや、ちがう。
 しかしながら、鋭敏な夏枝はあることに気づいた。もしも、そんなことになったら、陽子が辻口家に養女として迎えられるなどということはなかったにちがいない。彼女の存在すら知らなかっただろう。

―――そんなことは絶対にちがう!! 可愛い陽子を知らないなんていう人生なんてとても考えられないわ!
 夏枝は、ひそかに慟哭した。
 しかし、もうひとつ気がかりなことがあった。花束のことである。もしも、薫子の仕業でなければ、いったい、誰の手によるものなのだろう。陽子の両親だろうか。陽子を養女に迎えたとき、可愛い赤ん坊の背景をいっさい知ろうとしなかった。あふれるような太陽光の神々しさのために、そのようなことに意識が向かわなかったのである。すべての感心は、我が子になる幼きイエスだけに向かっていた。自分は慈愛深いマリアになると人知れず誓ったのである。
 建造から神父の手紙を渡された。
 一生、夏枝は忘れないと思う、陽子と出会ったあの瞬間を。

「誓ってください。幼いイエスを抱くマリアになると ―――」
 
 車のエンジン音を聞きつけると、深窓の令嬢が裸足で外に飛び出してきた。驚く建造は幼い陽子を差し出した。
 手紙は産着に添付されていた。しかし、そんなものを見るまでもなく、現在完了形ですでに誓っていたのである。
 ちなみに、薫子は祖母の家に預けられていた。だから、その光景を知らない。しかしながら、帰宅したとき母に抱かれていた陽子に出会ったとき、何よりも耐え難い宝を手に入れたことを知覚ではなく、もっと別の深いところで悟った。
 当時まだ幼女にすぎなかったとはいえ、太陽が自分の家に落ちたことだけは憶えている。いつの間にか、辻口家のお姫様という身分は奪われることに、そのとき気づいていなかった。
 だが、今となっては下のきょうだいができることによる赤ちゃん返りを起こしたことなど憶えていない。一歳と半年という驚異的なスピードでおむつはずしに成功したというのに、三歳でおもらしをしてしまったのである。
 そうはいうものの、それをくぐり抜けた薫子は夏枝に負けず劣らずに、陽子を愛しはじめた。ある年齢まで自分の本当の妹であることを疑いすらしなかった。しかしながら、母親に似て、人一倍鋭敏な彼女が早い段階でことの矛盾に気づかないということはほとんど考えられなかった。

 もちろん、その主語は夏枝と建造だが、彼らはルリ子の記憶を家から退去させることで、事態の収拾を図った。自宅に仏壇などは設置せず、アルバムや、当時は珍しかった8mmフィルムなど、彼女に関するいっさいの記憶をとある場所に封印することで、薫子が口を挟む余裕を奪い去ったのである。このことによって、ルリ子の名前を辻口家において出すことは、いつの間にか決められた不文律に抵触することになった。
 薫子は、妹を春実ごしに見つめた。
 明かに普段の陽子とはちがう。直視できないほどまぶしさを感じるくらいに輝いていた彼女はいったい何処に行ってしまったのだろうか。
 そんな物憂げな視線を止めたのは春実だった。
「そう言えば、今日は土曜日よね、学校はいいの? ふたりとも」
「今日は、創立記念日だから、休み――」
 気を取り直した姉はそう答えた。二人が通う学園は幼稚舎から高等部までエスカレータ式の一貫教育を行っている。当然のことながら、学園の創立記念日ならば、休みは同日である。
「・・・・・・・・・・・」

 妹の耳には全く届いていないようだ。ぴくりとも反応しない。いや、できないと表現したほうが適当だろうか。まるで腹を空かせた蛇を目の前にしたカエルのように微動だにできないようである。
再び、愛おしい妹に神経は向かってしまう。

 一方、車を運転する建造は、この時、どういう心づもりだったのだろう。
 この家長は、ウインカーが水滴をはじき飛ばすのを無心に見ていた。安全な運転というただ機械的な作業に神経を徹することで余計なことを考えないようにしていたのである。
 その点、夏枝とは好対照だったが、陽子にたいする愛情について負けているわけではなかた。だが、自分でも不思議なことがあった。

―――どうして、自分は陽子を愛していると言えるのだろう。
 カーブするときに陽子とはちがう中学校の制服を視野に収めたとき、青年医師の心に黒い膜が張った。
 自分を裏切った夏枝に当てつけるために、陽子を養女に迎えたのは自分自身なのだ。その事実を知らない妻はともかく、自分が陽子に憎しみを憶えないのはどういうわけだろう。
 建造はその事実を前にして愕然となった。何故か、院長の言葉が蘇る。
 車に乗ろうとした青年医師に白眉院長はこう語りかけた。
「このことは奥様も後存知なのですね。本当にすばらしいことだとおもいますよ」
 窓を閉めようとした建造に付け加えるように言った。
「あ、そうだ。ルリ子ちゃんでしたね。畏れながらお墓がある場所をお教えできませんか?」
 老翁という外見に比較して若々しい声に、意外そうな顔を隠せなかった。
 建造は、詳しい理由も聞かずにあとで連絡する旨を伝えた。

―――まだ生きているのだろうか。
 
 あの時の年齢を考えるならば、もう70は優に超えているはずだから、院長の椅子に座っているはずはない。ならば神父としてはどうだろう。
 ほんらいならば、付属の施設である乳児院の人事は、建造が握っているはずであるが、意識的にそれを除外することで、記憶から逃げ出していた。おそらく、父親が人事権を握っていた時代に処理されたのだろう。仕事をしている上で、その乳児院の院長というポストに関するはなしが出たことはなかった。

――ならば、もしかして、あの花束は彼ではないのか?
 
 この時、夫婦は同じことを考えていたのである。しかしながら、妻はその詳しい内容を知るすべはなかった。ルリ子の元係累のだれかではないかと考えていただけである。あれだけ大きな事件になれば、報道されたことによって彼女の死を確認したことは想像に難くない。
 だからこそ、まだ大人としても理性が備わっていないうちに、陽子がルリ子のことを知ることを怖れたのである。街の人には口封じをしているとはいえ、しょせんは、人の口に戸は立てられない。何時の日か真実に気づく日はくるはずだ。しかし、それはできるだけ先延ばししたい。それは同時に自分が養女であるという事実にも直結してしまうから ――――。
 しかし、夫と妻では、それに関する怖れは自ずから性格を異にする。
 その真実が表に出ることはありえないとは思っていても、ルリ子を殺したのが陽子の実父であるという事実は、若き長崎城主の頭の中で、まるで常に疼いている。それは春実も同じである。いや、犯行をそそのかしたのは春実なのだから、その思いは建造よりも倍増しだと言っても良い。
 自責の念は陽子が美しく、そして、可愛らしく育っていくのを見るにつけて、強くなっていった。
 若き日の軽はずみな衝動から犯した罪に打ち震えた。
 罪を犯した夏枝のことはともかく、この少女には何の罪もない。自分の持てる力をすべて使ってでも彼女を護ろうと決めていたのである。

 呉越同舟という四字熟語ほど車内の状況を説明するのに適当な言葉はなかった。五人ともそれぞれが違う思いを心に内包し、発散できないストレスを溜めていた。だが、それは互いに平行線を構成し、何万光年進もうとも交わることはないと思われる。
 この鬱屈とした空間がいかに高級車の胎内であろうとも、成員にとって苦痛であることには変わらない。その属性がいかに贅を尽くしたとしても、彼らの慰めにはならないのだ。
 車は、ほどなくして目的地に到着した。
 坂道を相当登ったとみえて、かなりの山奥だった。陽子は、そこが何処なのか詮索しようとしなかった。彼女にとって地名などたいした意味はない。それが本州にあろうとも五国にあろうが、はたまた、南海道にあろうともたいした意味はない。

 昼間だと言うのに、高い樹木は陽光を透さないのか、神気に満ちた静寂を為している。それでも木漏れ日のいくつかは地面に達している。そのようすは、まさに現実離れしていたが、陽子にその目的を忘れさせるほどの妖力はないようだった。
「ルリ子お姉さまはここにいらっしゃるのね ―――」
 出会ったもともない姉だが、薫子と区別するためにそう言った。それがまったく演技じみていないことは四人を驚かせた。
 忘収寺と銘打たれたその寺の門を潜るには山道に似た階段を数分ほど上らねばならなかった。木材と石で組み合わされた旧い建物が醸し出す空気はあきらかに時間から何百年も取り残されているように思える。
 
 まるで時代劇のようなセットは陽子を黙らせることはできなかったが、他の四人を憮然とさせることには成功していた。それをもっとも感じていたのは建造と夏枝であろう。夫妻は、しんじつ、歴史時代のセットに迷いこんだような気がしたのである。もう何回も上がっているはずの階段だが、どうしてこんなことを感じるのか二人は不思議でたまらなかった。
 衣服と身体の間にビニールでも入れられたような違和感を打ち消すことができない。
だが、陽子を先頭にした行列は寺の門を潜らねばならない。五人の中で彼女だけが心が目に向いているである。それは贖罪という一見否定的な概念に基づく感情であったが、それでも、意味不明な違和感に苛まれている四人に比較すれば前向きだと定義できた。

――ああ、やっとルリ子お姉さまにお会いできるのね。

 陽子は、翼がついたヘルメスの靴よろしく、跳躍してこの階段を上がっていけるような気がした。思えば、今、履いている靴もピンクのワンピースも両親がプレゼントしてくれたものだ。
 黒曜石のように光るエナメルの靴は、父親が、そして、ワンピースは母親が誕生日にプレゼントしてくれたのだ。もしも、ルリ子が生きていれば彼女もその栄誉に預かれたかもしれない。そう思うと、涙が水滴になって零れていくのだった。
 「陽子、危ないから急がないの!」

―――お母さまから、今、頂いているありがたい言葉も、ルリ子お姉さまは・・・・・・。

 罪悪感にかられるあまり陽子は足がもつれるのを認知することができなかった。
――――!
バランスを崩した少女は ――――。
 ――――。
「ほら、危ないわよ!」
「お母様!!」
 夏枝に抱かれた陽子は、危ういところで転落を免れることになった。しかし、陽子にしてみれば、その温かい腕の感触、いつもつけている香水の匂い、それらは余計に罪悪感を倍増させるだけだったのだが。
 一方、夏枝にしてみれば、いかにしっかり抱いたとしても、やっと摑んだ水晶の珠が手の上で砕かれてしまう比喩と同じで、無に帰ってしまうような気がした。
 だが、それが比喩ではすまなくなるような出来事が彼女に襲い掛かろうとしていたのである。大河ドラマの監督が喜びそうな古びた門こそが、彼女から人を愛する喜びのすべてを奪い取ってしまう大蛇の口だったのである。未だ、その可能性すら読み取れていない。
 
 寺の門を潜った一行はいつものように住職に挨拶をすると手桶を受け取った。今までと人数がちがうことにやや怪訝な顔を見せたが、追求することはなかった。

「ルリ子はこの奥に眠っているんだ ―――」
 建造は手桶を抱えながら、愛娘に語りかけた。
「かすかだけど、海が見えるとても綺麗な場所だよ。ルリ子は海が好きだったからね」
「あ、あなた ――――」
 夏枝は、嗚咽を止めることができなかった。
――――なんていうことだろう。私は、まったく成長できていない。あの子が身罷って10年以上が経つというのに・・・・・・。
 喪服と見まごうばかりにシックなつくりのツーピースに身を包んだ淑女は、自分の反応を恥じた。
 ルリ子の墓を目の前にした陽子はすでに泣いていなかった。しかし、手桶から流れる水によって墓石が清められるのを見ながら、必死に歯を食いしばっていた。
だが、やがて、はっきりとした口調で語りかけ始めた。

「ルリ子お姉さま、こんなに長い間、来れなくてごめんなさい」
その一言だけで一同は巨大な雷に打たれた。全身がピシっとなる。まるで最高司令官を目の前した士官候補生のように、背筋をまっすぐになる。
陽子は、辻口という墓の刻印を見ながら思った。

――――どうして、こんなことになったの? 
 木魚が叩かれる音が赤ん坊の泣き声に聞こえる。思えば、ルリ子はまだ言葉もおぼつかない年齢でこんな冷たく暗い場所に眠ることになったのだった。
「・・・・・・・・・・!?」
 
 四人の前にふり返った中学生の女の子はある言葉を言おうとして、絶句した。春実の顔が見えたのである。母親とはちがう意味で整った容姿は黙っていても、いや、黙っているだけでそこはかとない凛とした雰囲気を醸し出しているのであるが ―――そもそも、内心の思いに関係なく、ただ黙ってさえいればそれを周囲にまき散らすのである。
ちなみに、この時。彼女はあることを言っていた。

――――大人になるまで知ったらだめ。

「どうしたの? 陽子ちゃん・・・・・」
 夏枝は、娘の肩を砕かんばかりに両手を食い込ませた。
彼女が尊敬してやまない母親は、この世でももっとも美しい顔をくしゃくしゃにして震えているではないか。

――――言えない、絶対に、言えない。
 陽子は可愛らしい顔を梅干しにして立ち尽くすことはできない。ただ、涙を流すことはもうなかった。
涙を流す母親を目の前にして、自分こそががんばるべきだと思い立ったのである。
「ありがとうございます、お母さま、やっと、ルリ子お姉さまにお会いできて嬉しいです」
「陽子!」
 夏枝は、娘を抱いておいおいと泣きじゃくった。その姿は一同のものにある種の感慨を与えた。しかし、そこに複雑な心境が迷いこんでいたのは以前に書いたとおりである。
 陽子は、しかし、―――――。
 幼児みたいな状況に耽溺しつづけるほど子供ではなかった。
だから、目敏く何かに気づいた。そこには花束がおいてあった。




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『マザーエルザの物語・終章 32』


「ねえ、ねえ、なんでさ ――」
 帰宅中の列車の中で、あおいは啓子に話しかけていた。いつもの彼女を取り戻したように見える。密かに安堵した啓子であったが、それを簡単に表に出さないのは啓子が啓子である所以だろう。
 
 あえて、憮然とした顔を作り出して言う。
「なによ ――」
「なんで、学校の美術クラブに入らないの?」
 帰宅の途につく前に、あおいは姉である有希江と時間を共有した。数十分経ってもとの彼女が戻ってきた。あたかも入浴後のように顔をさっぱりと変化させていた。
「ちょっと気に入らないだけ」
――――みんなに知られたくないだけ。
 啓子は、本心を伏せて言った。
 脇に抱えるスケッチブックは身体に痛いほど食い込んでくる。余計な力を入れているのは彼女のせいなのに、それは目に見えない何者かによって故意に行われているような気がする。
それは、しかし、被害妄想という一言によって単純に表現しきれないのではないか。
空元気としか思えない親友を見ていると、どうしてもそのような想いに囚われる。

 ただ、そのようにはっきりと言語化が可能だったわけではない。ただ、ぼんやりとした思考の向こうに、それがひっそりと隠れていたことは確かである。
 いまの彼女は、そう想うしかなかった。
 あおいは、そんなことを全く意に介さない言った様子で、自分の言葉に風を吹かせる。
「そちらの方がいいんだ。何処にあるんだっけ ――」
「この駅の一つ先」
 たまたま出くわしたプラットホームに出会い頭のパンチでも加えてやりたくなった。何時も通過するだけの駅だが、当然のことながら、そこにも乗車下車という人の流れが存在し、人の分だけ喜怒哀楽が存在するのだろう。
 啓子は、当たり前のことを思った。
 あおいは、そんな啓子の複雑な思考を想像だにしないで、無邪気な笑顔をみせる―――あくまで啓子の主観では。
「じゃあ、明日までお別れだね ―――」
「・・・・・・?」
 さらっと言い抜けたことに、啓子は不満を憶えた。
―――何かを隠している。
 先ほどからピンとくる直感をかたちにすることにした。
「あおいちゃんも来ない?」
「だって? お金払ってないよ」
 苺のショートケーキのような顔を見ていると思わず殴りつけたくなる。それは、嘘だということが見え見えなのに。
「先生にモデルのことを話したら、連れてきなさいって ――」
「まさか、あの絵を見せたの?」
 生クリームに青みがかかるのがわかった。まるで、わざびを塗り込めたように色が変容している。本当にわかりやすい性格だと啓子はつくづく思う。
―――――こういうところは変わらない。ここは意地悪してやろう。
「センセったら、アノ絵を見てノボせてたよ」
「ちょっと、啓子ちゃん、ひどい!」
 
 あおいは、すっとんきょうな声を上げた。
 自分の思うとおりに事態が動いているのを確認すると密かにほくそ笑む。
実は、アノ絵とはあおいのヌードデッサンのことだ。最初は嫌がったものの、すったららもんだの結果、やっと納得させたのである。第三者の目に絶対に触れさせないという約束で、啓子は了承を得ることに成功した ―――はずである。
「あははは、その絵じゃないよ」
「ひどいなあ、もう!」
 河豚のように頬を膨らませて、あおいは怒りを表明する。
 はるかは、そんな彼女を心底可愛らしいと思った。できることならば、このまま時間を氷らせてデッサンできたらいいと本気で考えた。たしか、この前読んだジュブナイルにそのような話があったはずだ。
 気が付くと相当に変な顔をしていたらしい。
 あおいは、アヒルのように口を尖らせていた。
 
 異様な微笑を口に含んだ啓子を不思議さ60%、苛立ち40%の割合で睨みつける。
「なんで、そんな顔してるのよ ――」
「可愛い顔が台無しだよ」
想像だにできない言葉に対して、あおいは口をへの字に曲げざるを得ない。
「な、何よ、男の子に言われるならともかく ――」
「あおいちゃんたら、そうされたい男の子でもいるのかな?」
 クラスメートはこのような彼女の顔を思い付くこともないだろう。自分だけにそれを向けられるあおいは、心の何処かで、それを特権のように考えていた。しかし、それがさいきん、多少なりとも変容を遂げていることに、不満を憶えてもいた。
 しかし、その正体を自分ながら摑めていないことが、彼女のイライラに拍車をかけるかたちになっている。年頃の少女が第二次性徴に心がついて行けないことに似ているかもしれない。
 心の一部は確かに大人への一歩を確かに踏み入れているのだが、別の部分がそれを容認できない。子宮への回帰を模索すら意図する勢力すら残存しているのである。
 いま、開け放たれた車窓から風が入って、少女の髪があおいの顔に触れた。磨ききっていない真珠が髪によって護られているような気がする。圧倒的な脈動感が肌の上と下を通っているのがわかる。東洋医学の考えで、人体には気と名付けられるものが血液やリンパ液のように行き交っているらしい。ただし、それは目で見ることはできないし、物質のように、他の物質との化学変化によってその存在を確認することも、また不可である。
 年齢不相応の読書を敢行する啓子は、それを知っていた。祖父の書斎で埃を被っていたのを貰い受けたのである。 そのさいには、母親の不快そうな顔を引き受ける目にあったことは言うまでもない。

「・・・・・・・・・?!」
 このときあることに気づいた。いや、気づかされたと表現すべきか。
 時間を凍結することができたならば、どれほど幸福かということである。この美しいモティーフをたとえ、五分でもそれができたならば、それを描ききることができるような気がした。
しかし、それは誤りだった。
 彼女は、動いてこそ美しさを発揮するのである。顔の表面を覆う艶は、流れる気によって構成されている。それは、彼女の内面からあふれ出てくるものだ。
無尽の泉のように、それは、ある種の光を伴って流れてくる。気のように触れもしなければ、見えもしない真性の光である。
 カラカラと笑いながら空間を食いつくすこの怪物は、確かに啓子の魂をそのものにもかぶりつき、その腹にしまいこんで消化してしまいそうだ。
 そうなってもいいとプライドの高い啓子に思わせる何かをあおいにはあった。それが何なのか正体は不明だ。
 いずれにしても、それは常に動いていなければならない。身体を自在に動く気は、動いてこそ、その美しさを発揮する。凍結させてしまっては、無尽の泉も旅人の喉を潤す甘い水をほとばしることは無理だろう。
 もしかしたら、自分は喉を潤わせてもらう旅人ではなかろうかと、考えるに至っていた。突飛な考えだが、自分はあおいという太陽を回る惑星のようなものかもしれないと思った。すると彼女に振り回されている自分の気持ちが不思議なくらい説明が付く。
 啓子は太陽に対して目を細めた。
 あの日のことが現在のことのように蘇ってくる。それは先週の金曜日のことだった。放課後、誰もいない踊り場へと連れ出した。屋上へつながる空間は、半地下ならぬ半屋上とでも言うべき世界である。別の言い方を捜せば、空中庭園という言葉が適当かもしれない。大袈裟な語義とは裏腹に頼りない宮殿、まさに、啓子とあおいが置かれている状況と境遇に相応しい。
 遠くから響いてくる同級生や下級生たちの歓声は、別の世界のものように思えた。壁から窓から伝わってくるひんやりとした空気は、その思いを強くさせる。

 リノリウムの床に放り出されたあおいは、まるで貞淑を破った妻が夫の暴力を怖れるように震えていた。華奢な肩に乗った可愛らしい顔は、かつて親しんだそれとはまったく違う色をしている。
とても不思議な感覚だった。こうして、彼女を見下ろしていると怒りとも支配欲ともしれぬ気持が這い上がってくる。
 それに抗しがたい気持は、裏切られたという感覚だった。
 いずれにせよ、説明できない感情は少女の心を突き抜けて身体をも支配していた。よもや、感情が高まってあおいを殴りつけようとした自分を押さえつけたのは次のような言葉だった。
「早く、脱いで ―――」
 薄闇の中で、顔の筋肉を引きつらせて怯えるあおいの顔。
 そして ――――。
 陽光に照らし出されてあふれんばかりの笑顔を振りまくあおいの顔。
 それらが二重写しになって啓子の目の前に出現している。だから、彼女の声が思考回路に張り込む隙がなかった。

