翌朝、渋る陽子を説得して病院に行かせることになった。
その任を担ったのは、言うまでもなく長崎城主だった。午前10時に、母親である夏枝が連れて行くことになっている。
新緑がかまびすしい季節なのに、車内は零下になっていると、陽子は思った。
「お父様ったら、どうして、こんなに心配性なのかしら」
「陽子、あなたのことを思ってのことなのよ」
エンジンにキーを差し込みながら言った。夏枝は思う。
――――どうして、建造!? あなたはこの子が誰の娘なのか、わかっていたんでしょう!?それなのに、よくも父親面して、私の前に立てたわね!?
陽子は、母親がそんなことを考えているなどと露ほども思わずに、窓に描かれた煙突状の建物を指でなぞっている。
九州は北の大地。山の向こうには地平線まで続く牧場がある。牧場にはサイロなる建物が存在するのは、必定である。
ろくに聞こえもしない牛の声を聞きながら、辻口家の三女は母親との気の乗らないドライブに興じている。
病院、それも泌尿器科に連れて行かれるという。
となると問題はただひとつ。
陽子はそれを口に出さずにはいられなかった。
「お母さま、もしも、男の先生だったら・・・・」
「大丈夫よ、女性の先生だって、お父様も請け合ってくれたじゃない」
長崎城主婦人はこともなげに言う。
――――男の医者だったら、さぞかし面白かったのに。どうせなら、あそこの病院にしようかしら。
たまたま、バックミラーに映った見知らぬ病院に視線を走らせた。泌尿器科とある。医者は圧倒的に男性が多いことから、十中八九、女医ということはないだろう。
夏枝は、髭だらけのいやらしい医者に陽子が陵辱、いや、診療されることを想像した。大きく大腿を広げさせられて、他人に見せたこともない局所を異性に触れられようとしている。今、彼の手先が狂って、陰核に鉗子が触れてしまった。清楚な少女は瞬く間に、インランな売女に成り代わってしまう・・・。
その瞬間を想像した瞬間、夏枝の中の母親が顔を出した。
「そんなことない! そんなこと絶対にさせてなるものですか!! 私の!!は・・・・・!?」
「お母さま!? どうなさったのですか? もう信号は青ですよ」
―――わ、私ったら、白昼夢? でも、どうして、こんな憎い娘にやさしくできたのかしら?
そう思うと、自分が許せなくなった。ルリ子のことが陽子に知られて以来、彼女の写真が辻口家に戻ることになった。この新車も例外ではない。隅に置かれた目に入れても痛くない実娘の肖像を見つけた夏枝は、臍をかんだ。
―――こんな子なんて、どうにでもなればいい。あんなひどい罪を犯した娘に人権なんてあるわけないわよ。
ブレーキが壊れんばかりに、踏みつけながら心の中で叫び続けた、陽子に聞こえないように。
やがて、見慣れた辻口医院の建物が夏枝と陽子の視界に入ってくる。
「ああ、辻口先生の、ですね」
受付に行くと、その一言で長蛇の列をはねのけて、母娘は医師の面前にでることを許された。
驚いたのは夏枝だった。
「小松崎先輩・・・・・・」
意味深げな展開に、思わず両目がロンパリになってしまう。医師が期待通り女性だったことを密かに喜んだ陽子は、ちょこんと小さな顔を下げた。
そのあまりの可愛らしさに微笑んだ女医の顔は、ふつうでなかったが、当の陽子は頭を下げていたために、確認することはできなかった。
だが、彼女の母親はその姿をとくと目の当たりにする。思わず、蘇る不快で陰湿な記憶に眩暈を覚える。しかし、一方、別の考えにほくそ笑むのだった。
―――これは使える。陽子をあの不快さを味合わせる。そして、血筋に相応しい罰を与えてくれるわ。
夏枝は女医の目をみながら思った。
「小松崎先輩、九州に戻っていらしたんですか?」
「ええ、辻口さん」
猫のような笑みを見ると、その思いを強くした。
―――やっぱり、全然、変わってない。
「ご本まで出版されたとか」
「ええ、夜尿症に精神科医的な視点を組み込んだよ」
「え? 精神科ですか?」
他人事のように聞いていた陽子の目の色が変わる。そんな少女に女医はやさしい言葉をかける。
女性だてらに銀縁のメガネをかけたその姿は、何処か太った大根を思わせる。
外見を科学的に測量する以上、それほど太っているようには判定されないだろうが、実のところ豚にしか見えない。
肥大化した女の精神が見る人に歪ませて見せているのかもしれない。
それを補強しているのは目尻や鼻筋にできた複数の皺である。それを見つけると、もはや、隣に座っている母親と同世代にはとても思えない。彼女は30代前半と言っても十分通用すると、陽子は自負してきたのだ。それに比べると、これから少女を診察する女医は、50を優に超えているとしか思えない。
名前を小松崎というらしい。
だが、女医の名前よりも少女が気にするべきことがある。
精神科という衝撃的な単語が問題なのだ。
ところが、娘の窺い知れないところで、いつの間にか、夏枝までが色を失っていた。それは彼女の中で息づいている母親の顔である。
「先輩、精神科医の見立てが必要なんですか?」
「辻口さん、それは精神科に対する偏見よ、私が留学していたアメリカでは、歯医者に行くような感覚で、メンタルクリニックに行くのよ」
「メンタル?」
「精神科医院のことよ、お嬢さん。私はアメリカの精神科医の免許も持っているのよ」
「でも、わたし・・・・」
もしも、学校や友達に知られたときのことを考えると思わず涙目になってしまう。
一方、猫の目のように心境が変わる夏枝は、早くも別のことを考えていた。このような苦しめ方があるとは思わなかった。ただし、辻口家の娘が精神科医に通ってるなどと、外聞が悪い。それは十分留意しなければならない。
「先輩、くれぐれも外部には」
「わかっているわよ、私は精神科医的な視点って言っただけよ。まったく日本はだめね。さ、診療を始めましょうか、お嬢さん」
いったん、憮然とした女医だったが、可愛らしい夏枝を見るとすぐに表情が元に戻った。
「ひどい尿意に苦しんでいるのね」
陽子は女医の言葉を遮るように言った。
「わたしは、おねしょをしたわけじゃ・・・・・ないんですけど」
ほとんど消え入りそうな声だった。上品な顔を真っ赤にして必死に声帯を震わせる。しかし、後半部はほとんど聞こえなかった。
「わかっているわよ、そうならないように、診療しているんじゃない」
だが、女医の言葉に隠れて次のような言葉が発されたことを、陽子は知らなかった。
――――何、今晩にはそうなるのよ、陽子。
ぷるぷると震えて縮こまった娘の影で、そんな悪魔的なことを計画していたのである。だが、彼女が現在考えていることはべつのことだった。
「先輩、直接は診てくれないんですか」
「え? お母さま?」
「そうね ―――」
女医は意外そうな顔をした。しかし、すぐに満面の笑みを大根頭にはり付けると、こう言い放った。
あそこの処置台に乗ってちょうだい。
「な!?」
彼女が指さした先には奇妙なものがあった。緑色のベッドに奇妙なアンテナがついている。アンテナにはベルトがついている。
泌尿器科というキーワードから、そのアンテナが何を意味するのか、鋭敏な陽子には想像することができた。いや、できてしまったと表現するほうが適当だろう。これから、辻口家の三女が辿る運命を検証すれば、優れた知能は人を必ずしも幸福にしない例証になるにちがいない。
話はかなり脇道にそることになるだろうが、死刑という刑罰がいかに残酷かということは、それが予告された死であるというただひとつのことに尽きる。怖ろしいことを予見できてしまった以上、目的地までの道がいかに救いのないことになるか、容易に想像できるだろう。
アウシュビッツ行きの囚人たちが目的地について何も知らされていなかったことは、彼らにとって何よりの救いだったにちがいない。
もしも、知っていたら、おとなしく旅を楽しむなどということが、可能なはずがなかった。
閑話休題。
今、陽子はその優れた資質によって、怖ろしい未来を予見してしまったのである。
―――お、お母さま、助けて!
無言のうちに、そして、無意識のうちに、夏枝の背中に逃げていた。
「陽子、先輩に診て貰いなさい」
「ハイ・・・・・・・」
瀕死の状態まで働かされた挙げ句、ガス室行きを宣告されたユダヤ人のように、美少女は女医の前に出た。
――――まるで、五歳の女の子みたい。可愛らしいわ。
女医は自分の頬笑ましい想像の中で涎を垂らした。
陽子にもはや抵抗する気力はない。
そして、死刑執行のひとことで脂で汚れた唇が震えた。
「さあ、下着を脱いであそこに乗りなさい」
ベッドの横には、『EX-URO』という文字が書かれている。それは陽子から人格を失わせ、単なるものにしてしまうように思えた、
女医は、さらなる脅迫の言葉を続ける。
「さあ」
「お母さま!」
最後の助けと、少女は母親を呼んだ。そのコトバにはふたつの意味が隠されている。ひとつには、ここからいなくなってほしいという意味と、自分の手を握っていてほしいという意味である。
それを要約すれば目を瞑って手を握っていてほしいということである。ただし、そんな都合のいいことはいえない。
陽子は整った容貌を不自然に歪めて、おずおずと下着を脱ぎ始めた。
辻口家の三女が下着を脱ぎ終わると、背後から音もなく現れた看護婦がそれを奪ってしまった。少なくとも、少女からすればそのようにしか受け取れなかった。かなり非難というスパイスが彼女の視線には含まれていたはずである。
しかしながら、その看護婦はあくまで事務的に行動した。
少女の肩に触れると抵抗する間も与えずに、座らせてしまった。
「先生 ――」
そして、スカートを引ん剥いてしまったのである。そして、少女の無理矢理に開かせると、足首をアンテナにそれぞれ皮のベルトで固定してしまったのである。
「ああ・・・・・」
思わず、可愛らしい顔を両手で隠す陽子。同性とはいえ、3人の視線に局所を晒されているのである。自分ですらまじまじと見ることがない、その文字通り秘所である。それをあられもない姿で晒している。
それは、少女にとって耐え難い恥辱だった。しかも ――。
「安心してください」
看護婦の事務的な言葉、まったく抑揚が感じられない電気仕掛けのような声である。ほら吹きの永和子が言っていた機械声がそれに当たるだろうか。彼女は誰も考えないことを空想するのが得意な少女である。近未来には、LPレコードがわずか10センチの円盤に収まってしまうとか、電話を歩きながら使えるとか、夢みたいなことを言っている楽しい友人なのである。
こんな絶体絶命の時には、彼女を思い浮かべるのがいい。
しかし、彼女になら見られてもいいだろうか。
思えば、さいきん、こんなことを言われた。
「ねえ、陽子ちゃん、オナニーって知ってる?」
もちろん、彼女はこう答えた。
「知らないよ、そんなこと、オナ? だって?」
思わずうそぶいた少女だったが、性器の周囲を刺激すると快感のような、あるいは、胸をときめかすような、そんな奇妙な感覚が身体に起こることぐらいは知っていた。そして、それが人に知られてはいけないこともわかっていた。
――――永和子ちゃん、助けて!
気が付くと、椅子に座った小松崎女医が陽子のスカートの中を伺っていた。そして、そのかたわらには夏枝が同じところを覗いていた。
「お、お母さま、み、見ないでください」
「何言っているの、お母さまはあなたのおむつを替えたのよ、お尻の穴まで見てるのよ」
微笑を浮かべた母親が鬼女に見えた。あんなに優しい聖母のような夏枝は一体何処に行ったというのだろう。
「さあ、調べるわよ・・・・」
意気揚々と手術用の手袋を嵌める。
無機質な素材どうしがセックスする。それは、ぎゅぎゅっという音だ。
わざと恐怖を自分に見せつけているような気がした。その勿体ぶった仕草は、何処か芝居じみていた。まるで、おいたをした子供を躾るために鞭を用意する19世紀の親のように見えた。
ビニール質に覆われた指が少女の局所に触れた。
「ヒイ・・・・」
思わず声をあげる陽子。とたんに、六つの目が彼女の方向に注視してくる。そこが熱くなって火を噴く。
次に目を開けたときに驚いたのは、女医がペンライトを看護婦に持たせていたことである。それは、少女の目を潰した後、局所を照らした ―――と思った。当然のことながら、辻口家の三女からは自分の様子がわからない。
だが ――――。
ただし、女医の興味本位としかいいようがない脂がのった視線を浴びているうちに、自分がいったい、どんな恰好で皿の上に載せられているのか自ずと想像できてしまうのだった。
そう思うと、少女の上品な造りの鼻がぴくぴくと蠢き、頬がほんのりと上気してしまう。
「今日はここまでにしておきましょうか」
――――終わった。
安心していながら、今日はという言葉に戦慄を覚えた。これ以上、何をされると言うのだろう。
少女は、しかし、決心した。
―――もう、この人に診て貰うのは絶対にイヤ!
これまで、陽子は夏枝の言うことに首を振ったことがない。もちろん、母親が娘を甘やかしてきたことが、それには十分寄与しているだろうが、少女自身の従順な性格が働いていたことも否めない。
従順ということは依頼心にもつながるから、これを乗り越えようとすることは少女の精神的な成長を意味する可能性もある。
ただし、出産に女性が非常な苦しみを味わうように、新しいことをするということには必ず苦痛が伴う。
これから辻口家のお嬢さんが経験しようとする痛み。
それは、この時、誰も想像しえない。
ただ、そんな決意をした少女に意味ありげな微笑をぶつけてきたものがいる。それは看護婦だった。完全に生きる機械を自称してきた彼女が、はじめて見せた表情は陽子に何を訴えようと、あるいは、示そうとしているのだろうか。
全く、読めない。
英語や数学の教科書に当たるのとはまったく違う。
どうやら看護婦が与えた答案用紙には、普段の彼女が渡される丸だらけとはならないようだった。
ただ、うすうすとわかったのは、それが胸を張り裂けそうな恐怖を暗示しているだろう、ということだった。
麻木晴海のマンションはまひるの家から車で15分ほどの場所にある。
だから、彼女が被虐のヒロインが放り込まれたドラマ空間を知るのに、同じ時間程度のタイムラグがあった。
「うーん」
女性捜査官は、装置のスイッチをオンにすると煎れたばかりのコーヒーを手に、ソファに腰を据えた。
「さて、今日はどんなラジオドラマを聞かせてくれるのかな?」
はたして、スピーカーは、晴海を満足させるほどの空気の波を造ることができるだろうか?
乾いた電子音とともに、何か堅いものに躓いたような音、そう、それは声と呼ばれるかもしれない、それが聞こえてきた。
―――――ママ、ありがとうね、こんな高いもの・・・・。
―――――いえ、まひるちゃんが喜んでくれて嬉しいわ。わたしたちにとっては、何よりもあなた、家族のことが一番大切なのよ。
―――――そうだね、パパも、お前たちのためにがんばって働いているのだしね。
―――――そうよ、まひるちゃん、わたしたちはね。ねえ、皐。
―――――わたしたちって? 皐お姉ちゃん?
おそらく小さな妹の声なのだろう。やけに黄色い声が耳に付く。家族の会話は当て所もなく続いていくが、晴海の関心は身体の清潔の保持に向かっていった。
「やれ、やれ・・・・・」
女性捜査官はおもむろに立ち上がると、浴室へと向かう。
着替えを用意するためにタンスの前に立った晴海は、あることに気づいた。
―――そうね、まひるちゃんの言葉が聞こえなかったわ。
やけに大人しい少女のことが気になった。最初だけ聞かれた唯一の台詞も、何処か機械的で抑揚に乏しかった。それは、しかし、必死に自分を押さえている証左とも取れる。マグマのようなドロドロとしたものが、彼女の中で犇めいて今にも噴出しようとしているのだ。まひるの可愛らしくもはかない理性が、涙ぐましい努力でそれを防いでいる。
―――可愛らしいじゃない。
晴海はほくそ笑んだ。自分の精神が嗜虐へと向かっていることに、今更ながら気づいた。どうしてなのかわからないが、佐竹まひるの苦しむ姿を想像して性的な興奮を得るまでに達している。
――――私は彼女を憎んでいるのかしら?
浴槽の底に残った水滴を見ているうちに、風呂に入る気が失せた。シャワーですますことにする。何だか、生物めいた不潔をその中に感じたのである。
――――どうして?
シャワーが吐き出す無機的な音と水流は、何故か、はじめで出会ったときのまひるの横顔を想い出させた。
性欲に理性を失った男どもに囲まれながら、不敵な笑みを浮かべる美女のように、彼女は自身が犯されることを知っているのだが、あえて、泰然自若としている。
心身共にぼろぼろになりながらも、虚勢を張っているまひるを見ていると、女性捜査官は、たがが中学生の少女に心を奪われている自分を発見して、苦笑するのだった。
それが芝居であることがすぐに察知できたが、自我が崩壊寸前でありながら、あえて、それを保持しようとする自尊心の高さを愛したのではなかったか。
それが、今、憎しみの感情に変わりつつあるのを感じる。それは、あたかも、外部から何者かの手によって強制されているような気分に、酷似していた。
――これほど迄に、私にこんな感情を抱かせるとは・・・・。
それは ――――。
「チクショウ!」
マックスにしたシャワーの音でさえ、その下品な叫びを押さえてはくれなかった。瞑目しているのに、自分の醜い姿を目の当たりにさせられる。
完全なまでに、自分の感情をコントロールすることにかけては、自信がある彼女は、自分自身にすら感情の吐露を簡単には許さなかった。
蛇口を摑む力。
やがて、それは即座に豪雨を止ませる。しかし、数個の水滴は、なおも晴海の肌にまとわりついて、尿がほとばしり出るような音をたてている。
―――ふん、あんな子供にこの私が・・・・・。
濡れた身体を清潔な布で包みながら、何故か女性捜査官の魂は、彼女の思いも寄らない場所へと誘っていた。
彼女は今、自分を拭っているよりもさらに巨大な布、布団のようなものに包まれている。そして、何か温かく硬いものが幾つも自分の身体に沿って這ってくる。
とてつもなく温かいもの。
彼女にそれを保証する何者かだった。少なくとも彼女はそう受け取っていた。
やがて、それは満面の笑みとともに、目の前に具現する。
――――ママ・・・・・・。
少女はそう名付けた。
名 称というものは、人間が外部世界を理解するために、ある対象に名義を与えることにすぎない。それによって単なるものが、彼や彼女にとって意味ある存在へと成り代わるのである。
濡れた少女を支える指や手は ―――。
それは指や手と名付けられた。
そして ―――。
それらを操るものは、母親と名付けられたのである。
小さな晴海を見下ろす満面の笑み。
それは限りない愛情に満ちていた。それを受けた少女はできるだけ同じ量と質を兼ねそろえたものを、返そうとする。
豊潤な愛の応酬が滞りなく行われるはずだった ――――。
しかし、それに異を唱えるものがいた。少女だけに聞こえる言葉でこう言ったのである。
「まるで、可愛い飼い猫だな ―――」
脱衣所の隅には兄が立っていた。
「・・・・・・・・・・」
しかし、改めて見回しても、彼も母親もいない。あるのはがらんとした虚の空間だけだ。
手早い手つきでネグリゲェに着替えると、洗濯機のスイッチを入れて、台所へと向かう。
その日の夕食には、久しぶりにワインを一本開けた。拭いきれない不快な記憶が何重にも身体にまとわりついているような気がしたからだ。それを排除、あるいは忘れきるには、アルコールの力を借りる必要があったのである。
何を食べたのか覚えていない夕食が済んで、意識を取り戻したとき、8時をすでに何分も回っていた。
「もう、こんな時間か ―――」
そう言ったとき、聞き慣れた機械音が聞こえた。
「誰だ?」
台所の隅にある応答機に触れるとアルコールに汚れた声を出した。
「わ、私です・・・・・・まひるです・・・」
「・・・・・・・・・」
どんな表情をしていいのかわからず、美貌にいらぬ道草を食わせた晴海だったが、すぐに、ほくそ笑むと残酷な言葉を送った。
「まひる? 何処の誰? あいにくと聞いたことがないけど ―――」
「さ、佐竹、まひるです! ウウ・・・」
怒ったような声とともに、押し殺したような泣き声が返ってきた。
「ふーん、何処の佐竹さん? 警視総監の佐竹弓彦さんが私ごときに、何の用かしら? 機械の調子が悪いね、何やら子供の声のように聞こえるんですけど」
先方に映像を送ることができるわけでもないのに、わざと美貌を歪めて大根役者ぶりを発揮する。それは声に現れているが、それが顕わならば、顕わなほど、少女に与えるダメージも底なしになっていくのだった。
だが、もう潮時だと判断した晴海はこう切り出した。
「わかったわ。鍵を開けるから来なさい」
ただし、こう皮肉を付け加えることを忘れなかった。
「警視総監閣下」
まひるが彼女のマンションを訪れるのは、これが二回目である。
だから、ドアが自動的に開いて高級ホテルのような扱いを、受付から受けるのは少女にとって居心地の悪いことこの上なかった。
消え入りそうな我が身を震わせながらも、エントランスを抜けるとエレベーターに身を潜める。
たまたま、居合わせた母娘はふたりとも相当に高級そうな衣服に身を包んでいた。彼我の違いを思うと少女は胸が張り裂けそうな心持ちに顎まで涙を伝わせるのだった。
「ねえ、ママ、お姉ちゃん、泣いているわよ」
「しっ、見ちゃだめ」
母親はそう躾るように言うと、娘の手を握るとまひるを避けるように、フロアに消えていった。まひるは、自分がいかにもおぞましいもののように思えて、さらに惨めになるのだった。あたかも、そのようなレッテルを貼られたような気になる。
確かに、こんな時間に中学生くらいの少女がひとりでこんなところにいるというのは、どう考えてもおかしい。晴海が住んでいる高級マンションはかなりの高層であり、200戸以上が入っている。
どの部屋にどんな人たちが住んでいるかなどと、知りようもないが、入ってきた人物が住人かそうでないかという区別ぐらいは、長く居れば人目でわかるものだ。
あきらかに、さきほどの婦人はまひるを不振に思ったのだ。それ以上でも以下でもなかったのだが、自意識過剰になっている少女は、彼女の敵意を過大に受け取ったのである。
―――ああ、このまま消え入りたい。早く、お会いしたい、晴海お姉さまに。
まひるは、心の中だけで、晴海のことをそう呼んでいた。個人的な日記にさえ記すことができなかった。
死にたいほど辛いときには、そう念じて、どうにか理性を保つことができた。
もうすぐだ、もうすぐ、その晴海に出会うことができる。そうすれば、これまでの辛い思いは雲散霧消するだろう。
43F、晴海が住む部屋はこの高層にある。値打ちはナントカヒルズとはいかないが、少なからず辺鄙なところに 建っているために、室内の設備等は前掲の建物よりもむしろ豪壮とさえ言える。
だから、少女は扉の前に立った時、震えを感じた。彼女が憧れる人物が自分とは完全に違う世界の人間のように思えたのである。
恐る恐るブザーを押すと、まもなく、月の女神様のような晴海が現れた。
「ようこそ、警視総監閣下」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
この世のものとは思えない哀しい目で、少女は女神の顔を見上げた。
晴海はさらに残酷な言い方を続ける。被虐のヒロインを中に案内しようとしながら・・・・。
「あれ、ずいぶん、可愛らしい警視総監だこと」
「も、もう、やめてください・・・ウウ・ウ」
嗚咽を必死に押さえながら、まひるは泣き続ける。内装は思ったよりも豪華で、神聖な宮殿にしか見えない。自分の汚らしい唾が一滴でも飛び出たら大変だ。慎重に口を動かす。
「晴海さん・・・・・」
「晴海さん? そんな風に呼ばれるほど、あなたと親しかったかしら?」
「そ、そんな・・・・・」
打って変わって冷たい晴海お姉さまの様子に、まひるは全身の細胞が凍りつく。そんな少女に女性捜査官はさらに冷酷な態度に出る。
「そんな汚らしい恰好で部屋に入られたら困るのよ」
「ア・・、すいません」
まひるは、自分が濡れていることを叱られていると思ったのだ。その通り、少女は傘も持たずに雨が降り続ける夜の街に飛び込んだので、まさに濡れ鼠状態である。
ところが ――――。
少女が靴を脱ごうとすると ―――。
晴海はまるでアヒルの首を摑むように、美少女の髪を乱暴に手にするとタイルの床にその綺麗な容貌を押し付けた。
――――なんだろう? この感覚は。
嗜虐と愛情が交差する。
―――どうして、こんな残酷なことをしているんだろう。
目の前の美少女は晴海の力とタイルの間に挟み込まれ、奇妙に歪んでいる。タイルは彼女の涙で濡れて、彫刻がくっきりと見え始めた。
「答えなさい、私は何て言ったのかしら?」
氷よりも冷たい声で、少女を凍えさせる。
――どうして、ここまで!?
自答自問しながら、さらに押さえつける。
「答えなさい!!」
「き、汚らしい、わ、私が入ると困ります・・・ウ・ウ・ウ・ウ・ウウ」
絞首刑に処するように、まひるの頭を髪ごと引き上げる。自分の視線まで達すると、言葉の刃で少女の心を切り裂く。
「おわかりのようね、なら、それなりの処置をしてもらうわ」
そう言うと奥に戻ると30秒で帰ってきた。
「これを来て貰うわ」
「?」
少女の目には、それはレインコートのようにしか見えなかった。黒曜石のように光る生地は、濡れてもいないのに、異様にテカっている。
「これで、あなたの汚い身体を包むの、そうしたら、入れてあげてもいいわ」
「ハ.ハイ・・・・・・・・・・・」
自分が月の宮殿にでも迷いこんたと錯覚しているのだから、もはや、平静の状態とは言えないだろう。晴海の洗脳によって、もちろん、彼女がそう意図したわけではないが、恐怖すべき月の女神によって従順な子ネズミにされてしまったのだろうか。
命令されたわけでもないのに、少女は制服を脱ぎ始めた。
「そんな汚いものを入れないで、そこに置きなさい!」
ビクビクしながら、被虐のヒロインは自分が着ていたものを床に投げ捨てた。
「ぬ、脱ぎました・・・・ウウ」
「下着もよ」
残酷に言い放つ。
――ぞくぞくしてくるわ。
晴海は、何もとも知れぬものからの力によって、そう感じていた。それをわかっていながら、もはや、自分の精神を制御不能になっていた、それもまた事実である。
「ウウ・ウ・ウ・ウ・ウ」
被虐のヒロインは、もはや、感じなくなった手で下着を脱ぎさった。
「さ、これを着るのよ」
触れるとゴムのような感触に身の毛をよじった。
すぐにでも手放したくなったが、晴海の目を見ると、従順な奴隷になるしか生きる道がないと気づく。
そして、その黒光りするおぞましいレインコートに袖を通す。着てみてわかったのだが、それは上下がつながっている。チャックを開くとまず、足から入れる。何と裏生地まで、ゴムかナイロンのような生地だった。
しかし、実際に肌に接すると、それが単なるゴムではないことがわかる。
―――――濡れてる?
まるで、少女の心を読んだような声がふってくる。
「それは特殊なゴムで出来ているのよ、まるで濡れているみたいでしょう? ただでさえ。いやらしいまひるちゃんをさらにいやらしくしてくれるのよ」
ぐにゅぐにゅ。
実際にそのような音がするわけではないが、確かに、まひるはそれを聴いた。何だか、海底に引きずられていくようだ。
上衣も同様だった。指から爪の先までおぞましい粘液によって包み込まれる。
しかし、それだけではない。そのレインコートには仮面らしきものはついていたのである。
「そ、そんな、まさか・・・・ウウウウ」
「そのまさかよ、はやく被りなさい、あなたの気持ち悪い顔なんて見たくないの」
さらに、まひるの人格を否定することば。
「着なくてもいいのよ、さっさと、お帰りなさい」
少女の答えは決まっている。
「ウウ・ウウ・・ウ・ウ・ウ・ウ・・・むぐ・・・ウウ」
仮面を被るとチャックを自ら上げる。
「むぐぐぐぐぐむぐぐ・・・」
おぞましいゴムの感触に身の毛がよじる。おぞましいタコのお化けに喰われるような感触が顔面を襲う。
「だけど、これだけじゃないのよね、そこに、丸いのがあるでしょう? それは呼吸口なのよ。ここにこれを嵌めるとね」
晴海は、ホースのようなものをまひるの顔に押し付ける。
「い、痛い」
「あら、まだしゃべれるのね。ふふふ」
意味ありげ笑うとホースがつながった機械に手を伸ばした。
「こうするとね、一言も言えなくなるわ」
ぐいいいいいん。
船の汽笛のような音がすると、全身が万力で潰される。骨がきしむ音が聞こえた。しかし、そんな音楽を楽しむ余裕はなかった。
―――押し潰される! 苦しい。
呼吸が出来ない。とどのつまり、それが一番苦しい。全身の体液が奪われるような気がした。
しかし、同時に下からの突き上げに、少女は内臓を素手で摑まれるような気がした。
「むぐぐぐぐ・・・・・・・・・・・・」
性器と肛門に世界中の男達の手が入ってくる。
少女は悶えの苦しみの中でそう思った。
晴海は自分の足下に苦しむダンゴムシを不思議な思いで見つめた。
―――私はこれの生き死にを握っている。あともう少しでどうにでもできる。もうすこしで。
しかし、すんでの所で、女性捜査官は人間の中庸というものを取り戻したようだ。
「コレが限界のようね、さあ、これを銜えなさい!」
ホースを引き抜くと別のそれを突っ込んだ。
まひるからすれば、唇に何か硬いものを押し付けられたようなものだ。何か、冷たいものが顔にかかる。
―――え? サンソ?
被虐のヒロインは無意識のうちにそれをくわえ込んだ。
「ふふ、やっと息が出来るでしょう? で、これも銜えるのよ」
そう言うと、ちょうとその穴の逆位置にある穴を開けると、別のホースを突っ込んだ。
「中にパイプがもう一個あるでしょう? それを銜えるのよ。そちらは二酸化炭素用よ。これで息ができるわ、感謝なさい、これを背負いなさいね、あなたの生命線よ」
晴海は鉄の塊を背負わせた。それは酸素ボンベである。
「ムグ」
まひるは、これまで背負ったことのない重荷に直面させられたような気がした。しかし、その反面、こうも考えていた。
――――もしかしたら、これは生まれついでの宿命のようなものではないか、と。
まるで雪だるまのように膨れあがっていく妄想でさえ、由加里に恐怖からの逃亡を許さなかった。それはまさに目の前に差し迫っていたからである。
ミチルと貴子が座を辞したものの、まだ、照美とはるか、それにあの悪魔の看護婦、似鳥可南子が被虐のヒロインを魔性の光で照らし出しているのである。
由加里は怯えた。あまりに眩しすぎて完全に目がくらむ。いったい、自分はどんな目に遭わされるのだろう。その具体的な内容はわかっているはずなのだが、その背後に横たわる意味と恐怖に注意が行ってしまう。
「や・・・あ、止めてクダサイ、おしっこなんかしたくありません」
由加里は、自分が人語を喋ることができたことに驚いていた。自分が人間であるという事実すら忘れていた彼女である。その彼女が意味のあることを言ったとき、眠っていた自尊心と羞恥心が蘇ってきた。
しかし、それは同時に自分でも想像できなかった苦しみと苦痛を、呼びさますことにも通じる。
少女の幼い性器がくわえ込んだゆで卵は、すでに頭が出ていた。少なくとも可南子の目にはそれが見えていたのである、小陰脚が微かに歪んでいるところを見逃していなかった。
可南子はほくそ笑んだ。一方、照美とはるかは理解不能な感情に支配されていた。いたずらっ子が自分の不道徳な行為が目の前で露見されてしまうような、すなわち、恥ずかしいようなこそばゆいような感覚である。
どうして、この似鳥可南子という看護婦に対して、このような感覚を抱かねばならないのか、二人は理解できなかった。彼女たちの担任が目の前にいて、その行為が露見したとしても、そのような感覚の炎に身体を焼かれることはあるまい。
だが、当の被虐のヒロインは、自分の身体を骨まで焼き尽くす猛烈な炎に苛まれているのである。
――――アア・・・・ああ、もう、限界だわ。出ちゃう! いや、こんなところで出しちゃうなんて!!
