「そうだ。学校戻らなきゃ ――――」
「陽子ちゃん!?」
まるで他人事のように言う陽子。夏枝と春実から見るとあまりに現実感が欠けているように見える。 いわゆる素人芝居にありがちなぎこちない動きと台詞回しである。
「音楽の授業で合奏をやるのよ、それにはねえ、陽子はヴァイオリンの担当になったのよ、それなのに ――――」
「陽子!」
夏枝の耳には、合奏が合葬に聞こえた。それは春実も同じ思いだった。
「陽子ちゃん・・・・・・」
改めて見ると、己の罪が服を着て歩いている。しかし、どうしてこんな愛らしい罪があったものだと、変なところで感心させられる。
―――――自分たら、この非常時に!!
どんな過酷な状況下においても密かに冷静という名前の花を咲かせる春実である。何か言わねばならない。
陽子は、今の今まで見せていた動揺をあさっての世界に投げ捨てて、普段の自分を演じている。しかし、その演技はあまりに見え透いていて、ところどころにほころびが見いだせる。
すこしでも突っつけば、風船のように萎んでしまいそうだ。いや、単なる空気が入った風船なら大惨事になることはないが、水素100パーセントの上に失火となれば、もはや改めて描写する必要はないだろう。
大惨事である ――――それでもあえて言えというならば。
陽子は、このまま外出すれば、赤信号でも直進していまいそうに思えた。愛するわが子が凶暴な唸りを上げる車に飛ばされる。そんな残酷な映像が目の前に現出する。
「お、お願いだから、ここにいてちょうだい!! 陽子!!」
我が手を娘の制服に食い込ませて、懇願した。身体はまだランドセルを背負っていたころと変わらないために、余った衣服が夏枝の手を翻弄する。
――――この子は、まだこんなに小さいんだ! ルリ子とそう変わらない。
その観測は完全に誤っていたが、かえって、夏枝の陽子に対するあふれんばかりの愛情を暗示している。
春実は、陽子を押さえながら、思わず泣きたくなった。感情の起伏に乏しい陶器のような美貌にうっすらとこの時ばかりは感情を表す。
「陽子ちゃん、あのね ――」
完全に気が動転してしまった夏枝の代わりに、春実が説得に出ようとしたとき、けたたましいチャイムが鳴った。いや、長崎城主の豪邸だけに、その音はごく上品だ。しかしながらら、この時ばかりは カケスのわめき声に聞こえた。
カケスとはその鳴き声が激しいことから、かまびすしい人間を暗示する比喩によく使われる。
二人にとって、まさに呼び出し音はそれにしか聞こえなかったのである。
ところが、次に聞こえた声は耳に親しみすぎていた。
「陽子ちゃん、どうしたの? みんな待ってるんだよ!」
「え? 永和子!?」
春実は目を丸くした。思いも掛けない人物が来訪したからだ。言うまでもなく、彼女の長女である財前永和子、陽子とは長馴染みの親友である。いわゆる竹馬の友というやつである。
「永和ちゃん!?」
陽子の視線はまだ虚空を彷徨ったままだ。まるで目が見えないかのように見える。
空気を切り裂くような声は、玄関からかなり距離があるはずのこのリビングに直で響いてくる。
「あの子ったら ―――」
春実は頭を抱えた。親友の冷静を失った顔を見物するには、あまりに状況が危機に瀕している。
「永和ちゃんに入って貰いましょう ―――」
「おい、夏枝!」
「永和ちゃん、今行くよ!!」
そう、朗らかに宣言すると、夏枝と春実の押さえをすり抜けて玄関へと走り去ろうとした。
「あ、そうだ、ヴァイオリン忘れちゃった ――――ちょっと、待ってね」
陽子は、螺旋階段を回転しながら上昇していく。
「ああ、あの子どうしたのかしら?」
「あまりにショックな体験のために、一時的な記憶喪失になったのかしら」
春実の声は、全く興味もない科目の教科書を音読しているかのように抑揚がない。
「お春ちゃん、あなたは何時精神科医になったのよ」
「田丸礼子っていう精神科医と知り合いになったのよ、彼女が教えてくれたの。こんな仕事をしているとね ―――」
二人の精神も尋常ではないようだ。どうやら、非常事態に陥るとおしゃべりに興ずる。そのことで、理性を保とうとするのは、古今東西変わらない女性という生き物の性質だろうか。
春実は尋常でない精神を振り切るように玄関に向けて叫んだ。
「永和子、入ってきなさい!」
「え?ママ?!」
けたたましい足音を立てて入ってきた永和子の顔には、意外という文字が顔に書いてあった。
「永和子!」
「え? ママ!??」
見たこともない母親の顔に、驚く暇もなく身体を引き寄せられる。次の瞬間、耳を喰われるかと思った。
少女の耳に食い込んできたのは、母親の歯ではなく言葉だった。しかし、その言葉は、気を失うほどに衝撃的な内容を含んでいたのである。
「ママ、それ、本当!?」
「嘘で、こんなこと言えるわけないでしょう!? とにかく陽子を外に出すわけにはいかないの、今の あの子を外に出したら、トラックに飛び込みかねないわ」
―――お春ちゃん。
きょとんとした顔で、親友を見つめ続けながらも内面においては怪訝な思いを否定できずにいた。
―――この子の陽子の対する気持は、何なのだろう?