「ねえ、啓子ちゃんったら!」
 それをこじ開けるためには、同じ言葉を数回ほど繰り返さなければならかった。おそらく口角泡の一粒、二粒ぐらいが啓子の身体に降り懸かったにちがいない。
「ああ ――」
「ああ、じゃないわよ」
 憮然とした顔をして、あおいは啓子の目に語りかけた。
「どうしたの? ぼっとしちゃって」
「とにかく、これから来てよ」
「さっきの話? 塾みたいなところ?」
「塾ってより、予備校。美大受験のための。子供向きのところはおもしろくなかったから、そこを紹介してもらったの。代ゼミとかと違って個人的なところだから特別なお願いが通じたのね」
「・・・・・・・?」
 啓子の言っていることの半分もわからない。あまりに同年代の少女たちと感覚が違いすぎるのだ。あおい以外のクラスメートたちに対しては、意識して合わせている。すなわち、他人を、いや、自分をも偽っているわけだが、こと、親友を目の前にすると思わずそのタガが外れてしまう。
小説などで読み知ったことを我がことにしてしまう想像力があるだけに、代ゼミなどと言う言葉が平然と出てくるわけだ。
「あ、そうか。美大受験のための予備校に小学生が通うのはおかしいでしょう?」
  「でも前の絵の塾はどうして気に入らなかったの?」
 良いところに疑問を持ったと、まるで教師のような顔をして、啓子は説明を再開した。
「自由に描かせるだけで、人間を人間として描く方法を全然教えてくれないだもん」
「??」
 またも、あおいは首を捻らざるを得ない。
 啓子は、彼女の首から肩に掛けて造られる傾斜の美しさに気を取られながらも、同時に、説明を続けるという芸当を披露した。
「写真みたいに描きたいの」
 それは、実際の希望とかなり隔絶しているが、あおいにはそう説明するしかない。
――――いつだって、お前はそうだった。自分が美しいことに無頓着だったし、他人がそれに対してどのくらい憧れてきたか、想像だにしない・・・・え? 私は何を?
 それは突然、外部から脳に送り込まれた言葉のように思えた。啓子じしんが考えたことではない。いわば芸術に対するインスピレーションに近い。
 またもや何処か別の世界に旅立ってしまった啓子に、あおいは戸惑いを隠せない。
「どうしたの?」
「な、何でもない ―――」

 急に機嫌を害した啓子に、あおいはどうやって接したらいいのわからずに立ち尽くすばかりだ。
 ここ数ヶ月で、少女は失ってはならないものをタチ続けに失っている。ここで、啓子まで手放すわけにはいかない。だから、ぎりぎりのところで、彼女の全裸要請にも首を縦に震ったのである。
「わかったわよ、でも変なことされないんでしょうね ―――」
「大丈夫だよ。変な絵は見せてないし ――」
 変な絵が、あおい自身のヌードデッサンであることは、国語の問題を解く要領で導き出せた。
 
 曰く、波線部を文中の別の言葉で置き換えている言葉がある。それに該当する言葉をすべて書き出せ。

 楽しいはずの啓子と過ごしている時間が、さいきんでは唯一の命綱になっていることから、それが必ずしも安息になっていないような気がする。それが試験問題を解いている時間を思い浮かべる羽目にもなる。
 少女が迷い込んだ隘路は、想像したよりもはるかに複雑で、脱出するのに普通では考えられほどの努力を要求する。 
 そのことを痛いほど思い知らされた午後だった。

  親友の目の前で全裸を晒したとき、二人で風呂に入ったときよりもはるかに羞恥心を憶えた。自分だけが恥部を晒すというのは、想像以上に恥ずかしいことだったのである。互いに見せ合ったあの日とはまったく違う感情を少女の心に植え付けていた。
 しかも、啓子は窓を背にしていたために、逆光となり、彼女の顔や詳しい表情を確認できなかったことは、さらなる不安を煽り立てた。怒っているのか笑っているのか、まったくわからなかったからである。
かつて、母親が見ているドラマ中に裁判のシーンがあったが、あの被告の立ち位置を彷彿とさせた。
被告は、まだうら若い女性だったが、裁判官、検察官、弁護士、そして、裁判員や傍聴人たちに取り囲まれた様子は、まるで、世界中のすべてから責め立てられているように見えた。
 そのとき、あおいはそれを如実に感じたのである。

 いま、列車は啓子の指し示す駅のプラットホームに呑みこまれていくところだった。それが、巨大なマジックハンドに摑まれていくように思えた。





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『由加里 81』
 照美とはるかの悪魔的な笑いにチクチクと突き刺される中、二人に対して何ら抗うことができないという事実は、由加里を奈落の底に叩き落としていた。
 由加里は、蟻地獄に捕らわれた蟻のように身体をゆっくりと、しかし、確実に喰われていくのだった。蟻は、意識が残存したまま捕食者に呑まれていくのだ。それは、ある意味、ライオンに殺されるよりも残酷である。後者のばあい、まず、喉元を咬まれたあげく、窒息により意識を奪われてのち、捕食者の胃袋に収められるからだ。
いじめとは大抵後者を指す。
 さいきんの、というよりは、戦後しばらくして受験戦争が始まってからは、そういう傾向が顕著である。
 
 いま、由加里は、照美とはるかという二人の肉食獣、しかもとてつもない美点を持った捕食者に喰われ消化されようとしている。
照美は、ピアニストのようにしなやかで優美な指を由加里の喉から顎、そして、頬へと走らせる。そして、同時に少女の耳に悪魔の歌を囁きかけた。
「さて、大親友の由加里ちゃん、見て欲しいものがあるのよ、うふふふ」
 類い希な美貌を歪めて、照美はあえて笑いの顔を造り出す。その工作過程は冷徹な憎しみに満ちていた。それが由加里には怖くて溜まらない。いっそのこと、テーブルの上に乗っている果物ナイフで顔面をずたずたにされたほうがましだった。
 だが、それ以上に残酷な出来事が由加里の身の上に起ころうとしていたのである。度重なるおいじめによって、尋常ならざる鋭敏さ養っていた彼女がそれを予見していたであろうことは想像に難くない。
 真実、それを洞察した照美が、怯える犠牲者を観察しながら楽しんでいたのである。
 由加里は、なかなか話そうとしない照美に、さらなる恐怖を憶えていた。いったい、自分に何を見せようとしているのだろう。これまで彼女たちが自分に対して行った残酷な行為。それ以上の何がその美貌の手に隠しているというのだろう。
 だから、由加里は口を開いてしまった。それは自動的に無条件降伏以外のどんな意味も持たないというのに・・・・・。

「ど、どんなも、ものですか?」
「ふふ、楽しみなの? 由加里ちゃん」
 まるで愛おしい我が娘にそうするように、由加里の髪を撫でながら言った。その美貌には、我が意を得たという自信のようなものがみなぎっていた。
 だから、こう答えるしかなかった。
「ハイ・・・・ご。ごしゅんじさま ―――」
「ごしゅじんさま? 違うでしょう? 由加里ちゃん、私たちは姉妹もどうぜんなのに」
 そのことばに、由加里は今更ながらに驚いた。それが嘘だとわかっていても、その言葉が持つ深い意味に心の何処かが動く ―――そんな自分を再発見して心底、自分が嫌になるのだった。
 そして、もうひとつ、彼女が発見したことがある。それは、はるかが一瞬だけだが、表情を曇らせたことだ。
その言葉が照美の整いすぎた唇から発せられたとき、たしかに、はるかはただでさえ怖ろしい顔に悪鬼を乗りうつらせた。
―――この二人はたしかに姉妹然とした絆で結ばれている。
 こんな時でも物事を達観する能力があるじぶんを呪った。いや、こんな能力を開発させたはるかを恨んだ。しかし、その相手は顔をまとも見られないくらいに怖いのだ。
 彼女のすこしでも動いたら自分は四散してしまうのではないかとさえ思った。いま、それが現実のものになろうとしている。
 はるかは、持参した青い色のバッグから一個のライターを取り出した。これから、自分の髪に火でもつけようというのだろうか。
 いや、違う。よく見ると、それはUSBメモリーだった。それをノートパソコンに差し込む。あらかじめ起動させてあったのである。由加里に命じてあった宿題の添削をし終わったところだったのだ。
 USBが挿入されるとき、コンピューターが奏でる警告音は、少女にとってどのように聞こえたであろうか。
 きっと、死を予告するカラスの鳴き声に聞こえたにちがいない。

 自分の死刑執行命令を読むように、モニターに目を走らせる由加里。取っては行けないと言われても瘡蓋を取ってしまうのが人間というものである。快感と苦痛のまん中に立たされたあげく、行く先を後者と定められた彼はまちがいなく苦痛を選択するのである。
「・・・・・・・こ、こんなことを、私に、させようって ―――」
 由加里は絶句した。
 そこに映し出された文字のひとつひとつを組み合わせていくと、とんでもない内容が浮かび上がってきたからである。
「アドリブは許すわ。だけど、台本を著しく逸脱するときは ―――」
 はるかの指が由加里の耳に忍び寄ると ――――。
 一も二もなく、それを握りつぶしたのである。
「ひっ、い、痛い・・・・あぅ・・・・・ウウ・ウウ・・ウ・ウ」
 筆舌に尽くしがたい苦痛のために少女のノーブルな顔は瞬く間に、歪んだ。しかし、何処までいっても、それは知性を保っていた。上流貴族の文化が追い求めたモティーフにもなりそうである。苦痛や哀しみといったマイナスのイメージも一流の文化人の手によれば、最高の芸術品にもなる。
 それを、この少女はその華奢な肉体で証明したのである。
 畳み掛けるはるか。
「わかっているわね」
「は、ハイ・・・・・・・ウ・ウ・ウウ、お、おね、おねがいですから、ゆ、ゆびをはな、はなしてください・・・・ウ」
「はるか、だめじゃない。この子は私たちの妹も同然なのよ、うふふふ」
 嗜める照美の顔は、しかし、揶揄と嘲笑に満ちていた。

 前門の虎、後門の狼。

 いちど使った表現を何回も使うというのは、本来、小説を志す者は選んでは行けない道だと言われる。しかし、あえてこの表現を選ばざるを得ない。
 
 硬で責めてくるはるか、そして、柔でそうする照美。自分に刺さっている針のどちらが鋭いのか、判断しかねる由加里だった。
 照美は、涙を流す少女を満足そうに眺めていたが、時計を見ると死刑の執行を宣告する刑務官のように冷たく宣告した。
「そろそろ時間ね。用意しないと ――」
「え? あぐうううっぅうっぅ・・・・・ググッググ・・・・!?」
 反論する余裕を照美は与えなかった。とつぜん、自分の身体に起こった異変に驚愕する由加里。
 何かを、少女の股間に照美はあてがったのである。下着をすり抜けて、それは無毛のスリットにめり込む。
―――アレ? おかしいわね。
 照美は訝しく思った。いつもよりも違う感触が指に伝わってきたからである。いつもより、柔らかい。いや、柔らかすぎる。こんな簡単に中に入ってしまうなどと・・・・・。
 実は、今朝拵えてきたゆで卵である。
 こんなことは、学校に行っているときは日常茶飯事のことだった。もう、そのころには由加里に命じて自発的に挿入させていが、さいしょのころは毎朝、登校すると無理矢理に押さえつけて、局所に埋め込んでいたものだ。
 たしかに、その時の感触よりも柔らかくなっていることは確かだろうが ――――。
 それ以外でも、由加里の局所を弄ぶことは放送室で日常的にやっていたことである。この柔らかさは明らかにおかしい。
「由加里ちゃん、神聖な病院でなんてことしてたの ――――?」
「ウウ・ウ・・ウ・・・・うう?!」
 できの悪い嫁の仕事に呆れる姑のような視線で由加里を責め続ける。なお、あからさまに不快な顔をしないのが、正しい嫁いびりのテクニックである。そして、家康のように座して果実を待つのが、正しい嫁いじめの醍醐味である。
 それはさておき。
 照美は、しかし、年齢から言ってもそのような喜びに身を浸すことができずにいた。
「一人で楽しんでいたでしょう?」
「・・・・・・?!」
 性器を弄ばれながら、その言葉が持つ陰湿さに由加里は唖然となった。まさに心をも鷲摑みにされる思いだ。
「由加里ちゃんは、本当にイケナイ子ね ―――」
 さらに畳み掛けようと唾液を装填しようとしたが ―――。毒舌を首尾良く発揮するために ―――。
 思わぬところから邪魔が入った。

「おい、照美、そこまでにしておけ。もうすぐ、ミチルたちが来るぞ!」
「え?!」
 台本を見せられて、とくと理解しているはずなのに、改めてその固有名詞を突き出されると動揺を隠せない。
「照美、はやく手と顔を洗え ――」
「そうね、私たちの役回りは、見知らぬクラスメートだったわね」
 由加里の性器を弄びながら、照美はさらりと言う。はるかの言いように何か含むところがあるように見えた。
「なんだ? 何か言いたそうに見えるが?」
「センスがないわね、この由加里ちゃんの小説の方がよほど良いわよ」
 由加里の股間から引き抜いた指を鼻に近づけてクンクンと嗅ぎながら答えた。由加里は、筆舌に尽くしがたい羞恥心のために顔を赤らめ、はるかは憮然と口をへの字にする。
「それも私の指導のたまものだとは思わないのか?」
「指導ねえ? この由加里ちゃんが骨の髄までいやらしいから、あんな小説書けたんじゃない? ためしに読んでみようか?」
 照美は、鞭のようにしなやかな指をキーボードに走らせる。
 目指すファイルを開くと声高々に読み上げる。
「 ―――由加里は、やおら立ち上がると教壇に向かって歩み寄った。そして、驚愕のために凍りつく教師を無視して、そこによじのぼる。そして、スカートを捲ると、大腿を広げた。クラスメートと教師は言葉すらなかった。なんと、少女は ―――」
「いやあ!やめてえええ!!やめてぇえぇぇ!!」
 由加里は、布団を被ると現実から逃避すべく、激しく慟哭しはじめた。しかし、皮肉なことに自らの声によって夢から引き戻されるのだった。
「照美!」
「わかっているわよ、ふふ」
 照美は、泣き叫ぶ由加里を背にしらっとした顔で洗い場で手を洗い始めた。
「西宮」
「ウウ・ウ・・ウ・ウ・・・・ど、どうして、ここまでひどいコト」
 自分の生活をここまで破壊した犯人たちを睨みつける由加里。
 なおもプライドを失わない彼女に、はるかは満足そうに笑った。
「わかっているな ――台本は頭に入っていると思うが?」
「ハイ・・・」
「はいじゃないだろう? 私たちは?」
「見知らぬクラスメート」
「だったら?」
「うん」
「そう、それでいい。それにしてもその表現、自分でも気に入らない。いい言い方はないか?」
 まるで優れた弟子を目の前にした師匠のような顔をする。
「・・・・10年間、口を聞いていない隣人どうしとか」
「そうだな、それがいい」

 こと、文芸の話になると由加里は、今の今までいじめられていたことなど忘れてしまう。それが照美には興味深く映った。
しかし、当の由加里は口惜しかった。自分の感情とは別に働いてしまう、分裂した自我の魂魄が憎くてたまらない。
「じゃあ、口を聞いていない隣人だっけ、それで頼むわね ―――」
 由加里はコクンと頭を傾けただけだったが、それは少女にとってみれば、歴史時代に行われた処刑法に思えてならない。ある意味において、白旗を挙げたことにならないだろうか。けっして、ふたりに無条件降伏したつもりはないのだ。
 しかし、人間というものは全能ではいられないようだ。由加里のそのような態度がふたりを大変面白がらせていることに気づかないようだから、さらに激しいいじめを受ける羽目になるのだ。
 それに気づくとき、この少女は呼吸をしているだろうか。
 この時、誰もそれを予知することはできなかった。

「そろそろ二時だわ」
 照美は、病室に設置されたアナログ時計を見ながら言った。
「約束にうるさい奴だからそろそろ ――――」
 言い終える前に扉が開いて、紫色の花が顔を見せた。
 ミチルと貴子がテニスウェア姿で来訪した。
 病室を見回すと、父親の友人の邸宅に招待された子供のような顔をして、口を開く。
「こんにちは、先輩! それに照美お姉ちゃんとはるかお姉ちゃん ――」
「なんだ? 私たちはおまけか?」
「当たり前でしょう? 今日の主役は先輩なんだし ――ああ、ごめんなさい、いろいろ忙しくてこれなくて」
 すまなさそうに小さな顔をせせこましくするミチル。
 由加里は、なんと言っていいのかわからずに、顔を赤らめる。その華奢な肩は小刻みに震えている。まるで数十年ぶりに再会した姉妹どうしのようだ。

「先輩、傷のようすはどうですか?」
「・・・・骨折は、かなり、くっついているのよ・・・・うう」
 そこまで言って黙りこくってしまった。
「どうしたんですか? こんなところまでいじめっ子たちが来るんですか?」
 思わず由加里に近寄るミチル。
 ミチルと違って、注意深く照美とはるかを見回すところなどは、親友と性格を異にする証左だろう。
 一方、はるかと照美は由加里の口を見ていた。はたして、台本どおりに台詞が出てくるかとうか・・・・。

「そ、そんなことないよ。宿題を持ってきてくれる子もいたりするから ――」
「良い傾向じゃないですか、きっと後悔しているんだと思います」
「ミチル、そんなこと軽々しく言うもんじゃないよ! 先輩がどんな目にあってきたか知ってるでしょう? そうだったらそんなこと言えるわけないよ!!」
 吐き捨てるように、貴子は言い放つ。
 照美とはるかは、驚いていた。普段の彼女を見ていれば、このような行動を取ることは簡単に想像できる。それなのに、自分はどうしてこんなことをしているのだろう。
 今更ながらに、常識的な反応をしている自分を再発見してさらに驚愕した。
 そうだ、本来ならばこんなことをしている自分ではない。だが、いざ、由加里を見るとそんなことは忘れて、彼女に対する敵愾心だけが雨後の竹の子のように生えてきて、サディスティックな欲望を再確認するのだった。
 だが、後ろめたい気持が消え去るわけではない。まるで姉妹のように育ってきたミチルと貴子とは別の世界に足を踏み入れてしまった ――といううら寂しい思いを心の何処かに棲まわせても、なお、羅刹の道を踏み外そうとしない。
 そうした矛盾のなか、猛禽のような鋭い視線の先には由加里だけが ―――いた。
 しかし、気になるのはやはり貴子のことだ。どちらかというと単純な傾向を持つ、ミチルに比較して何事にも敏感な彼女のこと。すでに何か気づいているのではないか。

 はるかは、慎重に言葉を選んだ。
「で、こちらが西宮さんって言うんだね ――」
「え? はるか姉さん、いっしょのクラスにいて、そんな感じなの?」
 まるで富士山麓におけるテニスコートでの出来事が蘇ってくるようだ。同じビデオを再生しているようにすら思える。
 しかし、あの時とちがうのは照美がいることと、この世界を演出し動かしているのがはるか自身だということだ。
忘れていたが、もうひとつ違うのは西沢あゆみがいないことだ。はるかのアキレス腱とでも言うべき彼女は、ここにはいない。だから、すべては彼女の思うがままに進むはずだ。しかし、念には念を入れて注意すべきは貴子の存在だ。しばらく見ないうちに注意深い性格に磨きがかかったようだ。金江や高田といった性格の悪い連中とかかわっているとこうなるのだろうか。
 さらに注意深く、事を進めようとする。ふたりにわからないように、照美に目配せした。彼女は、由加里に近づいていく。
「西宮さん、これまでごめんなさいね。忙しさにかまけて、クラスのことに無頓着で。私は人見知りする方なのよ」
「う、ううん、か、海崎さんととそれほど親しかったわけじゃないし ――それに」
しどろもどろに言葉を運ぶ由加里だが、互いにそれほど親しくないという情報は、ミチルと貴子に伝わっているから、おかしいとは考えないだろう。
 由加里は機械のような正確さで、女優ぶりを発揮する。
「いじめに参加していたことはないから ―――」

 半分は事実で、半分は嘘である。いじめが始まったころには表だって参加していた二人だが、さいきんでは、高田あみるや金江礼子がイニシアティブを執って行為に励んでいる。だから、2年3組のクラスメートは、いじめっ子は誰かと問われて、照美やはるかを真っ先に挙げる生徒は少ないだろう。
 おそらく挙げるとすれば、似鳥ぴあのと原崎有紀のふたりくらいだろう。彼女らは放送室における由加里いじめにサポートとして参加しているのだから、それも当然だと言える。
 二人はテニス部に関係していないから、その線から話が行くということもなかろう。
 はるかは、由加里を睨んだ。それは合図だった。少女はおずおずとかぶりを降ると、口を開いた。
「海崎さん、座って ―――」
「ありがとう、西宮さん。じゃ遠慮無く座らせて貰うわね」
 朗らかに笑って進められた椅子に座る由加里。
「・・・・・・・・・・」
 貴子は、困惑を隠せなかった。こんな照美を見たのは本当に久しぶりだからだ。やはり、こんな笑顔を見せられると、長いこと同じ年月を過ごしたことを思い出さずにはいられない。
 