人間のもっとも恥ずかしいばしょに異物が蠢いている。その感覚は体験した人間ではないと理解できないであろう。
由加里は識閾下で慟哭した。無意識の庭に飼っている狼が吠えていた。
しかしながら、表面上は大人しい子猫が瀕死の呻きをあげるだけである。
「もう、ダイジョウブですから・・・・・・・ウウ」
「そう ――――」
看護婦は、あっさりと患者の要請を許諾した。由加里は再び耳を側立てた。簡単に引き下がるとはとても思えなかったのである。粘液質で陰険なこの大人の女性が、他人に言われて、それも自分のおもちゃとしか見なしていない由加里に言われて、自分の意思を引っ込めるなど、完全に想定外だった。
―――あ、海崎さんと鋳崎さんがいるから・・・・・・。
被虐のヒロインは水あぶくのような目を、二人に向けた。絶世の美少女と将来を嘱望されたアスリート少女は、複雑な視線を返した。このまま3人だけならば、この哀れなおもちゃ兼奴隷を思うままにいたぶるだけだが、ここには似鳥可南子がいる。どうしたものだろう。
目の前にごちそうがあるというのに、簡単には手を出せない苦痛。それは、二人の若いというよりは、より幼いサディストたちの忍耐力を要求する。
しかし ――――。
はるかは思う。この似鳥という看護婦からは、何か自分と同じものを流れている。
彼女が行っているのはもはや看護ではない。看護などという範疇を完全に超えている。それは正常人である彼女ならば簡単にわかることだ。異常と正常の峻別はその行為から導き出せるものではない。彼や彼女がどんなに異常な欲望を持っていようとも、あるいはその欲望を異常と認識できるならば、彼や彼女は正常なのである。もしもそうでなければ、この世の殺人者はみな異常である。よって、彼らはみな無罪になってしまうではないか。
この点、はるかと照美は完全に正常だが、可南子のばあいそれがかなり危うい。
だから、二人は先に引き下がろうとした。
「看護婦さん、私たち、用があるから帰りますね、じゃあな、由加里ちゃん」
「ァ、だめ!」
由加里は小さく叫んだ。だが、その叫びは二人に聞こえないほど小さかった。目を瞑った少女が次に開眼したときには、悪徳の看護婦だけが不穏な笑みを浮かべているだけだった。
「お友だちは帰っちゃったわね、由加里ちゃん」
「ヒ・・・・・・」
猛獣の檻に放り込まれた子ヤギのように、由加里は光を見ない目で白衣の悪魔を見上げた。
目前に迫ってくる悪魔の前歯は、何故か異様に白い。プラスティックでコーティングでもしているのではないかと思わせるほどに軽々しいテカリにみちていた。
「由加里ちゃんの秘密がばれなくってよかったわね、ふふふ」
「な?!」
聡明な美少女は絶句した。この人は一体何を言っているのだろう。ふいに、自分すら騙した。それは別の言い方で欺瞞というが、身体まで騙すことはできなかったようだ。
可南子は妖気を立ちのぼらせながら、そのジャガイモめいた顔を少女の眼前に近づけた。
ろくろ首―――。
子供の頃に記憶の肥やしにしたはずの名詞が、今更ながら醜い鎌首を擡げてくる。本当に、この白い悪魔には蛇の頭と胴体があるのではないかと、思わせる妖気を醸し出していた。
「ここに ――――」
由加里は、悪魔の悪の奥深さとしつこさを思い知ることになる。
「ヒ?!」
言葉と言葉を句切るのは、何故だろう。由加里は考えた。
あふれんばかりの恐怖によって沸騰寸前の感情と切り離されたところに、理性の一部が生存していた。それは確かに事態を正確に観ていた。自我が宿命的に持っている生存本能から、完全に自由だったから、事を正確に観察することができたのである。
だが、それ故に自分から分裂した理性に恐怖を感じたのである。
人間が外部に恐怖を感じることはない。そのような言明がある。しょせんは、人間は自分の影以外を見ることはできないということである。少女は自分の影に怯えていたのかもしれない。
可南子は、しかし、確かに彼女の目の前に実在する。
「何を入れているのかしら? 私にわからないとでも思ったの? インランの由加里チャンたら?」
「ァァウウ・・・・あぁ・・・・・ウウウいやぁぁぁ・・・・・あ」
ミミズのような指が少女の性器に忍び込んでいく。
「ふふん、後でたっぷり可愛がってあげるわ、イケナイ由加里ちゃんには、看護婦さんは忙しいのよ・・ふふ」
可南子がその炎のようにめらめら燃える舌を、食肉である由加里の身体にむかってちらつかせたとき、照美とはるかは病院のエントランスにいた。自動ドアが開くのを見ながら、二人はどうでもいい会話の花を咲かせていた。
そこで出会ったのはとても小さな少女だった。
「あら、ゆららちゃん」
「あ、照美さん」
会話が始まるところで、横合いから邪魔が入った。
「おい、ゆららちゃん、いい呼び名があるぞ」
「え? 何?はるかさん」
「良いこと教えてやるんだから見返りがないと ――」
ゆららは、この二人に対してまだ警戒心を取り除いていなかった。その上、このアスリートに対して恐怖に近い感覚を残していた。照美は、それがわかっていたから、親友を諫めた。
「はるか!」
「ゆららちゃん、向こうで話そうよ」
優雅な手つきで売店前にある喫茶店を指さした。
大きな鞄を顔が隠れんばかりに抱えている、その姿は、まさに小学生のようである。照美は彼女を目の前にすると、素直になることができる。西宮由加里と出会う以前の、本来の自分に、彼女が自分自身をそう見なしている、戻れるような気がした。
自動ドアの前で立ち止まったゆらら。そんな彼女に思いやりの気持が働く。じゃあ、向こうの椅子で話そうか。あえて、おごると言わなかったのは彼女の自尊心を慮ってのことである。
「ええ」
それでも、短く答えたゆららはいくらか気まずそうな顔をした。
ここで、場を盛り上げようとした人間がいる。
「じゃあ、話を始めようか、てるちゃん」
「な、ちょっと待て!! このウドの大木!」
絶世の美貌が奇妙に揺らぐ姿を、ゆららは目撃した。
「くす」
あどけない笑声を振りまく同級生に、はるかと照美は思わず手を打つことしかできなくなった。クラスを代表する二人もゆららを目の前にすると、全く形無しである。二人ともそれを嫌がっているようすはない。むしろ喜んでいる風すらある。
由加里が地獄のような羞恥を味わった後、精神の危機に苛まれているあいだ、彼女の3人の同級生たちは、つかの間の頬笑ましい時間を過ごしていた。
それを壊したのは照美の一言だった。
「かばんの中、例のアレなんだ」
「え? うん・・・・・」
とたんに、少女の顔が曇る。
それを無視して、はるかは話を繋ぐ。
「どう? 様子は?」
「あの人は・・・・・」
小学生のような同級生が主語を選択するにあたり、どうして、それを使ったのか。照美にも理解できたような気がした。しかし、速やかに事を進めなければならない。はるかの計画通りに、由加里を破壊しなければ、本来の彼女に戻れないような気がしたからである。
「ゆららちゃんを好きになってきた?」
もちろん、信用という言葉を使わなかったのは、照美の意識によらない作為である。
「あんな人に好かれても・・・・あ」
少女の物言いには二つの要素が合成している。照美たちに対する配慮とそれによって産まれた由加里に対する悪意である。それが真実なのか偽りなのか、即座には判断しかねる。
「照美さん、聞いてもいいですか?」
「ゆららちゃん」
「あ、照美さん、聞いてもいい?」
はるかが話の腰を折る挙に出た。
「ち、ち、ちがうな」
長い指をちらちらさせて、茶目っ気一杯の笑顔を見せる、鋳崎はるか。けっして、クラスで見られない代物だが、それが自分に向けられるに当たって、どれほど、自分の身分というものを理解できていたのか、この時はまだわかっていなかった。
「てるちゃんさ」
「おい、はるか!」
「じゃあ、てるちゃん・・・」
照美の気色をうかがうようにゆららは桃色の声を出した。そんな顔をされたら無碍に拒否できるものではない。
「まあ、いい、今度だけだかね・・・・で、何を?」
「・・・」
数秒、時間の停止があって、ようやく、ゆららは言葉をわき水のようにちょろちょろと流し始めた。
「どうして、あの人をそこまで憎むんですか」
――ちがう、私、私が、あの人を憎んでいるの! あの時、あの時の、あの人の顔! それが。
心と身体は別のことを考えていた。照美の考えなどが問題なわけではない。それは自分を納得させるための方便にすぎない。自分が何処に立っていて、何をすべきなのか。そういうことを把握するには、あえて、照美のことを出す以外に方法がなかった。
一方、自分の心に入ってくる者に対して、簡単に戸を開くような美少女ではない。だが、ゆららに対しては一定の思いがある。
相手を自分たちの目的のために利用している、そのことに対する良心の呵責がその思いに含まれていることは、確かなことである。だが、それだけではない。
高田たちがゆららに対して行っていたいじめを見過ごしていたという、否定できない事実は、何よりもこの美少女の良心に罅を入れていた。由加里に対して行っていることを思えば笑止というほかはないが、彼女に対していじめを行っているという意識は、少なくとも、今のところ彼女にはない。
だから、由加里のことはこの際関係ない。ただ、彼女に対する圧倒的な憎悪が類い希な美少女の心を支配している。
「それは ―――」
一語一語区切りながら、いちいちそれらを確認しながら言の葉を縫い合わせる。
「何故だかわからないけど、殺したいほど憎んでいるの、このままじゃ、本当にそうしそうで怖い」
「きっと、照美さんをそこまで追いつめるようなことをしたのね」
あっさりとゆららが受け答えをするなかで、はるかは驚いていた。自分以外に、ここまで心を許すことに、そして、そんなゆららに少しばかり嫉妬を覚える自分に対して、むかつくような嫌気を感じていた。
あくまでも音声を通じてしか事態を把握できなかった晴海は、裸眼でまひるの偉容を見たことはない。
ふいに、この学校の至る所に隠しカメラを仕掛けたくなった。この細い足を怪我した白鳥の子がいじめられているところをつぶさに見物したくなった。少女の演技を生で見たくなったのである。『偽りの生徒会長』というBC級映画並の題が適当だろうか。そもそも生なので、舞台と表現したほうが適当かも知れない。
他の生徒に見られるとまずいので、まひるから少し離れて歩く。まるで、校舎内が濡れているように思えた。それは、少女が流した涙かもしれない。知らず知らずのうちに流れた涙は露や霜になって大気中に発散し、やがて、リノリウムの廊下や窓、そして、天井に結露する。
昼間なのにやけに薄暗い校舎を歩いていると、短い距離でも、そして、単純な経路でも、難解複雑な迷宮を彷徨っているような気がする。
やがて、簡単に時間を乗り越えてしまうかもしれない。
気が付くと自分があの制服を着て、あんな感じで歩いているかもしれない。かつてのように、肩で風を切って・・・・・・・・・。
いやな想像と回想を消し去るべくかぶりを振ったところで、気が付くと駐車場に立っていた。夕日に照らし出されたまひるが、その字のごとくまぶしかった。驚くべきことは、彼女が上履きを履いていることだ。この手の少女は大から小まで、神経症的な注意深さで約束事というものを遵守する。生きるための力を、ほとんどそのためだけに使い果たしてしまうのである。
それなのに、被虐のヒロインは下履きに履き替えなかった。晴海が命じた経路を歩いていた。少女の手足はそれぞれ交互に、まるで自動機械のように動く。
リノリウムの床に映る少女の手足は、吊られる瞬間の魚のように揺れる。実像と虚像の区別は曖昧になってもはや区別するのは不可能だ。
まひるの演技はたしかに堂に入っている。仮面が仮面でなくなってしまうパントマイムの比喩は、もう使い古されたが、あえて、ここで使ってみたい。
痛々しくてたまらない。そして、それを歪んだ欲望を抱いて眺めている。女性警官はそんな自分をもっと高い場所から達観している。
実体験からそれを知悉しているからこそ、佐竹まひるという少女の苦しみがわかるのだ。彼女の哀しみと痛みが我が事のように感じる。時間を簡単に飛び越えてしまいそうな、薄暗い迷路を彷徨ったことも、それに荷担しているだろう。
まるで殺人の現場を目撃された犯人のように、晴海は自分の言うことを聞く。
この時刻、場所で、少女は脊椎を曲げて、車に乗り込む。それは、この世の開闢のとき、既に、そのことは決定されているように見えた。この哀れな少女は運命の海にただ弄ばれるだけ、そうされた挙げ句、切り捨てられてしまうのだろうか。
その細い腰、華奢な肩、バンビー人形のような手首や、足首。ただし、その造りは荒削りで、まだ完成までほど遠いことがわかる。
世の男性の中には、成熟した女性よりも、そのほうが性欲を感じる、あるいは、それにしか感じることができない趣向の人たちがいると聞く。若者が造り出すサブカルチャー等々を概観すれば、誰でもわかるだろう。
晴海は、彼らとは違った意味で、言い換えれば、距離を置いた視線で少女を見ている。もちろん、それに欲望が加味されていないというわけではない。むしろ、生殖を基礎にしていないぶん、それは先鋭化し、欲望として暴力的なまでに純粋になっていく。
まるで樽の中の最高級ブランデー。
エンジンに点火する作業は、ただの物質に生命を吹き込むことに似ている。それをする度に、一個の生命を産んでいるような気がする。「これが母親になるということか」と、子供を産んだことがない晴海がそう思う。
一方、助手席に座っているまひるはどう思っているだろうか。座っているというよりは、人形のように、置かれていると表現したほうがより適当だろう。ほぼ放心状態の美少女は、自分が何処に何のためにいるか、というごく基本的なことすら呑み込めていないように見える。
ここで、晴海はカンフル注射を打ってみることにした。
少女の透けるように白い耳に口を近づけるとこう囁いたのである。
「愛しているわよ、まひるちゃん」
「・・・・・・・・・・・」
いっしゅん、惚けたような顔で自分がいる場所を確かめようとした被虐のヒロインだったが、車がゲートを過ぎてかすかな段差を超えたところで、今まで溜め込んだ苦しみと哀しみを吐き出すように泣き声を上げ始めた。
「ああ・あ・あ・・ああぁあっぁ!!」
それはまったく疑問の余地のない感情だった。
白魚のような指を幽霊の顔に嵌め込んで、おいおいと泣き続ける。水晶の液体が氷柱の指を伝ってスカートに流れ落ちる。その軌跡を眺めてみると、始めて邂逅したときのあの出来事を想い出す。
仕事先からの帰宅中、列車の中で・・・・・。
やおら、見知らぬ少女が近づいてきた。
「まひる、おしっこ!」
少女はたしかにそう言った。
見ず知らずの年上の女性に、そう言いながらスカートを捲った。そこにあったのは局所が顕わな下半身だった。
その後、衆人環視の中、男子のような姿勢で排尿を行ったのである。
まったく、感情を顔に出さなかったぶん、凍傷を起こしそうな悲しみと痛みが直で伝わってきた。
女性捜査官は、今までこの少女に何が起こったのか、音声によって知っている。映像が伴わないとはいえ、会話等からかなり的確な情報を得ることが出来る。
しかしながら、その日のことはわかっていない。何故に、彼女がトイレに全裸で閉じ込められていたのか、その事 情を摑んでいないのだ。だが、それを不都合とは思わなかった。まるで込み入った推理小説を読み解くように、この美少女の頬に流れる涙の滝を遡って、その源流を確かめようと思ったのである。
まず始めに当然浮かんでくるべき質問をぶつけてみた。
「これから、何処に向かえばいいかな」
「ウウ・ウ・ウ・・ウ・ウウ、い、今、何時ですか?」
「?4時すぎだけど」
「え!? あ、あ、ああ」
その声はさらなる絶望の色に染まっていた。その美しい体躯を弓なりに歪ませて泣き始めた。
「だから、4時に何があるっていうの」
あえて感情を含めずに言の葉を舞わせる。
「4時半までに家に帰らないとわたし・・・・・・ウウ」
ずいぶん、早い門限だなと晴海は聞いていた。まさに、推理小説を一頁ずつ捲る感覚である。しかし、まひるの様子を見ていると事態が深刻の度を濃くしていることがわかる。まるで赤子が引きつけの発作を起こすように、絶え間なく震えている。
「わた、わたし・・・・・・ウウ・・・・・みんなに、見捨て・・・・・られちゃう・・・・ウウウ・ウ・うう」
「みんなって?」
車は高速に乗った。まひるはそれを別世界への行旅に思えた。
―――そうだ、このまま何処かにイッちぇばいい。この人とともに、家族のことなんか、もう考えたくない。そうだ。最初からいないと思えばいいんだわ。そうすれば見捨てられたなんて思わなくていい。
オレンジ色に視野が染まっていく雲が、自分が産まれた世界のものとは思えない。
――――雲ってこんなに美しかったっけ。
そんな風に思考を飛ばす、まひるの耳にはさきほど囁かれた言葉がハウリングしていた。
(まひるちゃん、愛しているわよ)
辛うじて生き残っている自我は、その言葉に飛びついたのである。しかし、当の晴海は同じ声で違う言葉を吐いていた。それは打って変わって冷たく乾いていた。
「何を急いでいるのか、教えてもらってもいいかしら?」
「・・・・・・・・」
痺れを切らした女性警官は言葉に刺をしのばすことにした。
「何なら、車を停めてもいいんだけど」
「い、言います!」
空母を破壊される寸前に命からがら飛び立つ艦載機のように、まひるの声は逃げるように声の主から飛び立つ。
「お、お願いですから・・・・・ぁぁぁ・・・・ウウ」
「・・・・・・・・・・・・・・」
無言でフロントガラスを見つめる美貌の警官に、まひるは、かえって恐怖を覚えた。自然、それは少女の神経系に圧倒的な服従を強いる結果となる。
「あ、あ、わた、私、まひるは、家族のみんなに、嫌われて・・・ウウ・・・るンです」
「・・・・・・・・!?」
捜査官として才能を認められ始めた晴海とはいえ、さすがにこの答えを予期することはできなかった。そのうえ、それは同時に彼女の心の琴線に触れていたから、彼女にあるていどの動揺を与える結果となった。
「そうなのか・・・・・・・」
「私、私、もう駄目なんです! 今日の、誕生日に時間通りに家にいなかったら、もう、家から追い出されちゃう!!」
白皙の顔を両手で覆って泣きじゃくるまひるに、晴海はかかとで押し出すような声を出した。その動揺ぶりは敬語を使い忘れていることにも如実に現れている。
「血縁っていうものはそんなものじゃないんじゃないかしら? 血は水よりも濃いと言うし・・・・・」
「こ、今回が二回目だから、この前の旅行に行けなかったんです!」
この言葉でピンとくるものがあった。正確には「行かせて貰えなかった」と表現すべきだった。
「何か、あの子たちはそんなことを企んでいるのか、まひるちゃんが家族から嫌われるように仕向けたと?」
「ウウ・ウ・・ウ・ウ・ウ」
まひるの涙は、女性警官の問いを肯定していた。
「だから、全裸にして閉じ込めたということか ――――。まてよ、どうしてそこまでして彼女たちの言うことに唯々諾々と従っているのかしら?」
「それは ―――」
「まあ、いいわ、それは追々話して貰うとして、あの子たちはすごいことを考えているのね、これじゃ単なるいじめと違うじゃない。それほど恨まれる何をしたの? あなた」
それまでの優しさの籠もった花瓶にすこしはかり罅を入れる。
「ウウ・ウ・ウ・ウ・ウ」
「何を泣いているのよ、もうすぐおうちよ、みんなきっとまひるちゃんを待ちわびていると思うわ」
高速を降りる手続きをしながら、義理の姉を思い浮かべた。すこしばかり童顔で笑顔が優しい印象的を与える彼女と並んでいると、「どちらが、姉か妹なのかわからない」とよく言われる。本人たちもそう言われることに不都合を感じないようで、出会って間もないというのに、もう二回ほど女性同士の友情を養うデートとしゃれ込んでいる。晴海の仕事が身体の自由が利かないことを考えれば、短い期間にこの回数は異常といってもいい。兄が目を丸くしたのも至極頷ける話であろう。
高速から30分ほどして車はようやく五時前に佐竹家に到着した。
「ほら、着いたわよ」
「大丈夫だって、ほら、涙を拭いて」
「ウグ・・・・・・・!?」
晴海は、外に誰もいないことを、特にまひるの家族がいないことを確認すると少女の小さな唇に自分のそれを重ねた。
ふいに、この学校の至る所に隠しカメラを仕掛けたくなった。この細い足を怪我した白鳥の子がいじめられているところをつぶさに見物したくなった。少女の演技を生で見たくなったのである。『偽りの生徒会長』というBC級映画並の題が適当だろうか。そもそも生なので、舞台と表現したほうが適当かも知れない。
他の生徒に見られるとまずいので、まひるから少し離れて歩く。まるで、校舎内が濡れているように思えた。それは、少女が流した涙かもしれない。知らず知らずのうちに流れた涙は露や霜になって大気中に発散し、やがて、リノリウムの廊下や窓、そして、天井に結露する。
昼間なのにやけに薄暗い校舎を歩いていると、短い距離でも、そして、単純な経路でも、難解複雑な迷宮を彷徨っているような気がする。
やがて、簡単に時間を乗り越えてしまうかもしれない。
気が付くと自分があの制服を着て、あんな感じで歩いているかもしれない。かつてのように、肩で風を切って・・・・・・・・・。
いやな想像と回想を消し去るべくかぶりを振ったところで、気が付くと駐車場に立っていた。夕日に照らし出されたまひるが、その字のごとくまぶしかった。驚くべきことは、彼女が上履きを履いていることだ。この手の少女は大から小まで、神経症的な注意深さで約束事というものを遵守する。生きるための力を、ほとんどそのためだけに使い果たしてしまうのである。
それなのに、被虐のヒロインは下履きに履き替えなかった。晴海が命じた経路を歩いていた。少女の手足はそれぞれ交互に、まるで自動機械のように動く。
リノリウムの床に映る少女の手足は、吊られる瞬間の魚のように揺れる。実像と虚像の区別は曖昧になってもはや区別するのは不可能だ。
まひるの演技はたしかに堂に入っている。仮面が仮面でなくなってしまうパントマイムの比喩は、もう使い古されたが、あえて、ここで使ってみたい。
痛々しくてたまらない。そして、それを歪んだ欲望を抱いて眺めている。女性警官はそんな自分をもっと高い場所から達観している。
実体験からそれを知悉しているからこそ、佐竹まひるという少女の苦しみがわかるのだ。彼女の哀しみと痛みが我が事のように感じる。時間を簡単に飛び越えてしまいそうな、薄暗い迷路を彷徨ったことも、それに荷担しているだろう。
まるで殺人の現場を目撃された犯人のように、晴海は自分の言うことを聞く。
この時刻、場所で、少女は脊椎を曲げて、車に乗り込む。それは、この世の開闢のとき、既に、そのことは決定されているように見えた。この哀れな少女は運命の海にただ弄ばれるだけ、そうされた挙げ句、切り捨てられてしまうのだろうか。
その細い腰、華奢な肩、バンビー人形のような手首や、足首。ただし、その造りは荒削りで、まだ完成までほど遠いことがわかる。
世の男性の中には、成熟した女性よりも、そのほうが性欲を感じる、あるいは、それにしか感じることができない趣向の人たちがいると聞く。若者が造り出すサブカルチャー等々を概観すれば、誰でもわかるだろう。
晴海は、彼らとは違った意味で、言い換えれば、距離を置いた視線で少女を見ている。もちろん、それに欲望が加味されていないというわけではない。むしろ、生殖を基礎にしていないぶん、それは先鋭化し、欲望として暴力的なまでに純粋になっていく。
まるで樽の中の最高級ブランデー。
エンジンに点火する作業は、ただの物質に生命を吹き込むことに似ている。それをする度に、一個の生命を産んでいるような気がする。「これが母親になるということか」と、子供を産んだことがない晴海がそう思う。
一方、助手席に座っているまひるはどう思っているだろうか。座っているというよりは、人形のように、置かれていると表現したほうがより適当だろう。ほぼ放心状態の美少女は、自分が何処に何のためにいるか、というごく基本的なことすら呑み込めていないように見える。
ここで、晴海はカンフル注射を打ってみることにした。
少女の透けるように白い耳に口を近づけるとこう囁いたのである。
「愛しているわよ、まひるちゃん」
「・・・・・・・・・・・」
いっしゅん、惚けたような顔で自分がいる場所を確かめようとした被虐のヒロインだったが、車がゲートを過ぎてかすかな段差を超えたところで、今まで溜め込んだ苦しみと哀しみを吐き出すように泣き声を上げ始めた。
「ああ・あ・あ・・ああぁあっぁ!!」
それはまったく疑問の余地のない感情だった。
白魚のような指を幽霊の顔に嵌め込んで、おいおいと泣き続ける。水晶の液体が氷柱の指を伝ってスカートに流れ落ちる。その軌跡を眺めてみると、始めて邂逅したときのあの出来事を想い出す。
仕事先からの帰宅中、列車の中で・・・・・。
やおら、見知らぬ少女が近づいてきた。
「まひる、おしっこ!」
少女はたしかにそう言った。
見ず知らずの年上の女性に、そう言いながらスカートを捲った。そこにあったのは局所が顕わな下半身だった。
その後、衆人環視の中、男子のような姿勢で排尿を行ったのである。
まったく、感情を顔に出さなかったぶん、凍傷を起こしそうな悲しみと痛みが直で伝わってきた。
女性捜査官は、今までこの少女に何が起こったのか、音声によって知っている。映像が伴わないとはいえ、会話等からかなり的確な情報を得ることが出来る。
しかしながら、その日のことはわかっていない。何故に、彼女がトイレに全裸で閉じ込められていたのか、その事 情を摑んでいないのだ。だが、それを不都合とは思わなかった。まるで込み入った推理小説を読み解くように、この美少女の頬に流れる涙の滝を遡って、その源流を確かめようと思ったのである。
まず始めに当然浮かんでくるべき質問をぶつけてみた。
「これから、何処に向かえばいいかな」
「ウウ・ウ・ウ・・ウ・ウウ、い、今、何時ですか?」
「?4時すぎだけど」
「え!? あ、あ、ああ」
その声はさらなる絶望の色に染まっていた。その美しい体躯を弓なりに歪ませて泣き始めた。
「だから、4時に何があるっていうの」
あえて感情を含めずに言の葉を舞わせる。
「4時半までに家に帰らないとわたし・・・・・・ウウ」
ずいぶん、早い門限だなと晴海は聞いていた。まさに、推理小説を一頁ずつ捲る感覚である。しかし、まひるの様子を見ていると事態が深刻の度を濃くしていることがわかる。まるで赤子が引きつけの発作を起こすように、絶え間なく震えている。
「わた、わたし・・・・・・ウウ・・・・・みんなに、見捨て・・・・・られちゃう・・・・ウウウ・ウ・うう」
「みんなって?」
車は高速に乗った。まひるはそれを別世界への行旅に思えた。
―――そうだ、このまま何処かにイッちぇばいい。この人とともに、家族のことなんか、もう考えたくない。そうだ。最初からいないと思えばいいんだわ。そうすれば見捨てられたなんて思わなくていい。
オレンジ色に視野が染まっていく雲が、自分が産まれた世界のものとは思えない。
――――雲ってこんなに美しかったっけ。
そんな風に思考を飛ばす、まひるの耳にはさきほど囁かれた言葉がハウリングしていた。
(まひるちゃん、愛しているわよ)
辛うじて生き残っている自我は、その言葉に飛びついたのである。しかし、当の晴海は同じ声で違う言葉を吐いていた。それは打って変わって冷たく乾いていた。
「何を急いでいるのか、教えてもらってもいいかしら?」
「・・・・・・・・」
痺れを切らした女性警官は言葉に刺をしのばすことにした。
「何なら、車を停めてもいいんだけど」
「い、言います!」
空母を破壊される寸前に命からがら飛び立つ艦載機のように、まひるの声は逃げるように声の主から飛び立つ。
「お、お願いですから・・・・・ぁぁぁ・・・・ウウ」
「・・・・・・・・・・・・・・」
無言でフロントガラスを見つめる美貌の警官に、まひるは、かえって恐怖を覚えた。自然、それは少女の神経系に圧倒的な服従を強いる結果となる。
「あ、あ、わた、私、まひるは、家族のみんなに、嫌われて・・・ウウ・・・るンです」
「・・・・・・・・!?」
捜査官として才能を認められ始めた晴海とはいえ、さすがにこの答えを予期することはできなかった。そのうえ、それは同時に彼女の心の琴線に触れていたから、彼女にあるていどの動揺を与える結果となった。
「そうなのか・・・・・・・」
「私、私、もう駄目なんです! 今日の、誕生日に時間通りに家にいなかったら、もう、家から追い出されちゃう!!」
白皙の顔を両手で覆って泣きじゃくるまひるに、晴海はかかとで押し出すような声を出した。その動揺ぶりは敬語を使い忘れていることにも如実に現れている。
「血縁っていうものはそんなものじゃないんじゃないかしら? 血は水よりも濃いと言うし・・・・・」
「こ、今回が二回目だから、この前の旅行に行けなかったんです!」
この言葉でピンとくるものがあった。正確には「行かせて貰えなかった」と表現すべきだった。
「何か、あの子たちはそんなことを企んでいるのか、まひるちゃんが家族から嫌われるように仕向けたと?」
「ウウ・ウ・・ウ・ウ・ウ」
まひるの涙は、女性警官の問いを肯定していた。
「だから、全裸にして閉じ込めたということか ――――。まてよ、どうしてそこまでして彼女たちの言うことに唯々諾々と従っているのかしら?」
「それは ―――」
「まあ、いいわ、それは追々話して貰うとして、あの子たちはすごいことを考えているのね、これじゃ単なるいじめと違うじゃない。それほど恨まれる何をしたの? あなた」
それまでの優しさの籠もった花瓶にすこしはかり罅を入れる。
「ウウ・ウ・ウ・ウ・ウ」
「何を泣いているのよ、もうすぐおうちよ、みんなきっとまひるちゃんを待ちわびていると思うわ」
高速を降りる手続きをしながら、義理の姉を思い浮かべた。すこしばかり童顔で笑顔が優しい印象的を与える彼女と並んでいると、「どちらが、姉か妹なのかわからない」とよく言われる。本人たちもそう言われることに不都合を感じないようで、出会って間もないというのに、もう二回ほど女性同士の友情を養うデートとしゃれ込んでいる。晴海の仕事が身体の自由が利かないことを考えれば、短い期間にこの回数は異常といってもいい。兄が目を丸くしたのも至極頷ける話であろう。
高速から30分ほどして車はようやく五時前に佐竹家に到着した。
「ほら、着いたわよ」
「大丈夫だって、ほら、涙を拭いて」
「ウグ・・・・・・・!?」
晴海は、外に誰もいないことを、特にまひるの家族がいないことを確認すると少女の小さな唇に自分のそれを重ねた。
夕食が済んで3時間が過ぎていた。
長崎城主婦人は台所で食器棚を整理している。瀬戸物が発する銀色の音に誘われたわけではないが、陽子が入ってきた。
「お母さま・・・・・・」
「あ、陽子?!」
おずおずと母親を上目遣いで見る娘に思わず息を呑む。
思えば、この子にはいつも気を遣ってきたものだと思う。強いて優しくしてきた、言い換えればスポイルしてきた。それがこの結果である。少し冷たくしただけで、この体たらくである。塩を掛けられた青菜のようにしゅんとしている。
しかしながら、そんな陽子を見せつけられると、自分の中に虹色の卵を発見して、とことんいやな気分を味わうのだった。その卵が孵ると陽子に対する情愛がぴーちくと歌を歌い始めるのである。
そんな時、無理矢理にでもルリ子の顔を想い出すことにした。彼女を殺したのは誰だったのか。言うまでもなく、この少女の父親なのだ。すると、復讐心に燃える自分が奈落の底から這い出てくる。
だが、それをあからさまにするつもりはない。復讐は時間を掛けて行うのがいい。この娘は自分の正体を報されたとき、いったい、どんな顔をするだろう。それを考えるだけで、復讐は半ば済んだような気がするのだ。それに、神父が言ったことははたして真実なのだろうか。疑ってみる必要性はないのか。
彼女が生来与えられた知性が鎌首を擡げる。それは、夏枝にごく慎重な態度を要請するのだった。
ここは、確証が得られるまで事実を告げるのは待つべきではないか。
だが、いったん、這い出てきた復讐心を収めるためには、何か行動する必要があった。それが、彼女がこの時間に台所にいる理由だった。この時点において、核心を彼女に告げる必要はないが、今、手に温めているこのコップを渡す必要はある。
「もう、おやすみの時間でしょう? ホットミルクを用意しておいたわよ。中学に上がる前はお母さまが用意してあげてたじゃない」
「お母さま・・・・・・」
思わず、数粒の水滴が子憎いまでに美しい瞳からこぼれ落ちる。その水晶の液体には、見る人の憎しみを溶かす効力があるのか、夏枝の心は激しく揺り起こされた。
――――陽子!
