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『由加里 84』

「え!?」
 由加里は耳を疑った。正確には、耳に入ってきた空気の振動に驚いたのである。目の前には、似鳥可南子の凶悪な顔がある。
 ジャガイモを彷彿とさせる、いちもつは、しかし、看護婦という表向きの身分に金メッキされて、偽物特有の浅い輝きを発している。
 せめてもの抵抗の意思を示すために何か言わねばならない。だが、口が自分のおもうとおりに動いてくれない。口の中が渇いてたまらなない。唾液は乾燥の上に乾燥にを重ねて、はては、粉になって歯間に侵入してくる。食べ物のカスとそこに棲まう得体の知れない病原菌のミイラが、歯茎にその汚らしい手足を突っ込んでくる。
 我慢しがたい吐き気に密かに苦しむ少女。

 江戸時代には、正座させた容疑者の膝の上に一枚づつ石の板を乗せていくという拷問が、あったらしい。
 現在、被虐のヒロインが置かれている状況は、まさに、それだと言って良いだろう。少女の柔らかく傷つきやすい大腿の上には、また一枚、拷問具が乗せられる。
 彼女の網膜に像を結んだのは、サディズムの脂に濡れた女の顔だった。
 悪魔が舌づりしている。
 可南子の脂ぎった舌と唇が淫猥な言葉を紡ぎ出す。少なくとも、被虐のヒロインの耳にはそう響いた。

「あなた方、看護の仕事って興味ない? 例え、興味なくてもいずれ、ご両親がいつそうならないとも限らないのよ、日本の高齢化は急激に進んでいることであるし」
悪魔の看護婦とて、自分が言っていることの滑稽さには、十分、気づいているのだ。しかしながら、この大人には、いま、自分が置かれている状況を最大限に愉しんでやろうという、ある種の余裕がある。
 そして、この少女にもその片鱗が見られた。

「でも、局所を、看護婦さんでもお医者さんでもない、第三者に見られるというのはたいへん辛いことだと思いますが・・・・・・」
 この台詞の主は、はるかでも、はたまた、貴子やミチルでもない、なんと、海崎照美、その人である。
 知性によっても、憎い相手を痛め付けられるということに、気付きはじめたということだろうか。局所などという言い方は、由加里のサクランボの羞恥心に穴を開けたことは想像に難くない。
 今、中から甘い、そして、筆舌に尽くしがたい哀しみに満ちた果実が零れようとしている。それらは、ぴちぴちと、若さというよりは、成長途上の初々しさを備えている。
「西宮さん、あなた、介護の仕事に就きたいって言っていたわよね」
―――――え?!
 ここまで来るとデタラメというのも、案外、芸術の域に達していると言える。可南子のぎらぎらした眼は、自分が天使であることを確信している ―――ように、由加里には見えた。一体、何が怖ろしいか。自分のことを客観視るできない狂信者ほど、他人を怖れさせかつ、気持ち悪くさせる存在も珍しい。
 可南子の爬虫類じみた双眸は、脂ぎった臭いさえ周囲に発し、自分の正当性をいやおうなしに主張している。

―――みんなはわからないの、この人のおぞましさが・・・・・・・。

 由加里は心の中で呻いたが、八つの瞳たちを見ていると、どうも小指の先ほどの同情も得られないことは容易に分かる。
 みんな、未知なるものへの好奇心に魂を奪われている。それもミチルや貴子までものが、その種の麻薬に理性を麻痺させられているではないか。
 しかし、照美やはるかはどうだろう。
 彼女たちは、自らの手で自分の恥部をさんざん弄んだではないか。それとも、病院、看護婦、そして、介護者、被介護者という関係がもたらす特殊な状況が、ふたりにも、麻薬を注入したとでも言うのだろうか。
 もはや、この白衣の天使はこの場の主導権を手にしている。四人を完全に、もしくは、そこまでいかなくても抵抗を表出させないくらいに、頭を押さえることに成功しているということは可能だ。

「どう? 西宮さん、将来そういう仕事に就くならば、介護される立場の気持を体感することも重要よ」
 理路整然とした言葉が、何枚もの舌が繰り出してくる。もっともらしいことを言うようだが、それはあくまで状況しだいということだろう。
 介護研修において、被介護の立場に立つことはあるが、由加里は研修生ではなく、この病院の入院患者なのである。そのことから、可南子が言っていることが破綻しているのは一目瞭然なのだが、四人の耳目はそちらには向かわない。
 ここに、一人の少女に筆舌に尽くしがたい羞恥を味合わせる、一種のプログラムが組まれたのである。
「ハイ・・・・・・・・・」
 小さく俯いた由加里の口から、その言葉を聞き取った人間は、この場に誰もいなかった。
「じゃ、はじめましょうか」
 可南子は残酷に言い放った。

 彼女の言葉に引き寄せられるように、四人が少女のベッドに集まる。
「・・・・・・・・・」
 由加里もまた麻薬に絡め取られていたと言ってもいい。少女の顔が恍惚に歪んでいることがそれを証左しているだろう。白衣の天使の非常識な言い方が心を揺さぶらなかったのである。あれほど知的な光を放っていた瞳にはにごりが発生し、今にも溶けてしまいそうだ。それに引きずられたのか、耳までが溶け落ちそうに黒ずんでいる。
 だが、それを醒めさせたのは、ふたりの少女だった。由加里がいちばん辛いとき ――――今でも、十二分に辛いのだが、彼女を慰めてくれたは誰と誰だったか。同級生たちはおろか、後輩たちにまで犬以下の扱いを受けるなか、 先輩に対する敬意を保っていてくれたのは誰と誰だったか。
 被虐のヒロインの視界がその二人を捉えたとき、彼女の目の光りが戻った。
「い、いや、ミチルちゃん、貴子ちゃん、お願いだから、見ないで!!」

――――あそこには!? いや、そんなのを見られるのは絶対にいや!!

 そして、思いだしたのは、性器に挿入された異物のことである。由加里の性器には照美によって、ゆで卵が詰め込まれているのだ。その姿を由加里やはるかには、ともかく、貴子やミチルに見られるわけにはいかない。そんなことになったら、もう、おしまいだ。学校で、自分を人間として扱ってくれる唯一の存在を失うことになる。
 

「赤ちゃんみたいに暴れないの!! ほら、手伝って!!」
「ヒイイ!! ぃぃやあぁぁぁ・・・・・・・アア!!」
 はるかと照美に両肩を固められては、もはや、身動きができるはずがない。

――あれ、こいつ、もう治ってやんの。
―――ほう、治ってるのね。

 二人は目敏く獲物の健康状態を見破っていた。両者の違うところは、それを素直に表に出すか否かのちがいであろう。
 照美は美貌を光らす。
「由加里ちゃん、もう、退院できるわね。親友として喜ばしいかぎりだわ」
 悪魔はここにもいた。
「ウウ・ウ・ウ・ウ?!」
 今更ながらに、自分をこの状態にまで貶めた存在を、思いおこさせた。
 白衣の天使が何故か悪魔に加勢する。
「あなたたち、心配しないでね。入院患者にはよくあることなのよ、拘禁反応、いわゆる、赤ちゃん返りよ、ほら、 暴れないの、足を広げなさい! 溲瓶が入れられないでしょう!?」
いつの間にか、透明なガラス容器を振り回しているではないか。
「いや ―――――――!!」
 知的な美少女の精一杯の非力な抵抗は、簡単にはねのけられてしまった。半身を覆っていた布が取り払われたのである。
 しかしながら、由加里は必死の抵抗を諦めなかった。城で言えば、一の丸を護るべく鉄壁の防御を発揮させたのである。
「グウ・・・・!」

 少女は綱引きの時のように、歯を食いしばった。涙が幾つも小川を造ったことにすら、紅潮した頬は気づかなかった。それは顎に向かってちょっとした滝まで流していたのに・・・・。
―――あら、あら、西宮ったら、がんばるわね。
 はるかは、この時まで獲物の下半身に起こったことを忘れていた。
 照美は、この時まで獲物の下半身に施したことを忘れていた。
 しかし ―――。
 広げられた大腿の中央に鎮座まします女性器は、微かに広がってはいたが、そのいちもつは、顔を出していなかった。
だが、愛液こと膣分泌液まで我慢することはできなかったようだ。まるで幼児が垂らす涎のように可愛らしい小川が、股間から流れていた。

「や、やめで、ください、先輩が可哀想です!」
 今更ながらに、由加里を庇いだしたのは貴子である。しかし、その声はかすれがちで説得力のないこと、この下ない。
「言い忘れたけど、西宮さんの尿道にま問題があるの、このまま尿意を我慢させたら、腎臓の病気になるわよ、そうしたら、一生人工透析の憂き目を見ることなるのよ!」
 被虐のヒロインを救ったのは、高島ミチルだった。
「その液が病気の証拠なんですか?!」
「いややややっやあああぁぁあっぁぁ!! ミチルちゃん!見ないで!見ないで!」
 自分が救われたとも知らずに、激しく号泣する由加里。だが、下半身の筋肉をいっときも緩めるわけにはいかない。
 なんといっても、彼女の膣内には照美の悪意が挿入されているのだ。同時に、それは彼女が淫乱な変態娘である証拠でもある。あくまで、この状況下においてはミチルや貴子に限定されるが、じゅうぶん、由加里にとってみれば有効な演出である。
「ぉ、お願いです、お願いですから、今は、許してください! ィィィ」
 由加里は力の限り叫んだ。
「わかったわ、後にしましょう。ほら泣かないで・・・」
「ウウ・ウ・ウ・・ウ・ウ・ウウ!!」
 まるで赤ちゃんをあやすように、少女の頭を撫でて股間を布で覆ってやる。だが、彼女の耳元にこう囁くことを忘れなかった。
 
――――ここの処理もしてくれるなんて、いいお友だちが学校にいるのね。

「・・・・・・・・!?」
 その言葉が持つ多義性に、少女は戦慄した。何重にも狡知で陰険な鉄の鎖に絡まれて、その意味は曖昧模糊の海に漂っていた。その鎖は錆びて赤銅色に腐りかけている。

――――それって性欲のこと? もしかして、私が学校でいじめられていること、知ってるの? まさか、似鳥さんから訊いているってことないわよね・・・・・・・・・・・・・。
 こんな時に『性欲』などと言う言葉が中学生の女の子の思惟に流れたのは、言うまでもなく、はるかによる調教の精華だろう。
 彼女によってもたされた性的な情報は、あきらかに、由加里という少女をある方向性へと成長を遂げさせていた。
 そのことが幼気な少女をどのような運命に導こうとしているのか、はるかや、照美はおろか、当の本人にすら理解できていない。
 ただ、この場の唯一の味方に救いを求めるだけである、息も絶え絶えな哀れな声で。
「ウ・・・ウ・ウ、ミチルちゃん、貴子ちゃん・・・・・・ウウ・ウ・・ウ・ウ」
 だが、この二人が消えるまでは、下半身の筋肉を緩めるわけにはいかない。居て欲しいという気持と、去ってほしいという不遜な思いが、瀕死の少女の脳裏に蠢いていた。
「ミチル、帰ろう・・・」
「うん ――――」