 いっぽう、由加里もドキッとさせられていた。
 まるで大輪の花が咲いたように思える。俗にカリスマ性とでもいうのだろうか。その人物がそこにいるだけで、場の空気が変わる。それがプラスであろうがマイナスであろうとも、衆目を惹き付けてしまう。
 これまで彼女が受けた災厄を何乗倍しても追いつかないほどの苦しみを、照美のせいで蒙ってきた。しかし、それらをも忘れてもいいと思わせるくらいに彼女の笑顔は美しく見えた。はるかに強制された演技というわけでなく、ごく自然に由加里は自分のからだが動くのを感じた。
「海崎さん ――」
「何かしら?」
 照美は、優しく聞きかえした。貴子とミチルを驚かせたことに、涙ぐみながら、由加里は、言の葉を病室に漂わせた。窓から入った陽光がそれを照らし出している。病院にありがちな白いカーテンと光の協奏曲を奏でている。
病み上がりの少女の口から出てきた言葉は、かんぜんに二人の予想を反していた。
「わ、私のこときらい?」
「好きも嫌いも、クラスのことにあまり興味を感じてなかったから」
―――――照美姉ちゃんは嘘を言っていない。
 このとき、貴子はそう感じていた。しかし、彼女の目の前に展開していたのは、猿芝居にすぎなかったのである。
由加里は、憂いを含めた瞳を中空に漂わせている。それを気遣うように、照美は由加里の肩に指を、そして、次に腕を這わせた。しかる後に、軽く抱き寄せた。そして、おそるべきことを言ったのである。
「ごめんなさいね、西宮さん」
「ウウ・・・」
 嗚咽を漏らす由加里。
「そうだよね、見て見ぬフリするなんていじめをやっている子たちと同じだよね。いや、それ以下だわ。私は恥ずかしい」
―――その時、照美の指は由加里の腰に達していた。そして、布団の中に潜んだと思うと、少女の股間を探り当てていた。もちろん、貴子とミチルの角度から見えてはいない。
――――アグウウ・・・イヤ。
――――こんな時まで欲情しているのね?
 囁き交われる会話は、悪魔も裸足で逃げ出すほどに陰惨たるものだった。しかし、表だって交わされた会話は、きらめく天使の翼を透して、神さまの笑顔がみえるくらいに清らかで人倫と人徳に叶った内容だった。
「ごめんね、本当に、ごめんなさい。これからは、私たちが護ってあげるから、安心して。もう、高田さんや金江さんの思うとおりにはさせないから」
おもわず噴き出すの防ぐのにくろうしていたのは、言うまでもなく、鋳崎はるかその人である。ミチルと貴子が神話を題材にした絵画中の人物のように、重苦しい空気に包まれている中、彼女は、ただひとり、喜劇を鑑賞しているような気がした。
 別の言い方をすれば、信者でない人物がある宗教の集会場に迷い込んだような状況。そう表現すれば的確だろうか。
 異教の熱狂ほど、部外者を唖然とさせる喜劇は存在しない。
 この時も、例外ではなかった。





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『新釈氷点2009 5』

 辻口建造が自宅に足を踏み入れたとき、なぜか名状しがたい不安を覚えた。俗に虫の知らせというが、建造は意外とそのようなものを信じるほうだった。
 いわゆる経済高度成長時代の青年、しかも、医師などという職業に就いていた人間にはありうべからざる態度であろうが、時代を先取りしていたのか、その反対だったのか、周囲にいる者たちは判断しかねた。

―――何かあったのか?
 その不安は、妻の顔を見ると完全に現実化した。
「夏枝、何かあったのか?」
「あなた・・・・・・・」
 普段、温和な夫が怪訝な顔で迫ってくる。何か言うべき言葉を求めて、脳内を検索するが、何も見付からない。
「何故、目をそらす? 娘たちに何かあったのか? 薫子か陽子か?」
「・・・・・・・・・・・?!」
 建造は、的確に事実を言い当てている。そのことに、夏枝は驚きの声すら出てこない。健気にもそんな母親を救ったのは娘だった。
「パパ、帰ってきたの?」
「薫子、陽子に何かあったのか?」
 居間から飛び出してきた長女は心なしか顔色に曇ったものを感じる。母親と違って感情の起伏をあまり外に出さない彼女が、みごと、その目論みに失敗している。
「あなた ――――」
 ここまできても、夫にかける言葉を見つけられないでいる。

 外は夜のとばりが降りて、閑静な住宅街は安眠を貪ろうとしている。しかし、辻口家ではその通例に従えないような事態に見舞われていたのである。
 その事実は、家族の成員すべての心をかき乱すのに十分な災厄に満ちていた。だが、一名とその他ではその意味合いはかなり違った色合いを示していた。そして、後者のうちでも1名と2名ではまた異なる世界を彷徨っていた。
 その2名は、けっして公にできない罪をそれぞれ背負っていた。しかし、その意味合いもまた両者の間には、金星と火星ぐらいの距離があった。

 さて、この場にてもっとも理性的だったのは、薫子だということができるだろう。この件に関して、彼女は共犯ではない。ただ、気が付いたら妹が側にいただけである。おぼろげな記憶の中では、ある日、可愛らしい赤ん坊が母の腕に抱かれていた。妊娠などという前触れもなく、とつぜんにである。
 両親と違って手枷足枷から自由な薫子は、事態をそれなりに達観することができた。
「パパ、早く、こっちに来て―――すべてが知られたわ」
「何!? すべてを!!」
「薫子!?」
 二人は、しゅんかん、時間が凍りついたと錯覚した。
 薫子は、「すべて」という単語をいとも簡単に使った。何も知らないのだから当然だろうが、そのことは、両親の心に対して、すぐには回復不可能な傷を負わせたのである。
 もっとも、その傷口は自分たちで穿った結果であり、薫子は瘡蓋を剥ぎ取ったにすぎないのだが。

 その上に、大事なことがある。彼女がどうしてそのことを知っているのか―――という疑問を抱かせる余裕すら与えなかったのだ。

 その傷口を抉るような行為を自らするのが、居間に入るという行為だった。中には目に入れても痛くない愛娘がそこにいる。おそらく、長い遠征から帰還した王を迎え入れるように、彼女は歓待してくれるだろうが、それはこれまでのようにはいかないだろう。きっと、瞳は今も美しいだろうがそれは涙で潤んでいるせいだろう。もぎ取ってまもない桃のような頬に痛々しい傷が走っているなどということはあるまいが、真珠を液体にしたような涙が糸を引いているにちがいない。
 はたして、男は娘を視界に収めた。
「陽子・・・・・・」
「お父様・・・」
 そこには、変わらぬ美しさを湛えた娘がいる。ソファに細めの躰を差し込んでいる。しかし、父親を仰ぐそのすがたはいつになく凛とした空気を醸し出している。
 年齢相応にふっくらとした頬には、そこはかとなく影が入っているが、双眸には確かな意思を秘めた黒曜石が光っている。それは、とても12歳のこどものそれとは思えない。わずか一日ほど見ないうちに大人になってしまったようだ。建造は考えたくないことだが、ウェディングドレスを纏った娘をすら垣間見たのである。

「陽子、あなた ――――」
「・・・・・・・」
 背後から走り寄った姉と母は、父娘が無言ですべてを悟ったことを知った。しかし、必ずしも共有する根っこが違うことをそのとき、悟っていなかった。それは、これからの物語において、より色彩を濃くしていくことになるのである。
 だが、この時点においては、鮮やかすぎる花もまだ蕾もつけていなかった。あどけない顔から想像するに、彼女はまだ自分が持ち合わせている高貴で知性的な美貌をどのように利用していいのかまだ知らないだろう。きっと、自分が将来薔薇の花に似た武器を備えようなどと、気が付きもしないのだ。

―――お前は、母親の血を引いて・・・・!?
 ここまで考えて、建造は自らに絶句せざるをえなかった。なんと言うことだろう、この美少女は、夏枝の血を一滴も受け継いでいないのだ。
 すると、この典雅な属性は何処からきているのだろうか。あの殺人犯に一滴でもそのような血が流れていたとはとうてい思えない。いや、思いたくない。すると、彼の妻だろうか。それほどまでに美しい女性だったのだろうか。すると、彼は彼女を力づくで手に入れたのだろう。そんな女性が佐石のような男を好きになるとは考えにくい。
 しかし、それでは疑問が残る。
 どうして、彼女は陽子を生んだのだろう。そして、今も何処かで生きているのだろうか。陽子に似た女性が・・・・・。
 いや、こんな無意味な想像は止めにしよう。今、彼がすべきは目の前の陽子を愛することだ。夏枝もきっと同じ思いにちがいない。彼女はあの悪魔の秘密を知らないのであるし ―――――、こんなにまで二人が酷似している理由も、きっとそこにあるにちがいない。
 建造は、天を仰いだ、正確には、豪華なシャンデリアが下がっている天井を ――であるが。
 そして、夏枝や陽子とは違った意味で整った顔に両手をあてがう。しかしながら、いかに、両目を塞ごうとも彼に安息を意味する暗闇はやってこない。彼が犯した罪はそう簡単に消えることはないのだ。
 再び、手を離したとき、シャンデリアが視界に戻ってきた。そのとき彼がよく見知った女性の声が耳に響いた。

――――これって、建造の趣味でしょ、本当に悪趣味ね。
 
 財前春実の端正な顔が浮かぶ。氷の彫刻が見せる鋭利な面たちのように、その声は黒い、そして、白銀の響きを見せる。
 それらは交互に出現し、男を、あるいは検事を籠絡する。

――――あいつはこの件にどのように関係しているのだろう?

 建造は、美しい共犯の骨格に忍び込もうと努力した。想像した美しい彫像に自分の心を潜ませる。そうすることによって、怖ろしく頭が切れる友人と記憶と思考回路を共有できると思ったのだ。
 しかし、それは徒労に終わった。彼女が何を考えているのかどれほど考えても手がかりすら摑めない。
 
 もはや、陽子にかける言葉はなかった。ようやく事態が収束を迎えたとき、時計をみると九時を回るところだった。その時、自分を含めた家族がまだ夕食を取っていないことを知った。
 この家にとっては、その夜は記念すべき日になった。
 辻口家が出前を取ったのである。もちろん、他の家庭のようにスムーズにいかなかった。もちろん、小説などを通してそのような世界があることは知っていた。しかし、実際に行動に結びつくわけではない。出前と言ってもどのような店に連絡したらいいのか検討すらつかない。彼らはそのような階級に生まれ育ってきたのである。
 困り果てた末、夏枝がかつて実家でお手伝いさんをやっていた女性に電話をかけて、問題の解決を計った。
 その結果、近所にあるラーメン屋の存在を知ることになったのである。こうして、家族四人で麺をすするというこの家にしては珍妙な行為に身をやつすることにったわけだ。
 建造は、陽子を密かに盗み見した。フランス料理のフルコースを食べるような仕草でラーメンに挑んでいる。その姿から何かしら娘の真意を測れると考えたのである。
 しかし、乳白色の額にひっそりと浮かんだ真珠のような汗に心が惹かれるだけだった。
 
 結局、今度の休みにルリ子の墓参りをすること、そして、何よりも彼女の仏壇を我が家に設置することで話は決まった。
 終始、陽子は不気味なまでに冷静で、これ以上父母を責めるようなことはしなかった。その裏に何かがあるのではないかと、スネに傷がある分、建造は気が気でなかった。だから、正直、妻の顔を直視することが出来ない。

――――お前が浮気したせいじゃないか。

 密かに小児病的な毒づきをすることでしか、自分を慰めることしかできなかった。
 この時、辻口家の歯車が何者かによって手を入れられたことに誰も気づかなかった。昨日のような明日が来ると誰しも疑っていなかったである。いや、気付きもしないし疑うこともしない。そう思いたかったのかもしれない。少なくとも2名は悪い予感ていどの悪寒を憶えていた。
 建造と薫子である。
 前者は言うまでもないだろうが、問題は後者である。
ルリ子が殺されたとき、まだ、彼女は幼児にすぎなかった。しかし、類い希な知性を持つこの少女はその存在が隠匿されたことに、長い間、疑義を抱いていた。陽子の存在があるとはいえ、どのような理由によってそこまで秘密にする必要があるのか。
 だが、薫子がいかに優れた少女であっても、そのタブーに手を触れることはできなかった。母親のようすからこれ以上、足を踏み入れてはいけない場所があることを無意識のうちに察知していた。
 それゆえに、夏枝が言い聞かせる前に、彼女の口から『ルリ子』という単語には封が為された。ある日、パンドラという女性が箱を持ってきた。両親はそれにその単語を入れて、永遠に閉ざしたのである。
 その時、パンドラが帰るとき、薫子に冷たい笑顔を見せたが、それがどうしても忘れられない。高校生になった今でもそれが夢に出てくるのである。
 しかし、そのことは家族の誰にも話すわけにはいかなかった。

 今度、墓参りに行くという。そのことを含めて、両親に質す必要性を感じた。その夜、妹が寝静まったのを確認すると、二人の寝室を訪ねた。
 とつぜん、現れた薫子に両親は別に驚きもしなかった。このことを予感しているようだった。しかし、すべてを打ち明けると建造は思わず声に感情の高ぶりを潜ませた。
 今さらに言う。
「―――お前、知っていたのか!?」
 父親は、この長女のことを娘ではなく息子のように思っている。だから、そのような呼び方になるのだ。
「知らないとでも思っていたの? たった一ヶ月預けられただけで、あの子が誕生したんだよ、幼児でもおかしく思うでしょう?」
 それほど感情を表に出さない薫子が珍しく言葉に抑揚を持たせた。あたかもこれまで表現できなかった思いをいちどに噴出しているかのように見えた。
 少女は、まるで妹の到来を警戒するように扉に寄りかかっている。
「ルリ子の墓参りにも行ってたし ――――」
「何だって? じゃあ、毎年おかれる花束はお前のものだったのか? それにしてもどうやって知ったんだ?」
「春実のおばさんに聞いたの ―――」
「え、お春ちゃんに?」
 その呼び方から、夏枝が動揺していることが見て取れる。今の今まで口を開かなかったのは、すこしもでそうしたらならば、大声で叫んでしまいそうに思えたからだ。
「10歳のときだったわ。そう言えば、花束って言ってたわね。私は、命日の次の日に行くのが習慣になっていたから、それは違うわよ、それに ―――」
「それに?」
 夏枝は頼るような目つきで娘を見つめた。いま、彼女が一番頼れるのは、夫たる建造ではなくて、目の前に屹立する彼女のような気がする。
「あんな高いお花は小学生の私には買えないわよ。その人はきっと命日の前に来てたのよね。それとも早朝だったかも ――――」
「そんなことはどうでもいいのよ! 問題は ―――」
「ママ、声が高い ――――」
 敵国に潜入した諜報部員のような仕草で母親を制した薫子はさらに畳み掛ける。
「ねえ、ママ、血がつながってないってそんなに大変なことなの? 私は気にしないわ。もしもパパとママが気にするなら、あの子を連れて家を出てもいいのよ ―――」
「薫子!」
 夏枝の声とともに、頬を打つ音が響いた。それは、九州の渇いた大地ぜんたいに轟いたのではないかと思わせるくらいの迫力と威力を有していた。
 ガウンを羽織った彼女が座っていたベッドから立ち上がって、頬を打つまでその動作は普段の夏枝から想像もできないくらいに、敏捷で猫科の動物じみていた。それに建造も当の薫子もまったく対応できなかった。
「ママがどんな思いで!」
「わかっているわよ、だから、こうして欲しかったの ―――」
 夏枝の言葉を封じるように、薫子は打たれた頬を見せつけた。
「・・・・・・・・・・・・・」
 加害者はすでに何も言えなくなっていた。ただ、うつむいて液体になった水晶を垂らすだけだった。
もはや、3人のうちに言葉は必要なかった。だた、数日後に控えた墓参りに控えることしかすることがない。
 それに心を砕くことだけだった。






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『マザーエルザの物語・終章 31』


 赤木啓子の周囲でいろいろと囁かれるようになったが、本人は、まったく相手にしようとしない。
 四限が終わって、昼食の時間になっても、あおいが帰ってこないので、クラスメートたちは啓子に尋ねようと思った。
 しかしながら、思考が行動に結びつかないのは世の常である。
教室に戻ってきた彼女に、いざ、尋ねようとしてみても、その恐ろしい顔を見ると足がすくんでしまい、誰も事を問うのをやめてしまう。
 その上、担任はめぼしいことを教えてくれようとしない。
 いったい、何が起きているというのだろう。
 さいきん、どう見てもあおいの状態はおかしい。完全な健康体を誇っている彼女が倒れてしまった。
 そうは言うものの、こういうことはよくあることだろう。その証拠に、クラスメートである狭山キイコの祖父は、仕事中に脳溢血で倒れてしまい、現在、加療中だということだ。
 
 しかし、あおいはまだ小学生である。それでも、何歩か譲ってありえるということにする。しかし、そうであっても、何か心に引っかかるものがあるのだ。

「あおいちゃん、このごろ、変だよ」
「何かね ―――――」
「確かに、明るいんだけどさ、どこか無理しているように思えるのよ」
 それは、芝居じみていている ―――というほどの意味なのだが、いかんせん、小学生の語彙力からは、それを引き出すことはちょっと、無理があったのだろう。
「赤木さん、きっと、知ってるんじゃない」
「でも、聞けないよね」
「なんか怖いよね」
 その少女は、コワイという訓読みが成立した起源を証明するような口調で言った。きっと、古代日本で恐ろしい獣に襲われた人たちは、思わず、そのようなしぐさで叫んだにちがいない。
 なんと、啓子は原始人に擬せられているのである。しかしながら、当の本人は藪蚊ほどには思っていない。
「・・・・・・・」
 弁当を突っつきながら、窓の外を眺めている。ちなみに、彼女の席は窓際の真ん中にある。そして、彼女の目の前にはあおいの席が、寒天によって構成されたカビ実験場のように、穴が開いている。
「お前なんか、しょせんカビか ―――あそうだ!!」
 独り言を漏らしているかと思うと、いきなり、絶句した啓子は、いきなり立ち上がった。
 それは驚天動地の出来事だった。
 啓子の声はまさに、脳天から飛び出るような声だった。
 このとき、教室に同居している人たちは、たったひとりの例外もなく驚愕の表情を造った。
 小学生のくせに沈着冷静を旨とするこの少女が、まるで、あおいのように天衣無縫に行動しているのだ。あたかも、彼女の生き霊が乗り移ったかのように。
 
「そうだよね、あおいちゃん、ぐあい悪いんだから食欲ないよね。食べてあげなきゃ ――」
 まるで、舞台の上の俳優のように、これ見よがしに大きな声を張り上げる。あたかも、何事かをみんなに報せるためにやっているようだ。手振りも必要以上に大げさだ。
 みんなが凍りつく中、あおいのランドセルに手を入れた ―――。そこで、狭山キイコがはじめて声をかけた。
「赤木さん、だめだよ」
「ど -して?」
「・・・・!?」
 キイコは唖然とさせられた。それは、啓子の表情である。わざと目を丸くしたその容姿はまさに芝居かかっていて、不自然だ。しかし、あおいのそれのようではなく、故意にやっているように思える。しかしながら、自ら、あおい以外のクラスメートに働きかけようとするその姿は、かつては目撃できない行動だった。
「どーしてって、それ、あおいちゃんのだもん」
「わざと倒れて、クラスメートに心配をかけるような子はこのていどの罰を受けるべきよ、そう思わない?」
「え?」
 面食らっているのはキイコだけではなかった。クラスの誰もが耳を疑った。あの啓子がこんなに舌を動かしているのを、あおいに対する以外、見たことがない。それに、その明言の内容である。あおいが仮病などと ・・・・・。
「じゃ、もらおうかな」
 啓子の反論に押し黙ってしまったクラスメートを尻目に、喜び勇んで、弁当を広げようとする。
そして、弁当を開いて箸を持とうとしたその瞬間、ドアが開いた。
 クラスメートはちょっとした寸劇を目撃することになる。
そこにいたには、あおいだった。少なくとも、おずおずと元気のない彼女を確認したはずだった。しかし、すぐにその表情は表現し、みんなが見慣れたあおいが視神経に侵入してくるのを感じた。
「ちょっと、啓子ちゃん、何しているのよ!!」
「何って、あおいちゃん、具合悪いんでしょう? その代わり、食べてあげようと思って ――――」
「・・・・・・・・・・・・」
 思わず、押し黙ってしまうあおい。そんなあおいに、さらに舌を滑らかにするのは、啓子である。
「あら? 具合悪くないの? もしかして、仮病!? えー?」
 「え? ほんとう? あおいちゃん、それ、ほんとうなの!?」
「嘘!! 何それ? ひどい!」
 何と、啓子の言葉に反応してクラス全体が動き始めた。みんなの視線が一斉に、あおいに集中する。
「ウウ・・・・・?!」
 とたんに、あおいの表情が硬化する。脂汗が、少女の乳白色の額に滲む。
「どおしたの? あおいちゃん?!」
  疑惑の色が濃い視線を、狭山キイコは、投げかけてきた。
「ちょ、ちょっと、お腹が痛くて、」
「じゃあ、食べられないわよね ――」
 啓子は、鶏の唐揚げを啄む。あおいは思わず、悔しそうな表情を浮かべる。
「あ、美味しいな・・・・?!」
 その時、なぜか、啓子はかすかに顔を歪ませた。もちろん、それはあおい以外の誰にも見抜くことができなかった。彼女とて、意識を危うくさせる官能の渦中で、やっと、啓子の顔に記された暗号を読み解いたのである。普段から啓子のことをよく知っているあおいでなければ、できない芸当である。
 
 しかし、すぐに表情を元に戻すと、いかにも美味しいと言いたげな顔で、弁当を平らげ始めた。
 一方、啓子は、口に食物を運びながら、腹立たしい気持でいっぱいだった。何かを確かに隠している。それなのに、自分には何も言ってくれない。そんな人間には、このていどの罰は当然ではないか、仮病という名医にも治しようがない業病に相応しい薬はこのくらいしか思い当たらない。
 しかし、そう思いながらも、否定できない自分を確認していた。