「お嫌いになってはいやです・・・・・」
ごく、控えめに、今度は黄金の唇が震えた。金無垢の便器などという代物を造りたがる金満家がいるが、彼の審美のセンスは地に落ちていると言う他はない。美しいものは目立つべきではない。美しい淑女が身につけるネックレスのようにそこはかとない量で輝いているのがいちばんなのである。
その点、辻口家の三女の小さな唇は、十分、その価値観に合致している。夏枝もそれに異論がない。いや、それどころか、まるでむしゃぶりつきたくなるくらいの情愛を感じたのである。それは、かつて、胸に抱いた陽子に感じたそれに酷似していた。
――――陽子ちゃん!!
「誰が、貴女を嫌いになんてなるものですか」
「ウウ・・お母さ」
最後まで陽子は台詞を完成させることができなかった。
何故ならば、夏枝の胸に口を塞がれたからである。そして、彼女が敬愛してやまない母親から与えられた言葉は金粉よりも価値があった。
「ごめんね、陽子、お母さまはちょっと機嫌が悪かったの」
――うん、うん。
少女は、珍しく心の中では、母親に対して敬語を使わないことを許可していた。この時はまだ自分がどうして見えない壁を造ってしまっているのか、その理由を知らなかった。
幸せな嗚咽とほぼ同じリズムで液体の水晶が大きな瞳から零れては、黒曜石の沁みを母親のワンピースに造る。
しかし、この時、麗しい母娘の間には二万光年ほどの距離があった。同床異夢という陳腐な表現はこのさい相応しくない。それはふたりが置かれた環境と境遇の微妙さに関連している。有史以来、地上にこのふたりほど複雑な人間関係が存在したであろうか。愛憎とはいうが、それはこの二人の間に流れる潮を端的に表現することばに限定されるべきだろう。
その証拠に、母から娘に渡されたホットミルクには、その毒とでもいうべき一滴が含まれていたのである。
それを知らずに、あたかも、自分の涙を飲み干すように白い液体に口を付ける。まるで、その液体が持つ温かさが母親の情愛であるという理論を鵜呑みにするように、満足そうな笑みが喉の動きと呼応して豊かになっていく。夏枝はそんな姿を見せられると、胃を直接握りつぶされるような痛みを感じるのである。
―――私ったら、何て事を!? そんな・・ああ、だめ、だめ、全部、飲んじゃ・・・・・・。
しかし、同時にその可愛らしい顔を潰してやりたいという欲望がその触手を蠢かせてもいる。
いったい、自分は何者なのだろう。既に母ではないような気がする。そして、女でもないような気がする。いや、人間ですらないような気すらする。
そんな長崎城主婦人の感傷を破ったのは、コップが置かれる音だった。そして、世にも妙なる音が彼女の耳を楽しませる。
「ごちそうさま、お母さま!」
「そう ――――」
――――いけない。こんな表情をしていたら、ばれてしまう。この子はとても勘が鋭い。無理にでも笑顔を見せない。
みるみるうちに、陽子の微笑が曇っていく。
「お母さまも、具合が良くないから寝ることにするわ」
「・・・・・・・!?」
どんよりと曇った空から小雨が降りだした。しかし、それは母親の健康を気遣ってのことであり、間違ってもミルクに対する疑念ではないだろう。
夏枝は、辻口家の三女がキッチンを後にしたのを確認してから、紙袋に視線を走らせた。そこには確かにこう書かれていたのである。
リニョウザイ・・・・・・・・と。
「・・・・・・・・・・・・・・」
おぞましいものを見たような顔で、それをバッグに押し込めると、自身も寝所に戻るべく足を動かした。
翌朝、起床した夏枝は今まで感じたことのない頭痛に苦しんでいた。午前五時半、まだ朝食の用意を始めるには早い時間である。だが、あることが気になってたまらずに、寝具から身体を揺り起こした。
なおも寝息を立て続ける夫に、ぎょっとさせられながらも、辻口夫人はたいした音も立てずに室を後にすることに成功した。
だが、廊下の人となった夏枝は、自分とは打って変わってかしましい音を立てる人間を発見した。それは、陽子だった。
溜まらずに叱責する。
「何時だと思っているの? みんな、まだ寝ているのよ」
「ごめんなさい、お母さま、トイレ」
知的で上品な仕草は何処かに消えていた。
パタパタとスリッパに、無駄な歌を歌わせて、少女は向かうべき場所に消えていった。
その時、夏枝の耳を襲う不快なバスが聞こえた。
「どうしたんだ、陽子は、夜中、トイレに行きっぱなしじゃないか」
「何ですって?」
思わず怪訝な顔に美貌を歪める夏枝。それは一体、どういうことなのだろう。どうやら事態は、彼女の思うとおりにはいかなかったようだ。
実は、陽子は絶え間なく襲っていく尿意に苛まれていた。午後10時、寝具に入るととつぜん、尿意を感じた。予め、すませてあったにも係わらず、再び、下半身に起こった感覚に悶えた。
それは、明らかにかつて感じたある感覚に似ていた。親友である財前永和子から借りたきわどい表現に満ちた小説を、読み始めたころに感じたことである。その時、――フランソワーズ・ピアズとかいうフランス人作家の『O嬢の物語』という作品だったが、陽子はその題名を忘れてしまいたかったのだが、網膜に刻印されたかのようにどうしても忘れられないのだ。
それはともかく、陽子は数頁開いただけで、尿意に似た感覚を覚えたのである。股間を小筆で撫でられたかのような、異様な感覚が身体を這い上がってくる。思わず、性器の周囲を下着の上から押さえてしまったのだが、あの時はトイレに行こうとは思わなかった。直感的に、尿意とは違うことを認識していたのかもしれない。
しかし、その時は迷わず寝具を除けて、トイレに直行していた。普段ならば、寝ている人のことを慮って音を立てないようにするのに、そんな余裕もなかった。
――――いったい、どうしたというのだろう。
辻口家の三女は焦った。何故ならば、何度トイレに行こうとも、強烈な尿有から逃れられなかったからである。極度に水分を取りすぎたわけでもないように、トイレから寝具に戻ったとたんに、再び、尿意が襲ってくる。
そのおかげで一睡すらできなかった。
毛虫が何匹も股間の辺りを這い回る感覚を取り払うことはできない。それが一晩中続いたのである。
夏枝が朝食の用意をしている間、ずっと、陽子は生あくびを続けていた。そのために薫子にからかわれることがあっても、真剣に相手をすることができなかった。
眠くて眠くてたまらないのである。
ベーコンの焼ける匂いの芳しい目玉焼きを、テーブルの上に乗せながら長崎城主婦人は言う。
「どうしたのよ、陽子ちゃん」
「陽子ったら、夜中、トイレに言っていたらしいのよ」
間一髪入れず、辻口医院の院長が口を出す。
「何? そんなことがあったのか?」
「ええ、お父様・・・・・・・」
父と娘の会話を聞きながら、夏枝は、内心穏やかではなかった。
―――――何て言うことかしら。眠れなかったなんて。
臍を噛んだが、かつて、自分が睡眠脈を処方されたことを思いだした。眠れないならば、無理やりに眠ってもらえばいい。それならば ―――――。
この時、今から利尿剤と睡眠薬を混ぜて飲ませればいいと考えた。しかし、少し考えると、それは適当でないことに気づいた。
このまま、眠られても計画通りにはいかないし、学校でされても ―――――それもおもしろいとは思うが、しかし ―――――。
夏枝は、考えたのである、それはまだ先のことであると。
「具合が悪いならば、今日は休んだら?」
「大丈夫です、お母さま、学校に行けます」
いつもとは違った生気のない顔で、答えた娘は本当に眠そうに見えた。
院長夫人は、しれっとした顔で娘たちを送り出すと、夫に鞄を渡した。
「行ってらっしゃい」
その日の過密スケジュールにうんざりしていた建造は妻の顔をろくにみなかった。だから、家族の誰もがこの家の主婦がどんな顔をしていたのか、観察することがなかった。それを陽子の身体の不調と関連づけて考えることをしなかった。-
長崎城主婦人は台所で食器棚を整理している。瀬戸物が発する銀色の音に誘われたわけではないが、陽子が入ってきた。
「お母さま・・・・・・」
「あ、陽子?!」
おずおずと母親を上目遣いで見る娘に思わず息を呑む。
思えば、この子にはいつも気を遣ってきたものだと思う。強いて優しくしてきた、言い換えればスポイルしてきた。それがこの結果である。少し冷たくしただけで、この体たらくである。塩を掛けられた青菜のようにしゅんとしている。
しかしながら、そんな陽子を見せつけられると、自分の中に虹色の卵を発見して、とことんいやな気分を味わうのだった。その卵が孵ると陽子に対する情愛がぴーちくと歌を歌い始めるのである。
そんな時、無理矢理にでもルリ子の顔を想い出すことにした。彼女を殺したのは誰だったのか。言うまでもなく、この少女の父親なのだ。すると、復讐心に燃える自分が奈落の底から這い出てくる。
だが、それをあからさまにするつもりはない。復讐は時間を掛けて行うのがいい。この娘は自分の正体を報されたとき、いったい、どんな顔をするだろう。それを考えるだけで、復讐は半ば済んだような気がするのだ。それに、神父が言ったことははたして真実なのだろうか。疑ってみる必要性はないのか。
彼女が生来与えられた知性が鎌首を擡げる。それは、夏枝にごく慎重な態度を要請するのだった。
ここは、確証が得られるまで事実を告げるのは待つべきではないか。
だが、いったん、這い出てきた復讐心を収めるためには、何か行動する必要があった。それが、彼女がこの時間に台所にいる理由だった。この時点において、核心を彼女に告げる必要はないが、今、手に温めているこのコップを渡す必要はある。
「もう、おやすみの時間でしょう? ホットミルクを用意しておいたわよ。中学に上がる前はお母さまが用意してあげてたじゃない」
「お母さま・・・・・・」
思わず、数粒の水滴が子憎いまでに美しい瞳からこぼれ落ちる。その水晶の液体には、見る人の憎しみを溶かす効力があるのか、夏枝の心は激しく揺り起こされた。
――――陽子!
「お嫌いになってはいやです・・・・・」
ごく、控えめに、今度は黄金の唇が震えた。金無垢の便器などという代物を造りたがる金満家がいるが、彼の審美のセンスは地に落ちていると言う他はない。美しいものは目立つべきではない。美しい淑女が身につけるネックレスのようにそこはかとない量で輝いているのがいちばんなのである。
その点、辻口家の三女の小さな唇は、十分、その価値観に合致している。夏枝もそれに異論がない。いや、それどころか、まるでむしゃぶりつきたくなるくらいの情愛を感じたのである。それは、かつて、胸に抱いた陽子に感じたそれに酷似していた。
――――陽子ちゃん!!
「誰が、貴女を嫌いになんてなるものですか」
「ウウ・・お母さ」
最後まで陽子は台詞を完成させることができなかった。
何故ならば、夏枝の胸に口を塞がれたからである。そして、彼女が敬愛してやまない母親から与えられた言葉は金粉よりも価値があった。
「ごめんね、陽子、お母さまはちょっと機嫌が悪かったの」
――うん、うん。
少女は、珍しく心の中では、母親に対して敬語を使わないことを許可していた。この時はまだ自分がどうして見えない壁を造ってしまっているのか、その理由を知らなかった。
幸せな嗚咽とほぼ同じリズムで液体の水晶が大きな瞳から零れては、黒曜石の沁みを母親のワンピースに造る。
しかし、この時、麗しい母娘の間には二万光年ほどの距離があった。同床異夢という陳腐な表現はこのさい相応しくない。それはふたりが置かれた環境と境遇の微妙さに関連している。有史以来、地上にこのふたりほど複雑な人間関係が存在したであろうか。愛憎とはいうが、それはこの二人の間に流れる潮を端的に表現することばに限定されるべきだろう。
その証拠に、母から娘に渡されたホットミルクには、その毒とでもいうべき一滴が含まれていたのである。
それを知らずに、あたかも、自分の涙を飲み干すように白い液体に口を付ける。まるで、その液体が持つ温かさが母親の情愛であるという理論を鵜呑みにするように、満足そうな笑みが喉の動きと呼応して豊かになっていく。夏枝はそんな姿を見せられると、胃を直接握りつぶされるような痛みを感じるのである。
―――私ったら、何て事を!? そんな・・ああ、だめ、だめ、全部、飲んじゃ・・・・・・。
しかし、同時にその可愛らしい顔を潰してやりたいという欲望がその触手を蠢かせてもいる。
いったい、自分は何者なのだろう。既に母ではないような気がする。そして、女でもないような気がする。いや、人間ですらないような気すらする。
そんな長崎城主婦人の感傷を破ったのは、コップが置かれる音だった。そして、世にも妙なる音が彼女の耳を楽しませる。
「ごちそうさま、お母さま!」
「そう ――――」
――――いけない。こんな表情をしていたら、ばれてしまう。この子はとても勘が鋭い。無理にでも笑顔を見せない。
みるみるうちに、陽子の微笑が曇っていく。
「お母さまも、具合が良くないから寝ることにするわ」
「・・・・・・・!?」
どんよりと曇った空から小雨が降りだした。しかし、それは母親の健康を気遣ってのことであり、間違ってもミルクに対する疑念ではないだろう。
夏枝は、辻口家の三女がキッチンを後にしたのを確認してから、紙袋に視線を走らせた。そこには確かにこう書かれていたのである。
リニョウザイ・・・・・・・・と。
「・・・・・・・・・・・・・・」
おぞましいものを見たような顔で、それをバッグに押し込めると、自身も寝所に戻るべく足を動かした。
翌朝、起床した夏枝は今まで感じたことのない頭痛に苦しんでいた。午前五時半、まだ朝食の用意を始めるには早い時間である。だが、あることが気になってたまらずに、寝具から身体を揺り起こした。
なおも寝息を立て続ける夫に、ぎょっとさせられながらも、辻口夫人はたいした音も立てずに室を後にすることに成功した。
だが、廊下の人となった夏枝は、自分とは打って変わってかしましい音を立てる人間を発見した。それは、陽子だった。
溜まらずに叱責する。
「何時だと思っているの? みんな、まだ寝ているのよ」
「ごめんなさい、お母さま、トイレ」
知的で上品な仕草は何処かに消えていた。
パタパタとスリッパに、無駄な歌を歌わせて、少女は向かうべき場所に消えていった。
その時、夏枝の耳を襲う不快なバスが聞こえた。
「どうしたんだ、陽子は、夜中、トイレに行きっぱなしじゃないか」
「何ですって?」
思わず怪訝な顔に美貌を歪める夏枝。それは一体、どういうことなのだろう。どうやら事態は、彼女の思うとおりにはいかなかったようだ。
実は、陽子は絶え間なく襲っていく尿意に苛まれていた。午後10時、寝具に入るととつぜん、尿意を感じた。予め、すませてあったにも係わらず、再び、下半身に起こった感覚に悶えた。
それは、明らかにかつて感じたある感覚に似ていた。親友である財前永和子から借りたきわどい表現に満ちた小説を、読み始めたころに感じたことである。その時、――フランソワーズ・ピアズとかいうフランス人作家の『O嬢の物語』という作品だったが、陽子はその題名を忘れてしまいたかったのだが、網膜に刻印されたかのようにどうしても忘れられないのだ。
それはともかく、陽子は数頁開いただけで、尿意に似た感覚を覚えたのである。股間を小筆で撫でられたかのような、異様な感覚が身体を這い上がってくる。思わず、性器の周囲を下着の上から押さえてしまったのだが、あの時はトイレに行こうとは思わなかった。直感的に、尿意とは違うことを認識していたのかもしれない。
しかし、その時は迷わず寝具を除けて、トイレに直行していた。普段ならば、寝ている人のことを慮って音を立てないようにするのに、そんな余裕もなかった。
――――いったい、どうしたというのだろう。
辻口家の三女は焦った。何故ならば、何度トイレに行こうとも、強烈な尿有から逃れられなかったからである。極度に水分を取りすぎたわけでもないように、トイレから寝具に戻ったとたんに、再び、尿意が襲ってくる。
そのおかげで一睡すらできなかった。
毛虫が何匹も股間の辺りを這い回る感覚を取り払うことはできない。それが一晩中続いたのである。
夏枝が朝食の用意をしている間、ずっと、陽子は生あくびを続けていた。そのために薫子にからかわれることがあっても、真剣に相手をすることができなかった。
眠くて眠くてたまらないのである。
ベーコンの焼ける匂いの芳しい目玉焼きを、テーブルの上に乗せながら長崎城主婦人は言う。
「どうしたのよ、陽子ちゃん」
「陽子ったら、夜中、トイレに言っていたらしいのよ」
間一髪入れず、辻口医院の院長が口を出す。
「何? そんなことがあったのか?」
「ええ、お父様・・・・・・・」
父と娘の会話を聞きながら、夏枝は、内心穏やかではなかった。
―――――何て言うことかしら。眠れなかったなんて。
臍を噛んだが、かつて、自分が睡眠脈を処方されたことを思いだした。眠れないならば、無理やりに眠ってもらえばいい。それならば ―――――。
この時、今から利尿剤と睡眠薬を混ぜて飲ませればいいと考えた。しかし、少し考えると、それは適当でないことに気づいた。
このまま、眠られても計画通りにはいかないし、学校でされても ―――――それもおもしろいとは思うが、しかし ―――――。
夏枝は、考えたのである、それはまだ先のことであると。
「具合が悪いならば、今日は休んだら?」
「大丈夫です、お母さま、学校に行けます」
いつもとは違った生気のない顔で、答えた娘は本当に眠そうに見えた。
院長夫人は、しれっとした顔で娘たちを送り出すと、夫に鞄を渡した。
「行ってらっしゃい」
その日の過密スケジュールにうんざりしていた建造は妻の顔をろくにみなかった。だから、家族の誰もがこの家の主婦がどんな顔をしていたのか、観察することがなかった。それを陽子の身体の不調と関連づけて考えることをしなかった。-
雨が降っていた。
午後3時半を回ったところだ。五月は初夏といえ、こんな日は底冷えするものだ。麻木晴海は、ワンピースに付着した水滴に肌寒い思いをさせられながら、ハンドルを握っていた。樹脂製の素材がもたらす感覚に気持ち悪さを感じていた。
普段ならば、このような手に吸い付いてくるような脈動感が、ドライブの醍醐味なのだが、こんな日は不快なきぶんだけが粟粒をつくりながら肌の上を一人歩きするだけだ。
やけに手が粘つく。納豆のようないやらしい粘液がねばねばと糸を引いている。
「まったく、もう、露? 一ヶ月以上、季節が早まってるんじゃないの?」
車内にいる架空の人間に文句を言って、女性警官は苦笑した。しかし、次の瞬間、架空を実在に進化させた結果、美少女が背後に座っているのを確認して、さらに苦笑する。
「まったく、こんなかたちに母校を訪問するとは・・・・・・・それにしても、クククク・・・」
きっと、ここに精神科医がいたら、入院か、あるいは、そこまでいかなくても三ヶ月の投薬治療を提案するだろう。
声望学園は、説明するまでもなく私立の学校だ。だから、公立のそれよりもはるかにセキュリティーのチェックが厳しい。そのために、晴海の腕と肩は強い雨のためにしたたかに濡れてしまった。IDを係官に見せるというただそれだけの理由だった。
ちなみに、卒業生はみなそれを持っている。だが、来校する前に予め報告しておかねばならない。それとIDが一致したときのみ、来客用のゲートが上がる。
まるで、映画の中に直接入り込んだような気分が、晴海をさいなんでいる。いや、ごく普通に囲むと言った方が適当だろうか。
ゲートが下がる音、雨音、係官の無味乾燥な態度、それらすべてが、この世のものとは思えない。少なくとも、晴海側に存在する事象ではないような気がする。車の外にあるあらゆるものから現実感というものが欠けている。
それが生理的な不快感を呼んで、なかなか車外に出ることができなかったが、勇気を振り絞ってドアを開けてハイヒールの足を外に向かってけり出してみたら、雨の冷たさを実感して内心ホットした。
雨はやはり冷たい。
自分はたしかにこの世界の住人だ。だが、それに気づいてとして何だろう。いやな記憶に脳下垂体を焼かれようとも、自分はやるべきことをしなければならない。
車内から紙袋を取り出すと、校内へと急いだ。
将来の警察官僚は、何らノスタルジーを感じるようなそぶりを見せることなく、外廊下につながるドアを開けると、ハイヒールを脱いで予め用意した上履きに履き替えた。
光の点滅は ――――。
それは時間旅行への誘いのように思えた。想像しようもない未来の機械がちかちかと作動している。
非現実的な感覚を振り払おうと歩を早める。しかしながら、リノリウムの床を激しく打つ音は、真冬の朝の顔洗いのような効果を出してはくれない。ハイヒールではないからだ。スリッパのかかとではそうはいかない。
永遠に溶けない氷の城を護る騎士のように、颯爽と、しかし、生気のない一人だけの行進が続く。何処からか聞こえてくる生徒たちの笑い声や楽器の調律の音たちは、晴海の意識から速やかに除外されるものの、消える五秒前に、 無意識へのせめてもの抵抗を忘れてはいない。
「やれやれ、学校というものはこんな不気味なばしょだったかしら?」
自分がこのようなところに何年も通っていたとは、とうてい信じられない。それは学校という空間を卒業したとき、彼女や彼らは、もはや、永遠にこのような場所に戻るとは思ってはいまい。何故ならば、未来への期待に満ちるものが、もはや古巣を見返ることなぞないからだ。
ただし、何年間経って、結婚し、我が子が生まれ、それなりの年齢に生育すると、必然的にあのリノリウムの床に足を踏み入れることになる。
その時、かつての生徒たちは何を思うだろうか。懐かしいと思うだろうか。それとも不気味な感覚を抱くだろうか。今の晴海のように、かつての自分に疑念を抱くようなことがあるだろうか。
少なくとも、将来の警察官僚は自分の足にまったく疑問を抱いていないようだ。
晴海の歩幅は明らかに広くなっていく。あたかも、予め用意された道程を歩いているように見える。彼女にしか見えないレッドカーペットが敷かれているというのだろうか。
そんな空間と回廊を数分ほど歩くと、トイレのタイルを踏みつけていた。少し、周囲を見回すと携帯に舌を伸ばしながら、ひとつの個室の前に立つ。
アルトの声を静かに響かせる。
「私だ」
「え? まさか、本当に来てくれたんですか?」
携帯の向こうからは泣き声に混じって人語らしきものが紛れていた。
「いいから、鍵を開けろ」
「ハイ・・・・」
留め具が解除される錆びた音から、そうとうの年代物だということがわかる。だが、晴海にとって、そんなことはどうでもよかった。
狭い個室に囚われた全裸の美少女を眼で捉えると、邂逅一番、言った。
「よくも、携帯だけは盗られなかったな」
「ぁ・・・・」
少女はあまりに美しかった。その白い肌は完全に周囲から浮いていた。あたかも天使の輝きが乗りうつったかのように密やかな光沢を放っているのだ。あたかも生クリームとチョコレートとアイスで固められた特大パフィーを目の前にした少女のように、奥歯と両手に力を入れていないと、次の瞬間には食指を伸ばしてしまいそうに思えた。
しかし、頑是無い少女を目の前にしてそんな自分をさらけ出すのは、当然、晴海の沽券に係わる。
そのために、わざと素っ気ない態度を取る。
「・・・・・・」
全裸にされた少女にありがちな、胸と股間を隠したその姿は、晴海の勘気に触れた。
―――鳩胸のくせに何よ、その姿は!?
自分の身体を中に押し込め、再び、錠を施した。
「さて ――」
「ヒ・・・・・」
佐竹まひるは完全に凍りついていた。だから、晴海の方から働きかけようとした。ただし、溶かそうというのではない。床に叩きつけて壊そうとしたのである。
「答えを貰っていなかったな。どうして、携帯だけは盗られなかったんだ」
「ひ、必死に、後ろに隠したんです、ここに押し込められたときに・・・・・」
「ここで、脱がされたのか」
まひるは、黙って肯いた。何粒のもの銀色の水滴が汚いトイレに落ちた。晴海は、刑事らしく彼女の言葉を裏付けるべく、美少女の指さした方向を確認する。たしかに、そこには窪みがある。タイルに穴があいているのだ。おそらく、咄嗟に携帯を嵌め込んだにちがいない。
嘘をついていないと判断しても、そう簡単には納得してやらない。
「咄嗟の判断で、よくもこんなことができたこと?」
「いつも、ここに閉じ込められているんです」
眼が痛い。なおも晴海の欲望を刺激する光が放たれている。
「で、どうして、私をこんなところに呼び出したわけ? 仕事中だったんだけど。容疑者の家に踏み込むところだったというわけで ――――」
晴海は嘘を言った。自分の起こした行動によって、どんな風に美少女の表情が変わるのか楽しむだめである。
憮然とした顔の女性捜査官に、まひるはさらに表情を曇らせた。
「だけど、どうして、ここがわかったんですか? あれだけの説明で? 麻木さん」
「私を誰だと思っている? それは、まあいい。どうして、私を呼んだ? いつものことだろう? いじめられているのは。それとも、今日は特別な日なの?」
女性捜査官が観察したところ、少女から、微かだが恐怖を読み取ることができた。改めて、彼女の内面を探る。
5月10日が彼女の誕生日であることを知りながら訊いた。
「きょ、今日は、私の ―――」
「それはどうでいい」
「そ、そんな ―――」
一方的に決めつけられたまひるは、打って変わって、抗議の色を発した。
――その顔よ。私が見たかったのは!
将来の警察官僚は密かに悦んだ。その目に光が蘇ってきたのである。しょせんは敗残兵の最後の自尊心の類にすぎないが、それだからこそ、強者の自負心を刺激するのだ。だが、全裸でいくら気張っても迫力がないと晴海もようやく気がついた。
持ってきた紙袋を渡す。
「ほら、持ってきたわよ」
「・・・・・・・・・・・!?」
まひるは驚きを隠さなかった。それは声望学園の制服だったからである。
ありふれた紺のブレザーに明るい紫のリボンタイ。奇を衒っていない制服は、学校の方向性が時流に流されないことを暗示している。だが、いかにも人間を同じ殻に閉じ込めようとの腹が透けて見える。それは一種のSMではないか。軍にしろ、警察にしろ、あるいは企業にしろ、制服というのは人間を一定の洞窟に閉じ込める役割を果たす。そこにはすこしばかりの差異は同じ色で塗り固めてしまおうという支配する側の意図が見え隠れする。晴海は別にそれが嫌いではない。ただ、支配する側にいたいと思うだけだ。もっとも、かつて逆の立場にいたことを恥じだと思わないし、快楽らしきものがなかったわけではない。ただ、元に戻ろうとは思わない ―――本人としてはそのつもりである。
だが、目の前の美少女を通じて婉曲的な意味からそれを為そうとしていることに、この怖ろしいほどに知的な人物は気づいていない。
まひるはなおも晴海を睨みつけているが、それは言うまでもなく虚勢であり、何ら実体があるわけではないが、そういう姿勢を精一杯見せる姿が、女性捜査官にとってみれば頼もしく、あるいは、可愛らしいと映るのである。
俗に言うならば、やせ我慢という言葉が適当だろうか。
しかし ―――――。
そんな哀れな背伸びも、この悪女の前では数分と続くものではない。
「ナ・・・・・・・・・?!」
少女の小さな口から、身も世もない吐息が漏れる。もしも、我慢というものがある種の液体の量によって示され、それが人体につけられた機械によって計測されるとするならば、そのバロメーターは針が振り切ってしまうにちがいない。
今、緊張の糸は完全に切れようとしていた。
目に見えないほどの動きで屈むと被虐のヒロインの股間を捉えたのである。両手で少女の大陰脚に指を伸ばし、小陰脚にまで手を伸ばす。
「はやく着替えなさいよ、それともこうしてほしいの?」
「ィイヤァァァアア・・・・・あああ・・・・・ぁ!」
ま ひるは、見られたくないものを外敵から守るように息をひそめた。全裸の上に性器まで顕わにされているのに、これ以上何を隠すというのだろう。晴海はさらに膣内の探索を始める。
「ぃぅあぁうぁう・・・・・アア・・・ぁは・・・ア」
タランチュラのような指が少女の胎内で蠢く度に、それらはまひるの敏感な部分を刺激する。そうすると、さしものの高いプライドも砂上の楼閣のように崩れ始める。いや、崩れる瞬間まで追い込まれた。
「あレ?これは何かしら?こんなところにどうしてこんなものが?」
女性捜査官は演技ではなくて本当に疑問を呈した。少女の膣の奥から米と思われる塊が、まるで寄生虫のように、這い出てきたのである。
「ひい、いや! いや!」
どうやら、この米には少女が知られたくない秘密が隠されているようである ――――というよりも、それを晴海は熟知しているのである。それでいて、見え透いた演技を疲労した。
「どうしてカナ? まひるちゃんはこんなところから栄養を摂取してるの?」
「ヒィィィィィィィィィィいいい?!」
性器を蹂躙されるまひるには、もう抵抗する力が残っていないと見えて、晴海の頭を摑みながら翼をもがれて押さえつけられたウグイスのように、可愛らしい喘ぎ声を発している。
「答えなさい、どうして、こんなものがここにあるの?」
「ウ・ウ・ウ・ウ・ウウウ・う・・うう、いや! ウウ・ウ・・ウ・ウウ」
すべてを知っていながらあえて訊くという行為の残酷さを認識している。ぴょこんと可愛らしく立ちはじめたクリトリスを銃の照準にして、美少女の涙顔を狙い打ちする。ちなみに、銃弾は女性捜査官の視線である。だから、正確を期すならば、レーザー銃ということができるだろう。
もっとも、現代の科学力ではそのような武器は発明されていないのだが、SFという設定に焼き直せば、それも可能だろう。
どうやら、被虐のヒロインには、現代武器技術の考証などは不必要だったと見えて、素直に口を開いた。もちろん、それには一回、口を動かすたびに、相当量の涙を必要としたのだが。
「アア・・・あ、そ、それは・・ウウ・・ウ・ウ・ウ、きょ、今日の、お、お弁当です・・・ウウ・・ウ・・ウ・ウ」
「何? まひるちゃんは、こんなところにお弁当をつけて、登校しているの?」
「あぎぃ・・・うう、いや、ぁぁぁ、ま、毎朝、か、彼女たちに、ここに、お、お弁当を入れさせられます・・・・・
「日本語の使い方が違うわね、入れられるんでしょう?」
「さい、最初はそうでしたけど、ウウ・ウ・・ウ・ウ」
「最近では、悦んで入れてるのね」
「ち、違う! よろ、ウウ、悦んでなんかないです!!ウウ・ウ・・ウウ・ウ」
「まあ、いいわ、そんなものをここにくわえ込んで居ながら、授業を受けているわけ?」
「ウウ・ウ・ウ・ウ・ウ・ウ」
もはや人語が出なくなった時点で、矛を収めることにした。
「さ、はやく、着替えなさい、どうしても行かなくっちゃいけない用があるんでしょう?!」
「ハイ・・・・・・」
もちろん、この悪徳婦人警官の頭の中には、その情報も放り込まれている。
涙を流しながら、あたかも、おもらしをした幼児が母親から着替えを促されるような緩慢な動作で、渡された制服に袖を通す。
――――ふん、身長が身長だけに、ぴったりね。私の制服。
しかし、どうやらみはるのほうがやや華奢なようで、身体にぴちぴちだった。おかげで、ワイシャツの上から乳首の形がはっきりとわかる。
それをからかうのは簡単なことだが、これ以上いじめると崩れそうに思えたから、ここで打ち止めにすることにした。
「ほら、はやくなさい」
「・・・・・・・・・」
しかし、鍵が解錠されたとき、晴海はわずか数秒先のことを予測できなかった。
「・・・・・!?」
それを目撃した瞬間、彼女は目を疑った。
この個室に囚われていた時とはまるで別人に見えた。幼女が大人になった。葉の上を這っていた芋虫が、さなぎを経ることなく、一瞬で、見事な蝶になったかのように見えた。
―――生徒会長とはこういうことか。
全身に創傷を負いながらも肩で風を切るその姿は、音声だけではとても摑みきれない偉容 ―――――だった。
「え!?」
由加里は耳を疑った。正確には、耳に入ってきた空気の振動に驚いたのである。目の前には、似鳥可南子の凶悪な顔がある。
ジャガイモを彷彿とさせる、いちもつは、しかし、看護婦という表向きの身分に金メッキされて、偽物特有の浅い輝きを発している。
せめてもの抵抗の意思を示すために何か言わねばならない。だが、口が自分のおもうとおりに動いてくれない。口の中が渇いてたまらなない。唾液は乾燥の上に乾燥にを重ねて、はては、粉になって歯間に侵入してくる。食べ物のカスとそこに棲まう得体の知れない病原菌のミイラが、歯茎にその汚らしい手足を突っ込んでくる。
我慢しがたい吐き気に密かに苦しむ少女。
江戸時代には、正座させた容疑者の膝の上に一枚づつ石の板を乗せていくという拷問が、あったらしい。
現在、被虐のヒロインが置かれている状況は、まさに、それだと言って良いだろう。少女の柔らかく傷つきやすい大腿の上には、また一枚、拷問具が乗せられる。
彼女の網膜に像を結んだのは、サディズムの脂に濡れた女の顔だった。
悪魔が舌づりしている。
可南子の脂ぎった舌と唇が淫猥な言葉を紡ぎ出す。少なくとも、被虐のヒロインの耳にはそう響いた。
「あなた方、看護の仕事って興味ない? 例え、興味なくてもいずれ、ご両親がいつそうならないとも限らないのよ、日本の高齢化は急激に進んでいることであるし」
悪魔の看護婦とて、自分が言っていることの滑稽さには、十分、気づいているのだ。しかしながら、この大人には、いま、自分が置かれている状況を最大限に愉しんでやろうという、ある種の余裕がある。
そして、この少女にもその片鱗が見られた。
「でも、局所を、看護婦さんでもお医者さんでもない、第三者に見られるというのはたいへん辛いことだと思いますが・・・・・・」
この台詞の主は、はるかでも、はたまた、貴子やミチルでもない、なんと、海崎照美、その人である。
知性によっても、憎い相手を痛め付けられるということに、気付きはじめたということだろうか。局所などという言い方は、由加里のサクランボの羞恥心に穴を開けたことは想像に難くない。
今、中から甘い、そして、筆舌に尽くしがたい哀しみに満ちた果実が零れようとしている。それらは、ぴちぴちと、若さというよりは、成長途上の初々しさを備えている。
「西宮さん、あなた、介護の仕事に就きたいって言っていたわよね」
―――――え?!
