西宮冴子は、妹の無事を確認すると、とんぼ返りでマンションに帰宅せざるをえなかった。後ろ髪引かれる思いだったが、大学の試験のために、やむを得ない処置だったのである。
病院を出て、2時間ほどで、自宅マンションのてっぺんが姿を現す。この2時間のドライブの間、冴子の頭の中は、後悔とやるせない思いで、ぐじゃぐじゃになっていた。
さしもの、ドライアイスと言われた性格の持ち主であっても、こと身内や親友のことになると、性格が180度変わることがあるのだ。
いや、人間の情などというものは、個体差はないのかもしれない。何処の分野に、どれほど振り分けられるかで、その人間の人格が決まる可能性もある。数いる人間の中では、それが、自分だけに振り分ける自己愛の塊のような輩もいる。冴子は、それが身内やごく限られた人間だけに、集中するきらいがあるのだ。
車は、マンションの正門を通り抜けて、地下にある車庫に入った。キーを抜いて、ドアを開ける。その時、冴子は全身が凍り付くのを感じた。しかし、今、彼女が見ている映像によって、それが為されているわけではない。正確に表現するなら、ごく5,6秒前に目撃した像によって、全身の細胞がそうなってしまったのだ。その様子が、あまりに常識からかけ離れているために、目が、全身が、それを受け止めることを拒絶したのである。
――――何か、見てはいけないものを見てしまった。あれは、現実ではない。
そう、自分に言い聞かせて、冴子は、車から降りた。ハイヒールの音が、駐車場に響く。大聖堂のような鎮まった空間に、赤い音が響き渡る。
彼女は、そのくぐもった音が嫌いではない。絶対音感を持っているために、その音が、冴子の頭の中で、音符になって踊り出す。それらはいわば、小人や妖精の類だ。彼等をうまく使って、曲を作る。彼女は認めたくないだろうが実母である海崎百合絵譲りの、楽才としかいいようがない。
それは、とても楽しいことではあった。
そのようなとき、冴子は自分に酔う状態になる。。筋金入りのナルシストである彼女は、いちいち、自分のことを小説化するのが癖だった。そして、そのバックに自作の曲を流すのだ。
――――その美しい女学生は、颯爽と車から降りると、上品な手つきで、キーをふりふりしながら、地下駐車場に降りて行く。金色のキーは、夜の僅かな光に反射して、きらきらと光る。その美しいキラメキは、光の音階をつくるのだった。
彼女が、粗野なコンクリートにヒールを立てるたびに、芳しい音が響くのだった。それは、彼女から醸し出される何とも言えない良い匂いとアナロジーを構成していた ―――――
――――――――!?
駐車場から上がって、マンションの正門に辿り着いたとき、何故か、小説の朗読と音楽は、すさまじい雑音とともに、終わりを告げる。
「 ―――――――――!?」
冴子が見た二つの影は、二人の少女だった。ちょうど、由加里と同じくらいだと思われる。その二人が、コンビニ弁当を突きながら、談笑しているのだ。もしも、これが教室だったり、野山のハイキング所だったら、まことに頬笑ましい像というほかなかった。しかし、ここは、マンションの正門、しかも公共の場所なのだ。しかも、少女の周囲には、カップラーメンの食べ残しなど、ゴミが散乱している。
――――もしかして、最近、噂になっている子どもたちとは、こいつらのことだったのか。
それは、ここ数ヶ月の間、この近所に出没する中高生のことだった。あたり構わず、弁当を広げた上に、ゴミを散らかして帰るのだ。たしか、冴子の待ち受けにも、注意を促すビラが入っていたはずだ。
「あ! ねええ、もしかして、貴子!」
「そうだ!?」
目が点になっている冴子を前にして、携帯を弄りだした。
――――私は、何も見なかった。早く試験勉強をせねば。
「聞けばいいんだ!あの、すいません」
少女の一人は冴子の背中に声をかけた。
――無視!無視!
冴子は、玄関前の機械を操作すると、エントランスゲートが開いた。少女の一人は、その様子を見て、騒ぎ出した。
「きゃあ! かっこいい!ホテルみたい!」
「ちょっと、ミチル! 西宮先輩のお姉さん、行っちゃうよ ―――――」
「まだ、お姉さんだって決まったわけじゃないでしょう?」
「私は、郁子と由加里の姉だが?」
ここまでくれば、さすがに無視するわけにいかない。
「私は、西宮先輩の後輩の高島ミチルといいます」
「私は、西宮先輩の後輩の小池貴子といいます」
ふたりは、さすがに体育会系らしく、まるで軍隊のような挨拶を披露した。
「私は、西宮由加里の姉の冴子だが ―――――――――」
「はい、お妹さまから、お聞きさせてもらっています」
何処をどうしたら、日本語が、そんな風になるのだろう。ミチルの言い方を見ていると、日本人が2000年かけて創りだした敬語法を嘲笑っているとしか思えない。
冴子は、密かに舌を出した。しかし、ミチルが冴子に最大限の敬意を示していること、そして、彼女が由加里のことを想っていることは理解できた。
「に、西宮さん!!」
「急に、ミチルの顔が険しくなった」
「―――あ、話しは部屋に入ってからにしよう、ここは暑い。それから ――――」
冴子は、自分たちに向けられる通行人の視線を感じて言った。そうあのビラは、ここ近所一円にばらまかれているのだ。彼等は一様に、非難の眼差しを向けてくる。それは、冴子に集中してくるにちがいない、いや、しているのだ。冴子は、おそらく、この二人の縁者にちがいない。そのような目で見ているにちがいないのだ。
冴子は、頭痛薬を携帯していないことを、これほどに悔やんだことはなかった。
「わかってるでしょう?」
冴子は、大理石をかたどったタイルに、散らばったゴミ群を指さした。
「はい、すいません」
二人は、素直にレジ袋に、それらを詰め始めた。
「まったく、由加里もとんでもないのを、後輩に持ったものだな」
「あ、すいません」
文句を言いながらも、ゴミを拾おうとしてくれる。そんな冴子を見ていると、改めて、由加里の姉であることがわかる。彼女に輪をかけて知性を感じさせる視線に、大人びた物腰。長髪が自慢の妹と、違って短くカットされた頭髪は、一見すると、ふたりが姉妹であることを忘れさせる。しかし、知性を感じさせる目鼻立ちから、小さな唇まで、顔つきの細かなところまで、見ていくと見まごうかたなき姉妹であることがわかる。
しかし、ミチルには、別の思いがあった。
―――――似ている! そっくりだわ!
「何見ているのよ、高島さん」
まだ中学生にすぎない由加里と違って、あの人物と、見比べると ―――――――。
「変な子ねえ、はやく、入って。これ以上、見せ物になるのは叶わないわ」
「・・・・・・・・・・」
冴子の部屋は、46階の高層にある。そこに向かって、一路一蓮托生の道を進むのは、不思議な気持がした。貴子は、ともかく、冴子とは初対面なのだ。しかしながら、冴子の、まさに由加里を彷彿とさせる容貌は、ミチルに、不思議なデジャブーを与えるのだった。
ミチルの視界に教会の十字架が入って来たとき、冴子のアルトが聞こえた。
「もしかして、あんたたち、由加里が事故にあったの知らないのか?」
「えー?」
「そんな!! あ、だから携帯つながらなかったんだ」
貴子が大きな声を上げた。
「どうしたんですか? 先輩は無事だったんですか?」
ミチルは、思わず冴子にしがみついた。二人の間には、頭一つほどの身長の差がある。だから、豊満な胸に、少女は埋まってしまった。ぷにゃという感覚は、かつての母親を彷彿とさせる。
貴子は、しかし、あることに気づいた。
「ミチル、こうして、西宮さんが来てるって、ことは ―――――――」
「そうだよ、高島さんは、どうやら理性的な判断ができるようなだな、しかし、それは女としては必ずしもプラスとは限らないな」
「そんなこと、どうでもいい、先輩のこと教えてクダサイ!」
「その前に、顔を話してくれないか、この暑いのに」
「ご、ごめんなさい・・・・・・・・」
冷房が効いているのにも係わらず、冴子の台詞は習慣化した結果であろう。
まるで、中世ヨーロッパの城のような、上下するうねうねとした回廊を進んでいく。都会の喧噪に中に造られたある種の密室は、中国の長城のように、他と世界を異にして、こんこんと存在し続ける。あたかも、時間と空間から解き放たれた、あるいは、遊離した空間のようだ。
数分歩いて、やっと部屋に到着した。一戸建ての玄関のような佇まいである。はたして、中に入っても、まさにそのような構造物がビルの中に、巣くっていた。それは、ミチルと貴子のマンションというものに対する既成概念を否定するものだった。
「暑いな ―――――――――」
冴子は入るなり冷房を入れる。
「そこら辺に座っていてくれ、冷たいものでも、用意するから」
「そんなことよりも、先輩のことを ――――」
「ミチル!」
「あんたたちが、何のために来たのか、由加里に聞いている」
ミチルは、あくまでも冷静な冴子に苛立ちを憶えた。
「どうして、そんなに冷静で居られるんですか?」
食ってかかるミチルを、押さえようと貴子が苦労している。
冴子は、三つのグラスにアイスコーヒーを入れている。焦げ茶色の妖しげな液体に、ミルクが混じっていく。その様子は、あたかも悪魔の冷酷を、天使の優しさで溶かしているように見えた。渦を作って混じっていくさまは、まさに悪魔と番う(つがう)天使の翼に見えた。
そのころ、由加里は病室で一人震えていた。その白魚のような手には、携帯が握られている。その手のあまりの冷たさに、機械の回路は、凍結寸前まで追い込まれていた。
いま、春子と和之夫妻は、歯がみする思いで、廊下を歩いている。宮殿のような回廊は、ただ、薄っぺらい白さだけが目立つ。医者や看護婦は、その服が意味するように、白い光で満たされてはいるが、その実、何の安らぎをも、患者に与えたりはしない。
ただ、象牙の塔の眷属として、住人、いや、奴隷たちを支配することを楽しんでいるだけである。彼等に与えるのは、ただひとつ、威圧だけだ。彼等の娘は、両親が部屋を後にするとき、「行かないで!」叫んでいた。その目が叫んでいたのだ。黒目がちな美しい瞳が!娘の虹彩の一筋、一筋には、恐怖の二文字が刻み込まれていた。
「どうして、一晩くらい付き添ってやれないんですか?」
「いいだろう!? 精神科医として主張する! 娘は憔悴している」
「西宮先生、ここは万全な総合病院です! 娘さんのことは、我々がちゃンと見張っています!」
「見守る」ではなく、「見張る」と言ったところに、この病院のスタンスが見て取れた。
「いい、今日のうちに退院させる! わたしは医師だ!」
「パパ、だいじょうぶだよ、しんぱいしないで ・・・・・・・・」
「ゆ、由加里ぃ」
その時、本当に、消え入りそうな声が聞こえた。聞きまごうはずがない。彼等の愛娘である由加里の声だ。たとえ、ここが新宿の雑踏であろうとも、イラクの戦場であろうとも、その声を聞き取ることができたであろう。
「なんだ! あの態度は!?」
「あなた、これからでも無理にでも連れて帰るべきじゃない?!」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
それは、和之にはできそうにない相談だった。この大学病院は、彼の母校なのだ。いろいろ便宜を図ってもらっている以上、出過ぎたことはできない。組織から抜けだしても、しきれない医師という職業の悲しさである。
「それにしても、できすぎた話しだ! あの女が由加里を轢くなんて! まさか今日の今日まで付きまとっていたのではなるまいな!」
「・・・・・・・・・・・・・・」
春子は、それには返事ができなかった。冴子と由加里の母親、百合絵。冴子の話によれば、病院のエントランスまで姿を見せたという。吐き出すような、憎しみの籠めた言い方が印象的だった。普段、感情を表に出さない性分なだけに、より、鮮明に記憶に残った。あの二人を産んでくれたという感謝の気持ちと、嫉妬心が混じり合って、奇妙な果実が熟していた。
夫妻が病院を後にしようとしたとき、冴子は、彼女のマンションにてミチル、貴子と話し込んでいた。
「じゃあ、先輩はすぐに退院できるんですね ―――――」
「ああ、肉体的にはほとんと問題はない、軽いねんざくらいだ。しかし、 ―――――――」
「今は安静剤で寝ているはずだ ――――――」
「変な薬を打たれてるんですか?」
ミチルが騒いだ。
「大丈夫だよ、単なる安静剤だ ―――――」
冴子は、ギターを手にする。
「でも、そんなものが必要なくらいに、先輩は追いつめられているってことですよね」
ギターを整備しながら、この少女の冷静な観察眼に、ひそかに感心した。
「そりゃあ、車にはねられたわけだからな」
「え?この曲!」
貴子は、冴子の冷静な態度に反感を感じながらも、彼女の手がかき鳴らす曲に、耳を吸い取られる気分になった。その曲はあまりに、彼女が聞き慣れたメロディだったからである。
「すごい、上手いですねえ」
「へえ、この曲、知ってるんだ」
「貴子に言わせたら、1時間でも、2時間でも、Assemble nightの話しなら続けられるよね」
ミチルは、半ば迷惑という色を滲ませて言った。よほど、その害を身にしみているのだろう。
「ほう?」
冴子は、貴子を試すような目つきをした。その視線からは、針が仕込まれているような気がする。
「・・・・・・・・・・」
「そのバンドについて、詳しいことを教えてくれんか ―――――」
冴子は、中世のリュート奏者のように、弦をかき鳴らし続ける。その妙なる音曲と、奏者の視線を交互に見ていると、この人は本当に現代の人間かと思わせる。
その指が生み出す旋律は、一見、クラシックを思い起こさせた。しかし、古典でありながら、全く旧さを感じさせない。バッハだとモーツァルトと言った、かつての巨人たちの旋律を一切、感じさせない。
クラシックを完全に自分のモノとして消化し、新たな音楽を創りだすたけの構想力と創造性を併せ持っている。
「たぶん、すぐにでもメジャーデビューしますわ、そしたら、日本一、いや世界一のロックバンドになるとおもいます」
「ふーん」
鼻で笑うような表情は、大人の官能と魅力に満ちていた。もしも、ふたりが同じ年齢の少年だったら、イチコロになっているだろう。しかしながら、冴子にその趣味がないために、いや、ないにも係わらずと言ったほうがいいだろうか、二人の少女は、冴子に参ってしまったのである。
そのころ、午後四時、まだ夏時の太陽は、地平線近くで遊んでいるわけにはいかない。
由加里は、病室でただ、ひとり喘いでいた。少女の華奢な肢体では、とうてい耐えられそうにない重荷によって、くの字に歪められていた。それは、想像を絶する悲しみと孤独感、そして、自責の念だった。己の行為が、自殺に当たることは、彼女じしん、理解していた。
―――もしも、ミチルちゃんたちに知られたら!
ミチルと貴子の、白い目が、ありありと見えた。
「ゥウウウ・・・・ウ・ウ・!」
完全に布団に潜り込んで、エビのように、その幼い肢体を歪めている。その中からくぐもって声が聞こえるのだ。その声は、山吹色に塗装が為されていて、かすかに朱系統が補充されていた。その朱は甘みを感じさせる。
いま、エビが動いた。白い布団の上からでも、その形状がたしかにわかる。あきらかに、人間だ。人間の少女だ。ある種の性的な趣味を持つ男女だけが、感じ取れるサインのようなものを発している。少女は、ドアが開いて閉まる音を聞いていなかったというのだろうか。そんなに夢中になって、何をしているというのだろう。もしくは、ただ眠り惚けているだけで、看護婦である彼女が、入ってきたことに気づかなかっただけなのだろうか?
「はーい、何をしているのカナ?西宮さん ――――」
「きゃあ?!」
「きゃあ、じゃないわよ、それはこちらの台詞よ ―――――――」
看護婦は、布団を取り払ったまま、言葉を続ける。その目には、あきらかに軽蔑の色が見て取れる。
「・・・・・・・・・・・!」
「そんなところに手を突っ込んで、何をしているの?」
「ぃいやあ! 声を出します!」
「そんなことして、赤っ恥を掻くのは誰かしら?」
看護婦の意地の悪い笑顔を見ていると、誰かを彷彿とさせた。この三十路も半ばを過ぎたと思われる女性からは、他とは別のある種のフェルモンが放たれていた。既視感。
―――似鳥先輩!
「あなたの恥ずかしいトコロ、みんな見せてもらったのよ、いや、見せてもらっただけでなく録画させてもらったわ ―――――」
「?」
「気づかなかったの? この病室には録画装置が設置されているの、患者を監視するためにね」
「いやぁあ!」
看護婦は、布団を完全に取りはらうと、由加里を背後から抱きしめ、彼女の右手を摑んだ。
「このお手々で、何をしていたのかしら? 知ってるわよ、最初は誰も見ていないと思って、下半身を丸出しにしてたでしょう?」
「ウウ・・・ウ・・ウ・ウ!」
由加里は、羽交い締めにされ、身動きできない状態のまま、摑まれている。唯一自由な右腕だ。ちなみに、両足、左足は包帯が巻かれている。
「言いなさい、何をしてたの? ・・・・・・・そうだ、まだ自己紹介がまだだったわね。私の名前は、似鳥 可南子、この病院の看護婦よ。ちなみに、この病院の院長は私の叔父だからあしからず」
「ええ?」
由加里は心底驚いた。やはり、ぴあのとかなんの親族にちがいない。もしかしたら、母親かも。そうだ、そうに決まっている。かつて、ぴあの自身から聞いたことがある。
「ぴあののお母さん、看護婦なんだ」
二人とも、あどけない笑顔で、ランドセルをガラガラと鳴らしていたころのことである。
「ぁ・・・・・・・・・」
由加里は、ふいに、宙に放たれた。可南子が立ち上がったのである。鍵をかけるためだ。
「私としたことが ――――――――」
施錠を終えると、ふり返る。由加里は、可南子を上目遣いでみた。まるで子犬のようだ。少女は、恐怖と羞恥心のために、完全に縮こまっている。まだ、右手は、ズボンの中に入っている。
「それにしても、色気のない恰好ね、ま、病院だからしょうがないだけど」
だからこそ、少女を淫靡にしているとも言える。その色気も雅も感じさせない寝間着姿だからこそ、猥褻さが目立つとも言えるのだ。
「あははは、なんて、いやらしい姿勢かしら? いつまで汚い場所を触り続けているつもり?」
「ウウウウ・・ウ・ウ・・ウ・ウ・ウウ!!」
「いいなさい、何をしていたの!? もしも、言わないならこのビデオを・・・・・」
「いやああ! そんな!」
由加里は、泣き叫んでいた。しかし、誰もこないのはどういうわけだろう。
「ふふ、さあ、言いなさい、この変態娘。だから、みんなにいじめられるのよ!」
――――え?この人、何を言っているの?
それは、可南子が知るはずもない事実だった。何かおかしい。
「さあ!言いなさい!みんな、あなたをお待ちかねなのよ、クラス中の、嫌われもののくせに、みんな歓迎してくれているのよ」
とたんに施錠されているはずのドアが開いた。すると、照美や高田をはじめとするクラスメートが全員入ってくるではないか。みんな、由加里に蔑みと好奇心の入り交じった視線を送ってくる。どれも、同じ人間の友達だと認めてくれない。
「クラスの嫌われ者、学校中の恥さらし!」
誰かそう言うと、輪唱が波のようになって、順々に由加里を口撃する。
「西宮由加里は、病室で、オナニーした変態患者! 精神病院に一生閉じこめておくべきだ!」
「ぃいやああああああ!!」
「西宮さん? どうしたの?」
「あ?」
由加里の目の前には、可南子がいる。そして、自分を見ると布団の中だ。右手はズボンの外だ。オナニーもしていない。しかし、全身が汗まみれだ。鼻を突き刺すようなアポクリン臭が、自分から発生している。自分が大と書いて、臭とはよく言ったものだ。冷房が効いているというのに、この暑さだ。まるでサウナに放り込まれたような気がする。
「はあ、はあ、はあ ―――――」
肩で息をする由加里。
――――夢、だったの?
「び、ビデオは?」
「どうしたの?」
可南子は怪訝な顔になった。
―――何を言っているの?
そんな顔だ。
「きっと、恐い事故にあったから、そんな夢を見たのね」
しかし、すぐに優しい顔になった。
「エエ・・エ・・エ・・・・エ・エウウ!」
嗚咽が止められない。流したくないのに、涙が頬を伝わって、顎を濡らす。そのまとわりつくようなしつこさは、いじめっ子たちを彷彿とさせる。
「大丈夫よ」
「ううう・う・う・う・う・う・うう!!」
優しくされると子どもは、さらに激しく泣き出すという。由加里は、胃を吐き出すような激しい悲しみの中で、理性的な自己分析を行っていたのである。
――――もう、学校なんか行きたくない! こんな目に合わせる学校なんて、いっそのことなくなっちゃえばいいのよ!
由加里は、見知らぬ人の肌の中で、泣きじゃくりながら密かに決意していた。
病院を出て、2時間ほどで、自宅マンションのてっぺんが姿を現す。この2時間のドライブの間、冴子の頭の中は、後悔とやるせない思いで、ぐじゃぐじゃになっていた。
さしもの、ドライアイスと言われた性格の持ち主であっても、こと身内や親友のことになると、性格が180度変わることがあるのだ。
いや、人間の情などというものは、個体差はないのかもしれない。何処の分野に、どれほど振り分けられるかで、その人間の人格が決まる可能性もある。数いる人間の中では、それが、自分だけに振り分ける自己愛の塊のような輩もいる。冴子は、それが身内やごく限られた人間だけに、集中するきらいがあるのだ。
車は、マンションの正門を通り抜けて、地下にある車庫に入った。キーを抜いて、ドアを開ける。その時、冴子は全身が凍り付くのを感じた。しかし、今、彼女が見ている映像によって、それが為されているわけではない。正確に表現するなら、ごく5,6秒前に目撃した像によって、全身の細胞がそうなってしまったのだ。その様子が、あまりに常識からかけ離れているために、目が、全身が、それを受け止めることを拒絶したのである。
――――何か、見てはいけないものを見てしまった。あれは、現実ではない。
そう、自分に言い聞かせて、冴子は、車から降りた。ハイヒールの音が、駐車場に響く。大聖堂のような鎮まった空間に、赤い音が響き渡る。
彼女は、そのくぐもった音が嫌いではない。絶対音感を持っているために、その音が、冴子の頭の中で、音符になって踊り出す。それらはいわば、小人や妖精の類だ。彼等をうまく使って、曲を作る。彼女は認めたくないだろうが実母である海崎百合絵譲りの、楽才としかいいようがない。
それは、とても楽しいことではあった。
そのようなとき、冴子は自分に酔う状態になる。。筋金入りのナルシストである彼女は、いちいち、自分のことを小説化するのが癖だった。そして、そのバックに自作の曲を流すのだ。
――――その美しい女学生は、颯爽と車から降りると、上品な手つきで、キーをふりふりしながら、地下駐車場に降りて行く。金色のキーは、夜の僅かな光に反射して、きらきらと光る。その美しいキラメキは、光の音階をつくるのだった。
彼女が、粗野なコンクリートにヒールを立てるたびに、芳しい音が響くのだった。それは、彼女から醸し出される何とも言えない良い匂いとアナロジーを構成していた ―――――
――――――――!?
駐車場から上がって、マンションの正門に辿り着いたとき、何故か、小説の朗読と音楽は、すさまじい雑音とともに、終わりを告げる。
「 ―――――――――!?」
冴子が見た二つの影は、二人の少女だった。ちょうど、由加里と同じくらいだと思われる。その二人が、コンビニ弁当を突きながら、談笑しているのだ。もしも、これが教室だったり、野山のハイキング所だったら、まことに頬笑ましい像というほかなかった。しかし、ここは、マンションの正門、しかも公共の場所なのだ。しかも、少女の周囲には、カップラーメンの食べ残しなど、ゴミが散乱している。
――――もしかして、最近、噂になっている子どもたちとは、こいつらのことだったのか。
それは、ここ数ヶ月の間、この近所に出没する中高生のことだった。あたり構わず、弁当を広げた上に、ゴミを散らかして帰るのだ。たしか、冴子の待ち受けにも、注意を促すビラが入っていたはずだ。
「あ! ねええ、もしかして、貴子!」
「そうだ!?」
目が点になっている冴子を前にして、携帯を弄りだした。
――――私は、何も見なかった。早く試験勉強をせねば。
「聞けばいいんだ!あの、すいません」
少女の一人は冴子の背中に声をかけた。
――無視!無視!