―――――どうして? 美味しいけど、味が違う・・・・・・。
 
 もぐもぐと口を動かしながら、啓子は煩悶していた。普段、あおいの弁当からお裾分けしてもらっている、あるいは、彼女の自宅でごちそうになった、料理の味と微妙に違うのだ。これは、たしかに似ているが、彼女の母親が拵えたものではない。
 それは、ある意味、断定できる事実だった。その向こう側に隠されているものは、いったい、何だろう。啓子は知りたくてたまらなかった。だが、子猫のような純真な双眸を向けるこの親友は何故か何も語ってくれない。
容易に手に触れるところに花は咲いているのに、手に入れることができない。思いも寄らない震えのあまり、一ミリメートルの距離で停止してしまっている。これはどうしたことだろう。
 啓子の煩悶は冷徹な仮面の下で人知れず続いている。あおいも、自分の中で起こっている豪雨に対応しなければならず、そちらの方向に注意を完全に失っていた。
 そのために、親友の内面にまで神経が行き届かなくなっていた。
そのあおいは、啓子の見えないところで苦しんでいた。しかし、今度はそれを表に出すわけにはいかない。クラスメートたちは、彼女の言うことを鵜呑みにしてしまっているようだし、下半身の秘密を暴露されるおそれがあるから、保健室にはもう二度といけない。
「ウウ・・ウ・ウウ」
 みんなにばれないように下腹部を押さえながら机に蹲る。
「あんたさ、昨日、夜更かしでもしたんじゃなあいの?」
「きっと、そうよ、あおいちゃんのことだもん、アハハッハ」
 意地悪そうに見えるが、じっさいは、まったく悪意がない。それをあおいもわかっているからこそ辛い。誰に、いま、自分が苛まれていることに対する不満を申し開けばいいのかわからないからだ。
 当然のことながら、授業にも身が入らない。教師の声も何時もと違うように聞こえる。まるで、別の人間のそれのように感じる。阿刀久美子の声が悪意の籠もっただみ声にしか思えない。

―――――もしかして、私、もう死んじゃったのかな?
 もしかしたら、本当は死んでしまっているのかもしれない。そのせいで、体験する世界がこんなに変わってしまったのではないか。そう考えたのである。
 少女をここまで追い込んだものは何だったのだろう。それは彼女の下半身をじっと見てみればわかる。
 少女の大腿はじっとりと湿度を得ている。水玉のような汗がいくらばかりか散見できる
いつもならば、男の子のように足を広げているのに、両足が密着し、いつの間にかひとつに同化してしまいそうだ。
そして、視線を舐めるように腰の方向へと進めていくと ――――。
 不自然なくらいに濡れていることがわかる。見ようによってはお漏らししているようにすら見えるではないか。
あおいは、ぴっちりとスカートをその部分に密着させて、何かが起こっているのか、外部に知られないように、苦慮しなければならなかった。
 未だ、官能という概念すら理解していない少女のこと、身体の変化に戸惑っているのは当然のことだろう。まさに、二次性徴に命の危険すら感じる多感なティーンエイジャーと言ったところにちがいない。
 そんな少女の呻き声からは、苦悩と哀しみに満ちた内面とは美しい花の香が漂ってくる。
「ウウ・ウ・・ウウ」
 この下半身の秘密は、絶対に、みんなに知られてはならない。そんなことをしたらもう生きていけない。

―――いや、もう、私は死んでしまっているのだった。
 思い出すように、イチゴミルクの吐息を出すと、あおいはココロの中で呻いた。
 何時しか、ついに額にまで水玉のような汗が浮かぶようになっていた。
 授業がおわるころには、いくつもの汗を机の上に発見することになる。その中には、外見的な真珠の美しさとは裏腹に、苦しみと哀しみのメロディが隠されていたのだ。
 そんなあおいが一番、気にしていたのは親友である啓子の視線だった。

 





 

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『由加里 80』

「え? それ、ほんとうなの?あの子ってまだ中学生でしょう?」
「最近の子は、すごいわね。それともあの子が特別なのかしら? オトコを求めているのかしら?
あんな幼い顔してね。ふふふ」
 聞きたくない言葉は、概して、耳に入ってくるものだ。世界広しと言えど、それは、古今東西において、変わらない定理にちがいない。

 今、ちょうど午前8時、由加里は、病室にて気乗りでない箸を手に取ったところだった。非常に疲労しているのに、何故か食欲がない。ほぼ義務感から食物を口に運ぼうとしていたのだ。そんな少女の涙ぐましい努力をふいにするような会話だった。
  それは病室の外から聞こえてきた。
 二人の看護婦が廊下を足早に移動する際の会話である。一方には由加里に憶えがある。
 今朝、由加里の下の世話を起こった看護婦である。まだ学校を卒業して間もないらしく、少女とそれほど年齢の差があるわけではない。そのために入院当初は、楽しげに語りかけたりしてくれて、少女のすさんだ心を研ぎほぐすよう努力していたものだ。
 由加里も、やがて彼女に心を許すようになった。
 しかし、年齢が近いからこそ、下の世話や身体を清拭される行為は、耐え難い恥辱をもたらすようになっていた。可南子による陵辱を受けた次の朝など、まだ、いやらしい汚れが残っているし、それを由加里自身の手で、取り除くのはほぼ不可能である。
 
 そのように汚れた身体を清拭されるのは、まだ、中学生の少女にとっては殺されるのに等しい恥辱といっていい。
 当然のことながら、同性であり、看護婦もである彼女たちに、その汚れの意味がわからないはずがない。
 だんだん、それを知るようになると最初は「仕方ないわねえ」と軽く微笑を浮かべる程度ですんでいたが、それが度重なると、やがて、由加里に対する態度を効果させるようになった。
 やがて、それは看護婦たちのうわさ話に登るようになった。ある看護婦などは、わざとい少女の耳に入るように由加里に耳打ちするようになった。
「カレでも呼んでいるの? よかったら紹介してよ。でも、ここではそっちの方は勘弁してね。他の患者さんもいるんだから。となりの患者さんがうるさくてね、ふふ」

 ちなみに、由加里は一人部屋に入っている。それは、親の社会的地位を反映しているのだろうが、同時に可南子による容赦ない性的な虐待を招いているのだから、幸か不幸か、微妙なところだ。
 確かに、他の入院患者によるいじめから解放されているということはできるだろう。看護婦たちの噂は、そちらの方まで波及することは少女の想像の範囲内だった。
 だが、つい二日前のことだが、怖ろしいことにであった。
 その日は、少女のリハビリが始まった日だったが、他の入院患者たちのうわさ話を耳にしたのである。
 それは20代と思われる若い女性たちだったが、看護婦たちのそれと同様のものだった。

「あれよ、あれよ、あの大人しそうな子、毎夜、耽ってるって?」
「看護婦さんの話だと、彼を呼び込んでいるってさ ――」
 由加里は、その場にへたり込んでしまいそうになった。介護士に身体を抱かれて、やっと、身を保っていたぐらいだ。規模が大きい箇所から、そうでない箇所まで、骨折が全身の至る所に及んでいるのだから、全身に、針を差し込まれているような気がする。その針が絶対零度に冷えたような気分を味わった。
 涙が顎まで伝う。どうして、こんな辱めを受けねばならないのか、全く理解できなかった。
今朝、その看護婦は、汚らしいものを扱うように、由加里の身体を清拭し、下の世話をしていた。その時間は、少女にとってまさに地獄だった。
 その地獄の時間を引き延ばすのが、看護婦のうわさ話なのである。
 まったく異常がないはずの右腕は、極寒の大地に野ざらしにされたように、震えてまともに動かない。箸は箸の役割を果たせず、お椀に残った汁の中で虚しく放棄された筏のように停滞している。

―――あの子の躰から、とてもいやらしい臭いがするんだよ、きっと、一晩中やっているのよ。おさかんよね。
――――まったく、あの歳でね。中学生でしょう? まだ? 
――――私なんて、あの子のアソコ、清拭したんですよ。手が腐るかと思いましたよ。
じっさいに、そのようなうわさ話を聞いたわけでもないのに、あたかもされているように思える。声が聞こえるのだ。
 教室や部室がそのまま病院に遷されたのではないか。
 そう思わせるような光景が、白い巨大迷路に現出していた。
 この先、何処に行こうとも自分はいじめられ続けるのではないか。終身刑を宣告され、牢獄の門を潜った囚人のように、消毒液のにおいが立ちこめる異界にて、たら、ひたすら唖然としていた。
 もう、二度とこの骨はつながらないのではないか。確かに、経過は良好だと医師は太鼓判を押しているが。それは嘘ではないか。あるいは誤ったデーターを医師に提供したのではないか。可南子ならば、その位のことを平然とした顔でやりかねない。
 
 自宅が非常に懐かしく感じられた。1000年も前に外国の皇帝から寵愛を受けて、ついに帰国できなかった邦人ではないが、家族がいる家があまりに遠地にあるように思えた。彼の地の方でも、自分をもはや必要ないのではないか。そういう不用な危惧が雨後のタケノコのように背丈を争っている。
 そんな不安を一時的にでも忘れさせてくれたのは、聞き慣れた看護婦の残酷な言葉だった。
「あら、ぜんぜん、食べてないじゃない。ちゃんと食べないと骨がつながらないわよ、由加里ちゃん」
「ひ?!」
 再び、箸に手をつけようとした由加里は、心底、肝を冷やした。
 なんと、あの可南子が仁王のように屹立していたのだ。足を広げ両手を腰にかけ、背筋を伸ばしたその姿は看護婦というよりも、コスプレをした女子プロレスラーのように見えた。こんな所にいるよりも、リングに立って観衆の喝采を浴びていた方が彼女にはお似合いなのではないか。
 自分には予知能力があるのではないか。本気でそう思ったほどだ。
  しゃちほこ張って、震えている由加里に情け容赦なく可南子は耳打ちした。
「食べ残したら、アソコに突っ込むわよ! ふふふ」
「・・・・・・・・・・・!?」
 可南子の囁きは、冗談めかした上でのことだったが、由加里の耳にはとうていそのように聞こえなかった。
 顔は見えなかったが、その悪魔的な笑いは目に見えるように思えた。プラスティックが腐ったような口臭は、それを補強する。
 咳き込みながらも、由加里は、残りを小さな口に駈け込んだのだった。ただでさえ、味が薄い病院食がさらに味けなく感じる。いや、味がないだけなら我慢も出来るが、ゴムを咬んでいるような気がする。
 今、歯に食い込んでいるこんにゃくなどは、まさにその代表選手である。
もぎゅもぎゅと食物を噛んで呑みこむのは、食事というよりも一連の作業と言った方が適当だった。もしも、それを一秒でも怠ったら、局所に残らず挿入されるような気がしたのだ。
 もはや、人間が楽しいと感じる食事という行為は、微塵も存在しない。ただ、原始的で本能的な栄養摂取という特徴だけが際だっているだけだ。
 あまりにも同情すべき状況に陥っているにもかかわらず、可南子は責めを休めたりしない。それは、いつものように心身両面に渡って繰り広げられる。

「ほら、ほら、赤ちゃんみたいに、こぼしちゃって、あら、あら。お弁当つけてドコ行くの!?」
 少女の口の端にこびり付いたご飯粒を摘むと、それを、彼女の股間にしのばせた。
「ぁぁぁうぅう・・・・・ぃいやぁ・・・ア・ア・・ア・アアぁぁ」
「ふふ、食事中まで、こんなに性器を濡らしちゃって、ほんとうにおませな赤ちゃんね。残したら、こうするって言ったでしょう? 聞いてなかったとは言わせないわよ」
 可南子は、少女の背中に回り込むと、背後から秘所を責め続ける。
「ぁぐ・・・ああぐぐ・・・・ハア・・・・ハハハア」
「何しているのよ、ちゃんと食べなさい、由加里赤チャン!」
 可南子の吐息がうなじにかかって、とても気持ち悪い。まるで、生ごみ焼却所が発する熱と悪臭に等しい。
 加えて、自分の性器から響く、くちゅくちゅという音は、否が応でも少女の羞恥心に火をつける。きっと、首の後ろまで真っ赤になっているにちがいない。まるで、自分の醜い顔を鏡で見せられているようだ。
 内臓を直に触れられるような感覚。それは、プライバシー侵犯の極致とでも言うべき状態であろう。
 可南子は今の今まで弄んでいた性器から指を抜いて、少女の眼前に突きつける。まるで、水飴のように透明な液体が糸を引いている。それをねちぇちゃとやりながら、少女の整った知性のあふれる顔に塗り付ける。
 しかも、それだけではない。可南子の口の方も健在だ。クラスのいじめっ子たちのように、頭は人並み以下にもかかわらず、人を傷付けるためにはどんな努力も工夫も怠らない。
「ふふ、若い子たちが、そうとう、嫌がっていたわよ、由加里ちゃんはとても臭くって汚いって、特にココがね」
「ウウ・ウ・ウウ・・ウウ・ウ・・・・ううう?!」
 まるで、頬にカタツムリやナメクジの類が這っているようだ。しかしながら、それは自分が分泌したものなのである。その事実が、少女を自己嫌悪と羞恥の地獄に叩き落とす。

「ふふ、今朝はここまでにしておこうか、お楽しみは後にして、シゴトをがんばらないと・・じゃあね、愛しているわよ、由加里赤チャン、ふふ」
 看護婦は、主人が奴隷の刻印を確認するように、少女の首筋にキスすると、パタパタを廊下に戻っていった。
「ウウ・ウ・・・ウウウ・・・・うう?!」
 少女は、あふれる涙で目の辺りを真っ赤に腫らしながら、かたつむりの分泌液で汚れた股間を替えのタオルで拭った。後で、担当の看護婦にさんざん嫌みを言われることは考えていない。刹那的に思われるかもしれないが、今、現在、少女が苛まれている不快感から解放されなければならなかった。彼女を支配している衛生観念がそれを強要したのである。
 衛生観念? もっと適当な訳語はないだろうか。
 少女は、全身の肌を剥いてしまいたくなるくらいの絶望と焦燥感に囚われながらも、こんなことを考えていたのである。
 由加里は、奇妙なことに自分を達観する技術に長けていた。思えば、生まれながらの作家だったのかもしれない。おそらく、それを助長したのが、鋳崎はるかだったのだろう。後者がトリガーで、前者自身の能力が弾丸なのか。それを追求し始めたら、卵が先か鶏が先かという命題に係わることになる。
 しかし、現実は、少女にそんな哲学的な思考にうつつを抜かしている余裕を与えなかった。彼女の 携帯にメールが入ったのである。
――――面会時間が始まったらスグに、行くからね。
 送り主は鋳崎はるかである。
「・・・・・・・・・・」
 頭蓋骨から仙骨にかけて、おぞましい冷気が通り過ぎる。いや、脊髄そのものが絶対零度に凍りついたように思える。全身を恐怖が覆い尽くしたなどという、陳腐な表現はこのさい適当ではない。身体の根っこから、もっと敷延すれば、躰そのものが恐怖に成り代わってしまったと表現した方が適当だろう。
 さいきんでは、照美よりもはるかにより恐怖を感じるようになっている。言葉によるいじめは両者とも顕著だが、どちらかというと実行行為に重きを置く照美にたいして、はるかは、由加里がいやがる性的な著作を強制することによって ――、彼女の心を肉食獣が草食獣をむさぼり食うように、残酷な牙を食い込ませてくる。
 消灯時間が来ても、少女は、こっそりとノートパソコンを開く。泣きながら、自分がやりたくもない執筆行為に耽っているとき、身も心もはるかに消化されていくような気がする。今、彼女の胃の中で溶かされているんだな ――と思う。
 そして、今、ほんとうに胃酸を頭からかけられ、溶かされるときが訪れようとしている。昆虫類の中には、胃液をエモノに吐きかけ消化しやすいように溶かしてから、食べるものがいるという。これから、少女に起きようとしていることは、それに類似しているかもしれない。
 面会時間は、昼食後ということになっているが、とても栄養補給に内臓を働かせるような精神状態にならなかった。ただし、日勤を終えた可南子が、囁いた脅迫の文々が脳裏に刻み込まれていた。

―――――もしも、食べなかったら、アソコにぶちこむわよ。
 まさに、補給を完全に絶たれた軍隊に勝利を期待するようなものだった。
恐怖はときに、人を能力以上の仕事を可能にさせるようである。ぜいせいと喘息患者のような息をしながら、やっとのことで完食した。

 
  しかし、次の瞬間には、ある意味では可南子よりもさらに悪辣な存在を迎えることになるのである。
 はたして、少女の目の前には、照美とはるかがにこやかに笑っていた。いつになく、優しそうな様子が、よりいっそうの恐怖を憶えた。
 照美が、先に前に出た。
「元気そうね、西宮」
「はい・・・・こ、この度は、み、みっともない、ゴミクズ以下の、そ、存在である、に、にし、西宮、ゆか、由加里を、お、お見舞いしていらしゃって、あ、ありが、ありがとうございます・・・・・・」
木枯らしが吹くような声で、由加里はいつもの挨拶を終える。
――――また、始まってしまうんだわ。
 ほぼ諦念にも似た感情が、蜂の巣のようになった少女の心に染み渡っていく。携帯やノートパソコンを介して、常に、二人に支配されている由加里である。それが直接だろうが、間接だろうが、どれほどの差異があろうが。もう、どうにでもなれという心持ちだった。
しかしながら、今回の二人の態度はいつもと違っていた。
「何言っているのよ、西宮さん ――」
何故か、敬称をつけらえた由加里は、戸惑った。しかし、これからさらに少女の目を丸くさせるような出来事に直面することになるのである。
「え?!」
「私たち、おトモダチでしょう? いや、おトモダチになるのよ」
 なんと、照美の手が由加里の肩に回ったのである。そして、お肌の触れあいを始めた。照美の整いすぎた顔が近づく。
 何という冷たさだろう。可南子のような悪臭とは無縁であるものの、かえって、花のような芳しい匂いが嗅覚神経に広がるが、その背後に絶対零度の身体が控えていたのである。照美の演技が見え透いていることは、明白だった。もっと、怖ろしかったのは、彼女の演技が下手なのではなくて、わざとそう見せていることだった。
 はるかが照美よりも、おそろしいなどと思ったのは、大変なマチガイだとこの時ばかりは、実感させられた。
 電流のごとく見えない衝撃。
 それは殺意すら上回る敵意と言ってよい。

「私たち、いいお友達になれると思うのよ ――――」
「・・・・・・・・・・・・・」
 いったい、照美が何言っているのか、まったく理解できなかった。当然のことだろう、いままで、さんざん由加里を責めさいなんできた本人が「友だちになりたい」などと告白している。
 ある意味、少女の人生を奪った本人が、握手を求めてきたのである。それも、簡単に嘘とわかる様子で。 
 自分をからかっているのだろうか。由加里は、さんざん虐待された子猫のように、はるかを見上げた。背後からは、照美がそのピアニストみたいにたおやかな手首をまわして、ちょうど鎖骨の窪み辺りで両手を会わしている。
 端から見ると、仲の良い3人姉妹にしか見えないであろう。
 しかし、その実、3人は、いじめっこたちと、いじめられっ子という支配、被支配の関係にある。
 前者が、にこやかに笑みを浮かべ、後者が死刑を宣告された犯罪者のように萎んでいるのは、通常の学校によく見られた光景である。しかしながら、照美とはるかの立ち位置は通常通りではない。
 本来ならば、前者がいじめを先導し、後者がそれを眺めているという形態を取る。断っておくが両者は主従の関係ではない。あくまで対等である。
 ただ、ロックバンドのヴォーカルとギターリストのように、立ち位置が違うということにすぎない。どちらが主犯で、従犯と言えない ――――ということである。

 さて、はるかは、真冬のプールから引き上げられた幼児のように震えつづける由加里に、近づいていく。そして、その華奢な顎をついに捕らえた。
「ひい?!」
 由加里は、苦悶の表情を見せる。
 まだ、何もしていないのにとはるかは、不満そうに笑った。彼女が視線を反らすと、表情を一変させた。
「西宮、いや、西宮さん、いや、これからは由加里ちゃんで呼んで良いかしら? お友達だものね。あれ?信じられないっていうの?」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
 はるかは、由加里に無視されたと受け取った。
「由加里ちゃん!?」
「グエ?」
 喉元に指をめり込ませる。黙りこくってしまった由加里を威圧させんと眼光を光らせた。
 しかし、少女はいっさい言葉を発そうとしない。無視しているわけではない。あまりに怖くて、何も言えないのである。もちろん、それがわからないはるかではない。ただ、それを知った上で怯えている  被害者を見て、サディスティックな喜びに、身体を浸しているのである。
「由加里ちゃんは、友だちが欲しくないのかな?」
武人のように引き締まった顔をさらに硬化させる。こういう彼女の顔を見たところで、ほとんどの人間は、彼女に抵抗しようという気を半ば失ってしまう。クラスの男子なぞは、その良い例証というべきだろう。
 ここで、照美が助け船をだした。いや、はたして、そう言えるのだろうか? はなはだ、疑問ではある。
「はるか、由加里ちゃんが話を出来ないでしょう? そんなにしたら可哀想。ほんとうは、喜びで打ち震えているのよね。何たって、誰も友だちがいない由加里ちゃんにお友達ができようとしているんだからさ。ね、由加里ちゃん?」
「は、ハイ・・・・ウウウウ・・ウ」
 その優しさが偽りなどということは、百も承知だ。しかし、そうであっても、暴君のようなはるかの仕打ちに比べると、聖母マリアの輝きのように思えるのである。
 溺れる者は藁をも摑むとはよく言ったものだ。
 この場合の照美は、藁ですらないかもしれない。

「ねえ、由加里ちゃん、これから、あなたが会いたくってたまらない人がふたり来るわ」
「ェ?」
 由加里は豆鉄砲でも喰らったような顔をした。
 はるかは意外そうな顔をして尋ねた。
「あら、連絡は取ってないの?」
「え? もしかして、ミチルちゃん? あぐう!? 痛い!?ィィィ・・・ううウ1」
 夥しい涙が宙を舞う。その涙の一滴一滴には、病院の残酷な白が印刷されている。由加里の乳白色の鎖骨に食い込んだのだ。
「おい、照美ったら、今、大親友になったばかりじゃないか」
「ぁあ、そうだったわね、だいしんゆうね!」

―――いつのまに、大親友になったのだろう。
 こんな時になっても、由加里は作家の視点を失っていない。常に、冷静な視線を保っているということは、見ようによっては残酷なことなのである。
 照美は、ミチルと由加里が親しくするのを喜ばない。彼女のことを妹のように思っていることはよく伝わってくる。そして、ミチルもそう思っている。いや、彼女だけではない。はるかのこともそう見なしているようだ。
―――照美お姉ちゃん。
――――はるかお姉ちゃん。
 ミチルはそう呼んでいた。敬語を使っていなかったことは、その深い親しさの証左だと言えた。
「・・・・・・」
 その狭間に座らされて自分は、どのように振る舞ったらいいのだろう。どうやら照美とはるかは、それを望んでいるようだが、戸惑うばかりである。
「フフ」
 思わずほくそ笑むはるか。
 実は、このアスリートの卵はすべてを悟っているのである。ミチルがこれからこの病室を訪問することを予め報せなかったのか。
 はるかは、こう頼んだのである。
「西宮さんを驚かせてあげようよ ―――」
 ミチルと高子はそれに同意した。
 照美もそれを知っている。怖ろしいくらいの美貌を歪めると背後から口を開いた。
「あなたに一芝居打って欲しいの。え?何、その意外そうなカオ? まさか、お友達て本気にしたんじゃないでしょうね? あなたは私の奴隷でおもちゃにすぎないのよ、わかっているでしょうねえ?!」
「ウウ・・ウ・ウ・ウ・ウ・・・・・・ハイ」
 考えるまでもない。それは当然のことだった。しかし ――――。
 しかし ―――――。
 
 ぼろぼろになった由加里の心は、無意識のうちにそれが真実だと思ったのだ。いや。思いたかったのである。
 照美はさらに、真舌を滑らかに回転させ始めた。



テーマ:官能小説 - ジャンル:アダルト

『新釈 氷点2009 4』
「そうだ。学校戻らなきゃ ――――」
「陽子ちゃん!?」
 まるで他人事のように言う陽子。夏枝と春実から見るとあまりに現実感が欠けているように見える。 いわゆる素人芝居にありがちなぎこちない動きと台詞回しである。
「音楽の授業で合奏をやるのよ、それにはねえ、陽子はヴァイオリンの担当になったのよ、それなのに ――――」
「陽子!」
 夏枝の耳には、合奏が合葬に聞こえた。それは春実も同じ思いだった。
「陽子ちゃん・・・・・・」
 改めて見ると、己の罪が服を着て歩いている。しかし、どうしてこんな愛らしい罪があったものだと、変なところで感心させられる。
―――――自分たら、この非常時に!!

