夕食が済んで3時間が過ぎていた。
長崎城主婦人は台所で食器棚を整理している。瀬戸物が発する銀色の音に誘われたわけではないが、陽子が入ってきた。
「お母さま・・・・・・」
「あ、陽子?!」
おずおずと母親を上目遣いで見る娘に思わず息を呑む。
思えば、この子にはいつも気を遣ってきたものだと思う。強いて優しくしてきた、言い換えればスポイルしてきた。それがこの結果である。少し冷たくしただけで、この体たらくである。塩を掛けられた青菜のようにしゅんとしている。
しかしながら、そんな陽子を見せつけられると、自分の中に虹色の卵を発見して、とことんいやな気分を味わうのだった。その卵が孵ると陽子に対する情愛がぴーちくと歌を歌い始めるのである。
そんな時、無理矢理にでもルリ子の顔を想い出すことにした。彼女を殺したのは誰だったのか。言うまでもなく、この少女の父親なのだ。すると、復讐心に燃える自分が奈落の底から這い出てくる。
だが、それをあからさまにするつもりはない。復讐は時間を掛けて行うのがいい。この娘は自分の正体を報されたとき、いったい、どんな顔をするだろう。それを考えるだけで、復讐は半ば済んだような気がするのだ。それに、神父が言ったことははたして真実なのだろうか。疑ってみる必要性はないのか。
彼女が生来与えられた知性が鎌首を擡げる。それは、夏枝にごく慎重な態度を要請するのだった。
ここは、確証が得られるまで事実を告げるのは待つべきではないか。
だが、いったん、這い出てきた復讐心を収めるためには、何か行動する必要があった。それが、彼女がこの時間に台所にいる理由だった。この時点において、核心を彼女に告げる必要はないが、今、手に温めているこのコップを渡す必要はある。
「もう、おやすみの時間でしょう? ホットミルクを用意しておいたわよ。中学に上がる前はお母さまが用意してあげてたじゃない」
「お母さま・・・・・・」
思わず、数粒の水滴が子憎いまでに美しい瞳からこぼれ落ちる。その水晶の液体には、見る人の憎しみを溶かす効力があるのか、夏枝の心は激しく揺り起こされた。
――――陽子!
「お嫌いになってはいやです・・・・・」
ごく、控えめに、今度は黄金の唇が震えた。金無垢の便器などという代物を造りたがる金満家がいるが、彼の審美のセンスは地に落ちていると言う他はない。美しいものは目立つべきではない。美しい淑女が身につけるネックレスのようにそこはかとない量で輝いているのがいちばんなのである。
その点、辻口家の三女の小さな唇は、十分、その価値観に合致している。夏枝もそれに異論がない。いや、それどころか、まるでむしゃぶりつきたくなるくらいの情愛を感じたのである。それは、かつて、胸に抱いた陽子に感じたそれに酷似していた。
――――陽子ちゃん!!
「誰が、貴女を嫌いになんてなるものですか」
「ウウ・・お母さ」
最後まで陽子は台詞を完成させることができなかった。
何故ならば、夏枝の胸に口を塞がれたからである。そして、彼女が敬愛してやまない母親から与えられた言葉は金粉よりも価値があった。
「ごめんね、陽子、お母さまはちょっと機嫌が悪かったの」
――うん、うん。
少女は、珍しく心の中では、母親に対して敬語を使わないことを許可していた。この時はまだ自分がどうして見えない壁を造ってしまっているのか、その理由を知らなかった。
幸せな嗚咽とほぼ同じリズムで液体の水晶が大きな瞳から零れては、黒曜石の沁みを母親のワンピースに造る。
しかし、この時、麗しい母娘の間には二万光年ほどの距離があった。同床異夢という陳腐な表現はこのさい相応しくない。それはふたりが置かれた環境と境遇の微妙さに関連している。有史以来、地上にこのふたりほど複雑な人間関係が存在したであろうか。愛憎とはいうが、それはこの二人の間に流れる潮を端的に表現することばに限定されるべきだろう。
その証拠に、母から娘に渡されたホットミルクには、その毒とでもいうべき一滴が含まれていたのである。