冴子は、玄関前の機械を操作すると、エントランスゲートが開いた。少女の一人は、その様子を見て、騒ぎ出した。
「きゃあ! かっこいい!ホテルみたい!」
「ちょっと、ミチル! 西宮先輩のお姉さん、行っちゃうよ ―――――」
「まだ、お姉さんだって決まったわけじゃないでしょう?」
「私は、郁子と由加里の姉だが?」
ここまでくれば、さすがに無視するわけにいかない。
「私は、西宮先輩の後輩の高島ミチルといいます」
「私は、西宮先輩の後輩の小池貴子といいます」
ふたりは、さすがに体育会系らしく、まるで軍隊のような挨拶を披露した。
「私は、西宮由加里の姉の冴子だが ―――――――――」
「はい、お妹さまから、お聞きさせてもらっています」
何処をどうしたら、日本語が、そんな風になるのだろう。ミチルの言い方を見ていると、日本人が2000年かけて創りだした敬語法を嘲笑っているとしか思えない。
冴子は、密かに舌を出した。しかし、ミチルが冴子に最大限の敬意を示していること、そして、彼女が由加里のことを想っていることは理解できた。
「に、西宮さん!!」
「急に、ミチルの顔が険しくなった」
「―――あ、話しは部屋に入ってからにしよう、ここは暑い。それから ――――」
冴子は、自分たちに向けられる通行人の視線を感じて言った。そうあのビラは、ここ近所一円にばらまかれているのだ。彼等は一様に、非難の眼差しを向けてくる。それは、冴子に集中してくるにちがいない、いや、しているのだ。冴子は、おそらく、この二人の縁者にちがいない。そのような目で見ているにちがいないのだ。
冴子は、頭痛薬を携帯していないことを、これほどに悔やんだことはなかった。
「わかってるでしょう?」
冴子は、大理石をかたどったタイルに、散らばったゴミ群を指さした。
「はい、すいません」
二人は、素直にレジ袋に、それらを詰め始めた。
「まったく、由加里もとんでもないのを、後輩に持ったものだな」
「あ、すいません」
文句を言いながらも、ゴミを拾おうとしてくれる。そんな冴子を見ていると、改めて、由加里の姉であることがわかる。彼女に輪をかけて知性を感じさせる視線に、大人びた物腰。長髪が自慢の妹と、違って短くカットされた頭髪は、一見すると、ふたりが姉妹であることを忘れさせる。しかし、知性を感じさせる目鼻立ちから、小さな唇まで、顔つきの細かなところまで、見ていくと見まごうかたなき姉妹であることがわかる。
しかし、ミチルには、別の思いがあった。
―――――似ている! そっくりだわ!
「何見ているのよ、高島さん」
まだ中学生にすぎない由加里と違って、あの人物と、見比べると ―――――――。
「変な子ねえ、はやく、入って。これ以上、見せ物になるのは叶わないわ」
「・・・・・・・・・・」
冴子の部屋は、46階の高層にある。そこに向かって、一路一蓮托生の道を進むのは、不思議な気持がした。貴子は、ともかく、冴子とは初対面なのだ。しかしながら、冴子の、まさに由加里を彷彿とさせる容貌は、ミチルに、不思議なデジャブーを与えるのだった。
ミチルの視界に教会の十字架が入って来たとき、冴子のアルトが聞こえた。
「もしかして、あんたたち、由加里が事故にあったの知らないのか?」
「えー?」
「そんな!! あ、だから携帯つながらなかったんだ」
貴子が大きな声を上げた。
「どうしたんですか? 先輩は無事だったんですか?」
ミチルは、思わず冴子にしがみついた。二人の間には、頭一つほどの身長の差がある。だから、豊満な胸に、少女は埋まってしまった。ぷにゃという感覚は、かつての母親を彷彿とさせる。
貴子は、しかし、あることに気づいた。
「ミチル、こうして、西宮さんが来てるって、ことは ―――――――」
「そうだよ、高島さんは、どうやら理性的な判断ができるようなだな、しかし、それは女としては必ずしもプラスとは限らないな」
「そんなこと、どうでもいい、先輩のこと教えてクダサイ!」
「その前に、顔を話してくれないか、この暑いのに」
「ご、ごめんなさい・・・・・・・・」
冷房が効いているのにも係わらず、冴子の台詞は習慣化した結果であろう。
まるで、中世ヨーロッパの城のような、上下するうねうねとした回廊を進んでいく。都会の喧噪に中に造られたある種の密室は、中国の長城のように、他と世界を異にして、こんこんと存在し続ける。あたかも、時間と空間から解き放たれた、あるいは、遊離した空間のようだ。
数分歩いて、やっと部屋に到着した。一戸建ての玄関のような佇まいである。はたして、中に入っても、まさにそのような構造物がビルの中に、巣くっていた。それは、ミチルと貴子のマンションというものに対する既成概念を否定するものだった。
「暑いな ―――――――――」
冴子は入るなり冷房を入れる。
「そこら辺に座っていてくれ、冷たいものでも、用意するから」
「そんなことよりも、先輩のことを ――――」
「ミチル!」
「あんたたちが、何のために来たのか、由加里に聞いている」
ミチルは、あくまでも冷静な冴子に苛立ちを憶えた。
「どうして、そんなに冷静で居られるんですか?」
食ってかかるミチルを、押さえようと貴子が苦労している。
冴子は、三つのグラスにアイスコーヒーを入れている。焦げ茶色の妖しげな液体に、ミルクが混じっていく。その様子は、あたかも悪魔の冷酷を、天使の優しさで溶かしているように見えた。渦を作って混じっていくさまは、まさに悪魔と番う(つがう)天使の翼に見えた。
そのころ、由加里は病室で一人震えていた。その白魚のような手には、携帯が握られている。その手のあまりの冷たさに、機械の回路は、凍結寸前まで追い込まれていた。
いま、春子と和之夫妻は、歯がみする思いで、廊下を歩いている。宮殿のような回廊は、ただ、薄っぺらい白さだけが目立つ。医者や看護婦は、その服が意味するように、白い光で満たされてはいるが、その実、何の安らぎをも、患者に与えたりはしない。
ただ、象牙の塔の眷属として、住人、いや、奴隷たちを支配することを楽しんでいるだけである。彼等に与えるのは、ただひとつ、威圧だけだ。彼等の娘は、両親が部屋を後にするとき、「行かないで!」叫んでいた。その目が叫んでいたのだ。黒目がちな美しい瞳が!娘の虹彩の一筋、一筋には、恐怖の二文字が刻み込まれていた。
「どうして、一晩くらい付き添ってやれないんですか?」
「いいだろう!? 精神科医として主張する! 娘は憔悴している」
「西宮先生、ここは万全な総合病院です! 娘さんのことは、我々がちゃンと見張っています!」
「見守る」ではなく、「見張る」と言ったところに、この病院のスタンスが見て取れた。
「いい、今日のうちに退院させる! わたしは医師だ!」
「パパ、だいじょうぶだよ、しんぱいしないで ・・・・・・・・」
「ゆ、由加里ぃ」
その時、本当に、消え入りそうな声が聞こえた。聞きまごうはずがない。彼等の愛娘である由加里の声だ。たとえ、ここが新宿の雑踏であろうとも、イラクの戦場であろうとも、その声を聞き取ることができたであろう。
「なんだ! あの態度は!?」
「あなた、これからでも無理にでも連れて帰るべきじゃない?!」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
それは、和之にはできそうにない相談だった。この大学病院は、彼の母校なのだ。いろいろ便宜を図ってもらっている以上、出過ぎたことはできない。組織から抜けだしても、しきれない医師という職業の悲しさである。
「それにしても、できすぎた話しだ! あの女が由加里を轢くなんて! まさか今日の今日まで付きまとっていたのではなるまいな!」
「・・・・・・・・・・・・・・」
春子は、それには返事ができなかった。冴子と由加里の母親、百合絵。冴子の話によれば、病院のエントランスまで姿を見せたという。吐き出すような、憎しみの籠めた言い方が印象的だった。普段、感情を表に出さない性分なだけに、より、鮮明に記憶に残った。あの二人を産んでくれたという感謝の気持ちと、嫉妬心が混じり合って、奇妙な果実が熟していた。
夫妻が病院を後にしようとしたとき、冴子は、彼女のマンションにてミチル、貴子と話し込んでいた。
「じゃあ、先輩はすぐに退院できるんですね ―――――」
「ああ、肉体的にはほとんと問題はない、軽いねんざくらいだ。しかし、 ―――――――」
「今は安静剤で寝ているはずだ ――――――」
「変な薬を打たれてるんですか?」
ミチルが騒いだ。
「大丈夫だよ、単なる安静剤だ ―――――」
冴子は、ギターを手にする。
「でも、そんなものが必要なくらいに、先輩は追いつめられているってことですよね」
ギターを整備しながら、この少女の冷静な観察眼に、ひそかに感心した。
「そりゃあ、車にはねられたわけだからな」
「え?この曲!」
貴子は、冴子の冷静な態度に反感を感じながらも、彼女の手がかき鳴らす曲に、耳を吸い取られる気分になった。その曲はあまりに、彼女が聞き慣れたメロディだったからである。
「すごい、上手いですねえ」
「へえ、この曲、知ってるんだ」
「貴子に言わせたら、1時間でも、2時間でも、Assemble nightの話しなら続けられるよね」
ミチルは、半ば迷惑という色を滲ませて言った。よほど、その害を身にしみているのだろう。
「ほう?」
冴子は、貴子を試すような目つきをした。その視線からは、針が仕込まれているような気がする。
「・・・・・・・・・・」
「そのバンドについて、詳しいことを教えてくれんか ―――――」
冴子は、中世のリュート奏者のように、弦をかき鳴らし続ける。その妙なる音曲と、奏者の視線を交互に見ていると、この人は本当に現代の人間かと思わせる。
その指が生み出す旋律は、一見、クラシックを思い起こさせた。しかし、古典でありながら、全く旧さを感じさせない。バッハだとモーツァルトと言った、かつての巨人たちの旋律を一切、感じさせない。
クラシックを完全に自分のモノとして消化し、新たな音楽を創りだすたけの構想力と創造性を併せ持っている。
「たぶん、すぐにでもメジャーデビューしますわ、そしたら、日本一、いや世界一のロックバンドになるとおもいます」
「ふーん」
鼻で笑うような表情は、大人の官能と魅力に満ちていた。もしも、ふたりが同じ年齢の少年だったら、イチコロになっているだろう。しかしながら、冴子にその趣味がないために、いや、ないにも係わらずと言ったほうがいいだろうか、二人の少女は、冴子に参ってしまったのである。
そのころ、午後四時、まだ夏時の太陽は、地平線近くで遊んでいるわけにはいかない。
由加里は、病室でただ、ひとり喘いでいた。少女の華奢な肢体では、とうてい耐えられそうにない重荷によって、くの字に歪められていた。それは、想像を絶する悲しみと孤独感、そして、自責の念だった。己の行為が、自殺に当たることは、彼女じしん、理解していた。
―――もしも、ミチルちゃんたちに知られたら!
ミチルと貴子の、白い目が、ありありと見えた。
「ゥウウウ・・・・ウ・ウ・!」
完全に布団に潜り込んで、エビのように、その幼い肢体を歪めている。その中からくぐもって声が聞こえるのだ。その声は、山吹色に塗装が為されていて、かすかに朱系統が補充されていた。その朱は甘みを感じさせる。
いま、エビが動いた。白い布団の上からでも、その形状がたしかにわかる。あきらかに、人間だ。人間の少女だ。ある種の性的な趣味を持つ男女だけが、感じ取れるサインのようなものを発している。少女は、ドアが開いて閉まる音を聞いていなかったというのだろうか。そんなに夢中になって、何をしているというのだろう。もしくは、ただ眠り惚けているだけで、看護婦である彼女が、入ってきたことに気づかなかっただけなのだろうか?
「はーい、何をしているのカナ?西宮さん ――――」
「きゃあ?!」
「きゃあ、じゃないわよ、それはこちらの台詞よ ―――――――」
看護婦は、布団を取り払ったまま、言葉を続ける。その目には、あきらかに軽蔑の色が見て取れる。
「・・・・・・・・・・・!」
「そんなところに手を突っ込んで、何をしているの?」
「ぃいやあ! 声を出します!」
「そんなことして、赤っ恥を掻くのは誰かしら?」
看護婦の意地の悪い笑顔を見ていると、誰かを彷彿とさせた。この三十路も半ばを過ぎたと思われる女性からは、他とは別のある種のフェルモンが放たれていた。既視感。
―――似鳥先輩!
「あなたの恥ずかしいトコロ、みんな見せてもらったのよ、いや、見せてもらっただけでなく録画させてもらったわ ―――――」
「?」
「気づかなかったの? この病室には録画装置が設置されているの、患者を監視するためにね」
「いやぁあ!」
看護婦は、布団を完全に取りはらうと、由加里を背後から抱きしめ、彼女の右手を摑んだ。
「このお手々で、何をしていたのかしら? 知ってるわよ、最初は誰も見ていないと思って、下半身を丸出しにしてたでしょう?」
「ウウ・・・ウ・・ウ・ウ!」
由加里は、羽交い締めにされ、身動きできない状態のまま、摑まれている。唯一自由な右腕だ。ちなみに、両足、左足は包帯が巻かれている。
「言いなさい、何をしてたの? ・・・・・・・そうだ、まだ自己紹介がまだだったわね。私の名前は、似鳥 可南子、この病院の看護婦よ。ちなみに、この病院の院長は私の叔父だからあしからず」
「ええ?」
由加里は心底驚いた。やはり、ぴあのとかなんの親族にちがいない。もしかしたら、母親かも。そうだ、そうに決まっている。かつて、ぴあの自身から聞いたことがある。
「ぴあののお母さん、看護婦なんだ」
二人とも、あどけない笑顔で、ランドセルをガラガラと鳴らしていたころのことである。
「ぁ・・・・・・・・・」
由加里は、ふいに、宙に放たれた。可南子が立ち上がったのである。鍵をかけるためだ。
「私としたことが ――――――――」
施錠を終えると、ふり返る。由加里は、可南子を上目遣いでみた。まるで子犬のようだ。少女は、恐怖と羞恥心のために、完全に縮こまっている。まだ、右手は、ズボンの中に入っている。
「それにしても、色気のない恰好ね、ま、病院だからしょうがないだけど」
だからこそ、少女を淫靡にしているとも言える。その色気も雅も感じさせない寝間着姿だからこそ、猥褻さが目立つとも言えるのだ。
「あははは、なんて、いやらしい姿勢かしら? いつまで汚い場所を触り続けているつもり?」
「ウウウウ・・ウ・ウ・・ウ・ウ・ウウ!!」
「いいなさい、何をしていたの!? もしも、言わないならこのビデオを・・・・・」
「いやああ! そんな!」
由加里は、泣き叫んでいた。しかし、誰もこないのはどういうわけだろう。
「ふふ、さあ、言いなさい、この変態娘。だから、みんなにいじめられるのよ!」
――――え?この人、何を言っているの?
それは、可南子が知るはずもない事実だった。何かおかしい。
「さあ!言いなさい!みんな、あなたをお待ちかねなのよ、クラス中の、嫌われもののくせに、みんな歓迎してくれているのよ」
とたんに施錠されているはずのドアが開いた。すると、照美や高田をはじめとするクラスメートが全員入ってくるではないか。みんな、由加里に蔑みと好奇心の入り交じった視線を送ってくる。どれも、同じ人間の友達だと認めてくれない。
「クラスの嫌われ者、学校中の恥さらし!」
誰かそう言うと、輪唱が波のようになって、順々に由加里を口撃する。
「西宮由加里は、病室で、オナニーした変態患者! 精神病院に一生閉じこめておくべきだ!」
「ぃいやああああああ!!」
「西宮さん? どうしたの?」
「あ?」
由加里の目の前には、可南子がいる。そして、自分を見ると布団の中だ。右手はズボンの外だ。オナニーもしていない。しかし、全身が汗まみれだ。鼻を突き刺すようなアポクリン臭が、自分から発生している。自分が大と書いて、臭とはよく言ったものだ。冷房が効いているというのに、この暑さだ。まるでサウナに放り込まれたような気がする。
「はあ、はあ、はあ ―――――」
肩で息をする由加里。
――――夢、だったの?
「び、ビデオは?」
「どうしたの?」
可南子は怪訝な顔になった。
―――何を言っているの?
そんな顔だ。
「きっと、恐い事故にあったから、そんな夢を見たのね」
しかし、すぐに優しい顔になった。
「エエ・・エ・・エ・・・・エ・エウウ!」
嗚咽が止められない。流したくないのに、涙が頬を伝わって、顎を濡らす。そのまとわりつくようなしつこさは、いじめっ子たちを彷彿とさせる。
「大丈夫よ」
「ううう・う・う・う・う・う・うう!!」
優しくされると子どもは、さらに激しく泣き出すという。由加里は、胃を吐き出すような激しい悲しみの中で、理性的な自己分析を行っていたのである。
――――もう、学校なんか行きたくない! こんな目に合わせる学校なんて、いっそのことなくなっちゃえばいいのよ!
由加里は、見知らぬ人の肌の中で、泣きじゃくりながら密かに決意していた。
「さ、冴・・・・ウ・ウ・ウ・ウウ・・・・・・・・・!?」
「由加里ぃ!!」
由加里は、まだ覚醒がしっくりいかない状態で、入室者の顔を見た。頭の中で、渦巻いている思いを言葉にしようとしたが、なかなかうまくいかない。
「さ、冴子姉・・・・・・・!!」
「もう、何も言わなくていい ――――――――」
冴子は、黙って妹の黒髪に触れた。
「ウウ・ウ・ウ・・ウ・ウウ!」
言葉は、言葉にならずに、嗚咽となるだけだ。それを恥じるように、シーツに顔を埋める由加里。そのかたわらには、春子が寄り添っている。 父親である和之は用があるのか、ここにはいない。
「・・・・・・・・・・・・・・?!」
その時、郁子は得体の知れない両生類が、頭の中を動き回るのを感じた。そのナマズのような頭を持つ、ぬらぬらとした怪物は、少女の心の襞という襞を刺激し、不安と不審の二文字をかき立てていくのだった。
由加里を轢いたという女性、そして、冴子、由加里。この三人は、あまりに、酷似している。三人を他人同士だと言うのは、火星が四角いというのと同じくらいに無理がある。冴子の話によると伯母だということだ。開院のために貯めた金を持ち逃げしたというが、そんな話しは聞いたこともない。
幼い少女を襲ったのは、圧倒的な孤独だった。この家族の中で、自分だけが仲間はずれのような気がした。自分だけに、報されていない家族の秘密があるような気がした。自分は、ここにいてはいけないような気がするのである。
異端児、まさに、この状況に相応しい言葉だった。もっとも、小学5年生の彼女に、そんな言葉は浮かんでこなかったが・・・・・・・・。
ふと、先ほどの女性のことが気になった。みんなに気づかれないように、病室を後にした。冴子と女性が立ち回りを見せた場所へと急ぐ。もう居なくなっているだろうか。時間にして、五分と経っていないはずだ。よもや、車で来ているはずがないことは、小学生の郁子にも、簡単に推察できた。
―――バス停ね。
ロビーは、ガラス張りになっているために、外の様子がありありとわかる。バス停も見える。
――――いたわ!
少女は、今、バスに乗り込もうとしている百合絵を見つけた。
―――急がないと!
郁子は、バスまで駆けた。由加里と違って、運動は得意なのだ。今からならば、間に合わないということはない。バスが発車しようというその時、走り寄ってくる少女に気づいたのか、運転手は急ブレーキをかけた。
バスは、それ自体に、固有の意識があるかのように、扉を開いた。心の中で、「ありがとう」と言うと、飛び乗った。「あぶないから、急ぐなよ」バスが答えたような気がした。
一生懸命に走ってきたために、肩で息をする。辺りを見回す。一番後ろの席。
―――あ、いた!
その時、郁子と百合絵は目があった。
この時、少女は自分が、数ある鍵穴のひとつに、鍵を差し込んだことに気づかなかった。しかし、確かに、あるひとつの答えにむけた、少女を含めた一団の人間が、新たなる歩みを迎えたことは、決定的な事実なのである。
「・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・」
ふたりは、揺れるバスの中、互いに向き合った。視線は、互いを逃すまいとしている。
「お嬢ちゃん、座らないと危ないよ」
「え?はい ―――」
そんな緊張状態を和らげたのは、一人の老婆だった。
「私は西宮郁子です。おばさんは、私たちの伯母さんですか?」
郁子は老婆に会釈すると、百合絵の隣に座った。そして、自分の母親くらいの年の大人に対して、位負けすることなく、自己紹介をした。
「・・・?まあ、いいわ。今、ねえ、あなたの曲ができたところなんだけど」
「え?」
咄嗟に、その言葉の意味が理解できなかった。一体、この人は何を言ってるのだろう。
目の前の女性は、母親よりも10歳くらい若く見えた。しかし、それでも、十二分に大人であることに違いはない。郁子にとって見れば。煙突の頂上を見ることに等しいのだ。
「私はねえ、特異な才能を持っているの、その人を見ると、その曲が頭に浮かぶのよ、今、演奏してみましょうか?」
「え?」
郁子が、何か言うまえに、演奏は始まっていた。妙なる音が、百合絵の口からほとばしり出たのである。しかし、それは唄ではなく、口笛だった。
――――きれい!