 どんな過酷な状況下においても密かに冷静という名前の花を咲かせる春実である。何か言わねばならない。
 陽子は、今の今まで見せていた動揺をあさっての世界に投げ捨てて、普段の自分を演じている。しかし、その演技はあまりに見え透いていて、ところどころにほころびが見いだせる。
 すこしでも突っつけば、風船のように萎んでしまいそうだ。いや、単なる空気が入った風船なら大惨事になることはないが、水素100パーセントの上に失火となれば、もはや改めて描写する必要はないだろう。
 大惨事である ――――それでもあえて言えというならば。
 陽子は、このまま外出すれば、赤信号でも直進していまいそうに思えた。愛するわが子が凶暴な唸りを上げる車に飛ばされる。そんな残酷な映像が目の前に現出する。
「お、お願いだから、ここにいてちょうだい!! 陽子!!」
 我が手を娘の制服に食い込ませて、懇願した。身体はまだランドセルを背負っていたころと変わらないために、余った衣服が夏枝の手を翻弄する。
――――この子は、まだこんなに小さいんだ! ルリ子とそう変わらない。
 その観測は完全に誤っていたが、かえって、夏枝の陽子に対するあふれんばかりの愛情を暗示している。

 春実は、陽子を押さえながら、思わず泣きたくなった。感情の起伏に乏しい陶器のような美貌にうっすらとこの時ばかりは感情を表す。
「陽子ちゃん、あのね ――」
 完全に気が動転してしまった夏枝の代わりに、春実が説得に出ようとしたとき、けたたましいチャイムが鳴った。いや、長崎城主の豪邸だけに、その音はごく上品だ。しかしながらら、この時ばかりは  カケスのわめき声に聞こえた。
 カケスとはその鳴き声が激しいことから、かまびすしい人間を暗示する比喩によく使われる。
 二人にとって、まさに呼び出し音はそれにしか聞こえなかったのである。
 ところが、次に聞こえた声は耳に親しみすぎていた。

「陽子ちゃん、どうしたの? みんな待ってるんだよ!」
「え? 永和子!?」
 春実は目を丸くした。思いも掛けない人物が来訪したからだ。言うまでもなく、彼女の長女である財前永和子、陽子とは長馴染みの親友である。いわゆる竹馬の友というやつである。
「永和ちゃん!?」
 陽子の視線はまだ虚空を彷徨ったままだ。まるで目が見えないかのように見える。
 空気を切り裂くような声は、玄関からかなり距離があるはずのこのリビングに直で響いてくる。
「あの子ったら ―――」
 春実は頭を抱えた。親友の冷静を失った顔を見物するには、あまりに状況が危機に瀕している。

「永和ちゃんに入って貰いましょう ―――」
「おい、夏枝!」
「永和ちゃん、今行くよ!!」
 そう、朗らかに宣言すると、夏枝と春実の押さえをすり抜けて玄関へと走り去ろうとした。
「あ、そうだ、ヴァイオリン忘れちゃった ――――ちょっと、待ってね」
 陽子は、螺旋階段を回転しながら上昇していく。
「ああ、あの子どうしたのかしら?」
「あまりにショックな体験のために、一時的な記憶喪失になったのかしら」
 春実の声は、全く興味もない科目の教科書を音読しているかのように抑揚がない。
「お春ちゃん、あなたは何時精神科医になったのよ」
「田丸礼子っていう精神科医と知り合いになったのよ、彼女が教えてくれたの。こんな仕事をしているとね ―――」

 二人の精神も尋常ではないようだ。どうやら、非常事態に陥るとおしゃべりに興ずる。そのことで、理性を保とうとするのは、古今東西変わらない女性という生き物の性質だろうか。
 春実は尋常でない精神を振り切るように玄関に向けて叫んだ。
「永和子、入ってきなさい!」
「え?ママ?!」
 けたたましい足音を立てて入ってきた永和子の顔には、意外という文字が顔に書いてあった。
「永和子!」
「え? ママ!??」
 見たこともない母親の顔に、驚く暇もなく身体を引き寄せられる。次の瞬間、耳を喰われるかと思った。
少女の耳に食い込んできたのは、母親の歯ではなく言葉だった。しかし、その言葉は、気を失うほどに衝撃的な内容を含んでいたのである。
「ママ、それ、本当!?」
「嘘で、こんなこと言えるわけないでしょう!? とにかく陽子を外に出すわけにはいかないの、今の あの子を外に出したら、トラックに飛び込みかねないわ」
―――お春ちゃん。
 きょとんとした顔で、親友を見つめ続けながらも内面においては怪訝な思いを否定できずにいた。
―――この子の陽子の対する気持は、何なのだろう?
 確かに、親友の娘という設定をはるかに超えている、春実の陽子に対する熱い視線は。それは不思議な愛情に満ちている。実の娘に対する情愛とは違う別のエキスが混入しているようだ。しかし、今は、そんなことを忖度していられない。

「永和子ちゃん、先生に電話して、陽子が具合悪くなったって伝えてね」
アールデコの受話器を指さす。自分なら、彼女を呼び捨てにはできない。それは、可愛いとは思うが。
 気が付くと陽子がヴァイオリンを持って立ち尽くしていた。
「私、全然、具合悪くないよ ――」
「陽子ちゃん・・・・・」
 強いて冷静を保っているのがわかる。それこそ号泣しながらソファーを破って、中の羽毛を部屋中に飛び散らせたいだろうに。
 少女は、舌に黒鳥の舞を強制した。

「私を騙していたのね、永和ちゃんも知ってたんだ。それに町の人たちも」
「ええん、知らないよ、今、知ったんだよ」
 教師との話は済んだのに受話器を持ったままの永和子は、慌てて弁解する。母親そっくりの瓜実顔の、上品な容姿だがその内面は、母親とは一線を画すようだ。危機を目の前にして、とうてい、冷静を保っていることができない。
 どうやら、みんなに騙されていたことが我慢できなかったようだ。すると、そのことを彼女は悟っていたことになる。
「みんな・・・・・・・・それに、ルリ子さん、いや、お姉さんが可哀想・・・」
―――こんな時にルリ子のことを考えるなんて、貴女はほんとうに、私の娘よ!あの子のことをあからさまにしたら、ほんとうの母娘でないことまでが、明かになっちゃうと思うと!だから言えなかったの!
 夏枝は言いたくても言えないことをわかりやすい方法に変換した。
 それは ―――。
 それは、―――。
 涙である、いわゆるひとつの。
 光るものを母親の双眸に見いだした陽子は、凍りついた。しかし、それはショートしかかった少女の心を冷やす役割を担うことになった。
 この時、陽子は悟ったのである。

 春実が言わんとしたことのほんとうの意味のことである。18歳になるまで知ってはいけない。その中身自体のことではない。
 どういう理由が内包しているのか、わからないが、真実という黄身が詰まっている卵の殻を傷付けてはいけないらしい。もしも、そんなことをしたら、自分はおろか、自分のことを思ってくれている沢山の人々を傷付けるかもしれない。
 根が素直な少女はそう理解した。
 我を通すことを止めたのである。しかし、知ってしまった以上は、本来なら自分の姉がもうひとりいたということを否定することはできなかった。何としても墓参りをしたい。
 それにしても、我が家に彼女が存在したという足跡がないということは、何ていう不自然さだろうか。仏壇はおろか、 写真の一枚もないのだ。それほどまでに自分に隠しておきたかったのだろうか。その理由は何か。

―――――もしかしたら、自分に聞かせたくないくらいに残酷な方法で殺されたのだろうか。それにしても、それを自分に報せないほどの方法って?
 ソファに座らされ、改めて煎れられた紅茶をすすりながら思った。目の前にはレモンケーキが切り分けられ、甘酸っぱい匂いが漂ってくる。それに母の愛を感じながらも、鋭敏な少女の知性は、正解を求めて迷路の出口を捜していた。
そんな少女の思考を止めたのは春実の声だった。そこに笑顔が出現した。
「陽子ちゃん、食べ物の恨みは根が深いのよ、もしも、あなたたちが来なかったら、おばさんが独占できたのよ ―――」
「えー? おばさん、独占する気だったの?」
 今度は不満そうに柔らかで品の良い頬を膨らませる。むくれた陽子だったが、すっかり、春実に籠絡されたことに気づいていない。やはり、鋭敏な知性を持ち、年齢よりも大人びた陽子とはいえ、ふつうの中学生の、それもランドセルから肩掛け鞄に変わったばかりの、少女にすぎないのだろう。

 しかし、その年齢よりも幼い中学生が側にいた。陽子がしないような大きな口でレモンケーキを頬張っている少女だ。
「こら、永和子! もっと、遠慮して食べなさい! それに何であんたまで食べるのよ!」
 半ば笑いを込めながら、春実は、娘を怒鳴りつけた。
 それが契機になって、リビング中に温かい笑いが充満する。
 この時間が永遠に続けばいいと、陽子は思った。しかし、その心の何処かにおいて、黒くも、鋭敏な知性が蠢き始めていたのである。
 人間とはなんて迂遠な、いや、それだけでなく自虐的なのだろう。心とは時に、自分が傷つくことを望んですることがある。この時の、少女はまさにそうだった。
 しかし、もっと敷延すれば、彼女だけではない。陽子をはじめとする家族がその周辺の人たちまで含めた人間群像を動かす巨大な歯車が運命という動力に導かれて、誰も予期せぬ動きを見せ始めていたのである。ほぼ、全員がそれに絡め取られてしまうのだが、今のところ、それに気づく者はい なかった。
 あくまで、不安に持っている人物は、約一名ほど、いたが。
 もしかしたら、2名だったかもしれない。陽子の出生の秘密を知っている者は、誰と誰だろう?



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『マザーエルザの物語・終章 30』
 ふいに、あおいは、寝返りを打った。啓子はそれに喜びの感情を素直に表すべきだったのかもしれない。しかし、少女の心にはそれと全く違う感覚が芽吹き始めていたのである。どんなにふっくらとした容姿を持つ人間でも、顔に鋭角を備える場所がある。
 一般に細面が美人の条件だと言われるが、たいてい、そのような人間は、その鋭角が鋭い。あおいもその例外ではない。首にブイの字を造る胸鎖乳突筋から顔につながるところ。即ち、顎である。  その部分から可愛らしい曲線を造る耳たぶに至るラインを見ていると、あるものが目の前にないことが悔やまれた。
 スケッチブック。
 そして、画材。
 後者は、すぐに視線に入った。校医が使うテーブルの上に赤い鉛筆立てが見える。まだ、20代後半だと思われる人間には、珍しく、鉛筆をわざわざナイフで削っているようだ。削り後が目に親しく感じた。最近の彼女が毎日行っていることである。鉛筆の匂いが嗅覚を刺激する。
 描きたい ―――。
 描きたい ―――。
 それは、ほぼ絵描きとして運命づけられた者にとって本能とでも言うべき衝動である。啓子は、親友が置かれた状態も忘れて、それを熱望した。
―――あった。
 机と壁にスケッチブックが挟まっていたのである。それが誰の者かなどという思考は、少女の脳裏に走ることはなかった。ただ、描きたかった。震える手で鉛筆とそれをもぎ取ると、まん中辺りを開いた。
 そして、しかる後に、黒鉛を紙の表面に走らせた。少女の身体が造る柔らかいラインがそこに再現される。まるで、身体を触れているような気分になる

――――デッサンは、目とともに手を使うんだ。触れるような気持でやりなさい。

 一体、誰の声だろう。啓子は、親にせがんで絵の教室に通わせてもらっているが、そこではもとより、正当な美術教育に基づくデッサンなどは奨励していない。ただ、思ったことを自由に描かせることをモットーにしている。

―――――どうしてだろう知っているような気がする。
 さきほどの声も、かつて知った絵画教室の教師の声ではない。時間と空間を超えた何処かから響いてくるような気がする。あえて例えるなら夢の中で師事したような気がする。先生の顔も仕草も憶えていないが、声だけは脳裏に刻み込まれている。
 啓子は、現在、自分が何処にいるのかほとんど意識に登っていない。それだけ夢中になって右手を動かしているのだ。
そんなようすをたまたま戻ってきた校医が見かねて、注意しようと立ち止まった。その瞬間 ―――――。
 二十代後半だと言う校医は、思わず言葉を失った。多少なりとも髭を蓄えているが、まるで明治期の男たちのように余計に威厳を備えようとしているのが、あからさまであり、その分よけいに若いというか幼く見えるのはどういうことだろう。
 校医は、その髭に手をやって、ただ凍りついたように押し黙っている。少女を叱りつけるという当座の目的を忘れて立ち尽くしている。
 あまりに、その絵が見事だったからである。
 スケッチブックに描かれているものに視線を走らせると誰も息を呑むと思われた。とても小学生が描いているとは思えない。もののフォルムとムーブマンを見事なまでに捕らえた仕事はとても素人のそれには見えない。
 実は、この校医は美術の心得があるのである。その証拠に高校は美術専門の過程だった。的確な人体デッサンには解剖学の知識が必須だが、それを勉強しているうちに、本格的に医学の勉強がしたくなって、その道へと進路を変更したという変わり種である。

―――あれ? この子の絵は何処か見た色を感じるな。あれはたしか ――――。い、い、何だっけ? この前、展覧会でやっていたはずだが・・・・・。もう歳かな? いやこの歳で、猪熊、井崎? 違うな、確か、東欧か何処かの人だったはずだ、日本に、帰化したはずだ・・・・・・。
校医は、どうしてもよく耳に親しんだはずのその名を思い出せなかった。その苛立ちを言葉で表現することで、解消しようとし た。

「ちょっと、君、ここで何をしているのかね?」
「あ」
―――あ、じゃないだろう?
 そう校医は思いながら、かつての自分以上に凍りついた啓子からスケッチブックを奪い取った。
「こんなところにあったのか、捜してたんだ」

「すいません。先生の持ち物とは露知らず ―――」
悪びれずに答える啓子。一瞬だけが、年齢らしい童女の態度をかいま見せたが、すぐに普段の自分を取り戻した。
「授業はいいのか ―――先生は戻られたんだろう?」
 気が付くと看護婦もいる。
啓子は、現在、自分が置かれている状況を思い直してみた。理由もわからず、倒れてしまったあおいを心配して、ここに来た。そして、看護室にいるはずの校医や看護婦がいないことに憤慨して ―――――。
 何故か、担任は教室に戻ってしまったのかいなくなっていた。そのことに、意識が回らなかったのは、ご都合主義というやつだろうか。
 しかし、授業中に、教室外に居を定めていることに不安にならないはずはない。
 自分は何処にいて、何をして理右のだろう。
 よく考えてみたら、担任は、あおいのことを見守っているように、言付けをしたはずだ。人間の記憶というものは都合がいいように変形されてしまうものだから、自分の出した結論に納得できない自分がいた。
 だが、あおいのことを気遣うというのは最重要事項のはずだ。
 そのはずの自分が絵を描いているなどと ―――――・
 
 冷徹な仮面の中では、冷や汗ものになっていたのである。いったい、自分は何をしていたのだろう。
校医は、腕時計を見遣った。そろそろ四限が終わる。教室に戻ったはずの教師が戻ってくるかもしれない。啓子のスケッチブックを軽い手つきで取りあげながら、校医は言った。
「人の紙に勝手に描いた責任は取って貰わなくてな。それに先生へのご報告もね ――」
「・・・・・・・・・・・・・・・」

 しかし、その声色からまったく怒っていないことが見て取れた。
「だけど、この絵をプレゼントしてくれたら、見逃してもいいかな。それに、これからちょくちょくと絵を見せてくれたら嬉しいかも」
 大の大人から友人のように扱われると、戸惑うものである。啓子もけっして例外ではなかったが、それを顕わにするほど子供じみているわけではなかった。あるいは、見防備ではなかった。
「そんな絵でよろしければ ――」
「じゃ、これは貰っておくよ」
 本来、自分の所有物だったものを他人から譲与されたように、大袈裟な仕草で有り難がる。それを、心の奥に破裂しそうな風船を隠し持って、立ち上がった。そして、そそくさと保健室を後にしようとした。
 校医は、そんな少女の背中に何事か掛けようと口を動かす。
「これはとてもよく描けているよ。君は本当にこの子のことが大事なんだね」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 啓子は、ふり返り際に無言で校医を睨みつけた。それは当たり前のことを聞くなと言っているように見えた。
 しかし、すぐに前を向くと学校の廊下に消えていった。遠近法に乗っ取った消失点に向かって、そして、まっすぐに白いリノリウムの床に、同化してしまった。
 カラカラと床と上履きのゴムがぶつかり合う音を聞きながら、校医は、失念していたその名前を思いだした。

―――――そうだ、井上順だ。井上順先生。
 彼が高校時代の恩師が師事した画家だった。そのために、少しは気になっていたのだ。展覧会が催されていたことは、記憶の何処かに引っかかっていた――――これがど忘れというやつだろうか。
 スケッチブックを広げながら、そう思った。
―――親友か。
 寝台に乗せられている少女は、まだ、その姿勢を保っていた。
―――たしかに彼女を描いているのだろうが。
 何とも言えぬ違和感を禁じ得ない。それはなんだろう。小学生とは思えないほどにデッサンは正確なのだ。問題は、そのレベルの話ではない。
それが啓子の主観なのだろうが、どうしても画中の人物は年齢相応には見えないのだ。
 特に顎の鋭角。
 どうしても、それが校医の視力を吸収した。
 そして、尖った鼻。
―――え? 全然、尖っていない。
 それはデッサンがどうとかいう問題ではなかった。技術的に厳密に言えば、それは小学生の作品としてはずば抜けていても、しょせんは子供の仕事にすぎない。
 一通りの美術教育を受けた校医がその絵から受け取ったメッセージはそんなレベルのことではないのだ。
 印象。
 そう言う単語で片づけるのは簡単だ。だが、そう言ってしまうには、あまりにも陳腐すぎた。詩人を気取っている校医は、それを風と名付けた。

――――何やら懐かしい風が吹いてくるな。
 とたんに泣きたい気持になった。目頭が熱くなったところで、自分を取り戻した、背後から忍び寄ってくる看護婦の声もそれに荷担したのかもしれない。

「先生、どうなさったんですか ―――」
「いや、何でもない」
 平静を保ちながらスケッチブックを閉じた。
 それが閉じられるか閉じられないかという瞬間に、チャイムが鳴った。啓子は、何事もなく教室に入れたのかと軽く気になりながらも、渡された書類の山を処理し始める。学校という場所がらにもかかわらず、嘱託とはいえ、歴とした医師免許を持った医師がおり、その上、看護婦までもが揃っている。その恵まれた環境は、有名私立ならではのことだろうか。
 モニター上に次々と数字やら文字列を打ち込んでいく。それは俗にカルテと呼ばれるものだが、そのようなものが学校に常備されている辺り、とても尋常とはいえない。
まるで指の筋肉尿酸を溜めるついてに言った感じで、キーボードを打ち込んでいると、看護婦が年齢に似合わない若い声をかけてきた。

