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『マザーエルザの物語・終章 31』


 赤木啓子の周囲でいろいろと囁かれるようになったが、本人は、まったく相手にしようとしない。
 四限が終わって、昼食の時間になっても、あおいが帰ってこないので、クラスメートたちは啓子に尋ねようと思った。
 しかしながら、思考が行動に結びつかないのは世の常である。
教室に戻ってきた彼女に、いざ、尋ねようとしてみても、その恐ろしい顔を見ると足がすくんでしまい、誰も事を問うのをやめてしまう。
 その上、担任はめぼしいことを教えてくれようとしない。
 いったい、何が起きているというのだろう。
 さいきん、どう見てもあおいの状態はおかしい。完全な健康体を誇っている彼女が倒れてしまった。
 そうは言うものの、こういうことはよくあることだろう。その証拠に、クラスメートである狭山キイコの祖父は、仕事中に脳溢血で倒れてしまい、現在、加療中だということだ。
 
 しかし、あおいはまだ小学生である。それでも、何歩か譲ってありえるということにする。しかし、そうであっても、何か心に引っかかるものがあるのだ。

「あおいちゃん、このごろ、変だよ」
「何かね ―――――」
「確かに、明るいんだけどさ、どこか無理しているように思えるのよ」
 それは、芝居じみていている ―――というほどの意味なのだが、いかんせん、小学生の語彙力からは、それを引き出すことはちょっと、無理があったのだろう。
「赤木さん、きっと、知ってるんじゃない」
「でも、聞けないよね」
「なんか怖いよね」
 その少女は、コワイという訓読みが成立した起源を証明するような口調で言った。きっと、古代日本で恐ろしい獣に襲われた人たちは、思わず、そのようなしぐさで叫んだにちがいない。
 なんと、啓子は原始人に擬せられているのである。しかしながら、当の本人は藪蚊ほどには思っていない。
「・・・・・・・」
 弁当を突っつきながら、窓の外を眺めている。ちなみに、彼女の席は窓際の真ん中にある。そして、彼女の目の前にはあおいの席が、寒天によって構成されたカビ実験場のように、穴が開いている。
「お前なんか、しょせんカビか ―――あそうだ!!」
 独り言を漏らしているかと思うと、いきなり、絶句した啓子は、いきなり立ち上がった。
 それは驚天動地の出来事だった。
 啓子の声はまさに、脳天から飛び出るような声だった。
 このとき、教室に同居している人たちは、たったひとりの例外もなく驚愕の表情を造った。
 小学生のくせに沈着冷静を旨とするこの少女が、まるで、あおいのように天衣無縫に行動しているのだ。あたかも、彼女の生き霊が乗り移ったかのように。
 
「そうだよね、あおいちゃん、ぐあい悪いんだから食欲ないよね。食べてあげなきゃ ――」
 まるで、舞台の上の俳優のように、これ見よがしに大きな声を張り上げる。あたかも、何事かをみんなに報せるためにやっているようだ。手振りも必要以上に大げさだ。
 みんなが凍りつく中、あおいのランドセルに手を入れた ―――。そこで、狭山キイコがはじめて声をかけた。
「赤木さん、だめだよ」
「ど -して?」
「・・・・!?」
 キイコは唖然とさせられた。それは、啓子の表情である。わざと目を丸くしたその容姿はまさに芝居かかっていて、不自然だ。しかし、あおいのそれのようではなく、故意にやっているように思える。しかしながら、自ら、あおい以外のクラスメートに働きかけようとするその姿は、かつては目撃できない行動だった。
「どーしてって、それ、あおいちゃんのだもん」
「わざと倒れて、クラスメートに心配をかけるような子はこのていどの罰を受けるべきよ、そう思わない?」
「え?」
 面食らっているのはキイコだけではなかった。クラスの誰もが耳を疑った。あの啓子がこんなに舌を動かしているのを、あおいに対する以外、見たことがない。それに、その明言の内容である。あおいが仮病などと ・・・・・。
「じゃ、もらおうかな」
 啓子の反論に押し黙ってしまったクラスメートを尻目に、喜び勇んで、弁当を広げようとする。
そして、弁当を開いて箸を持とうとしたその瞬間、ドアが開いた。
 クラスメートはちょっとした寸劇を目撃することになる。
そこにいたには、あおいだった。少なくとも、おずおずと元気のない彼女を確認したはずだった。しかし、すぐにその表情は表現し、みんなが見慣れたあおいが視神経に侵入してくるのを感じた。
「ちょっと、啓子ちゃん、何しているのよ!!」
「何って、あおいちゃん、具合悪いんでしょう? その代わり、食べてあげようと思って ――――」
「・・・・・・・・・・・・」
 思わず、押し黙ってしまうあおい。そんなあおいに、さらに舌を滑らかにするのは、啓子である。
「あら? 具合悪くないの? もしかして、仮病!? えー?」
 「え? ほんとう? あおいちゃん、それ、ほんとうなの!?」
「嘘!! 何それ? ひどい!」
 何と、啓子の言葉に反応してクラス全体が動き始めた。みんなの視線が一斉に、あおいに集中する。
「ウウ・・・・・?!」
 とたんに、あおいの表情が硬化する。脂汗が、少女の乳白色の額に滲む。
「どおしたの? あおいちゃん?!」
  疑惑の色が濃い視線を、狭山キイコは、投げかけてきた。
「ちょ、ちょっと、お腹が痛くて、」
「じゃあ、食べられないわよね ――」
 啓子は、鶏の唐揚げを啄む。あおいは思わず、悔しそうな表情を浮かべる。
「あ、美味しいな・・・・?!」
 その時、なぜか、啓子はかすかに顔を歪ませた。もちろん、それはあおい以外の誰にも見抜くことができなかった。彼女とて、意識を危うくさせる官能の渦中で、やっと、啓子の顔に記された暗号を読み解いたのである。普段から啓子のことをよく知っているあおいでなければ、できない芸当である。
 