郁子の感想は、バスの乗員、すべてに共通した意見だった。粗野なバスの中が、一瞬で、芸術の名高い演劇上に姿を変えた。差詰め、動く劇場である。
「わあ、すごい!すごい!伯母さん」
郁子は、子どもらしく破顔して、芸術に答えた。乗客も拍手で迎える。百合絵も良い気分で微笑を浮かべていたが、やがて、それを壊すような囁きが聞こえてきた。
「あれ、海崎百合絵じゃないか?」
「え?嘘!?そうだよ、海崎百合絵だ」
「ほら、聞こえるわよ」
彼女らしい女性が、彼を制した。
「仕方ないわねえ、次ぎの停留所で降りるわよ、お嬢ちゃん」
「え?」
バスが止まると、驚く郁子の手を摑んだ。じゃらじゃらと小銭を投げ込むと、バスを降りた。郁子は、動揺しながらも、抵抗しなかった。
「さてと、暑いわね、何処かに入ろうか ―――――」
「伯母さん、海崎百合絵 ―――さんなんですか?」
「その年で、海崎百合絵を知っているの?」
「有名な音楽の人だって、テレビで言ってた、でも」
「でも?」
百合絵は、畳み掛けて訊いてみた。
「パパが言ってた」
「なんて?」
「とんでもない女だって、音楽を生業にするなんて、どうしようもないヤツだって。あのパパが怒るの、めったにみれないのに」
「そうね、和がねえ ――――」
「やっぱり、私たちの伯母さんなの?」
「・・・・・・・・ねえ、それって、誰が言ってたの?」
「・・・・・」
「ま、入ろうか」
百合絵は、たまたま見つけたパーラーを指さした。
店内の装飾は、総じてハワイ風に彩られていた。
「私、こういう空気が好きじゃないな、どっちかというと地中海がいい」
「いらっしゃいませ、ご注文をどうぞ ――――――」
店主は、サラリーマンでの言えば、定年まじかだと思われる。顎で百合絵の感想をあしらうと、注文を受けるべくボールペンを耳から外した。
注文票に書かれていたのは、それぞれ、コーヒーフロート、チョコレートパフェである。言うまでもなく、前者が百合絵、後者が郁子である。これでもかと、生クリームとチョコレートが、東南アジア風の寺院ばりに、重ねてある。テーブルの上に、注文した品が揃うと、百合絵は話をはじめた。
「さあ、訊こうか」
「冴子姉さんがねえ ――――――――」
郁子は、それまでの経緯を話し始めた。百合絵は、目を細めて、店外を見ていた。視線の先で、赤い自転車の子どもが転ぶと、口を開いた。
「それは、全部本当のことよ、でもお金はみんな和之に返したわよ」
アイスクリームがかなり溶けてしまった。どろどろと溶けたクリーム状のものは、まるで地球温暖化だ。それでも、コーヒーを一口飲むと、また口を開いた。
「和之は私の弟なの」
「え?おばさん、20代かとおもった」
「ふふ、何も出ないわよ ―――――――ねえ」
「何?」
おそらく、何も知らないのだろう。無邪気な少女の顔をのぞき込むと、何だか哀れになった。もしかしたら、これから信じられない現実と向き合うことになるかもしれないのだ。
そのことを鑑みたとき、多少なりとも、罪悪感らしきものが、迫ってくる。それは、ちりちりと全身の毛穴に染み込んでくるのだ。
後から生まれたこの子にまったく罪はない。当然のことながら、冴子と由加里にも、まったく罪はないのだが、彼女は上から積もった罪責をすべて受け継ぐために、生まれてきたかのように思えてならないのだった。
「お願いがあるんだけど、郁子ちゃん」
「何?」
生クリームが口の端に生えている。まるで、老人のようだ。それがまったく下品でなく、そこはかとない品を保っているのが、興味深い。それは郁子が持つ生来の可憐さと無縁ではないだろう。
「伯母さんと、約束してほしいんだけど ―――――――――」
「言っている意味、わからない」
「由加里と冴子のこと、知りたいの。だから、伯母さんにこっそり、教えてほしいの」
「パパと仲直りしたいなら、直接、会えばいいじゃない。私もこんなきれいで若いおばさんができて、うれしいんだよ」
小学生らしい無邪気さで答えた。
「ことは、そんなに単純じゃないのよ」
「でも、冴子姉さんや、由加里姉さんにまで、報せてはいけないって?なんで?」
――――当然の質問だな。
百合絵はそう思ったが、それに適した返答は、なかなか見付からない。
「ねえ、郁子ちゃん、携帯持ってるの?」
「まさか、持たしてくれるわけないよ」
「ふうん、母親に愛されているんだ ―――――」
「変な言い方、伯母さんは、どうなの? ―――え? どうしたの?」
百合絵は、わざと、表情に陰を作った。
「一人娘がいたけど、事故でね ―――――」
「あ、ごめんなさい!」
郁子は既に涙ぐんでいた。
「えへへ ――――嘘!」
年甲斐もなく、舌を出した。決して、照美やはるかには見せない顔である。
「ひどい! もう、知らない!」
百合絵は、咄嗟に嘘を付いた。急に、照美のことを言われて、相手が、小学生とはいえ、とりあえず、欺瞞ぐらいせざるを得なかった。少なくともそのくらいしておかなければ、自分に対して申し訳が立たなかったのである。
「でも、伯母さんに子どもがいるなら、私たちのいとこってことになるよね」
「ああ、そうだったわね ――――とりあえず、携帯、買いに行こうか、伯母さんの登録で、新しいのを買えばいい」
「え!?」
百合絵は、支払いを済ませると、郁子の手首を摑んで、強引に店外を連れ出した。ただし、捨てぜりふを忘れなかった。
「店主、ハワイ風も悪くない ――」
―――さいですか?
そう返したわけではいが、店主は、そう言いたそうに、母娘の背中を見送った。
「由加里ぃ!!」
由加里は、まだ覚醒がしっくりいかない状態で、入室者の顔を見た。頭の中で、渦巻いている思いを言葉にしようとしたが、なかなかうまくいかない。
「さ、冴子姉・・・・・・・!!」
「もう、何も言わなくていい ――――――――」
冴子は、黙って妹の黒髪に触れた。
「ウウ・ウ・ウ・・ウ・ウウ!」
言葉は、言葉にならずに、嗚咽となるだけだ。それを恥じるように、シーツに顔を埋める由加里。そのかたわらには、春子が寄り添っている。 父親である和之は用があるのか、ここにはいない。
「・・・・・・・・・・・・・・?!」
その時、郁子は得体の知れない両生類が、頭の中を動き回るのを感じた。そのナマズのような頭を持つ、ぬらぬらとした怪物は、少女の心の襞という襞を刺激し、不安と不審の二文字をかき立てていくのだった。
由加里を轢いたという女性、そして、冴子、由加里。この三人は、あまりに、酷似している。三人を他人同士だと言うのは、火星が四角いというのと同じくらいに無理がある。冴子の話によると伯母だということだ。開院のために貯めた金を持ち逃げしたというが、そんな話しは聞いたこともない。
幼い少女を襲ったのは、圧倒的な孤独だった。この家族の中で、自分だけが仲間はずれのような気がした。自分だけに、報されていない家族の秘密があるような気がした。自分は、ここにいてはいけないような気がするのである。
異端児、まさに、この状況に相応しい言葉だった。もっとも、小学5年生の彼女に、そんな言葉は浮かんでこなかったが・・・・・・・・。
ふと、先ほどの女性のことが気になった。みんなに気づかれないように、病室を後にした。冴子と女性が立ち回りを見せた場所へと急ぐ。もう居なくなっているだろうか。時間にして、五分と経っていないはずだ。よもや、車で来ているはずがないことは、小学生の郁子にも、簡単に推察できた。
―――バス停ね。
ロビーは、ガラス張りになっているために、外の様子がありありとわかる。バス停も見える。
――――いたわ!
少女は、今、バスに乗り込もうとしている百合絵を見つけた。
―――急がないと!
郁子は、バスまで駆けた。由加里と違って、運動は得意なのだ。今からならば、間に合わないということはない。バスが発車しようというその時、走り寄ってくる少女に気づいたのか、運転手は急ブレーキをかけた。
バスは、それ自体に、固有の意識があるかのように、扉を開いた。心の中で、「ありがとう」と言うと、飛び乗った。「あぶないから、急ぐなよ」バスが答えたような気がした。
一生懸命に走ってきたために、肩で息をする。辺りを見回す。一番後ろの席。
―――あ、いた!
その時、郁子と百合絵は目があった。
この時、少女は自分が、数ある鍵穴のひとつに、鍵を差し込んだことに気づかなかった。しかし、確かに、あるひとつの答えにむけた、少女を含めた一団の人間が、新たなる歩みを迎えたことは、決定的な事実なのである。
「・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・」
ふたりは、揺れるバスの中、互いに向き合った。視線は、互いを逃すまいとしている。
「お嬢ちゃん、座らないと危ないよ」
「え?はい ―――」
そんな緊張状態を和らげたのは、一人の老婆だった。
「私は西宮郁子です。おばさんは、私たちの伯母さんですか?」
郁子は老婆に会釈すると、百合絵の隣に座った。そして、自分の母親くらいの年の大人に対して、位負けすることなく、自己紹介をした。
「・・・?まあ、いいわ。今、ねえ、あなたの曲ができたところなんだけど」
「え?」
咄嗟に、その言葉の意味が理解できなかった。一体、この人は何を言ってるのだろう。
目の前の女性は、母親よりも10歳くらい若く見えた。しかし、それでも、十二分に大人であることに違いはない。郁子にとって見れば。煙突の頂上を見ることに等しいのだ。
「私はねえ、特異な才能を持っているの、その人を見ると、その曲が頭に浮かぶのよ、今、演奏してみましょうか?」
「え?」
郁子が、何か言うまえに、演奏は始まっていた。妙なる音が、百合絵の口からほとばしり出たのである。しかし、それは唄ではなく、口笛だった。
――――きれい!
郁子の感想は、バスの乗員、すべてに共通した意見だった。粗野なバスの中が、一瞬で、芸術の名高い演劇上に姿を変えた。差詰め、動く劇場である。
「わあ、すごい!すごい!伯母さん」
郁子は、子どもらしく破顔して、芸術に答えた。乗客も拍手で迎える。百合絵も良い気分で微笑を浮かべていたが、やがて、それを壊すような囁きが聞こえてきた。
「あれ、海崎百合絵じゃないか?」
「え?嘘!?そうだよ、海崎百合絵だ」
「ほら、聞こえるわよ」
彼女らしい女性が、彼を制した。
「仕方ないわねえ、次ぎの停留所で降りるわよ、お嬢ちゃん」
「え?」
バスが止まると、驚く郁子の手を摑んだ。じゃらじゃらと小銭を投げ込むと、バスを降りた。郁子は、動揺しながらも、抵抗しなかった。
「さてと、暑いわね、何処かに入ろうか ―――――」
「伯母さん、海崎百合絵 ―――さんなんですか?」
「その年で、海崎百合絵を知っているの?」
「有名な音楽の人だって、テレビで言ってた、でも」
「でも?」
百合絵は、畳み掛けて訊いてみた。
「パパが言ってた」
「なんて?」
「とんでもない女だって、音楽を生業にするなんて、どうしようもないヤツだって。あのパパが怒るの、めったにみれないのに」
「そうね、和がねえ ――――」
「やっぱり、私たちの伯母さんなの?」
「・・・・・・・・ねえ、それって、誰が言ってたの?」
「・・・・・」
「ま、入ろうか」
百合絵は、たまたま見つけたパーラーを指さした。
店内の装飾は、総じてハワイ風に彩られていた。
「私、こういう空気が好きじゃないな、どっちかというと地中海がいい」
「いらっしゃいませ、ご注文をどうぞ ――――――」
店主は、サラリーマンでの言えば、定年まじかだと思われる。顎で百合絵の感想をあしらうと、注文を受けるべくボールペンを耳から外した。
注文票に書かれていたのは、それぞれ、コーヒーフロート、チョコレートパフェである。言うまでもなく、前者が百合絵、後者が郁子である。これでもかと、生クリームとチョコレートが、東南アジア風の寺院ばりに、重ねてある。テーブルの上に、注文した品が揃うと、百合絵は話をはじめた。
「さあ、訊こうか」
「冴子姉さんがねえ ――――――――」
郁子は、それまでの経緯を話し始めた。百合絵は、目を細めて、店外を見ていた。視線の先で、赤い自転車の子どもが転ぶと、口を開いた。
「それは、全部本当のことよ、でもお金はみんな和之に返したわよ」
アイスクリームがかなり溶けてしまった。どろどろと溶けたクリーム状のものは、まるで地球温暖化だ。それでも、コーヒーを一口飲むと、また口を開いた。
「和之は私の弟なの」
「え?おばさん、20代かとおもった」
「ふふ、何も出ないわよ ―――――――ねえ」
「何?」
おそらく、何も知らないのだろう。無邪気な少女の顔をのぞき込むと、何だか哀れになった。もしかしたら、これから信じられない現実と向き合うことになるかもしれないのだ。
そのことを鑑みたとき、多少なりとも、罪悪感らしきものが、迫ってくる。それは、ちりちりと全身の毛穴に染み込んでくるのだ。
後から生まれたこの子にまったく罪はない。当然のことながら、冴子と由加里にも、まったく罪はないのだが、彼女は上から積もった罪責をすべて受け継ぐために、生まれてきたかのように思えてならないのだった。
「お願いがあるんだけど、郁子ちゃん」
「何?」
生クリームが口の端に生えている。まるで、老人のようだ。それがまったく下品でなく、そこはかとない品を保っているのが、興味深い。それは郁子が持つ生来の可憐さと無縁ではないだろう。
「伯母さんと、約束してほしいんだけど ―――――――――」
「言っている意味、わからない」
「由加里と冴子のこと、知りたいの。だから、伯母さんにこっそり、教えてほしいの」
「パパと仲直りしたいなら、直接、会えばいいじゃない。私もこんなきれいで若いおばさんができて、うれしいんだよ」
小学生らしい無邪気さで答えた。
「ことは、そんなに単純じゃないのよ」
「でも、冴子姉さんや、由加里姉さんにまで、報せてはいけないって?なんで?」
――――当然の質問だな。
百合絵はそう思ったが、それに適した返答は、なかなか見付からない。
「ねえ、郁子ちゃん、携帯持ってるの?」
「まさか、持たしてくれるわけないよ」
「ふうん、母親に愛されているんだ ―――――」
「変な言い方、伯母さんは、どうなの? ―――え? どうしたの?」
百合絵は、わざと、表情に陰を作った。
「一人娘がいたけど、事故でね ―――――」
「あ、ごめんなさい!」
郁子は既に涙ぐんでいた。
「えへへ ――――嘘!」
年甲斐もなく、舌を出した。決して、照美やはるかには見せない顔である。
「ひどい! もう、知らない!」
百合絵は、咄嗟に嘘を付いた。急に、照美のことを言われて、相手が、小学生とはいえ、とりあえず、欺瞞ぐらいせざるを得なかった。少なくともそのくらいしておかなければ、自分に対して申し訳が立たなかったのである。
「でも、伯母さんに子どもがいるなら、私たちのいとこってことになるよね」
「ああ、そうだったわね ――――とりあえず、携帯、買いに行こうか、伯母さんの登録で、新しいのを買えばいい」
「え!?」
百合絵は、支払いを済ませると、郁子の手首を摑んで、強引に店外を連れ出した。ただし、捨てぜりふを忘れなかった。
「店主、ハワイ風も悪くない ――」
―――さいですか?
そう返したわけではいが、店主は、そう言いたそうに、母娘の背中を見送った。
榊あおいが、その運命の時間を迎えたのは、数ヶ月前のことである。
今は、ちょうど冬休みの最中である。最近では、珍しく、首都圏の街々も白化粧を施すことになった。榊家も久しぶりに、甘そうな雪で味付けされることになった。このころのあおいにとって、雪は、冷たさの象徴ではない。先進国の恵まれた環境に産まれ、愛されて育ちつつある少女にとって、完全な防寒具を備わっての雪は、甘い砂糖菓子と変わりはなかった。
しかし、この年の冬、榊家では、ひとつの事件が起こっていた。
「えー?真美伯母さん、入院しちゃったの?」
榊あおいが、まず、黄色い声を上げた。
「そうよ」
「で、どんな様子なの?」
榊家の長女である徳子。四人姉妹の中で、一番冷静なのは、さすがに、この長女のようだ。それぞれ、次女と四女である有希江と茉莉も心配そうに母の口から出る言葉を見守っている。
四姉妹にとって、真美は二人目の母親に等しいのだ。仕事と家事の両立を願った久子であったが、娘が四人もいては、一人ではままならなかった。
そんな時、久子の妹である真美は力強い援助者となった。それは普通の家族以上の働きと言って良かった。真美は、久子に負けずに容姿端麗で、才色兼備だったが、小さいころから引きこもりがちで、他人とあまり付き合わなかった。しかし、姉の娘たちと出会うことで、その性格が一変した。いわば、双方にとって救世主だったのである。
久子の職業は、弁護士である。女性ながらに、かなりのやり手であると、業界には知られた存在だ。
とある大企業の顧問弁護士の一人となって、相当の高給を頂いている。そう、彼女にとって弁護活動は人助けではなくて事業なのだ。間違っても弱気を助け、強気をくじくと言ったタイプではない。確かに、弁護士として、そういう価値観も存在することは認めるし、尊敬もしている。しかしながら、少なくとも、自分はそういうタイプではない。見ず知らずの社会的弱者ならば、自分の家族の方が万倍も大切だ。それが彼女一流の割り切り方である。
「ねえ!ねえ!ママ!どんな様子なの!ねえ!!」
「あおいったら、うるさいわね、静かにしなさいよ、恵子伯母さんが心配なのはみんな同じなのよ、あんたが一人で四人分心配するから、私たちが入る隙間がないじゃない!」
いちいち、斟酌しながら、話すのは、この娘の癖である。その度にいちいち、目をつぶるので、相手をしている人間が疲れる。なれているはずの家族たちでさえ、気になるほどだ。
多少、やぶにらみがちな、目つきを向けるのは、榊家の次女、由希江である。
徳子は今更ながらという顔をしている。四女である茉莉は、そのおとなしさと控えめな性格を主張するように、ただ、ひとりで泣いている。
一家が明るいとき、暗いとき、いつも中心になって、それを代弁するのは、あおいの役割である。この家の、ライトメーカーであると同時に、トラブルメーカーでもあるのだ。
「とにかく、お見舞いに行こう!」
「とにかく、それだけはだめ、絶対に安静なの!」
久子は頑として譲らない。
「なんでよ! 家族でもだめなの?」
「そう!」
「いい加減にしなさいよ! あおい!」
徳子が言う。さすがに、この長女の言には、説得力がある。あおいは、押し黙ってしまった。
「とにかく、家でおとなしくしてなさい!それが、おばさんのためなのよ」
「徳子!今日、一日あの子を見ていてね、押しかける可能性があるから ――――」
「いやよ!一日中、妹の世話を押し付けられるなんて、こっちだってやることが山とあるんだから」
「そうね、家政婦の一人でもほしいものだわ ―――――――」
久子が言ったとたんに、あおいが口を開いた。その一言が、想像を絶する不幸を呼び寄せるとも知らないで ――――――――。
「いい、アイデアがあおいにあるよ」
「ほら、自分のことを名前で呼ばない、もうねんねじゃないんだから」
「あおいは、いつまで経ってもねんねだもんね」
由希江が悪意を隠さずに言った。それを無視して、あおいは続ける。
「四人の中で、一人が家政婦になるの
「何よ、それ?」
「よく、わからないな」
一様に、不安と不満を織り交ぜた表情をする四人。
「それはどうやって決めるの? 当然、四人でじゃんけんするの?」
「それで、間違ってさ、加えて、よりによってさ ――――――」
「何よ、その持って回った言い方?いやらしいな」
「あんたに決まったらどうするつもりなの?ママの足を引っ張るだけじゃない?」
「もしかしたらたら、腕もひっぱるかも?」
「徳子姉さん!」
「それ、当たってると思う、悪夢よ、榊家の黄昏は近いというもの ――――。それで、どうして、あおいちゃんは、家政婦ごっこなんかしたくなったの、もしかして、この前、テレビで『家政婦は見た』見たからっていうんじゃないでしょうね!?」
徳子は、自分で出した質問に、自分で答えた。
「あおいは、困ってらっしゃるお母さまを、お助けしたくて、申し上げられて ――――え?っと?」
「できもしないくせに、敬語を無理に使わなくてもよろしい」
由希江が、つっぱねるように言う。
「もう、いい、あんたやれ!」
「由希江!?」
徳子は、不安を隠さなかった。思わず、頭を抱える。しかし、思いもよらない久子の言葉を聴くと、二の句が次げなくなった。
「いいじゃない、あおいにやってもらえば ――――」
「やた ―――――!」
「ねえ、あんた真美伯母さんが入院したの、嬉しいの?」
「そうじゃないよ、伯母さんとか、みんなのために役立てるのが嬉しいの!」
無邪気に笑うあおい。
「あんたは無邪気ね ―――――」
徳子は、テーブルに肘をつきながら、言う。
「で、どんな風に、家政婦やってくれるわけ?」
榊家の長女の顔には、全く期待していないと書いてある。口の端に、たまたま落ちていた野菜の屑を噛んでいる。そんな態度に、あおいは不満を隠さなかった。
「徳子姉さん!何よ、その態度!折角あおいがはりきろうって言っているのに」
「そんなこと、あんたに頼んでないよ」
有希江が言った。
「でも、あおい姉さんが、せっかく、言ってくれているんだから ―――」
茉莉がようやく、口を挟むことができた。
「茉莉! 私たち、この子との付き合いにかけては、一日の長があるのよ」
「?」
「あの事件、あの事件、すべて、この家のトラブルの中心には、この子がいるの!」
「大丈夫だって! あおいは、もうネンネじゃないって!」
「不安だなあ ――――――――」
「ま、いいか、で、何をしてくれるの? うちの新しい家政婦さんは!?」
「徳子姉さん!?」
「もう、やぶれかぶれよ、有希江」
「・・・・・・・・・・」
「だから、家政婦をやるのよ、順々でね、でも、あおいが言い出しっぺだから、まず最初にやる!」
「それは正論ね」
「セイロンって? 何処?」
「よく、あんた、それで、お受験をとおったな」
「有希江!」
その時、かすかに茉莉が顔色を変えたのを、徳子は見逃さなかった。実は姉妹の中で、唯一、彼女だけ公立の小学校なのである。その原因は言うまでもない。
「それで、普段よりも余計にお手伝いをしてくれるってことでしょう? 早い話」
「それじゃ、おもしろくないな、どうせなら本格的にやろうよ、有希江、服とかちゃんと用意してさ」
「服って?」
この時、何か話しが変な方向に行っていることに、この時気づかなかった。しかし ―――
「家政婦って家族じゃないよね」
さすがにその言葉を聞いたとき、あおいの顔色が変わった。
「何?!」
「何、血相変えているのよ、単なるゲームでしょう? それもたったの一週間」
有希江が笑った。
「だって、余計にお手伝いをするってことでしょう!?」
自分で言い出しておいて、あおいは、事態を収拾できなくなりつつあった。
―――― 一体、家族じゃないって、どういうこと?