「先生、ちゃんと身分証つけないと文句言われますよ」
「そうだな ―――」
 校医は、縦6センチ、縦15センチの長方形に収まった藤沢省吾という文字を見つけて、今更ながらに、自分がそのような名前をしていたことを思いだした。それまで、別の感覚に支配されていたのである。
――――あのデッサンを見てからか、それともあの少女が担ぎ込まれてからか。
 省吾の視線に刺激を受けたかのように、あおいは目を開けた。そして ――。
「あ、ウウ・・ウ」
 少しばかり呻いたが、彼と視線が合うと、すこしばかり顔を赤らめて目をそらした。そして、起きるばかりか、寝台から降りようとする。

「ああ、もうすこしようすを見ようか。それとも家族の方を呼ぼうか、ええと ―――」
 少女の名前を失念した省吾であったが、すぐに思いだした。
「榊、あおいさんだったね ――――」
「・・・・・・・・?」
 どうして、あなたが知っているんですか?という顔で、少女は校医を見上げた。
 省吾は、その言葉を呼吸のついでとしか見なしていなかった。あまりにも、突然に、脈絡もなく出現したのである。100年も解けない難問に挑む数学者が小休止に、お茶を入れようと気を抜いたときに、小悪魔から妖しげな数字を囁かれたときのように、彼はそれを簡単に解答だと受け取ってしまったのである。
 だから、彼も何の注意もなく、その言葉がついで出た。
「ダンナさんによろしくね ―――?!」
「え?!」
 あおいは、口を疑問符の形に歪めたが、それを言った本人こそ驚いていたのである。
 それこそ気が変になったのかと、脳外科医の友人の顔が浮かんだほどだ。



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『由加里 79』
 鈴木ゆららが見つめている闇は確かに深かったが、それ以上の暗がりに沈んでいたのは、由加里のふたつの大きな眼(まなこ)だった。
 虚ろな目は何を見ているのかわからない。双眸は、完全に見引かれているというのに、全く光を反射しない。その奥にはブラックホールが隠されているのだろうか。
黒い、何処までも黒が続く、闇の中の闇。
 それは何でも吸収する挙げ句、光さえ溜め込んでしまうというから、どんなに高性能な天体望遠鏡を夜空に向けても、確認できないらしい。すると、由加里の黒曜石も闇の中に埋もれてしまった可能性がある ―――否、闇そのものに変わり果ててしまったのかもしれない。
――――あらゆる光を吸い取ったあげくに。

 さて、視線をすこしばかり下に向けてみよう。目は口ほどにものを言うとあるが、目に、それを求められないとすれば、弟にあたる口に要求するのが筋というものだろう。
 驚くべき事に、少女の口には黒いスリッパが埋め込まれているではないが、おまけに、口の端には涎が糸を引いている。小刻みに震えるたびに、その量は増えていく。オーケストラ演奏前に、楽器のチューニングが行われるが、それを彷彿とさせるような音が、少女の口から漏れ続けている。
 黒い布の塊は、心なしか揺れている。しかも、同時にチャラチャラという金属どうしが合わさる音が、病室に木霊する。まったく、関係がないように思える両者は、少女があしらっているリボンと手のように、見えない関連性で結びつけられているように見えた。

 美少女の顔半分に突き立てられたスリッパが揺れているのを見ていると、女は、満足そうに笑った。
彼女は天頂にいる。
 「由加里ちゃん、おめでとう、ふふふ」
「・・・・・・・・・」
 じわじわと言葉が降ってくる。火山灰に埋もれていく死んだ馬のように、少女は無言のまま身体を呑みこまれていく。
 女は、スリッパを揺らしているのが自分だと認識しているのだろうか。まさに、火山灰とは彼女のことである。
 似鳥可南子、その人である。

 この病院の看護婦である可南子は、着衣のまま、少女の背中にのし上がっている。それはゴリラのマウントを思い起こさせる。動物専用のテレビなどで視たことがあるかもしれないが、ゴリラがゴリラを強姦するようにのし上がっている姿である。あれは、下位の者に対して、自分が上位であることを認識させる行為と聞くが、可南子のばあいはどうなのだろう。同性愛とは、しょせん、ゴリラの習性と変わらないのだろうか。

「ふ、ふ、ふ・・・・・いいわよ、由加里ちゃん・・・・アハッハア、あなたは私のもの」
 物言わぬ類人猿とはいえ、もっと、上品な声を出しそうなものである。それが、この看護婦が出す人語らしき音は、ゴキブリが吐き出す体液よりもおぞましかった。
 今、女の涎が少女の背中の窪みに落ちた。その付近には、彼女のマニキュアが残酷に鈍い光を放っている。それは高級品なのだが、彼女が使うとただ趣味の悪さを露呈するだけである。使いどころを間違えると、一流の品も形無しになってしまうものである。
 由加里は、それを見ることができない。もっとも、視界に入っていたとしても、視神経が麻痺してしまった今となっては、それを認識することはできないだろう。コンピュータが処理能力を超える情報量を流されるとショートしてしまうように、少女の神経は、膨大な感情の処理をまかなうことができずに、凍りついてしまったのである。
 可南子の行為は、由加里を完全に麻痺させてしまった。もしも、死という概念が意識の喪失と同義ならば、一時的に、少女を殺してしまったとも言えるかもしれない。しかし、彼女が蘇ることはあるのだろうか。かつて、少女たちの中心となって咲いていた大輪の花が、その春を取り戻すことはあるのだろうか。
 
 由加里が息を吹き返したのは、突然のことだった。
 まるで、駅に設置された場違いなシュールレアリズム彫刻のように、顔面に突き立てられたスリッパがぴょいっと顔を出したとき、可南子は、少女の心臓の鼓動が戻ったことを知って、頼もしく思った。 怖ろしいことだが、この女は、自分がいかなる罪を犯しているのか、その自覚がまったくないのである。
 天頂から少女を見下ろすことが、どれほど、悪魔の所業に属するのか、完全に思考の分類能力を欠いているのである。それでは、患者を切り分けるメスを仕分けできない外科医と同じだ。そんな医者に手術される患者はたまったものではない、
 だから、精神が破綻したこの女が14歳の少女に行っていることは、完全に常軌を失っていた。
 可南子は、重傷を負っている少女から処女を奪うという暴挙にでたのである。
  
 換言すると・・・・・・・。

 こともあろうに、右大腿骨をふくめた、全身の数カ所に傷を負った少女を身動きできないように、手錠で縛り付けた上に、性器を顕わにして、自らに装着した双頭のペニスの一方をそこに埋め込んだのである。
 そして、その行為は続いている。
 可南子は、さらに罪の上塗りをしようとしていた。
「ふぁう、ふぁう・・・ぐぁぁあ!?」
「むぐあう!?!」
 少女の口から人語が飛び出ることを危惧したのか、看護婦は濡れそぼったスリッパをひょいっと手に取ると、しかるのちに、再び、少女の口に突っ込んだのである。
 また、オーケストラの前演奏が始まった。今度は、さきほどよりもさらに激しい音が飛び出る。楽器が壊れてしまうのではないかと思わせるほどに、激しい。しかしながら、楽器とは使い古されたスリッパにすぎないのだから、可南子をメランコリックにさせる原因にはならない。
 少女は、飢え死に寸前の齧歯類がチーズの塊に噛みつくように、スリッパに歯を食い込ませている。そんなことでは、ナイロンの生地を食い破れるはずはないのに、わかっていてもそうしなければ、何者かにたいして申し訳が立たないかのように、ぎりぎりと食い込ませる。
 誰かとは?
 それは、母親を筆頭にした家族に対してだろうか、それとも、自分自身のプライドにであろうか。
 全身を貫く激痛と官能が混ぜ合わさった異様な感覚は、複雑な感情を相まって、ピークを迎えようとしていた。
 可南子は、悪魔のような笑いを浮かべると、ジェットコースターの最上位を目指すべく、腰の筋肉に グリコーゲンを注入しはじめた。

 その時、頭が悪いくせに老獪な看護婦は、とある呪文を少女に仕込んでおくことを忘れなかった。  それは、少女が激情に駆られないようにするための予防措置である。
「これは、将来、大事なひとのためにする準備運動のようなものよ・・・・ふふ、可愛いわよ、由加里ちゃん、まだお子様のあなたにはこの程度で十分かしら?」
 まったく、理屈が成っていない。荒唐無稽というにも、論理のすり替えがひどすぎる。しかし、被害者である少女は、それを素直に受け取っていた。感情と感覚が、臨界点を超えて、無意識に可南子のとんでもない論理が染み込んでいったのかもしれない。


 ちょうどそのころ、奇妙な編制を為す四人は、夜のドライブを終わろうとしていた。慣れない運動に身をやつした鈴木ゆららは、こんこんと眠りの世界に身を投じており、一方、照美とはるかも、かなりぐったりとしたようすで、移りゆく夜の街を車窓からただ眺めていた。
 夜の街は雨に打たれている。それが、疲労の蓄積による視力の低下と劣化に相まって、セザンヌばりの印象画に仕上げている。
 はるかは、自分が書き上げた絵に見とれて、うとうとしていたが、やがて、それが180度ほど別の展開を見せることなど予想だにしなかったにちがいない。
 それは突然やってきた。夜の闇を引き裂くような言葉が、はるかを襲ったのである。
 どのような言葉と言葉のつながりがあったのか、よく憶えていない。睡眠への導入部でまどろんでいたこともあり、意識は混沌としていた。しかし、あゆみと照美が何やら会話を交わしていたことは知っていた。
 その時、あゆみは恐るべき事を言ったのである。
 しかし、耳というものは、選択して音を拾っているのは、このことは、その確かなる証左だった。
「ねえ、照美さん、プロテニスプレイヤーを目指してみない?」
 その瞬間、天と地が入れ代わったように思えた。その証拠に、雨が地面から空に降り注いでいる。 ここがあゆみが運転する車内であることも忘れてしまった。

「・・・・・・・・・!?」
 言葉を完全に失い、というよりも、最初からまったく得ていなかったのだが、はるかは、ただ、呆然と恩師の頭髪を見つめ続けることしかできなくなっていた。
 照美は、あゆみの言葉を単なる冗談か、社交辞令ていどにしか受け取っていないようすで、軽く受け流している。
「そんなに、私って才能ありますか? ふふ ―――」
 微笑という香料を言葉に混ぜながらの発言なのだから、まじめに受け取っていないことは事実であろう。しかし、はるかはそうではなかった。まるで自らが立っている地面を奪われたような心持ちで、敢然と抗議しはじめた。
「あ、あゆみさん、何を考えておられるんですか?」
 自分では抗議のつもりなのだろうか、ほとんど、自失呆然の果てに、ほとばしった呻きにしか聞こえない。
「はるか、何を躍起になっているのよ ―――」
 照美は、意外な顔をした。普段、冷静沈着なこの親友が感情を顕わにするなと、とても珍しいことだったからだ。
 しかし、彼女にしてみれば、死活問題なのである。それは、そもそも対して興味のない勉強や、多少なりともコンプレクスを持ち合わせているが、精神の根本に関係のない容姿において負けても、テニスを含めた運動分野で、照美に負けるなどということはあってはならないのである。
 たがが、遊びていどの心持ちで行ったテニスを、あのあゆみに評価されるなどということは、ほとんど負けに等しい。
 今更ながら、照美にそのような感情を持っていることに、気づいたはるかだった。彼女を構成する別の人格が、意識の主流を占めたときはじめて、いささか恥じ入るような気持になった。
 そのために何も言えなくなってしまったのである。背後の席を陣取っている照美を妖しと思いながらも、フロントガラスの向こうに対戦選手がいるかのように睨みつけるのだった。

 しかし、切り返しの早い彼女のこと、その双眸にはべつの光が宿っていた。テニスにおいても同じ事で、いったん犯してしまったミスをいつまでも引きずっていては、勝てる試合も負けてしまう。すぐに次の手を考えなくては・・・・・・・。
 サイドミラーに沈む照美の美貌を見ているとはるかの頭の中は、西宮由加里のことに向いていた。 彼女をいじめるにあたって、照美ほどリーダーシップを獲っているわけではないが、その実、背後で励んでいるのは彼女だった。成年漫画をトレースペーパーで書き写させることを皮切りに、挙げ句の果ては、官能小説を彼女じしんの手によって、執筆させるまでに発展していた。
 それは文芸関係においては、プロデューサーの役割なのだろうが、じしん気づかない才能に目覚めているようだ。
 もうひとつ気づかないことがある。
それは、由加里をいじめるに当たって、照美以上の残酷さを発揮していることだった。
 あまりに沈思黙考しているために、携帯の呼び出し音にすら気づかない。
「おい、あゆみ、携帯鳴ってるって ――――」
あゆみに指摘されてはじめて気づいたはるかだった。不意をつかれた形になったが、青い液晶画面を見ると、ほくそ笑んだ。
 高島ミチル。
 その人名が意味することを思うと、新たなる計略が自身気づかない才能に火がつくのだった。

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『新釈氷点2009 3』
 家族を見送り終わった夏枝はしばらく空を見ていた。蒼天という言葉はこのためにあるのだと思わせるくらいに、透けるような青空が広がっている。
――――これから、ずっとこうだといいわ。
 自分に言い聞かせるように、空に視線を遣ると、人の背の二倍くらいはある板チョコのようなドアを閉めた。
 玄関を入ると客人は正面にある絵画に魂を奪われることになる。キュビズムと言うべきか、それともシュールレアリズムなのか、大抵の客人は評価に苦心することになる。
長崎城主の邸宅ともなれば、客人の数は、普通の家の倍増しとなる。彼らは、この絵をどう批評しようかと頭を悩ませる。
 ところが、彼らは総じて同じ感想を持つ。
 それは、この絵が醸し出している圧倒的な幸福感である。

 同時に、女主人の笑顔を見ると救われるような気分になる。同時に、彼女の娘がいたとすれば、それは完全なものになるだろう。ちなみに、彼女は絵の制作者である。もっとも、その年代はほぼ10年前という断りがつくのである。
 言うまでもなく次女である陽子が描いた幼児画である。両親と姉である薫子が楽しげに並んだその絵は、ひとつの幸せな家庭を余すところなく表現しきっている。誰しも、その絵がこの家庭のフラクタル図形になっていることを思い知る。言い換えれば幸福の雛形になっているということになろうか。
当の陽子は恥ずかしがるのだが、夏枝は来客の度に、それを紹介するのだった。あたかも、自分の家の幸福を喧伝するように。

 玄関から90度曲がって、回廊が続く。その設計は、あたかも、この絵が飾られるために為されたかのようだ。
 この邸宅は陽子がこの世に生を受ける以前から建っているのだから、当時の建築家がそれを予見していたとしか思えない。
 それほどまでに、この絵は建物に溶け込んでいたのである。ほぼ同一化していると言っていい。

「・・・・・・・・」
 夏枝は、意味ありげに微笑を浮かべると履き物を脱ぐ。良家の子女らしく、優雅な手つきでそれを整えて置いた。
 鈍く光る皮は、彼女の複雑な心理をぼんやりながらも描写しているようで、気持ち悪くなって思わず目を背けた。あたかも、罪を犯したばかりの人間が鏡で自分の顔を仰ぐようなそんなイメージである。
――――別に、私は犯罪者じゃないのに ・・・・・・・・・そうだ、今日は電話が。

  その時、ルルルルルという電話の呼び出し音が響いてきた。まるで、彼女の心理を読み取ったようなタイミング。まさに、その相手らしいと受話器を取りもしないのに、勝手に相手を決めつけていた。
はたして ――――。
「春実でしょう?」
「え? 夏枝? またわかちゃった?」
「またまた、人を超能力者みたいに ―――」
 夏枝は、さきほど流行のSFアニメを思い浮かべた。陽子から又聞きしたのだ。学校でも流行になっているらしい。
「夏枝のエスパー能力は廃れないようね。昔は、おにぎりの中身を当てたりとか ――」
「偶然だってば ―――」
 普段は見せない笑顔をこのときとばかりに発揮する。もっとも、今、彼女以外に、この広い邸宅にいるのは猫の、ピエトロだけなのだが・・・・・・・・。優しい母親の姿しかしらない陽子にとってみれば、こんな彼女の姿は意外かもしれないが、けっして、単なる良家の子女に、その性格は留まらないのである。
 普段は、誰もいないとはいえ、簡単に油断した顔などを晒すようなマネはしない。愛娘の絵が視線に入ると、すこしばかり表情を整えて口を開いた。

「今頃、あなたから電話があることは、わかっているのよ。毎年のことだし ――――」
「そうだね。薫子ちゃんはどうなの」
「あの子なら、定期的に行っているみたいだし ――――それに」
「あまり大がかりにやると、ばれちゃうか ――――」
「お春ちゃん?!」
 夏枝は、声に感情を込めた。怒りを親友に対して表すとき、決まってこの幼名とでも言うべき呼び方をする。別に、彼女が嫌がるという理由でもなさそうだが、その由来は、本人でもわからない。
「電話じゃ、詳しく話せることじゃないけど、さ、いつか ――――だよ。あの子、あなてに似て、見かけによらず勘が鋭いからさ」
「うん ――そうだけど」
 心配げに、再び絵に視線を戻る。それを止まらせたのは、親友の次のような台詞だった。
「これから、あなたの家に行っていい?」
「春実?!」
 何故か、親友に今の自分を見せたくなかった。しかし、別に断る理由も見あたらないので ――。
「わかったわ。だけど仕事は? 今、何処にいるの?」
「諫早駅前の喫茶店。車で五分ってところかな。大丈夫よ、それでいつも子連れてくるの?」
「夏枝、未だに子もないじゃない? 少なくとも、私の夫なのよ、ははは。」
 
 当時としては大変珍しいできちゃった婚だった。そんな言葉すらなかった時代のことだ。それに、春実は、夏枝に劣らず良家の子女なのである。城下町は噂でかまびすしかったが、そんなものにへこたれる春実ではなかった。
 ちなみに、その時に産まれた娘の永和子は陽子の親友である。
「じゃあ、切るね ―――」
 夏枝は、アールデコ的な意匠に彩られた受話器を置くと、しばらくそれに両手を添えた。機械がその重力に悲鳴を上げて、はじめて、電話を壊しかけた自分を発見して、苦笑した。
――――こんな顔はとても娘たちに見せられないわね、春実にだけで十分。
「ま、お茶の準備くらいしてあげなきゃ ――――」
 そう言うと、夏枝は紅茶の準備を始めた。ダージリンの一風変わった品である。口ではそう言うが意外にはりきっている城主婦人であった。

 ものの、五分と係らずに、女弁護士はやってきた。
 ちなみに、夏枝が子呼ばわりした谷崎はいなかった。

「クビにしたのよ、育児役に再雇用したわけ ――――」
 自分の首を手刀で切るマネをして、笑っているのは、言うまでもなく財前春実弁護士である。結婚を再雇用などと言うのは、まさに春実らしい。
 「まったく、まだ用意も出来ていないのに、まあ、いいわ。いつものところで座ってて」
 親友をリビングに押しやると、自身はキッチンに戻って、自家製のレモンケーキを切り分け始めた。

 春実は、言われる通りにリビングに向かう。両家は家族同士の付き合いをしてきたので、かつて知った家と言って良い。
 12畳ほどのリビングの中央に降りるシャンデリアやコの形に配置されたソファは、ここが、家族のための部屋であることを暗示している。それら記号としての家族はたしかに機能している。しかし、その実情はどうか。親友の目からすると、それなりに機能しているように見える、それはそれでいいのだが・・・・・・。
 いつまでその状態が保全されるのか、大変心配である。
もっと、懸念されるのはその種を蒔いたのが自分だからだ。
「12年か ――――」
 しみじみと春実は、部屋を見回す。こんな大邸宅の割に、こぶりのリビングである。全城主である建造に言わせると、「家族の団欒のためには、このていどの大きさがちょうどいい」ということになる。もっとも、この家に招待される一般市民からすると、その考えに首肯する気にならないだろう。
 それにしても小綺麗にしているのは、さすがに、専業主婦の鏡である夏枝の面目躍如ということだろう。これが春実ならそうはいかない。家庭のことはほとんど夫に任せている。
 沈思黙考していると、レモンの甘酸っぱい匂いが漂ってきた。

「春実、何しているのよ、座りもしないで ――」
「そうね」
 ハンドバッグを膝の上に載せながら体重を荘重なソファに預ける。その仕草がいかにもおもしろかったのか。カラカラと笑う。
 不満げな色を綺麗な形の頬に乗せる
「何よ」
「妙に他人行儀だから」
「弁護士なんてやってると誰でもそうなるわよ、いやでもね。そうだ、本題に入ろうか ――」
 話題を転じようとすると、とたんに夏枝の顔が曇った。
「いい加減に真相を告げなさいよ、陽子に」
「・・・・・・・・・・・・・・」
夏枝は黙りを決め込んだ。
――――真相ね。
 我ながらよくもそんな単語を舌の上に載せられると感心させられる。しかし、あえて言わねばならない。

「鋭敏なあの子のこと、きっとおかしいと思っているわよ。いかにこの土地の人が古風で、口が堅いって言ってもね。旧い新聞を調べられたらアウト。今まで、あの頭の良い子にばれなかったのは奇蹟と言ってもいい ―――もしかしたら、すべて知っているのかも」
「お春ちゃん!?」
 気色ばむ夏枝。
「あなたに何がわかるのよ! どれほど気を遣ってきたか。私だけじゅない、あの人や、薫子も ―――」
「それをうすうすとわかっているって言うのよ。具体的にはわからなくてもね」
春実の言うことはわかる。しかし、それが正論ゆえに腹が立つのだ。これまでどれほどあの子のために骨を折ってきたか。
「あの子が、ルリ子が ―――」
 春実は目を見張った。あの子というニュアンスがすこしばかり違う。
「ああいうことになって、すぐに、妊娠だなんて不自然でしょう?!」
 自分の論理がいかに不自然か、すぐれた知性に恵まれた夏枝がわからないということはない。自分で言っていて不思議だった。どうして、ここまでルリ子の存在を陽子に隠匿してきたのだろう。あの優しい子のことだ。あまりに可哀想な死に方をした姉のことを心から供養するにちがいない。たとえ、一回も出会ったことがなくても ――――。