 貴子は敬愛しているはずの先輩に一瞥も与えずに、室外に消えようとした。一方、ミチルは無言で敬愛に満ちた視線を送ってきた。
 言うまでもなく、前者は性器が濡れている理由を知っている。そして、後者は知らない。その事実がもたらす効果について、知的すぎる少女が予想できないはずはなかった。
きっと、このような会話が成り立つにちがいない。
「ねえ、ミチル、西宮先輩って、変態なんじゃない。病院であんな恥ずかしいことできるんなんてさ ―――」
「あんなことって?」
「ミチル、先輩のアソコ、あんなになっていたじゃない!!」
 しかし、ミチルは金魚のような眼をむけるだけだ。
ここまでも、言うまでもなく、はるかによる調教の精華である。無意識のうちに小説を書いてしまっているのである。しかも、最悪のシナリオを、である。
それによると、ミチルは親友に、西宮由加里という先輩がいかに淫乱で変質的な女の子であるか、耳にタコができるくらい講釈されるのである。




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『新釈氷点2009 8』
 はたして、夜明けはまたやってきた。窓の外に顔を出しているのは、安価なインクでべた塗りしたような陳腐な太陽だ。
 なんと不快な朝か。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
 ――――来てしまった。朝なんて二度と来て欲しかったのに!
 寝具の上で長崎城婦人は我が頭を摑んだ。しばらくその姿勢のまま、あまりに冷酷な朝日を恨むしかなかったが、隣に城主が寝息を立てているのに気づくと、急いで姿勢を元に戻した。
 「う・・・・、どうした、夏枝、日曜日だと言うのに、こんな早く?」
「いえ、嫌な夢を見たものですから」
 夏枝はかぶりを降って、夫の視線を巻こうとした。
 しかし、短く別れの言葉を残すと、建造はすぐにもといた夢の世界へと舞い戻ってしまった。
「そうか ―――」
「まるで、私のことなどもう興味がないみたいに・・・・・・・・・」

 城主婦人は忌々しそうに、寝具からあぶれた夫の頭を睨みつけると、水面から飛び出るカワセミのように起きあがった。
 だが、カワセミは獲物を口にしているものだが、彼女は果報を何ら手に入れることはできなかった。ただ、気だるい朝という海にまた舞い戻ったたけである。

――――――――――――――――――。

 それに追い打ちを掛けたのは、部屋の外から聞こえる非常に聞き慣れた声だった。ラメ入りのピンク色リボンのような声が響いてくる。
「まあ、お姉さまったら、あははっ、陽子も欲しいです!」
「陽子! 朝ご飯中に遊ばないの、食べさせてよ!」
 言うまでもなく、薫子と陽子の声だ。また年甲斐もなく姉妹でふざけあっている。

――――姉妹なものか!
 
 普段では考えられないほど慌てた動きで、キッチンまで走り寄ると、いちおう息を整えてから中に入った。
「何をやってるの?」
 自分では呼吸を整えたつもりだったのだが、思うとおりにはいかなかったようだ。自分では気づかなかったが、よほど怖い顔をしていたのか、陽子は、怪訝そうな顔を向けてくる。一方、薫子は、まったく感情を乱していない。その違いが二人の性格の差異を如実に表しているのだが、そんな風に理性的な観測をしていられるような状態ではなかった。
 辻口家のお姫様は、姉の頭にとりついたまま、時間を止められたかのように凍りついてしまった。
 「お母様・・・・・・」
 言いつけを守らなかった子犬のような顔を向けた。それに苛立った夏枝は、いつにない声を荒げた。
「何をやってるのって、訊いているんだけど、お母さまは」

―――私ったら、お母さまだなんて・・・・私はもうこの子の母親じゃないのに!
 
 メロンの編み目よりも複雑な表情を上品な顔に乗せて、夏枝は密かに苦笑した。だが、陽子の顔を見たとたんに、真顔に戻ってしまった。
「お母さま・・・・・ご、ごめんなさい」
「どうしたのよ、ママ?」
 やっと、母親の異変に反応する気になったのか、薫子は口を開いた。彼女はけっして無神経ではない。ただ。神経が強いだけだ。だから、すべてにおいて知悉していながら、無知蒙昧の仮面を被って、わざと静観していただけなのである。
「いや、なんでもないわ、ちょっと、苛立っただけ、あなたたちも、小さい子供じゃないんだから、こんなところで遊ばないのよ」
 ごくありがちな言葉を残して母親は去っていった。

 母親に残された三女は、このままだと卒倒しそうなまでに、顔が青ざめていた。そして、母親よりも、もっと陳腐な感想を洩らした。
「お母様、どうなさったのかしら?」
「陽子?」
 
「ほら、落ち着きなさい、さ、座って。姉さまのパンケーキ食べていいから」
「・・・・・・・・・・お姉さま」
 改めてじっと見ると妹の顔は、憎らしいほどに愛らしい。こんなに辻口陽子という少女は人を惹き付ける魅力に満ちた子供だったろうか。
 辻口家の長女は、有無を言わさずにマホガニーの椅子に座らせると、やや冷たくなったパンケーキを切り分ける。そして、皿に盛ると妹の目の前に置いた。しかしながら、その手つきはあまりに上品だったために、妹は気づかなかったくらいだ。
「お姉さま、陽子は、お母さまに嫌われてしまったのですか?」
「何をバカなことを、これからママに問いただしにいくから、安心なさい」

 かつて観た英国は、ロンドンの蝋人形のように妹はそこにある。何世紀も前の人物が生きているように再現されているのだが、今の陽子はまさにそれと酷似している。

 ――――誰にも冷たくされないってある意味不幸かもね。それも、ママにこんな風にされるなんて・・・・。

 薫子は、心底、妹のことを思っているはずだった。少なくとも、そう思っていたかった。しかし、塩を掛けられた菜っ葉に、そこはかとない優越感を覚えていたのもまた事実である。それは自分ですら気づかないうちに、この少女の精神に根っこを生やしている、あるいは、まだ繁殖こそ始めていないものの、確実にその勢力を拡大すべく他国の領土に野心を燃やしていたことは確かな事実である。
「わかったわね、さあ、食べていなさい」
「わかりました、お姉さま・・・・・・・」
 気が乗らない陽子だったが、ようやくナイフとフォークに手を伸ばした。それを確認した、薫子は、自分が頼りになる姉だと自己満足に浸りながら、キッチンを後にした。
さて、母親は何処にいるだろう。寝室か、それとも、庭だろうか。薔薇の手入れをしているということは十分にありうるが、まだこんなに早い時間から、それも朝食を取らずにそんなことをしているとは思えない。
辻口家の長女は、逡巡の末、寝室に急行した。

「あれ、パパ、ママは何処?」
「おはよう、薫子」
 どうやら、この才女の予測は完全に的を外したようだ。母親は庭にいるということだろうか。
「夏枝はもう起きたのか、早いな、休日なのに ――」
「パパったら呑気なんだから、あれ、ママ、何処か具合がわるいの?」
 薫子の視線はベッドの隅にある薬袋に向かっていた。
 「利尿剤さ」
「え?ママ、腎臓が悪いの?」
 「いや、薬剤師のヤツがまちがえたんだよ、風邪薬とね」
 投げやりな手つきで袋を出窓に向けて投げつけた。薫子は何の気もなしにそれを眺めると、やがて注意の焦点から消し去って言った。
「ママは庭ね」
「そう思うよ、パパは、昨日まで立て続けて手術が三日さ。もうすこし、寝かせておくれよ」
 相手が薫子だと何の緊張もなしに、自分を出すことが出来る。それが我が家において貴重な存在であり、神棚にでも飾っておきたくなる人材である。彼じしん、その理由がなへんにあるのか、その答えを知らなかった。いや、知ろうしなかったのかもしれない。それは自分が営む家庭の平和を根底から揺らす主因になりかねないと予感した可能性もある。
 ともかくも、ねぶた眼で長女を見送った建造は、再び、罪のない寝息を立て始めた。
 それを確認することなく、娘は庭に向かって歩み出した。
 
 母親、陽子、利尿剤、複数のキーワードを並べてみるが、たいした答えを期待できそうにない。だが、自分の名前をその中に入れなかったのはどういうわけだろう。それは彼女らしくないミスというべきだろうが、いかに賢い人間でも足下のことは見えないということが人間の世界にはよくあることだろう。

――――私は、なんだか、仲間はずれにされているみたい。

 薫子が考えたことは、非常に幼稚な感想だった。だが、それを表に出さないぐらいの知性と理性を兼ねそろえていた。
 心配なことはある。このまま母親の前に立って、彼女にぶつけない自身があるだろうか。それが問題だったが、会わないわけにはいかない。
 居間を抜けて大きな戸を開くと、広い庭に面する。辻口家の庭には薔薇園が存在する。夏枝が丹精を込めて育ててきたものだ。ちなみに、三つにわけられている。薫子はその理由をうすうす知っていた。それぞれ、自分たち、3人の娘を模したものであろう。
 だが、ルリ子のことがあるから、娘たちにそのことを告げていなかった。もちろん、それは薫子の予測だが、ある時に、「ルリ子ちゃん」と言いながら水をやっていることがあったか、ほぼ確かなことだと見なしていた。
庭に出た薫子は、母親を見つけるのに一秒も係らなかった。ちょうどルリ子と呼ばれた薔薇ともうひとつの薔薇のまん中に居た。
 
「ママ・・・・・・・・・」
 娘の呼びかけに、夏枝は背中で応じた。黒いカーディガンに覆われた背中はいつもよりも華奢に見える。
「一体、どうしたって言うのよ。陽子に当たっても何にもならないでしょう?」
「・・・・・・・・・・」
「?」
 改めてふり返った夏枝に辻口家の長女は言葉を失った。その憔悴ぶりは目に余るほどだったのである。眼は落ち込み、心なしか皺も深くなっている。20代後半に見えるとさえ言われた美貌は何処に言ったというのだろうか。
「ママ ――――」
 返事の代わりに返ってきたのは、園芸用の鋏だった。それはずっしりと重かった。薫子は無視されることを別に悲しいとは思わなかった。だた、現在、辻口家が置かれている状況がある困難に直面している。その思いを強くしたが、その正体についていくら考えてみてもその答えは容易に出そうにない。

 一方、寝所に戻った夏枝はある紙袋を睨んでいた。朝日はすでに昼にバトンを渡そうとしている。
 リニョウザイと片仮名にその文字を読んでいた。そうでもしないと、夏枝の心は彼女が袋を持ち、睨んでいることを認めないだろう。

――――私は、いったい、何を考えているのだろう。何をしようとしているのだろう。

 そんな物憂いを止めさせたのは、瓶が転がるような音だった。部屋の外から聞こえてきた音だったが、その主が誰のものなのか直感的にわかった。

―――――陽子!