「家政婦の制服は、すぐに用意できるよ、あおいのサイズはわかってるし、バースディプレゼントで、前に服を作ったことがあるでしょう」
「うん、わかった、ありがとう・・・・・・・・・・・」
家族の空気が、自分の予期しない方向に向かっていることは、あおいにもわかっていた。しかし、わかっていながら、あたかも蜘蛛の巣に絡み撮られた蝶のように、身動きとれなくなっていた。
さて、その日から一週間、榊家の家政婦になったあおいは、いろいろと用事を押しつけられることになった。たまたま、日曜日だったために、父親をはじめ、家族はみんな揃っていた。最初は、笑顔で、それらを受けていたものの、やがて、不満そうな顔をあからさまに、仕事をこなすようになった。そして、昼食後に、部屋の掃除を徳子から命じられたときに、ストレスは爆発した。
「もーいや! やめよ! こんなこと!」
「何を、バカなことを言っているのよ、自分で言い始めたことしょ!最後までやり通しなさい」
久子はまったく、意に介さずに言った。
「いやだ! いやだ! いやだ!」
あおいは、いつものように、じたんだを踏んだ。
「そう、もうあなたみたいな子は、いりません、何処へでも行ってしまいなさい! 」
「え?!」
久子は、あおいの華奢な手首を一摑みすると、小雪の降る庭に放り出したのである。それには、その場にいた三人も目を丸くした。「ママは、あおいには甘いんだから!」いつも、徳子と有希江に、言われる久子である。
彼女は特別なんだと、一家、全員が思っていた。いや、実際は、約一名だけは、それを知らなかった。いうまもなく、あおい本人である。しかし、今や、何かが、あおいの周りで変わりつつあった。しかし、あおいを含めたほぼ、全員がそのことに気づいていなかった。
「ママぁ?!」
昨晩は大雪が降った。
それは、見事、庭を雪原に変えていた。真っ白な平野が、ちょうど、少女のかたちにくり抜かれた。服を通しても、全身に突き刺さる雪の結晶に、あおいは身震いした。それは寒さだけのせいではなかったであろう。
立ち上がって、部屋に戻ろうとした瞬間、開き窓が、酷薄な音を立てて、閉まった。ガラス越しに、見たこともない久子の冷たい顔があった。
「ママぁ! ごめんさい! 言うこときくから、入れて! オネガイ!!」
あおいは、声を上げて泣きながら、窓を叩く。その時、再びドアが開いた。久子の顔は、もっと雪よりももっと冷たくなっていた。
「あなたは、誰です?」
「ママぁ!ごめんさ――」
「だったら、どうすればいいの?」
「ママの言うとおりにすれば―――――」
次の瞬間、三人を驚かせたのは、久子が続けた言葉だった。
「ママじゃないでしょう!? あなたは、この家の家政婦なのよ、だから奥様と呼びなさい」
「え・・・・?!」
二の句がつげないとは、まさにこの場面のことを言うのだろう。あおいは、驚くことすらなかった。実際に、久子の声が聞こえなかったのである。それを心身的難聴というのだろうか?その内容があまりに衝撃的なために、耳が受け付けなかったのかもしれない。
「聞こえなかったの?私のことは、奥様と呼びなさい」
「オクサマ?」
それは冗談にしか聞こえなかったが、その表情は真剣そのものだった。
「ほら、部屋が濡れるでしょう?!玄関に回りなさい!それから、スリッパは、穿かないで裸足で玄関に回りなさい、濡れるでしょう」
「ウウウ・ウ・・ウ・ウ・ウ・ウ・!」
あおいは泣きながら、しんみりと歩き出した。濡れながら、歩く雪は、痛むほど冷たい。
「あんまり、みんなをからかうからだよ、ほら、靴を持ってきてあげるから ―――――」
有希江が、珍しく仏心をだして、靴を持ってこようと、立ったときだ。久子が言った。
「甘やかさないの、有希江。家政婦なら裸足で十分、これまでが甘かったのよ、どれだけみんなが迷惑しているか、もう、あなたのこと、どう思っているか、その冷たさを裸足で実感しなさい!」
あおいは、皺だらけの老婆のような顔で、母親の言葉を受け取った。玄関までの道のりは、数キロにも感じた。雪の結晶、結晶は、それこそ、鉄の針となって、少女の足に突き刺さった。生まれてはじめて、雪というものが、仄かな美しい、あるいは、可愛らしいものではなく、冷たいものであると実感した冬だった。
今は、ちょうど冬休みの最中である。最近では、珍しく、首都圏の街々も白化粧を施すことになった。榊家も久しぶりに、甘そうな雪で味付けされることになった。このころのあおいにとって、雪は、冷たさの象徴ではない。先進国の恵まれた環境に産まれ、愛されて育ちつつある少女にとって、完全な防寒具を備わっての雪は、甘い砂糖菓子と変わりはなかった。
しかし、この年の冬、榊家では、ひとつの事件が起こっていた。
「えー?真美伯母さん、入院しちゃったの?」
榊あおいが、まず、黄色い声を上げた。
「そうよ」
「で、どんな様子なの?」
榊家の長女である徳子。四人姉妹の中で、一番冷静なのは、さすがに、この長女のようだ。それぞれ、次女と四女である有希江と茉莉も心配そうに母の口から出る言葉を見守っている。
四姉妹にとって、真美は二人目の母親に等しいのだ。仕事と家事の両立を願った久子であったが、娘が四人もいては、一人ではままならなかった。
そんな時、久子の妹である真美は力強い援助者となった。それは普通の家族以上の働きと言って良かった。真美は、久子に負けずに容姿端麗で、才色兼備だったが、小さいころから引きこもりがちで、他人とあまり付き合わなかった。しかし、姉の娘たちと出会うことで、その性格が一変した。いわば、双方にとって救世主だったのである。
久子の職業は、弁護士である。女性ながらに、かなりのやり手であると、業界には知られた存在だ。
とある大企業の顧問弁護士の一人となって、相当の高給を頂いている。そう、彼女にとって弁護活動は人助けではなくて事業なのだ。間違っても弱気を助け、強気をくじくと言ったタイプではない。確かに、弁護士として、そういう価値観も存在することは認めるし、尊敬もしている。しかしながら、少なくとも、自分はそういうタイプではない。見ず知らずの社会的弱者ならば、自分の家族の方が万倍も大切だ。それが彼女一流の割り切り方である。
「ねえ!ねえ!ママ!どんな様子なの!ねえ!!」
「あおいったら、うるさいわね、静かにしなさいよ、恵子伯母さんが心配なのはみんな同じなのよ、あんたが一人で四人分心配するから、私たちが入る隙間がないじゃない!」
いちいち、斟酌しながら、話すのは、この娘の癖である。その度にいちいち、目をつぶるので、相手をしている人間が疲れる。なれているはずの家族たちでさえ、気になるほどだ。
多少、やぶにらみがちな、目つきを向けるのは、榊家の次女、由希江である。
徳子は今更ながらという顔をしている。四女である茉莉は、そのおとなしさと控えめな性格を主張するように、ただ、ひとりで泣いている。
一家が明るいとき、暗いとき、いつも中心になって、それを代弁するのは、あおいの役割である。この家の、ライトメーカーであると同時に、トラブルメーカーでもあるのだ。
「とにかく、お見舞いに行こう!」
「とにかく、それだけはだめ、絶対に安静なの!」
久子は頑として譲らない。
「なんでよ! 家族でもだめなの?」
「そう!」
「いい加減にしなさいよ! あおい!」
徳子が言う。さすがに、この長女の言には、説得力がある。あおいは、押し黙ってしまった。
「とにかく、家でおとなしくしてなさい!それが、おばさんのためなのよ」
「徳子!今日、一日あの子を見ていてね、押しかける可能性があるから ――――」
「いやよ!一日中、妹の世話を押し付けられるなんて、こっちだってやることが山とあるんだから」
「そうね、家政婦の一人でもほしいものだわ ―――――――」
久子が言ったとたんに、あおいが口を開いた。その一言が、想像を絶する不幸を呼び寄せるとも知らないで ――――――――。
「いい、アイデアがあおいにあるよ」
「ほら、自分のことを名前で呼ばない、もうねんねじゃないんだから」
「あおいは、いつまで経ってもねんねだもんね」
由希江が悪意を隠さずに言った。それを無視して、あおいは続ける。
「四人の中で、一人が家政婦になるの
「何よ、それ?」
「よく、わからないな」
一様に、不安と不満を織り交ぜた表情をする四人。
「それはどうやって決めるの? 当然、四人でじゃんけんするの?」
「それで、間違ってさ、加えて、よりによってさ ――――――」
「何よ、その持って回った言い方?いやらしいな」
「あんたに決まったらどうするつもりなの?ママの足を引っ張るだけじゃない?」
「もしかしたらたら、腕もひっぱるかも?」
「徳子姉さん!」
「それ、当たってると思う、悪夢よ、榊家の黄昏は近いというもの ――――。それで、どうして、あおいちゃんは、家政婦ごっこなんかしたくなったの、もしかして、この前、テレビで『家政婦は見た』見たからっていうんじゃないでしょうね!?」
徳子は、自分で出した質問に、自分で答えた。
「あおいは、困ってらっしゃるお母さまを、お助けしたくて、申し上げられて ――――え?っと?」
「できもしないくせに、敬語を無理に使わなくてもよろしい」
由希江が、つっぱねるように言う。
「もう、いい、あんたやれ!」
「由希江!?」
徳子は、不安を隠さなかった。思わず、頭を抱える。しかし、思いもよらない久子の言葉を聴くと、二の句が次げなくなった。
「いいじゃない、あおいにやってもらえば ――――」
「やた ―――――!」
「ねえ、あんた真美伯母さんが入院したの、嬉しいの?」
「そうじゃないよ、伯母さんとか、みんなのために役立てるのが嬉しいの!」
無邪気に笑うあおい。
「あんたは無邪気ね ―――――」
徳子は、テーブルに肘をつきながら、言う。
「で、どんな風に、家政婦やってくれるわけ?」
榊家の長女の顔には、全く期待していないと書いてある。口の端に、たまたま落ちていた野菜の屑を噛んでいる。そんな態度に、あおいは不満を隠さなかった。
「徳子姉さん!何よ、その態度!折角あおいがはりきろうって言っているのに」
「そんなこと、あんたに頼んでないよ」
有希江が言った。
「でも、あおい姉さんが、せっかく、言ってくれているんだから ―――」
茉莉がようやく、口を挟むことができた。
「茉莉! 私たち、この子との付き合いにかけては、一日の長があるのよ」
「?」
「あの事件、あの事件、すべて、この家のトラブルの中心には、この子がいるの!」
「大丈夫だって! あおいは、もうネンネじゃないって!」
「不安だなあ ――――――――」
「ま、いいか、で、何をしてくれるの? うちの新しい家政婦さんは!?」
「徳子姉さん!?」
「もう、やぶれかぶれよ、有希江」
「・・・・・・・・・・」
「だから、家政婦をやるのよ、順々でね、でも、あおいが言い出しっぺだから、まず最初にやる!」
「それは正論ね」
「セイロンって? 何処?」
「よく、あんた、それで、お受験をとおったな」
「有希江!」
その時、かすかに茉莉が顔色を変えたのを、徳子は見逃さなかった。実は姉妹の中で、唯一、彼女だけ公立の小学校なのである。その原因は言うまでもない。
「それで、普段よりも余計にお手伝いをしてくれるってことでしょう? 早い話」
「それじゃ、おもしろくないな、どうせなら本格的にやろうよ、有希江、服とかちゃんと用意してさ」
「服って?」
この時、何か話しが変な方向に行っていることに、この時気づかなかった。しかし ―――
「家政婦って家族じゃないよね」
さすがにその言葉を聞いたとき、あおいの顔色が変わった。
「何?!」
「何、血相変えているのよ、単なるゲームでしょう? それもたったの一週間」
有希江が笑った。
「だって、余計にお手伝いをするってことでしょう!?」
自分で言い出しておいて、あおいは、事態を収拾できなくなりつつあった。
―――― 一体、家族じゃないって、どういうこと?
「家政婦の制服は、すぐに用意できるよ、あおいのサイズはわかってるし、バースディプレゼントで、前に服を作ったことがあるでしょう」
「うん、わかった、ありがとう・・・・・・・・・・・」
家族の空気が、自分の予期しない方向に向かっていることは、あおいにもわかっていた。しかし、わかっていながら、あたかも蜘蛛の巣に絡み撮られた蝶のように、身動きとれなくなっていた。
さて、その日から一週間、榊家の家政婦になったあおいは、いろいろと用事を押しつけられることになった。たまたま、日曜日だったために、父親をはじめ、家族はみんな揃っていた。最初は、笑顔で、それらを受けていたものの、やがて、不満そうな顔をあからさまに、仕事をこなすようになった。そして、昼食後に、部屋の掃除を徳子から命じられたときに、ストレスは爆発した。
「もーいや! やめよ! こんなこと!」
「何を、バカなことを言っているのよ、自分で言い始めたことしょ!最後までやり通しなさい」
久子はまったく、意に介さずに言った。
「いやだ! いやだ! いやだ!」
あおいは、いつものように、じたんだを踏んだ。
「そう、もうあなたみたいな子は、いりません、何処へでも行ってしまいなさい! 」
「え?!」
久子は、あおいの華奢な手首を一摑みすると、小雪の降る庭に放り出したのである。それには、その場にいた三人も目を丸くした。「ママは、あおいには甘いんだから!」いつも、徳子と有希江に、言われる久子である。
彼女は特別なんだと、一家、全員が思っていた。いや、実際は、約一名だけは、それを知らなかった。いうまもなく、あおい本人である。しかし、今や、何かが、あおいの周りで変わりつつあった。しかし、あおいを含めたほぼ、全員がそのことに気づいていなかった。
「ママぁ?!」
昨晩は大雪が降った。
それは、見事、庭を雪原に変えていた。真っ白な平野が、ちょうど、少女のかたちにくり抜かれた。服を通しても、全身に突き刺さる雪の結晶に、あおいは身震いした。それは寒さだけのせいではなかったであろう。
立ち上がって、部屋に戻ろうとした瞬間、開き窓が、酷薄な音を立てて、閉まった。ガラス越しに、見たこともない久子の冷たい顔があった。
「ママぁ! ごめんさい! 言うこときくから、入れて! オネガイ!!」
あおいは、声を上げて泣きながら、窓を叩く。その時、再びドアが開いた。久子の顔は、もっと雪よりももっと冷たくなっていた。
「あなたは、誰です?」
「ママぁ!ごめんさ――」
「だったら、どうすればいいの?」
「ママの言うとおりにすれば―――――」
次の瞬間、三人を驚かせたのは、久子が続けた言葉だった。
「ママじゃないでしょう!? あなたは、この家の家政婦なのよ、だから奥様と呼びなさい」
「え・・・・?!」
二の句がつげないとは、まさにこの場面のことを言うのだろう。あおいは、驚くことすらなかった。実際に、久子の声が聞こえなかったのである。それを心身的難聴というのだろうか?その内容があまりに衝撃的なために、耳が受け付けなかったのかもしれない。
「聞こえなかったの?私のことは、奥様と呼びなさい」
「オクサマ?」
それは冗談にしか聞こえなかったが、その表情は真剣そのものだった。
「ほら、部屋が濡れるでしょう?!玄関に回りなさい!それから、スリッパは、穿かないで裸足で玄関に回りなさい、濡れるでしょう」
「ウウウ・ウ・・ウ・ウ・ウ・ウ・!」
あおいは泣きながら、しんみりと歩き出した。濡れながら、歩く雪は、痛むほど冷たい。
「あんまり、みんなをからかうからだよ、ほら、靴を持ってきてあげるから ―――――」
有希江が、珍しく仏心をだして、靴を持ってこようと、立ったときだ。久子が言った。
「甘やかさないの、有希江。家政婦なら裸足で十分、これまでが甘かったのよ、どれだけみんなが迷惑しているか、もう、あなたのこと、どう思っているか、その冷たさを裸足で実感しなさい!」
あおいは、皺だらけの老婆のような顔で、母親の言葉を受け取った。玄関までの道のりは、数キロにも感じた。雪の結晶、結晶は、それこそ、鉄の針となって、少女の足に突き刺さった。生まれてはじめて、雪というものが、仄かな美しい、あるいは、可愛らしいものではなく、冷たいものであると実感した冬だった。
由加里の目に飛び込んできたのは、赤い車だった。その車体は、妖しく煌めいてきた。まるで、魔女然として、やってきた。
――――あれにぶつかれば、死ねる。
少女は、涙にまみれながら、身を投げた。
衝撃。
強烈な、衝撃だった。身体が、何処かに持って行かれるような気がした。見えざる巨大な手に、摑まれて、躰をもがれるかと思った。しかし、既に、いじめっ子たちの身の毛のよだつ行為によって、身も心も、十二分に、切り裂かれているのだ。それが、実際に肉体に起こっても、おかしくはなかった。
―――もうどうでもして!
それは、幼稚園児に、放尿シーンを見られて、笑われたときに、思ったことだった。しかも、それが嘲笑ではなく、本当に、同情からの笑いであることを知って、由加里は、本当にショックだった。完全に打ちのめされた。人間としての生は終わったとさえ、思った。
由加里は、完全に崩壊してしまったのである。心が死ねば、人間は死んだも同然である。肉体が死んで何が悪い。
しかし、次の瞬間、少女の中で自尊心がその息吹を失っていないことが証明された。愛おしい家族の顔が見えた。
―――ママ、パパ、冴姉さん、郁子!
由加里の華奢な身体は、時空を歪ませた。猛烈な爆裂音とももに、少女は肢体を飛ばされる。その時、彼女の脳裏には、愛する者たちの映像が転がり込んできた。そのとき、由加里は、まだ破壊されていないことを自覚させられた。
―――海崎さん、鋳崎さん?
同時に由加里を、精神的、肉体的、あるいは性的にいじめ苛んできたふたりが見えたのはどういうことだろう?
由加里は、再び、襲ってきた失意の中、改めて、死んでしまうのだと思った。
―――これが、死っていうこと? 私、消えるの?
その時、由加里の耳をつんざくような声が飛び込んできた。
「――――あなた! しっかりしなさい!え?!ゆ、由加里?!由加里!由加里ぃ!!」
「え?!ママ!!ち、違う!この声!」
消えゆく意識の中で、由加里は誰か知らない女性の声に、抱かれていた。しかし、それからは、とても懐かしい匂いがした。その声は、何処かで聞いたことがあった。その肌触りは、記憶に残っていた。そう、由加里の肌に記憶として、その欠片が縫い込まれていた。
――――あはははは、由加里ですよ、あなたの名前は西宮由加里ですよ、私、西宮百合絵の娘、由加里ですよ!
その記憶は黄金に彩られて、柔らかな温かみに包まれていた。
――――ほーら、ごはんの時間ですよ
由加里の口の中に、赤い突起物が優しく、入り込む。中からは、得も言われぬ美味な液体が零れてくる。それは、生命の輝きに満ちていた。惑星の輝きでなく、それ自体が輝く、恒星の輝きを有していた。
――――由加里!お姉ちゃんですよ!由加里、こっち、向いて!
由加里をあやすのは冴子だった。まだランドセルを背負ったばかりの、ほんの少女のころだ。
輝く記憶の中で、冴子姉は、ただ優しく温かだった。しかし、それも一瞬で闇の中に埋もれてしまう。
――――え?誰?
由加里の目の前に、見たこともない人物がいる。
―――さ、冴子姉さん!ち、違う!?
姉にしては、年齢が違う。何よりも、その目つきが違うのだ。ほぼ、本能的に、少女は口から言葉を出していた。
―――オカアサン!え?一体、今、私は何を!?
「あ、あなたは誰?」
「由加里!」
少女をファーストネームで呼ぶのは、もはや家族しかいない。友達がひとりもいなくなった今、学校では、由加里は「西宮さん」にすぎないのだ。
便宜上つけられる敬称は、このさい、少女に対する冷たい卑称に過ぎなかった。それは、テニス部の後輩たちが、未だに、由加里のことを「先輩」と呼ぶのに似ていた。それは、高田が意識して、そう呼ぶように命じていたようだが、その効果を知っていたのだろう。
―――――ああ、そんなこと考えたくない!学校のことなんか、全部忘れたい!どうで、死ぬときくらい、楽しかったことだけ思い出させてよ!え?全く出てこない。思い出せない。私にとって、産まれてから中一までの記憶は全部、嘘だっていうの?いじめられ、さんざん辱められた数ヶ月が、私のホント姿だっていうの!?そんなのイヤよ!辛い!いやよ!いや!
その時、両目を強烈な光が襲った。太陽を幾つも合わせたような光が、由加里の眼球を焼き尽くす!
――――ヒ!
「ええええ??」
「由加里!よかった!目が覚めた!」
「 ――――――――ママ!」
由加里は、あたかも、今の今、時間が始まったかのような目つきをした。眉を顰めて、前にあるものを睨みつける。信じられなかった。それが母親であることが、いや、自分の知覚能力を疑っていたのだ。しかし、次の瞬間、強ばった指と腕に、精一杯、アドレナリンを流すと、力一杯、その温かい存在を抱きしめた。音が全く聞こえない。時間が止まったように思える。しかし、その存在は、ぷるぷると震えていた。
由加里には、それが言語に聞こえた。彼女を半ば、愛して、半ば、責めていた。しかし、両者は、同じことを言っているのだと、はじめて知った。
「由加里姉さん!」
「由加里!」
郁子と父親も泣いていた。
ほぼ、同時刻、この病院のエントランスにて、もうひとつの再会が行われていた。
「冴子!」
「・・・・・・・・!?」
病院に滑り込んだ、冴子は、実母と奇蹟の再会を果たしたのである。それも、被害者の家族と、加害者という最悪の関係で・・・・・・・・・。
あまりに似すぎている二人は、まるで鏡を見ているような錯覚に陥った。次の瞬間、身のうちから怒りがこみ上げてくるのを感じた。目の前に鏡がないことに気づいた冴子は燃え盛る炎を必死に鎮めることに努めた。目の前の人物は、怒りの感情をぶつけてやるほどの価値もないのだ。ふと、傍らにいる少年を見て、笑みを浮かべた。早速、この憎たらしい存在を攻撃する口実を得たと思ったのである。
「あーら? 愛人を伴ってこんなところに、なんの御用でしょうか?芸能週刊誌がほおっておかないでしょうね!?今から、連絡さしあげてもよろしいのですよ?」
冴子はわざとシナを作って言った。
「冴子、あなたとやりあっている暇ない、由加里は!?あの子の具合が聞きたい」
その一言に、冴子は完全に切れた。もはや、体裁を取り繕っている余裕はない。今から飛びかからんばかりの勢いで、まくし立てた。
「―――――――よ、よくも!あなたに、あの子のことを、そんな風に呼ぶ権利はないわ!」
怒りに打ち震える冴子の顔は、真っ白だった。
「どんな顔を下げて、私たちの前にいられるの? 本当に厚顔無恥って、あなたのことを言うんだわ!」
少年は、ただ震えていた。目の前の現実に、なすすべは、まったくなかった。
「だから、そういう意味において、あなたに謝るつもりはないって言っているのよ、由加里にもね ――。ただ、私は、この事故の加害者なの。だから、世の常識として、謝罪する義務があるのよ」
「か、加害者って?あなたが由加里を轢いたの!? ――――――」
信じられない事実に、この世が終わるかと思った。もはや、怒りを通り越すあまり、笑いさえ生まれそうだ。
「し、信じられない!」
「事故はどこでも起こるのよ ――――さ、これから病室に行くんでしょう?」
もはや、二の句が告げなかった。まだ若い冴子には、実母の本当の気持ちを斟酌することはできなかった。自分は、冴子と由加里の前で、母親を名乗る権利はない。それを完全に自覚しているからこそ、このような態度に出ているのである。
「こ、殺してやる!」
「あなたには何を言われてもしょうがないと思っている ――――」
ついにホンネが出た。しかし、冴子は素直に受け取ろうとしなかった。
「な、何よ、その冷静な態度は!?」
「由加里は、あなたのこと知らないのよ」
「だから、安否だけを知りたい」
「で、否だったらどうするつもり!?この人殺し!」
いかにも悔しそうに、言葉を投げかける。
その時、意外な声が聞こえた。
「冴子姉さん!何しているの?由加里姉さんが ―――――――?!」
「郁子!?」
郁子は、不思議な映像を視たような気がした。そして、それは、決して見てはいけないもののように思えた。しかし ―――――――――。
「郁子、ゆ、由加里がどうしたの!?」
「・・・・・・・・・・・・・・」
郁子は事実呆然のまま、立ち尽くすばかりだ。
「目が覚めたのね、部屋は何処?」
「397号室 ――――――」
人形のような口が自動的に、動いただけだった。事実、1パーセントも感情は含まれていなかった。
「ねえ?! 聞いたでしょう?さっさと消えてよ! もう二度と、私たちの前に現れないで! この人非人!! あなたの汚らわしい顔なんて、二度と見たくない!一体、どれだけ人を傷付けたら気が済むの!? このアクマ!!」
冴子はこの12年間、溜め続けてきた感情を一気に吐き出した。驚いたのは、郁子である。常に冷静な彼女しかしらない郁子が、いきなり、悪鬼のような姿を見せつけられたのである。それは偶像が破壊されたことを意味する。
しかし、さすがは、冴子、この時すでに、思考回路は冷静さを取り戻していた。院内を歩きながら、郁子にどう説明しようか考えていた。
――――もはや、あの顔を見たら、肉親であることを疑うことはないだろう。認めたくないけど、由加里と私にそっくりなあの人非人!
「郁子、いい? どうして、あの人が由加里に似ていると思う?」
「親戚なの?」
―――しめた!
「そうよ、あの女は、汚らわしいけど私たちの伯母さんなの?」
「伯母さんなのに、どうして、そんな言い方するの」
冴子は、待っていましたとばかり言葉を紡いだ。
「あの女はねえ、西宮医院の開院資金を持ち逃げしたドロボウ猫なの!」
「でも病院あるじゃない!?」
「それはねえ、パパの友達という友達をかけずり回って、やっと資金を得たの。大変だったんだから! もしもそれが集まらなかったら、パパの医者生命は終わっていたわね、信用はがた落ちで、もう二度と立ちあがれなかったわよ」
――――パパに口裏合わせてもらわないと。
冴子は郁子を言いくるめながら、次の手を考えていた。
郁子は、納得できないという顔で、姉を部屋に誘導するのであった。
赤い車から、颯爽と出てきた婦人。女性にしては、相当の長身だ。躰を少し折らないと、車から出られなかった。
年齢は、30を幾つも超えていないように見える。シックな感じの黒い服とタイツからは、大人の女性の官能が、そこはかとなく漂ってくる。肌の張りは、ほとんど失われていない。しかし、目や躰ぜんたいから発せられるエネルギーは、20代の小娘のそれではない。
海崎百合絵、照美の母親である。
顔面は蒼白で、目は確と前方を睨みつけている。
「海崎先生!」
助手席からは、頭髪を赤く染めた男性が出てきた。まだ若い。女性に、何やら言葉をかけている。
この人物は、百合絵になじみのレコード会社が、今、売り出そうとしている歌手である。作曲、作詞を百合絵が担当することになったのだが、仕事において、常に人物重視である百合絵は、彼を伴って昼食――――と息込んだ最中に、事故は起こったのである。
「・・・・・・・・!!」
女性は携帯を取り出すと、口に押し当てた。おそらく、相手は救急と警察なのだろう。
そして、ほぼ、同時に自分がはねた少女に駆け寄る。
その間、何者かが、彼女に声をかけたが、耳に入らなかった。
「大丈夫!?あなた?すぐに救急車が来る、しっかりしろ ―――――え?あなた!?由加里?!」
百合絵は、少女に縋りつくと、大声で叫んだ。上品な作りの鼻に皺ができる。表情筋が収縮しているのだろう。声の感じから、娘を案ずる母親の声だと推察できた。騒ぎを聞きつけた大石と鈴木加世子が顔を強ばらせたところである。
「西宮さん!」
大石は、加世子に先立って、ふたりに駆け寄った。一応、教師としての義務に従っているのだろうか。内心は、この少女をあまり、好いていないのだ。
女性は、若い男性に、何やら励まされながら、少女の名前を連呼し続ける。
「由加里ィ!由加里!由加里!」
「・・・・・・・・・・・!!」
「・・・・・・・・・・・ママ!!」
二人の少女らしい声が、背後からすがり付いてきたが、やはり、百合絵の耳には入らなかった。
連絡して、五分と絶たないうちに、二種類のサイレンが聞こえた。言うまでもなく、救急車とパトカーである。
「救急です、意識はありますか?」
眼鏡をかけた救急救命士は、30歳を少しばかり超えたぐらいかと思われた。ひげを剃ったばかりの青いあごが、なぜか百合絵の海馬に焼き付けられた。
「私の娘を!!頼む!」
「あなた、お母さんですか?」
別の救急救命士が、駆け寄ってくる。
「ウウ・・・ウ・・ウ・・ウ!」
「ゆ、由加里!!」
そのとき、婦人の肩に触れた者がある。照美とはるかだった。
「ママ!」
「百合絵ママ!」
「照美!はるか!どうして、お前達がここに?」
「それは、私の台詞よ!ママ!由加里が娘ってどういうこと!?」
「照美!」
所構わず泣き叫ぶ美少女に、普段の冷静さは微塵も見受けられない。
「・・・・・・・・はるか、照美を頼む」
「・・・・・はい、照美、落ち着け!」
その高い身長を利用して、照美を押さえつける。しかし、百合絵の背中に、非難の視線を投げつけることを忘れなかった。
――――百合絵ママ!何を考えているの!? 誰のせいで、こうなったと思うの!?