 たしかに啓三の意見もあったが、忘れたかったのだ、あのような悲劇があったことを! そして、あの時抱いていた珠のような赤ん坊に、影響を与えたくなかった。それほどまでに、赤子の温もりに触れた瞬間に、愛情を感じたのだ。
しかし、そうであっても、ルリ子のことを忘れたわけではない。そんなことはありえない。一時であっても、あの子ことが脳裏から消え去るなどということはない。陽子はあの子の代わりではないのである。
 もっとも、怖ろしいのは、自分の醜さだった。
 本当に、大事だったのは身の保全ではないか。
 やはり、あの出来事を嘘にしたかったのだ。だが、そうなると矛盾する ―――――。
 夏枝は頭を抱えると、ソファに伏した。そして、声に泣き声をしのばせた。

「そうよ、どうしたらいいのかわからないの。言うべきタイミングを失ってしまったのよ、いまさら ―――」
「夏枝、陽子は家族でしょ!」
その言葉に、母は飛び上がった、あたかも、身体の中にバネがあるのではないかと、春実に錯覚させたぐらいだ。
「当たり前でしょう!? お春ちゃん!!」
 夏枝は寄り添ってきた春実にしがみついて抗議した。しかし、それこそ親友が望んだことだった。
―――ワタシ、悪魔ね。
 本当に泣きわめきたかったのは、春実である。自分が侵した罪を考えると、胸が張り裂けそうな気がする。しかし、あの時、自分を裏切った夏枝に対して反感を持っていたのは事実である。それは今も影響しつつある。
 複雑な気持を孕みながら、春実は夏枝を抱き締めた。その身体に流れる血潮を感じるとやはり、罪 悪感に身を焼かれる。その流れは、ツライ、ツライ!と言っている。

「夏枝、ごめんなさい。でも、私だって簡単に言っている訳じゃないのよ、考えて欲しいって ―――――」
 春実の声を遮る何かが、その時、空間をまっぷたつに引き裂いた。扉が開く音と、哀しいまでに高音の金切り声。その不思議な二重奏は、春実の耳には死刑の通告に聞こえた。
「ルリ子って誰? はあ、はあ・・・・・」
「よ、陽子!?」
「陽子ちゃん・・・・・・」
 かたつむりの身体と殻のようにふたりは一心同体のように、陽子は見えた。しかし、その姿は涙のだめにぼんやりとなっている。まるでセザンヌの印象画にしかみえない。この世でももっとも信頼しているはずの二人が自分に何を隠しごとしていたというのだろう。
「どうしたの? お昼前よ ―――」
何故か、冷静な言葉が出てくるのが不思議だった。朝、弁当を持たせたことが一秒前の出来事のようだ。
「忘れてはいけないものを忘れてしまったのよ、お母さま ――――。それよりも、ルリ子、いや、ルリ子さんって誰?」
 陽子の怒った顔に久しぶりに出会った。何処か哀しげな色を整った顔に乗せる。その時、上品な鼻梁は小刻みに揺れて、いささかなりともピンクを帯びる、そして、大きな瞳は涙に揺れている。まるで黒曜石だ。
――――総てを悟られた。
 ふたりは心の内をすべて見抜かれたように思えた。ただし、両者にとっての真実とはその色合いを異なるものにしている。意味合いが違うのだ。
だが、夏枝は踏みとどまった。ここはもっとも大事な宝箱を開けてはならない。それはパンドラの箱なのである。
「ルリ子はねえ、ルリ子は・・・・・・・」
「お母さま?!」
 しかし、陽子は只ならぬ母親のようすに表情を変えた。怒りの武装を解こうとしていた。一言、発するたびに、身体中の痛覚が刺激されるようだ。それは、しかし、陽子にも伝わっていたのである。
愛する母の苦痛が我が事のように感じられる。しかし、ここで垣間見てしまった真実に背中を向けるわけにはいかない。
「?お母さま? その方は?」
「ルリ子はねえ、あなたのお姉さまなのよ」
 この時、はじめて、茫然自失の春実は意識を取り戻した。冷静沈着な本分を発揮させようとする。親友の重荷をかづくことにした。
「あなたのお姉さんは、殺されたのよ。あなたが産まれる前にね」
「お春ちゃん!?」
 
 はじめて、春実のことをそう呼ぶのを聞いた。ただでさえ親しい間柄だが、目の前のふたりは姉妹のように見える。
 しかし、今はそんなことはどうでもいい。今は、再び蘇ってきた憤怒の感情に身を委ねるだけだ。
「なんで ・――――、私は、知らないの? か、薫子お姉さまも知ってるんでしょう!?」
 歳柄にも遭わない大人びた上品さをかなぐり捨てて、単なる12歳の童女に戻っていた。
「私は ―――、私は ―――??はあはあ」
 まるでフルマラソンを始めて走りきったランナーのように、息を乱す陽子。夏枝は、我が子を抱きしめたくなった。しかし、身体が動かない。全身が麻痺している。
 激しい憤怒と自責の念で身体が張り裂けそうになった。
 自分が産まれる前に殺された? しかも、それを知らずにぬくぬくと育ってきた。お母さまや家族を独占して? そんな自分を許せなかったのである。そのことを自分に隠してきた家族に対する憤怒よりも、自責の念が凌いだ。

「ウウウ・ウ・ウ・ウ・ウウウ、うう。お、おかわいそうに、ルリ子お姉さま・・・・ど、どうして、殺されたの!?」
床に伏して激しく泣きじゃくる陽子。夏枝は、このまま彼女をこのままにしていたら、異なる次元に飛ばされてしまうのではないかと危惧した。
「陽子ちゃん、ルリ子は、ねえ、ルリ子は・・・・」
 ようやく、身体の自由を取り戻した夏枝は、覆い被さるように愛娘に辿り着く。
一方、春実は自分のすべきことを思いだした軍人のように、任務に足を踏み出そうとする。
 陽子のピアニストのような手を摑むと、大人の口を開く。
「それは、聞いちゃだめ。陽子ちゃん。そうすると、みんなが傷つくことになるわ。きっと、夏枝はもう生きていけないわよ。約束してちょうだい。16歳になるまで詮索しないって ――」
「おばさま ――――」
 陽子の手はとても冷たかった。凍りついているのではないかと、思った。しかしながら、16歳などという年齢を持ち出すところ、自分は法律家なのだと思った。
――――とんでもない悪徳弁護士だ。
 凍りつきそうな美少女の手を必死に温めながら、春実はそう思わざるを得なかった。





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『マザーエルザの物語・終章 29』
 意識を失ってあおいは新たなる翼を得た。
 ところが、いちど空に向かって羽ばたいてみると、それは秋の空のように小春日和の清々しい空間を飛翔するための道具でないことがわかった。
 音もなく、少女は大地に降り立った。虚空に浮かんでいることに、そこはかとない恐怖と不安を怯えたのである。
 しかし、そこは彼女にとってほんとうに安泰な場所なのだろうか。
 思い出したくもない過去。言い換えれば、例え、どんなすばらしい大地にも、地下には地層があり、 その一つには悪魔の糞便で固められた層もあるということだ。
 言わんや、げんざい、あおいが置かれている状態は混迷を極めている。その過去にはいったい、何があるのか。まったく想像できない。立っている大地がけっして、堅実でないことは微かに触れる今の状況が何よりの証左になるだろう。

 過去という地下から、何か悪い記憶が噴出しているにちがいないのだ。
 それが、温泉のような頬笑ましい鉱床でないだろうことは、もはや、自明の理である。

 少女の耳に、場違いな固有名詞と単語が飛び込んできた。
―――フランス人です! 彼奴らが! しかも警官じゃなくて、軍隊が!!
 それはほとんど悲鳴に近かった。
(フランス人?!)
 あおいは、まだあどけなさの残る、いや、幼い唇をかすかに震わせて、その固有名詞を繰り返した。
 少女が10年あまりの人生で得た知識によれば、その国はヨーロッパの片隅によりそうように存在する。いわば、島国である。
 ところが、世界中に植民地を形成し、帝国を作ったらしい。有希江と徳子の会話が、断片のように少女の記憶に突き刺さっていた。
 だから、特別な敵意や怖れがあるわけではない。しかし、少女が夢想の中で遭遇したトリコロール(三色旗)からは、ただ一つの言葉が飛び出てくる。
文明人の顔をした蛮族。
どうして、イチゴのような自分の頭からこんなさかしげな言葉が飛び出し、それが理解できるのか、少女は不思議でたまらない。まるで、思考する自分とそれを受け止める自分が互いに乖離しているように思える。大人になった自分と交流しているような、いや、ちがう。
 それは巨大な過去だ。
 大過去。
 かつて、徳子が口にしていた単語だが、その意味はまったくわからない。ものすごく大昔ということだろうか。
 とにかく、あおいは、正確を期すならば、あおいらしき人物は、フランス人なるものを蛇蝎のように嫌っている。

 それにしてもこの熱はなんだろう。雲一つ無い空から降り注いでくる。かつて、親しみを込めてアポロンと呼んでいた太陽はそこにはない。
 かつて?
 自分は、何処にいたのだろう。しかし、いくら思いだそうとしても、明確な地名は浮かんで来ない。ただ、高原と豊かな緑、それに温かな陽光というイメージだけが浮かんでくる。
 あおいの立ち位置は、そんな呑気な場所ではない。立っているだけで死がやってくる。
ただ、黄色い残酷な塊が、灼熱を置くってくるだけだ。全身が火だるまになりそうだ。数分だけでも直射日光に浴びていると、肌に火ぶくれができる。
 アギリ。
 それは国名だと確信した。巨大な熱とイコールでその短い固有名詞が結ばれた。
 人々の声、怒声と悲鳴。
 そして、それらを彩るように銃声。肉体を叩く特有の音。渇いたという単調な形容詞では表現しきれない耳に不快な響き。胎内に水分と油を多分に含んでいるのだから、それは当たり前だろう。
 そして、それらに護られるように骨や筋肉といった組織が存在する。エモノは、それこそを破壊すべく叩きつけるわけだが、不快な音の原因は前者にこそある。

――――止めて!、止めなさい!ヒイ!?
 蛮行を必死に収めようとしたあおいだったが、自らの身体が危険となれば、とっさに防御に走るのが人間というものだろう。
 少女は、身を縮めて攻撃を避けようとした。

―――殺される!!
 そう思って屈んだ瞬間、彼女は信じられないものを目撃することになる。
 自分の変わりに、友人の男性が犠牲になっていた。彼は、フランス兵の残酷な銃剣の一刀によって、無惨な屍に成りはてていた。
「!」
 それは、彼女の記憶をどうひっくり返しても、出てきそうにないほどに残酷な体験だった。
 しかし、彼女を驚かせたのは、それではなかった。どう見ても粗野な一兵士の言い放った言葉だった。
「なんだ、おめえ、人間じゃないか!? こんなところで何をしてるんだ。おい、ピエール、この方を中尉殿のところへつれていけ」
「やめて! 離して!!!」

「あおい!」
「ぁぁあっぁあ!?」
 身体が激しく揺さぶられた。それは人間業とは思えなかった。何か巨大な力で魂ごと二つに切り裂かれるような気がした。
 しかし、よく見てみれば、赤木啓子であることがわかった。
「け、啓子ちゃん・・・ぅうあう!?
「あおい!?」
「ァァゥアァウ・・・・」
 弓なりになって股間を押さえるあおい。
 ほぼ、無意識のうちにその姿勢を取ったのは、下半身に隠された秘密を親友から隠すためだ。しかし、あおいのそんな有様は、見る人にその深刻さをアピールするだけだった。
 しかも、啓子は普段の冷静さを完全に失っている。
 
「せ、先生、救急車を呼んで下さい!」
  いつになく、動揺と混乱の二重奏を鳴らす啓子。教師は、そのようすにあっけにとられたのか、すぐに対応できなかった。
「だ、大丈夫です!! ウ・ウ・ウ・ウ」
 あおいは必死に訴えた。そんなことをされたらたまらない。下半身の恥ずかしい秘密が露見してしまう。
 辺りを見回すと、白いカーテンが見えた。ここが看護室であることがわかった。どうやら、気を失っている間に連れてこられたようだ。

――――まさか、見られてるってことは!?
 あおいは動揺を隠せなかったが、周囲のようすを鑑みてそんなことはないらしい。ふいに、親友の苛立つ声が響く。

「看護室に、校医と看護婦がいないってどういうことですか?」
 その声は、逆立っていて、今にも周囲に殴りかかりそうだ。
「どうしたんですか? 校医さんは!?」
 慌てて入室してきた両者に文句を言っているのだ。普段、冷静な態度に徹している彼女らしくない。
 そんな間にも、股間の異物は幼い性器を刺激しつつ動き回る。
 正確には、あおいが動くために、そのように錯覚するのだが、被害妄想と言われても、少女にしてみればそう思わざるを得ない。
 身体を砂漠にでも埋めたくなるほどの羞恥に蝕まれている今であっても、そのくらいの判断はできた。灼熱の砂はきっと、この身体から浸みてくる羞恥心を焼き切ってくれるだろう。

「赤木さん、落ち着きなさい!」
 担任の声が聞こえる。啓子を冷静に戻そうとする彼女の姿が目に見えるようだ。目を瞑ってもありありとその映像が浮かぶ。
「校医さんが来たから! 落ち着きなさい」
 しかし、それは違う世界から響いてくるようだ。あおいや啓子が立っている地面とはあきらかに風の色も、大地の匂いもちがう。
 「啓子!!」
 しかし、彼女の声だけはしっかりとした実体を持って迫ってくる。
 その時、二人は手を繋ぎ合った。
 二人とも時間の感覚を完全に失っていたのて、校医が声を掛けたことに気づいていなかった。

「ああ ――」
「赤木さん ―」
 担任である阿刀久美子も、そこに控えていた。
「はい・・・・・・」
  恐縮するようにあおいから離れる。その手と手との連結が切り離されるとき、二人の間で微かな体温のやりとりがあった。熱伝導の法則から高音から低音へと伝わった。それはもしかしたら、メッセージだったのかもしれない。少なくとも、あおいはそう受け取ったことだろう。
 手を握り合った瞬間、啓子は、その手の冷たさに、そして、あおいは、その手の温度に驚愕した。
触れた方は、触れられた方の死を直感してひるんだ。
「あおい!!」
 校医や久美子の静止も聞かずに、親友の骸、彼女が勝手にそう思っているだけだが、それに上からまとわりついた。その勢いは、対象に対して飛びかからんばかりか、取って喰おうというほどまでに増していたのである。
「ぁああ、あぐうう!!」
 胸郭に、啓子の両手が触れたとたんに、あおいは、小動物的な悲鳴を上げた。それと同時にぴくんと弓なりに、身体を曲げると小さく痙攣した。
「あ、あおい!?」
 啓子は、ますます、親友が重病だという思いを強くした。しかし、当の本人はそれどころではなかったのである。命に関わる病気を凌駕する出来事とはどんなことだろう。
「ウウ・ウ・・・ウ・ウウ・ウウ!」
 あおいは、シクシクと泣き出した。顔を真っ赤にして、小刻みに震えている。涙が、さくらんぼうに垂れた水滴のように、流れていく。
まるで、友人が手の届かない処に行ってしまったのではないかと思った、この小さな身体から離れて再び ――――。

 再び?

 啓子は、絶句した。自分の身体からわき上がってくるものに、恐れおののいた。まるで自分でないものに、操られているような、それこそ、何か得体の知れない亡霊に身体に乗りうつられて支配されてしまったのではないか。
 今まで、あおいに何処かに行かれたことなど、いちどもない。あるとすれば幼児体験だ。あおいと遊んでいて、彼女の母親が突然、連れて行ってしまう。しかし、それは自分の母親も自分に対して、同じ事をしたのだ。
 しかし、そんなことは、何処の世界でもありえる、ありふれた出来事だろう。だが、その時感じたやるせない気持は、今になっても思い出すことがある。淋しいような哀しいような不思議な気分。夕日に溶かされるあおいの背中を見つめていると、もう、永遠に彼女に出会えないような気がする。そればかりか、彼女に出会って互いに紡いできた時間がすべて嘘で、錯覚にすぎないのではないか。
 幼児だったので、そこまで具体的に言語化できたわけではないが、意識の周辺でそのような気持を強くしていた。
 けれども、おもちゃのシャベルを持っている方の肩を母親に叩かれたとき、あおいと同じように自分の家に帰っていくのである。その時にはもはや、そのようなもやもやは、あさっての方向にうっちゃってしまっているのだが。

 あおいは、死んだサバのように冷たい腹を見せている。先ほどまで燃えていた炎は、いつしか消え去って、兵ものどもが夢の後のような跡のような、無常観だけが死後の魂のように残存していた。
 その中では、啓子が想像できない戦場が展開していたのである。しかし、部屋の外からは、戦場の火を再び灯すような人物が足音を立てていた。あるいは、不発弾が少女の中に残っていたのかもしれない。

 


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『由加里 78』

 はるかと照美、それにゆららの3人が大人を巻き込んで、青春ドラマに明け暮れている時に、別の空間では人倫と人間性を同時に無視した行いが続いていた。
 それも病院という清潔と奉仕の白に塗り込められた場所においてのことである。暗い病室の中では絶対的強者が弱者を思うがままにしていた。まさにしたい放題とはこのことであろう。
 白衣の天使は妖女となって幼気な少女に絡みついている。大蛇が小蛇を捕って喰おうという絵画が額に嵌ってひとつの作品になろうとしている。

「ァァ・・・ウウウ、ウ・ウ・ひ、いや・・・・・や、やめて・・・・・ウウ」
 
 全身の血管に針金を突っ込まれるような気がする。少しでも動けば激痛が走る。羞恥心は、自らの身体を縛って虜にしていた。そのために、自ら声を抑えてくれるのだから、陵辱者としてはこれ以上のサービスは考えられないというものだ。

「何が、やめてよ。もっとしてほしいくせに・・・・フフ」
「ウウ・・ウ・ウ、そ、そ、そんな、う、嘘です・・・ウウ・ウ・ウ」

 ことここに来ても、少女は、知的で清楚な自分を保つことに固執している。可南子にしてみれば、それが彼女を憎むと同時に可愛らしいとも思うわけである。可南子は、咲きかけた蕾に接吻した。

「アア・あ?! 痛いああああああ!?」 
 可南子は自らの指を少女の性器に食い込ませた。海鼠の内臓は看護婦の残酷な指によって、捻られ、握りつぶされた挙げ句に、身体の外に引きずり出されんばかりに引っ張られた。当然、脊椎に鉄芯を押し込められたような激痛が走るのは、言うまでもないことであろう。
 さすがに、この時は叫び声を押さえることができなかった。それでも、極力控えようとの努力は見て取れたが。
 首筋に光る汗は、小蛇ののたうつ姿を彷彿とさせた。
 可南子はそれを見ると残酷に反転した目をさらにもう360度回転させた。サメに襲われた経験はある人はわかるだろうが、彼らが噛みつくとき、その黒い目は白に変色するのである。彼女のさまはそれに酷似している。
「このインラン中学生、まだイくのは早いわよ。ふふふ」
 数万の針が絡みついてくるような声が、由加里の肩に響く。少女はそれを地獄からの誘いのように受け止めていた。もう、これから自分は人間ではなくなるのだと思った。地獄の囚人になってこの看護婦から一生辱めを受け続ける。それが運命なのだと諦観するまでに至った ――――少なくとも本人はそう思っていた。
 しかし、いざ、それが実行されるとなると話は別だった。
 おもむろに、性器に硬質な物質が押しつけられたのである。

「ひ、つ、冷たい!!?何?」
 悪ガキに摘まれたヒヨコのような声が、少女の口から零れた。しかし、それは硬いだけでなく粘着質な性格を性器で感じることができた。

―――――これは、まさか。
「これが、何かわかるかしら?さっき、由加里ちゃんが触れていたものよ。とても気持ちよさそうにね」
可南子はヒヨコの頭をむんずと摑むと、自分の方に引き寄せた。乱暴な手つきが僧坊筋と胸鎖乳突筋を強(したた)かに痛めた。
 口ぶりと打って変わって残酷な仕打ちに、由加里は怖れ戦いた。
 もっとも、彼女にとってこの世で最も怖いのは、海崎照美なのだ。彼女に比べたら、可南子など小鳥の啄んだ芋虫にすぎない。
 妖女の姿に、冷たく笑う悪魔を思い浮かべて、由加里は戦慄を憶えた。しかし、それは記憶が造り出す一種の幻想にすぎない。今、それどころではない事態が少女に起ころうとしていた。精神だけではなく肉体にも及ぶ、実体としての恐怖が降り懸かろうとしていたのである。

「私の顔を見なさい ―――」
「ウウ・・ウ」

 由加里は、記憶の中の悪魔ではなく実体を持った悪魔を目の前にした。三次元を占める実体の前では、記憶や幻想などあさっての方向に飛び去ってしまう。

「これが何か、おわかり?」
「ウウ・ウ・・ウウ・・ウ?!」
 少女は、どす黒くそそり立つ物体に可愛らしい頬を犯されていた。由加里はその正体を知っていた。何の雛形なのか過去の記憶を訪ねなくても諳(そら)んじることができた。
 その理由は知らなかった。思い出したくもなかった、はるかに読むことを強要された書籍類のことなどは。
「ウウ・ウウ・・ウ・ウ・ウウ!?」
「どうしたの? 由加里ちゃんはこれが何なのか知っているのね」
 由加里が水を浴びたように、泣き続けるのは可南子が怖いせいではない。自分が、それを知っていることが悔しかったのだ。普通の中学生の女の子だったら、そのような知識があるはずがない。そう思ったのだ。
 可南子が示したのは、ペニスの雛形である。しかも、双頭である。読書の知識から、それが女性同性愛用の道具であることはすぐに知れた。