「誰です?!そこにいるのは!!」
「ぁ・・・・」

 ドアを開けると、はたして、そこには辻口陽子が小さな口を限界まで開けて立っていた。その大きな双眸からは涙が光っていた。
「・・・・・・・・・・」
 彼女の足下には花瓶が転がっており、床に水玉ができていた。それは、陽子の涙のように思えた。
「あ、ご、ごめんなさい。お母さま・・・・・」
 急いで花瓶を持ち上げようとする陽子。そんな娘に声をかけた。
「あなたは何か用があったんじゃないの」
「え。だから、花瓶をお持ちしようと・・・・玄関に、綺麗なお花が咲いておりましたので・・・」
とても綺麗な声だった。小さいころから耳に親しんできたものだ。だが、それは夏枝にはない属性だった。
思えば、自分の声には子供のころからコンプレクスを感じて、友人に綺麗な声の子がいると意地悪をしたくなったものだ。
「そう、ありがとう、床は私が拭いておくから」

―――私?

 敏感な陽子はそれを感じ取った。自分にたいして、自分のことを「お母さまは」と呼ぶはずだ。それが「私」とは ――――。このとき、夏枝はほくそ笑んだ。陽子にそれを感じさせることを計算して言ったのである。しかし、同時に不快な感情だった。決して、それを後悔とは呼びたくない。しかし、それに近い感覚であることは確かである。
「・・・・・・・・」
 言葉を失った陽子は、今にも泣きそうな顔を晒している。

――――陽子!

 夏枝は彼女を抱き締めたい衝動にかられた。

――――自分はこの子を確かに愛しているのだ。

 圧倒的な濃い紫の感情に包まれながら、長崎城主の正室はそう思わざるを得なかった。だから、次の台詞が口から零れた。
「お母さまがちゃんとしておくから」
「で、でも、お母さま、具合が悪そうでしたから ・・・・・・」
「死んじゃうとでも思ったの?」
「そ、そんな・・・・・・」
 陽子は絶句せざるをえなかった。そんなことは、彼女の予定に全くなかったからだ。だから、母親が持っている袋に何が書かれているのか ―――そんなことにはまったく気づかずに、それが自分に対してもたらす重大性になど考えが及ぶはずがなかった。
 




 

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『おしっこ少女 3』


 「・・・・・・・・・・!?」
 気がつくとスクリーンセイバーが陳腐な3D迷路を造っていた。その時、聞き慣れた陰険な声がした。言わずと知れたカメレオンの声だろう。晴海は颯爽とした顔を作らねばならない。
「きみは見所があるんだ。ただ机上の勉強が得意な連中とはひと味もふた味も違うと思っている ――――」
 この両生類と爬虫類の合いの子のような上司が、自分を持ち上げるようなことを言うときには、いつもろくなことが起きない。きっと、その外見に違わない陰険なことを企てているにちがいない。そして、そのおはちが回るのはいつも自分なのだ。
 彼が言うところの『日本の敵』に関する講釈を聴きながら、どうして、あの少女のことが気になってたまらないのだろう。
 あの少女。
 言うまでもなく、佐竹まひるのことである。

 PCに詳しい庁内の友人に頼んで、情報を集めてもらっている。
 当然のことながら、日本は警察国家ではないので、唯一の例外を除いて、晴海たち公安に健全な市民のプライバシーを侵害する権利はない。
 だから、庁内のPC犯罪に詳しい人間に協力を頼んであるのだ。蛇の道は蛇というが、犯罪者を追いかける人間にはその手の技術が必須ということである。
 むろん、まひるの名前は伏せてある。たったひとりの少女の動向をさぐるために、そんなことを同僚に頼めるはずがない。
 口実はいくらでも捏造できる。
 先ほど言った唯一の例外が関係しているのである。

 それは、冷戦が終わって日本唯一の革新政党となった日本革命党のことである。
 ソ連などという代物が世界から消滅して20年。どうせ少数野党であり、日本の政治にほとんど影響力は皆無といっていいのだから、特別天然記念物にでも認定すればいいと晴海などは思う。しかし、公安の老人たちはそうは思っていないようである。
 戦後、一貫して彼らを敵視し監視してきた。当時は必要だったのかもしれないが、冷戦が終わった今、そんなことにどうして国民が供出した貴重な税金を浪費しなければならないのか。CIAやMI6と言った真性のスパイ組織のマネゴトもたいがいにしてほしいと思う、このごろである。
 もっとも、そういう背景があるからこそ晴海の動向を探ることも可能なのでは、あるが・・・・。
 ともかく、今、将来の警察官僚が気にしているのは、佐竹まひるという小娘のことである。同僚からの情報提供とともに、自らも汗を流さなくてはならない。
 彼女の生徒手帳には盗聴器を仕掛けてあるから、逐次、その情報は伝わってくる。
 自宅があるマンションには受信機と録音機が常設され、常時、彼女が学校でどんな目にあっているのか音声として記録している。

 それを仕事場にまで持ち込まないのは、彼女なりの配慮だが、無意識のうちに、泥沼に入り込むことへの危惧が隠されているのかもしれない。

 昼になって食堂でカレー南蛮に箸を突っ込んでいたとき、その男が話しかけてきた。
「麻木さん」
「ああ、加納くん」
 彼は、大学の同窓である。
「短い時間だけど、かなり情報が得られたよ、結論から言うと革命党と対象者の関係は薄いと見るべきだね。だけど、娘さんの学校のことまで事細かく調べるなんて、常軌を逸してやいないかね」
「私もそう思うわ」
 USBを受け取りながら、晴海は自嘲する。
「革命党に対する敵視ってほとんど警察の人間のDNAだからね」
 加納は豚の生姜焼き定食が乗ったトレイを置きながら言った。
「しかし、お兄さんの逆嫁ぎ先はまさに円満な家庭と言うべきじゃないか」
「逆嫁ぎ先? おかしな言い方ね」
「まあね、こんな仕事をしていると独創性を発揮するようなことはなくなるしね、こんなことで欲望を満足されないとやってられないよ」
 実は、ふたりは文学関係の同人をやっていたのである。晴海も、まさかロマンティストとして有名だった彼が、警察に入庁するとか考えなかったものである。
 
 加納は言葉を続ける。
「対象者たる、父親は銀行でそれなりの地位を気づいてるし、仕事関係を当たってみたが、ほとんど文句なした。それに、母親は主婦として近所の評判も上々だ。子供たちも同様だ。まことに理想的な80年代の聖家族と言うべきだろう。そのUSBにすべて入っている」
「ごくろうさん」

―――いつもの通り、情報の処理は頼むよ。
 
 それはUSBごと破壊してくれという意味だが、この部屋で聞かれる人の囁き声や足音、それだけではなく、建物の外から聞こえる車の音、それらと加納の声を同じようにもはや見なしていた。蛇足だが、窓の外に見える山や木を我が物と見るのに借景という言葉があるが借音という言い方はあるのだろうか。
 いずれにしろ、晴海にはBGM程度の価値すらなかった。今はノートパソコン上に浮かぶまひるの顔にしか興味がない。
「へえ、生徒会長やってるんだ、それで、いじめって ――――」 
 加納が提供した情報には、まひるの『友人』たちの情報も克明に書かれている。
 安藤ばなな、各務腹静恵、門崎はなえ、岡島静子、飯倉かのえ。この五人は例の少女たちだろうか。報告では、いじめのことには言及していない。当たり前のことである。潜入捜査くらいしなければ、最低でも尾行ていどのことに手をつけねば、そんな生の情報は入ってこないだろう。

 
 学校、あるいは学園という言葉からどんなイメージを受けるだろうか。外部からの目や耳を避けるように設えられた厚い壁は、生徒たちを守るというよりは、むしろ隔離し、特別な空間を造るためにあると言って良い。
そこには一種の治外法権が存在する。日本国でありながら、日本国の法律が必ずしも適用されない。
 生徒は社会的に言って、特権階級でありながら、一方ではそれゆえに傷ついても何も言えない状況に陥ることがある。加害者も被害者も特権を持っている以上、両者を裁くことは社会が持つ権利の埒外にあるのだ。
特にいじめなどという現象はまさに、その骨頂と言うべきだろう。
 私立望声学園は小中高一貫した教育を行っている。厚い壁と鉄条網に守られた空間は、見ようによっては、アウシュビッツ強制収容所を彷彿とさせないこともない。
 表面的には華やかで健やかなお嬢様学校という顔の影でいったい何が行われているのか。
 巨大で厚い壁は外部の者がそれを伺うことを一見不可能にみえる。

 現在、学園は昼休みの最中だ。生徒たちはめいめいの時間を過ごし、勉強で疲れた脳を休めるべくレクリエーションに勤しんでいる。
 ある少女は読書という手段を選んでいた。
 晴海が見えない食指を伸ばしているとも知らず、佐竹まひるは教室の片隅で文庫本を開いていた。
 そこに、複数の女生徒が近づこうとしている。3人は、しかし、かつて、晴海が目撃したような、列車内でまひるを取り囲んでいた少女たちとは違う。

「ねえ、生徒会長 ・・・・・」
 一人の少女が前に出た。しかしながら、まひるは何処吹く風と活字に没頭している。少なくとも、そのフリをしている。
「生徒会長、佐竹さん!頼むから!」
 我慢できずに、感情を爆発させたのはもうひとりの少女である。
「ふん、何か分からないけど、それが人に物を、いや、生徒会長に接する態度かしら?」
 明かに人を見下した色を美貌に乗せるまひる。こんなとき切れ長の瞳と相まって、純日本的な美少女は圧倒的な冷酷さを発揮する。しかしながら、その態度は、常に背後に注意を払ってのことであると、3人の少女たちは気づいていない。
 まひるは、それを打ち消そうとさらに冷酷な声を綺麗な唇から吐き出す。
「ねえ、外崎さん、あなたはこのクラスの一員よね、だけど、そこの二人は別のクラスでしょう。それなのに、どうして、ここに入ってきているの?! それだけでも、生徒会長に謁見する態度とは言い難いわね」

 即座に、教室に残っている生徒たちの視線がまひるに集まる。そのどれもが一言では表現しにくい憎しみと羨望、そして、軽蔑のいじり混じった複雑な感情に満ちていた。ただ、正しいのは、どれをとっても好意的な性格からはほど遠いということだ。誰もが、このまひるという生徒にマイナスの感情を抱いている。しかし、だからと言って手を出すことはできない。彼女は、それを裏付けるバックボーンがあるようだった。
 女生徒会長は、そんなことまったく意に介さずに、さらに畳み掛ける。
「そんな基本的なことを守らない人と話しはできないわね」
「ま、待って、佐竹さん、お、お願いですから!」
「わた、私たちは外に出ていますから! お願いです、私たちの部活を潰さないでください」
 その一言で、美少女の顔の一部だが反応したことに、誰も気づかない。しかし、安藤ばななは知っていた。まひるの背後で、蛇が蜷局を巻くように足を組んでいる。各務腹以下、四人の少女も一緒にいる。
「部活を潰す。何処の部活だっけ?」  
「そんな、何度も頼んでいる、いますのに・・・・」