いつの間にか園児たちが、集まってきた。
「はーい、みなさん、幼稚園の中に戻りましょうね」
「おともだちがいない姉さん、跳ねられちゃったの?」
「キット、死んじゃったんだ!」
「バカなこと言わないの!」
「ママぁ!!」
少しだけ、落ち着いて、辺りを見回してみた。しかし、百合絵を見つけることはできなかった。
「はるか、ママは!?」
「きっと、警察に行ったんだろう?現場検証は済んだみたいだから、由加里の病院に行ったのかも」
「その名前! 聞きたくない! 私の前であんな女の名前を出さないで!」
美少女の頭の中で、色んな感情が違いを食い合っている。百合絵に対する子としての情、由加里に対する、全く理解できない愛憎、はるかに対する友情、そして――――。
傍にいる若い男は、いや、少年と言ったほうがいいだろか?
目の前に起こった出来事に、唖然としている。その重大性を受け止めかねているのだ。さきほど、百合絵を「海崎先生」と呼んだ少年である。
赤く染めた髪を、どうしたらいいのか、考えあぐねている。そう、もしも、葬式の現場に赤い服で訪れたらどんな気分になるだろうか?想像してみるがいい。おそらく気持ちよくはあるまい。きっと、居づらい気分になるだろう。少年はそんな感じなのだ。この場にあって、中学の関係者もでないし、よもや、幼稚園と関連がある人間でもない。突如、闖入した百合絵の関係者ということでしかない。しかも、その年の差から、愛人とツバメの関係というよからぬ噂を立てられていた。
一方、そんな少年と関係なく、事態は進んでいる。
警官、救急救命士、女性、大石、ちなみに、彼女は救急車に同乗して、病院に向かっている。
照美は、今まで体験したことのない感情の爆発に、自ら対応できずに苦慮していた。
ぶっちゃけた話し、クラスメート、幼稚園児、大石に、鈴木加世子。照美は、それらを人間として見ていなかった。ここにいる唯一の人間は、はるかだけだ。
「照美!」
はるかは、照美を幼稚園から連れ出すことを思い立った。ここに存在するすべてのファクターが親友にとっていいものだとは思わなかった。まるで、棒のようになった親友をどうにか、外に連れ出す。
「とにかく、家に帰ろう」
そこにこそ、照美がいるべき場所だと、はるかは思った。
「照美、入ろう――――――――――」
ほぼ家族同然のはるかは、カギのありかを知っている。玄関の脇にある小さなもの置き場の小箱にあるのだ。
「どうした、照美、どうして入らない?!」
「わ、私、この家の子じゃない!!」
照美は、急に感情を爆発させた。
「何を言ってるんだ!はやく入れ!」
無理やりに、照美を中に押し込む。はるかは、改めて、親友の顔を見た。顔面蒼白とはこのためにあるような言葉だと、改めて思った。この暑いのに、握った手は凍りついたように冷たい。居間に連れて行くと、どうにか座らせる。
「私、ママの子じゃない!?」
「何を言ってるんだ!?ばかなことを!」
はるかは、自分で言っていて、その発言に説得力がないことをわかっていた。なぜならば、彼女自身、すべての事実を知っているからだ。
照美は、身の毛もよだつ事実を受け入れられずにいた。
まるで相似形のように、酷似している母親と由加里。今の今まで、それに気づかなかったのだろうか?いや気づかないふりをしていたのだ。自分がどうして、由加里を憎んでいたのか。その理由を知っていながら、知らぬフリをしていたのだ。あまりに恐ろしすぎるその結論にたどり着かないために。しかし、実際には、その結論はあまりに空想的すぎた。もしかたしたら、他人の空似かもしれない。だから、はるかに追求されたとき、惚けておいた。
「どうして?」
「て、照美?」
はるかは、長身を奮わせて、親友の言葉に慄いた。
「いいから、落ち着け!」
「だって、そうでしょう?由加里がママの子なら、私はどうなるのよ!たしかにママは言ったのよ、私の子って!!」
「そうなら、由加里と私は双子って言うことになるわ!そんなことってありえる?!ありえないでしょう!?」
「私は一体、どうなるの!?」
照美は、はるかに対して叫んでいるのではなかった。また、百合恵に対してでもない。それは透明な運命とでも言うものに対して、抗議していた。自分の立っている場所が崩落していく。一体、自分は何者なのか!?この疑問は、はたして、いま、突然起こったものなのだろうか。いや、そうではない。
照美は、両手を机にたたきつけると、乾いたタオルから水を搾り出すように、泣き伏した。思わず駆け寄るはるか。
「照美!」
「離して!裏切り者!」
「照美?!」
「あ、あんた、ママが言ってたこと、聞いても驚いてなかったわね?なんで?」
「そ、そんなことない!」
「このうそつき!何でも打ち明けてくれる仲だと思ったのに!?家族だと思っていたのに!?裏切り者!」
すべてを見抜かれていると知って、はるかは、唖然としたが、反面、当然だとも思った。姉妹同然に育った二人だ、いや、それ以上かもしれない。
「ふざけるな!! だったら、どうしろと!? お前は、百合絵ママの子じゃないって言えばよかったのか!?」
たまたま、手に触れたCDを投げつけた。バシリと割れる音は、何をもたらしたのだろう。二人の間に、壊れるものがあったのだろうか?
「わ、私、ママの子じゃ・・・・・ないの?!」
その顔は、すべての未来を奪われたかのように、光を失っていた。まるで、これから処刑されるかのようだ。
「て、照美・・・・!?」
内心、しまったと思った。まさに語るに落ちたのだ。
「ァア・・・ア・・ア・・ア・・あ!ママ!」
まるで、主柱を失ったガラス細工のように、崩れ落ちる照美。はるかは、なにもできずに立ち尽くす自分を恨んだ。やるせない気持が股間から心臓を通って、脳に到った。
年齢は、30を幾つも超えていないように見える。シックな感じの黒い服とタイツからは、大人の女性の官能が、そこはかとなく漂ってくる。肌の張りは、ほとんど失われていない。しかし、目や躰ぜんたいから発せられるエネルギーは、20代の小娘のそれではない。
海崎百合絵、照美の母親である。
顔面は蒼白で、目は確と前方を睨みつけている。
「海崎先生!」
助手席からは、頭髪を赤く染めた男性が出てきた。まだ若い。女性に、何やら言葉をかけている。
この人物は、百合絵になじみのレコード会社が、今、売り出そうとしている歌手である。作曲、作詞を百合絵が担当することになったのだが、仕事において、常に人物重視である百合絵は、彼を伴って昼食――――と息込んだ最中に、事故は起こったのである。
「・・・・・・・・!!」
女性は携帯を取り出すと、口に押し当てた。おそらく、相手は救急と警察なのだろう。
そして、ほぼ、同時に自分がはねた少女に駆け寄る。
その間、何者かが、彼女に声をかけたが、耳に入らなかった。
「大丈夫!?あなた?すぐに救急車が来る、しっかりしろ ―――――え?あなた!?由加里?!」
百合絵は、少女に縋りつくと、大声で叫んだ。上品な作りの鼻に皺ができる。表情筋が収縮しているのだろう。声の感じから、娘を案ずる母親の声だと推察できた。騒ぎを聞きつけた大石と鈴木加世子が顔を強ばらせたところである。
「西宮さん!」
大石は、加世子に先立って、ふたりに駆け寄った。一応、教師としての義務に従っているのだろうか。内心は、この少女をあまり、好いていないのだ。
女性は、若い男性に、何やら励まされながら、少女の名前を連呼し続ける。
「由加里ィ!由加里!由加里!」
「・・・・・・・・・・・!!」
「・・・・・・・・・・・ママ!!」
二人の少女らしい声が、背後からすがり付いてきたが、やはり、百合絵の耳には入らなかった。
連絡して、五分と絶たないうちに、二種類のサイレンが聞こえた。言うまでもなく、救急車とパトカーである。
「救急です、意識はありますか?」
眼鏡をかけた救急救命士は、30歳を少しばかり超えたぐらいかと思われた。ひげを剃ったばかりの青いあごが、なぜか百合絵の海馬に焼き付けられた。
「私の娘を!!頼む!」
「あなた、お母さんですか?」
別の救急救命士が、駆け寄ってくる。
「ウウ・・・ウ・・ウ・・ウ!」
「ゆ、由加里!!」
そのとき、婦人の肩に触れた者がある。照美とはるかだった。
「ママ!」
「百合絵ママ!」
「照美!はるか!どうして、お前達がここに?」
「それは、私の台詞よ!ママ!由加里が娘ってどういうこと!?」
「照美!」
所構わず泣き叫ぶ美少女に、普段の冷静さは微塵も見受けられない。
「・・・・・・・・はるか、照美を頼む」
「・・・・・はい、照美、落ち着け!」
その高い身長を利用して、照美を押さえつける。しかし、百合絵の背中に、非難の視線を投げつけることを忘れなかった。
――――百合絵ママ!何を考えているの!? 誰のせいで、こうなったと思うの!?
いつの間にか園児たちが、集まってきた。
「はーい、みなさん、幼稚園の中に戻りましょうね」
「おともだちがいない姉さん、跳ねられちゃったの?」
「キット、死んじゃったんだ!」
「バカなこと言わないの!」
「ママぁ!!」
少しだけ、落ち着いて、辺りを見回してみた。しかし、百合絵を見つけることはできなかった。
「はるか、ママは!?」
「きっと、警察に行ったんだろう?現場検証は済んだみたいだから、由加里の病院に行ったのかも」
「その名前! 聞きたくない! 私の前であんな女の名前を出さないで!」
美少女の頭の中で、色んな感情が違いを食い合っている。百合絵に対する子としての情、由加里に対する、全く理解できない愛憎、はるかに対する友情、そして――――。
傍にいる若い男は、いや、少年と言ったほうがいいだろか?
目の前に起こった出来事に、唖然としている。その重大性を受け止めかねているのだ。さきほど、百合絵を「海崎先生」と呼んだ少年である。
赤く染めた髪を、どうしたらいいのか、考えあぐねている。そう、もしも、葬式の現場に赤い服で訪れたらどんな気分になるだろうか?想像してみるがいい。おそらく気持ちよくはあるまい。きっと、居づらい気分になるだろう。少年はそんな感じなのだ。この場にあって、中学の関係者もでないし、よもや、幼稚園と関連がある人間でもない。突如、闖入した百合絵の関係者ということでしかない。しかも、その年の差から、愛人とツバメの関係というよからぬ噂を立てられていた。
一方、そんな少年と関係なく、事態は進んでいる。
警官、救急救命士、女性、大石、ちなみに、彼女は救急車に同乗して、病院に向かっている。
照美は、今まで体験したことのない感情の爆発に、自ら対応できずに苦慮していた。
ぶっちゃけた話し、クラスメート、幼稚園児、大石に、鈴木加世子。照美は、それらを人間として見ていなかった。ここにいる唯一の人間は、はるかだけだ。
「照美!」
はるかは、照美を幼稚園から連れ出すことを思い立った。ここに存在するすべてのファクターが親友にとっていいものだとは思わなかった。まるで、棒のようになった親友をどうにか、外に連れ出す。
「とにかく、家に帰ろう」
そこにこそ、照美がいるべき場所だと、はるかは思った。
「照美、入ろう――――――――――」
ほぼ家族同然のはるかは、カギのありかを知っている。玄関の脇にある小さなもの置き場の小箱にあるのだ。
「どうした、照美、どうして入らない?!」
「わ、私、この家の子じゃない!!」
照美は、急に感情を爆発させた。
「何を言ってるんだ!はやく入れ!」
無理やりに、照美を中に押し込む。はるかは、改めて、親友の顔を見た。顔面蒼白とはこのためにあるような言葉だと、改めて思った。この暑いのに、握った手は凍りついたように冷たい。居間に連れて行くと、どうにか座らせる。
「私、ママの子じゃない!?」
「何を言ってるんだ!?ばかなことを!」
はるかは、自分で言っていて、その発言に説得力がないことをわかっていた。なぜならば、彼女自身、すべての事実を知っているからだ。
照美は、身の毛もよだつ事実を受け入れられずにいた。
まるで相似形のように、酷似している母親と由加里。今の今まで、それに気づかなかったのだろうか?いや気づかないふりをしていたのだ。自分がどうして、由加里を憎んでいたのか。その理由を知っていながら、知らぬフリをしていたのだ。あまりに恐ろしすぎるその結論にたどり着かないために。しかし、実際には、その結論はあまりに空想的すぎた。もしかたしたら、他人の空似かもしれない。だから、はるかに追求されたとき、惚けておいた。
「どうして?」
「て、照美?」
はるかは、長身を奮わせて、親友の言葉に慄いた。
「いいから、落ち着け!」
「だって、そうでしょう?由加里がママの子なら、私はどうなるのよ!たしかにママは言ったのよ、私の子って!!」
「そうなら、由加里と私は双子って言うことになるわ!そんなことってありえる?!ありえないでしょう!?」
「私は一体、どうなるの!?」
照美は、はるかに対して叫んでいるのではなかった。また、百合恵に対してでもない。それは透明な運命とでも言うものに対して、抗議していた。自分の立っている場所が崩落していく。一体、自分は何者なのか!?この疑問は、はたして、いま、突然起こったものなのだろうか。いや、そうではない。
照美は、両手を机にたたきつけると、乾いたタオルから水を搾り出すように、泣き伏した。思わず駆け寄るはるか。
「照美!」
「離して!裏切り者!」
「照美?!」
「あ、あんた、ママが言ってたこと、聞いても驚いてなかったわね?なんで?」
「そ、そんなことない!」
「このうそつき!何でも打ち明けてくれる仲だと思ったのに!?家族だと思っていたのに!?裏切り者!」
すべてを見抜かれていると知って、はるかは、唖然としたが、反面、当然だとも思った。姉妹同然に育った二人だ、いや、それ以上かもしれない。
「ふざけるな!! だったら、どうしろと!? お前は、百合絵ママの子じゃないって言えばよかったのか!?」
たまたま、手に触れたCDを投げつけた。バシリと割れる音は、何をもたらしたのだろう。二人の間に、壊れるものがあったのだろうか?
「わ、私、ママの子じゃ・・・・・ないの?!」
その顔は、すべての未来を奪われたかのように、光を失っていた。まるで、これから処刑されるかのようだ。
「て、照美・・・・!?」
内心、しまったと思った。まさに語るに落ちたのだ。
「ァア・・・ア・・ア・・ア・・あ!ママ!」
まるで、主柱を失ったガラス細工のように、崩れ落ちる照美。はるかは、なにもできずに立ち尽くす自分を恨んだ。やるせない気持が股間から心臓を通って、脳に到った。
「さあ、これから行きますよ」
担任である大石久子の号令で、教室を出る。由加里を囲むのは、照美、はるか、高田、金江。それに付属するように、穂灘翔子、青木小鳥。男子は、山形梨友、丸当大善の二人が続く。
ひとつ、不思議なことがあった。由加里は、出発の前にトイレに行こうとしたとき、高田と金江に妨害されたのである。
「幼稚園のトイレに行こうよ」
「ど、どうしてですか?」
「クラスのペットで、奴隷が口答えするんだ!?」
「・・・・・・・ハイ・・」
由加里は、頷くほかなかった。
そうでなくても、少女は生きた心地がしなかった。自分をここまでいじめ苛んできた主要人物が、ほとんど、顔をそろえている。
その他も、例えば、教師公認のクラス裁判によって、穂灘は由加里にいじめられたと公認されたが、彼女自身、自分があたかも、いじめられたかのような錯覚に陥ったのである。
その結果、進んでいじめに参加するようになった。教室内において、常に復讐の名において、由加里に対する理不尽な折檻が行われるようになったのである。
男子においても、丸当大善は、由加里に恋心を弄ばれたという根も葉もないことが、認定された。女子たちに、常に、丸当に奉仕するように命令された。ある時など、由加里は、泣きながら丸当の脚を洗わされた。その最中、「丸当くん、ごめんなさい!」を連呼させられている。
放送室で行われる恒例の性的ないじめにおいては、照美に冗談めかして、次ぎのように囁かされた。
「奉仕してもらおうかな?このマンガみたいにさ ―――――――」
その18禁マンガの中では、セーラー服の少女が、プロレスラーの男根を銜えさせられていた。照美たち四人は、由加里のこの世のモノとは思えない反応を、多いに笑ったものだ。
幼稚園は、向丘中学から徒歩で五分程度の場所にある。その五分の間、いじめっ子たちの交わす囁きが気になってたまらなかった。
「ねえ、翔子、ちゃんと用意できているんでしょうね」
「大丈夫よ、細工は粒々よ」
「細工は粒々、仕上げをご覧じろ ―――――よ」
照美が、美貌を歪ませて、笑みの表情を造った。
みんな、照美には戦く。それには、やはり高田が不満だった。密かに、彼女を睨みつけたが、一顧だにされなかった。もはや、相手にすらされない。それを自覚した高田は、彼女に対する憎悪を増した。
由加里は、自分の頭ごしに、交わされる会話に、今更ながら孤独感を否定できなかった。自分のことなのに、全く決定権がない。それに、影響を与えることはできない。まるで、刑場に引かれる死刑囚のようである。今すぐにでも逃げ帰りたい衝動にかられた。
交互に手と足を入れ変えるという、単純な運動が苦痛になった。その手足が自分の手足でないような気がしたのだ。自分はマリオネットで、誰かに手足を操られているような気がした。しかも、操っている主人は一人や二人ではない。
その時、ミチルと貴子は、淳一の家を張っていた。顔は、由加里から送信された画像で知っている。
「あ、出てきた」
一戸建ての犬のいる家から、一人の男が出てきた。身長は180センチは優に超える。かなりのイケメンだ。画像で見るよりも、はるかに見栄えがいい。普通は反対なのに、この男は、その逆をいく。
「でも、ストーカーするだけで、何がわかるのかな」
「たしかに気が長い話しだけども、とにかくやってみよう、由加里、西宮先輩を助けるとおもって」
貴子は慌てて言い直した。
「でも、車に乗られたら終わりじゃない」
「それは考えていなかった、でもそれは先輩も同じじゃない」
しかし、淳一は自分の脚で、敷地から出てきた。
「まったく、行き当たりばったりなんだから!」
「ほら、行くよ」
ミチルの不満をうっちゃって、物陰から姿を現した。淳一は、それに気づかずに、夏空の元に身を晒す。男は、サングラスをかけた。それは美貌を隠すために見えたが、全く用を為していなかった。
醜男が、何を勘違いしているのか、サングラスをかけていることがある。これは、言うまでもなく、目を隠すためである。目は人間にとってポイント故に、これが隠れるならば、多少はましになると思っている。これが大いなる勘違いなのだ。かえって、不細工ぶりが顕わになってしまう。
一方、淳一の場合、それは間逆になる。確かに、ポイントとなる美しい目は隠れるものの、完璧に通った鼻や形の良い唇や頬は、明かになってしまう。そんなことでは、女性からの注目を反らすということはできない。
―――あ!かっこいい!
―――ねえ、役割忘れてない!?ミチル!
貴子は、親友の肩を小突いた。
淳一は、町の目抜き通りに、歩を進めようとしていた。言うまでもなく、そこらに屯しているオンなどもの耳目を惹いていた。
―――急ごう!
――うん、あの男の真の姿を暴露してやる!
そうは言ったものの、完全に親友から信頼されていないミチルだった。
一方、ふたりの先輩である由加里は、小型の体育館で震えていた。
とても、変わった儀式が行われていた。中学生9人の前に幼稚園児がずらっと体育座りをしている。演台に乗っているのは、鈴木加世子教諭である。隣には、大石久子が立っている。
「さあ、向丘第二中学の先生を紹介します、みなさん、ご挨拶しましょう」
「おおいし、ひさこ、せんせい、こんにちは!ようこそ!むこうがおかようちえんへ!」
「はーい、大石、久子といいます」
幼稚園児に話しを合わせているせいか、いつもよりも話し方が遅い、その様子が、生徒たちには滑稽だった。
「ここにいる9人のお姉さん、お兄さんは、みなさんとお友だちになります、これからみなさんに、じこしょうかいをしてもらいます、さ海崎さん」
「海崎照美です」
「すーごい!びじんさん!お姉さん、げいのうじん!?」
「はい、はい、その予定もありますよ」
「よていって何?」
「犬井くん、お姉さんがお話ししてますよ」
「はーい」
犬井少年は、憮然として顔を天井に向けた。
「よろしく、一緒に楽しく遊びましょうね」
幼稚園児は、この美しい少女に首っ丈だ。男児も女児も、みんな心を鷲づかみにされている。このカリスマ性は何処から来るのだろう。
由加里は、そんな照美を見ていて、不思議でたまらなかった。もしも、この少女について、何も知らなければ、第一のファンになっていたにちがいない。
そもそも、中2になったその日、体育館で「友達になってください」と立候補したのは、由加里の方なのだ。園児に向けているマドンナのような美貌を見ていると、ふと微笑みたくなってしまう。いままで、うけた性的ないじめのアレコレを忘れて・・・・・・・・・・。
しかし、そんな思索はあっという間に消え去った。
「きゃ!」
その出来事には、7人の中学生も驚きを隠せなかった。照美は、由加里の細首に手を回すと、言い放ったのである。
「みなさん!私の第一のともだちを紹介したいと思います!西宮由加里チャンです」
「やさしそー」
「でも、おともだちいないんでしょう?」
その少女が言ったことに、由加里は心底驚いた。両足を床に食い付かれたような気分に落とされた。股間に、氷の塊を押しつけられたような気分になる。とたんに、涙がこぼれそうになった。しかし、 それには照美も驚いていたのである。老獪な照美のこと、それを1ミリも表に出そうとはしなかった。しかし、冷笑及び、諧謔を含ませた慧眼を高田に向けた。彼女は心底、震え上がったが、なんとか、踏みとどまった。
「穂灘さん、なんてことを言うの?あやまりなさい」
「別に、そういう風に見えたの、みるくがおともだちになってあげるね」
悪びれることなく言いのけた。
少女の名前は、穂灘みるく、当然のことながら翔子の妹である。
「・・・・・・う?」
「お礼を言いなさいよ」
隣を見ると、翔子が凄い目で睨んでいる。
「ウウ・・・ウ・・ウ・、あ、ありがとうございます・・・ほ、穂灘さん・・・・ウウ」
既に涙声になっていた。大石も鈴木も怪訝な顔をしていた。しかし、何もできずに儀式を進行するしかなかった。
「はい、に、西宮さん」
「に、西宮、ゆ、由加里です、こんにちは」
由加里は、全身をコールタールで固められたような気がした。表現しがたい不安に身も心も固められて、何も出来ない。
ちょうど、幼稚園児のころ、そんな童話を読んでもらったことがある。その時、ひそかに股間を襲う得も言われぬ感覚に襲われたのである。だが、幼い、由加里はそれを官能だとは認識しなかった。そもそも、14歳の今でさえ、それに本当の意味で、目覚めているのか疑問では、ある。
「よろしくね!ゆかりちゃん!」
「コレ、西宮さんですよ!」
――――舐められている・・・・・・・。
由加里はそう思った。何か見えない作為が、この場所を支配しているように思えた。少女はさしずめ、蜘蛛の糸に引っかかったモンシロチョウだ。逃げようと藻掻けば藻掻くほど、その身は、陰険な糸に絡み捉えていく。すぐそこには、獰猛な蜘蛛の牙が光っているというのに!