それを知らずに、あたかも、自分の涙を飲み干すように白い液体に口を付ける。まるで、その液体が持つ温かさが母親の情愛であるという理論を鵜呑みにするように、満足そうな笑みが喉の動きと呼応して豊かになっていく。夏枝はそんな姿を見せられると、胃を直接握りつぶされるような痛みを感じるのである。
―――私ったら、何て事を!? そんな・・ああ、だめ、だめ、全部、飲んじゃ・・・・・・。
しかし、同時にその可愛らしい顔を潰してやりたいという欲望がその触手を蠢かせてもいる。
いったい、自分は何者なのだろう。既に母ではないような気がする。そして、女でもないような気がする。いや、人間ですらないような気すらする。
そんな長崎城主婦人の感傷を破ったのは、コップが置かれる音だった。そして、世にも妙なる音が彼女の耳を楽しませる。
「ごちそうさま、お母さま!」
「そう ――――」
――――いけない。こんな表情をしていたら、ばれてしまう。この子はとても勘が鋭い。無理にでも笑顔を見せない。
みるみるうちに、陽子の微笑が曇っていく。
「お母さまも、具合が良くないから寝ることにするわ」
「・・・・・・・!?」
どんよりと曇った空から小雨が降りだした。しかし、それは母親の健康を気遣ってのことであり、間違ってもミルクに対する疑念ではないだろう。
夏枝は、辻口家の三女がキッチンを後にしたのを確認してから、紙袋に視線を走らせた。そこには確かにこう書かれていたのである。
リニョウザイ・・・・・・・・と。
「・・・・・・・・・・・・・・」
おぞましいものを見たような顔で、それをバッグに押し込めると、自身も寝所に戻るべく足を動かした。
翌朝、起床した夏枝は今まで感じたことのない頭痛に苦しんでいた。午前五時半、まだ朝食の用意を始めるには早い時間である。だが、あることが気になってたまらずに、寝具から身体を揺り起こした。
なおも寝息を立て続ける夫に、ぎょっとさせられながらも、辻口夫人はたいした音も立てずに室を後にすることに成功した。
だが、廊下の人となった夏枝は、自分とは打って変わってかしましい音を立てる人間を発見した。それは、陽子だった。
溜まらずに叱責する。
「何時だと思っているの? みんな、まだ寝ているのよ」
「ごめんなさい、お母さま、トイレ」
知的で上品な仕草は何処かに消えていた。
パタパタとスリッパに、無駄な歌を歌わせて、少女は向かうべき場所に消えていった。
その時、夏枝の耳を襲う不快なバスが聞こえた。
「どうしたんだ、陽子は、夜中、トイレに行きっぱなしじゃないか」
「何ですって?」
思わず怪訝な顔に美貌を歪める夏枝。それは一体、どういうことなのだろう。どうやら事態は、彼女の思うとおりにはいかなかったようだ。
実は、陽子は絶え間なく襲っていく尿意に苛まれていた。午後10時、寝具に入るととつぜん、尿意を感じた。予め、すませてあったにも係わらず、再び、下半身に起こった感覚に悶えた。
それは、明らかにかつて感じたある感覚に似ていた。親友である財前永和子から借りたきわどい表現に満ちた小説を、読み始めたころに感じたことである。その時、――フランソワーズ・ピアズとかいうフランス人作家の『O嬢の物語』という作品だったが、陽子はその題名を忘れてしまいたかったのだが、網膜に刻印されたかのようにどうしても忘れられないのだ。
それはともかく、陽子は数頁開いただけで、尿意に似た感覚を覚えたのである。股間を小筆で撫でられたかのような、異様な感覚が身体を這い上がってくる。思わず、性器の周囲を下着の上から押さえてしまったのだが、あの時はトイレに行こうとは思わなかった。直感的に、尿意とは違うことを認識していたのかもしれない。
しかし、その時は迷わず寝具を除けて、トイレに直行していた。普段ならば、寝ている人のことを慮って音を立てないようにするのに、そんな余裕もなかった。
――――いったい、どうしたというのだろう。
辻口家の三女は焦った。何故ならば、何度トイレに行こうとも、強烈な尿有から逃れられなかったからである。極度に水分を取りすぎたわけでもないように、トイレから寝具に戻ったとたんに、再び、尿意が襲ってくる。