 一人、残った少女は打って変わって、態度を一変させて、話し方まで丁寧語を交ぜている。
「外崎さん、あいにくと、あまりにも重要じゃない案件みたいね。記憶に残っていないわ」
「・・・・・・・・・・・」
 その瞬間、クラス中の敵意がまひるに集まった。だが、再び活字の世界に没頭するクラスメートに、どんな影響力も及ぼすことができない。今までの経験からかそのことを悟った少女たちは、ひそひそと同好の士と囁くことで自分たちのストレスを解消しようとした。
 しかし、外崎と呼ばれた少女が示す態度は、このクラスがまひるに示す敵意を燃え上がらせることになるだろう。
「お、お願い、まひるちゃん! 一体、どうしたの? 何で、変わっちゃったの?」 
「・・・・・・・・」
 顔を真っ赤にして泣きじゃくり始めた少女を見ることなく、本という殻に籠もることを続ける。
 そんな態度に、クラスメートのひとりが立ち上がった。
「ちょっと、佐竹!」
「止めなよ!」
 しかし、別のクラスメートが彼女を止めた。その時、まひるの形の良い切れ長の瞳が光った。
 そこには安藤ばななの落ち着き払った顔があった。

「・・・・・文芸部・・・」
 たしかに、彼女はそう言ったのだ。何を言おうとしているのか、明々白々だった。
 まひるが、やおら、立ち上がると自分を呼び捨てにした少女を睨みつける。一連の動作は全く無駄がなく、颯爽としていたから、あたかも彼女の上に正義があるかのように錯覚させた。

――――あの女にみなぎる自信って何?と誰もが殺意に似た悪意を心の何処かに含ませたが、誰もそれを行動に出せ
る人間はすぐには出なかった。しかしながら、数秒が経ったと思われる後に、ある生徒が立ち上がって言った。
「ちょっと、生徒会長に対して失礼じゃない?!」
「そうよ、あんたたち、何様のつもり?!」
 まひるは、無言の内に彼女たちを制すると言葉の刃をクラスメートに向かって指し示した。

「組島さん、あなた文芸部だったわね、弱小の ――。たしか、まだ今月の会報見てないけど?」
「ま、まさか、だって、いいって言ったじゃない!?」
「そう? 記憶にないわね ――――」
 何をしても刑罰を受けないという前提があって、しかも手短に凶器があったとして、その顔を見せられても、凶行に出ないと強弁できる人間がどのくらいいるだろうか。氷のような美貌をいくらか傾けると、黒なのに淡い藍色に輝く二つの目がキツネのように光っていた。そして、形の良い唇は、自分こそが優位で正しいと無言で主張している。

「ウウ・ウ・・ウウウ、生徒会長、し、失礼をわびます ―――」
「よろしい、さきほどの失礼は忘れてあげましょう、あなたの殊勝な態度は十二分に考慮に値します」
 おおよそ、言葉とは力を持つという『意味論』の議論を完全に否定するような台詞が、教室に舞った。しかし、悪意と嘲笑に満ちた言い方に比して、その声は美しくまるでオペラ歌手のように朗々としている。
 クラスのほぼ全員がこの美しい顔を引き裂き、その声を制するために舌を引っこ抜いてやりたいという衝動に駆られていた。
 だが、その中で安藤だけは、一瞬だけだが、意味ありげな微笑を浮かべた。しかし、友人の視線に気づくと、すぐに頬を堅くする。
 言うまでもなく演技である。それは、まひると似ていたが、この世に似ていて非なるものなどいくらでもある。
 前者と後者では、あきらかに演技という面において、中学一年生と大学受験生の英語力ぐらいの差が見受けられた。
 その証拠に、演技の不備を他人に見透かされるようなミスは犯していない。
 あくまで表面的にはクラス中から漂ってくる悪意をものともせずに、飄々としたようすを醸し出している。そんな彼女に箔をつける存在が、いや、そんな価値などない。せいぜいで、虎の威をかる狐の類だが、さきほど、女生徒会長を擁護した生徒が集まってきた。

 まるで水戸黄門の周囲に集まるカクサンやスケサンや風車の類のように、少女たちは主人の威厳を擁護する言葉を周囲にまき散らしながら、クラスメートの悪意と敵意をより刺激するような真似をしている。
その中心でまひるは苦笑しながら、密かに彼女たちを軽蔑する視線と言葉を飲み込むと、おもむろに立ち上がった。
「おい、逃げるのかよ!」
「ちょっと、会長に向かってその態度は何よ!」
 部活に直接関係ない人間は、無遠慮に反抗してくる。彼女の取り巻きが口を出したせいで緊張の糸が緩んだのか、クラスメートたちのストレスは出口を見つけたようだ。
 しかし ――――。
「私が特別に与えられた権限は知っているわよね」
「・・・・・・・・・・・・・!?」
 鶴の一声が教室中に木霊した。
「私はあなたたちみたいに暇じゃないのよ」
 肩まで綺麗に伸びた髪を仙女めいた手つきで払いながら、教室を後にした。

「あれ、何様よ!」
「本当に変わっちゃったよね」
「いや、違うわよ! 元々、あいつはああいうヤツだったのよ! 気がつかなかった私たちはバカだったのね」
 そう言った生徒はいちばん最後に教室を後にした取り巻きの一人を睨みつけながら言った。まるでゴルフボールを思いっきり投げつけるよう仕草だった。まさに「虎の威をかる狐」めというわけである。
だが、クラスメートたちはあることに気づいていなかった。
 安藤ばなな以下四人が同時に教室から居なくなっていたのである。

 一方、佐竹まひるは生徒会室に直行しなかった。二階の渡り廊下に差し掛かったところで、いきなり背後を振り向いた。
「先に行って、私は用があるから」
「・・・・・・・・・・」
 まひるは配下の答えはおろか、反応すら見ずに階下へと降りていく。
「どうなさったのかしら」
「最近、つれないわねえ」
 一段下りるたびに、その表情が変化していったことに、彼女たちは、決して知ることはないだろう。そして、その肩が、まるで封建時代の貴族のお嬢様かトップモデルのそれのように颯爽として全く揺れなかった肩が、ぷるぷると揺れだしたことに気づくことはない。中学生なのに10歳は大人びた顔が、幼稚園児に赤ちゃん返りしたことなど予想だにしないだろう。
「・・・・・・・・・」
 僅かに唇を噛んだ。だが、全く痛みを覚えるはずがない。何しろ、全身至る所に無数の切り傷を負っているのだ。
 そして、半地下一階に辿り着いたとき、つい、20秒前に存在した女生徒会長は、この世の何処にもいなかった。
「・・・・・・・・・・・・」
 この沈黙は彼女にとって地獄である。

――――もしかしたら、何かあったのかしら?

 一瞬の休息。
 例え一瞬であろうとも、それは、少女に安心を保証することはない。その苦痛は否応なしに彼女を捕らえるだろう。
 それが早いか遅いかのちがいにすぎない。小さな子供が嫌いなものから先に口にするように、苦痛は先回しにしたほうがいいのである。
「あ、安藤さん、来ていらっしゃるのですか?」
 さきほど彼女に対して使っていた敬語を、今度は闇に対して使う羽目になっている。
「ふふ、ようこそ、生徒会長サマ」
「あ、安藤さん・・・・・」
 彼女たちは別に隠れていたわけではない。まひるの目が闇に慣れてきたのである。
 この狭い、建築家の気まぐれで設計されたような空間は、獲物を招き寄せるのに十分な条件を備えている。
 一年で一度、そう、文化祭で使うような自家製のトーテムポールや体育祭で使う旗やらが雑に積み重ねられている。わざわざ隠れようとしなくても、外から観るといくつもの死角が造られてしまう。だから、突然、ここに入ってきた人間からすると、あたかも待ちかまえているように思えるのである。

 獲物からすれば恐るべき視覚効果を受けることになる。恐怖の上乗りというわけである。
 古代の蔓植物のようにうなだれた美少女を安藤以下、四人の少女たちが取り囲む。できるだけ五人の視線から逃れようとするが、女生徒会長の身長は166センチもある。中学二年生女子の平均身長が157センチだから、その背の高さが想像できるだろう。ちなみに、五人の中でもっとも背が高いのは安藤で、164センチである。
 その他はどんぐりの背比べで150センチ前後を超えたり足らなかったりする。一番、低い飯倉かのえは136センチで小学四年生並である。
 だから、見ようによっては取り囲むというよりは、まとわりついていると言った方が適当かもしれない。
だが、両者の目つきや表情をよく見れば、どちらが主で従なのか、一目瞭然である。

「あ、安藤さん、お、お願いですから」
「あら、天下の生徒会長サマが私ごときにお願いですか? ふふっ」
 安藤に従って四人それぞれの笑声が、美少女の柔らかな耳たぶをからかう。
「で、お願いって何かしら?」
「綾ちゃ、外崎さんたちの部活を潰すようなことをしないでください」
「あれ? 潰すのはあなたじゃなかった?」
 場末のコメディアンのような笑いを浮かべて言う。わざと声を高くするのが、相手を傷付ける壺である。
「綾ちゃん、本当に、書道が好きだから、いえ、ですから、小学校のころから本気でしたし ・・・・・・・・」
「綾ちゃん、まるで友だちみたいな言い方ね、向こうはあなたのこと、そんな風に見てないようだけど?」
「・・・・・・・?!」
「あんたさ ――――」
 まひるの肩ほどの背もないかのえが、安藤の前に出て言う。美少女の弁慶の泣き所に蹴りつけながら、罵声を浴びせかける。
「外崎さん、あんたのこと大嫌いなんだよ! わかってるの?あんたなんかに友だちよばわりされたら、可哀想よ」
足の痛みから逃げるために背後に逃げようとすると、そこに門崎はなえが待ちかまえていた。
「ねえ、わかってるの!?どれほどあんたがみんなに嫌われているか?」

―――嫌われている。

 聞けば聞くほどいやな言葉だ。しかも、それが真実だとすると、なおのこと心に突き刺さる。
 はなえは太い腕をまひるの華奢な肩と首に巻き付ける。まるでアナコンダがインパラのような草食動物に絡んでいるようだ。かたちのいいうなじにかかる生臭い息は、少女の気品すら無条件に帳消しにしてしまいそうだ。
「はなえ、ほどほどにしておきなよ。柔道部の腕で絞めたら簡単に、こんな細い首なんてへし折っちゃうよ」
 全く心配のそぶりのない同情は、悪意の自乗に等しい。まひるは、肩と首を重量級の圧力を受けるだけでなく、精神まで押し潰されようとしていた。
「お、お願いですから、私は、どうなってもいい・・・・・ゴホゴホ」
 女生徒会長は最後まで言葉を続けることができなかった。柔道部の乱暴娘の腕が、力余って危ない線を越えてしまったからである。