自分は、それを自覚しながら、何も出来ない。そんな歯がゆい気持を処分できずに喘ぐのだった。
―――――穂灘さん?
由加里は、見た、翔子が目配せするのを。これから、起こることを考えたら、全身が震えた。
――――かい、海崎さん助けて!
――――え?どうして、今、私は何を思ったの?
由加里は、自分の心さえコントロールできずにいた。何と、照美に救いを求めていたのだ。この世の誰よりも、自分を恨んでいる彼女に、救いの手を求めたのだ。
――――好きなのだ!この人でなしを!
由加里は、叫びたくてたまらなくなった。しかし、何と叫んでいいのかわからなかった。
幼稚園児のほぼ全員が凍り付いたのは、はるかの番だった。それまでも、ひそかに怯えていたのだが、その声を聞くと、みんな震え上がった。
「鋳崎はるかだ!よろしく頼む!」
体育会系を地でいくこの少女は、それをわずか4,5歳の園児に持ち込んだのである。その声は、体育館を吹っ飛ばしそうな勢いだった。加えて。175センチに達しようとする身長とその恐い顔は、園児を圧倒するに、十分だったのである。
その後、6人の紹介はつつがなく執り行われた。
「こうていにでてあそびましょう」と鈴木が号令すると、わーという歓声とともに、園児はまさに、蜘蛛の子散らすとなった。
「あなたたち、お願いね、マニュアルは読んだわね。だけど、実地ではなかなか、マニュアル通りに行かないもの、何かあったら、私か、鈴木先生に質問するのよ、じゃ、行ってらっしゃい。それから、西宮さん!どうして、そんな顔しているの!あなた嫌なの!?そうなら今すぐに帰りなさい」
―――――え?
由加里は納得できないという顔をした。しかし、大石は情け容赦ない。
「あなたがそんな顔しているから、あんなこと言われるのよ!わかる?!」
「大石先生、そんなに言わなくても ―――――」
鈴木の取りなしでようやく解放された由加里だったが、まさに孔だらけの障子、そのものだった。
――――どうして?どうして?こんなこと言われなきゃいけないの?あまりに非道すぎる!
その時、はるかは、今までに見たことのない眼差しを見つけた。それは彼女の親友のそれだった。照美の、由加里のえり首辺りに向けられた視線は、あきらかに同情、いや、それ以上、あるいは肉親に向けられた温度を感じた。少女の首はあきらかに、小刻みに上下いしていた。
―――ユカリ・・・カワイソウ・・・・・。
照美は、言語化できない発信をしていた。それは、彼女が絶対に受け入れられない感情だったからである。
はるかは、わけのわからない怒りを感じた。それは嫉妬だったのだが、当然、認めたくなかった。
「おともだちにしてもらうといい」
思わずそう言ってしまった。言ってから後悔したのは言うまでもなかった。しかし、これもまた認めたくない感情だった。
「・・・・・・・・・・!?」
由加里は一目さんに逃げ出したい衝動に駆られた。しかし、目的地は、校庭である。行くも地獄、引くも地獄だった。その時、背後から高田が囁いた。
―――――園児の言うこと聞くんだよ。もしも、命令に聞かなかったらただじゃすまないからね。
「一体、どういうこと!?あいつら、何考えているのよ!」
それを横耳で、聞いた照美は激怒したが、為す術を、見つけることはできなかった。
その時、ミチルと貴子は恐るべき光景を目にしていた。
淳一が少女に声をかけていたのである。なんと、相手は小学生である。
――――貴子、撮ってる?
――――大丈夫!
貴子は密かに、小型ヴィデオカメラを淳一と少女に向けていた。
―――あの子、高田先輩の妹でしょう?
――――そうなんだ!呆れた話しよね、あの子も。
ミチルは、その事実を知っていた。だから、少女が小学生だとわかったのである。そうでもなければ、化粧で汚したその顔から、少女を小学生とは認識できないであろう。
二人の会話は、風に負けて聞き取れない部分はあったが、その内容は理解できた。
「子どもがこんなところにいていいのかな?補導しちゃうよ」
「え?私高いですよ」
実は、補導という言葉が売春を意味する隠語なのだが、それを理解するほど、ミチルと貴子はすれていなかった。いや、穂灘の妹と正反対の場所にいる、それが真実である。ちなみに、それ昼間しか通用しない。何故ならば、そんな時刻に歓楽街に、小学生がいても補導されることはないからだ。ちなみに夜の場合は、「太陽がまぶしいね」となる。
淳一は、指を二本出す。
――――二千円かな?
さすがに可愛いものである。
少女は首を振る。
次ぎは五本だ。
――――ごせんえん?高いなあ?
―――あんたもやりたくなった?
――――バカ言わないでよ!貴子はちゃんと撮ってなさいよ
赤くなって、ミチルは抗議した。その彼女の視線には信じられない数字が並んでいた。
―――――え?????!いちまんえん!!っていうことはごまんえん?!
それは前金だったのだろう。
――――ねえ、あのお金で何をするのかな?
――――決まっているでしょう?売春よ!
貴子は少しだけ大人ぶってみた。
「あ! ――――」
その声は、絶望とともに昼の歓楽街に消えていった。淳一は、少女を車に乗せると、エンジンの音とともに、雲散霧消してしまったのだ。
「大丈夫だよ、これを冴子さんに見てもらおう、これから行くんだよ!」
「でも、これだけじゃ、証拠にならないよ!」
「二人で頼むんだ!先輩のためだよ!!」
「わかった!」
二人の少女は固い決意とともに、昼の歓楽街を後にしたのである。
二人が京王線の駅を目指したころ、向丘幼稚園では、事件が起こっていた。
「・・・・」
由加里はただ、絶句するほかなかった。
「あのね・・・・・・」
「だめだよ、由加里お姉ちゃん、ひとりでおトイレ行けないんでしょう?おねえちゃんが言ってたもん」
言うまでもなく、翔子の妹のみるくである。彼女の他に6名ほどの幼稚園児が、由加里を囲んでいる。
「だから、みんなで言ってあげなさいって、言われたの」
―――――園児の言うこと聞くんだよ。もしも、命令に聞かなかったらただじゃすまないからね。
高田の囁きを思い出した。まさに悪魔の囁きだった。こういうことだったのか。今まで、されてきたことを思えば、どんな行為も恐くない・・・・・はず・・・・・ではなかった。
―――――やっぱろコワイ!恐いよ!
由加里は殺されるかと思ったのである。それもやむないことだった。暴力に次ぐ、暴力、恥辱に次ぐ恥辱は、少女を完全に萎縮させていた。本来ならば、のびやかな精神の翼を羽ばたかせるはずの年齢なのに、圧縮された鉄くずのように、押し潰されてしまっているのだ。あまりに哀れだった。
「イコ!」
「行こうよ!おもらししちゃうよ!」
「・・・・・・・・・・?!」
由加里は、園児たちの心ない言葉に、死にたい気持になった。これほどの恥辱を味わったことはなかった。その顔がまさに汚れのない天使ゆえに、傷付ける力も想像以上だった。
「わかった・・・・・・・・・」
由加里は落涙しながらも、アタマを縦に振らざるを得なかった。
――――海崎さん、鋳崎さん、助けて・・・・・・・・・・。
もはや、その思いを疑うことすら忘れていた。
その時、照美とはるかは、園児たちをにこやかな時間を過ごしていた。はるかは一緒に遊んでみると、害がないばかりか、頼もしい姉ちゃんであることがわかったのであろう。照美は言わずもがなである。
「はるか!」
「そうだね、後を追うか」
二人は別れを惜しむ園児たちを後にして、由加里の後をそろりそろりと追った。
由加里を含めた8人の奇妙な行列は、あきらかにトイレに向かっていく。少女の顔は、泣きはらして、真っ赤になっていた。自分と10歳も違うあいてに、辱めを受けようとしているのだ。
由加里は、何回も逃げようとしたが、その度に、悪魔のような高田、それに金江の顔が浮かんだ。
――――あの人たち、人間じゃない!死にたい!死にたい!死にたい!海崎さん!鋳崎さん!
――――ああ、着いてしまった。
「おトイレですよ、ここまでおもらししなくて、りっぱですよ」
ぱち、ぱち、ぱちぱちぱちぱち!!
由加里を囲む少女たちは、拍手をする。おそらく、大人たちに躾られた結果だろう。悪意がないことは確かだった。それだけに由加里の心は回復不可能なくらいに切り刻まれていた。
――――ああ、もうどうにでもして!
由加里は、園児を引き連れて、個室に入った。
――ああ、小さい!
当然である。幼稚園児用のトイレなのだ。
「まずはぬぎ、ぬぎしよ」
みるくが言った。小さいながら、いじめっ子の才能、確たるものがある。
「またぐんだよ、ゆかりお姉ちゃん」
「いやあああ!!ウウ・ウ・・ウ・ウ・・ウ・ウ・ウ・ウ・・ウ・ウ」
泣きじゃくる由加里の足を摑むと、スカートと下着を脱がしはじめた。泣きわめこうとした少女の脳裏に、高田の顔が浮かんだ。アノ声が聞こえる。いじわるな吐息が耳にあたる。
「ウウ・・・ウ・・・ウ・自分で、脱げる!」
「うそよ!お姉ちゃん、じぶんじゃなにもできないっていってたもん、ちゅうがくでも、お姉ちゃんたちに、おトイレしてもらってるんでしょう!?」
―――――何処まで、自分を侮辱すればいいの?!
由加里は喉を振り絞って、心の中で叫んだ。しかし、状況は、少女を覆い尽くしている、もはや状況に任せる他はない。
「はい、はい、ちゃんとちまちょうね」
他の園児が、スカートと下着を脱がしてしまう。
「ウウウ・・ウ・ウ・ウ・・ウ・ウ・ウ・ウウウ!」
由加里は両手で顔を覆った。しかし、流れる涙を押さえることはできなかった。指と指から銀色のしずくが落ちていく。しかし、加害者たちは、その自覚を持っていなかった。ただ、かわいそうなお姉ちゃんを助けてあげているという奉仕の精神なのである。そんな由加里をさらに絶望させる出来事が起こっていた。
―――――え!?
由加里は目を疑った。指と指の間にかいま見えたものは、携帯電話だった。
―――写メール!!?
もう、何も言えなかった。
―――どうせなら、殺して!
「はいはい、ちゃんとちましょうね」
園児たちの号令がはじまる。朝からトイレに行っていないために、膀胱は、爆発寸前だった。しかし、極度の羞恥と緊張のために、筋肉が強ばっているのか、放尿というわけにはいかない。
「おかしいですねえ」
「そうだ!お姉ちゃんが言ってたみたいにやってみよう」
――――これ以上何を!?ぅああうああうああ!!いやあああ!!
みるくは指で、由加里の恥部を刺激しはじめたのである。
「おねがい!おねがいだから!やめてっっっっっっっっっ!!ウウ・ウ・・ウ・ウ・ウ・ウ・ウ・ウウ・ウウ!」
「みんなも手伝ってあげなさいよ!お姉ちゃんがおしっこできないでしょう」
みるくの残酷な言葉ととともに、幼い悪魔たちは、それぞれ、由加里の膣を弄りはじめる。
「くあ!くああうあうあううあうあ!!」
何度、抵抗しようと思ったか、その度に高田と金江の顔が浮かんだ。その頭には、それぞれ牙と鬼のような角が生えていた。
「フウ、ア、アフアアウフアウウア!いやあ!いやあ!ぅっぃ!」
複数の指には、複数の意思が備わっている。ばらばらの意思は、予想外の刺激を由加里に与える。性的刺激は、予想外であることに要諦がある。男子諸君は、自分で睾丸に触れても気持ちよくないが、彼女に触れてもらうと、予想外に快感であることに仰け反った記憶があるだろう。性的に興奮していることも、加味されるだろうが、予想外というファクターが一番であろう。
誰かの指がクリトリスに触れた。
「ィアアアアアウアアアアアヤアイヤアア・・・・・・・」
「あ!出た出た!!」
「あれ?おかしいな!黄色くない!え?由加里ちゃん、病気なの!?」
「いやあああ!!」
「あ!黄色くなった!」
言うまでもなく、前者は絶頂を迎えたことによる、潮吹き、そして、後者が放尿である。
「ぅうああわああああああ!!」
由加里は園児たちの鼓膜が破れんばかりに、絶叫した。スカートを穿くと、トイレから飛び出した。
そして、茂みを見つけるとそこに伏して、泣きじゃくった。
――――ひどい!ひどい!私がこんな目に遭わなきゃいけない何をしたの!?悪魔!悪魔!悪魔!あんたたち、みんな悪魔よ!みんな消えちゃえ!みんな嫌い!嫌い!ミチルちゃんも貴子ちゃんも!ママも!みんな大嫌い!みんな死んじゃえ!!!!
由加里の声は、照美とはるかの耳にも届いていた。ちょうど、トイレから6人の園児が飛び出したところだった。一様にきゃきゃとはしゃいでいる。その一人の手に光っているものに目が止まった。
「携帯電話?」
「とれた?」
「とれたよ!」
「ねえ、みるくちゃん」
「あ?照美あ姉ちゃん」
照美は、みるくから容赦なく、それを奪い取った。マドンナの微笑を浮かべながら、行っただけに、その行為はより恐怖を園児たちに与えたようだ。
「これ、私から穂灘さんに渡しておくから」
「そう?」
照美は、園児たちを行かせると、携帯を見た。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・!!?」
そこには、はたして、由加里が放尿している痴態が映っていた。しかも、周囲には6人の園児がピースをしているのだ。
―――――ひどい!
今まで、自分たちが由加里にしたことも忘れてそう思った。
「違うわよ!あれはわたしたちだけの所有物よ!それを侵害されたから怒っているのよ」
わざと難しい言葉を使うのは、自分たちの気持を誤魔化すためだった。
しかし、両足は、自然に向かう、由加里の泣き声がする方向へ。
「由加里!」
照美の口から、普段と違う風で、少女の名前が呼ばれた。由加里は、小枝が肢体に刺さるもの構わず、身を隠して、泣きじゃくっている。
「あ、アクマ!来ないで!殺してよ!アクマ!アクマ!アクマあああああああああ!」
由加里は明らかに正気を失っていた。
「近づかないで」
「由加里ィ」
さらに近づこうとすると、由加里はフェンスを超えようとした。しかし、足がもたついて、向こう側に崩れ落ちる。顔に泥がついた。しかも赤いモノが見えるではないか。
「あ、アクマ、来ないで!!」
そんなこと、気にならないのか、立ちあがると、泣きながら走っていく。
「由加里!待ちなさい!」
照美の声にさらに怯えたるのか、さらに身体を陽の元に踊り出させる。
「由加里ィ!ああ!」
はたして、そこは車道だった。
キキキキキキキィ!!大気を切り裂く音が、地平線上に轟いた。
フェンスを超えた照美とはるがが見たもの ―――――――――――――――――。
赤く煌めく、車頭と、燃えるアスファルトに寝そべる由加里の姿だった。それは熱気で、燃えてしまうように思えた。
「由加里!!」
ふたりは、叫んだ。しかし、次の瞬間、信じられない人間を見ることになる。
赤い車体が煌めいて、出てきた人物は!?血相を変えた美貌が宿る長身は!
「ママ!」
「百合絵ママ!!」
三人は同時に絶句した。
しかし、照美が、地軸が入れ代わるほどの衝撃を受けたのは、その人物の口から飛び出た一言だった!!
担任である大石久子の号令で、教室を出る。由加里を囲むのは、照美、はるか、高田、金江。それに付属するように、穂灘翔子、青木小鳥。男子は、山形梨友、丸当大善の二人が続く。
ひとつ、不思議なことがあった。由加里は、出発の前にトイレに行こうとしたとき、高田と金江に妨害されたのである。
「幼稚園のトイレに行こうよ」
「ど、どうしてですか?」
「クラスのペットで、奴隷が口答えするんだ!?」
「・・・・・・・ハイ・・」
由加里は、頷くほかなかった。
そうでなくても、少女は生きた心地がしなかった。自分をここまでいじめ苛んできた主要人物が、ほとんど、顔をそろえている。
その他も、例えば、教師公認のクラス裁判によって、穂灘は由加里にいじめられたと公認されたが、彼女自身、自分があたかも、いじめられたかのような錯覚に陥ったのである。
その結果、進んでいじめに参加するようになった。教室内において、常に復讐の名において、由加里に対する理不尽な折檻が行われるようになったのである。
男子においても、丸当大善は、由加里に恋心を弄ばれたという根も葉もないことが、認定された。女子たちに、常に、丸当に奉仕するように命令された。ある時など、由加里は、泣きながら丸当の脚を洗わされた。その最中、「丸当くん、ごめんなさい!」を連呼させられている。
放送室で行われる恒例の性的ないじめにおいては、照美に冗談めかして、次ぎのように囁かされた。
「奉仕してもらおうかな?このマンガみたいにさ ―――――――」
その18禁マンガの中では、セーラー服の少女が、プロレスラーの男根を銜えさせられていた。照美たち四人は、由加里のこの世のモノとは思えない反応を、多いに笑ったものだ。
幼稚園は、向丘中学から徒歩で五分程度の場所にある。その五分の間、いじめっ子たちの交わす囁きが気になってたまらなかった。
「ねえ、翔子、ちゃんと用意できているんでしょうね」
「大丈夫よ、細工は粒々よ」
「細工は粒々、仕上げをご覧じろ ―――――よ」
照美が、美貌を歪ませて、笑みの表情を造った。
みんな、照美には戦く。それには、やはり高田が不満だった。密かに、彼女を睨みつけたが、一顧だにされなかった。もはや、相手にすらされない。それを自覚した高田は、彼女に対する憎悪を増した。
由加里は、自分の頭ごしに、交わされる会話に、今更ながら孤独感を否定できなかった。自分のことなのに、全く決定権がない。それに、影響を与えることはできない。まるで、刑場に引かれる死刑囚のようである。今すぐにでも逃げ帰りたい衝動にかられた。
交互に手と足を入れ変えるという、単純な運動が苦痛になった。その手足が自分の手足でないような気がしたのだ。自分はマリオネットで、誰かに手足を操られているような気がした。しかも、操っている主人は一人や二人ではない。
その時、ミチルと貴子は、淳一の家を張っていた。顔は、由加里から送信された画像で知っている。
「あ、出てきた」
一戸建ての犬のいる家から、一人の男が出てきた。身長は180センチは優に超える。かなりのイケメンだ。画像で見るよりも、はるかに見栄えがいい。普通は反対なのに、この男は、その逆をいく。
「でも、ストーカーするだけで、何がわかるのかな」
「たしかに気が長い話しだけども、とにかくやってみよう、由加里、西宮先輩を助けるとおもって」
貴子は慌てて言い直した。
「でも、車に乗られたら終わりじゃない」
「それは考えていなかった、でもそれは先輩も同じじゃない」
しかし、淳一は自分の脚で、敷地から出てきた。
「まったく、行き当たりばったりなんだから!」
「ほら、行くよ」
ミチルの不満をうっちゃって、物陰から姿を現した。淳一は、それに気づかずに、夏空の元に身を晒す。男は、サングラスをかけた。それは美貌を隠すために見えたが、全く用を為していなかった。
醜男が、何を勘違いしているのか、サングラスをかけていることがある。これは、言うまでもなく、目を隠すためである。目は人間にとってポイント故に、これが隠れるならば、多少はましになると思っている。これが大いなる勘違いなのだ。かえって、不細工ぶりが顕わになってしまう。
一方、淳一の場合、それは間逆になる。確かに、ポイントとなる美しい目は隠れるものの、完璧に通った鼻や形の良い唇や頬は、明かになってしまう。そんなことでは、女性からの注目を反らすということはできない。
―――あ!かっこいい!
―――ねえ、役割忘れてない!?ミチル!
貴子は、親友の肩を小突いた。
淳一は、町の目抜き通りに、歩を進めようとしていた。言うまでもなく、そこらに屯しているオンなどもの耳目を惹いていた。
―――急ごう!
――うん、あの男の真の姿を暴露してやる!
そうは言ったものの、完全に親友から信頼されていないミチルだった。
一方、ふたりの先輩である由加里は、小型の体育館で震えていた。
とても、変わった儀式が行われていた。中学生9人の前に幼稚園児がずらっと体育座りをしている。演台に乗っているのは、鈴木加世子教諭である。隣には、大石久子が立っている。
「さあ、向丘第二中学の先生を紹介します、みなさん、ご挨拶しましょう」
「おおいし、ひさこ、せんせい、こんにちは!ようこそ!むこうがおかようちえんへ!」
「はーい、大石、久子といいます」
幼稚園児に話しを合わせているせいか、いつもよりも話し方が遅い、その様子が、生徒たちには滑稽だった。
「ここにいる9人のお姉さん、お兄さんは、みなさんとお友だちになります、これからみなさんに、じこしょうかいをしてもらいます、さ海崎さん」
「海崎照美です」
「すーごい!びじんさん!お姉さん、げいのうじん!?」
「はい、はい、その予定もありますよ」
「よていって何?」
「犬井くん、お姉さんがお話ししてますよ」
「はーい」
犬井少年は、憮然として顔を天井に向けた。
「よろしく、一緒に楽しく遊びましょうね」
幼稚園児は、この美しい少女に首っ丈だ。男児も女児も、みんな心を鷲づかみにされている。このカリスマ性は何処から来るのだろう。
由加里は、そんな照美を見ていて、不思議でたまらなかった。もしも、この少女について、何も知らなければ、第一のファンになっていたにちがいない。
そもそも、中2になったその日、体育館で「友達になってください」と立候補したのは、由加里の方なのだ。園児に向けているマドンナのような美貌を見ていると、ふと微笑みたくなってしまう。いままで、うけた性的ないじめのアレコレを忘れて・・・・・・・・・・。
しかし、そんな思索はあっという間に消え去った。
「きゃ!」
その出来事には、7人の中学生も驚きを隠せなかった。照美は、由加里の細首に手を回すと、言い放ったのである。
「みなさん!私の第一のともだちを紹介したいと思います!西宮由加里チャンです」
「やさしそー」
「でも、おともだちいないんでしょう?」
その少女が言ったことに、由加里は心底驚いた。両足を床に食い付かれたような気分に落とされた。股間に、氷の塊を押しつけられたような気分になる。とたんに、涙がこぼれそうになった。しかし、 それには照美も驚いていたのである。老獪な照美のこと、それを1ミリも表に出そうとはしなかった。しかし、冷笑及び、諧謔を含ませた慧眼を高田に向けた。彼女は心底、震え上がったが、なんとか、踏みとどまった。
「穂灘さん、なんてことを言うの?あやまりなさい」
「別に、そういう風に見えたの、みるくがおともだちになってあげるね」
悪びれることなく言いのけた。
少女の名前は、穂灘みるく、当然のことながら翔子の妹である。
「・・・・・・う?」
「お礼を言いなさいよ」
隣を見ると、翔子が凄い目で睨んでいる。
「ウウ・・・ウ・・ウ・、あ、ありがとうございます・・・ほ、穂灘さん・・・・ウウ」
既に涙声になっていた。大石も鈴木も怪訝な顔をしていた。しかし、何もできずに儀式を進行するしかなかった。
「はい、に、西宮さん」
「に、西宮、ゆ、由加里です、こんにちは」
由加里は、全身をコールタールで固められたような気がした。表現しがたい不安に身も心も固められて、何も出来ない。
ちょうど、幼稚園児のころ、そんな童話を読んでもらったことがある。その時、ひそかに股間を襲う得も言われぬ感覚に襲われたのである。だが、幼い、由加里はそれを官能だとは認識しなかった。そもそも、14歳の今でさえ、それに本当の意味で、目覚めているのか疑問では、ある。
「よろしくね!ゆかりちゃん!」
「コレ、西宮さんですよ!」
――――舐められている・・・・・・・。
由加里はそう思った。何か見えない作為が、この場所を支配しているように思えた。少女はさしずめ、蜘蛛の糸に引っかかったモンシロチョウだ。逃げようと藻掻けば藻掻くほど、その身は、陰険な糸に絡み捉えていく。すぐそこには、獰猛な蜘蛛の牙が光っているというのに!