―――まさか。

 すぐに、自分が悟った事実を打ち消そうとした。そんなことはあり得ないはずだった。いや、あってはならないはずだった。しかし、目の前に提示された現実は、少女にある事実の訪れを突きつけたのである。
 可南子の娘である、かなんに強要されたレズ行為とは違う。未体験ながらも、これから可南子にされようとしていることが、単なるマネゴトと一線を画すことを知性の何処かで思い知らされたのである。
 可南子は、由加里がもはや人語をしゃべれる状態ではないことを悟っていた。

「じゃ、もはや、前フリも解説もいらないわネ!?」

 少女が自分の魔力によって身動きすらできなくなっていることを知った。潮時だと感じた。だから準備を始める。
 自分の膝の上で固まっている少女を少しどかすと、双頭ペニスの一方を自らの股間に埋め始めた。 驚くことに、少女が知らないうちに、彼女は下着を脱いでいた。暗闇なので色や形態は、まったく判別できない。
 可南子が出す音は、とても普通の人間の声には思えなかった。犬や猫などの哺乳動物のそれでさえない。昆虫や節足類が出す、一種、機械音に酷似した摩擦音だった。無機質な音は、その出し主の冷酷さや無神経さをあますところなく表していた。
作り物にしか見えない笑いを浮かべて妖女は言った。
「ううウウウ・・・ふう・・・ふふ、準備ができたわよ」
「じゅ、準備って・・・・・」
 こと、ここに至っても、視線を反らした由加里は自分が普通の女の子であろうとした。


 由加里が大事なものを失おうとしていたとき、鈴木ゆららは人生において大事な宝石をその手に乗せようとしていた。
 少女は、車窓の外を夢見る心地で見つめていた。流れる電飾のラインは、イメージの中で培ったパリの夜のようで、とても現実には思えなかった。
 照美やはるかと言ったクラスでも憧れの人たちと親しく会話をし、このような処にまで連れて行ってもらった。
 それだけではなく ―――――。
 雲の上の人間だと思っていた、今でも思っているが、そのアスリートに出会い、信じられない場所にまで足を踏み入れた。例えるならば、封建時代の農奴が貴族の城に招待されるようなものである。  当時の庶民にとって、そのような場所には精神的な防壁がオーラのように取り巻いていたにちがいないのだ。
 きっと、一歩、踏み入れたとたんに雷を落とされたような衝撃を受けたかもしれない。
 ゆららは、そんな思いだった。

 テニスの後は、食事に連れ行ってもらったのだが、その豪華さはさることながら、西沢あゆみが支払った金額に驚いたのである。カードを使ったのだが、そのときにレジ打ちの女性の口から出てきた数字に我が耳を疑った。
――――42000円になります。
「そう」
 あゆみのいかにも当たり前のような受け答えにも度肝を抜かれた。カードを受け取る手の動きは、まるで町中で配っているティッシュを受け取るように見えた。
当然、店外に出たあとであゆみに言った。
「あの ―」
 もっとも、それしか言葉にできなかったが。
「口に合ったかしら? え? いいのよ、出会いのしるしってことでね」
「そんな、私が困ります、母が ――――」
 そう言いかけて、自分の家にそのような金額をしはらう余裕がないことがおもい出された。
「子供は大人を食い物にして育つものよ、ふふ」
「す、すいません、ありがとうございました」
 あゆみは指で少女の額を撫でた。そして、背後を振り向くと声色を変えた。
「おい、はるか、お前は感謝の言葉もないのか」
「へへん、どうせ、親分肌を見せたいんでしょう?」
 悪びれるでもなくはるかは返した。まるでラーメンをおごってもらったごとくだ。しかし、次の瞬間には態度を変えていた。照美に視線を移したのを確認すると、ゆららの耳元に囁いた。
「この人、こういうのが好きなんだよ。気にすることない」
 自分の境遇を気遣ってくれている。ゆららは心の中が温まるのを感じた。しかし、気が付くと、鉱毒に侵された農地のように、穴を掘れば掘るほど惨めな気持が臭気を発するのだった。だが、それは同時に底のない自己嫌悪を導くことになる。まさに無間地獄とはこのことだった。
「・・・・・・・・・・・・・」
 はるかは、そんなゆららにかける言葉をもはや持ち合わせていなかった。ここで何を言っても自己弁護か軽い同情論に陥ることを知っていたのだ。
 ただ、寄り添うことだけがゆららに対する友情の証だった。

 車は、夜の闇を縫ってネオンサインを引き裂く。カーブを切るたびに、それらは赤や黄、そして、青の点滅を促し、さながらオモチャ箱をひっくり返したように見えた。自然と、それは喧噪とでも言うべき音を生じせしめ、視覚に訴える騒音と合わせて、まる空襲のように映る。
 街を行き交う人たちは、どれを見てもかまびすしく、忙しいように見えた。その有様は何時か映像で見た焼夷弾から逃げまどう住民にそっくりだった。
 そして、その中に、自身も含まれているのだ。
 今、塾帰りらしい少女が、車に衝突されかけた。けたたましい警告音にさらなるダメージを受けている。肩を狭めて、事態をやり過ごそうとしている姿は、まさにいじめらられていたゆらら本人のそのものではなかったか。
 今度は別の車に警告音をぶつけられた少女は、畳み掛けられるように、粗野な運転手に怒鳴りつけられた。

「何をやっているんだ、あの車!」
  背後から警告音をぶっ放そうとして、思い留めた。さらに少女が怯えるだけだと思ったのだ。
ゆららは、別の思いが過ぎるのを苦々しく思った。西宮由加里のことだ。照美やはるかが、自分に対して、信じられないほどに優しく接してくれる。一方、彼女に対しては、地獄の悪魔になってしまう。これはどういうことだろう。
―――あの人は自業自得なのよ!
 ゆららは、その言葉が自分を納得させられないことを知っていた。しかし、あえてそう思うことによって、自分を誤魔化そうとした。
 そうしなければ自分が保たない。
 もしも、いじめに荷担したならば、自分もかつて、自分をいじめた人たちと同列になってしまうからだ。それは決して認められないことだからだ。
 漫然としない気持で、夜の街を見遣るゆららである。しかし、照美の美貌が視界に入ったとき、彼女に伝えるべき事を思いだして、そこに電気を通らせたように、髪の毛の一部を針のように尖らせた。


 
 





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『新釈 氷点 2009 2』
 啓三は、ただ黙って机の上にあるものを見つめていた。それは彼の家族のポートレイトだった。自分と妻である夏枝、そして、二人の前に長女である薫子が立っている。そして、その前にはお客用の豪奢な椅子が置かれ ――――。
 その上には ―――――。
 次期城主の視線は写真の中の聖域に注がれていた。それは、現在の彼がけっして見てはならないものだった。何故ならば、彼じしんの精神の健康を非常に害する危険を内包していたからである。  しかし、何十キロも走ったランナーが水を求めるように、愛娘の顔を探しあてていた。

「ルリ子!!」

 根の国からわき起こってくるような嗚咽とともに、彼は愛娘の名前を呼んだ。写真に映っている元気な姿は、もうこの世の何処にも存在しない。変わり果てた姿になって骨壺に入っている。
 啓三は、嗚咽を抑えられなかった。
ソテツの群生が作る影に、まるで生ごみのように捨てられた我が娘。その姿を啓三は死んでも忘れられないだろう。
 それはあのパーティの日だった。
 犯人は簡単に逮捕された。
 
  佐石土雄

 啓三は、この世が終わろうともその名前を忘れないだろう。
 よもやあるまいと思うが、死刑以外は認められなかった。もしも国が殺してくれないなら、我が手で同じ目に合わせてやろう! そのためには裁判所に赴こう! そう誓ったはずだった。
 しかし、その憎き犯人は、まもなく留置場で首を吊って自死に至った。この手で殺すはずだったのに!!
 行き場を失った怒りは、今の今まで啓三の中で蜷局を巻いている。やがて、その毒牙を食い込ませる敵手を求めて、いつか鎌首を擡げるだろう。それを佐石のために温存していたのに。
いや、その目標は手短にいた。なんと、彼がこの世でもっとも愛しているはずの ―――女性だった。

――――あの時、夏枝はいったい、何をしていたのだ!!

「もしや、ルリ子が殺されたとき、あいつら、抱き合っていたんじゃ!!」
「・・・・・啓三?」
 春実が見た親友の顔は、かつて温厚で誰に愛される青年医師のそれではなかった。復讐の悪鬼と化した。
「ありえるかもね ――――」
 ルリ子の死亡時刻を考えてみれば、合ってはならないピースが嵌ってしまう。
 春実は、愛らしいルリ子がむさ苦しい浮浪者に陵辱され絞め殺される場面を思い浮かべた。そのとき、あの二人は不倫の愛に溺れていたのだ。
 常に冷静沈着な性格がウリの春実でさえ、その顔を直視することはできなかった。リノリウムの床をみつめながら、自分が火を扱ってはいけない場所でマッチを擦ったのだと危惧した。
 しかし、もう後戻りはできない。もう、行けるところまで突き進むまでだ。

「啓三、理解してくれたのね」
「ああ、善は急げだ! 安斎くん!」
 啓三は、秘書が入ってくる前に叫んでいた。
「これからのオペはキャンセルだ。他の先生を当たってくれ ―――」
「啓三!!」
 メラメラと燃え上がる炎を目の前に、春実は、何も出来ずに立ち尽くしていた。改めて、もう引き返せないのだと実感した。さきほど思い浮かべた地獄の映像を、思い出すことにした。そうしなければ、とても立っていられないと思ったからだ。

「辻口先生!!」
 秘書も、自分が何も言い出せないことを理解していた。温厚な上司の変容をただ絶望的な視線で見つめていた。そして、悲しみと怒りのない交ぜになった視線をその犯人に向けることでしか、自分を納得させられなかった。
 しかし、春実のほうではそんなことを忖度している余裕はない。
「私の車で ―――」
「ああ」
 白衣も脱がずに廊下へと駆け出す。
「先生!」
 甲高い男の声は谷崎のものだった。用を足していたのである。
「谷崎くん、車を回して、愛児院に向かうわよ」
 彼も、啓三のただならぬようすに肝を冷やしたようだ。口の中に異物を突っ込まれたような顔をすると、上司と青年医師を車に先導する羽目になった。
 谷崎は背後を見るのを恐れた。まともに医師の顔を見る勇気が自分にあるとは思えなかった。上司の顔を伺ってみたかったら、そうしたならば、悪鬼の顔も視界に入ってしまう。気弱な青年としてはそれは避けたかったのである。
 リノリウムの床は、どんな気分で靴音を3人に返してやったのだろう。どんな気分で見送ったのだろう。病院を象徴するような清潔の白は、ただ、沈黙を守っていた。

 さて、車に滑り込んだとき、啓三はまだ白衣を着ていた。
「啓三、白衣・・・・・」
「ああ ――」
 そんなことはどうでもいいとばかりに、白衣を車の背後に押し込む。任務を与えられなかったスピーカーは、文句を言いいたげにうなった。男の体臭が染み込んだ白衣など押しつけられたら迷惑だ。そう言わんばかりに見えた。
 エンジンは、そんな友人の不平など何処吹く風とばかりに、凶暴なうなり声をあげる。啓三は、それが犯人である佐石のいまわの際の声に思えた。
 実は、彼が死亡したとき、警察から連絡を受けていた。

「実は、遺書を残しているのですが、それが辻口さん宛でして ―――」
「結構です!!」
 ただ、その一言を以て、啓三は受話器を乱暴な手つきで投げづけた。
 何て、世間とは無神経なのだろうと思った。被害者の遺族がそんなものを知りたいなどと、誰が思うものか。ひたすら、思考はマイナスの方向に下った挙げ句、どうして、自分の娘は死んでしまったのに、他人の子供たちは呑気に笑っているのだろうなどと思うようになっていた。
 病院に産婦人科から聞こえてくる声や音。新生児の産声や、親たちの歓声。それらを聞く度に耳を塞ぎたくなった。妊婦を路上に放り出して、産婦人科を閉めたいとまで思った。たまに、流産や奇形児の出産を聞くと胸がすく思いだった。しかし、とうぜんのことながら、次の瞬間には全身を切り裂かれるような罪悪感に苛まれるのだが・・。
 今、それらをすべて解消してくれそうな気がした。

 愛児院に収容されているという佐石の娘。その子は二重の意味で啓三を救ってくれそうな気がした。
 自分を裏切った夏枝に対する復讐。
 そして、失ったルリ子の変わりとして。
 しかし、後者には問題があった。自分がその子を目の当たりにして、手を出さないという自信がなかった。少女が足にまとわりついてきたとたんに、その首を絞めてしまわないか。その衝動を自分で抑えきる自信がなかった。
 そんなことを考えながらも、車は山の中に入っていく。その愛児院の名前は啓三の耳に親しんでいるとはいえ、じっさいにその場所に行ったことはなかった。その辺の雑務は産婦人科以下、専門に行うセクターがあるし、啓三はそれに口を出したこともなかった。彼の父親である現院長などは、知人を会して容姿縁組みの世話をしたことがあるが、よもや、自分がそれにかかわるとは思わなかった。
 彼と夏枝には長女がいる上に、次女である、いや、だったルリ子も生まれて間もなかったからだ。

 それが ――――。

 啓三は、考えまいと思った。いま、車は急勾配な坂にぶつかったところだ。急に重力が身体にかかって、空が見えた。雲が太陽を隠そうと企んでいるところである。その木漏れ日が地上に差し込むと、それが天なる神から光が自分たちに分け与えられているようにも思えた。
 それは、何か意味があることなのだろうか。もしかして、預言ということはこういうことだろうか、あの光の帯を言語に変換する方法がこの世にはあるとでも言うのか。
 苦悩する啓三は、愛児院が視野に入るまで一言も言葉を発しなかった。

「そうだ、あの愛児院にはうちの産婦人科医が常駐しているはずだ」
「あんた、自分の病院のことなのに、そんなことも知らないの?」
 友人が落ち着いたのを確認するように言葉を紡ぐ。
「産婦人科のことは親父に任せているからな ――」
 ドアを開けながら山の気を吸い込む。とても呑気な場所だ。啓三は思った。ここ数日の苦悶が嘘のようである。もしかして、すべて嘘なのではないか。性格の悪い悪魔が魔法でもかけて、自分をたばかったのではないか。
 青年医師の中に多少なりとも残っていた希望の光か、あるいは妄執とでも表現すべきか、何れにしても、そのような部分が彼に一瞬の白昼夢を提供したことは事実である。
 さて、その建物は啓三を待ちかまえるように建っていた。

「キリスト教関係だったのか」
「そんなことも知らなかったの?」
 教会とキリスト教を象徴する記号を指さしながら言う啓三。今度は、あからさまな蔑視を向けながら、言葉の塊をボール代わりにして、啓三に投げつける。
「そんなことはどうでもいい。もう連絡はしてあるのか、春実」
「そうよ、その辺、抜かりはないわ。もう手配してあるから、父親のつてを利用してね」
「この院長とかかわりがあるのか」
「そうらしいわ」
 ハイヒールの音も軽やかに小石を飛ばす。先導する春実に駆け寄る啓三。運転主、件、秘書である谷崎は神妙な面持ちで背後に控えている。
 3人が通されたのは教会の説教部屋だった。キリスト教に関係ない者にとっては、単に教室を変形させたようにしか思えないだろう。あえて、両者の違いを指摘するならば、机がないということだろうか。

「ああ、お嬢さんかぁ、赤ちゃんのことははがきで知ったよ。その後どうかな? お父上は引退されたと聞いたが ―――」
「ええ、健在ですわ。それに父は、第二の人生に邁進中ですわ。白眉さん」
 春実は、隣に座っている院長を気遣いながら言う。ちなみに、啓三は春実の横に座っている。
「院長先生は、神父様と兼職なさっておられるのですか」
「そうじゃよ。イヤ、今はもう医療のほうには携わってはいないが、医師免許は健在じゃな。別に破いてすてる必要はないから、そのままにしておる」
「はぁ ―――」
 別にキリスト教徒ではないが、宗教的な権威には総じて弱い啓三は、このような人物と出会うと思わず恐縮してしまう。

「ああ、坊や、君も座りなさい」
「はぁ」
 豆鉄砲を喰らった鳩のような顔で、坊や呼ばわりされた谷崎は啓三の横に座る。これで四人が並んだわけだ。
 教会の窓を装飾するステンドグラスの主題は、『ドラゴンを退治する大天使ミカエル』である。この手の内装にはありがちな内容だが、愛児院という舞台には相応しくないような気がして、春実は笑いたくなった。啓三は、ただ畏れ入るだけでそんなことに思考が赴くはずはない。
 春実が口を開いた。

「白眉さん、赤ちゃんの件ですか」
「聞いているよ、そちらの旦那さんかい。引き取りたいと言われるのは。」
「はい、院長先生」
 畏まって啓三は答える。自分の名前からすべてを察しているだろう。それは覚悟の上である。
「どうしても引き取りたいと、彼女から伝え聞いておるが、このことを奥さんは知っておられるのだろうね」
 念を押すように言う。頭を見れば頭髪はほとんど残されていない。毛根はすでにその役割を完全に忘れ、数本の白髪が、枯れ木を思わせる。
 しかし、口調はしっかりしている。この話題に入ってから、まるで脂の乗り切った30代に戻ったようだ。その肌は湿度を増し、目の色も黒曜石のように光り出している。
「では、改めて問うがが、どうして彼女を引き取りたいと思われたのか」
 だが、啓三にしては寝耳に水だった。春実は、もう、ここまで話を進めていたというのか。自分が言い出したなどと。しかし、老翁の勢いは、啓三をして釈明せしめる意図を途絶させた。
「・・・・・・・・・・相手の、罪を許すのがキリスト教だと聞きます。私はクリスティアンではありませんが、  その教えには首肯せざるをえません。しかし、犯人が死亡したいま、私には許す対象がいないのです」
 啓三は、驚いていた。こんなに見事にいい訳が言の葉になるとは思ってもみなかった。まるで何者かが、自分の口を借りて捲し立てているかのように思えた。
「それで、その変わりにあの子をと?」
「え?」
 老翁が指さした先には。
 ドアが開く音とともに、出現した、それは。
 春実は声も出ないようだった。

 まるで何者かが予め書いた舞台のように、事態が進んでいく。啓三と春実は、それに巻き込まれていくことに驚きとともに畏怖を感じていた。
 そこには白衣の男性がいた。彼は、ひとりの乳幼児を抱いていた。まるで、赤ん坊のイエスを抱くマリアが出現したのかと、ここにいる全員に思わせた。
 何よりも、そのタイミングの良さが皆を圧倒させた。真っ白な光がこの乳幼児から放たれていた。啓三の頭の中は、もはや、その光にすべての感情が帳消しにされてしまった。怒りも、恨みも、悲しみも、そして、愛すら。それらすべてが光に溶かされ、いや、光と同化してしまった。
 啓三は、震える手を光の中心に据えた。


 それから、12年が経った。
 海の見える高台にその家は建っている。瀟洒な3階建ての建物は、よく教会と間違えられる。しかし、じっと見れば十字架がないことを知って、はじめて、それが普通の住宅だと認識する。もっとも、どう見ても普通のサラリーマンが一生かかっても建てられる家には見えない。
 それが当然だと誰の口にも言わせる事情がある。
 辻口啓三、言わずと知れた辻口医院の若き院長。長崎城主である。
 今、その豪華な玄関に口が開いた。

「言ってきまあす!お母さま! お父さま!」
 結婚式の花嫁が両親に告げるような声が朝の海に響く。しかし、その後に通じたのは、お通夜の挨拶だった。
「言ってきます」
「薫子、何ですか?朝からそんなに元気がないことで、どうします!?」
「陽子と一緒にしないでくれるかな?」
 走り寄ってきた女性は、目の前で我が子がトラックにはねられた母親のような顔をしている。薫子と呼ばれた少女は整った顔をくすませて言う。
「お母さま、大丈夫ですよ、薫子は元気です」
「お姉さまは朝がお悪いですからね ――」
 その笑顔はまるで太陽だ。薫子はクラクラする頭を掻いた。
「ねえ、聞くけど ―――」
「何ですか?」
 さらに光を増す太陽と、相当に大きいはずの自宅が人の頭ほどになっている ―――にもかかわらず、母親の、夏枝の送迎の声が響いている。
 それらのせいで、射殺処分を覚悟の上で、戦闘忌避を軍隊に申し込みたいところだったが、あえて、武器を手にすることにした。

「陽子、今って開明時代だったかしら?」
「何を言っておられるンですか? お姉さま、今の年号は大礼ですわ」
 きょとんとした顔で、妹は答える。姉が言った年号は、自分たちが産まれる前の、前の、年号だったはずだ。
「もういい、先を急ごう」
「お姉さま、どうなさったのですか?」
 姉に抱きつかんばかりの勢いで追いすがってくる妹から逃げられるはずはなかったのだ。
 気が付くと、彼女の右手は太陽によって喰われていた。

 一方、父親である啓三は娘たちの姿を微笑みながら眺めていた。きょうび、手を繋ぎながら登校する姉妹などお目に掛かれるものではない。
――開明時代か?
 啓三は車のキーを弄びながら海を吸った。 

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