 床に両手をついて、激しく咳き込むまひる。そんな美少女の背中にはなえが飛び乗ったのである。まるで父親にまとわりつく幼女のように見えた。思わず、安藤は苦笑しそうになったが、友人へと配慮もあって、すんでの所で留まった。
「ねえ、まひるちゃん、それはあなた次第よ」
「・・・・・・・・・」
 涙で濡れた美貌を思わず安藤に向ける。自分にたいする呼び方が変わったことに注目しているようだ。
「もう、わかっているわよね、私たちが何を求めているか」
「・・・・・・・・・?」
 涙が造る水晶の軌跡を見ると、少女の容貌がいかに整っているかがわかる。安藤はそれに苛立ったのか、言葉を荒げた。
「いいかげんにしな! 外崎の部活を守りたいなら、その代価を体で払ってもらおうって言ってるんだよ!!」
 安藤の両手がまひるに摑みかかったと思った瞬間、綺麗な卵型の顔が激しく揺れる。いい加減にじれったくなったようだ。だが、感情が造り出す波が激しく横揺れしようとも、代価なとという言葉が、ぽっと出てくるぶん、彼女の知性のレベルがわかるというものだ。まひるはボロボロにされて、おもちゃにされながらもそんなことを考えていた。
 やがて、大震災が終わると、いじめっ子の足が目の前にあった。余震とそれから来る嘔吐に悩まされる美少女に残酷な言い渡しが為された。

 一寸前とは打って変わって柔らかな表情と母性愛に満ちた言葉が宙を舞う。
「今度の日曜日、開けておいてね。今回は東横線よ。それまで健康でいてもらわないとね、かわいいまひるちゃん」
 リーダーの両手に挟まれても、まひるの美しい卵は少しもその美を崩そうとしない。しかしながら、その薄い殻の中では、やわらかく傷つきやすい黄身と白身が涙の海に漂っていた。
 まひるが自失呆然の状態に陥ったのに満足したのだろうか。
 リーダーは、はなえを嗜めながら、その場を後にしようとした。このきかん坊は、さよならの蹴りを美少女のみぞおちにくれてやろうとしていたのである。
「早くしないと塾に遅れるわよ」
 まるで母親みたいなことを言いながら、心はもはやここにはなく、東横線の電車内にあった。だから、目を離した隙に末娘が腕をすり抜けてしまったことに気づかなかった。
 すぐに、「きゃん」と草食動物めいた鳴き声を耳にすることになる。
「仕方ないな、すぐに楽しめるんだから、ほら、はなちゃん!!」
「ふふ、学校にもママがいていいねえ、はなは」
「ふふふ」
 そのやり取りを見ているかぎり頬笑ましい中学生にしか見えないだろう。すばらしい友人関係を享受し、青春時代を謳歌している以外のどのような情景に見えるというのだろう。
「・・・・・・・・・・」
 女生徒会長は真っ白になった頭で、今、自分が置かれた状況と彼女たちの様子を同時に考察してみようとした。
 
 しかし ――――。
 答えはまったくでなかった。
 代わりに出てきた文字列は、 ――。
 アサギハルミサン。
 どうして、こんな時のあの人のことが思い浮かぶのだろう。自分が流す涙の海に溺死しながら美少女は当て所もない思考の旅に出かけていた。それは、何百年も思考に思考をかさねながらついに解決できなかった哲学的な問いに似ている。
 その時、当の麻木晴海は取り調べられている容疑者を、マジックミラーごしに睨んでいた。その目つきは、まひるが想像しようもない怖ろしい、『鷹の目』と言われる犯罪者が怖れる警官の目だった。
だが、そんな慧眼でも、今、このとき、まひるがどんなことを呻いたのか、透視できようはずがなかった。
「ハルミオ姉サマ」
 確かに、美少女の小さな口はそう言ったのだが。

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『おしっこ少女 2』

「ウグウウ・・っ!」
 唇を離すと、ふいに、佐竹まひるは軟体動物のようになった。麻木晴海はその手で如実に感じ取っていた。
 しかし、次の瞬間、凍りつくような光を感じた。それを知ってほくそ笑むと、再び、少女を抱こうとした。
 その時 ―――。
 少女が取った態度は、晴海の期待をはるかに超えていた。それは彼女がかなりの上物であることを暗に示していた。
「ナ・・・・・・!?」
 咄嗟に、自分の身体を長身の女性警官から引き離すと、個室のドアに背中を打ち付けてしまった。だが、そんな痛みなど少女にとってみればアヒルの毛で肌を撫でられたに等しい。むしろ、その刺激は少女の怒りを買うことになった。

「・・・・・・・・・!!」
 歯ぎしりしながら晴海を睨みつける少女の姿は、成長途上の雌ライオンを思わせた。しかも手負いだ。
 晴海は満足だった。どんなにひどい状況に置かれていようとも、簡単になびいてこられてはゲンメツというものだ。
「どうしたの? まひるちゃん」
「あ、あなたにそんな風に呼ばれたくない」

―――強がりとは可愛いことで・・・・・。

 晴海は微風を頬に感じた。
 だが、年の功という言葉は伊達に存在するわけではない。2000年のもの間、この邦の先輩たちが切磋琢磨して育ててきた日本語は、単なる記号ではなく、それだけで力を持つ時代と空間を超えた一物なのだ。
 晴海の華麗な口から飛び出した台詞は、少女の立っている土地を根こそぎばらばらにする力を持っていた。

「じゃあ、聞くけど、あなたをそんな風に呼んでくれる人はこの世にいるのかしら?」
「クぅ・・・・・・?!」
 シンメトリーは古来よりヨーロッパ人の審美の基礎と呼ばれる。蛇足だが、ヴェルサイユ宮殿などはその建物だけではなく、庭園などもその法則に叶っている。おそらく、西洋で言う風水のようなものだったのであろう。蛇に3本目の足を描くが、家康が造った江戸という町はまさに風水の産物である。四方を玄武などの神が護っている。
 閑話休題(それはさておき)
 もしも、ヨーロッパ人がこの時のまひるの顔を見たら、さぞかし嘲笑するだろう。その美はかなりいいところまでいっていたにも係わらず、右と左では相反する表情を見せていたからである。
 
 前者は、愛に飢えた幼児の顔、そして、後者はこの世でもっとも憎むべき相手、すなわち、自分のプライドを傷付けた人間に対する憎しみと殺意に満ちた表情を見せていた。
 晴海は、ヨーロッパ人でも、かの世界の芸術を継承する人間でもない、だから、彼らの審美感を愚直に守る必要性はなかった。むしろ、それを破壊する方向にベクトルが働いた。

――――可愛らしい。

 13歳の少女を目の前にして、簡単に感情を露出するなぞ、晴海が描く自画像からかなり外れる。だが、彼女が醸し出すかわいらしさは、彼女の理性を脅かすような要素に満ちていた。しかし、ここは理性を総動員して声の動揺を抑えることには成功した、辛うじて。
「これ、忘れていたわよ、まひるちゃん」
 晴海が差し出したのは一枚の手帖である。合成樹脂の皮が鈍い光を放つ。
言わずと知れた、生徒手帳と呼び習わされた冊子である。
「・・・・・・・・・・・・・・!?」

――――いつの間に、と言いたげに切れ長の瞳を限界まで開いて、晴海を睨み続ける。それは上品な外見に似つかわしくない乱暴な手つきだった。

 こうして、佐竹まひるという人間がこの世に存在することを示すIDは、本来の持ち主に戻った。少女にとって、中学校はまさに世界そのものなのである。
 その重さを晴海は理解していない。取り戻した生徒手帳を大事そうに抱きながらも、涙を流すその姿に不審そうな目つきを向けるだけである。
 さらに涙に濡れる睫を見て、その長いことに審美眼を満足させている始末である。

――――これからのた愉しみだ、などと罰当たりなことを考えている。

「もっと、話してたいけれど、互いにそういうわけにはいかないようね。ま、いいわ。そうだ、携帯を出しなさい」
「・・・・・・・・・・・・ハイ」
 有無を言わせぬ警官の一睨みに顔面に、ナイフを突き刺されると、少女は視線を床に走らせた。
「お高い、お嬢様顔もかわいいけれど。その顔も可愛らしくていいわよ、普通の女の子みたいでね」
「・・・みたいじゃなくて、私は普通の女の子です!!」

――――じゃあ、休日に友だちと映画見に行ったり、雑誌で有名になったアイスを食べたりするんだ、とは、晴海はあえて言わなかった。この悪魔の尖った耳は、まさにそう言いたげにピクピクと動いていたが、どうにか、理性を保ったようである。
「そうね、普通のお嬢さんね ――――これでいいわ、あとで連絡待ってるから」
 互いに番号を交わし合うと個室のドアを開けた。

 微粒子レベルの刺激にすらビクビクと反応する姿は、晴海はサディズムの悦びとごく微量のシステマティクな同情を感じていた。一同の視線を一身の浴びるその姿はまさにそんな形容が相応しい。しかしながら、それを読み取っていたのは、おそらく、この女性警官だけである。避難と同情が微妙に混在した視線に晒されても、毅然とした態度を曲げないその姿からは、具合が悪いのに必死に体裁を守っている気丈なお嬢さんとしか、レッテルを貼れないのだろう。
 そんなまひるに背後からチクチクと見えない針を刺すのは、晴海である。これからどうやってこの獲物を平らげようか。ちょうど、鯛焼きを頭から食べるか尻から食べるか悩む子供のように、少女のほっそりとした肢体を上から下まで舐めるような視線を送っている。
 この時、中学生の少女が怖れていたのは、たった一つの視線、晴海のそれだったにちがいない。
 獲物を睨みつける肉食獣の視線は、紙を燃やそうとする炎の呼吸に等しい。少しでも触れたらいっしゅんで灰になってしまう。だからこそ自分を滅ぼすものに鋭敏に成らざるを得ない。
 
 少女は猛禽の爪に狙われていることに気づいている。そして、すこしでも触れられたらいっしゅんで炎上してしまうことも知っている。猛禽は同時に炎から蘇る不死鳥でもあるのだ。
 しかしながら、それがわかっていてももはやどうしようもない。上空に輝く銀色の凶器に気づいても、なお、無駄な努力とわかっていながら草原をおたおたと翔る兔のように、ただ死と消滅の恐怖から逃亡すること選択せざるをえないのだ。