ここまで来るとデタラメというのも、案外、芸術の域に達していると言える。可南子のぎらぎらした眼は、自分が天使であることを確信している ―――ように、由加里には見えた。一体、何が怖ろしいか。自分のことを客観視るできない狂信者ほど、他人を怖れさせかつ、気持ち悪くさせる存在も珍しい。
可南子の爬虫類じみた双眸は、脂ぎった臭いさえ周囲に発し、自分の正当性をいやおうなしに主張している。
―――みんなはわからないの、この人のおぞましさが・・・・・・・。
由加里は心の中で呻いたが、八つの瞳たちを見ていると、どうも小指の先ほどの同情も得られないことは容易に分かる。
みんな、未知なるものへの好奇心に魂を奪われている。それもミチルや貴子までものが、その種の麻薬に理性を麻痺させられているではないか。
しかし、照美やはるかはどうだろう。
彼女たちは、自らの手で自分の恥部をさんざん弄んだではないか。それとも、病院、看護婦、そして、介護者、被介護者という関係がもたらす特殊な状況が、ふたりにも、麻薬を注入したとでも言うのだろうか。
もはや、この白衣の天使はこの場の主導権を手にしている。四人を完全に、もしくは、そこまでいかなくても抵抗を表出させないくらいに、頭を押さえることに成功しているということは可能だ。
「どう? 西宮さん、将来そういう仕事に就くならば、介護される立場の気持を体感することも重要よ」
理路整然とした言葉が、何枚もの舌が繰り出してくる。もっともらしいことを言うようだが、それはあくまで状況しだいということだろう。
介護研修において、被介護の立場に立つことはあるが、由加里は研修生ではなく、この病院の入院患者なのである。そのことから、可南子が言っていることが破綻しているのは一目瞭然なのだが、四人の耳目はそちらには向かわない。
ここに、一人の少女に筆舌に尽くしがたい羞恥を味合わせる、一種のプログラムが組まれたのである。
「ハイ・・・・・・・・・」
小さく俯いた由加里の口から、その言葉を聞き取った人間は、この場に誰もいなかった。
「じゃ、はじめましょうか」
可南子は残酷に言い放った。
彼女の言葉に引き寄せられるように、四人が少女のベッドに集まる。
「・・・・・・・・・」
由加里もまた麻薬に絡め取られていたと言ってもいい。少女の顔が恍惚に歪んでいることがそれを証左しているだろう。白衣の天使の非常識な言い方が心を揺さぶらなかったのである。あれほど知的な光を放っていた瞳にはにごりが発生し、今にも溶けてしまいそうだ。それに引きずられたのか、耳までが溶け落ちそうに黒ずんでいる。
だが、それを醒めさせたのは、ふたりの少女だった。由加里がいちばん辛いとき ――――今でも、十二分に辛いのだが、彼女を慰めてくれたは誰と誰だったか。同級生たちはおろか、後輩たちにまで犬以下の扱いを受けるなか、 先輩に対する敬意を保っていてくれたのは誰と誰だったか。
被虐のヒロインの視界がその二人を捉えたとき、彼女の目の光りが戻った。
「い、いや、ミチルちゃん、貴子ちゃん、お願いだから、見ないで!!」
――――あそこには!? いや、そんなのを見られるのは絶対にいや!!
そして、思いだしたのは、性器に挿入された異物のことである。由加里の性器には照美によって、ゆで卵が詰め込まれているのだ。その姿を由加里やはるかには、ともかく、貴子やミチルに見られるわけにはいかない。そんなことになったら、もう、おしまいだ。学校で、自分を人間として扱ってくれる唯一の存在を失うことになる。
「赤ちゃんみたいに暴れないの!! ほら、手伝って!!」
「ヒイイ!! ぃぃやあぁぁぁ・・・・・・・アア!!」
はるかと照美に両肩を固められては、もはや、身動きができるはずがない。
――あれ、こいつ、もう治ってやんの。
―――ほう、治ってるのね。
二人は目敏く獲物の健康状態を見破っていた。両者の違うところは、それを素直に表に出すか否かのちがいであろう。
照美は美貌を光らす。
「由加里ちゃん、もう、退院できるわね。親友として喜ばしいかぎりだわ」
悪魔はここにもいた。
「ウウ・ウ・ウ・ウ?!」
今更ながらに、自分をこの状態にまで貶めた存在を、思いおこさせた。
白衣の天使が何故か悪魔に加勢する。
「あなたたち、心配しないでね。入院患者にはよくあることなのよ、拘禁反応、いわゆる、赤ちゃん返りよ、ほら、 暴れないの、足を広げなさい! 溲瓶が入れられないでしょう!?」
いつの間にか、透明なガラス容器を振り回しているではないか。
「いや ―――――――!!」
知的な美少女の精一杯の非力な抵抗は、簡単にはねのけられてしまった。半身を覆っていた布が取り払われたのである。
しかしながら、由加里は必死の抵抗を諦めなかった。城で言えば、一の丸を護るべく鉄壁の防御を発揮させたのである。
「グウ・・・・!」
少女は綱引きの時のように、歯を食いしばった。涙が幾つも小川を造ったことにすら、紅潮した頬は気づかなかった。それは顎に向かってちょっとした滝まで流していたのに・・・・。
―――あら、あら、西宮ったら、がんばるわね。
はるかは、この時まで獲物の下半身に起こったことを忘れていた。
照美は、この時まで獲物の下半身に施したことを忘れていた。
しかし ―――。
広げられた大腿の中央に鎮座まします女性器は、微かに広がってはいたが、そのいちもつは、顔を出していなかった。
だが、愛液こと膣分泌液まで我慢することはできなかったようだ。まるで幼児が垂らす涎のように可愛らしい小川が、股間から流れていた。
「や、やめで、ください、先輩が可哀想です!」
今更ながらに、由加里を庇いだしたのは貴子である。しかし、その声はかすれがちで説得力のないこと、この下ない。
「言い忘れたけど、西宮さんの尿道にま問題があるの、このまま尿意を我慢させたら、腎臓の病気になるわよ、そうしたら、一生人工透析の憂き目を見ることなるのよ!」
被虐のヒロインを救ったのは、高島ミチルだった。
「その液が病気の証拠なんですか?!」
「いややややっやあああぁぁあっぁぁ!! ミチルちゃん!見ないで!見ないで!」
自分が救われたとも知らずに、激しく号泣する由加里。だが、下半身の筋肉をいっときも緩めるわけにはいかない。
なんといっても、彼女の膣内には照美の悪意が挿入されているのだ。同時に、それは彼女が淫乱な変態娘である証拠でもある。あくまで、この状況下においてはミチルや貴子に限定されるが、じゅうぶん、由加里にとってみれば有効な演出である。
「ぉ、お願いです、お願いですから、今は、許してください! ィィィ」
由加里は力の限り叫んだ。
「わかったわ、後にしましょう。ほら泣かないで・・・」
「ウウ・ウ・ウ・・ウ・ウ・ウウ!!」
まるで赤ちゃんをあやすように、少女の頭を撫でて股間を布で覆ってやる。だが、彼女の耳元にこう囁くことを忘れなかった。
――――ここの処理もしてくれるなんて、いいお友だちが学校にいるのね。
「・・・・・・・・!?」
その言葉が持つ多義性に、少女は戦慄した。何重にも狡知で陰険な鉄の鎖に絡まれて、その意味は曖昧模糊の海に漂っていた。その鎖は錆びて赤銅色に腐りかけている。
――――それって性欲のこと? もしかして、私が学校でいじめられていること、知ってるの? まさか、似鳥さんから訊いているってことないわよね・・・・・・・・・・・・・。
こんな時に『性欲』などと言う言葉が中学生の女の子の思惟に流れたのは、言うまでもなく、はるかによる調教の精華だろう。
彼女によってもたされた性的な情報は、あきらかに、由加里という少女をある方向性へと成長を遂げさせていた。
そのことが幼気な少女をどのような運命に導こうとしているのか、はるかや、照美はおろか、当の本人にすら理解できていない。
ただ、この場の唯一の味方に救いを求めるだけである、息も絶え絶えな哀れな声で。
「ウ・・・ウ・ウ、ミチルちゃん、貴子ちゃん・・・・・・ウウ・ウ・・ウ・ウ」
だが、この二人が消えるまでは、下半身の筋肉を緩めるわけにはいかない。居て欲しいという気持と、去ってほしいという不遜な思いが、瀕死の少女の脳裏に蠢いていた。
「ミチル、帰ろう・・・」
「うん ――――」
貴子は敬愛しているはずの先輩に一瞥も与えずに、室外に消えようとした。一方、ミチルは無言で敬愛に満ちた視線を送ってきた。
言うまでもなく、前者は性器が濡れている理由を知っている。そして、後者は知らない。その事実がもたらす効果について、知的すぎる少女が予想できないはずはなかった。
きっと、このような会話が成り立つにちがいない。
「ねえ、ミチル、西宮先輩って、変態なんじゃない。病院であんな恥ずかしいことできるんなんてさ ―――」
「あんなことって?」
「ミチル、先輩のアソコ、あんなになっていたじゃない!!」
しかし、ミチルは金魚のような眼をむけるだけだ。
ここまでも、言うまでもなく、はるかによる調教の精華である。無意識のうちに小説を書いてしまっているのである。しかも、最悪のシナリオを、である。
それによると、ミチルは親友に、西宮由加里という先輩がいかに淫乱で変質的な女の子であるか、耳にタコができるくらい講釈されるのである。
はたして、夜明けはまたやってきた。窓の外に顔を出しているのは、安価なインクでべた塗りしたような陳腐な太陽だ。
なんと不快な朝か。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
――――来てしまった。朝なんて二度と来て欲しかったのに!
寝具の上で長崎城婦人は我が頭を摑んだ。しばらくその姿勢のまま、あまりに冷酷な朝日を恨むしかなかったが、隣に城主が寝息を立てているのに気づくと、急いで姿勢を元に戻した。
「う・・・・、どうした、夏枝、日曜日だと言うのに、こんな早く?」
「いえ、嫌な夢を見たものですから」
夏枝はかぶりを降って、夫の視線を巻こうとした。
しかし、短く別れの言葉を残すと、建造はすぐにもといた夢の世界へと舞い戻ってしまった。
「そうか ―――」
「まるで、私のことなどもう興味がないみたいに・・・・・・・・・」
城主婦人は忌々しそうに、寝具からあぶれた夫の頭を睨みつけると、水面から飛び出るカワセミのように起きあがった。
だが、カワセミは獲物を口にしているものだが、彼女は果報を何ら手に入れることはできなかった。ただ、気だるい朝という海にまた舞い戻ったたけである。
――――――――――――――――――。
それに追い打ちを掛けたのは、部屋の外から聞こえる非常に聞き慣れた声だった。ラメ入りのピンク色リボンのような声が響いてくる。
「まあ、お姉さまったら、あははっ、陽子も欲しいです!」
「陽子! 朝ご飯中に遊ばないの、食べさせてよ!」
言うまでもなく、薫子と陽子の声だ。また年甲斐もなく姉妹でふざけあっている。
――――姉妹なものか!
普段では考えられないほど慌てた動きで、キッチンまで走り寄ると、いちおう息を整えてから中に入った。
「何をやってるの?」
自分では呼吸を整えたつもりだったのだが、思うとおりにはいかなかったようだ。自分では気づかなかったが、よほど怖い顔をしていたのか、陽子は、怪訝そうな顔を向けてくる。一方、薫子は、まったく感情を乱していない。その違いが二人の性格の差異を如実に表しているのだが、そんな風に理性的な観測をしていられるような状態ではなかった。
辻口家のお姫様は、姉の頭にとりついたまま、時間を止められたかのように凍りついてしまった。
「お母様・・・・・・」
言いつけを守らなかった子犬のような顔を向けた。それに苛立った夏枝は、いつにない声を荒げた。
「何をやってるのって、訊いているんだけど、お母さまは」
―――私ったら、お母さまだなんて・・・・私はもうこの子の母親じゃないのに!
メロンの編み目よりも複雑な表情を上品な顔に乗せて、夏枝は密かに苦笑した。だが、陽子の顔を見たとたんに、真顔に戻ってしまった。
「お母さま・・・・・ご、ごめんなさい」
「どうしたのよ、ママ?」
やっと、母親の異変に反応する気になったのか、薫子は口を開いた。彼女はけっして無神経ではない。ただ。神経が強いだけだ。だから、すべてにおいて知悉していながら、無知蒙昧の仮面を被って、わざと静観していただけなのである。
「いや、なんでもないわ、ちょっと、苛立っただけ、あなたたちも、小さい子供じゃないんだから、こんなところで遊ばないのよ」
ごくありがちな言葉を残して母親は去っていった。
母親に残された三女は、このままだと卒倒しそうなまでに、顔が青ざめていた。そして、母親よりも、もっと陳腐な感想を洩らした。
「お母様、どうなさったのかしら?」
「陽子?」
「ほら、落ち着きなさい、さ、座って。姉さまのパンケーキ食べていいから」
「・・・・・・・・・・お姉さま」
改めてじっと見ると妹の顔は、憎らしいほどに愛らしい。こんなに辻口陽子という少女は人を惹き付ける魅力に満ちた子供だったろうか。
辻口家の長女は、有無を言わさずにマホガニーの椅子に座らせると、やや冷たくなったパンケーキを切り分ける。そして、皿に盛ると妹の目の前に置いた。しかしながら、その手つきはあまりに上品だったために、妹は気づかなかったくらいだ。
「お姉さま、陽子は、お母さまに嫌われてしまったのですか?」
「何をバカなことを、これからママに問いただしにいくから、安心なさい」
かつて観た英国は、ロンドンの蝋人形のように妹はそこにある。何世紀も前の人物が生きているように再現されているのだが、今の陽子はまさにそれと酷似している。
――――誰にも冷たくされないってある意味不幸かもね。それも、ママにこんな風にされるなんて・・・・。
薫子は、心底、妹のことを思っているはずだった。少なくとも、そう思っていたかった。しかし、塩を掛けられた菜っ葉に、そこはかとない優越感を覚えていたのもまた事実である。それは自分ですら気づかないうちに、この少女の精神に根っこを生やしている、あるいは、まだ繁殖こそ始めていないものの、確実にその勢力を拡大すべく他国の領土に野心を燃やしていたことは確かな事実である。
「わかったわね、さあ、食べていなさい」
「わかりました、お姉さま・・・・・・・」
気が乗らない陽子だったが、ようやくナイフとフォークに手を伸ばした。それを確認した、薫子は、自分が頼りになる姉だと自己満足に浸りながら、キッチンを後にした。
さて、母親は何処にいるだろう。寝室か、それとも、庭だろうか。薔薇の手入れをしているということは十分にありうるが、まだこんなに早い時間から、それも朝食を取らずにそんなことをしているとは思えない。
辻口家の長女は、逡巡の末、寝室に急行した。
「あれ、パパ、ママは何処?」
「おはよう、薫子」
どうやら、この才女の予測は完全に的を外したようだ。母親は庭にいるということだろうか。
「夏枝はもう起きたのか、早いな、休日なのに ――」
「パパったら呑気なんだから、あれ、ママ、何処か具合がわるいの?」
薫子の視線はベッドの隅にある薬袋に向かっていた。
「利尿剤さ」
「え?ママ、腎臓が悪いの?」
「いや、薬剤師のヤツがまちがえたんだよ、風邪薬とね」
投げやりな手つきで袋を出窓に向けて投げつけた。薫子は何の気もなしにそれを眺めると、やがて注意の焦点から消し去って言った。
「ママは庭ね」
「そう思うよ、パパは、昨日まで立て続けて手術が三日さ。もうすこし、寝かせておくれよ」
相手が薫子だと何の緊張もなしに、自分を出すことが出来る。それが我が家において貴重な存在であり、神棚にでも飾っておきたくなる人材である。彼じしん、その理由がなへんにあるのか、その答えを知らなかった。いや、知ろうしなかったのかもしれない。それは自分が営む家庭の平和を根底から揺らす主因になりかねないと予感した可能性もある。
ともかくも、ねぶた眼で長女を見送った建造は、再び、罪のない寝息を立て始めた。
それを確認することなく、娘は庭に向かって歩み出した。
母親、陽子、利尿剤、複数のキーワードを並べてみるが、たいした答えを期待できそうにない。だが、自分の名前をその中に入れなかったのはどういうわけだろう。それは彼女らしくないミスというべきだろうが、いかに賢い人間でも足下のことは見えないということが人間の世界にはよくあることだろう。
――――私は、なんだか、仲間はずれにされているみたい。
薫子が考えたことは、非常に幼稚な感想だった。だが、それを表に出さないぐらいの知性と理性を兼ねそろえていた。
心配なことはある。このまま母親の前に立って、彼女にぶつけない自身があるだろうか。それが問題だったが、会わないわけにはいかない。
居間を抜けて大きな戸を開くと、広い庭に面する。辻口家の庭には薔薇園が存在する。夏枝が丹精を込めて育ててきたものだ。ちなみに、三つにわけられている。薫子はその理由をうすうす知っていた。それぞれ、自分たち、3人の娘を模したものであろう。
だが、ルリ子のことがあるから、娘たちにそのことを告げていなかった。もちろん、それは薫子の予測だが、ある時に、「ルリ子ちゃん」と言いながら水をやっていることがあったか、ほぼ確かなことだと見なしていた。
庭に出た薫子は、母親を見つけるのに一秒も係らなかった。ちょうどルリ子と呼ばれた薔薇ともうひとつの薔薇のまん中に居た。
「ママ・・・・・・・・・」
娘の呼びかけに、夏枝は背中で応じた。黒いカーディガンに覆われた背中はいつもよりも華奢に見える。
「一体、どうしたって言うのよ。陽子に当たっても何にもならないでしょう?」
「・・・・・・・・・・」
「?」
改めてふり返った夏枝に辻口家の長女は言葉を失った。その憔悴ぶりは目に余るほどだったのである。眼は落ち込み、心なしか皺も深くなっている。20代後半に見えるとさえ言われた美貌は何処に言ったというのだろうか。
「ママ ――――」
返事の代わりに返ってきたのは、園芸用の鋏だった。それはずっしりと重かった。薫子は無視されることを別に悲しいとは思わなかった。だた、現在、辻口家が置かれている状況がある困難に直面している。その思いを強くしたが、その正体についていくら考えてみてもその答えは容易に出そうにない。
一方、寝所に戻った夏枝はある紙袋を睨んでいた。朝日はすでに昼にバトンを渡そうとしている。
リニョウザイと片仮名にその文字を読んでいた。そうでもしないと、夏枝の心は彼女が袋を持ち、睨んでいることを認めないだろう。
――――私は、いったい、何を考えているのだろう。何をしようとしているのだろう。
そんな物憂いを止めさせたのは、瓶が転がるような音だった。部屋の外から聞こえてきた音だったが、その主が誰のものなのか直感的にわかった。
―――――陽子!
「誰です?!そこにいるのは!!」
「ぁ・・・・」
ドアを開けると、はたして、そこには辻口陽子が小さな口を限界まで開けて立っていた。その大きな双眸からは涙が光っていた。
「・・・・・・・・・・」
彼女の足下には花瓶が転がっており、床に水玉ができていた。それは、陽子の涙のように思えた。
「あ、ご、ごめんなさい。お母さま・・・・・」
急いで花瓶を持ち上げようとする陽子。そんな娘に声をかけた。
「あなたは何か用があったんじゃないの」
「え。だから、花瓶をお持ちしようと・・・・玄関に、綺麗なお花が咲いておりましたので・・・」
とても綺麗な声だった。小さいころから耳に親しんできたものだ。だが、それは夏枝にはない属性だった。
思えば、自分の声には子供のころからコンプレクスを感じて、友人に綺麗な声の子がいると意地悪をしたくなったものだ。
「そう、ありがとう、床は私が拭いておくから」
―――私?
敏感な陽子はそれを感じ取った。自分にたいして、自分のことを「お母さまは」と呼ぶはずだ。それが「私」とは ――――。このとき、夏枝はほくそ笑んだ。陽子にそれを感じさせることを計算して言ったのである。しかし、同時に不快な感情だった。決して、それを後悔とは呼びたくない。しかし、それに近い感覚であることは確かである。
「・・・・・・・・」
言葉を失った陽子は、今にも泣きそうな顔を晒している。
――――陽子!
夏枝は彼女を抱き締めたい衝動にかられた。
――――自分はこの子を確かに愛しているのだ。
圧倒的な濃い紫の感情に包まれながら、長崎城主の正室はそう思わざるを得なかった。だから、次の台詞が口から零れた。
「お母さまがちゃんとしておくから」
「で、でも、お母さま、具合が悪そうでしたから ・・・・・・」
「死んじゃうとでも思ったの?」
「そ、そんな・・・・・・」
陽子は絶句せざるをえなかった。そんなことは、彼女の予定に全くなかったからだ。だから、母親が持っている袋に何が書かれているのか ―――そんなことにはまったく気づかずに、それが自分に対してもたらす重大性になど考えが及ぶはずがなかった。
なんと不快な朝か。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
――――来てしまった。朝なんて二度と来て欲しかったのに!
寝具の上で長崎城婦人は我が頭を摑んだ。しばらくその姿勢のまま、あまりに冷酷な朝日を恨むしかなかったが、隣に城主が寝息を立てているのに気づくと、急いで姿勢を元に戻した。
「う・・・・、どうした、夏枝、日曜日だと言うのに、こんな早く?」
「いえ、嫌な夢を見たものですから」
夏枝はかぶりを降って、夫の視線を巻こうとした。
しかし、短く別れの言葉を残すと、建造はすぐにもといた夢の世界へと舞い戻ってしまった。
「そうか ―――」
「まるで、私のことなどもう興味がないみたいに・・・・・・・・・」
城主婦人は忌々しそうに、寝具からあぶれた夫の頭を睨みつけると、水面から飛び出るカワセミのように起きあがった。
だが、カワセミは獲物を口にしているものだが、彼女は果報を何ら手に入れることはできなかった。ただ、気だるい朝という海にまた舞い戻ったたけである。
――――――――――――――――――。
それに追い打ちを掛けたのは、部屋の外から聞こえる非常に聞き慣れた声だった。ラメ入りのピンク色リボンのような声が響いてくる。
「まあ、お姉さまったら、あははっ、陽子も欲しいです!」
「陽子! 朝ご飯中に遊ばないの、食べさせてよ!」
言うまでもなく、薫子と陽子の声だ。また年甲斐もなく姉妹でふざけあっている。
――――姉妹なものか!
普段では考えられないほど慌てた動きで、キッチンまで走り寄ると、いちおう息を整えてから中に入った。
「何をやってるの?」
自分では呼吸を整えたつもりだったのだが、思うとおりにはいかなかったようだ。自分では気づかなかったが、よほど怖い顔をしていたのか、陽子は、怪訝そうな顔を向けてくる。一方、薫子は、まったく感情を乱していない。その違いが二人の性格の差異を如実に表しているのだが、そんな風に理性的な観測をしていられるような状態ではなかった。
辻口家のお姫様は、姉の頭にとりついたまま、時間を止められたかのように凍りついてしまった。
「お母様・・・・・・」
言いつけを守らなかった子犬のような顔を向けた。それに苛立った夏枝は、いつにない声を荒げた。
「何をやってるのって、訊いているんだけど、お母さまは」
―――私ったら、お母さまだなんて・・・・私はもうこの子の母親じゃないのに!
メロンの編み目よりも複雑な表情を上品な顔に乗せて、夏枝は密かに苦笑した。だが、陽子の顔を見たとたんに、真顔に戻ってしまった。
「お母さま・・・・・ご、ごめんなさい」
「どうしたのよ、ママ?」
やっと、母親の異変に反応する気になったのか、薫子は口を開いた。彼女はけっして無神経ではない。ただ。神経が強いだけだ。だから、すべてにおいて知悉していながら、無知蒙昧の仮面を被って、わざと静観していただけなのである。
「いや、なんでもないわ、ちょっと、苛立っただけ、あなたたちも、小さい子供じゃないんだから、こんなところで遊ばないのよ」
ごくありがちな言葉を残して母親は去っていった。
母親に残された三女は、このままだと卒倒しそうなまでに、顔が青ざめていた。そして、母親よりも、もっと陳腐な感想を洩らした。
「お母様、どうなさったのかしら?」
「陽子?」
「ほら、落ち着きなさい、さ、座って。姉さまのパンケーキ食べていいから」
「・・・・・・・・・・お姉さま」
改めてじっと見ると妹の顔は、憎らしいほどに愛らしい。こんなに辻口陽子という少女は人を惹き付ける魅力に満ちた子供だったろうか。
辻口家の長女は、有無を言わさずにマホガニーの椅子に座らせると、やや冷たくなったパンケーキを切り分ける。そして、皿に盛ると妹の目の前に置いた。しかしながら、その手つきはあまりに上品だったために、妹は気づかなかったくらいだ。
「お姉さま、陽子は、お母さまに嫌われてしまったのですか?」
「何をバカなことを、これからママに問いただしにいくから、安心なさい」
かつて観た英国は、ロンドンの蝋人形のように妹はそこにある。何世紀も前の人物が生きているように再現されているのだが、今の陽子はまさにそれと酷似している。
――――誰にも冷たくされないってある意味不幸かもね。それも、ママにこんな風にされるなんて・・・・。
薫子は、心底、妹のことを思っているはずだった。少なくとも、そう思っていたかった。しかし、塩を掛けられた菜っ葉に、そこはかとない優越感を覚えていたのもまた事実である。それは自分ですら気づかないうちに、この少女の精神に根っこを生やしている、あるいは、まだ繁殖こそ始めていないものの、確実にその勢力を拡大すべく他国の領土に野心を燃やしていたことは確かな事実である。
「わかったわね、さあ、食べていなさい」
「わかりました、お姉さま・・・・・・・」
気が乗らない陽子だったが、ようやくナイフとフォークに手を伸ばした。それを確認した、薫子は、自分が頼りになる姉だと自己満足に浸りながら、キッチンを後にした。
さて、母親は何処にいるだろう。寝室か、それとも、庭だろうか。薔薇の手入れをしているということは十分にありうるが、まだこんなに早い時間から、それも朝食を取らずにそんなことをしているとは思えない。
辻口家の長女は、逡巡の末、寝室に急行した。
「あれ、パパ、ママは何処?」
「おはよう、薫子」
どうやら、この才女の予測は完全に的を外したようだ。母親は庭にいるということだろうか。
「夏枝はもう起きたのか、早いな、休日なのに ――」
「パパったら呑気なんだから、あれ、ママ、何処か具合がわるいの?」
薫子の視線はベッドの隅にある薬袋に向かっていた。
「利尿剤さ」
「え?ママ、腎臓が悪いの?」
「いや、薬剤師のヤツがまちがえたんだよ、風邪薬とね」
投げやりな手つきで袋を出窓に向けて投げつけた。薫子は何の気もなしにそれを眺めると、やがて注意の焦点から消し去って言った。
「ママは庭ね」
「そう思うよ、パパは、昨日まで立て続けて手術が三日さ。もうすこし、寝かせておくれよ」
相手が薫子だと何の緊張もなしに、自分を出すことが出来る。それが我が家において貴重な存在であり、神棚にでも飾っておきたくなる人材である。彼じしん、その理由がなへんにあるのか、その答えを知らなかった。いや、知ろうしなかったのかもしれない。それは自分が営む家庭の平和を根底から揺らす主因になりかねないと予感した可能性もある。
ともかくも、ねぶた眼で長女を見送った建造は、再び、罪のない寝息を立て始めた。
それを確認することなく、娘は庭に向かって歩み出した。
母親、陽子、利尿剤、複数のキーワードを並べてみるが、たいした答えを期待できそうにない。だが、自分の名前をその中に入れなかったのはどういうわけだろう。それは彼女らしくないミスというべきだろうが、いかに賢い人間でも足下のことは見えないということが人間の世界にはよくあることだろう。
――――私は、なんだか、仲間はずれにされているみたい。
薫子が考えたことは、非常に幼稚な感想だった。だが、それを表に出さないぐらいの知性と理性を兼ねそろえていた。
心配なことはある。このまま母親の前に立って、彼女にぶつけない自身があるだろうか。それが問題だったが、会わないわけにはいかない。
居間を抜けて大きな戸を開くと、広い庭に面する。辻口家の庭には薔薇園が存在する。夏枝が丹精を込めて育ててきたものだ。ちなみに、三つにわけられている。薫子はその理由をうすうす知っていた。それぞれ、自分たち、3人の娘を模したものであろう。
だが、ルリ子のことがあるから、娘たちにそのことを告げていなかった。もちろん、それは薫子の予測だが、ある時に、「ルリ子ちゃん」と言いながら水をやっていることがあったか、ほぼ確かなことだと見なしていた。
庭に出た薫子は、母親を見つけるのに一秒も係らなかった。ちょうどルリ子と呼ばれた薔薇ともうひとつの薔薇のまん中に居た。
「ママ・・・・・・・・・」
娘の呼びかけに、夏枝は背中で応じた。黒いカーディガンに覆われた背中はいつもよりも華奢に見える。
「一体、どうしたって言うのよ。陽子に当たっても何にもならないでしょう?」
「・・・・・・・・・・」
「?」
改めてふり返った夏枝に辻口家の長女は言葉を失った。その憔悴ぶりは目に余るほどだったのである。眼は落ち込み、心なしか皺も深くなっている。20代後半に見えるとさえ言われた美貌は何処に言ったというのだろうか。
「ママ ――――」
返事の代わりに返ってきたのは、園芸用の鋏だった。それはずっしりと重かった。薫子は無視されることを別に悲しいとは思わなかった。だた、現在、辻口家が置かれている状況がある困難に直面している。その思いを強くしたが、その正体についていくら考えてみてもその答えは容易に出そうにない。
一方、寝所に戻った夏枝はある紙袋を睨んでいた。朝日はすでに昼にバトンを渡そうとしている。
リニョウザイと片仮名にその文字を読んでいた。そうでもしないと、夏枝の心は彼女が袋を持ち、睨んでいることを認めないだろう。
――――私は、いったい、何を考えているのだろう。何をしようとしているのだろう。
そんな物憂いを止めさせたのは、瓶が転がるような音だった。部屋の外から聞こえてきた音だったが、その主が誰のものなのか直感的にわかった。
―――――陽子!