確かに、親友の娘という設定をはるかに超えている、春実の陽子に対する熱い視線は。それは不思議な愛情に満ちている。実の娘に対する情愛とは違う別のエキスが混入しているようだ。しかし、今は、そんなことを忖度していられない。
「永和子ちゃん、先生に電話して、陽子が具合悪くなったって伝えてね」
アールデコの受話器を指さす。自分なら、彼女を呼び捨てにはできない。それは、可愛いとは思うが。
気が付くと陽子がヴァイオリンを持って立ち尽くしていた。
「私、全然、具合悪くないよ ――」
「陽子ちゃん・・・・・」
強いて冷静を保っているのがわかる。それこそ号泣しながらソファーを破って、中の羽毛を部屋中に飛び散らせたいだろうに。
少女は、舌に黒鳥の舞を強制した。
「私を騙していたのね、永和ちゃんも知ってたんだ。それに町の人たちも」
「ええん、知らないよ、今、知ったんだよ」
教師との話は済んだのに受話器を持ったままの永和子は、慌てて弁解する。母親そっくりの瓜実顔の、上品な容姿だがその内面は、母親とは一線を画すようだ。危機を目の前にして、とうてい、冷静を保っていることができない。
どうやら、みんなに騙されていたことが我慢できなかったようだ。すると、そのことを彼女は悟っていたことになる。
「みんな・・・・・・・・それに、ルリ子さん、いや、お姉さんが可哀想・・・」
―――こんな時にルリ子のことを考えるなんて、貴女はほんとうに、私の娘よ!あの子のことをあからさまにしたら、ほんとうの母娘でないことまでが、明かになっちゃうと思うと!だから言えなかったの!
夏枝は言いたくても言えないことをわかりやすい方法に変換した。
それは ―――。
それは、―――。
涙である、いわゆるひとつの。
光るものを母親の双眸に見いだした陽子は、凍りついた。しかし、それはショートしかかった少女の心を冷やす役割を担うことになった。
この時、陽子は悟ったのである。
春実が言わんとしたことのほんとうの意味のことである。18歳になるまで知ってはいけない。その中身自体のことではない。
どういう理由が内包しているのか、わからないが、真実という黄身が詰まっている卵の殻を傷付けてはいけないらしい。もしも、そんなことをしたら、自分はおろか、自分のことを思ってくれている沢山の人々を傷付けるかもしれない。
根が素直な少女はそう理解した。
我を通すことを止めたのである。しかし、知ってしまった以上は、本来なら自分の姉がもうひとりいたということを否定することはできなかった。何としても墓参りをしたい。
それにしても、我が家に彼女が存在したという足跡がないということは、何ていう不自然さだろうか。仏壇はおろか、 写真の一枚もないのだ。それほどまでに自分に隠しておきたかったのだろうか。その理由は何か。
―――――もしかしたら、自分に聞かせたくないくらいに残酷な方法で殺されたのだろうか。それにしても、それを自分に報せないほどの方法って?