 食事会は続いていたが、仕事先からの連絡によって晴海は失礼せざるをえなくなった。このまま逃げまどう兔を観察したいという内心の望みを隠しながら、颯爽と個室を後にした。
そのとき、別れ際に見せた氷の微笑をまひるは一生忘れることはできないだろう。母親に囁かれるであろう言葉とともに、少女の中にあるアカーシックレコードに刻まれるにちがいない。
「具合悪いなら言いなさい。先方にも、お姉さんにも迷惑がかかるでしょう?」
「ごめんなさい、お母さん」
 その会話は会が終わりになったさいに、ふとした折に為されたのだが、それは晴海によって聞かれていた。

 仕事先に向かう車の中で、イヤーフォンを嵌めた晴海が受信機を弄っていた。信号が赤に変わって乳母車を押す幸せそうな母親を視界に収めたところで、その会話が耳に入ってきたのである。
 いや、入ってきたなどという自動詞的な表現は、この際、偽善というべきだろう。
 実は小型盗聴器をまひるの生徒手帳に仕掛けておいたのである。その送信機は言わば犬の首輪と同義である。そして、見えない無線は鉄の鎖ということができるだろう。その二つの道具によって、佐竹まひるという少女を縛るのである。
 しかも、彼女にはそうされているという意識はない。だからこそ、自然なデータを晴海は得ることができる。彼女の胸は高まった。だが、この鋭敏な女スパイがそのことにすら気づいていなかった。まるで女優のように、自分の精神と肉体を選別し、かつ、自由にコントロールする術を身につけた彼女が自分の胸にぽっかりと空いた孔に気づかなかった。そして、無意識のうちにそれを埋めるために、佐竹まひるという少女を求めている、あるいは利用していることにも気づいていなかった。

 これからきっと上司であるカメレオンと体面(たいめ)することになるのであろう。そして、提出したデータの信憑性についてあれこれ言われるにちがいない。そのつど、晴海は白旗を上げるやら、あるいは自分が正しいのならば根拠を示さねばならない。
 まひるは、そのようなストレスから解放してくれる道具の役割を果たしてくれると思った。言うなれば、男性にとってのダッチワイフのようなものを求めていたのかもしれない。

 6尺棒と呼ばれる一種の武器を携帯する同僚に敬礼しながら、晴海は警視庁の庁舎内に呑みこまれていく。同時にオーラーの分泌を最低限に抑えなくてはならない。なんと言っても公安という特殊な部署に配属されたのも、彼女のそうした特殊能力に寄るところが題なのだ。彼女の上司はこう言っていた。
「お前は、美人だから本来ならば公安に向かないと思ったが、出会ってみて考えが変わった。どうやら美人とは外見だけのことではないらしい」
 カメレオンは、誰が見てもピンヒールで踏みつけたくなるような老獪な笑いを立てていた。
 職員たちは、どの顔を見ても峻厳な顔をしており、日本国内とは思えない緊張感に満ちている。
 シャーペンをカチカチする音やパソコンの老猫の悲鳴に似た音は、部下を叱りつける声と相まって、ここを戦争の最前線を指揮する大本営と化している。

――――これから戦争でも起こるのか? ここは本当に日本か。

 まるでアメリカ人のように、彼らは敵を必要としている。もしも、それがいないなれば、スパイを使嗾してでも敵を捏造する。
 あの真剣な目つきは敵のいないところに敵を造り出す。言葉を換えれば、ゲームソフトのクリエイターと似ているかもしれない。
 公安とクリエイター。
 両者の間に乖離があるとすれば、扱っているものがフィクションであるという自覚のあるなしに限定されるのかもしれない。
 すると、彼女がまひるに見定めているものは何なのだろう。

 晴海はディスプレイを睨みつける。ちなみに、カメレオンは上司と話し合いの最中ということだ。
 無機質で非人間的なデーターの乱舞の向こう側に、何か、それと反する属性が見えた。
 有機質でごく人間的な ――――。
 それは卵型をしていた。
 すぐに人の顔の原型であることがわかった。

―――私は、コンピュータグラフィックスの技師でもないし、ゲームソフトのクリエイターでもないんだけど・・・・、
 
 うん?
 彼女は ―――。
 彼女は、ふり返った。

――――佐竹まひる?!

 少女は、無機質なonとoffの砂浜で液晶の海を眺めていた。その目はとても哀しそうに見えた、

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『マザーエルザの物語・終章 34』


 井上順。
 言わずと知れた帰化画家である。かつては画家を目指した予備校講師が、いちどならず憧れた対象でもある。ちょうど彼は孫弟子に当たる。だから、直接見知っているわけではないが、その画業の精神をあるていどは受け就いているとは思っているのだ。

―――どうですか?

 そうは言わなかったが、たまたま知人に紹介された少女は、無言でそう語っているように見えた。早く、何事かコメントせねばならない。だが、適切な言葉が頭に浮かばない。 
 単に、頭が良いだけではなく、非常にセンスが光る少女である。いい加減なことを言ったら、すぐにばれてしまうだろう。ここは本当のことを言わねばならない。
 さすがに、自分の娘よりも年下に言う台詞ではなかったが、覚悟を決めることにした。

「赤木さん、もはや、私の手にあまるようだ、他の先生のところに行かないか」
「じゃあ、もう芸大に受かるレベルに達したということですか?」
「いや、そういう意味じゃないんだ」
 かぶりを振りながら言葉を吐く。
「ねえ、この人の絵どう思う?」
 困った視線を部屋中に照射しているうちに、止まったのが井上順の作品だった。同時に、啓子とあおいに目もそれに向かう。
「・・・・・・・・・・・」

「ブーゲンビリアみたい」
 あおいの感想は講師の理解を超えていた。
「ブーゲンビリアって」
 しかし、機先を制したのは画家志望の少女だった。
「沖縄によく咲いている花よ、そんなに華やかには見えないけど、この人」
「どんな感じに見える?」
 あおいの言葉によって、何か絆されるところがあったのか、啓子は感想を述べ始めた。
「何で、こんなに年を食っているのかしら」
「それは年齢よりも年取ってみえるということかい」
 講師は顎を撫でながら訊いた。
「そうかもしれない、この時、もっと若かったはずなのに・・・・・・・」

―――若かった?
 
 まるで見てきたような言い方に、講師は驚きを隠せなかった。何か、彼女を中心として、あるいは恒星として、一個の恒星系を構成しているように思えた。
 この静謐な部屋そのものが、一個の世界を為している。あるいは、ここだけに世界が存在するようにすら思える。
「だってさ ―――」
 あおいが即座にラメ色の声を出した。
 
――――いや、違う、この部屋には二つの太陽がある。

 すなわち、恒星系は恒星系でも、それは多重星系であり、それは二つの太陽があり、小さい方が大きい方を回る。
この場合は、啓子を中心としてあおいが回っているように見えた。どちらにしろ、この部屋の操縦権はこの二人の少女によって握られている。
 そのことだけは確かに思えた。あきらかに二人は講師の目にはまぶしい。こんな幼い少女たちに、まばゆい光を感じるのは何故か。
 とりわけて、彼はペドファイルということではなく、あるいは、子供をモティーフとする芸術家でもなかった。それなのに、目の前の二人の少女はやけ魅力的に見える。
 彼女らは何やら語り合っている。だが、その具体的な声は聞こえてこない。なんて非現実的な光景だろう。これは幻影なのだろうか。講師の理性がそう主張しはじめた。しかしながら、彼の別の人格がそれに反対意見を述べる。

―――お前たちは何者なんだ。やはり、あの人に頼むしかない。

 講師は心に筆で文字を書くと声を張り上げた。
「ちょっと、赤木さん、聞いてくれる?」
「なんですか?」
 まるでオペラのリハーサル中に音楽を止められた女優のように、不満という文字を顔いっぱいに書いた。
「井上明宏という画家を知っているかな、この画家の弟子にあたる人だけど、彼は私の師匠にあたるんだ」
 領土を奪われないうちに一気に文字を書き終えた。
「どうして、そんな人を紹介なさるんですか」
「言ったろう、私の手に余ると」
 いつもながら年齢を超越した言い方に戸惑う。この少女と話していると彼女が小学生であることを忘れてしまう。
 井上順を直接知っている彼ならば、よく御してくれるだろう。

「ここに住所があるから言ってごらん、先生には私から連絡しておくから」
「アトリエを開いておられるんですか、そんな画家が私みたいな小娘を相手にしてくださるのでしょうか」
「そのスケッチブックを持っていけばね、それに弟子である私が口添えをしておくから」

 あおいは1人取り残されたような気がした。二人の会話にとてもついて行けなかったのである。
 例え、移り気の多い性格の彼女でなくても、同い年くらいの子供ならば、ひどい退屈のために酸欠に陥ってしまうことだろう。
 彼女の場合、自分のあられもない姿を描いた絵が講師に見られないように注意を払ったいために、飽きが来るのに時間がかかったという特殊なケースにすぎない。もしも、そういう事由がなければ、とっくに居眠りくらいはじめていたかもしれない。
 しかし、そんなのんびりした少女の時間を風船を割るようにして引き裂いたのは、携帯の着信音だった。その名前が網膜の像を結んだとき、さーと血の気が引く音がした。
 ママという2文字が少女の心臓に鉄杭を打った。それが少女にとって過去になってしまった牧歌的な時間を思い起こさせるために、筆舌に尽くしがたい淋しさをも同時に感じるのだった。

「はい ・・・・」
 場所柄もわきまえずに携帯に舌を伸ばすのは、あおいが啓子とは違う証左であろう。後者ならば、一言断ってから少し離れてから対話を始めるにちがいない。
 しかしながら、友人にそのようなふるまいができないのは、生来の性格が由来しているのであろう ――――ごく最近までそのような見方をしてきた啓子だが、かつては見せなかった青ざめた表情で母親を話す彼女を見ていると、自分の考えを改めてなくてはいけないと思った。

 講師はごく常識的なことを言って、この場の幕を降ろそうとした。
「そろそろ、二人とも時間だから帰ったらどうかな、おうちの人も心配するだろうし ―――」
 啓子は、講師の意図を正確に読んでいたが、あえて、それに乗ることにした。あおいの態度の豹変が気になったし、彼女じしん、井上明宏という画家に興味を持ったからだ。
 母親たちに井上順展を身に連れて行ってもらったことが、その判断に寄与していた。あれから、画集などで彼の絵に親しんできたが、確かに、他の画家からは感じられない何かを感じていた。

―――ただ、ひたすら一人の女性だけを書き続けていた画家か。

 その絵にデジャブーに似た感覚を得ていた。

―――作者は、彼女が好きだっただけじゃない。きっと、憎んでいる。自分に対してやった仕打ちが許せないんだ。 え?この感情は・・・!?