「誰です?!そこにいるのは!!」
「ぁ・・・・」
ドアを開けると、はたして、そこには辻口陽子が小さな口を限界まで開けて立っていた。その大きな双眸からは涙が光っていた。
「・・・・・・・・・・」
彼女の足下には花瓶が転がっており、床に水玉ができていた。それは、陽子の涙のように思えた。
「あ、ご、ごめんなさい。お母さま・・・・・」
急いで花瓶を持ち上げようとする陽子。そんな娘に声をかけた。
「あなたは何か用があったんじゃないの」
「え。だから、花瓶をお持ちしようと・・・・玄関に、綺麗なお花が咲いておりましたので・・・」
とても綺麗な声だった。小さいころから耳に親しんできたものだ。だが、それは夏枝にはない属性だった。
思えば、自分の声には子供のころからコンプレクスを感じて、友人に綺麗な声の子がいると意地悪をしたくなったものだ。
「そう、ありがとう、床は私が拭いておくから」
―――私?
敏感な陽子はそれを感じ取った。自分にたいして、自分のことを「お母さまは」と呼ぶはずだ。それが「私」とは ――――。このとき、夏枝はほくそ笑んだ。陽子にそれを感じさせることを計算して言ったのである。しかし、同時に不快な感情だった。決して、それを後悔とは呼びたくない。しかし、それに近い感覚であることは確かである。
「・・・・・・・・」
言葉を失った陽子は、今にも泣きそうな顔を晒している。
――――陽子!
夏枝は彼女を抱き締めたい衝動にかられた。
――――自分はこの子を確かに愛しているのだ。
圧倒的な濃い紫の感情に包まれながら、長崎城主の正室はそう思わざるを得なかった。だから、次の台詞が口から零れた。
「お母さまがちゃんとしておくから」
「で、でも、お母さま、具合が悪そうでしたから ・・・・・・」
「死んじゃうとでも思ったの?」
「そ、そんな・・・・・・」
陽子は絶句せざるをえなかった。そんなことは、彼女の予定に全くなかったからだ。だから、母親が持っている袋に何が書かれているのか ―――そんなことにはまったく気づかずに、それが自分に対してもたらす重大性になど考えが及ぶはずがなかった。
「・・・・・・・・・・!?」
気がつくとスクリーンセイバーが陳腐な3D迷路を造っていた。その時、聞き慣れた陰険な声がした。言わずと知れたカメレオンの声だろう。晴海は颯爽とした顔を作らねばならない。
「きみは見所があるんだ。ただ机上の勉強が得意な連中とはひと味もふた味も違うと思っている ――――」
この両生類と爬虫類の合いの子のような上司が、自分を持ち上げるようなことを言うときには、いつもろくなことが起きない。きっと、その外見に違わない陰険なことを企てているにちがいない。そして、そのおはちが回るのはいつも自分なのだ。
彼が言うところの『日本の敵』に関する講釈を聴きながら、どうして、あの少女のことが気になってたまらないのだろう。
あの少女。
言うまでもなく、佐竹まひるのことである。
PCに詳しい庁内の友人に頼んで、情報を集めてもらっている。
当然のことながら、日本は警察国家ではないので、唯一の例外を除いて、晴海たち公安に健全な市民のプライバシーを侵害する権利はない。
だから、庁内のPC犯罪に詳しい人間に協力を頼んであるのだ。蛇の道は蛇というが、犯罪者を追いかける人間にはその手の技術が必須ということである。
むろん、まひるの名前は伏せてある。たったひとりの少女の動向をさぐるために、そんなことを同僚に頼めるはずがない。
口実はいくらでも捏造できる。
先ほど言った唯一の例外が関係しているのである。
それは、冷戦が終わって日本唯一の革新政党となった日本革命党のことである。
ソ連などという代物が世界から消滅して20年。どうせ少数野党であり、日本の政治にほとんど影響力は皆無といっていいのだから、特別天然記念物にでも認定すればいいと晴海などは思う。しかし、公安の老人たちはそうは思っていないようである。
戦後、一貫して彼らを敵視し監視してきた。当時は必要だったのかもしれないが、冷戦が終わった今、そんなことにどうして国民が供出した貴重な税金を浪費しなければならないのか。CIAやMI6と言った真性のスパイ組織のマネゴトもたいがいにしてほしいと思う、このごろである。
もっとも、そういう背景があるからこそ晴海の動向を探ることも可能なのでは、あるが・・・・。
ともかく、今、将来の警察官僚が気にしているのは、佐竹まひるという小娘のことである。同僚からの情報提供とともに、自らも汗を流さなくてはならない。
彼女の生徒手帳には盗聴器を仕掛けてあるから、逐次、その情報は伝わってくる。
自宅があるマンションには受信機と録音機が常設され、常時、彼女が学校でどんな目にあっているのか音声として記録している。
それを仕事場にまで持ち込まないのは、彼女なりの配慮だが、無意識のうちに、泥沼に入り込むことへの危惧が隠されているのかもしれない。
昼になって食堂でカレー南蛮に箸を突っ込んでいたとき、その男が話しかけてきた。
「麻木さん」
「ああ、加納くん」
彼は、大学の同窓である。
「短い時間だけど、かなり情報が得られたよ、結論から言うと革命党と対象者の関係は薄いと見るべきだね。だけど、娘さんの学校のことまで事細かく調べるなんて、常軌を逸してやいないかね」
「私もそう思うわ」
USBを受け取りながら、晴海は自嘲する。
「革命党に対する敵視ってほとんど警察の人間のDNAだからね」
加納は豚の生姜焼き定食が乗ったトレイを置きながら言った。
「しかし、お兄さんの逆嫁ぎ先はまさに円満な家庭と言うべきじゃないか」
「逆嫁ぎ先? おかしな言い方ね」
「まあね、こんな仕事をしていると独創性を発揮するようなことはなくなるしね、こんなことで欲望を満足されないとやってられないよ」
実は、ふたりは文学関係の同人をやっていたのである。晴海も、まさかロマンティストとして有名だった彼が、警察に入庁するとか考えなかったものである。
加納は言葉を続ける。
「対象者たる、父親は銀行でそれなりの地位を気づいてるし、仕事関係を当たってみたが、ほとんど文句なした。それに、母親は主婦として近所の評判も上々だ。子供たちも同様だ。まことに理想的な80年代の聖家族と言うべきだろう。そのUSBにすべて入っている」
「ごくろうさん」
―――いつもの通り、情報の処理は頼むよ。
それはUSBごと破壊してくれという意味だが、この部屋で聞かれる人の囁き声や足音、それだけではなく、建物の外から聞こえる車の音、それらと加納の声を同じようにもはや見なしていた。蛇足だが、窓の外に見える山や木を我が物と見るのに借景という言葉があるが借音という言い方はあるのだろうか。
いずれにしろ、晴海にはBGM程度の価値すらなかった。今はノートパソコン上に浮かぶまひるの顔にしか興味がない。
「へえ、生徒会長やってるんだ、それで、いじめって ――――」
加納が提供した情報には、まひるの『友人』たちの情報も克明に書かれている。
安藤ばなな、各務腹静恵、門崎はなえ、岡島静子、飯倉かのえ。この五人は例の少女たちだろうか。報告では、いじめのことには言及していない。当たり前のことである。潜入捜査くらいしなければ、最低でも尾行ていどのことに手をつけねば、そんな生の情報は入ってこないだろう。
学校、あるいは学園という言葉からどんなイメージを受けるだろうか。外部からの目や耳を避けるように設えられた厚い壁は、生徒たちを守るというよりは、むしろ隔離し、特別な空間を造るためにあると言って良い。
そこには一種の治外法権が存在する。日本国でありながら、日本国の法律が必ずしも適用されない。
生徒は社会的に言って、特権階級でありながら、一方ではそれゆえに傷ついても何も言えない状況に陥ることがある。加害者も被害者も特権を持っている以上、両者を裁くことは社会が持つ権利の埒外にあるのだ。
特にいじめなどという現象はまさに、その骨頂と言うべきだろう。
私立望声学園は小中高一貫した教育を行っている。厚い壁と鉄条網に守られた空間は、見ようによっては、アウシュビッツ強制収容所を彷彿とさせないこともない。
表面的には華やかで健やかなお嬢様学校という顔の影でいったい何が行われているのか。
巨大で厚い壁は外部の者がそれを伺うことを一見不可能にみえる。
現在、学園は昼休みの最中だ。生徒たちはめいめいの時間を過ごし、勉強で疲れた脳を休めるべくレクリエーションに勤しんでいる。
ある少女は読書という手段を選んでいた。
晴海が見えない食指を伸ばしているとも知らず、佐竹まひるは教室の片隅で文庫本を開いていた。
そこに、複数の女生徒が近づこうとしている。3人は、しかし、かつて、晴海が目撃したような、列車内でまひるを取り囲んでいた少女たちとは違う。
「ねえ、生徒会長 ・・・・・」
一人の少女が前に出た。しかしながら、まひるは何処吹く風と活字に没頭している。少なくとも、そのフリをしている。
「生徒会長、佐竹さん!頼むから!」
我慢できずに、感情を爆発させたのはもうひとりの少女である。
「ふん、何か分からないけど、それが人に物を、いや、生徒会長に接する態度かしら?」
明かに人を見下した色を美貌に乗せるまひる。こんなとき切れ長の瞳と相まって、純日本的な美少女は圧倒的な冷酷さを発揮する。しかしながら、その態度は、常に背後に注意を払ってのことであると、3人の少女たちは気づいていない。
まひるは、それを打ち消そうとさらに冷酷な声を綺麗な唇から吐き出す。
「ねえ、外崎さん、あなたはこのクラスの一員よね、だけど、そこの二人は別のクラスでしょう。それなのに、どうして、ここに入ってきているの?! それだけでも、生徒会長に謁見する態度とは言い難いわね」
即座に、教室に残っている生徒たちの視線がまひるに集まる。そのどれもが一言では表現しにくい憎しみと羨望、そして、軽蔑のいじり混じった複雑な感情に満ちていた。ただ、正しいのは、どれをとっても好意的な性格からはほど遠いということだ。誰もが、このまひるという生徒にマイナスの感情を抱いている。しかし、だからと言って手を出すことはできない。彼女は、それを裏付けるバックボーンがあるようだった。
女生徒会長は、そんなことまったく意に介さずに、さらに畳み掛ける。
「そんな基本的なことを守らない人と話しはできないわね」
「ま、待って、佐竹さん、お、お願いですから!」
「わた、私たちは外に出ていますから! お願いです、私たちの部活を潰さないでください」
その一言で、美少女の顔の一部だが反応したことに、誰も気づかない。しかし、安藤ばななは知っていた。まひるの背後で、蛇が蜷局を巻くように足を組んでいる。各務腹以下、四人の少女も一緒にいる。
「部活を潰す。何処の部活だっけ?」
「そんな、何度も頼んでいる、いますのに・・・・」
一人、残った少女は打って変わって、態度を一変させて、話し方まで丁寧語を交ぜている。
「外崎さん、あいにくと、あまりにも重要じゃない案件みたいね。記憶に残っていないわ」
「・・・・・・・・・・・」
その瞬間、クラス中の敵意がまひるに集まった。だが、再び活字の世界に没頭するクラスメートに、どんな影響力も及ぼすことができない。今までの経験からかそのことを悟った少女たちは、ひそひそと同好の士と囁くことで自分たちのストレスを解消しようとした。
しかし、外崎と呼ばれた少女が示す態度は、このクラスがまひるに示す敵意を燃え上がらせることになるだろう。
「お、お願い、まひるちゃん! 一体、どうしたの? 何で、変わっちゃったの?」
「・・・・・・・・」
顔を真っ赤にして泣きじゃくり始めた少女を見ることなく、本という殻に籠もることを続ける。
そんな態度に、クラスメートのひとりが立ち上がった。
「ちょっと、佐竹!」
「止めなよ!」
しかし、別のクラスメートが彼女を止めた。その時、まひるの形の良い切れ長の瞳が光った。
そこには安藤ばななの落ち着き払った顔があった。
「・・・・・文芸部・・・」
たしかに、彼女はそう言ったのだ。何を言おうとしているのか、明々白々だった。
まひるが、やおら、立ち上がると自分を呼び捨てにした少女を睨みつける。一連の動作は全く無駄がなく、颯爽としていたから、あたかも彼女の上に正義があるかのように錯覚させた。
――――あの女にみなぎる自信って何?と誰もが殺意に似た悪意を心の何処かに含ませたが、誰もそれを行動に出せ
る人間はすぐには出なかった。しかしながら、数秒が経ったと思われる後に、ある生徒が立ち上がって言った。
「ちょっと、生徒会長に対して失礼じゃない?!」
「そうよ、あんたたち、何様のつもり?!」
まひるは、無言の内に彼女たちを制すると言葉の刃をクラスメートに向かって指し示した。
「組島さん、あなた文芸部だったわね、弱小の ――。たしか、まだ今月の会報見てないけど?」
「ま、まさか、だって、いいって言ったじゃない!?」
「そう? 記憶にないわね ――――」
何をしても刑罰を受けないという前提があって、しかも手短に凶器があったとして、その顔を見せられても、凶行に出ないと強弁できる人間がどのくらいいるだろうか。氷のような美貌をいくらか傾けると、黒なのに淡い藍色に輝く二つの目がキツネのように光っていた。そして、形の良い唇は、自分こそが優位で正しいと無言で主張している。
「ウウ・ウ・・ウウウ、生徒会長、し、失礼をわびます ―――」
「よろしい、さきほどの失礼は忘れてあげましょう、あなたの殊勝な態度は十二分に考慮に値します」
おおよそ、言葉とは力を持つという『意味論』の議論を完全に否定するような台詞が、教室に舞った。しかし、悪意と嘲笑に満ちた言い方に比して、その声は美しくまるでオペラ歌手のように朗々としている。
クラスのほぼ全員がこの美しい顔を引き裂き、その声を制するために舌を引っこ抜いてやりたいという衝動に駆られていた。
だが、その中で安藤だけは、一瞬だけだが、意味ありげな微笑を浮かべた。しかし、友人の視線に気づくと、すぐに頬を堅くする。
言うまでもなく演技である。それは、まひると似ていたが、この世に似ていて非なるものなどいくらでもある。
前者と後者では、あきらかに演技という面において、中学一年生と大学受験生の英語力ぐらいの差が見受けられた。
その証拠に、演技の不備を他人に見透かされるようなミスは犯していない。
あくまで表面的にはクラス中から漂ってくる悪意をものともせずに、飄々としたようすを醸し出している。そんな彼女に箔をつける存在が、いや、そんな価値などない。せいぜいで、虎の威をかる狐の類だが、さきほど、女生徒会長を擁護した生徒が集まってきた。
まるで水戸黄門の周囲に集まるカクサンやスケサンや風車の類のように、少女たちは主人の威厳を擁護する言葉を周囲にまき散らしながら、クラスメートの悪意と敵意をより刺激するような真似をしている。
その中心でまひるは苦笑しながら、密かに彼女たちを軽蔑する視線と言葉を飲み込むと、おもむろに立ち上がった。
「おい、逃げるのかよ!」
「ちょっと、会長に向かってその態度は何よ!」
部活に直接関係ない人間は、無遠慮に反抗してくる。彼女の取り巻きが口を出したせいで緊張の糸が緩んだのか、クラスメートたちのストレスは出口を見つけたようだ。
しかし ――――。
「私が特別に与えられた権限は知っているわよね」
「・・・・・・・・・・・・・!?」
鶴の一声が教室中に木霊した。
「私はあなたたちみたいに暇じゃないのよ」
肩まで綺麗に伸びた髪を仙女めいた手つきで払いながら、教室を後にした。
「あれ、何様よ!」
「本当に変わっちゃったよね」
「いや、違うわよ! 元々、あいつはああいうヤツだったのよ! 気がつかなかった私たちはバカだったのね」
そう言った生徒はいちばん最後に教室を後にした取り巻きの一人を睨みつけながら言った。まるでゴルフボールを思いっきり投げつけるよう仕草だった。まさに「虎の威をかる狐」めというわけである。
だが、クラスメートたちはあることに気づいていなかった。
安藤ばなな以下四人が同時に教室から居なくなっていたのである。
一方、佐竹まひるは生徒会室に直行しなかった。二階の渡り廊下に差し掛かったところで、いきなり背後を振り向いた。
「先に行って、私は用があるから」
「・・・・・・・・・・」
まひるは配下の答えはおろか、反応すら見ずに階下へと降りていく。
「どうなさったのかしら」
「最近、つれないわねえ」
一段下りるたびに、その表情が変化していったことに、彼女たちは、決して知ることはないだろう。そして、その肩が、まるで封建時代の貴族のお嬢様かトップモデルのそれのように颯爽として全く揺れなかった肩が、ぷるぷると揺れだしたことに気づくことはない。中学生なのに10歳は大人びた顔が、幼稚園児に赤ちゃん返りしたことなど予想だにしないだろう。
「・・・・・・・・・」
僅かに唇を噛んだ。だが、全く痛みを覚えるはずがない。何しろ、全身至る所に無数の切り傷を負っているのだ。
そして、半地下一階に辿り着いたとき、つい、20秒前に存在した女生徒会長は、この世の何処にもいなかった。
「・・・・・・・・・・・・」
この沈黙は彼女にとって地獄である。
――――もしかしたら、何かあったのかしら?
一瞬の休息。
例え一瞬であろうとも、それは、少女に安心を保証することはない。その苦痛は否応なしに彼女を捕らえるだろう。
それが早いか遅いかのちがいにすぎない。小さな子供が嫌いなものから先に口にするように、苦痛は先回しにしたほうがいいのである。
「あ、安藤さん、来ていらっしゃるのですか?」
さきほど彼女に対して使っていた敬語を、今度は闇に対して使う羽目になっている。
「ふふ、ようこそ、生徒会長サマ」
「あ、安藤さん・・・・・」
彼女たちは別に隠れていたわけではない。まひるの目が闇に慣れてきたのである。
この狭い、建築家の気まぐれで設計されたような空間は、獲物を招き寄せるのに十分な条件を備えている。
一年で一度、そう、文化祭で使うような自家製のトーテムポールや体育祭で使う旗やらが雑に積み重ねられている。わざわざ隠れようとしなくても、外から観るといくつもの死角が造られてしまう。だから、突然、ここに入ってきた人間からすると、あたかも待ちかまえているように思えるのである。
獲物からすれば恐るべき視覚効果を受けることになる。恐怖の上乗りというわけである。
古代の蔓植物のようにうなだれた美少女を安藤以下、四人の少女たちが取り囲む。できるだけ五人の視線から逃れようとするが、女生徒会長の身長は166センチもある。中学二年生女子の平均身長が157センチだから、その背の高さが想像できるだろう。ちなみに、五人の中でもっとも背が高いのは安藤で、164センチである。
その他はどんぐりの背比べで150センチ前後を超えたり足らなかったりする。一番、低い飯倉かのえは136センチで小学四年生並である。
だから、見ようによっては取り囲むというよりは、まとわりついていると言った方が適当かもしれない。
だが、両者の目つきや表情をよく見れば、どちらが主で従なのか、一目瞭然である。
「あ、安藤さん、お、お願いですから」
「あら、天下の生徒会長サマが私ごときにお願いですか? ふふっ」
安藤に従って四人それぞれの笑声が、美少女の柔らかな耳たぶをからかう。
「で、お願いって何かしら?」
「綾ちゃ、外崎さんたちの部活を潰すようなことをしないでください」
「あれ? 潰すのはあなたじゃなかった?」
場末のコメディアンのような笑いを浮かべて言う。わざと声を高くするのが、相手を傷付ける壺である。
「綾ちゃん、本当に、書道が好きだから、いえ、ですから、小学校のころから本気でしたし ・・・・・・・・」
「綾ちゃん、まるで友だちみたいな言い方ね、向こうはあなたのこと、そんな風に見てないようだけど?」
「・・・・・・・?!」
「あんたさ ――――」
まひるの肩ほどの背もないかのえが、安藤の前に出て言う。美少女の弁慶の泣き所に蹴りつけながら、罵声を浴びせかける。
「外崎さん、あんたのこと大嫌いなんだよ! わかってるの?あんたなんかに友だちよばわりされたら、可哀想よ」
足の痛みから逃げるために背後に逃げようとすると、そこに門崎はなえが待ちかまえていた。
「ねえ、わかってるの!?どれほどあんたがみんなに嫌われているか?」
―――嫌われている。
聞けば聞くほどいやな言葉だ。しかも、それが真実だとすると、なおのこと心に突き刺さる。
はなえは太い腕をまひるの華奢な肩と首に巻き付ける。まるでアナコンダがインパラのような草食動物に絡んでいるようだ。かたちのいいうなじにかかる生臭い息は、少女の気品すら無条件に帳消しにしてしまいそうだ。
「はなえ、ほどほどにしておきなよ。柔道部の腕で絞めたら簡単に、こんな細い首なんてへし折っちゃうよ」
全く心配のそぶりのない同情は、悪意の自乗に等しい。まひるは、肩と首を重量級の圧力を受けるだけでなく、精神まで押し潰されようとしていた。
「お、お願いですから、私は、どうなってもいい・・・・・ゴホゴホ」
女生徒会長は最後まで言葉を続けることができなかった。柔道部の乱暴娘の腕が、力余って危ない線を越えてしまったからである。
床に両手をついて、激しく咳き込むまひる。そんな美少女の背中にはなえが飛び乗ったのである。まるで父親にまとわりつく幼女のように見えた。思わず、安藤は苦笑しそうになったが、友人へと配慮もあって、すんでの所で留まった。
「ねえ、まひるちゃん、それはあなた次第よ」
「・・・・・・・・・」
涙で濡れた美貌を思わず安藤に向ける。自分にたいする呼び方が変わったことに注目しているようだ。
「もう、わかっているわよね、私たちが何を求めているか」
「・・・・・・・・・?」
涙が造る水晶の軌跡を見ると、少女の容貌がいかに整っているかがわかる。安藤はそれに苛立ったのか、言葉を荒げた。
「いいかげんにしな! 外崎の部活を守りたいなら、その代価を体で払ってもらおうって言ってるんだよ!!」
安藤の両手がまひるに摑みかかったと思った瞬間、綺麗な卵型の顔が激しく揺れる。いい加減にじれったくなったようだ。だが、感情が造り出す波が激しく横揺れしようとも、代価なとという言葉が、ぽっと出てくるぶん、彼女の知性のレベルがわかるというものだ。まひるはボロボロにされて、おもちゃにされながらもそんなことを考えていた。
やがて、大震災が終わると、いじめっ子の足が目の前にあった。余震とそれから来る嘔吐に悩まされる美少女に残酷な言い渡しが為された。
一寸前とは打って変わって柔らかな表情と母性愛に満ちた言葉が宙を舞う。
「今度の日曜日、開けておいてね。今回は東横線よ。それまで健康でいてもらわないとね、かわいいまひるちゃん」
リーダーの両手に挟まれても、まひるの美しい卵は少しもその美を崩そうとしない。しかしながら、その薄い殻の中では、やわらかく傷つきやすい黄身と白身が涙の海に漂っていた。
まひるが自失呆然の状態に陥ったのに満足したのだろうか。
リーダーは、はなえを嗜めながら、その場を後にしようとした。このきかん坊は、さよならの蹴りを美少女のみぞおちにくれてやろうとしていたのである。
「早くしないと塾に遅れるわよ」
まるで母親みたいなことを言いながら、心はもはやここにはなく、東横線の電車内にあった。だから、目を離した隙に末娘が腕をすり抜けてしまったことに気づかなかった。
すぐに、「きゃん」と草食動物めいた鳴き声を耳にすることになる。
「仕方ないな、すぐに楽しめるんだから、ほら、はなちゃん!!」
「ふふ、学校にもママがいていいねえ、はなは」
「ふふふ」
そのやり取りを見ているかぎり頬笑ましい中学生にしか見えないだろう。すばらしい友人関係を享受し、青春時代を謳歌している以外のどのような情景に見えるというのだろう。
「・・・・・・・・・・」
女生徒会長は真っ白になった頭で、今、自分が置かれた状況と彼女たちの様子を同時に考察してみようとした。
しかし ――――。
答えはまったくでなかった。
代わりに出てきた文字列は、 ――。
アサギハルミサン。
どうして、こんな時のあの人のことが思い浮かぶのだろう。自分が流す涙の海に溺死しながら美少女は当て所もない思考の旅に出かけていた。それは、何百年も思考に思考をかさねながらついに解決できなかった哲学的な問いに似ている。
その時、当の麻木晴海は取り調べられている容疑者を、マジックミラーごしに睨んでいた。その目つきは、まひるが想像しようもない怖ろしい、『鷹の目』と言われる犯罪者が怖れる警官の目だった。
だが、そんな慧眼でも、今、このとき、まひるがどんなことを呻いたのか、透視できようはずがなかった。
「ハルミオ姉サマ」
確かに、美少女の小さな口はそう言ったのだが。
「ウグウウ・・っ!」
唇を離すと、ふいに、佐竹まひるは軟体動物のようになった。麻木晴海はその手で如実に感じ取っていた。
しかし、次の瞬間、凍りつくような光を感じた。それを知ってほくそ笑むと、再び、少女を抱こうとした。
その時 ―――。
少女が取った態度は、晴海の期待をはるかに超えていた。それは彼女がかなりの上物であることを暗に示していた。
「ナ・・・・・・!?」
咄嗟に、自分の身体を長身の女性警官から引き離すと、個室のドアに背中を打ち付けてしまった。だが、そんな痛みなど少女にとってみればアヒルの毛で肌を撫でられたに等しい。むしろ、その刺激は少女の怒りを買うことになった。
「・・・・・・・・・!!」
歯ぎしりしながら晴海を睨みつける少女の姿は、成長途上の雌ライオンを思わせた。しかも手負いだ。
晴海は満足だった。どんなにひどい状況に置かれていようとも、簡単になびいてこられてはゲンメツというものだ。
「どうしたの? まひるちゃん」
「あ、あなたにそんな風に呼ばれたくない」
―――強がりとは可愛いことで・・・・・。
晴海は微風を頬に感じた。
だが、年の功という言葉は伊達に存在するわけではない。2000年のもの間、この邦の先輩たちが切磋琢磨して育ててきた日本語は、単なる記号ではなく、それだけで力を持つ時代と空間を超えた一物なのだ。
晴海の華麗な口から飛び出した台詞は、少女の立っている土地を根こそぎばらばらにする力を持っていた。
「じゃあ、聞くけど、あなたをそんな風に呼んでくれる人はこの世にいるのかしら?」
「クぅ・・・・・・?!」
シンメトリーは古来よりヨーロッパ人の審美の基礎と呼ばれる。蛇足だが、ヴェルサイユ宮殿などはその建物だけではなく、庭園などもその法則に叶っている。おそらく、西洋で言う風水のようなものだったのであろう。蛇に3本目の足を描くが、家康が造った江戸という町はまさに風水の産物である。四方を玄武などの神が護っている。
閑話休題(それはさておき)
もしも、ヨーロッパ人がこの時のまひるの顔を見たら、さぞかし嘲笑するだろう。その美はかなりいいところまでいっていたにも係わらず、右と左では相反する表情を見せていたからである。
前者は、愛に飢えた幼児の顔、そして、後者はこの世でもっとも憎むべき相手、すなわち、自分のプライドを傷付けた人間に対する憎しみと殺意に満ちた表情を見せていた。
晴海は、ヨーロッパ人でも、かの世界の芸術を継承する人間でもない、だから、彼らの審美感を愚直に守る必要性はなかった。むしろ、それを破壊する方向にベクトルが働いた。
――――可愛らしい。
13歳の少女を目の前にして、簡単に感情を露出するなぞ、晴海が描く自画像からかなり外れる。だが、彼女が醸し出すかわいらしさは、彼女の理性を脅かすような要素に満ちていた。しかし、ここは理性を総動員して声の動揺を抑えることには成功した、辛うじて。
「これ、忘れていたわよ、まひるちゃん」
晴海が差し出したのは一枚の手帖である。合成樹脂の皮が鈍い光を放つ。
言わずと知れた、生徒手帳と呼び習わされた冊子である。
「・・・・・・・・・・・・・・!?」
――――いつの間に、と言いたげに切れ長の瞳を限界まで開いて、晴海を睨み続ける。それは上品な外見に似つかわしくない乱暴な手つきだった。
こうして、佐竹まひるという人間がこの世に存在することを示すIDは、本来の持ち主に戻った。少女にとって、中学校はまさに世界そのものなのである。
その重さを晴海は理解していない。取り戻した生徒手帳を大事そうに抱きながらも、涙を流すその姿に不審そうな目つきを向けるだけである。
さらに涙に濡れる睫を見て、その長いことに審美眼を満足させている始末である。
――――これからのた愉しみだ、などと罰当たりなことを考えている。
「もっと、話してたいけれど、互いにそういうわけにはいかないようね。ま、いいわ。そうだ、携帯を出しなさい」
「・・・・・・・・・・・・ハイ」
有無を言わせぬ警官の一睨みに顔面に、ナイフを突き刺されると、少女は視線を床に走らせた。
「お高い、お嬢様顔もかわいいけれど。その顔も可愛らしくていいわよ、普通の女の子みたいでね」
「・・・みたいじゃなくて、私は普通の女の子です!!」
――――じゃあ、休日に友だちと映画見に行ったり、雑誌で有名になったアイスを食べたりするんだ、とは、晴海はあえて言わなかった。この悪魔の尖った耳は、まさにそう言いたげにピクピクと動いていたが、どうにか、理性を保ったようである。
「そうね、普通のお嬢さんね ――――これでいいわ、あとで連絡待ってるから」
互いに番号を交わし合うと個室のドアを開けた。
微粒子レベルの刺激にすらビクビクと反応する姿は、晴海はサディズムの悦びとごく微量のシステマティクな同情を感じていた。一同の視線を一身の浴びるその姿はまさにそんな形容が相応しい。しかしながら、それを読み取っていたのは、おそらく、この女性警官だけである。避難と同情が微妙に混在した視線に晒されても、毅然とした態度を曲げないその姿からは、具合が悪いのに必死に体裁を守っている気丈なお嬢さんとしか、レッテルを貼れないのだろう。
そんなまひるに背後からチクチクと見えない針を刺すのは、晴海である。これからどうやってこの獲物を平らげようか。ちょうど、鯛焼きを頭から食べるか尻から食べるか悩む子供のように、少女のほっそりとした肢体を上から下まで舐めるような視線を送っている。
この時、中学生の少女が怖れていたのは、たった一つの視線、晴海のそれだったにちがいない。
獲物を睨みつける肉食獣の視線は、紙を燃やそうとする炎の呼吸に等しい。少しでも触れたらいっしゅんで灰になってしまう。だからこそ自分を滅ぼすものに鋭敏に成らざるを得ない。
少女は猛禽の爪に狙われていることに気づいている。そして、すこしでも触れられたらいっしゅんで炎上してしまうことも知っている。猛禽は同時に炎から蘇る不死鳥でもあるのだ。
しかしながら、それがわかっていてももはやどうしようもない。上空に輝く銀色の凶器に気づいても、なお、無駄な努力とわかっていながら草原をおたおたと翔る兔のように、ただ死と消滅の恐怖から逃亡すること選択せざるをえないのだ。
食事会は続いていたが、仕事先からの連絡によって晴海は失礼せざるをえなくなった。このまま逃げまどう兔を観察したいという内心の望みを隠しながら、颯爽と個室を後にした。
そのとき、別れ際に見せた氷の微笑をまひるは一生忘れることはできないだろう。母親に囁かれるであろう言葉とともに、少女の中にあるアカーシックレコードに刻まれるにちがいない。
「具合悪いなら言いなさい。先方にも、お姉さんにも迷惑がかかるでしょう?」
「ごめんなさい、お母さん」
その会話は会が終わりになったさいに、ふとした折に為されたのだが、それは晴海によって聞かれていた。
仕事先に向かう車の中で、イヤーフォンを嵌めた晴海が受信機を弄っていた。信号が赤に変わって乳母車を押す幸せそうな母親を視界に収めたところで、その会話が耳に入ってきたのである。
いや、入ってきたなどという自動詞的な表現は、この際、偽善というべきだろう。
実は小型盗聴器をまひるの生徒手帳に仕掛けておいたのである。その送信機は言わば犬の首輪と同義である。そして、見えない無線は鉄の鎖ということができるだろう。その二つの道具によって、佐竹まひるという少女を縛るのである。
しかも、彼女にはそうされているという意識はない。だからこそ、自然なデータを晴海は得ることができる。彼女の胸は高まった。だが、この鋭敏な女スパイがそのことにすら気づいていなかった。まるで女優のように、自分の精神と肉体を選別し、かつ、自由にコントロールする術を身につけた彼女が自分の胸にぽっかりと空いた孔に気づかなかった。そして、無意識のうちにそれを埋めるために、佐竹まひるという少女を求めている、あるいは利用していることにも気づいていなかった。
これからきっと上司であるカメレオンと体面(たいめ)することになるのであろう。そして、提出したデータの信憑性についてあれこれ言われるにちがいない。そのつど、晴海は白旗を上げるやら、あるいは自分が正しいのならば根拠を示さねばならない。
まひるは、そのようなストレスから解放してくれる道具の役割を果たしてくれると思った。言うなれば、男性にとってのダッチワイフのようなものを求めていたのかもしれない。
6尺棒と呼ばれる一種の武器を携帯する同僚に敬礼しながら、晴海は警視庁の庁舎内に呑みこまれていく。同時にオーラーの分泌を最低限に抑えなくてはならない。なんと言っても公安という特殊な部署に配属されたのも、彼女のそうした特殊能力に寄るところが題なのだ。彼女の上司はこう言っていた。
「お前は、美人だから本来ならば公安に向かないと思ったが、出会ってみて考えが変わった。どうやら美人とは外見だけのことではないらしい」
カメレオンは、誰が見てもピンヒールで踏みつけたくなるような老獪な笑いを立てていた。
職員たちは、どの顔を見ても峻厳な顔をしており、日本国内とは思えない緊張感に満ちている。
シャーペンをカチカチする音やパソコンの老猫の悲鳴に似た音は、部下を叱りつける声と相まって、ここを戦争の最前線を指揮する大本営と化している。
――――これから戦争でも起こるのか? ここは本当に日本か。
まるでアメリカ人のように、彼らは敵を必要としている。もしも、それがいないなれば、スパイを使嗾してでも敵を捏造する。
あの真剣な目つきは敵のいないところに敵を造り出す。言葉を換えれば、ゲームソフトのクリエイターと似ているかもしれない。
公安とクリエイター。
両者の間に乖離があるとすれば、扱っているものがフィクションであるという自覚のあるなしに限定されるのかもしれない。
すると、彼女がまひるに見定めているものは何なのだろう。
晴海はディスプレイを睨みつける。ちなみに、カメレオンは上司と話し合いの最中ということだ。
無機質で非人間的なデーターの乱舞の向こう側に、何か、それと反する属性が見えた。
有機質でごく人間的な ――――。
それは卵型をしていた。
すぐに人の顔の原型であることがわかった。
―――私は、コンピュータグラフィックスの技師でもないし、ゲームソフトのクリエイターでもないんだけど・・・・、
うん?