自分は、それを自覚しながら、何も出来ない。そんな歯がゆい気持を処分できずに喘ぐのだった。
―――――穂灘さん?
由加里は、見た、翔子が目配せするのを。これから、起こることを考えたら、全身が震えた。
――――かい、海崎さん助けて!
――――え?どうして、今、私は何を思ったの?
由加里は、自分の心さえコントロールできずにいた。何と、照美に救いを求めていたのだ。この世の誰よりも、自分を恨んでいる彼女に、救いの手を求めたのだ。
――――好きなのだ!この人でなしを!
由加里は、叫びたくてたまらなくなった。しかし、何と叫んでいいのかわからなかった。
幼稚園児のほぼ全員が凍り付いたのは、はるかの番だった。それまでも、ひそかに怯えていたのだが、その声を聞くと、みんな震え上がった。
「鋳崎はるかだ!よろしく頼む!」
体育会系を地でいくこの少女は、それをわずか4,5歳の園児に持ち込んだのである。その声は、体育館を吹っ飛ばしそうな勢いだった。加えて。175センチに達しようとする身長とその恐い顔は、園児を圧倒するに、十分だったのである。
その後、6人の紹介はつつがなく執り行われた。
「こうていにでてあそびましょう」と鈴木が号令すると、わーという歓声とともに、園児はまさに、蜘蛛の子散らすとなった。
「あなたたち、お願いね、マニュアルは読んだわね。だけど、実地ではなかなか、マニュアル通りに行かないもの、何かあったら、私か、鈴木先生に質問するのよ、じゃ、行ってらっしゃい。それから、西宮さん!どうして、そんな顔しているの!あなた嫌なの!?そうなら今すぐに帰りなさい」
―――――え?
由加里は納得できないという顔をした。しかし、大石は情け容赦ない。
「あなたがそんな顔しているから、あんなこと言われるのよ!わかる?!」
「大石先生、そんなに言わなくても ―――――」
鈴木の取りなしでようやく解放された由加里だったが、まさに孔だらけの障子、そのものだった。
――――どうして?どうして?こんなこと言われなきゃいけないの?あまりに非道すぎる!
その時、はるかは、今までに見たことのない眼差しを見つけた。それは彼女の親友のそれだった。照美の、由加里のえり首辺りに向けられた視線は、あきらかに同情、いや、それ以上、あるいは肉親に向けられた温度を感じた。少女の首はあきらかに、小刻みに上下いしていた。
―――ユカリ・・・カワイソウ・・・・・。
照美は、言語化できない発信をしていた。それは、彼女が絶対に受け入れられない感情だったからである。
はるかは、わけのわからない怒りを感じた。それは嫉妬だったのだが、当然、認めたくなかった。
「おともだちにしてもらうといい」
思わずそう言ってしまった。言ってから後悔したのは言うまでもなかった。しかし、これもまた認めたくない感情だった。
「・・・・・・・・・・!?」
由加里は一目さんに逃げ出したい衝動に駆られた。しかし、目的地は、校庭である。行くも地獄、引くも地獄だった。その時、背後から高田が囁いた。
―――――園児の言うこと聞くんだよ。もしも、命令に聞かなかったらただじゃすまないからね。
「一体、どういうこと!?あいつら、何考えているのよ!」
それを横耳で、聞いた照美は激怒したが、為す術を、見つけることはできなかった。
その時、ミチルと貴子は恐るべき光景を目にしていた。
淳一が少女に声をかけていたのである。なんと、相手は小学生である。
――――貴子、撮ってる?
――――大丈夫!
貴子は密かに、小型ヴィデオカメラを淳一と少女に向けていた。
―――あの子、高田先輩の妹でしょう?
――――そうなんだ!呆れた話しよね、あの子も。
ミチルは、その事実を知っていた。だから、少女が小学生だとわかったのである。そうでもなければ、化粧で汚したその顔から、少女を小学生とは認識できないであろう。
二人の会話は、風に負けて聞き取れない部分はあったが、その内容は理解できた。
「子どもがこんなところにいていいのかな?補導しちゃうよ」
「え?私高いですよ」
実は、補導という言葉が売春を意味する隠語なのだが、それを理解するほど、ミチルと貴子はすれていなかった。いや、穂灘の妹と正反対の場所にいる、それが真実である。ちなみに、それ昼間しか通用しない。何故ならば、そんな時刻に歓楽街に、小学生がいても補導されることはないからだ。ちなみに夜の場合は、「太陽がまぶしいね」となる。
淳一は、指を二本出す。
――――二千円かな?
さすがに可愛いものである。
少女は首を振る。
次ぎは五本だ。
――――ごせんえん?高いなあ?
―――あんたもやりたくなった?
――――バカ言わないでよ!貴子はちゃんと撮ってなさいよ
赤くなって、ミチルは抗議した。その彼女の視線には信じられない数字が並んでいた。
―――――え?????!いちまんえん!!っていうことはごまんえん?!
それは前金だったのだろう。
――――ねえ、あのお金で何をするのかな?
――――決まっているでしょう?売春よ!
貴子は少しだけ大人ぶってみた。
「あ! ――――」
その声は、絶望とともに昼の歓楽街に消えていった。淳一は、少女を車に乗せると、エンジンの音とともに、雲散霧消してしまったのだ。
「大丈夫だよ、これを冴子さんに見てもらおう、これから行くんだよ!」
「でも、これだけじゃ、証拠にならないよ!」
「二人で頼むんだ!先輩のためだよ!!」
「わかった!」
二人の少女は固い決意とともに、昼の歓楽街を後にしたのである。
二人が京王線の駅を目指したころ、向丘幼稚園では、事件が起こっていた。
「・・・・」
由加里はただ、絶句するほかなかった。
「あのね・・・・・・」
「だめだよ、由加里お姉ちゃん、ひとりでおトイレ行けないんでしょう?おねえちゃんが言ってたもん」
言うまでもなく、翔子の妹のみるくである。彼女の他に6名ほどの幼稚園児が、由加里を囲んでいる。
「だから、みんなで言ってあげなさいって、言われたの」
―――――園児の言うこと聞くんだよ。もしも、命令に聞かなかったらただじゃすまないからね。
高田の囁きを思い出した。まさに悪魔の囁きだった。こういうことだったのか。今まで、されてきたことを思えば、どんな行為も恐くない・・・・・はず・・・・・ではなかった。
―――――やっぱろコワイ!恐いよ!
由加里は殺されるかと思ったのである。それもやむないことだった。暴力に次ぐ、暴力、恥辱に次ぐ恥辱は、少女を完全に萎縮させていた。本来ならば、のびやかな精神の翼を羽ばたかせるはずの年齢なのに、圧縮された鉄くずのように、押し潰されてしまっているのだ。あまりに哀れだった。
「イコ!」
「行こうよ!おもらししちゃうよ!」
「・・・・・・・・・・?!」
由加里は、園児たちの心ない言葉に、死にたい気持になった。これほどの恥辱を味わったことはなかった。その顔がまさに汚れのない天使ゆえに、傷付ける力も想像以上だった。
「わかった・・・・・・・・・」
由加里は落涙しながらも、アタマを縦に振らざるを得なかった。
――――海崎さん、鋳崎さん、助けて・・・・・・・・・・。
もはや、その思いを疑うことすら忘れていた。
その時、照美とはるかは、園児たちをにこやかな時間を過ごしていた。はるかは一緒に遊んでみると、害がないばかりか、頼もしい姉ちゃんであることがわかったのであろう。照美は言わずもがなである。
「はるか!」
「そうだね、後を追うか」
二人は別れを惜しむ園児たちを後にして、由加里の後をそろりそろりと追った。
由加里を含めた8人の奇妙な行列は、あきらかにトイレに向かっていく。少女の顔は、泣きはらして、真っ赤になっていた。自分と10歳も違うあいてに、辱めを受けようとしているのだ。
由加里は、何回も逃げようとしたが、その度に、悪魔のような高田、それに金江の顔が浮かんだ。
――――あの人たち、人間じゃない!死にたい!死にたい!死にたい!海崎さん!鋳崎さん!
――――ああ、着いてしまった。
「おトイレですよ、ここまでおもらししなくて、りっぱですよ」
ぱち、ぱち、ぱちぱちぱちぱち!!
由加里を囲む少女たちは、拍手をする。おそらく、大人たちに躾られた結果だろう。悪意がないことは確かだった。それだけに由加里の心は回復不可能なくらいに切り刻まれていた。
――――ああ、もうどうにでもして!
由加里は、園児を引き連れて、個室に入った。
――ああ、小さい!
当然である。幼稚園児用のトイレなのだ。
「まずはぬぎ、ぬぎしよ」
みるくが言った。小さいながら、いじめっ子の才能、確たるものがある。
「またぐんだよ、ゆかりお姉ちゃん」
「いやあああ!!ウウ・ウ・・ウ・ウ・・ウ・ウ・ウ・ウ・・ウ・ウ」
泣きじゃくる由加里の足を摑むと、スカートと下着を脱がしはじめた。泣きわめこうとした少女の脳裏に、高田の顔が浮かんだ。アノ声が聞こえる。いじわるな吐息が耳にあたる。
「ウウ・・・ウ・・・ウ・自分で、脱げる!」
「うそよ!お姉ちゃん、じぶんじゃなにもできないっていってたもん、ちゅうがくでも、お姉ちゃんたちに、おトイレしてもらってるんでしょう!?」
―――――何処まで、自分を侮辱すればいいの?!
由加里は喉を振り絞って、心の中で叫んだ。しかし、状況は、少女を覆い尽くしている、もはや状況に任せる他はない。
「はい、はい、ちゃんとちまちょうね」
他の園児が、スカートと下着を脱がしてしまう。
「ウウウ・・ウ・ウ・ウ・・ウ・ウ・ウ・ウウウ!」
由加里は両手で顔を覆った。しかし、流れる涙を押さえることはできなかった。指と指から銀色のしずくが落ちていく。しかし、加害者たちは、その自覚を持っていなかった。ただ、かわいそうなお姉ちゃんを助けてあげているという奉仕の精神なのである。そんな由加里をさらに絶望させる出来事が起こっていた。
―――――え!?
由加里は目を疑った。指と指の間にかいま見えたものは、携帯電話だった。
―――写メール!!?
もう、何も言えなかった。
―――どうせなら、殺して!
「はいはい、ちゃんとちましょうね」
園児たちの号令がはじまる。朝からトイレに行っていないために、膀胱は、爆発寸前だった。しかし、極度の羞恥と緊張のために、筋肉が強ばっているのか、放尿というわけにはいかない。
「おかしいですねえ」
「そうだ!お姉ちゃんが言ってたみたいにやってみよう」
――――これ以上何を!?ぅああうああうああ!!いやあああ!!
みるくは指で、由加里の恥部を刺激しはじめたのである。
「おねがい!おねがいだから!やめてっっっっっっっっっ!!ウウ・ウ・・ウ・ウ・ウ・ウ・ウ・ウウ・ウウ!」
「みんなも手伝ってあげなさいよ!お姉ちゃんがおしっこできないでしょう」
みるくの残酷な言葉ととともに、幼い悪魔たちは、それぞれ、由加里の膣を弄りはじめる。
「くあ!くああうあうあううあうあ!!」
何度、抵抗しようと思ったか、その度に高田と金江の顔が浮かんだ。その頭には、それぞれ牙と鬼のような角が生えていた。
「フウ、ア、アフアアウフアウウア!いやあ!いやあ!ぅっぃ!」
複数の指には、複数の意思が備わっている。ばらばらの意思は、予想外の刺激を由加里に与える。性的刺激は、予想外であることに要諦がある。男子諸君は、自分で睾丸に触れても気持ちよくないが、彼女に触れてもらうと、予想外に快感であることに仰け反った記憶があるだろう。性的に興奮していることも、加味されるだろうが、予想外というファクターが一番であろう。
誰かの指がクリトリスに触れた。
「ィアアアアアウアアアアアヤアイヤアア・・・・・・・」
「あ!出た出た!!」
「あれ?おかしいな!黄色くない!え?由加里ちゃん、病気なの!?」
「いやあああ!!」
「あ!黄色くなった!」
言うまでもなく、前者は絶頂を迎えたことによる、潮吹き、そして、後者が放尿である。
「ぅうああわああああああ!!」
由加里は園児たちの鼓膜が破れんばかりに、絶叫した。スカートを穿くと、トイレから飛び出した。
そして、茂みを見つけるとそこに伏して、泣きじゃくった。
――――ひどい!ひどい!私がこんな目に遭わなきゃいけない何をしたの!?悪魔!悪魔!悪魔!あんたたち、みんな悪魔よ!みんな消えちゃえ!みんな嫌い!嫌い!ミチルちゃんも貴子ちゃんも!ママも!みんな大嫌い!みんな死んじゃえ!!!!
由加里の声は、照美とはるかの耳にも届いていた。ちょうど、トイレから6人の園児が飛び出したところだった。一様にきゃきゃとはしゃいでいる。その一人の手に光っているものに目が止まった。
「携帯電話?」
「とれた?」
「とれたよ!」
「ねえ、みるくちゃん」
「あ?照美あ姉ちゃん」
照美は、みるくから容赦なく、それを奪い取った。マドンナの微笑を浮かべながら、行っただけに、その行為はより恐怖を園児たちに与えたようだ。
「これ、私から穂灘さんに渡しておくから」
「そう?」
照美は、園児たちを行かせると、携帯を見た。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・!!?」
そこには、はたして、由加里が放尿している痴態が映っていた。しかも、周囲には6人の園児がピースをしているのだ。
―――――ひどい!
今まで、自分たちが由加里にしたことも忘れてそう思った。
「違うわよ!あれはわたしたちだけの所有物よ!それを侵害されたから怒っているのよ」
わざと難しい言葉を使うのは、自分たちの気持を誤魔化すためだった。
しかし、両足は、自然に向かう、由加里の泣き声がする方向へ。
「由加里!」
照美の口から、普段と違う風で、少女の名前が呼ばれた。由加里は、小枝が肢体に刺さるもの構わず、身を隠して、泣きじゃくっている。
「あ、アクマ!来ないで!殺してよ!アクマ!アクマ!アクマあああああああああ!」
由加里は明らかに正気を失っていた。
「近づかないで」
「由加里ィ」
さらに近づこうとすると、由加里はフェンスを超えようとした。しかし、足がもたついて、向こう側に崩れ落ちる。顔に泥がついた。しかも赤いモノが見えるではないか。
「あ、アクマ、来ないで!!」
そんなこと、気にならないのか、立ちあがると、泣きながら走っていく。
「由加里!待ちなさい!」
照美の声にさらに怯えたるのか、さらに身体を陽の元に踊り出させる。
「由加里ィ!ああ!」
はたして、そこは車道だった。
キキキキキキキィ!!大気を切り裂く音が、地平線上に轟いた。
フェンスを超えた照美とはるがが見たもの ―――――――――――――――――。
赤く煌めく、車頭と、燃えるアスファルトに寝そべる由加里の姿だった。それは熱気で、燃えてしまうように思えた。
「由加里!!」
ふたりは、叫んだ。しかし、次の瞬間、信じられない人間を見ることになる。
赤い車体が煌めいて、出てきた人物は!?血相を変えた美貌が宿る長身は!
「ママ!」
「百合絵ママ!!」
三人は同時に絶句した。
しかし、照美が、地軸が入れ代わるほどの衝撃を受けたのは、その人物の口から飛び出た一言だった!!
邸町とは、何と、少女たちが通う中学の学区である。由加里の家から徒歩で、20分ほどの場所にある。
「じゃあ、明日にでも張り込みに行こうよ」
「まるで、刑事か探偵みたいね」
「バカ、ミチル、遊びじゃないのよ」
「・・・・・・じゃ、帰ろうか」
由加里の顔が瞬く間に、影を濃くしていく。家族の顔を思い浮かべたのだ。あきらかに軽蔑の表情を浮かべる郁子と春子。再び、あそこに帰られねばならないのか。それを思うと、少女は気が重くてたまらなかった。
「ねえ、先輩、やっぱり聞いておかないといけないと思うんですよ」
「―――ミチルちゃん?」
涙を拭いた。
「照美姉とはるか姉のことですけど・・・・・・」
由加里の中に、衝撃が走った。あの二人の名前を聞くだけで、脊椎に太い鉄芯を貫かれたような痛みが生ずる。
「あれから、二人に何度も確認しているんですけど、無しの礫なんですよ」
「・・・・そ、そうなの!?か、海崎さんは、一緒にお弁当を食べてくれたよ、鋳崎さんも」
「え?ホントですか?!」
由加里は、やはり真実を言うことが出来なかった。それは、自分のことを思ってくれている二人に対する裏切りのように思えたが、あの二人の視線を感じただけで、蛇に睨まれたカエルのように、身動きできなくなってしまうのだ。
―――あの二人とは自分で解決しないといけない。
そのことが、あたかも不磨の大典のように、由加里の中にある。一体、何を指して解決というのか、未だにわからないが、とにかく、ミチルたちに、迷惑をかけたくなかったのだ。
「でも、あしたは授業があるから」
「土曜日ですよ」
「特別授業なの、ボランティア。幼稚園にいくの」
最近の中学では、ボランティアというのが必修になっている。その一環として、学区内の幼稚園への手伝いというカリキュラムがある。もちろん、全クラスメートが一挙に赴くわけではない。当然、何班かに分けていくわけだが、由加里は、土曜日に決まっていた。
その班というのが、恐ろしいことに、照美やはるかだけでなく、高田や金江までが入っていた。少女を所有するご主人さまが勢揃いというわけだ。こうまで、いじめっ子たちが勢揃いすると、壮観だとも言えた。
このころには、事態を達観できるようになっていたのだろうか? いや、そんなことはない。ほとんどやぶれかぶれである。
由加里の顔が暗くなった。
まさか、いじめっ子たちも、幼稚園児の前で、何かをするとも思えない。元々、面倒見が良い方なので、小さな子どもが嫌いなわけではない。そもそも、一年生たちにお姉さんのように、慕われていたことを思い出してほしい
幼稚園には、当然、先生がいる。外部の人間だ。しかし、一抹の不安は否定できない。クラス全体に行き渡ったいじめが、どんな結果を産むのか、全く予想がつかない。
見知らぬ子たちの前で、いじめられっ子としてのブザマな姿を晒すなど―――――、とうてい受け入れられることではなかった。
「じゃあ、私たちだけで探りますよ」
「でも、顔を知らないよ」
「画像あります?」
ミチルは携帯を取り出した。
ここで、写真と聞かなかったのは、まさに現代っ子のようでおもしろい。
「あるわよ」
由加里も携帯を取り出す。淳一が映った画像を選ぶと、メールで二人に送る。
「すごい!すごい!美形じゃないですか?」
二人とも、携帯の画面を見ながら騒ぐ。画像の人物が悪人だと知っても、その美貌には感嘆の念を禁じられない。やはり、普通の中学生の女の子なのだ。
「あ、もう9時になるわ、早く帰らないとまずい」
ミチルが言った。
「そうだね」
三人は、夜の町を急いだ。由加里は帰宅すると思うと頭が重くてしょうがなかった。家族の顔を見るのが苦痛なのだ。
「まーた!暗い顔をする!だめですよ!先輩!」
ミチルが言った。ちょうど、由加里は電車の窓から、観覧車だ。多分、この近くに遊園地があるのだろう。
「夜でもやってるんだ」
「あ、知らなかったんですか?最近は、夜の空中散歩が人気らしいですよ、彼がいない私たちには関係ないですけど」
「あんたと一緒にしないでよ」とは、貴子。
「なによ!あんた、彼がいるの!?」
二人の喧噪は、由加里に笑顔を及ぼさなかった、別のことに気を取られていたからだ。だんだん、小さくなっていく光の輪を見ていると、ある考えが浮かんできたのだ。
「私、あれに乗りたい ――――――――」
「え?もう、9時を超えているんですよ」
「乗りたい ―――――」
「先輩!」
こんなに強く自分を主張するのは、はじめてだった。後輩の視線ながら、貴子は、こういうことが西宮先輩は、足りないと思っていたのだ。
「付き合いますよ、一緒に行きましょう。たしか11時までやっているはずです。姉が言っていましたから」
「貴子!」
「いいよ、あんたは帰ればいいじゃない」
「まったーく、だって、先輩、あした受業があるんでしょう?」
「でも、行きたいの」
「解りました、私も行きます!」
半ばやけくそになって、言った。
「でも、貴子は知ってるの」
「うん、次の駅で乗り換えよ。そんでもって、二駅で着くわ、三宅が丘遊園地」
貴子が言い終わる前に、駅についた、人気のないプラットホームに走る三人。遠目に、その姿はとても乾いて見えた。パンパンという足音は、銃声に聞こえた。
――――こんな時間にあんな子どもが ―――――――。
息子が、来年高校受験というサラリーマンにとってみれば、小学生も中学生も大差ないのだった。
「あの観覧車だね、さぞかしネオンサインがキレイに見えるだろうな―――――――」
まるで小学生のようにはしゃぐ由加里。
貴子は、そんな先輩を見て、ある種の危機を感じた。今すぐにでも、泣き始めるのではないかと危惧したのだ。
遊園地は、駅から徒歩で五分ほどの場所にあった。夜ゆえに、30分くらいに感じた。何よりも、三人は、きょうびの中学生にしては世慣れしていないほうだった。9時半という時刻に、近所を歩くことすらはばかれるのに、都心近くの、こんなところでさまよっているのである。
その行為は、少女たちの不安感を刺激したが、それ以上に好奇心を刺激した。親に対する後ろめたさとうらはらに、自立の一歩を踏み出しているという自覚との間で、ゆれていた。それはたぶんに中途半端だったが、少女たちにとってみれば本気だったのである。
往来を歩く人達の反応もまた、少女たちを敏感にした。こんな時刻に、ふつうの少女が夜をさまよっている。いったい、何事があったのだろうか?しかし、次の瞬間、都会の背広たちは、芽吹いた好奇心に背を向けるのだ。すなわち、見てみぬふりをするのである。これは、いわゆる都会の無関心といわれるものである。
少女たちは、大人たちの中途半端な好奇心に、振り回されることなく、観覧車に乗ることに成功した。
「わーあ! 動いた!」
当然のことだが、係員がドアを閉めると、動き出した。ちょうど巨大な天球図に組み込まれたような気がした。いわば、立体のプラネタリウムだ。
少女たちは、一様に感性を上げた。
ゆっくりと持ち上がっていかれる感覚は、ジェットコースターに似ている。だんだんと興奮の渦へと上り詰めていくような気がする。
「夜景ね」
「レンブラントの絵ね」
「あれは夜景でも、漢字が違うわよ夜の警備って書いて、夜警、ミチルちゃん」
「さーすが先輩!」
「あんたに教養がないのよ、ミチル」
「貴子は、口が強すぎるのよ」
「何よ?強すぎるって?」
由加里は、ふたりの会話を聞いていて、うらやましく思った。
「ねえ、ミチルちゃん、貴子ちゃん」
「何ですか? 改まって」
「・・・・・・・・・・・・・?」
ふたりは、由加里のタダならない様子におもわず、襟を正した。
「私のこと、由加里って、呼んでくれない?たった一年違うだけなのに ―――」
「え?だめですよ、先輩は、先輩なのに」
「! 」
無言で、ミチルを制すると、言葉を続けた。
「だめですよ、目の前のコトから逃げたら」
「貴子ちゃん ―――――?」
「いいですか?先輩は、私たちを友達の代わりにしたいだけなんですよ」
年齢が年齢だけに、直言なのは許されるだろう。
「そんな!ひどい!そんなこと思ったことないよ!」
由加里は涙声になっていた。
「もしも、ですよ。もしも、いじめられていなくて、友人関係も普通だったら、そんなこと言いました?」
「・・・・・・・・・・・?!」
改めて、惨めな思いにさせられた。自分がいじめられっ子であることを、自覚させられるのは、いい気分はしない。
「私も、なんか変だな、先輩のこと、呼び捨てにするなんて」
ミチルが合いの手を入れる。
「もしも、お互いに卒業したら、そうしましょう。先輩さえよければ」
「貴子ちゃん」
「でも、あたしにとって、先輩はずっと、先輩だな」
「ミチルちゃん ・・・・・・・・」
涙をこぼす由加里に、貴子は、しかし、その点だけは譲ることはなかった。
翌日、由加里は眠い目を擦りながら、やっと起床できた。6時半。いつもの通りだ。しかし、覚醒がいつものようにいかない。頭が痛い。しかし、これは夜更かしのせいではない。帰宅したのが10時を超えていたからではない。春子にさんざん殴られたからである。昨夜、由加里が帰宅すると、玄関に立っている異形の者があった、仁王立ちに、帰宅者を睨みつけるのは、春子だった。
「ママ ――――――――」
由加里は、母親の顔を見ると絶句した。見たこともないような恐ろしい顔だったのである。
「た、ただいま ―――――」
靴を脱いで、玄関に踏み入れようとした、その時である。春子は、由加里に掴みかかると、めちゃくちゃに殴りだしたのである。それが無言であることが、余計に恐怖を与えた。その上に不思議だったのは、騒ぎを聞いているはずなのに、家族が誰も来ようとしないことだ。
「助けて!」
いくら、少女が叫んでも誰も来ない。
―――もう、帰ってくるなってことなの!?