  画家志望の少女は背後を見た。壁を頼るにようにして頼りなく歩くあおいがいた。
「はやくしなよ、おばさん怒るよ!」
 ビクッっと、親友は肩を強ばらせた。まるで傷に塩を塗られたかのような反応だ。何故か、そんな姿を見ても、同情らしき思いは浮かんでこない。むしろ、敵意や恨みに似た感情がわき起こった。
 彼女の華奢な手首を摑むと身体を引きずり始めた。

「はやくしなさいよ!!」
「い、痛い!! 啓子ちゃ・・・・・う」
 肩を抜かれると思った。ときおり見せる親友の強引さは何を意味するのだろう。あおいは頼もしさよりもむしろ恐怖を感じることがおおい。
「どうしたのよ、啓子ちゃん、痛いよ!」
 気がつくと、黄昏にやられたイチョウが一斉に見下ろしていた。
「早く、帰らないとまずいんだろう」
「大丈夫よ、いじめられたりしないから ――」
「いじめ?」
 啓子は目を見張った。あおいは自分が何を口走ったのかも忘れて、自分の右腕の心配を続けている。
「痛いったら、いいかげんしてよ!!」
「・・・・・・・・」
 腕を払われた啓子はあおいの剣幕に、さきほどの台詞と相まって、驚きを隠せなくなった。
「ちょっと、なんで黙っているのよ!」
「行こう ――」
 まるで生まれてからの記憶をすべて失ったかのように、啓子はオレンジ色に染まった街に足を踏み入れる。
「ねえ、啓子ちゃん」
「・・・・・・・・・」
 あやうく赤信号に気づかないところだった。車に轢かれそうになった啓子をすんでのところで救ったのはあおいだった。
「気をつけてよ、危ないじゃない。いつもならうるさく言うのは啓子ちゃんなのに、どうしたって言うのよ!?」
「あおい」
「?」
 よほどのことがあっても、自分を呼び捨てにすることはなかった。魂を高層マンションとイチョウに奪われてしまったとでも言うのだろうか。

「どうしたの? 啓子ちゃん? 気持ち悪いよ」
「気持ち悪い? 私が気持ち悪いの?」
 ちょうど、逆ギレされる結果になったあおいは、面食らったようすで画家志望の少女を観察しはじめた。はじめて見る対象に近づくために、まずすべきことは、この他動詞につきる。目の前の少女との邂逅は、あおいにとってまさに初体験と表記すべき現象だったのである。
 啓子が何をはじめるのか、固唾を呑んで待つことにした。はたして、親友は驚くべきことを言い始めた。
「あおいは啓子のことを嫌いなんだ!」
「・・・・・・・・・・・・・!?」
 いくら脳内検索を行っても、親友の幼児じみた言いように対して沈黙するだけだ。言葉が見付からないのだ。

 そもそも、彼女が自分のことを『啓子』などと呼んだ記憶がない。そのようなことははしたないことだと、彼女の母親が言っているのを聞いたことがある。当時、あおいにもそのような癖があって窘められたのである。実母に何度叱られても治すことができなかった悪癖が、鶴の一声で改善されてしまったわけだ。
「答えてよ、嫌いなの?」
「そんなことないよ、好きだよ・・・・・・・」
 そんな答えでは納得できないようで、さらに畳み掛けてくる。
「じゃあ、愛していないの?」
「あいして?」
  その一言は、あおいにとって存在すら知らない外国語のように聞こえた。漱石が I love you. を「ああ、星が綺麗だね」と訳したらしいが、きっとそのような心持ちだったのだろう。
 咄嗟にはその意味を計りかねた。
「愛していないんだ?」
「・・・・・・・・・・・・・」
 彼女の真珠のような唇から迸った言葉は、あおいの脳内の酸素を水素に入れ替えることに成功していた。
「じゃあ、キスしてよ」
 そして、啓子は点火したマッチを親友の頭に持っていったのである。




テーマ:官能小説 - ジャンル:アダルト

『由加里 83』

「由加里ちゃん、可哀想に・・・・・・・!?」
 母親がまるで身も世もない哀しみに打ち拉がれる愛娘を抱くような仕草で、照美は、由加里を抱き締めた。
 彼女の美しい顔が涙にくれるいじめられっ子の上にある。獲物の肉の温度を顎で感じながら、彼女は、内面と外面を完全に切り離した。
 感情を完全にコントロールする。
 この種の技術は、女優に欠くべからざる能力である。ただ、当の本人は今、自分が行っていることがどのような技能につながる才能なのか想像することすらしない。ただ、この世で最も忌んで憎むべき存在に対して、致命的な打撃を与えるべく行動しているだけである。
 しかし、はるかはそれを完全に見抜いていた。

 一方、由加里は、涙にくれていながら、どうして、袖が濡れているのかその理由すら忘れてしまっている。
 涙は、時に記憶を溶かし人格すら忘却の河に流してしまうという。しかしながら、いじめっ子たちが流そうとしているのは、そんな高級な場所ではなくて単なる水洗トイレにすぎない。
 自分の中に溜まりきったストレスごと始末してしまおうと企んでいるのである。ただし、その過程は薄い硫酸で死体を溶かすように、ゆっくりと苦痛を長くして、その姿を見ることにサディステックな快感を得ようともしているのである。
 自分の身体の上で腹を空かせた猛禽がその爪を研いでいることにも気づかずに、いや、気づいているのかもしれないが、子猫はせめて楽しい夢を見ていたかったのである。自分の頭を撫でているのが、血に濡れた爪でなくて、母親の優しい手であることを祈った。それは単に自己欺瞞によって現実を歪曲したにすぎない。
「ウウ・ウ・ウ・ウ・ウ・ウ・・・うう?!」
 嗚咽を張り上げながら、由加里は照美の胸に納まっていた。とうぜんのことながら、柔らかい母の感触とは完全に異なる。熟す前の果実の硬さは、我が子を抱くことは出来ない。よもや、由加里は娘ではないのだから、そのように涙に濡れる心を温めることはありえないにちがいない。
 そんなことは、当の由加里にも理解できていた。
 
 この不思議な感覚は何だろう。喉には得体の知れない物質が絡み、ひっきりなしに悪い感情が口と鼻をすーすーと行き来する。それらは口と鼻を覆うような酸味に満ちた刺激臭と異常な熱を帯びており、嗚咽に拍車を掛ける。そんな精神の危機とでも言うべき状況にもかかわらず、いや、だからこそかもしれないが、自分が潜り込んでいる真っ暗な空間に、擬似的な母性を感じたのである。

―――――照美さん・・・・・・・。

 空気を振動しない声で、由加里は叫んでいた。
 自分をここまで貶めた張本人である彼女に、そのような感情を抱くなどと、自分は一体何を考えているのだろう。
狂おしい嗚咽の下で、かすかに残った理性を働かせながら、由加里は自答自問を繰り返していたが、狂った経営者が行う自転車商法と同じで、一行に解決に導かれないどころか、悪化していくだけだった。
「・・・・・・・・・・・・・・」

 一方、ミチルと貴子は、照美と由加里という二人の女優が織りなす演技に、引き込まれて微動だにできなくなってしまっている。
 人間はそれほど長く緊張が続くことに耐えることが出来ない。だから、出口を求める。泥沼から渇いた大地に足を踏み入れるためにも、何でもいいから口を動かして人語を発することを望んだのである。
「・・・・・・・?」
 都合のいいことに、ミチルはノートを見つけた。それは病室の隅にあるテーブルにのっていた。勉強用と思われる筆記用具やノートパソコンも置いてある。ちなみに、それは、はるかの所有物だが、キーワードをインプットしなければ起動させることができない。
 もちろん、由加里はそれを知っているが、これまでの経緯からそれを報せるとは、とうてい思えなかった。確かに、希望的観測も多分に含まれている。
 もしも、由加里の口からバラされるとするならば、新たな展開もありそうだ。
 はるかは、何故か、自分が小説の登場人物であって、ある物語を構成する要員の一人にすぎないような気がした。ならば、とくと、クリエイターとやらの創造行為を愉しんでやろうではないか。
 最近、身につけた自嘲癖を発揮していた。


「西宮先輩、この人誰ですか?」
「ウウ・ウウ・ウ・ゆららちゃん・・・・ウウ・ウ」
 幼児のように、嗚咽の合間に言葉を滑り込ませる。
「鈴木さん?」
「・・・・・・」
 照美は、しれっと聞いた。きょとんとした顔からは、あたかも、彼女が何も知らないようにしか見えない。
 無言の圧力が由加里に台詞の朗唱を要求する。
「ウウ・ウ・・ウ・。さい、最近、友だちになった、なった・・ウウ・・・・ウ子なの・・・・ウ・・ウ」
「先輩、クラスに友だちができたんですか?」
 貴子が遠慮なしに聞く。そんなところがまだ子供だとはるかには思えてならない。
ミチルは、ノートをぱらぱら捲る。たまたま、歴史のノートだったために、まだ一年生にすぎなかった彼女にも内容が理解することができた。これが数学や英語だったらそうはいかないだろう。

「これって、授業の内容ですよね、鈴木さんてとてもマメな先輩なんですね」
「うん、とてもわかりやすいんだよ・・・・・」
 喘息の発作が止まるように、いつの間にか、嗚咽は止まっていた。
自分にも友だちができたという誇らしげな思いに、自分が包まれていることに気づかない。あるいは、たががそんなことを誇らしいと思う自分が情けないとも思える。
「あー」
 その時、由加里は怖ろしい事実に気づいた。もしも、照美とはるかに知られたら、やっと友だちになりかけている 鈴木ゆららに、どんな祟りがあるかと思うと気が気でなくなったのである。
「て、照美さん ―――――」
「だめよ、照ちゃんでしょう?」
 あたかも本当の親友のように、病身の少女を見つめる照美。

――――そんな目で見られたら・・・・・・・・・。

 由加里は、ほそっと視線を反らした。天使が咲かせた薔薇のように美しく華やかな照美の視線に晒されると、思わず言葉を失ってしまったのである。
「ゆ、ゆららちゃ、じゃなくて、鈴木さんは、たまたま来ただけで、と、友だちっていうわけじゃなく・・・・・」
 不治の病に冒された身内を看病するような仕草で、ミチルは、尊敬する先輩を労る。
「西宮先輩?」
 背後で、ほくそ笑んでいるのは言うまでもなく、鋳崎はるかである。この長身のアスリートは、事態を睥睨することに喜びを感じている。由加里とはまた別の意味で、虚構を構成する才能に目覚めつつあると言っていい。
 だが、互いにそれを認め合っているわけではない。また、分かり合おうと努力しているわけでもない。
 いじめる側といじめられる側という主従関係にあって、二人は異なる立場から共通の目的を編んでいる。
そして、ミチルと貴子は由加里側に立っていながら、事態を正確に摑んでいないのである。奇妙にして、複雑な空間はその複雑の度を深めている。迷宮の奥へと迷いこんでいく。
 今も、人知れず、猛禽の爪は獲物の肉を喰んでいる。