彼女は ―――。
彼女は、ふり返った。
――――佐竹まひる?!
少女は、無機質なonとoffの砂浜で液晶の海を眺めていた。その目はとても哀しそうに見えた、
井上順。
言わずと知れた帰化画家である。かつては画家を目指した予備校講師が、いちどならず憧れた対象でもある。ちょうど彼は孫弟子に当たる。だから、直接見知っているわけではないが、その画業の精神をあるていどは受け就いているとは思っているのだ。
―――どうですか?
そうは言わなかったが、たまたま知人に紹介された少女は、無言でそう語っているように見えた。早く、何事かコメントせねばならない。だが、適切な言葉が頭に浮かばない。
単に、頭が良いだけではなく、非常にセンスが光る少女である。いい加減なことを言ったら、すぐにばれてしまうだろう。ここは本当のことを言わねばならない。
さすがに、自分の娘よりも年下に言う台詞ではなかったが、覚悟を決めることにした。
「赤木さん、もはや、私の手にあまるようだ、他の先生のところに行かないか」
「じゃあ、もう芸大に受かるレベルに達したということですか?」
「いや、そういう意味じゃないんだ」
かぶりを振りながら言葉を吐く。
「ねえ、この人の絵どう思う?」
困った視線を部屋中に照射しているうちに、止まったのが井上順の作品だった。同時に、啓子とあおいに目もそれに向かう。
「・・・・・・・・・・・」
「ブーゲンビリアみたい」
あおいの感想は講師の理解を超えていた。
「ブーゲンビリアって」
しかし、機先を制したのは画家志望の少女だった。
「沖縄によく咲いている花よ、そんなに華やかには見えないけど、この人」
「どんな感じに見える?」
あおいの言葉によって、何か絆されるところがあったのか、啓子は感想を述べ始めた。
「何で、こんなに年を食っているのかしら」
「それは年齢よりも年取ってみえるということかい」
講師は顎を撫でながら訊いた。
「そうかもしれない、この時、もっと若かったはずなのに・・・・・・・」
―――若かった?
まるで見てきたような言い方に、講師は驚きを隠せなかった。何か、彼女を中心として、あるいは恒星として、一個の恒星系を構成しているように思えた。
この静謐な部屋そのものが、一個の世界を為している。あるいは、ここだけに世界が存在するようにすら思える。
「だってさ ―――」
あおいが即座にラメ色の声を出した。
――――いや、違う、この部屋には二つの太陽がある。
すなわち、恒星系は恒星系でも、それは多重星系であり、それは二つの太陽があり、小さい方が大きい方を回る。
この場合は、啓子を中心としてあおいが回っているように見えた。どちらにしろ、この部屋の操縦権はこの二人の少女によって握られている。
そのことだけは確かに思えた。あきらかに二人は講師の目にはまぶしい。こんな幼い少女たちに、まばゆい光を感じるのは何故か。
とりわけて、彼はペドファイルということではなく、あるいは、子供をモティーフとする芸術家でもなかった。それなのに、目の前の二人の少女はやけ魅力的に見える。
彼女らは何やら語り合っている。だが、その具体的な声は聞こえてこない。なんて非現実的な光景だろう。これは幻影なのだろうか。講師の理性がそう主張しはじめた。しかしながら、彼の別の人格がそれに反対意見を述べる。
―――お前たちは何者なんだ。やはり、あの人に頼むしかない。
講師は心に筆で文字を書くと声を張り上げた。
「ちょっと、赤木さん、聞いてくれる?」
「なんですか?」
まるでオペラのリハーサル中に音楽を止められた女優のように、不満という文字を顔いっぱいに書いた。
「井上明宏という画家を知っているかな、この画家の弟子にあたる人だけど、彼は私の師匠にあたるんだ」
領土を奪われないうちに一気に文字を書き終えた。
「どうして、そんな人を紹介なさるんですか」
「言ったろう、私の手に余ると」
いつもながら年齢を超越した言い方に戸惑う。この少女と話していると彼女が小学生であることを忘れてしまう。
井上順を直接知っている彼ならば、よく御してくれるだろう。
「ここに住所があるから言ってごらん、先生には私から連絡しておくから」
「アトリエを開いておられるんですか、そんな画家が私みたいな小娘を相手にしてくださるのでしょうか」
「そのスケッチブックを持っていけばね、それに弟子である私が口添えをしておくから」
あおいは1人取り残されたような気がした。二人の会話にとてもついて行けなかったのである。
例え、移り気の多い性格の彼女でなくても、同い年くらいの子供ならば、ひどい退屈のために酸欠に陥ってしまうことだろう。
彼女の場合、自分のあられもない姿を描いた絵が講師に見られないように注意を払ったいために、飽きが来るのに時間がかかったという特殊なケースにすぎない。もしも、そういう事由がなければ、とっくに居眠りくらいはじめていたかもしれない。
しかし、そんなのんびりした少女の時間を風船を割るようにして引き裂いたのは、携帯の着信音だった。その名前が網膜の像を結んだとき、さーと血の気が引く音がした。
ママという2文字が少女の心臓に鉄杭を打った。それが少女にとって過去になってしまった牧歌的な時間を思い起こさせるために、筆舌に尽くしがたい淋しさをも同時に感じるのだった。
「はい ・・・・」
場所柄もわきまえずに携帯に舌を伸ばすのは、あおいが啓子とは違う証左であろう。後者ならば、一言断ってから少し離れてから対話を始めるにちがいない。
しかしながら、友人にそのようなふるまいができないのは、生来の性格が由来しているのであろう ――――ごく最近までそのような見方をしてきた啓子だが、かつては見せなかった青ざめた表情で母親を話す彼女を見ていると、自分の考えを改めてなくてはいけないと思った。
講師はごく常識的なことを言って、この場の幕を降ろそうとした。
「そろそろ、二人とも時間だから帰ったらどうかな、おうちの人も心配するだろうし ―――」
啓子は、講師の意図を正確に読んでいたが、あえて、それに乗ることにした。あおいの態度の豹変が気になったし、彼女じしん、井上明宏という画家に興味を持ったからだ。
母親たちに井上順展を身に連れて行ってもらったことが、その判断に寄与していた。あれから、画集などで彼の絵に親しんできたが、確かに、他の画家からは感じられない何かを感じていた。
―――ただ、ひたすら一人の女性だけを書き続けていた画家か。
その絵にデジャブーに似た感覚を得ていた。
―――作者は、彼女が好きだっただけじゃない。きっと、憎んでいる。自分に対してやった仕打ちが許せないんだ。 え?この感情は・・・!?
画家志望の少女は背後を見た。壁を頼るにようにして頼りなく歩くあおいがいた。
「はやくしなよ、おばさん怒るよ!」
ビクッっと、親友は肩を強ばらせた。まるで傷に塩を塗られたかのような反応だ。何故か、そんな姿を見ても、同情らしき思いは浮かんでこない。むしろ、敵意や恨みに似た感情がわき起こった。
彼女の華奢な手首を摑むと身体を引きずり始めた。
「はやくしなさいよ!!」
「い、痛い!! 啓子ちゃ・・・・・う」
肩を抜かれると思った。ときおり見せる親友の強引さは何を意味するのだろう。あおいは頼もしさよりもむしろ恐怖を感じることがおおい。
「どうしたのよ、啓子ちゃん、痛いよ!」
気がつくと、黄昏にやられたイチョウが一斉に見下ろしていた。
「早く、帰らないとまずいんだろう」
「大丈夫よ、いじめられたりしないから ――」
「いじめ?」
啓子は目を見張った。あおいは自分が何を口走ったのかも忘れて、自分の右腕の心配を続けている。
「痛いったら、いいかげんしてよ!!」
「・・・・・・・・」
腕を払われた啓子はあおいの剣幕に、さきほどの台詞と相まって、驚きを隠せなくなった。
「ちょっと、なんで黙っているのよ!」
「行こう ――」
まるで生まれてからの記憶をすべて失ったかのように、啓子はオレンジ色に染まった街に足を踏み入れる。
「ねえ、啓子ちゃん」
「・・・・・・・・・」
あやうく赤信号に気づかないところだった。車に轢かれそうになった啓子をすんでのところで救ったのはあおいだった。
「気をつけてよ、危ないじゃない。いつもならうるさく言うのは啓子ちゃんなのに、どうしたって言うのよ!?」
「あおい」
「?」
よほどのことがあっても、自分を呼び捨てにすることはなかった。魂を高層マンションとイチョウに奪われてしまったとでも言うのだろうか。
「どうしたの? 啓子ちゃん? 気持ち悪いよ」
「気持ち悪い? 私が気持ち悪いの?」
ちょうど、逆ギレされる結果になったあおいは、面食らったようすで画家志望の少女を観察しはじめた。はじめて見る対象に近づくために、まずすべきことは、この他動詞につきる。目の前の少女との邂逅は、あおいにとってまさに初体験と表記すべき現象だったのである。
啓子が何をはじめるのか、固唾を呑んで待つことにした。はたして、親友は驚くべきことを言い始めた。
「あおいは啓子のことを嫌いなんだ!」
「・・・・・・・・・・・・・!?」
いくら脳内検索を行っても、親友の幼児じみた言いように対して沈黙するだけだ。言葉が見付からないのだ。
そもそも、彼女が自分のことを『啓子』などと呼んだ記憶がない。そのようなことははしたないことだと、彼女の母親が言っているのを聞いたことがある。当時、あおいにもそのような癖があって窘められたのである。実母に何度叱られても治すことができなかった悪癖が、鶴の一声で改善されてしまったわけだ。
「答えてよ、嫌いなの?」
「そんなことないよ、好きだよ・・・・・・・」
そんな答えでは納得できないようで、さらに畳み掛けてくる。
「じゃあ、愛していないの?」
「あいして?」
その一言は、あおいにとって存在すら知らない外国語のように聞こえた。漱石が I love you. を「ああ、星が綺麗だね」と訳したらしいが、きっとそのような心持ちだったのだろう。
咄嗟にはその意味を計りかねた。
「愛していないんだ?」
「・・・・・・・・・・・・・」
彼女の真珠のような唇から迸った言葉は、あおいの脳内の酸素を水素に入れ替えることに成功していた。
「じゃあ、キスしてよ」
そして、啓子は点火したマッチを親友の頭に持っていったのである。
「由加里ちゃん、可哀想に・・・・・・・!?」
母親がまるで身も世もない哀しみに打ち拉がれる愛娘を抱くような仕草で、照美は、由加里を抱き締めた。
彼女の美しい顔が涙にくれるいじめられっ子の上にある。獲物の肉の温度を顎で感じながら、彼女は、内面と外面を完全に切り離した。
感情を完全にコントロールする。
この種の技術は、女優に欠くべからざる能力である。ただ、当の本人は今、自分が行っていることがどのような技能につながる才能なのか想像することすらしない。ただ、この世で最も忌んで憎むべき存在に対して、致命的な打撃を与えるべく行動しているだけである。
しかし、はるかはそれを完全に見抜いていた。
一方、由加里は、涙にくれていながら、どうして、袖が濡れているのかその理由すら忘れてしまっている。
涙は、時に記憶を溶かし人格すら忘却の河に流してしまうという。しかしながら、いじめっ子たちが流そうとしているのは、そんな高級な場所ではなくて単なる水洗トイレにすぎない。
自分の中に溜まりきったストレスごと始末してしまおうと企んでいるのである。ただし、その過程は薄い硫酸で死体を溶かすように、ゆっくりと苦痛を長くして、その姿を見ることにサディステックな快感を得ようともしているのである。
自分の身体の上で腹を空かせた猛禽がその爪を研いでいることにも気づかずに、いや、気づいているのかもしれないが、子猫はせめて楽しい夢を見ていたかったのである。自分の頭を撫でているのが、血に濡れた爪でなくて、母親の優しい手であることを祈った。それは単に自己欺瞞によって現実を歪曲したにすぎない。
「ウウ・ウ・ウ・ウ・ウ・ウ・・・うう?!」
嗚咽を張り上げながら、由加里は照美の胸に納まっていた。とうぜんのことながら、柔らかい母の感触とは完全に異なる。熟す前の果実の硬さは、我が子を抱くことは出来ない。よもや、由加里は娘ではないのだから、そのように涙に濡れる心を温めることはありえないにちがいない。
そんなことは、当の由加里にも理解できていた。
この不思議な感覚は何だろう。喉には得体の知れない物質が絡み、ひっきりなしに悪い感情が口と鼻をすーすーと行き来する。それらは口と鼻を覆うような酸味に満ちた刺激臭と異常な熱を帯びており、嗚咽に拍車を掛ける。そんな精神の危機とでも言うべき状況にもかかわらず、いや、だからこそかもしれないが、自分が潜り込んでいる真っ暗な空間に、擬似的な母性を感じたのである。
―――――照美さん・・・・・・・。
空気を振動しない声で、由加里は叫んでいた。
自分をここまで貶めた張本人である彼女に、そのような感情を抱くなどと、自分は一体何を考えているのだろう。
狂おしい嗚咽の下で、かすかに残った理性を働かせながら、由加里は自答自問を繰り返していたが、狂った経営者が行う自転車商法と同じで、一行に解決に導かれないどころか、悪化していくだけだった。
「・・・・・・・・・・・・・・」
一方、ミチルと貴子は、照美と由加里という二人の女優が織りなす演技に、引き込まれて微動だにできなくなってしまっている。
人間はそれほど長く緊張が続くことに耐えることが出来ない。だから、出口を求める。泥沼から渇いた大地に足を踏み入れるためにも、何でもいいから口を動かして人語を発することを望んだのである。
「・・・・・・・?」
都合のいいことに、ミチルはノートを見つけた。それは病室の隅にあるテーブルにのっていた。勉強用と思われる筆記用具やノートパソコンも置いてある。ちなみに、それは、はるかの所有物だが、キーワードをインプットしなければ起動させることができない。
もちろん、由加里はそれを知っているが、これまでの経緯からそれを報せるとは、とうてい思えなかった。確かに、希望的観測も多分に含まれている。
もしも、由加里の口からバラされるとするならば、新たな展開もありそうだ。
はるかは、何故か、自分が小説の登場人物であって、ある物語を構成する要員の一人にすぎないような気がした。ならば、とくと、クリエイターとやらの創造行為を愉しんでやろうではないか。
最近、身につけた自嘲癖を発揮していた。
「西宮先輩、この人誰ですか?」
「ウウ・ウウ・ウ・ゆららちゃん・・・・ウウ・ウ」
幼児のように、嗚咽の合間に言葉を滑り込ませる。
「鈴木さん?」
「・・・・・・」
照美は、しれっと聞いた。きょとんとした顔からは、あたかも、彼女が何も知らないようにしか見えない。
無言の圧力が由加里に台詞の朗唱を要求する。
「ウウ・ウ・・ウ・。さい、最近、友だちになった、なった・・ウウ・・・・ウ子なの・・・・ウ・・ウ」
「先輩、クラスに友だちができたんですか?」
貴子が遠慮なしに聞く。そんなところがまだ子供だとはるかには思えてならない。
ミチルは、ノートをぱらぱら捲る。たまたま、歴史のノートだったために、まだ一年生にすぎなかった彼女にも内容が理解することができた。これが数学や英語だったらそうはいかないだろう。
「これって、授業の内容ですよね、鈴木さんてとてもマメな先輩なんですね」
「うん、とてもわかりやすいんだよ・・・・・」
喘息の発作が止まるように、いつの間にか、嗚咽は止まっていた。
自分にも友だちができたという誇らしげな思いに、自分が包まれていることに気づかない。あるいは、たががそんなことを誇らしいと思う自分が情けないとも思える。
「あー」
その時、由加里は怖ろしい事実に気づいた。もしも、照美とはるかに知られたら、やっと友だちになりかけている 鈴木ゆららに、どんな祟りがあるかと思うと気が気でなくなったのである。
「て、照美さん ―――――」
「だめよ、照ちゃんでしょう?」
あたかも本当の親友のように、病身の少女を見つめる照美。
――――そんな目で見られたら・・・・・・・・・。
由加里は、ほそっと視線を反らした。天使が咲かせた薔薇のように美しく華やかな照美の視線に晒されると、思わず言葉を失ってしまったのである。
「ゆ、ゆららちゃ、じゃなくて、鈴木さんは、たまたま来ただけで、と、友だちっていうわけじゃなく・・・・・」
不治の病に冒された身内を看病するような仕草で、ミチルは、尊敬する先輩を労る。
「西宮先輩?」
背後で、ほくそ笑んでいるのは言うまでもなく、鋳崎はるかである。この長身のアスリートは、事態を睥睨することに喜びを感じている。由加里とはまた別の意味で、虚構を構成する才能に目覚めつつあると言っていい。
だが、互いにそれを認め合っているわけではない。また、分かり合おうと努力しているわけでもない。
いじめる側といじめられる側という主従関係にあって、二人は異なる立場から共通の目的を編んでいる。
そして、ミチルと貴子は由加里側に立っていながら、事態を正確に摑んでいないのである。奇妙にして、複雑な空間はその複雑の度を深めている。迷宮の奥へと迷いこんでいく。
今も、人知れず、猛禽の爪は獲物の肉を喰んでいる。
美少女のピアニストの指は、艶やかな音楽を奏でるべく、少女の局所を弄んでいるのだ。ミチルと貴子は、由加里が泣き続けているとばかり思っている。
一方、類い希な知性を持った少女は、信頼する後輩の前で、性的な陵辱を受けていることを、あるいは官能を感じていることすら、人間としての尊厳を冒されているように思えてならないのである。
「あ・ア・ア・・・ウウ」
「どうしたの? 先輩、苦しいんですか? 私、看護婦さん呼んできます、貴子、行こう」
「ぁ、ミチルちゃん、大丈夫だから・・・ぅあ!?」
その時、名ピアニストの指に力が帯びた。
――――可愛い従姉妹をその名前で呼ぶことは、照美にとって許しべからざる罪だったのである。
陰核を直接つまみ上げられた由加里は、「キョン」という小動物の鳴き声をあげてオルガズムに達した。
もっとも、その時、ミチルと貴子は置き手紙を置いて、室外の人になっていた。
「本当に、おかしいですよ、私たち、看護婦さん、連れてきますからね」
はるかは、「言っておいで」と涼しく見送ったが、ドアが閉まると心おきなくいじめっ子の牙を剥く。
自分のことは棚に上げておきながらこう言うのだ。
「名演技だね、まったく、ふふ」
はるかの低い笑いは由加里にとっては、死に神のそれよりも恐怖だった。何故ならば、後者だったら、どんな怖ろしい境遇が待っていようとも、黄泉の世界へと誘ってくれるだろうから、例え、その後、何が待っていようとも、一瞬だけならば安眠が訪れるだろう。
だが、かつて、彼女に言われた言葉が耳のなかで木霊する。
「おまえは、絶対に死ねないさ」
まったく根拠のないはずの言葉が、由加里の身体に侵入してきたとき、それは異様な説得力を備えていた。
そのことによって、死という由加里にとってみれば唯一の希望がくすんでしまったのである。
由加里にとって、照美やはるかと同居する教室ほど怖ろしい世界は存在しない。
「もう許してクダサイ・・・・・・はあ、はあ・・ウ」
何度言っても言い慣れない言い回し。小さな唇や舌が、滑らかに動くことを拒否する。
「見てゴラン、由加里ちゃん。ふふ」
「ひい、いや・・・・・・」
被虐少女は反射的に目を瞑った。
「よく見なさいよ!」
「あぐう!!」
突然、墜ちてきたはるかの大きな手によって顎を乱暴につかまれ、片方の手で目をひんむかれた。
無理矢理開かれた可愛らしい双眸が捉えたものは ―――――。
「ウ・ウ・・ウ・ウ・ウ・ウウウ!?」
由加里の目の前には照美の上品な指が開かれていた。しかし、指と指の間には、まるでカエルのようにカサが出来ている。よく見るとそれは粘液が糸を引いているのだった。
照美たちに言われなくても、自ずとその正体は明々白々である。今まで、彼女たちに
さんざんいじめ抜かれた経験が、事態の理解を早くさせた。すなわち、自分がふたりの奴隷にすぎないという自己認識が、堂に入った証左である。
既に、西宮由加里は自らの身体に奴隷の刻印を押していたのである。真っ赤に焼けた鉄の印章を自分の胸に、自らの意思によって焼き傷を負わせたのである。自分の肉が焼ける臭いとはいったい、どのようなものなのだろうか。おそらく、それは白旗を自ら挙げる行為だったにちがいない。その臭いによって、自らの奴隷性を理性ではなくて、本能によって悟ったのであろう。
しかしながら、それは羞恥心を忘れたということを意味しない。
「ィいやアッァァアあ」
激しくいやいやをする由加里。はるかと照美は、畳み掛けるように加虐のことばを投げつける。
「あなたは信頼する後輩の前で、イったのよ! なんて、いやらしい雌犬かしら?」
先ほどとは打って変わった照美の美貌は演技という仮面を脱いでいた。
「あの二人がこんな姿を知ったら、当然、愛想を尽かすにちがいないわ! この変態!!」
「いうああ、いやあああぁぁぁぁ!! 痛い!ぁぁぁぁぁぁ!!」
由加里は顔を摑まれながら叫んだ。幼いころ見たSF映画にヒトデのようなエイリアンが登場したが、それに顔を席巻されてしまったかのようだ。彼女の記憶の中では、その衛リアンは、被害者に張り付いたまま産卵管を喉の奥へと挿入するのだった。そのあとには、気持ち悪くなって泣き出してしまったから、よく覚えていない。
忘れたい記憶ほど消え去ってくれない。いま、知的な少女は急流を遡っている。得体の知れない悪魔のようなエイリアンから逃げるために、命を掛けている。もう少しで崖に上がることができる。
もう少し ―――――。
しかし、だめだった。あと一歩というところで、エイリアンに足首を摑まれてしまった。
ふと、振り向くと敵の正体は、この世のものとは思えない美少女だった。
涙でどろどろになった由加里の顔を吹きながら照美は言った。
「すぐに看護婦さんが来るけどわかっているわね」
「はい ―――」
江戸時代の仕掛け人形がそこにあった。
それを見ると照美は、は満足そうに整った頬を緩める。
「何がわかったのかしら?」
「か、海崎さまに、従うことです・・・」
これは完全なアドリブのはずだった。由加里は完全に自分の首輪についている鎖を照美に預けたというのだろうか。
「うううウウウウウウ・・・ウウ?!」
しかし、事実はそうではないようだ。悔しそうに泣きそぼる被虐のヒロインから立ちのぼるオーラからは、絶対的服従という文字は読み取れない。
「ふふ・・かわいい」
不敵な笑みを浮かべたのは、はるかである。
「そうじゃなかったらこちらもおもしろくない。せめて、楽しませてもらおうか、女優さん、西宮の存在価値なんてそこにしかないんだから」
男子のそれを思わせる大きな両手で、由加里の前髪をかきわけ額を露出させると、自らの顔を接近させて言った。 淡々と語られる台詞の一語一語はある意味、照美よりも迫力があって怖ろしい。
――――けが人に、ふたりしてこんなことをしてるなんて、端から見たらどんな悪人に見えるのだろうな。
別に端から見なくても、十二分に悪人の名にふさわしいのだろうが、将来を嘱望されたアスリートは、自分たちの行為を第三者的に眺めながら、自嘲した。これはあきらかに照美にはない属性である。
水が流れる音がしたと思ったら、照美が手を洗っていた。
「よーく落とさないとね、由加里ちゃんの汚い汁で汚れちゃったわ、ほっとくと、手に染み込んで腐っちゃいそう。 あ、そうだわ。そろそろ、ミチルたち来るかな」
「そうだな」
美少女の罵倒に耳を塞ぎながらも、心が霜を落とすように涙を流し続ける由加里をなが目ながら、はるかは心がここにあるか無きかの返事をする。
「はるか、どうしたのよ」
「何でもない、ほら、由加里ちゃん、女優の顔に戻り、それから、ふふ」
「何よ」
「 ―――」
「照ちゃんもな」
「な、何よ、ウドの大木!!」
顔を真っ赤にして照美は怒り出した。その怒りの余勢をかって、タオルをはるか目掛けて投げつけた。
「あははは、そんな、お嬢様投げでぶつかると思うか?」
しかしながら、さすがはアスリートの卵よろしく、ひょいっと、子憎いばかりの見事な動きで避けて見せた。
だが、つい一秒前まではるかが占めていた容積を、ある別の人物が代わりに割って入ったのである。
――――――――――――――――――――――。
そのためにあらぬ目標にぶつかってしまった。
「あ、看護婦さん」
なんと、白い服に直撃したのである。ドアがたまたま、開き、タオルは似鳥可南子の顔に軽い衝撃を与えた。
ところが、ある少女に与えた衝撃はそれどころではなかった。
「ヒ!?」
「何ですか? 病室は遊び場ではありませんよ」
大根を彷彿とさせる容貌は、照美とはるかにある種のデジャブーを与えた。しかしながら、彼女が醸し出す異様な 存在感は、彼女らの追求の手を緩めさせた。
―――何だろう、この尊大さは?