そのおかげで一睡すらできなかった。
毛虫が何匹も股間の辺りを這い回る感覚を取り払うことはできない。それが一晩中続いたのである。
夏枝が朝食の用意をしている間、ずっと、陽子は生あくびを続けていた。そのために薫子にからかわれることがあっても、真剣に相手をすることができなかった。
眠くて眠くてたまらないのである。
ベーコンの焼ける匂いの芳しい目玉焼きを、テーブルの上に乗せながら長崎城主婦人は言う。
「どうしたのよ、陽子ちゃん」
「陽子ったら、夜中、トイレに言っていたらしいのよ」
間一髪入れず、辻口医院の院長が口を出す。
「何? そんなことがあったのか?」
「ええ、お父様・・・・・・・」
父と娘の会話を聞きながら、夏枝は、内心穏やかではなかった。
―――――何て言うことかしら。眠れなかったなんて。
臍を噛んだが、かつて、自分が睡眠脈を処方されたことを思いだした。眠れないならば、無理やりに眠ってもらえばいい。それならば ―――――。
この時、今から利尿剤と睡眠薬を混ぜて飲ませればいいと考えた。しかし、少し考えると、それは適当でないことに気づいた。
このまま、眠られても計画通りにはいかないし、学校でされても ―――――それもおもしろいとは思うが、しかし ―――――。
夏枝は、考えたのである、それはまだ先のことであると。
「具合が悪いならば、今日は休んだら?」
「大丈夫です、お母さま、学校に行けます」
いつもとは違った生気のない顔で、答えた娘は本当に眠そうに見えた。
院長夫人は、しれっとした顔で娘たちを送り出すと、夫に鞄を渡した。
「行ってらっしゃい」
その日の過密スケジュールにうんざりしていた建造は妻の顔をろくにみなかった。だから、家族の誰もがこの家の主婦がどんな顔をしていたのか、観察することがなかった。それを陽子の身体の不調と関連づけて考えることをしなかった。-
長崎城主婦人は台所で食器棚を整理している。瀬戸物が発する銀色の音に誘われたわけではないが、陽子が入ってきた。
「お母さま・・・・・・」
「あ、陽子?!」
おずおずと母親を上目遣いで見る娘に思わず息を呑む。
思えば、この子にはいつも気を遣ってきたものだと思う。強いて優しくしてきた、言い換えればスポイルしてきた。それがこの結果である。少し冷たくしただけで、この体たらくである。塩を掛けられた青菜のようにしゅんとしている。
しかしながら、そんな陽子を見せつけられると、自分の中に虹色の卵を発見して、とことんいやな気分を味わうのだった。その卵が孵ると陽子に対する情愛がぴーちくと歌を歌い始めるのである。
そんな時、無理矢理にでもルリ子の顔を想い出すことにした。彼女を殺したのは誰だったのか。言うまでもなく、この少女の父親なのだ。すると、復讐心に燃える自分が奈落の底から這い出てくる。
だが、それをあからさまにするつもりはない。復讐は時間を掛けて行うのがいい。この娘は自分の正体を報されたとき、いったい、どんな顔をするだろう。それを考えるだけで、復讐は半ば済んだような気がするのだ。それに、神父が言ったことははたして真実なのだろうか。疑ってみる必要性はないのか。
彼女が生来与えられた知性が鎌首を擡げる。それは、夏枝にごく慎重な態度を要請するのだった。
ここは、確証が得られるまで事実を告げるのは待つべきではないか。
だが、いったん、這い出てきた復讐心を収めるためには、何か行動する必要があった。それが、彼女がこの時間に台所にいる理由だった。この時点において、核心を彼女に告げる必要はないが、今、手に温めているこのコップを渡す必要はある。
「もう、おやすみの時間でしょう? ホットミルクを用意しておいたわよ。中学に上がる前はお母さまが用意してあげてたじゃない」
「お母さま・・・・・・」
思わず、数粒の水滴が子憎いまでに美しい瞳からこぼれ落ちる。その水晶の液体には、見る人の憎しみを溶かす効力があるのか、夏枝の心は激しく揺り起こされた。
――――陽子!