ソファに座らされ、改めて煎れられた紅茶をすすりながら思った。目の前にはレモンケーキが切り分けられ、甘酸っぱい匂いが漂ってくる。それに母の愛を感じながらも、鋭敏な少女の知性は、正解を求めて迷路の出口を捜していた。
そんな少女の思考を止めたのは春実の声だった。そこに笑顔が出現した。
「陽子ちゃん、食べ物の恨みは根が深いのよ、もしも、あなたたちが来なかったら、おばさんが独占できたのよ ―――」
「えー? おばさん、独占する気だったの?」
今度は不満そうに柔らかで品の良い頬を膨らませる。むくれた陽子だったが、すっかり、春実に籠絡されたことに気づいていない。やはり、鋭敏な知性を持ち、年齢よりも大人びた陽子とはいえ、ふつうの中学生の、それもランドセルから肩掛け鞄に変わったばかりの、少女にすぎないのだろう。
しかし、その年齢よりも幼い中学生が側にいた。陽子がしないような大きな口でレモンケーキを頬張っている少女だ。
「こら、永和子! もっと、遠慮して食べなさい! それに何であんたまで食べるのよ!」
半ば笑いを込めながら、春実は、娘を怒鳴りつけた。
それが契機になって、リビング中に温かい笑いが充満する。
この時間が永遠に続けばいいと、陽子は思った。しかし、その心の何処かにおいて、黒くも、鋭敏な知性が蠢き始めていたのである。
人間とはなんて迂遠な、いや、それだけでなく自虐的なのだろう。心とは時に、自分が傷つくことを望んですることがある。この時の、少女はまさにそうだった。
しかし、もっと敷延すれば、彼女だけではない。陽子をはじめとする家族がその周辺の人たちまで含めた人間群像を動かす巨大な歯車が運命という動力に導かれて、誰も予期せぬ動きを見せ始めていたのである。ほぼ、全員がそれに絡め取られてしまうのだが、今のところ、それに気づく者はい なかった。
あくまで、不安に持っている人物は、約一名ほど、いたが。
もしかしたら、2名だったかもしれない。陽子の出生の秘密を知っている者は、誰と誰だろう?
「陽子ちゃん!?」
まるで他人事のように言う陽子。夏枝と春実から見るとあまりに現実感が欠けているように見える。 いわゆる素人芝居にありがちなぎこちない動きと台詞回しである。
「音楽の授業で合奏をやるのよ、それにはねえ、陽子はヴァイオリンの担当になったのよ、それなのに ――――」
「陽子!」
夏枝の耳には、合奏が合葬に聞こえた。それは春実も同じ思いだった。
「陽子ちゃん・・・・・・」
改めて見ると、己の罪が服を着て歩いている。しかし、どうしてこんな愛らしい罪があったものだと、変なところで感心させられる。
―――――自分たら、この非常時に!!
どんな過酷な状況下においても密かに冷静という名前の花を咲かせる春実である。何か言わねばならない。
陽子は、今の今まで見せていた動揺をあさっての世界に投げ捨てて、普段の自分を演じている。しかし、その演技はあまりに見え透いていて、ところどころにほころびが見いだせる。
すこしでも突っつけば、風船のように萎んでしまいそうだ。いや、単なる空気が入った風船なら大惨事になることはないが、水素100パーセントの上に失火となれば、もはや改めて描写する必要はないだろう。
大惨事である ――――それでもあえて言えというならば。
陽子は、このまま外出すれば、赤信号でも直進していまいそうに思えた。愛するわが子が凶暴な唸りを上げる車に飛ばされる。そんな残酷な映像が目の前に現出する。
「お、お願いだから、ここにいてちょうだい!! 陽子!!」
我が手を娘の制服に食い込ませて、懇願した。身体はまだランドセルを背負っていたころと変わらないために、余った衣服が夏枝の手を翻弄する。
――――この子は、まだこんなに小さいんだ! ルリ子とそう変わらない。
その観測は完全に誤っていたが、かえって、夏枝の陽子に対するあふれんばかりの愛情を暗示している。
春実は、陽子を押さえながら、思わず泣きたくなった。感情の起伏に乏しい陶器のような美貌にうっすらとこの時ばかりは感情を表す。
「陽子ちゃん、あのね ――」
完全に気が動転してしまった夏枝の代わりに、春実が説得に出ようとしたとき、けたたましいチャイムが鳴った。いや、長崎城主の豪邸だけに、その音はごく上品だ。しかしながらら、この時ばかりは カケスのわめき声に聞こえた。