 しかし、すぐに表情を元に戻すと、いかにも美味しいと言いたげな顔で、弁当を平らげ始めた。
 一方、啓子は、口に食物を運びながら、腹立たしい気持でいっぱいだった。何かを確かに隠している。それなのに、自分には何も言ってくれない。そんな人間には、このていどの罰は当然ではないか、仮病という名医にも治しようがない業病に相応しい薬はこのくらいしか思い当たらない。
 しかし、そう思いながらも、否定できない自分を確認していた。

―――――どうして? 美味しいけど、味が違う・・・・・・。
 
 もぐもぐと口を動かしながら、啓子は煩悶していた。普段、あおいの弁当からお裾分けしてもらっている、あるいは、彼女の自宅でごちそうになった、料理の味と微妙に違うのだ。これは、たしかに似ているが、彼女の母親が拵えたものではない。
 それは、ある意味、断定できる事実だった。その向こう側に隠されているものは、いったい、何だろう。啓子は知りたくてたまらなかった。だが、子猫のような純真な双眸を向けるこの親友は何故か何も語ってくれない。
容易に手に触れるところに花は咲いているのに、手に入れることができない。思いも寄らない震えのあまり、一ミリメートルの距離で停止してしまっている。これはどうしたことだろう。
 啓子の煩悶は冷徹な仮面の下で人知れず続いている。あおいも、自分の中で起こっている豪雨に対応しなければならず、そちらの方向に注意を完全に失っていた。
 そのために、親友の内面にまで神経が行き届かなくなっていた。
そのあおいは、啓子の見えないところで苦しんでいた。しかし、今度はそれを表に出すわけにはいかない。クラスメートたちは、彼女の言うことを鵜呑みにしてしまっているようだし、下半身の秘密を暴露されるおそれがあるから、保健室にはもう二度といけない。
「ウウ・・ウ・ウウ」
 みんなにばれないように下腹部を押さえながら机に蹲る。
「あんたさ、昨日、夜更かしでもしたんじゃなあいの?」
「きっと、そうよ、あおいちゃんのことだもん、アハハッハ」
 意地悪そうに見えるが、じっさいは、まったく悪意がない。それをあおいもわかっているからこそ辛い。誰に、いま、自分が苛まれていることに対する不満を申し開けばいいのかわからないからだ。
 当然のことながら、授業にも身が入らない。教師の声も何時もと違うように聞こえる。まるで、別の人間のそれのように感じる。阿刀久美子の声が悪意の籠もっただみ声にしか思えない。

―――――もしかして、私、もう死んじゃったのかな?
 もしかしたら、本当は死んでしまっているのかもしれない。そのせいで、体験する世界がこんなに変わってしまったのではないか。そう考えたのである。
 少女をここまで追い込んだものは何だったのだろう。それは彼女の下半身をじっと見てみればわかる。
 少女の大腿はじっとりと湿度を得ている。水玉のような汗がいくらばかりか散見できる
いつもならば、男の子のように足を広げているのに、両足が密着し、いつの間にかひとつに同化してしまいそうだ。
そして、視線を舐めるように腰の方向へと進めていくと ――――。
 不自然なくらいに濡れていることがわかる。見ようによってはお漏らししているようにすら見えるではないか。
あおいは、ぴっちりとスカートをその部分に密着させて、何かが起こっているのか、外部に知られないように、苦慮しなければならなかった。
 未だ、官能という概念すら理解していない少女のこと、身体の変化に戸惑っているのは当然のことだろう。まさに、二次性徴に命の危険すら感じる多感なティーンエイジャーと言ったところにちがいない。
 そんな少女の呻き声からは、苦悩と哀しみに満ちた内面とは美しい花の香が漂ってくる。
「ウウ・ウ・・ウウ」
 この下半身の秘密は、絶対に、みんなに知られてはならない。そんなことをしたらもう生きていけない。

―――いや、もう、私は死んでしまっているのだった。
 思い出すように、イチゴミルクの吐息を出すと、あおいはココロの中で呻いた。
 何時しか、ついに額にまで水玉のような汗が浮かぶようになっていた。
 授業がおわるころには、いくつもの汗を机の上に発見することになる。その中には、外見的な真珠の美しさとは裏腹に、苦しみと哀しみのメロディが隠されていたのだ。
 そんなあおいが一番、気にしていたのは親友である啓子の視線だった。

 





 

テーマ:官能小説 - ジャンル:アダルト

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