「お嫌いになってはいやです・・・・・」
ごく、控えめに、今度は黄金の唇が震えた。金無垢の便器などという代物を造りたがる金満家がいるが、彼の審美のセンスは地に落ちていると言う他はない。美しいものは目立つべきではない。美しい淑女が身につけるネックレスのようにそこはかとない量で輝いているのがいちばんなのである。
その点、辻口家の三女の小さな唇は、十分、その価値観に合致している。夏枝もそれに異論がない。いや、それどころか、まるでむしゃぶりつきたくなるくらいの情愛を感じたのである。それは、かつて、胸に抱いた陽子に感じたそれに酷似していた。
――――陽子ちゃん!!
「誰が、貴女を嫌いになんてなるものですか」
「ウウ・・お母さ」
最後まで陽子は台詞を完成させることができなかった。
何故ならば、夏枝の胸に口を塞がれたからである。そして、彼女が敬愛してやまない母親から与えられた言葉は金粉よりも価値があった。
「ごめんね、陽子、お母さまはちょっと機嫌が悪かったの」
――うん、うん。
少女は、珍しく心の中では、母親に対して敬語を使わないことを許可していた。この時はまだ自分がどうして見えない壁を造ってしまっているのか、その理由を知らなかった。
幸せな嗚咽とほぼ同じリズムで液体の水晶が大きな瞳から零れては、黒曜石の沁みを母親のワンピースに造る。
しかし、この時、麗しい母娘の間には二万光年ほどの距離があった。同床異夢という陳腐な表現はこのさい相応しくない。それはふたりが置かれた環境と境遇の微妙さに関連している。有史以来、地上にこのふたりほど複雑な人間関係が存在したであろうか。愛憎とはいうが、それはこの二人の間に流れる潮を端的に表現することばに限定されるべきだろう。
その証拠に、母から娘に渡されたホットミルクには、その毒とでもいうべき一滴が含まれていたのである。
それを知らずに、あたかも、自分の涙を飲み干すように白い液体に口を付ける。まるで、その液体が持つ温かさが母親の情愛であるという理論を鵜呑みにするように、満足そうな笑みが喉の動きと呼応して豊かになっていく。夏枝はそんな姿を見せられると、胃を直接握りつぶされるような痛みを感じるのである。
―――私ったら、何て事を!? そんな・・ああ、だめ、だめ、全部、飲んじゃ・・・・・・。
しかし、同時にその可愛らしい顔を潰してやりたいという欲望がその触手を蠢かせてもいる。
いったい、自分は何者なのだろう。既に母ではないような気がする。そして、女でもないような気がする。いや、人間ですらないような気すらする。
そんな長崎城主婦人の感傷を破ったのは、コップが置かれる音だった。そして、世にも妙なる音が彼女の耳を楽しませる。
「ごちそうさま、お母さま!」
「そう ――――」
――――いけない。こんな表情をしていたら、ばれてしまう。この子はとても勘が鋭い。無理にでも笑顔を見せない。
みるみるうちに、陽子の微笑が曇っていく。
「お母さまも、具合が良くないから寝ることにするわ」
「・・・・・・・!?」
どんよりと曇った空から小雨が降りだした。しかし、それは母親の健康を気遣ってのことであり、間違ってもミルクに対する疑念ではないだろう。
夏枝は、辻口家の三女がキッチンを後にしたのを確認してから、紙袋に視線を走らせた。そこには確かにこう書かれていたのである。
リニョウザイ・・・・・・・・と。
「・・・・・・・・・・・・・・」
おぞましいものを見たような顔で、それをバッグに押し込めると、自身も寝所に戻るべく足を動かした。
翌朝、起床した夏枝は今まで感じたことのない頭痛に苦しんでいた。午前五時半、まだ朝食の用意を始めるには早い時間である。だが、あることが気になってたまらずに、寝具から身体を揺り起こした。
なおも寝息を立て続ける夫に、ぎょっとさせられながらも、辻口夫人はたいした音も立てずに室を後にすることに成功した。
だが、廊下の人となった夏枝は、自分とは打って変わってかしましい音を立てる人間を発見した。それは、陽子だった。