照美は白衣の女性が入室したとたんに変わった部屋の空気を思った。それは教師がざわめく教室に入ってきたのと 何処か似ている感覚だった。しかし、それとも違う何かを可南子に見ている。それは彼女個人に依存した性質なのだろうか。
看護婦はそのような雑音などまった意に介さずに、怯える由加里に向かう。コツコツというヒールがリノリウムの床を打つ音が、原始人が死んだ動物の骨を合わせたり、打ち合ったりする、音楽のオリジナルとでも言うべき現象を思い起こさせた。
「西宮さん、具合が悪いのですか?」
「・・・・」
「・・・・・・・」
看護婦の後に、非難めいた視線を送るミチルと貴子が続く。
―――どうして、私にまでそんな目を向けるのよ。
照美はそれが不満だったが、言葉に表現するのは躊躇った。
何故ならば、病室中のベクトルがこの少女に向かっていたからだ。それも当然で、ここは病院であり、驚異的な回復を見せたとはいえ、医師や看護婦の治療と看護を必要とする患者なのである。
しかし、当の由加里としては気が気でない。
あの似鳥可南子がまるで女王のように、君臨しているのだ。彼女を目の前にしては、照美もはるかも、何事につけても非凡とはいえ、単なる中学生の女の子にすぎない。
なんと言っても、可南子には大人の女としての存在感がある。
何よりも、二人とはまた別の意味で、由加里を陵辱した前科がある。彼女が入ってきただけで病室の空気が一片する。知的な美少女は、どうにかして、この状況から逃亡したいと思った。そのためならば、二人にしがみついてでも室内の空気を浄化したいと考えた。
そのことは無意識によって示された。
気がつくと照美の裾を握っていた。
目敏い可南子はそれを見かねた。
「どうしたの? 西宮さん?先生、呼ぶ?」
横目でさりげなく、類い希な美少女に視線をやりながら、「それとも、おしっこかしら?」
「ち、ちがいます!」
躍起になって否定する由加里。
可南子は、おしっこと言った。普段ならこんな言い方はしない。少なくとも、第三者がいるところでは、さりげなくウインクをして、彼らに出て貰ってから溲瓶を用意するのだった。即ち、以心伝心で伝わったはずなのだ。
少なくとも、第三者がいるところでは、少女を陵辱したことはない。
それがおしっこと言ったのだ。それもその四文字を強調までして。
「先輩、私たち出てましょうか?」
由加里にとっては、貴子の言葉は天の助けに思えたであろう。しかしながら、この病室の女王に即位した女は、そんなことを許しそうになかった。
あまりに残酷で、そして、非現実的なことを言ったのである。
「いえ、皆さんにも手伝ってもらいましょうよ、西宮さん」
麻木晴海は、物事に対する見方が概して運命論に傾く。
いわく、人間は生まれたときにすべての人生の経緯が決定されている。だから、努力などというものはすべて無意味である。あるいは、努力することそのものが運命だから、人間のはからいなど、すべて、絵に描いた餅にすぎない。
兄である祐輔の許婚者とその家族と会合を持ったとき、佐竹まひると邂逅したことをそれほど驚いてはいなかった。さすがに、最初は、運命の神とやらがくみ上げる物語の陳腐さに文句のひとつも述べたくなったが、あいにくと何処の宗派のなんという神に文句を言っていいのわからないので、断念することにした。
だが、当の佐竹まひるは完全に凍りついていた。初夏の足音が聞こえてくる季節にもかかわらず、瞼には霜が張り付き、その綺麗な瞳は完全に、安物のマネキンのそれに墜ちていた。
もっとも、彼女が落とした生徒手帳から遠くない未来に再会できるものと踏んでいた。しかし、佐竹という姓は珍しいわけではなく、ここまで早く、そして、このような皮肉な形で可愛らしい子羊と乳繰り合えると思っていなかったのである。
―――おっと、それは先走りすぎたか。
将来の女性警察官僚は不敵な笑みを浮かべた。この場の女主人公であるはずの、ある人物。すなわち、祐輔の許婚者であり、晴海の義姉になるであろう女性は、晴海の圧倒的な美しさと存在感のために、完全に脇役になっていた。 それは、彼女の悪意というものだろう。
なぜならば、彼女は自分の気配を完全に消す超能力を持ち合わせているからである。それを使わないにあたってはそれなりの理由がある。このような表情を見せているが、実は、ひじょうに機嫌が悪い。それを記述するには今朝、彼女が起床したときにまで遡らねばならない。
「・・・・・・・・・・・くう!?」
晴海は寝癖だらけの長髪を掻き上げた。ついぞ10年以上、彼女のこんな表情を見たことのある人間はいない。それでも辛うじて美貌を保っているのは生来の形質のせいだろう。男でも、女でも、本当に美しい者はすっぴんだろうが、なんだろうが美しいものなのである。
出窓に侵入したアポロンの使者は、「貴女は美しい」と言って消えた。
しかし、本人は、神話の世界の住人のたわごとに耳を傾けるほど余裕があるわけではなかった。
この歳になっては、おそらく誰にも見せない顔つきで、ひとりごちた。
――――まさか、あんな夢を見るとは・・・・・?!
新たに視界を妨げようとした髪の毛を掻き上げると、晴海は嘆息した。
夢の中で、晴海は女子高生に戻っていた。あどけないリンゴの顔をかつては持っていた。
教室はオレンジ色の黄昏に沈む。
晴海を中心としてドーナツ型の輪ができている。好奇心と嘲笑に満ちた視線をどのクラスメートたちも送ってくる。そして、その中心にいるのは ――――。
中心にいるのは、少女たちではなくて、なんと彼女の担任である ・・・・・。
やがて、ドーナツの輪は小さくなり、晴海を押し潰そうとする。
その瞬間に目が覚めたのである。
―――今更、あんな夢を見るなんて・・・・・・・。
年齢の割に臈長けた美人は、一瞬だけ女子高生の顔に戻っていた。
――――今日は、あの人の家族と出会うのか。名前は何だっけ?
彼女は、つい一ヶ月前に出会った義姉予定の女性の顔を思い浮かべた。本当に優しそうな人だった。しかしながら、それ以外にめぼしい印象がない。
祐輔の結婚など、そもそも、たいして興味がない。今、自分が抱えている仕事の方がよほどトリアージとしては優先である。どちらにも共通なのはやっつけ仕事ということだ。
だが、いちおう、ここまで自分を妹として遇してくれた恩がないというわけではない。だから、有休を取ってまでその会合に出ようというのだ。
機嫌の悪さは化粧ごときでは隠しきれないらしい。だから、キッチンに入ったとき、祐輔に皮肉を言われた。もちろん、両親がいるのを見通してのことである。
「優秀な妹どのは、こんなくだらないことに時間を割くことはなかったのに、お忙しいんだろう、お仕事が」
「止めないか、祐輔!」
両親は怪訝な顔を見せたが、今更ながらという色も同時に、顔いっぱいに乗せた。しかし、もうすぐこれも終わりという安心感も何処かにしのばせていた。
「父さんは、優秀な妹どのに譲りたいんだろう? 本当のところは?」
「いいかげんにしないか!!」
父親である勇はついに怒りを爆発させた。彼はとある軍需産業の重鎮であり、末席とはいえ経団連にその名を連ねている。そのような人間だから、常に冷静さを保つ訓練はできているはずである、しかしながら、それは必ずしも家族を相手にするとその限りではないらしい。
晴海は完全に他人のふりをすると、朝食のパンをトースターに突っ込んだ。
「で、先方の家族は何人かしら」
「ご両親と妹さんたちで、6人」
母親である妙子の質問に即答する祐輔。妹に対するそれとは雲泥の差である。尊属と卑属の差異というよりも、もっと、別のところにその理由はある。
「へえ、ご両親と妹さんたちね、ずいぶん、妹さんが大勢いらっしゃるのね」
「いちばん、下はまだ小学生だから、かわいいものだよ、誰かさんと違ってね」
しかし、家族は祐輔の不満顔に係わるのを止めた。その日は、一家にとってとても大事な日だったからである。
長男の許婚者の家族と出会う。家族同士ということで、両家が一同に体面するのである。実は父親である太一郎にとってみても、重要な日だった。
本当のことを言えば、彼が用意した良縁があった。もしも、それが成れば、太一郎の財界に対する発言権は倍増しするはずだった。しかしながら、息子はそれを蹴って、思い人を連れてきた。一般的に見れば、有力者としての父親にとって悲しむべきことかもしれない。
世間は、彼を目的のためには手段を選ばない非情の経営者と見ているから、少なからず驚いた。それは、妻と長女も同じだった。
ところが、一番、感情を害するはずであろう太一郎は、一も二もなく喜びの声を上げた。何よりも、頼りない息子が自分の意思で行動したのである。それは、彼にとってみれば、清水の舞台から飛び降りることに酷似していたであろう。
元来、気が弱い跡取り息子は、勉強から外見まで、至る所で妹に叶わず、かなりのコンプレクスを抱いて育ってきた。しかし、彼が本当に怖れていたのは父親である太一郎だったのである。
そんな彼が認めたことは、祐輔にとっては意外でもあり、心底、喜ぶべきこともあった。しかしながら、そうだからと言って、晴海に対する敵愾心をかなぐり捨てたわけではなかった。
祐輔が多大の犠牲を払ってまで勉強に実を費やして、それなりの私大に入学したと思ったら、妹は、いとも簡単に東大法学部に現役で入学し、その後、四年間を市井の大学生と同じような遊び歩いたというのに、こともあろうか警視庁キャリア試験に見事合格してしまった。
その事実を会社の幹部が知らないはずはなく、いやでも意味ありげな視線を跡取り息子は一身に受けることになった。こうなって、妹を愛せと言う方が無理というものだった。
計らずも兄によって目の上のたんこぶにされた妹は、鏡の前にいた。背後から母親の視線を感じながら、もっかのところ化粧中である。
その行為は女性にとっては戦時における弾薬の準備に等しいと言えるだろう。男性にはとうてい理解できないことだが、彼女らが自室のいちばん目立つ部屋にどうして化粧箱を置いているのか、外出前にどうしてあれほど化粧に時間をかけるのか、化粧とは女性を女性あらしめる重大な要素のひとつなのである。
余談だが、女子刑務所というところに収容されている生き物を女性と呼んでいいのか議論が分かれるところである。
閑話休題。
背後から言葉がパウダーのように降ってくる。
「本当に綺麗な肌ね、晴海、やりすぎるとどちらが主人公がわからなくなるわね」
「ママまで嫌みを言うんですか?」
どちらかという義母というニュアンスで、台詞を暗々とした井戸からくみ上げる。
「ふふ、ごめんね、祐輔のくせが映っちゃって」
「きっと、兄さんはそれを怖れているんでしょうね」
母親である妙子はしばらくその魂を宙に浮遊させた。それは目つきで晴海にわかる。だから、すんでの所で言葉を出し渋る。
「・・・・・・・・」
「さ、はやくなさい、祐輔のかんしゃくがはじまらないうちに」
妙子の手は非情に冷たく重かった。あんなに小さいのに、どうして、自分にはそう思えたのだろう。
年の功という言葉は十分に信頼をおくべきだった。はたして、母親の予想は正鵠を射ていたのである。
彼女が階下に消えて、その代わりに祐輔の怒鳴り声が聞こえてきたので、若い女性警官は、自分も車上の人間になることを決意せざるを得なかった。
車は国産の一般車である。特に高級車というわけではない。彼ほどの身分ならば、運転手のひとりやふたりを引き連れて外車を乗り回している。そのように世間的には受け止められているかもしれない。
ところが、事実はかなり異なる。彼が乗っている車は、一般的なサラリーマンがすこし背伸びすれば買えない品ではないし、運転手など雇ったことすらない。
車は単なる交通手段にすぎず、それに拘るのは利便性だけである。石原裕次郎とともに育った彼らのような世代にしては異端児と言うべきかも知れない。
思えば、晴海はこの父と似ていないこともない ――と自称してみる。しかしながら、そんなことは自分の顔を映す 窓が目に入ってくると、そんな儚い夢想は瞬く間に雲散霧消してしまう。
自分は、この家族の中でどのような立ち位置にいるのかと常々考えてきた。だが、音もなく背後に転がっていくビルや乗用車、そして、道行く人などを眺めるだけで、答えが出るとも思えない。今、車によって水をはねられて制服を汚した女子高生がお椀のような顔を見せた。
「さあ、ついたよ」
そこは、高級中華料理店だった。
車から吐き出される前に、祐輔は、無言で鼻を妹の方向へと向けた。彼はこう言っているように思えた。
―――仲の良いきょうだいを演じてくれるならそれでいい。
兄の目は哀しいほどに乾燥していた。これから結婚し、自分の家庭を営む人間の姿とはとうてい思えない。
だが、それはあくまで晴海に対しての態度であり、他の人間はそう受け取っているとも限らない。
もっとも ――と嘆息する。
それほどまでに晴海が注意を払う価値があるとは思えない。
兄の結婚。
それ以上でも以下でもない。
その店に入るまで、彼女はそんなことを考えていた。
入り口に偽陶器の輝きを見せるプレイトがあって、麻木家様、佐竹家様と書かれていた。
―――――そうか、相手は佐竹さんと言うのか。
何処かで聞いた名前だとは思いながらも、何とはなしに流す。そのついでといった感じで、個室に足を踏み入れる。
その時、佐竹まひると再会した。
佐竹家の家族は総勢6人、両親と祐輔の相手である長女、そして、まひるは次女なのだろう、そして、二人の小学生とおもわれる赤と黒のランドセルを発見した。
「おまたせして、もうしわけありません」
「いえ、いえ、私どももつい先頃来たところです」
両家の両親がそれぞれ、人畜無害の挨拶を交わしている。その時、晴海とまひるは、完全にちがう次元に身を置いていた。互いに、視線を交わし合ったとき、晴海は一瞬だけ戸惑いを見せたが、すぐに鷹の目をらんらんと輝かせていた。
一方、まひるは、切れ長の瞳を無理矢理に釣り上げて、どうやら自尊心を保つのにやっきになっている。
―――私はすべてあなたのことを見通しているのよ。
無言でそう言い放っていることに、晴海じしん、最初は気づかなかった。だが、獲物が目を伏せたとき、外見上の体裁をようやく整わせているか弱い少女を痛め付けていることをようやく知った。
「さあ、みなさん、席に着きましょうよ」
祐輔とまひるの姉 ――――この時、晴海は姉になるべく運命づけられた人間の名前を失念していた。小さい頃から、教科書など見たものはすべてすぐに暗記するだけでなく、理解までしてしまうのに、彼女の名前を覚えていなかったことに、その印象の薄さを暗示してるだろう。
しかし ―――。
「お義姉さん、お元気そうですね」
「気がお早いことですね、晴海さん、貴女のような妹ができて、本当に嬉しいです」
佐竹皐(さつき)は優しげな笑みを浮かべて、外交辞令を述べた。しかしながら、そのことばの冷たさと相反して、彼女の微笑が嘘でないことは、警察官である晴海でなくても、簡単に知ることができた。
―――本当に、表裏のない人なのね。
はじめて、好印象を得た。もっとも、はじめで出会ったときも、そのように思ったのかもしれない。しかしながら、当時は仕事のことで頭がいっぱいになっていて、メモリーをそちらに向かわせる余裕はなかったのである。
予約していた料理が来るまで、互いが互いを知るための談笑がはじまった。表向きにこやかに始まったが、実は剣客同士の戦いが剣と剣の軽い挨拶から始まるように、互いに探りを入れ始めていたのである。
こういうことは、晴海は得意である。
最初に記述したように、このとき、完全に自分のオーラを全面に出していた。祐輔はそれを無意識のうちに分かっていて、場所柄あからさまにできない敵意に苦しみだしていた。
自ずと、一同の視線は晴海に向かうことになる。
「そうなんですか、晴海さんは警視庁にお勤めなんですか」
「ええ、公安に籍を置いています」
「おお、そうですか、小説では悪役ですね」
相手側の父親が相好を崩した。
母親が間髪入れずに諫めようとする。
「ちょっと、お父さん、失礼ですよ」
「いえ、正鵠を射てますよ。私どもなどは普通のお巡りさんに憧れます」
両家に笑いが起こった。まずはうまく儀式は進んでいる。
そこに黄色い嘴がつきささった。ランドセルが赤い方だ。
「お姉さんは階級は?」
「自分? 巡査部長だよ」
美貌を赤らめるふりをして晴海は言った。
―――とんだ、女優だな?!
それを目敏く見抜いていたのは祐輔だけだったろうか。
「えーおじさんよりもエライの?若いのに」
今度は、黒いランドセルの方が嘴を向けた。
「私の弟は警官なんですよ、晴海さん」
「きっと、ずるしたんだよね」
「これ、可南子!」
「いえ、いえ、ずるしたも同然ですよ。私たちキャリアはたまたま勉強が得意だっただけでして」
――――――!!
この時。祐輔の顔色が変わったことに、晴海でなくても気づいていた。だから、皐は未来の夫の具合が悪いでのはないはないかと、無意味な気を回した。
ランドセルたちには、キャリアなどという概念は理解できないようで、早くも運ばれてきた料理群の香ばしい匂いに舌鼓を打った。もはや、おじが晴海よりも階級が低いことなど注意する価値などないものに引き下げられてしまったようだ。
ここで、晴海はおもしろいことを知った。未だ凍りついているまひるのことである。どう見ても、佐竹家の中で孤立している。
ほくそ笑んだ鷹は、矛先を獲物に向けることにした。
「お嬢さんは、御名前をなんていいますか」
しれっと聞く。
「佐竹まひると言います」
「まひるお姉さんも頭いいんだよ、キャリアになれるかな?」
まひるがこれから話だそうと言うときに赤いランドセルが嘴をつきだした。しかし、母親は嗜めようとしない。明かに、子供たちに対する態度が違う。
「お姉さんは、私が子供の時よりもずっと、頭が良さそうだ ―――」
舐め回すような視線を送る。生徒手帳から年齢はわかっている。14歳、中学二年生。外見は、どうみても高校二年生ぐらいに見える。しかし、その仮面の下に、あどけない少女、いや、幼女のすがたをはっきりと見つけた。
「まひるさん、いい名前ね。」
「あ、ありがとうございます」
緊張に緊張を重ねて、自尊心の仮面に罅が入ろうとしていた。
これ以上、責めてはいけないと、オーラを留めることにした。
「ちょっと、失礼」
やおら立ち上がると長身をやや折り曲げて出口へと向かう。そのとき、まひるに目で合図を送った。それが伝わらなくても別にいい。そうなれば、まだ機会があるというものだ。なんと言っても、彼女は人質を握っているのだ。
「・・・・私も、し、失礼いたします」
まひるも立ち上がって出口を目指した。
――失礼な子ね。と佐竹の方の母親は愚痴りたくなったが、最初に晴海が同じような行動に出たために、それはできなかった。なんと言っても、彼女は晴海を気に入っていたのである。
「でも、向こうのお姉さん、綺麗な人だよね。それに頭もいいし」
「まひるお姉さんよりも、ずっと頭いいよ」
何と子供とは移り気が頻繁なことか、事、ここに至って、晴海は佐竹家の心を完全に奪っていた。
その時、まひるは高級ホテルを思わせるトイレに、ひとり佇んでいた。
―――何て、醜い顔かしら? 誰にも愛されないのもうなずける。
少女は鏡から金色に鈍く輝く蛇口に視線を移動させると、おもむろに、水を出した。それは、これから自分が出すひきがえるのように醜い声をごまかすためである。
「何を泣いているのかしら? お嬢さん」
「・・・・・・・!?」
はたして、入り口には麻木春実が颯爽とした仕草で立っていた。オーラを無制限に放出する。
――――自尊心の高さを見せてもらおうか。
晴海は、人間を評価するに当たってもっとも重視する2文字を少女の白い額に書き記した。最高級の陶器のように美しいその肌が、はたして、外見だけのものか見てやろう。
いささか意地悪な気持で、少女を評価しようとした。
「・・・・・・・!」
はるみはぐっと唇を噛んで見せた。そのために、龍の赤ん坊が口の端から零れた。
――――かわいらしい。
もう、十分だった。どうやら、少女は春実の意に叶ったらしい。
自分よりも頭一つ背の高い大人を女子中学生は、まだ、睨みつけていた。視線に高貴の色を組み入れながら、少女は切れ長の瞳を精一杯広げていた。その端にはうっすらと涙が浮かんでいるというのに・・・・・・・。
「ぐう・・・・・・!?」
少女は床に視線を降ろした。エメラルドの輝きなど少女の網膜に実を結ぶはすがない。
「何が、私に言いたいの?」
「あ、あ、あああ ―――」
まひるが何が言いたいのか、痛いほどわかるが、あえて、それを口に出そうとしなかった。
やがて、形の良い頭を回転させると、息せき切って、捲し立てた。
「お、お願いです! お母さまに言わないでください!」
「何を?」
「・・・・・・・・をです! ウウ・ウ・ウ・ウ・ウ!?」
誇らしげな仮面などかなぐり捨てて、幼女のように泣き出した。
春実は、すべてをわかっていながら、残酷なことにあえて自ら言わせようとしている。
「それじゃ、何にも、わからないわ。妹さんたちの話だと、頭がいいんでしょう? まひるさんは。だったら、主語と述語が完備してないんだったら、文として成立しないでしょう そんなことくらいおわかりよね」
さきほどの歓談とは打って変わって冷たい声だ。寒風吹き荒む大地に裸で投げ捨てられたまひるは、血管まで凍りつくしかなかった。
なおも、春実はいやらしい責めを続ける。
「誰が、何処で、何をされているのを。誰に止めて欲しいの?」
「ウウ・・ウ・。わ、私が・・・・」
「名前で言ってちょうだい」
「さ、佐竹、佐竹まひるが、学校で、い、いじ・・・・・」
――言いたくないだろうね、自尊心が邪魔するんだろうよ、でも、家族に知れるよりはましでしょう?
「もう、一回。だったら、これから私が見聞きしたこと、全部、ご家族に披露してもいいのよ」
「や、や、やあ、それだけは、許して!!」
「だったら?」
「さ、佐竹、まひるが、学校でいじめられていることを、ウウ・・ウ・ウ・ウ・・ウ、お母さまに言わないで下さいッ!!ウウ・ウウ・・ウ・ウ・ウ・?ああ」
その時、外から聞き慣れた声が聞こえた。
「まひるお姉さん、具合が悪いのかな」
「どうだろうね、でも、それにしてもあのお姉さん綺麗だよね」
言うまでもなく、まひるの姉弟である。
「ああ」
まひるが今にも処刑されるような顔になった。しかし、それは杞憂だった。
何故ならば ―――――――。
「おいで」
打って変わって優しい声に包まれたかと思うと、少女は、トイレの個室に連れ入れられた。
「ウウ・・ウ・ウ・ウ・!?」
想像だにしないことが少女に起こった。口の辺りに甘い圧力を感じたかと思うと、とつぜんに、力強い意思が彼女の顔を席巻したのである。
少女は一体何処にいたのだろう。
気がつくと、寺の庭崎に設えられた座席に未発達の尻を乗せて、遠くに息づく長崎の町並みを眺めていた。
―――あそこにお父様の病院があるのかしら?
紺のブレザーは心なしか露を散らしていた。水晶の珠をあしらっているのだ。建造は、娘の胸を見ていた。年齢に相応しくこんもりと盛り上がりつつある。その頂点の部分には他の部分よりも余計に宝石が乗っているような気がした。
――――もう、年頃なのだな。一昔前ならば、嫁入りもそう遠いことではない。
墓参りは無事に済んだ。一時はどうなることかと思ったが、建造の不安は杞憂に終わってくれるようである。少なくとも、そう思わないと帰りに事故を起こしてしまいそうである。若い院長は、自分の不安をごまかすために、娘に話しかけることにした。
「陽子、どうだい?」
――気は済んだのかい?と言おうとして、咄嗟に言葉を差し替えた。娘の心を気遣ってのことである。
「お父様・・・・・」
「ルリ子もきっと喜んでいるよ、とても優しい子だったからね」
ありがちな台詞を口の端に載せたのは、建造自身の精神安定のためである。こうすれば、娘は安心してくれるだろうという ―――。
いや、もうひとつの可能性を述べてみれば、そうすれば、父親の役割を果たしたという自己満足の心がないとはいえないだろう。
自縄自縛に陥った建造は、かたわらにいるはずの夏枝に助けを求めようとした。
「夏枝もそう思うだろう? え?」
はたして、長崎城主婦人はそこにはいなかった。
「夏枝は何処に言ったんだ?」
「ママは、茶屋に行ったよ」
「薫子か ――」
まるで待ち受けていたかのように、辻口家の長女は答えた。茶屋とは大きな霊園にあるような喫茶店のようなものである。しかし、なにぶん、小さな寺なので規模は極小規模であり、住職が趣味で参拝者をもてなしている。
それは、住職とその家族の住居の近くにある。匿名庵と名付けられた風雅なたてものは、千利休の待庵にいささか似ていた。
お嬢さんとして育った夏枝は、その方面にかなり明るい。だから、住職との会話もはずんでいた。
「まあ、ご住職は千利休の専門家に知見がおありなのですね」
「ええ、従兄弟が大学教授でして ――」
住職に振る舞われた宇治茶をすすりながら、院長夫人は娘が見ている風景とはまったく逆のそれを見ていた。長崎の街ではなくて、峻厳なる自然を眺めていた。素人ではとても登れそうにない絶壁やどんな残酷な環境でも力強く生きる松を、彼女は見ていた。
――――はたして、自分や娘はあのようになれるだろうか。
絶壁に根を張る松の木は、今にも落ちそうな姿勢でなおも絶壁にへばり付いている。くねくねした根っこは、まるで大蛇のようだ。
これから母娘を襲う障壁を考えると、闇々(あんあん)たる気持になるのだった。しかしながら、遠くない未来に、いや、すぐ手の届く次の瞬間に、それを180度逆転させる情報に、彼女が境遇するなどと夢にも思わなかった。
それはとつぜんに起こった。
「おや、おや、会話がはずんで折られるようですな、ご住職」
「おや、神父さん、一年ぶりですね」
おや、と思って、ふり返るとそこには十字架が立っていた。おそらく、ここが寺などと言う伝統的な空間だったために、あり得からざるべきオブジェに目が行ってしまったのだろう。
よく見ると、老人は、おそらく70も半ばを過ぎていると思われる。小さいころから祖父と祖母によくされた夏枝は、老人には親切に接する習慣ができているし、それに従って娘たちにも躾を行ってきた。
だから、十字架に奇妙なものを見る視線を送ってしまったことに気づいて、それを人知れず恥じた。しかし、人生の妙を極めたと思われる老人は、そんなことなどお見通しといった風に、言葉をかけた。
「お寺に、十字架など無粋ですかな? いえ、すいません、ここにはややいわくつきの人が眠っておられるのでね、一年の一度だけ、今日だけ改宗してでも、祈りを捧げているのですよ」
「今年は、一日だけ遅いようですね」
「いえ、今年は昨日までヨーロッパに行っておりまして ――」
老人は杖を頼りに着席する。
住職が茶と菓子を用意するために奥に消えると、夏枝はこの老人に不思議な興味を感じた。
「神父さまは、どうしてここに来られるのですか? あ、すいません、ぶしつけなことを」
「いえ、かまいませんよ」
まるで孫を見るような目で神父は記憶の糸を辿るように言葉を紡ぎ始めた。
「それも今年で最後です。このとおり、この老体にはあの坂道はこたえるのでね。それにあの子たちもきっと幸せになったことだろうし」
「あの子たち?」
老人が微笑んでいるのをいいことに、やんわりと追求を始めた夏枝。これから悪夢が待ち受けているとも知らずに、老人を見つめた。断っておくが、それは好奇心に基づくものではない。何やら分からないものに引かれて、いつのまにか、老人に吸い込まれていったのである。
「ええ、今一人は、天国に、いえ、極楽でしたかな。そして、もうひとりはきっと幸せな家族に囲まれて笑っていることでしょう」
「・・・・・・・・・・」
夏枝は怪訝な顔を隠そうとしなかった。それは何処かで聞いた話だったからだ。旅行先で思わぬデジャブーを感じたと思ったら、小さいとき両親に連れて行ってもらったことがあった ――というドラマにはありがちな設定を思い浮かべた。
「神父さんはその子と面識がおありなのですか?」
注意深く言葉を選ぶ。その狼狽したようすから、神父の意図を探ろうというホンネが見え見えだが、これでも細心の注意を払ったつもりなのだ。
神父はそれを見定めたか、そうしないふりをしているのか、何でもないという顔で口を動かす。
「ええ、せいかくには彼女の父親に、ですがね」
「神父さん・・・・・、もしかして、その女の子は、その、害されたのではないですか?」
殺されたと表現しなかったところに、母親としての意識が見て取れる。神父はそれだけでなく、彼女が女の子と言ったことに目をつけた。彼は、そうは言っていない。あくまで子供と言ったにすぎない。
互いが見えない糸と針で互いを釣り上げようとしている。ふたりの対峙は端から見ているとまさに息を呑む展開だった。
だから、茶と菓子を持ってきた住職は危うくそれらを零してしまう憂き目を見るところだった。
しかし、彼の苦労を見ているものはひとりもここにはいない。互いが互いに注目しすぎて、周囲に注意が向かわないのである。
「あなたは、もしかして、いや、まさか、辻口さんとおっしゃるのでは? やっぱり」
「私の ―――された娘はルリ子といいます・・・・」
例え婉曲された表現であっても、もういっかいその言葉を使うことは、夏枝には堪える相談だった。そして、その語尾は叩いたばかりのギターのように震えている。
「や、やっぱり ――――」
「それではあの愛児院の院長先生ですねの」
「それは過去の話ですよ、院長夫人!陽子ちゃんはお元気ですか」
もはや互いに言葉は必要ない。ふたりはすべてを悟ったのである。
二人は、20年ぶりに出会った親子のような顔をした。仄かに心の芯が温もりを帯びていくような気がした。しかし、老神父の次の言葉がそんな気持を一瞬で崩壊させることに気づくことはなかった。
「あなたはすばらしい! 本当にありえないほどに!!あんなこと普通の人間ならとうでいできないことですよ。陽子ちゃんはお元気ですかな?」
「それはどういうことですの」
夏枝は苦茶を粉のまま噛んだ。
思えば老人の言葉はおかしい。ルリ子が殺されたことと、陽子を養女として迎え入れたことにどのようなつながりがあるというのだろう。
このとき、ふたりの間に微妙ではすまされない、ボタンの掛け違いがあった。
老神父は院長夫人の態度に、奥歯に何か引っかかったような感覚を味わいながらも、言葉を続ける。
「そうでしょうね、なかなかできることではありませんよ」
「・・・・そうですわね」
夏枝もだてに歳をかさねていない。良いところのお嬢様出身とはいえ、院長夫人としてそれなりの経験を重ねている。それにはこの事件の発端となった不倫も含めていいだろう。
実は、話をはぐらかしてみせたのである。どうやら、その秘密とやらを夏枝が知っていると神父は践んでいるようだ。
もしも、「知らない」と答えてしまえば、その秘密は永遠に隠匿されてしまうかもしれない。孔の隙間に挟まっていた鍵を取ろうとして、失敗した挙げ句、永遠に入手できない羽目に陥るということはよくある話だろう。
寄る年波には勝てないということか、神父は見事食い付いてきた。それとも、孫のような夏枝を甘く見たということかもしれない。
「ご自分の娘さんがあんなことになって、憎むべき相手の御子に許しを与えて、育てるなどと、まさにイエス様の教えに叶っております」
「・・・・・・・・!?」
九州そのものが音を立てて割れたような気がした。あるいは、ソ連の核弾頭が降ってきたのかも知れない。夏枝が立つ大地は音もなく崩れていった。
「どうかされましたか?」
自分が大量破壊兵器になってしまったことなどまったく気づかずに、老神父は酸素を吸う。
夏枝は体裁を取り繕うのに持てる全エネルギーを使った。
もしも、自分が本来もつ性質に従って、ここで感情を爆発させてしまえば、そのことは、建造にも伝わるだろう。それは断じて避けねばならない。
何故ならば ――――。
この時は、その理由には思い付くことがなかった。ただ、女性らしい直感がそう告げていただけである。
間違っても復讐の2文字が頭に浮かぶことはなかった。
「だ、大丈夫です、神父さま」
その時、地獄から天使の声が聞こえてきた。
「あら、お母さま、どうされたのですか? 具合が悪そう」
「・・・・・・・・・・?!」
院長夫人は、予想だにしなかった声に、脳が溶け出すような気がした。網膜には確かに自分の脳が腐乱して視神経を犯すシーンが映り出されていた。
「な、何でもないわ!」
「お、お母さま?!」
陽子のヴェネティアンガラスの指は、悲しくもはねのけられた。
「ああ ――」
どうして、こうまでして自分の悲しくも口惜しい思いを韜晦せねばならないのか。夏枝の中でいろんな感情が互いに波を作って、激しく叩いた音叉を水中に入れたようになってしまった。
――――憎い! この綺麗な顔をキリで傷だらけにしてやりたい!!ダケド・・・・!?