 美少女のピアニストの指は、艶やかな音楽を奏でるべく、少女の局所を弄んでいるのだ。ミチルと貴子は、由加里が泣き続けているとばかり思っている。
 一方、類い希な知性を持った少女は、信頼する後輩の前で、性的な陵辱を受けていることを、あるいは官能を感じていることすら、人間としての尊厳を冒されているように思えてならないのである。
「あ・ア・ア・・・ウウ」
「どうしたの? 先輩、苦しいんですか? 私、看護婦さん呼んできます、貴子、行こう」
「ぁ、ミチルちゃん、大丈夫だから・・・ぅあ!?」
 その時、名ピアニストの指に力が帯びた。
――――可愛い従姉妹をその名前で呼ぶことは、照美にとって許しべからざる罪だったのである。
 陰核を直接つまみ上げられた由加里は、「キョン」という小動物の鳴き声をあげてオルガズムに達した。
 もっとも、その時、ミチルと貴子は置き手紙を置いて、室外の人になっていた。
「本当に、おかしいですよ、私たち、看護婦さん、連れてきますからね」

 はるかは、「言っておいで」と涼しく見送ったが、ドアが閉まると心おきなくいじめっ子の牙を剥く。
 自分のことは棚に上げておきながらこう言うのだ。
「名演技だね、まったく、ふふ」
 はるかの低い笑いは由加里にとっては、死に神のそれよりも恐怖だった。何故ならば、後者だったら、どんな怖ろしい境遇が待っていようとも、黄泉の世界へと誘ってくれるだろうから、例え、その後、何が待っていようとも、一瞬だけならば安眠が訪れるだろう。
だが、かつて、彼女に言われた言葉が耳のなかで木霊する。
「おまえは、絶対に死ねないさ」
 まったく根拠のないはずの言葉が、由加里の身体に侵入してきたとき、それは異様な説得力を備えていた。
そのことによって、死という由加里にとってみれば唯一の希望がくすんでしまったのである。
 由加里にとって、照美やはるかと同居する教室ほど怖ろしい世界は存在しない。
「もう許してクダサイ・・・・・・はあ、はあ・・ウ」
何度言っても言い慣れない言い回し。小さな唇や舌が、滑らかに動くことを拒否する。
「見てゴラン、由加里ちゃん。ふふ」
「ひい、いや・・・・・・」
 被虐少女は反射的に目を瞑った。
「よく見なさいよ!」
「あぐう!!」
 突然、墜ちてきたはるかの大きな手によって顎を乱暴につかまれ、片方の手で目をひんむかれた。
 
 無理矢理開かれた可愛らしい双眸が捉えたものは ―――――。
「ウ・ウ・・ウ・ウ・ウ・ウウウ!?」
 由加里の目の前には照美の上品な指が開かれていた。しかし、指と指の間には、まるでカエルのようにカサが出来ている。よく見るとそれは粘液が糸を引いているのだった。
 照美たちに言われなくても、自ずとその正体は明々白々である。今まで、彼女たちに
 さんざんいじめ抜かれた経験が、事態の理解を早くさせた。すなわち、自分がふたりの奴隷にすぎないという自己認識が、堂に入った証左である。
 既に、西宮由加里は自らの身体に奴隷の刻印を押していたのである。真っ赤に焼けた鉄の印章を自分の胸に、自らの意思によって焼き傷を負わせたのである。自分の肉が焼ける臭いとはいったい、どのようなものなのだろうか。おそらく、それは白旗を自ら挙げる行為だったにちがいない。その臭いによって、自らの奴隷性を理性ではなくて、本能によって悟ったのであろう。
 しかしながら、それは羞恥心を忘れたということを意味しない。

「ィいやアッァァアあ」
 激しくいやいやをする由加里。はるかと照美は、畳み掛けるように加虐のことばを投げつける。
「あなたは信頼する後輩の前で、イったのよ! なんて、いやらしい雌犬かしら?」
先ほどとは打って変わった照美の美貌は演技という仮面を脱いでいた。
「あの二人がこんな姿を知ったら、当然、愛想を尽かすにちがいないわ! この変態!!」
「いうああ、いやあああぁぁぁぁ!! 痛い!ぁぁぁぁぁぁ!!」
 由加里は顔を摑まれながら叫んだ。幼いころ見たSF映画にヒトデのようなエイリアンが登場したが、それに顔を席巻されてしまったかのようだ。彼女の記憶の中では、その衛リアンは、被害者に張り付いたまま産卵管を喉の奥へと挿入するのだった。そのあとには、気持ち悪くなって泣き出してしまったから、よく覚えていない。
 忘れたい記憶ほど消え去ってくれない。いま、知的な少女は急流を遡っている。得体の知れない悪魔のようなエイリアンから逃げるために、命を掛けている。もう少しで崖に上がることができる。
 もう少し ―――――。
 しかし、だめだった。あと一歩というところで、エイリアンに足首を摑まれてしまった。
ふと、振り向くと敵の正体は、この世のものとは思えない美少女だった。

 涙でどろどろになった由加里の顔を吹きながら照美は言った。
「すぐに看護婦さんが来るけどわかっているわね」
「はい ―――」
 江戸時代の仕掛け人形がそこにあった。
 それを見ると照美は、は満足そうに整った頬を緩める。
「何がわかったのかしら?」
「か、海崎さまに、従うことです・・・」
 これは完全なアドリブのはずだった。由加里は完全に自分の首輪についている鎖を照美に預けたというのだろうか。
「うううウウウウウウ・・・ウウ?!」
 しかし、事実はそうではないようだ。悔しそうに泣きそぼる被虐のヒロインから立ちのぼるオーラからは、絶対的服従という文字は読み取れない。
「ふふ・・かわいい」
 不敵な笑みを浮かべたのは、はるかである。
「そうじゃなかったらこちらもおもしろくない。せめて、楽しませてもらおうか、女優さん、西宮の存在価値なんてそこにしかないんだから」
 男子のそれを思わせる大きな両手で、由加里の前髪をかきわけ額を露出させると、自らの顔を接近させて言った。 淡々と語られる台詞の一語一語はある意味、照美よりも迫力があって怖ろしい。

――――けが人に、ふたりしてこんなことをしてるなんて、端から見たらどんな悪人に見えるのだろうな。

 別に端から見なくても、十二分に悪人の名にふさわしいのだろうが、将来を嘱望されたアスリートは、自分たちの行為を第三者的に眺めながら、自嘲した。これはあきらかに照美にはない属性である。
 水が流れる音がしたと思ったら、照美が手を洗っていた。
「よーく落とさないとね、由加里ちゃんの汚い汁で汚れちゃったわ、ほっとくと、手に染み込んで腐っちゃいそう。 あ、そうだわ。そろそろ、ミチルたち来るかな」
「そうだな」
 美少女の罵倒に耳を塞ぎながらも、心が霜を落とすように涙を流し続ける由加里をなが目ながら、はるかは心がここにあるか無きかの返事をする。
「はるか、どうしたのよ」
「何でもない、ほら、由加里ちゃん、女優の顔に戻り、それから、ふふ」
「何よ」
「 ―――」
「照ちゃんもな」
「な、何よ、ウドの大木!!」
 
 顔を真っ赤にして照美は怒り出した。その怒りの余勢をかって、タオルをはるか目掛けて投げつけた。
「あははは、そんな、お嬢様投げでぶつかると思うか?」
しかしながら、さすがはアスリートの卵よろしく、ひょいっと、子憎いばかりの見事な動きで避けて見せた。
だが、つい一秒前まではるかが占めていた容積を、ある別の人物が代わりに割って入ったのである。
 ――――――――――――――――――――――。
 そのためにあらぬ目標にぶつかってしまった。
「あ、看護婦さん」
 なんと、白い服に直撃したのである。ドアがたまたま、開き、タオルは似鳥可南子の顔に軽い衝撃を与えた。
ところが、ある少女に与えた衝撃はそれどころではなかった。
「ヒ!?」
「何ですか? 病室は遊び場ではありませんよ」
 大根を彷彿とさせる容貌は、照美とはるかにある種のデジャブーを与えた。しかしながら、彼女が醸し出す異様な 存在感は、彼女らの追求の手を緩めさせた。

―――何だろう、この尊大さは?

 照美は白衣の女性が入室したとたんに変わった部屋の空気を思った。それは教師がざわめく教室に入ってきたのと 何処か似ている感覚だった。しかし、それとも違う何かを可南子に見ている。それは彼女個人に依存した性質なのだろうか。
 看護婦はそのような雑音などまった意に介さずに、怯える由加里に向かう。コツコツというヒールがリノリウムの床を打つ音が、原始人が死んだ動物の骨を合わせたり、打ち合ったりする、音楽のオリジナルとでも言うべき現象を思い起こさせた。
「西宮さん、具合が悪いのですか?」
「・・・・」
 「・・・・・・・」
 看護婦の後に、非難めいた視線を送るミチルと貴子が続く。

―――どうして、私にまでそんな目を向けるのよ。

 照美はそれが不満だったが、言葉に表現するのは躊躇った。
 何故ならば、病室中のベクトルがこの少女に向かっていたからだ。それも当然で、ここは病院であり、驚異的な回復を見せたとはいえ、医師や看護婦の治療と看護を必要とする患者なのである。
しかし、当の由加里としては気が気でない。
 あの似鳥可南子がまるで女王のように、君臨しているのだ。彼女を目の前にしては、照美もはるかも、何事につけても非凡とはいえ、単なる中学生の女の子にすぎない。
 なんと言っても、可南子には大人の女としての存在感がある。
 何よりも、二人とはまた別の意味で、由加里を陵辱した前科がある。彼女が入ってきただけで病室の空気が一片する。知的な美少女は、どうにかして、この状況から逃亡したいと思った。そのためならば、二人にしがみついてでも室内の空気を浄化したいと考えた。
 そのことは無意識によって示された。
 気がつくと照美の裾を握っていた。
 目敏い可南子はそれを見かねた。

「どうしたの? 西宮さん?先生、呼ぶ?」
横目でさりげなく、類い希な美少女に視線をやりながら、「それとも、おしっこかしら?」
「ち、ちがいます!」
躍起になって否定する由加里。
 可南子は、おしっこと言った。普段ならこんな言い方はしない。少なくとも、第三者がいるところでは、さりげなくウインクをして、彼らに出て貰ってから溲瓶を用意するのだった。即ち、以心伝心で伝わったはずなのだ。
少なくとも、第三者がいるところでは、少女を陵辱したことはない。
それがおしっこと言ったのだ。それもその四文字を強調までして。
「先輩、私たち出てましょうか?」
由加里にとっては、貴子の言葉は天の助けに思えたであろう。しかしながら、この病室の女王に即位した女は、そんなことを許しそうになかった。
 あまりに残酷で、そして、非現実的なことを言ったのである。

「いえ、皆さんにも手伝ってもらいましょうよ、西宮さん」




 

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