カケスとはその鳴き声が激しいことから、かまびすしい人間を暗示する比喩によく使われる。
二人にとって、まさに呼び出し音はそれにしか聞こえなかったのである。
ところが、次に聞こえた声は耳に親しみすぎていた。
「陽子ちゃん、どうしたの? みんな待ってるんだよ!」
「え? 永和子!?」
春実は目を丸くした。思いも掛けない人物が来訪したからだ。言うまでもなく、彼女の長女である財前永和子、陽子とは長馴染みの親友である。いわゆる竹馬の友というやつである。
「永和ちゃん!?」
陽子の視線はまだ虚空を彷徨ったままだ。まるで目が見えないかのように見える。
空気を切り裂くような声は、玄関からかなり距離があるはずのこのリビングに直で響いてくる。
「あの子ったら ―――」
春実は頭を抱えた。親友の冷静を失った顔を見物するには、あまりに状況が危機に瀕している。
「永和ちゃんに入って貰いましょう ―――」
「おい、夏枝!」
「永和ちゃん、今行くよ!!」
そう、朗らかに宣言すると、夏枝と春実の押さえをすり抜けて玄関へと走り去ろうとした。
「あ、そうだ、ヴァイオリン忘れちゃった ――――ちょっと、待ってね」
陽子は、螺旋階段を回転しながら上昇していく。
「ああ、あの子どうしたのかしら?」
「あまりにショックな体験のために、一時的な記憶喪失になったのかしら」
春実の声は、全く興味もない科目の教科書を音読しているかのように抑揚がない。
「お春ちゃん、あなたは何時精神科医になったのよ」
「田丸礼子っていう精神科医と知り合いになったのよ、彼女が教えてくれたの。こんな仕事をしているとね ―――」
二人の精神も尋常ではないようだ。どうやら、非常事態に陥るとおしゃべりに興ずる。そのことで、理性を保とうとするのは、古今東西変わらない女性という生き物の性質だろうか。
春実は尋常でない精神を振り切るように玄関に向けて叫んだ。
「永和子、入ってきなさい!」
「え?ママ?!」
けたたましい足音を立てて入ってきた永和子の顔には、意外という文字が顔に書いてあった。
「永和子!」
「え? ママ!??」
見たこともない母親の顔に、驚く暇もなく身体を引き寄せられる。次の瞬間、耳を喰われるかと思った。
少女の耳に食い込んできたのは、母親の歯ではなく言葉だった。しかし、その言葉は、気を失うほどに衝撃的な内容を含んでいたのである。
「ママ、それ、本当!?」
「嘘で、こんなこと言えるわけないでしょう!? とにかく陽子を外に出すわけにはいかないの、今の あの子を外に出したら、トラックに飛び込みかねないわ」
―――お春ちゃん。
きょとんとした顔で、親友を見つめ続けながらも内面においては怪訝な思いを否定できずにいた。
―――この子の陽子の対する気持は、何なのだろう?
確かに、親友の娘という設定をはるかに超えている、春実の陽子に対する熱い視線は。それは不思議な愛情に満ちている。実の娘に対する情愛とは違う別のエキスが混入しているようだ。しかし、今は、そんなことを忖度していられない。
「永和子ちゃん、先生に電話して、陽子が具合悪くなったって伝えてね」
アールデコの受話器を指さす。自分なら、彼女を呼び捨てにはできない。それは、可愛いとは思うが。
気が付くと陽子がヴァイオリンを持って立ち尽くしていた。
「私、全然、具合悪くないよ ――」
「陽子ちゃん・・・・・」
強いて冷静を保っているのがわかる。それこそ号泣しながらソファーを破って、中の羽毛を部屋中に飛び散らせたいだろうに。
少女は、舌に黒鳥の舞を強制した。
「私を騙していたのね、永和ちゃんも知ってたんだ。それに町の人たちも」
「ええん、知らないよ、今、知ったんだよ」
教師との話は済んだのに受話器を持ったままの永和子は、慌てて弁解する。母親そっくりの瓜実顔の、上品な容姿だがその内面は、母親とは一線を画すようだ。危機を目の前にして、とうてい、冷静を保っていることができない。
どうやら、みんなに騙されていたことが我慢できなかったようだ。すると、そのことを彼女は悟っていたことになる。
「みんな・・・・・・・・それに、ルリ子さん、いや、お姉さんが可哀想・・・」
―――こんな時にルリ子のことを考えるなんて、貴女はほんとうに、私の娘よ!あの子のことをあからさまにしたら、ほんとうの母娘でないことまでが、明かになっちゃうと思うと!だから言えなかったの!