溜まらずに叱責する。
「何時だと思っているの? みんな、まだ寝ているのよ」
「ごめんなさい、お母さま、トイレ」
知的で上品な仕草は何処かに消えていた。
パタパタとスリッパに、無駄な歌を歌わせて、少女は向かうべき場所に消えていった。
その時、夏枝の耳を襲う不快なバスが聞こえた。
「どうしたんだ、陽子は、夜中、トイレに行きっぱなしじゃないか」
「何ですって?」
思わず怪訝な顔に美貌を歪める夏枝。それは一体、どういうことなのだろう。どうやら事態は、彼女の思うとおりにはいかなかったようだ。
実は、陽子は絶え間なく襲っていく尿意に苛まれていた。午後10時、寝具に入るととつぜん、尿意を感じた。予め、すませてあったにも係わらず、再び、下半身に起こった感覚に悶えた。
それは、明らかにかつて感じたある感覚に似ていた。親友である財前永和子から借りたきわどい表現に満ちた小説を、読み始めたころに感じたことである。その時、――フランソワーズ・ピアズとかいうフランス人作家の『O嬢の物語』という作品だったが、陽子はその題名を忘れてしまいたかったのだが、網膜に刻印されたかのようにどうしても忘れられないのだ。
それはともかく、陽子は数頁開いただけで、尿意に似た感覚を覚えたのである。股間を小筆で撫でられたかのような、異様な感覚が身体を這い上がってくる。思わず、性器の周囲を下着の上から押さえてしまったのだが、あの時はトイレに行こうとは思わなかった。直感的に、尿意とは違うことを認識していたのかもしれない。
しかし、その時は迷わず寝具を除けて、トイレに直行していた。普段ならば、寝ている人のことを慮って音を立てないようにするのに、そんな余裕もなかった。
――――いったい、どうしたというのだろう。
辻口家の三女は焦った。何故ならば、何度トイレに行こうとも、強烈な尿有から逃れられなかったからである。極度に水分を取りすぎたわけでもないように、トイレから寝具に戻ったとたんに、再び、尿意が襲ってくる。
そのおかげで一睡すらできなかった。
毛虫が何匹も股間の辺りを這い回る感覚を取り払うことはできない。それが一晩中続いたのである。
夏枝が朝食の用意をしている間、ずっと、陽子は生あくびを続けていた。そのために薫子にからかわれることがあっても、真剣に相手をすることができなかった。
眠くて眠くてたまらないのである。
ベーコンの焼ける匂いの芳しい目玉焼きを、テーブルの上に乗せながら長崎城主婦人は言う。
「どうしたのよ、陽子ちゃん」
「陽子ったら、夜中、トイレに言っていたらしいのよ」
間一髪入れず、辻口医院の院長が口を出す。
「何? そんなことがあったのか?」
「ええ、お父様・・・・・・・」
父と娘の会話を聞きながら、夏枝は、内心穏やかではなかった。
―――――何て言うことかしら。眠れなかったなんて。
臍を噛んだが、かつて、自分が睡眠脈を処方されたことを思いだした。眠れないならば、無理やりに眠ってもらえばいい。それならば ―――――。
この時、今から利尿剤と睡眠薬を混ぜて飲ませればいいと考えた。しかし、少し考えると、それは適当でないことに気づいた。
このまま、眠られても計画通りにはいかないし、学校でされても ―――――それもおもしろいとは思うが、しかし ―――――。
夏枝は、考えたのである、それはまだ先のことであると。
「具合が悪いならば、今日は休んだら?」
「大丈夫です、お母さま、学校に行けます」
いつもとは違った生気のない顔で、答えた娘は本当に眠そうに見えた。
院長夫人は、しれっとした顔で娘たちを送り出すと、夫に鞄を渡した。
「行ってらっしゃい」
その日の過密スケジュールにうんざりしていた建造は妻の顔をろくにみなかった。だから、家族の誰もがこの家の主婦がどんな顔をしていたのか、観察することがなかった。それを陽子の身体の不調と関連づけて考えることをしなかった。-
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