しかし、神父に対して行った行為とはまた違う感情が、陽子に対してわき起こっていた。
この時、大切なものが壊れてしまったことに、陽子は気づいていなかった。しかし、母親のようすが普段と違うことは容易に知れる。
だから、意識の何処かでそれに気づいていたのかもしれない。
神のいたずらか、あるいは、配下の天使のひとりが出来心を働かせてしまったのか、いま、二人は邂逅してしまった。知ってはいけない事実を把握してしまった夏枝は、もはや、以前の彼女ではないだろう。
一方、陽子はまだおむつが取れたばかりの、ほんの、乙女にすぎなかった。
この二人の境遇と心情のちがいは、どのような物語を紡ぐことになるのか。それは、この時、誰もまだ想像だにできないだろう。
麻木晴海が佐竹まひるとはじめて出会ったのは、勤務先から帰宅中のことだった。その日は珍しく午後5時に仕事先を抜けることができた、と言っても、実は昨日は夜通しあるデーターを分析すべくコンピューターにかかりつけになっていた。だから朝帰りならぬ、夕帰りなのである。
今、列車上の人になっている。彼女と同じように細長い空間に詰め込まれた乗客たちは、さながらアウシュビッツ行きの家畜用列車に乗せられた囚人そのものだった。今日も、人間らしい臭いを発するタンパク質の塊は、私立の中学生から定年間際のサラリーマンまで疲れ切ったお面を素顔に被って、運ばれていく。
そんな一群のなかで、彼女だけは異彩を放っていた。
一様に死人のような顔が並ぶなかで彼女だけは颯爽としている。隣の上司と思われる年嵩の男性と好対照である。
彼女は、あくまで表面上は整った鼻梁を心なしか天井に向けながら、文庫本に目を走らせている。
彼女が持ち合わせている美貌はいやでも人の注目を集める。それは幼稚園から始まって小学校、高校、そして大学と常に、その優れた知性と相まって周囲の憧れとともに羨望をも蒙ってきたのである。
毎朝、夕、通勤、通学している人間ならば、もしくは、そのような経験を持っているならば、毎日、新しい人間との邂逅をはたしてきたにちがいない。もっとも、そのようなことは珍しいことではないが、晴海にとってみれば迷惑千万なことなのである。
そこで、彼女が完成させた技が、自分を周囲に溶け込ませることだった。人の目を惹く容貌であっても、表情のつくりひとつでそれが可能であることに気づいたのである、それは高校時代のある体験が理由になっているが、ともかく、この技術は、今、彼女が就いている職業につながっているから、ただでは転ばないということだろう。それは彼女の性格の一翼を担っている。
さて、その日も同じことが起こっていた。意思しだいで、自分に注目を集めることも、その逆も可能なのだから、ある意味、超能力者ということができるかもしれない。とにかく、少女たちは一瞬だけ晴海に注目したものの、すぐに、自分たちの目的のために盲目になってしまった。
中学生にしてはちょっとお洒落な制服。彼岸花のようなタイに、高級な女物のスーツを彷彿とさせるブレザー。
それは、晴海にとってみれば懐かしい制服だった。
もちろん、晴海は、彼女たちが自分の後輩であることを横目で確認していた。活字を追いながら同時にそれを行ったのである。
このとき、少女たちの間に流れている空気が、何か異様に見えたのである。何故に、そのようなものを発見できたのだろうか。
それは警視庁公安部というスパイまがいの組織に所属しているおかげだった。その上、生来の気質のために、その仕事は彼女にとって天職だと言えた。
しかし、彼女が言うところの、準ヤクザ組織であるところの局所は、人間を人間でなくする。単なる氷のロボットにしてしまう。
もっとも、上司である新居警部補によると、「お前はここに来る前からここの住人だよ」ということになる。
「やめてください」と軽くかぶりを降る晴海の様子は、どうみても入部2年目には見えない。数年は彼女が言うところの、ヤクザまがいの仕事に従事しているように見える。
晴海は、その技術を使って少女たちを観察している。
6人いる中で、その少女がやけに目立っていた。中央を席巻している彼女を一目見れば誰でもその集団のリーダーと思うだろう。しかし、晴海の観察は違っていた。
――――いじめだな。
その少女が、である。一見、きつい顔立ちの美少女。心なしか吊り上がった目尻は、西洋的な美少女というよりは、古典的な日本美少女と言った方が適当である。
彼女の概観をやや文学的な表現で修辞してみるならば、細身で身長もひときわ高く。胸を張った堂々たる姿勢はモデルを思わせる、となるだろうか。
その少女がいじめられているというのである。スパイになって、たがが二年目の青二才の観察というべきだろうか。しかし ――――。
「あの子、いじめられているね」
「・・・」
新居警部補の囁くような声に無言で肯いた晴海は、さらに慎重な観察を続ける。彼は入部して20年になろうとしている。もっとも、彼のお墨付きなどなくても彼女がその手の才能に恵まれていることは、部員のほぼ全員が理解していた。
晴海は美しい後輩に非情な視線を送りながら、何処かで味わった感覚を思い出していた。それは、子供のころ一度だけ食べた美味を大人になって口にするのに似ている。
―――誰かに似ているわ。
晴海は、得体の知れない時空間に身体と心を溶かされていくのを感じた。妙なデジャブーを感じさせる光景だった、それは。
やがて、他の少女たちの視線が晴海に向かった。もちろん、彼女たちの誰も自分たちが観察されていることに気づいていない。
晴海は、これから何が起こるのか、あるていど見通しているつもりだった。
しかし、その内のひとりがこれから行うであろう痴態を想像することは、公安部きっての若手ホープであっても不可能だった。
五人のうちのひとりが晴海に耳打ちした。そのとたんに、中世の女王のように高貴な肢体がびくんと波打つ。そのくらいのことは、晴海にも確認できた。しかし、次にどんなことをしでかそうとしているか、ということまでは読めなかった。
少女は、一瞬、目を瞑ると諦念したように、目を見ひらいた。切れ長の瞳が涙を流しているように見えた。
彼女が晴海たちに向かって震える足を踏み出したとき、列車が停車したので、女王は身体を折り曲げた。慣性の法則に従って転びそうになったのである。そのために座っている乗客に支えられる羽目になった。
「大丈夫ですか、お嬢さん。具合悪そうですね、よかったらお座りになりますか」
60歳ごろかと思われる上品な女性に、優しく接されてほろりと来たのか、緊張に顔のピースのすべてに電気を通しているような緊張がとけた。
―――かわいい。
下車する上司に形だけの挨拶をしながら、若い巡査部長は生来持っている趣味の新芽を心に生やした。
目つきがきついだけだと思っていた美少女はこんな表情もみせるのだ。乗客たちはそう思ったにちがいないが、晴海は既に見抜いていた。
「あ、ありがとうございます、大丈夫です、おばあさん」
はじめて、少女の声を聞いた。日本語の美を余すところ泣く表現している。その調子から虜囚の態度を思わせる。「少しでも手を触れてみなさい、いつでも舌を噛んでみせます」とでも言いかねない状況である。しかしながら、それを見抜いているのは、事ここに至っても、晴海だけである。単に具合が悪いのだろうと、他の乗客たちは見ているにちがいない。
そう思っている間にも、事態は進んでいく、少女はすこしばかり唇を噛むと、晴海の前に立った。そして、言ったのである。
「お、お姉さん・・・・ま、まひる、おしっこ・・・・・」
さきほどの凛とした性質など、その声からは完全に失われていた。ただ、幼稚園でいじめられている幼児にしか見えない。
あるいは、母親にトイレに連れていくように依頼する子供のように見える。別の見方をすれば、それを擬しているということが可能だろう。いったい、誰の命令かは容易に察しがつくというものだ。
背後では、五人の少女たちが控えていて、わらいをこらえるのに試練の時を迎えている。
だが、簡単に動くわけにはいかない。用意に警察権力を振り回すわけにはいかないのだ。とりあえず静観することにした。それに何より、彼女には普通の女性にはない特殊な性癖が備わっており、彼女はそれが発揮する対象でもあったのである。
食指が動くとはまさにこのようなときに使うべき表現であろう。彼女が動かそうとしていたのは、警察に入るような人間にありがちな正義感に満ちた尊敬されるべき態度ではない。
しかしながら、そんなことはオクビにも出さず、単なる傍観者のフリをして、乗客の一人に溶け込んでいた。
だが、少女たちは晴海にそんな良い役をいつまでも与えておかなかった。
「・・・・・・・・・・」
晴海が黙認しているのをあきらめきった目で見ると、少女は制服のスカートを捲ったのである。
驚いたことに ―――――――。
この時ばかりは、乗客たちはおろか、とうの晴海の思考でさえ凍結させてしまった。そのくらい驚愕していたのである。
高級な象牙のように美しい両足に挟まれた股間は、何も覆われていなかった。そこにあるべき布はどう見ても確認することができなかった。
要するにノーパンだったのである。しかも ――――。
その年齢にはあるべき何かがない。
それは毛である。
別名、陰毛という。
少女は無いはずの陰毛を震わせて同じことを言った。声帯の震えがそこまで影響を与えるというのだろうか。
「お姉さん、ま、マヒル、い、おしっこ・・・ぁ、ああ!?」
――――この子、マヒルって言うの?珍しい名前ね。
常人ならば縮み上がってしまいそうな状況も、晴海にとってみればごく冷静に観察すべき対象である。
列車の中というパブリックな場所にあり得からざるべき状況は、運命というレールに乗ってただ進もうとしている。
しかし、いったい、それはどんな運命だろう。晴海のかたわらにいる女子中学生たちは、ごく友人の談笑しながらごくありふれた帰宅を挙行していた。それは青春の一頁としてブログにでも載せたくなるような体験であろう。
この少女にはそんな小さな幸せも与えられていないのだ。
「ア・ア・ア・あああ、み、見ないで・・・?!ぁぁあああ!」
少女は、上品な美貌を涙でくしゃくしゃにしながら、放尿を始めたのである。
女子の尿道は、男子のそれと違って構造的に違う。そのために、尿は真下にあるいは、少しばかり背後に垂れ流されることになる。
白亜の大腿から膝小僧を通って、足首まで黄色い、いやな臭いのする液体が流れていくことになる。少女の足は、まだ小学生を卒業してそれほど経っていないと見えて、いささか不格好である。すなわち、出るところが出て折らす、引っ込むべきところが引っ込んでいない。確かに細いのだが、要するにずんどうなのである。
男どもの中にも、そのような形態により性欲を感じる趣味の人間もいる。
―――へえ、女の子でもタチションできるんだ。
それは、そのような趣味を生まれ持ったとある大学生の感慨である。
ちなみに、隣の友人は携帯を少女に向けていた。言うまでもなく撮影していたのである。人間というものは、追いつめられるほど周囲に敏感になる。ごく小さなシャッター音であっても、少女の耳に届いているだろう。
少女は、耳たぶまで真っ赤にして泣きじゃくっている。だが、スカートは振り上げたままで、哀れなピエロとしてそのブザマな姿を晒している。
周囲の人間たちは、この事態を目の当たりにして、ただ立ち尽くすだけである。
「何かのパフォーマンスかと思ったせ」とは、あざとくもこの光景を撮影した大学生の言である。ちなみに、この数分後、友人たちへのメールに添付されて少女の画像は、ねずみ算式に目撃者を増やす結果となった。
この時、彼女がそれを知るよしもなかったのは、幸せか否か。それは神のみ知るというべきだろう。
五人の少女たちは、腹を抱えて笑っている。さきほどまで我慢していたが、もはや、我慢ができなくなったようだ。晴海の耳に、それが入ったとき、彼女が取るべき態度は決まっていた。
今まで凍りついていたかのように立ち尽くしていた晴海が、急に動き始めたので、少女たちは驚いたことだろう。この時、彼女の中のシステムが入れ代わった。闇に隠れるプログラムから光に押し入っていく、いや、光そのものになるプログラムを起動させたのである。
まず、少女の肩に手を触れるとこう言った。
「手が痛くなったでしょう? 降ろしなさい」
「エ?」
彼女はばかみたいに顔を大きくあけて戸惑っている。虹彩は限界まで開いて、もう、何処を見たらいいのかわからずに、虚空をさまよいだした。
だが、確として目の前の美貌に釘付けになる、それだけでいいのである。それには、晴海の声を聞くだけで十分だった。
「ァアアアア・ア・ア・ア・・・・・ああ?!」
少女は、殺される瞬間に援軍を見つけた敗軍の将のような表情をすると、晴海に抱きついた。
自分の身体に尿がかかるのも構わずに、晴海はそれを許している。
晴海を単なる普通の大人として侮っていた少女たちは、鉄砲玉を喰らった鳩になっていた。
「ぁ・・・あ」
何かに気づいたように少女は、晴海から離れると床に座り込んでしまった。
少女たちと乗客たちは、これから何が起こるのだろうかと、固唾を呑んで見守っている。
はたして ―――。
晴海は、五人に向かってやおら歩き始めた。
そして、そのリーダーらしき子の前に立ちはだかった。背の長けは少女とそう変わらない。だが、髪の毛を染めたりせずにポニーテールにしている。一見しただけでは、大人しいごく普通の少女である。
だが、その口から出た言葉は、とてもそのような外見から想像できるものではなかった。
「ちょっと、おばさん、汚れてるよ、臭い!」
「寄らないで暮れる!?」
他の少女たちまでが叫び始めた。
晴海は、鼻で笑うと脇を掻く真似をした。そして ―――。
そして、手を離したとき何か手帖のようなものを落とした。
「あ、落としちゃった。君、拾ってくれるかな?」
「何で、あんたの拾わなきゃいけないのよ!?な ――」
リーダー格の少女はそれを見て、頬の筋肉を硬直させた。
開かれた手帖には、警察官の制服を着用した晴海の写真が貼ってあるではないか。何よりも彼女たちの目を引いたのは、POLICEの六文字だった。
うちに秘めた罪悪感からか、少女たちは悲鳴に似た声を上げた。しかしながら、リーダー格の少女は晴海を睨みつけるなり声を張り上げた。
「おばさん、お巡りさんなんだ。だったら、何、私たちに何の用よ、逮捕ならあの変態を捕まえてよ!」
晴海がふり返ると、元の表情に戻った少女がそこにいた。少女たちを睨みつけている。先ほど放っていた品性と知性を取り戻している。
「まあ、お巡さんなんて言う高級なものじゃないが、」
「じゃあ、違うって言うの?」
「親戚ってとこかな、逮捕権ならちゃんとあるわよ、ちょっとついてきてもらおうかな?」
「ナ?!」
普通の中学生よりも違う色を放っているとはいえ、しょせん、晴海の前では単なる小娘にすぎない。すこしばかり強く出られると、トラの威勢を失ったキツネのようにくしゃんとなってしまった。背中がドアに同化するのではないかと思わせるほど、身体を背後に押しつける。晴海を見上げる目は完全に怯えている。
「人生、無駄にしてみる?」
「うう・う・・うん」
黙って顔を振ると、たまたま列車が何処かの駅に到着したのをいいことに、脱兎のごとく車外に逃げ出した。四人の少女たちもそれに習う。
強姦された女性は、当所、誰が手を出しても無言で拒否するという、それが母親の手であっても同じらしい。
少女は、いまだ、腰を抜かした老婆のように床に座り込んでいる。
晴海が助け起こそうとしても同様の態度を固持していた。だが、目だけはらんらんと輝き自尊心の高さを十分、想像させうる。
「あ、あなたは ――――」
晴海の手が肩に触れようとしたとき、少女はさきほどの五人とはまた違う意味で、兔のように飛び跳ねた ―――少なくとも、晴海にはそう見えた。そして、少女の声は、若々しい張りに満ちていた。
「あなたは、私を助けたつもりなんですか!?」
おどおどしたことなど微塵もない堂々たる態度だった。
「私は信じない!!大人なんか大嫌いよ!」
その台詞はありふれていたが、車外に飛び出していく少女が備えていた目 ―――らんらんと傷ついたピューマのように輝いていた、それは晴海の性癖を刺激するのに十分すぎる匂いを放っていたのである。そして、また別の感慨もあった。既視感と表現するには、あまりに特殊すぎる感覚だった。
ゆっくりと再び動き始めた列車には、晴海はいつも怪物の復活を彷彿とさせる。都会のコンクリートブロックを走りぬける大蛇、それが都市の交通網の動脈たる電車である。いったい、どのような人間たちを呑みこんでは吐くのか。
本当の化け物は中の乗客かもしれない。
――――いま、あなたたちは何もせずに立ち尽くしていた。それだけで十分に、化け物と呼ばれるに相応しい。
もはや毒づくことも忘れて晴海はひとちごちた。
「まあ、また出会うこともあるわ」
残された晴海は、さきほどの手帖とはまた違うそれを開いていた。
俗に、それは生徒手帳と呼ばれる。
今、列車上の人になっている。彼女と同じように細長い空間に詰め込まれた乗客たちは、さながらアウシュビッツ行きの家畜用列車に乗せられた囚人そのものだった。今日も、人間らしい臭いを発するタンパク質の塊は、私立の中学生から定年間際のサラリーマンまで疲れ切ったお面を素顔に被って、運ばれていく。
そんな一群のなかで、彼女だけは異彩を放っていた。
一様に死人のような顔が並ぶなかで彼女だけは颯爽としている。隣の上司と思われる年嵩の男性と好対照である。
彼女は、あくまで表面上は整った鼻梁を心なしか天井に向けながら、文庫本に目を走らせている。
彼女が持ち合わせている美貌はいやでも人の注目を集める。それは幼稚園から始まって小学校、高校、そして大学と常に、その優れた知性と相まって周囲の憧れとともに羨望をも蒙ってきたのである。
毎朝、夕、通勤、通学している人間ならば、もしくは、そのような経験を持っているならば、毎日、新しい人間との邂逅をはたしてきたにちがいない。もっとも、そのようなことは珍しいことではないが、晴海にとってみれば迷惑千万なことなのである。
そこで、彼女が完成させた技が、自分を周囲に溶け込ませることだった。人の目を惹く容貌であっても、表情のつくりひとつでそれが可能であることに気づいたのである、それは高校時代のある体験が理由になっているが、ともかく、この技術は、今、彼女が就いている職業につながっているから、ただでは転ばないということだろう。それは彼女の性格の一翼を担っている。
さて、その日も同じことが起こっていた。意思しだいで、自分に注目を集めることも、その逆も可能なのだから、ある意味、超能力者ということができるかもしれない。とにかく、少女たちは一瞬だけ晴海に注目したものの、すぐに、自分たちの目的のために盲目になってしまった。
中学生にしてはちょっとお洒落な制服。彼岸花のようなタイに、高級な女物のスーツを彷彿とさせるブレザー。
それは、晴海にとってみれば懐かしい制服だった。
もちろん、晴海は、彼女たちが自分の後輩であることを横目で確認していた。活字を追いながら同時にそれを行ったのである。
このとき、少女たちの間に流れている空気が、何か異様に見えたのである。何故に、そのようなものを発見できたのだろうか。
それは警視庁公安部というスパイまがいの組織に所属しているおかげだった。その上、生来の気質のために、その仕事は彼女にとって天職だと言えた。
しかし、彼女が言うところの、準ヤクザ組織であるところの局所は、人間を人間でなくする。単なる氷のロボットにしてしまう。
もっとも、上司である新居警部補によると、「お前はここに来る前からここの住人だよ」ということになる。
「やめてください」と軽くかぶりを降る晴海の様子は、どうみても入部2年目には見えない。数年は彼女が言うところの、ヤクザまがいの仕事に従事しているように見える。
晴海は、その技術を使って少女たちを観察している。
6人いる中で、その少女がやけに目立っていた。中央を席巻している彼女を一目見れば誰でもその集団のリーダーと思うだろう。しかし、晴海の観察は違っていた。
――――いじめだな。
その少女が、である。一見、きつい顔立ちの美少女。心なしか吊り上がった目尻は、西洋的な美少女というよりは、古典的な日本美少女と言った方が適当である。
彼女の概観をやや文学的な表現で修辞してみるならば、細身で身長もひときわ高く。胸を張った堂々たる姿勢はモデルを思わせる、となるだろうか。
その少女がいじめられているというのである。スパイになって、たがが二年目の青二才の観察というべきだろうか。しかし ――――。
「あの子、いじめられているね」
「・・・」
新居警部補の囁くような声に無言で肯いた晴海は、さらに慎重な観察を続ける。彼は入部して20年になろうとしている。もっとも、彼のお墨付きなどなくても彼女がその手の才能に恵まれていることは、部員のほぼ全員が理解していた。
晴海は美しい後輩に非情な視線を送りながら、何処かで味わった感覚を思い出していた。それは、子供のころ一度だけ食べた美味を大人になって口にするのに似ている。
―――誰かに似ているわ。
晴海は、得体の知れない時空間に身体と心を溶かされていくのを感じた。妙なデジャブーを感じさせる光景だった、それは。
やがて、他の少女たちの視線が晴海に向かった。もちろん、彼女たちの誰も自分たちが観察されていることに気づいていない。
晴海は、これから何が起こるのか、あるていど見通しているつもりだった。
しかし、その内のひとりがこれから行うであろう痴態を想像することは、公安部きっての若手ホープであっても不可能だった。
五人のうちのひとりが晴海に耳打ちした。そのとたんに、中世の女王のように高貴な肢体がびくんと波打つ。そのくらいのことは、晴海にも確認できた。しかし、次にどんなことをしでかそうとしているか、ということまでは読めなかった。
少女は、一瞬、目を瞑ると諦念したように、目を見ひらいた。切れ長の瞳が涙を流しているように見えた。
彼女が晴海たちに向かって震える足を踏み出したとき、列車が停車したので、女王は身体を折り曲げた。慣性の法則に従って転びそうになったのである。そのために座っている乗客に支えられる羽目になった。
「大丈夫ですか、お嬢さん。具合悪そうですね、よかったらお座りになりますか」
60歳ごろかと思われる上品な女性に、優しく接されてほろりと来たのか、緊張に顔のピースのすべてに電気を通しているような緊張がとけた。
―――かわいい。
下車する上司に形だけの挨拶をしながら、若い巡査部長は生来持っている趣味の新芽を心に生やした。
目つきがきついだけだと思っていた美少女はこんな表情もみせるのだ。乗客たちはそう思ったにちがいないが、晴海は既に見抜いていた。
「あ、ありがとうございます、大丈夫です、おばあさん」
はじめて、少女の声を聞いた。日本語の美を余すところ泣く表現している。その調子から虜囚の態度を思わせる。「少しでも手を触れてみなさい、いつでも舌を噛んでみせます」とでも言いかねない状況である。しかしながら、それを見抜いているのは、事ここに至っても、晴海だけである。単に具合が悪いのだろうと、他の乗客たちは見ているにちがいない。
そう思っている間にも、事態は進んでいく、少女はすこしばかり唇を噛むと、晴海の前に立った。そして、言ったのである。
「お、お姉さん・・・・ま、まひる、おしっこ・・・・・」
さきほどの凛とした性質など、その声からは完全に失われていた。ただ、幼稚園でいじめられている幼児にしか見えない。
あるいは、母親にトイレに連れていくように依頼する子供のように見える。別の見方をすれば、それを擬しているということが可能だろう。いったい、誰の命令かは容易に察しがつくというものだ。
背後では、五人の少女たちが控えていて、わらいをこらえるのに試練の時を迎えている。
だが、簡単に動くわけにはいかない。用意に警察権力を振り回すわけにはいかないのだ。とりあえず静観することにした。それに何より、彼女には普通の女性にはない特殊な性癖が備わっており、彼女はそれが発揮する対象でもあったのである。
食指が動くとはまさにこのようなときに使うべき表現であろう。彼女が動かそうとしていたのは、警察に入るような人間にありがちな正義感に満ちた尊敬されるべき態度ではない。
しかしながら、そんなことはオクビにも出さず、単なる傍観者のフリをして、乗客の一人に溶け込んでいた。
だが、少女たちは晴海にそんな良い役をいつまでも与えておかなかった。
「・・・・・・・・・・」
晴海が黙認しているのをあきらめきった目で見ると、少女は制服のスカートを捲ったのである。
驚いたことに ―――――――。
この時ばかりは、乗客たちはおろか、とうの晴海の思考でさえ凍結させてしまった。そのくらい驚愕していたのである。
高級な象牙のように美しい両足に挟まれた股間は、何も覆われていなかった。そこにあるべき布はどう見ても確認することができなかった。
要するにノーパンだったのである。しかも ――――。
その年齢にはあるべき何かがない。
それは毛である。
別名、陰毛という。
少女は無いはずの陰毛を震わせて同じことを言った。声帯の震えがそこまで影響を与えるというのだろうか。
「お姉さん、ま、マヒル、い、おしっこ・・・ぁ、ああ!?」
――――この子、マヒルって言うの?珍しい名前ね。
常人ならば縮み上がってしまいそうな状況も、晴海にとってみればごく冷静に観察すべき対象である。
列車の中というパブリックな場所にあり得からざるべき状況は、運命というレールに乗ってただ進もうとしている。
しかし、いったい、それはどんな運命だろう。晴海のかたわらにいる女子中学生たちは、ごく友人の談笑しながらごくありふれた帰宅を挙行していた。それは青春の一頁としてブログにでも載せたくなるような体験であろう。
この少女にはそんな小さな幸せも与えられていないのだ。
「ア・ア・ア・あああ、み、見ないで・・・?!ぁぁあああ!」
少女は、上品な美貌を涙でくしゃくしゃにしながら、放尿を始めたのである。
女子の尿道は、男子のそれと違って構造的に違う。そのために、尿は真下にあるいは、少しばかり背後に垂れ流されることになる。
白亜の大腿から膝小僧を通って、足首まで黄色い、いやな臭いのする液体が流れていくことになる。少女の足は、まだ小学生を卒業してそれほど経っていないと見えて、いささか不格好である。すなわち、出るところが出て折らす、引っ込むべきところが引っ込んでいない。確かに細いのだが、要するにずんどうなのである。
男どもの中にも、そのような形態により性欲を感じる趣味の人間もいる。
―――へえ、女の子でもタチションできるんだ。
それは、そのような趣味を生まれ持ったとある大学生の感慨である。
ちなみに、隣の友人は携帯を少女に向けていた。言うまでもなく撮影していたのである。人間というものは、追いつめられるほど周囲に敏感になる。ごく小さなシャッター音であっても、少女の耳に届いているだろう。
少女は、耳たぶまで真っ赤にして泣きじゃくっている。だが、スカートは振り上げたままで、哀れなピエロとしてそのブザマな姿を晒している。
周囲の人間たちは、この事態を目の当たりにして、ただ立ち尽くすだけである。
「何かのパフォーマンスかと思ったせ」とは、あざとくもこの光景を撮影した大学生の言である。ちなみに、この数分後、友人たちへのメールに添付されて少女の画像は、ねずみ算式に目撃者を増やす結果となった。
この時、彼女がそれを知るよしもなかったのは、幸せか否か。それは神のみ知るというべきだろう。
五人の少女たちは、腹を抱えて笑っている。さきほどまで我慢していたが、もはや、我慢ができなくなったようだ。晴海の耳に、それが入ったとき、彼女が取るべき態度は決まっていた。
今まで凍りついていたかのように立ち尽くしていた晴海が、急に動き始めたので、少女たちは驚いたことだろう。この時、彼女の中のシステムが入れ代わった。闇に隠れるプログラムから光に押し入っていく、いや、光そのものになるプログラムを起動させたのである。
まず、少女の肩に手を触れるとこう言った。
「手が痛くなったでしょう? 降ろしなさい」
「エ?」
彼女はばかみたいに顔を大きくあけて戸惑っている。虹彩は限界まで開いて、もう、何処を見たらいいのかわからずに、虚空をさまよいだした。
だが、確として目の前の美貌に釘付けになる、それだけでいいのである。それには、晴海の声を聞くだけで十分だった。
「ァアアアア・ア・ア・ア・・・・・ああ?!」
少女は、殺される瞬間に援軍を見つけた敗軍の将のような表情をすると、晴海に抱きついた。
自分の身体に尿がかかるのも構わずに、晴海はそれを許している。
晴海を単なる普通の大人として侮っていた少女たちは、鉄砲玉を喰らった鳩になっていた。
「ぁ・・・あ」
何かに気づいたように少女は、晴海から離れると床に座り込んでしまった。
少女たちと乗客たちは、これから何が起こるのだろうかと、固唾を呑んで見守っている。
はたして ―――。
晴海は、五人に向かってやおら歩き始めた。
そして、そのリーダーらしき子の前に立ちはだかった。背の長けは少女とそう変わらない。だが、髪の毛を染めたりせずにポニーテールにしている。一見しただけでは、大人しいごく普通の少女である。
だが、その口から出た言葉は、とてもそのような外見から想像できるものではなかった。
「ちょっと、おばさん、汚れてるよ、臭い!」
「寄らないで暮れる!?」
他の少女たちまでが叫び始めた。
晴海は、鼻で笑うと脇を掻く真似をした。そして ―――。
そして、手を離したとき何か手帖のようなものを落とした。
「あ、落としちゃった。君、拾ってくれるかな?」
「何で、あんたの拾わなきゃいけないのよ!?な ――」
リーダー格の少女はそれを見て、頬の筋肉を硬直させた。
開かれた手帖には、警察官の制服を着用した晴海の写真が貼ってあるではないか。何よりも彼女たちの目を引いたのは、POLICEの六文字だった。
うちに秘めた罪悪感からか、少女たちは悲鳴に似た声を上げた。しかしながら、リーダー格の少女は晴海を睨みつけるなり声を張り上げた。
「おばさん、お巡りさんなんだ。だったら、何、私たちに何の用よ、逮捕ならあの変態を捕まえてよ!」
晴海がふり返ると、元の表情に戻った少女がそこにいた。少女たちを睨みつけている。先ほど放っていた品性と知性を取り戻している。
「まあ、お巡さんなんて言う高級なものじゃないが、」
「じゃあ、違うって言うの?」
「親戚ってとこかな、逮捕権ならちゃんとあるわよ、ちょっとついてきてもらおうかな?」
「ナ?!」
普通の中学生よりも違う色を放っているとはいえ、しょせん、晴海の前では単なる小娘にすぎない。すこしばかり強く出られると、トラの威勢を失ったキツネのようにくしゃんとなってしまった。背中がドアに同化するのではないかと思わせるほど、身体を背後に押しつける。晴海を見上げる目は完全に怯えている。
「人生、無駄にしてみる?」
「うう・う・・うん」
黙って顔を振ると、たまたま列車が何処かの駅に到着したのをいいことに、脱兎のごとく車外に逃げ出した。四人の少女たちもそれに習う。
強姦された女性は、当所、誰が手を出しても無言で拒否するという、それが母親の手であっても同じらしい。
少女は、いまだ、腰を抜かした老婆のように床に座り込んでいる。
晴海が助け起こそうとしても同様の態度を固持していた。だが、目だけはらんらんと輝き自尊心の高さを十分、想像させうる。
「あ、あなたは ――――」
晴海の手が肩に触れようとしたとき、少女はさきほどの五人とはまた違う意味で、兔のように飛び跳ねた ―――少なくとも、晴海にはそう見えた。そして、少女の声は、若々しい張りに満ちていた。
「あなたは、私を助けたつもりなんですか!?」
おどおどしたことなど微塵もない堂々たる態度だった。
「私は信じない!!大人なんか大嫌いよ!」
その台詞はありふれていたが、車外に飛び出していく少女が備えていた目 ―――らんらんと傷ついたピューマのように輝いていた、それは晴海の性癖を刺激するのに十分すぎる匂いを放っていたのである。そして、また別の感慨もあった。既視感と表現するには、あまりに特殊すぎる感覚だった。
ゆっくりと再び動き始めた列車には、晴海はいつも怪物の復活を彷彿とさせる。都会のコンクリートブロックを走りぬける大蛇、それが都市の交通網の動脈たる電車である。いったい、どのような人間たちを呑みこんでは吐くのか。
本当の化け物は中の乗客かもしれない。
――――いま、あなたたちは何もせずに立ち尽くしていた。それだけで十分に、化け物と呼ばれるに相応しい。
もはや毒づくことも忘れて晴海はひとちごちた。
「まあ、また出会うこともあるわ」
残された晴海は、さきほどの手帖とはまた違うそれを開いていた。
俗に、それは生徒手帳と呼ばれる。