夏枝は言いたくても言えないことをわかりやすい方法に変換した。
それは ―――。
それは、―――。
涙である、いわゆるひとつの。
光るものを母親の双眸に見いだした陽子は、凍りついた。しかし、それはショートしかかった少女の心を冷やす役割を担うことになった。
この時、陽子は悟ったのである。
春実が言わんとしたことのほんとうの意味のことである。18歳になるまで知ってはいけない。その中身自体のことではない。
どういう理由が内包しているのか、わからないが、真実という黄身が詰まっている卵の殻を傷付けてはいけないらしい。もしも、そんなことをしたら、自分はおろか、自分のことを思ってくれている沢山の人々を傷付けるかもしれない。
根が素直な少女はそう理解した。
我を通すことを止めたのである。しかし、知ってしまった以上は、本来なら自分の姉がもうひとりいたということを否定することはできなかった。何としても墓参りをしたい。
それにしても、我が家に彼女が存在したという足跡がないということは、何ていう不自然さだろうか。仏壇はおろか、 写真の一枚もないのだ。それほどまでに自分に隠しておきたかったのだろうか。その理由は何か。
―――――もしかしたら、自分に聞かせたくないくらいに残酷な方法で殺されたのだろうか。それにしても、それを自分に報せないほどの方法って?
ソファに座らされ、改めて煎れられた紅茶をすすりながら思った。目の前にはレモンケーキが切り分けられ、甘酸っぱい匂いが漂ってくる。それに母の愛を感じながらも、鋭敏な少女の知性は、正解を求めて迷路の出口を捜していた。
そんな少女の思考を止めたのは春実の声だった。そこに笑顔が出現した。
「陽子ちゃん、食べ物の恨みは根が深いのよ、もしも、あなたたちが来なかったら、おばさんが独占できたのよ ―――」
「えー? おばさん、独占する気だったの?」
今度は不満そうに柔らかで品の良い頬を膨らませる。むくれた陽子だったが、すっかり、春実に籠絡されたことに気づいていない。やはり、鋭敏な知性を持ち、年齢よりも大人びた陽子とはいえ、ふつうの中学生の、それもランドセルから肩掛け鞄に変わったばかりの、少女にすぎないのだろう。
しかし、その年齢よりも幼い中学生が側にいた。陽子がしないような大きな口でレモンケーキを頬張っている少女だ。
「こら、永和子! もっと、遠慮して食べなさい! それに何であんたまで食べるのよ!」
半ば笑いを込めながら、春実は、娘を怒鳴りつけた。
それが契機になって、リビング中に温かい笑いが充満する。
この時間が永遠に続けばいいと、陽子は思った。しかし、その心の何処かにおいて、黒くも、鋭敏な知性が蠢き始めていたのである。
人間とはなんて迂遠な、いや、それだけでなく自虐的なのだろう。心とは時に、自分が傷つくことを望んですることがある。この時の、少女はまさにそうだった。
しかし、もっと敷延すれば、彼女だけではない。陽子をはじめとする家族がその周辺の人たちまで含めた人間群像を動かす巨大な歯車が運命という動力に導かれて、誰も予期せぬ動きを見せ始めていたのである。ほぼ、全員がそれに絡め取られてしまうのだが、今のところ、それに気づく者はい なかった。
あくまで、不安に持っている人物は、約一名ほど、いたが。
もしかしたら、2名だったかもしれない。陽子の出生の秘密を知っている者は、誰と誰だろう?
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