そう思ったところで、芳しい匂いが漂ってくるのがわかった。思わず、オナカが鳴るのを感じた。マックで、食べたのは、チーズバーガーが一個だけだ。それは、胃の中で、貧相なダンスを踊っている。かえって、そのことは由加里をして、空腹を感じせしめた。
台所から、何やら物音が聞こえる。
「ママあ!許して!お願い!」
まだ、春子は由加里の上に乗っかって、殴りつけている
「郁子!」
その時、台所から出てきたのは妹だった。彼女は姉を見ると、春子に負けないくらいに恐い顔で睨みつけた。そして、二階に上がった行った。
「ママ・・・・・!!」
そして、春子も二階に上がってしまった。由加里は涙にくれながら、台所に入った。今更、後かたづけだと思うと、はたして、テーブルの上に、由加里の食事が湯気を立てていた。
「ママ!郁子!」
由加里は泣きながら、遅い夕食を取った。スパイスに凝った特製の、タンドリーチキン。春子の得意な料理である。付け合わせのスパゲティは、さすがに延びていたが、これまで食べたどのスパゲティよりも美味しかった。食事を終えて、食器を洗おうとすると、郁子が入ってきた。
「い、郁子!わたし、いじめられているの!いじめているなんて、嘘よ!お願いだから信じて!信じてくれなかったら、生きて行けな・・・・・・ウウ・ウ・ウ・ウ・ウ・」
その後は言葉には、ならなかった。
「郁子!」
しかし、妹は完全に姉を無視していた。しかる後に、冷蔵庫を開けると、由加里の大好物を取り出した。カフェオレのババロアだった。
「郁子が作ってくれたの?」
「・・・・・・・・・・」
郁子は姉の問いかけに、一切答えずに、由加里の前に置くと、そのまま台所を去っていった。
「みんな、ものすごく怒っているんだね・・・・ウ・・ウ・ウ・・ウ・ウ・ウ・・ウウ!ごめんね!ごめんなさい!」
由加里は、ババロアを口にしながら、泣いていたが、郁子がまた、その陰で落涙していたことを知らない。
由加里は、制服に着替えると、股間に手を這わせようとした。
―――あ、そうだ!今日はヤダ!・・・・・どうしよう!でも!止めとこう!
少女は、言いつけを守らなかった。あれだけ、由加里を辱めたおむつは、机の中だ。
毎朝、自慰をして、ゆで卵を性器に挿入する。そして、おむつを穿く。口に出すのも、おぞましい行為である。しかしながら、その日、それを完全に、拒否した。幼稚園児たちの前で、そんな姿を晒すのは、死ぬよりも嫌だったのである。
―――それなら、殺されたほうがまし!
おむつは、タイムマシンに乗って、何処ぞの世界にでも流れてしまえばいい。そう思った。
悲愴な決意の元、由加里は家を出た。
「じゃあ、明日にでも張り込みに行こうよ」
「まるで、刑事か探偵みたいね」
「バカ、ミチル、遊びじゃないのよ」
「・・・・・・じゃ、帰ろうか」
由加里の顔が瞬く間に、影を濃くしていく。家族の顔を思い浮かべたのだ。あきらかに軽蔑の表情を浮かべる郁子と春子。再び、あそこに帰られねばならないのか。それを思うと、少女は気が重くてたまらなかった。
「ねえ、先輩、やっぱり聞いておかないといけないと思うんですよ」
「―――ミチルちゃん?」
涙を拭いた。
「照美姉とはるか姉のことですけど・・・・・・」
由加里の中に、衝撃が走った。あの二人の名前を聞くだけで、脊椎に太い鉄芯を貫かれたような痛みが生ずる。
「あれから、二人に何度も確認しているんですけど、無しの礫なんですよ」
「・・・・そ、そうなの!?か、海崎さんは、一緒にお弁当を食べてくれたよ、鋳崎さんも」
「え?ホントですか?!」
由加里は、やはり真実を言うことが出来なかった。それは、自分のことを思ってくれている二人に対する裏切りのように思えたが、あの二人の視線を感じただけで、蛇に睨まれたカエルのように、身動きできなくなってしまうのだ。
―――あの二人とは自分で解決しないといけない。
そのことが、あたかも不磨の大典のように、由加里の中にある。一体、何を指して解決というのか、未だにわからないが、とにかく、ミチルたちに、迷惑をかけたくなかったのだ。
「でも、あしたは授業があるから」
「土曜日ですよ」
「特別授業なの、ボランティア。幼稚園にいくの」
最近の中学では、ボランティアというのが必修になっている。その一環として、学区内の幼稚園への手伝いというカリキュラムがある。もちろん、全クラスメートが一挙に赴くわけではない。当然、何班かに分けていくわけだが、由加里は、土曜日に決まっていた。
その班というのが、恐ろしいことに、照美やはるかだけでなく、高田や金江までが入っていた。少女を所有するご主人さまが勢揃いというわけだ。こうまで、いじめっ子たちが勢揃いすると、壮観だとも言えた。
このころには、事態を達観できるようになっていたのだろうか? いや、そんなことはない。ほとんどやぶれかぶれである。
由加里の顔が暗くなった。
まさか、いじめっ子たちも、幼稚園児の前で、何かをするとも思えない。元々、面倒見が良い方なので、小さな子どもが嫌いなわけではない。そもそも、一年生たちにお姉さんのように、慕われていたことを思い出してほしい
幼稚園には、当然、先生がいる。外部の人間だ。しかし、一抹の不安は否定できない。クラス全体に行き渡ったいじめが、どんな結果を産むのか、全く予想がつかない。
見知らぬ子たちの前で、いじめられっ子としてのブザマな姿を晒すなど―――――、とうてい受け入れられることではなかった。
「じゃあ、私たちだけで探りますよ」
「でも、顔を知らないよ」
「画像あります?」
ミチルは携帯を取り出した。
ここで、写真と聞かなかったのは、まさに現代っ子のようでおもしろい。
「あるわよ」
由加里も携帯を取り出す。淳一が映った画像を選ぶと、メールで二人に送る。
「すごい!すごい!美形じゃないですか?」
二人とも、携帯の画面を見ながら騒ぐ。画像の人物が悪人だと知っても、その美貌には感嘆の念を禁じられない。やはり、普通の中学生の女の子なのだ。
「あ、もう9時になるわ、早く帰らないとまずい」
ミチルが言った。
「そうだね」
三人は、夜の町を急いだ。由加里は帰宅すると思うと頭が重くてしょうがなかった。家族の顔を見るのが苦痛なのだ。
「まーた!暗い顔をする!だめですよ!先輩!」
ミチルが言った。ちょうど、由加里は電車の窓から、観覧車だ。多分、この近くに遊園地があるのだろう。
「夜でもやってるんだ」
「あ、知らなかったんですか?最近は、夜の空中散歩が人気らしいですよ、彼がいない私たちには関係ないですけど」
「あんたと一緒にしないでよ」とは、貴子。
「なによ!あんた、彼がいるの!?」
二人の喧噪は、由加里に笑顔を及ぼさなかった、別のことに気を取られていたからだ。だんだん、小さくなっていく光の輪を見ていると、ある考えが浮かんできたのだ。
「私、あれに乗りたい ――――――――」
「え?もう、9時を超えているんですよ」
「乗りたい ―――――」
「先輩!」
こんなに強く自分を主張するのは、はじめてだった。後輩の視線ながら、貴子は、こういうことが西宮先輩は、足りないと思っていたのだ。
「付き合いますよ、一緒に行きましょう。たしか11時までやっているはずです。姉が言っていましたから」
「貴子!」
「いいよ、あんたは帰ればいいじゃない」
「まったーく、だって、先輩、あした受業があるんでしょう?」
「でも、行きたいの」
「解りました、私も行きます!」
半ばやけくそになって、言った。
「でも、貴子は知ってるの」
「うん、次の駅で乗り換えよ。そんでもって、二駅で着くわ、三宅が丘遊園地」
貴子が言い終わる前に、駅についた、人気のないプラットホームに走る三人。遠目に、その姿はとても乾いて見えた。パンパンという足音は、銃声に聞こえた。
――――こんな時間にあんな子どもが ―――――――。
息子が、来年高校受験というサラリーマンにとってみれば、小学生も中学生も大差ないのだった。
「あの観覧車だね、さぞかしネオンサインがキレイに見えるだろうな―――――――」
まるで小学生のようにはしゃぐ由加里。
貴子は、そんな先輩を見て、ある種の危機を感じた。今すぐにでも、泣き始めるのではないかと危惧したのだ。
遊園地は、駅から徒歩で五分ほどの場所にあった。夜ゆえに、30分くらいに感じた。何よりも、三人は、きょうびの中学生にしては世慣れしていないほうだった。9時半という時刻に、近所を歩くことすらはばかれるのに、都心近くの、こんなところでさまよっているのである。
その行為は、少女たちの不安感を刺激したが、それ以上に好奇心を刺激した。親に対する後ろめたさとうらはらに、自立の一歩を踏み出しているという自覚との間で、ゆれていた。それはたぶんに中途半端だったが、少女たちにとってみれば本気だったのである。
往来を歩く人達の反応もまた、少女たちを敏感にした。こんな時刻に、ふつうの少女が夜をさまよっている。いったい、何事があったのだろうか?しかし、次の瞬間、都会の背広たちは、芽吹いた好奇心に背を向けるのだ。すなわち、見てみぬふりをするのである。これは、いわゆる都会の無関心といわれるものである。
少女たちは、大人たちの中途半端な好奇心に、振り回されることなく、観覧車に乗ることに成功した。
「わーあ! 動いた!」
当然のことだが、係員がドアを閉めると、動き出した。ちょうど巨大な天球図に組み込まれたような気がした。いわば、立体のプラネタリウムだ。
少女たちは、一様に感性を上げた。
ゆっくりと持ち上がっていかれる感覚は、ジェットコースターに似ている。だんだんと興奮の渦へと上り詰めていくような気がする。
「夜景ね」
「レンブラントの絵ね」
「あれは夜景でも、漢字が違うわよ夜の警備って書いて、夜警、ミチルちゃん」
「さーすが先輩!」
「あんたに教養がないのよ、ミチル」
「貴子は、口が強すぎるのよ」
「何よ?強すぎるって?」
由加里は、ふたりの会話を聞いていて、うらやましく思った。
「ねえ、ミチルちゃん、貴子ちゃん」
「何ですか? 改まって」
「・・・・・・・・・・・・・?」
ふたりは、由加里のタダならない様子におもわず、襟を正した。
「私のこと、由加里って、呼んでくれない?たった一年違うだけなのに ―――」
「え?だめですよ、先輩は、先輩なのに」
「! 」
無言で、ミチルを制すると、言葉を続けた。
「だめですよ、目の前のコトから逃げたら」
「貴子ちゃん ―――――?」
「いいですか?先輩は、私たちを友達の代わりにしたいだけなんですよ」
年齢が年齢だけに、直言なのは許されるだろう。
「そんな!ひどい!そんなこと思ったことないよ!」
由加里は涙声になっていた。
「もしも、ですよ。もしも、いじめられていなくて、友人関係も普通だったら、そんなこと言いました?」
「・・・・・・・・・・・?!」
改めて、惨めな思いにさせられた。自分がいじめられっ子であることを、自覚させられるのは、いい気分はしない。
「私も、なんか変だな、先輩のこと、呼び捨てにするなんて」
ミチルが合いの手を入れる。
「もしも、お互いに卒業したら、そうしましょう。先輩さえよければ」
「貴子ちゃん」
「でも、あたしにとって、先輩はずっと、先輩だな」
「ミチルちゃん ・・・・・・・・」
涙をこぼす由加里に、貴子は、しかし、その点だけは譲ることはなかった。
翌日、由加里は眠い目を擦りながら、やっと起床できた。6時半。いつもの通りだ。しかし、覚醒がいつものようにいかない。頭が痛い。しかし、これは夜更かしのせいではない。帰宅したのが10時を超えていたからではない。春子にさんざん殴られたからである。昨夜、由加里が帰宅すると、玄関に立っている異形の者があった、仁王立ちに、帰宅者を睨みつけるのは、春子だった。
「ママ ――――――――」
由加里は、母親の顔を見ると絶句した。見たこともないような恐ろしい顔だったのである。
「た、ただいま ―――――」
靴を脱いで、玄関に踏み入れようとした、その時である。春子は、由加里に掴みかかると、めちゃくちゃに殴りだしたのである。それが無言であることが、余計に恐怖を与えた。その上に不思議だったのは、騒ぎを聞いているはずなのに、家族が誰も来ようとしないことだ。
「助けて!」
いくら、少女が叫んでも誰も来ない。
―――もう、帰ってくるなってことなの!?
そう思ったところで、芳しい匂いが漂ってくるのがわかった。思わず、オナカが鳴るのを感じた。マックで、食べたのは、チーズバーガーが一個だけだ。それは、胃の中で、貧相なダンスを踊っている。かえって、そのことは由加里をして、空腹を感じせしめた。
台所から、何やら物音が聞こえる。
「ママあ!許して!お願い!」
まだ、春子は由加里の上に乗っかって、殴りつけている
「郁子!」
その時、台所から出てきたのは妹だった。彼女は姉を見ると、春子に負けないくらいに恐い顔で睨みつけた。そして、二階に上がった行った。
「ママ・・・・・!!」
そして、春子も二階に上がってしまった。由加里は涙にくれながら、台所に入った。今更、後かたづけだと思うと、はたして、テーブルの上に、由加里の食事が湯気を立てていた。
「ママ!郁子!」
由加里は泣きながら、遅い夕食を取った。スパイスに凝った特製の、タンドリーチキン。春子の得意な料理である。付け合わせのスパゲティは、さすがに延びていたが、これまで食べたどのスパゲティよりも美味しかった。食事を終えて、食器を洗おうとすると、郁子が入ってきた。
「い、郁子!わたし、いじめられているの!いじめているなんて、嘘よ!お願いだから信じて!信じてくれなかったら、生きて行けな・・・・・・ウウ・ウ・ウ・ウ・ウ・」
その後は言葉には、ならなかった。
「郁子!」
しかし、妹は完全に姉を無視していた。しかる後に、冷蔵庫を開けると、由加里の大好物を取り出した。カフェオレのババロアだった。
「郁子が作ってくれたの?」
「・・・・・・・・・・」
郁子は姉の問いかけに、一切答えずに、由加里の前に置くと、そのまま台所を去っていった。
「みんな、ものすごく怒っているんだね・・・・ウ・・ウ・ウ・・ウ・ウ・ウ・・ウウ!ごめんね!ごめんなさい!」
由加里は、ババロアを口にしながら、泣いていたが、郁子がまた、その陰で落涙していたことを知らない。
由加里は、制服に着替えると、股間に手を這わせようとした。
―――あ、そうだ!今日はヤダ!・・・・・どうしよう!でも!止めとこう!
少女は、言いつけを守らなかった。あれだけ、由加里を辱めたおむつは、机の中だ。
毎朝、自慰をして、ゆで卵を性器に挿入する。そして、おむつを穿く。口に出すのも、おぞましい行為である。しかしながら、その日、それを完全に、拒否した。幼稚園児たちの前で、そんな姿を晒すのは、死ぬよりも嫌だったのである。
―――それなら、殺されたほうがまし!
おむつは、タイムマシンに乗って、何処ぞの世界にでも流れてしまえばいい。そう思った。
悲愴な決意の元、由加里は家を出た。
貴子の誘いで、マックに行くことになった。
由加里とミチルは、かなりの時間、二人で対峙していたらしい。彼女に話しかけられるまで、二人は、そのことにすら気づかなかった。三人とも蝋人形のように、無言のまま、レジに押しかけ、注文を終えると、夜の街がよく見える場所に席を求めた。トレーを運んだのは由加里である。
「夜景がきれいですね、こんな席で、ロマンティックな気分ですか?よくそんな気分になれますね、私はなれませんけど」
付き合っていながら、不満たらたらの体で由加里にあたる。
「ミチルちゃん・・・・・・・・・!?」
「ミチル!」
由加里は絶句し、貴子は切れた。
「あんた!何を考えているのよ!いい加減にしなさいよ!」
ミチルは、まるで1980年代の不良のように、スネている。それは、不恰好に組まれた足にも表現されている。剣呑な表情に、全身を包んでいる。だから、貴子に何を言われても、知らん顔だ。あさっての方向を向いている。
「ミチルちゃん、こうやって誘ってくれたのは、まだ許してくれるってことだよね」
由加里は、絶え絶えの精神状態で、やっと言葉を紡いだ。葉っぱの一枚、一枚は、擦り切れて、葉脈が食み出ている。
「先輩 ――――」
「はーん、誘ったのは貴子じゃないですか?あたしは、彼女に付いてきただけですよ、ちょうど、ライブで疲れたしね・・・・・・・・・な!貴子!!何するのよぉ!!」
ミチルの頭を襲ったのは、冷たいコーラのシャワーだった。氷が入っていたのはご愛嬌というところだろうか。
「た、貴子ちゃん!」
「いつまでたっても信用してくれないのは、先輩の方でしょう?!この人、友達なんて欲しくないのよ!」
「ともだち? ウウ・・・・ウ・ウ・・ウ・ウウ!!」
その一言を聞くなり、由加里はポロポロと涙をこぼしはじめた。
まるで水銀のような粒のひとつひとつは、それぞれ煌めいて、それぞれ、星を形作っていた。そして、その星々は、それぞれ主張を持っているようにも見えた。
つい、1年前まで、その言葉の重みを理解していなかった。少女の周囲に、存在して、あたりまえだったからだ。小さい時から常に人気の的だった。誰もが、少女の隣にいることを希望した。その席を巡って、みんな争っていた。それを見て、少女はただ微笑んでいればよかった。
「な、泣けばいいでしょう?!本当に泣きたいのはこちらの方ですよ!」
ミチルは、狼狽を隠すように、足を組みなおす。
しかし、その手や足首は震えて、目つきはうろうろとしていた。
―――この不器用な子が、何をやっているのよ!
貴子はそう思いながら、手を動かした。ミチルは、何をするつもりだと、高をくくっていると、はたして、平手打ちが飛んできた。
ビシッ!
冷房で乾ききった空気に、その音はよく響いた。
「あんたさ!言ったよね、先輩にさ、信用できないなら、しなくてもいいって!!それで納得したんじゃないの?!あんたなんか、嘘つきのへんべらぽんよ!」
「へんべらぽん?!」
「もう知らない!」
貴子は立ち上がると、去ろうとした。
「待って、貴子ちゃん!」
「・・・・・・・・・」
由加里の声に立ち止まらざるをえなかった。
「先輩、行きましょう、こんなの相手にしていてもしょうがないよ!」
貴子は、改めて由加里を見た。躰が小刻みに震えている。それは、効き過ぎている冷房のせいだけではないだろう。
「先輩!」
「私ね、私・・・・・・・・・」
「座ってください、さあ、落ち着いて」
由加里の尋常でない様子に、ミチルも旋毛を元に戻したようだ。
「何があったんですか?」
氷が完全に溶けたコーラを一口飲む。
「お、男の人にね・・・・されちゃたの!!・・・大切なもの・・・・・何もかも、奪われちゃった・・・・・・・・・」
「・・・・・・・!!」
その一言で、すべて通じた。二人は絶句するとともに、その身を燃え上がらせるような怒りを感じた。それは、由加里をいじめる部員に対する怒りとはまた違った種類のものだった。しかし、今、できることは、彼女の傷に燃えさかる哀しみの炎を鎮圧するだけだった。それが唯一、彼女に示せる誠意だった。
しかし、誰に?とは口が裂けても言えなかった。ただ、目の前で大事な人が、血まみれになっているにも、係わらず、何の手当も出来ない、おのれの無能さを恨むだけである。
――――どうすればいいのか?もどかしい!
ミチルが手をこまねいているときに、貴子は、別のことを考えていた。
「じゃあ、警察に行きましょうよ、先輩」
「・・・・・・・・・・」
「貴子!」
「じゃあ、このまま黙っているんですか?」
「相手はわかっているの」
何かを決めたという顔をした。
「じゃあ、話しは早いじゃないですか」
貴子は畳み掛ける。
「あ、相手は淳一さんなの ――――――――冴子姉さんの許婚者」
「え?」
「な!!」
しばらくの間、由加里と交際を絶っていたために、その名前を知らなかったが、由加里から、その由来を知って、さらに怒りを燃え上がらせた。さらに姉に言われたこと知ると、怒りを複雑な色に塗り替えてしまった。
「そんな!信じてくれないんですか?」
冴子とは、直接の知己はなかったが、由加里の話を通じて、相当に仲が良いことは、わかっていた。
「で、先輩はどうしてほしんですか?いや、どうしたいんですか?」
貴子である。今回は、彼女が先に立って、由加里を支えている。
「さ、冴子姉さんにきら、嫌われたことが、まだ信じられない。この疑いが晴れないと生きていられない!」
言い終わるなり、号泣をはじめた。
「先輩にとって、お姉さんが一番大切なんですね」
「た、貴子ちゃん・・・・・・・」
もしかして、取り戻すことができるかもしれない。
由加里はそう思った。大事な二人との関係を、もう一度構築できるかの瀬戸際だった。
それがあっという間に事切れてしまう。
しかし、それは杞憂だった。
「それは、わかりますよ、みんなでどうしたらいいのか、考えましょうよ」
「私も協力しますよ」
「貴子ちゃん、ミチルちゃ・・・・・・」
零す涙はもうないと思っていた。しかし、留め止めなく涙はあふれてくる。
――――こんな私でも、味方をしてくれるひとがいる。しっかりしないと、この人たちまで、私を見限ってしまう。
「どうしたら、冴子姉さんがわかってくれるかな」
「もう一度、言ってみたらどうですか?姉妹なんですから」
「それはどうかな?姉妹とは言っては、男のことだから」と貴子。
「でも、相手は中学生じゃない」
ミチルは、あたかも、自分が大人であるかのように、達観している。
「よほど、その男が好きだったんじゃない」
「先輩、その男って何処に住んでいるんですか?」
「姉と同棲しているの」
「じゃあ、これから行ってみましょうよ、とっ捕まえて、やり込めてやりましょう」
「貴子ちゃん・・・・・・・」
いつになく積極的な貴子を不思議に思い、あるいは、頼もしく思った。
姉のマンションは、駅前のマックから徒歩で五分ほどである。既に、夜の8時を超えている。
「いいの?ミチルちゃん、貴子ちゃん」
「何、言って居るんです?わたしたちが親から大目玉もらうなんて、何てことないですよ」
――――親?
それを聞いて、由加里は悲しくなった。
「あなたなんて、もう娘とは思いません、勝手になさい」
その言葉は、少女の心の中に侵入して、脳の到るところを傷付けて回る。まるで回虫のように、行くところ行くところを傷付ける。
三人は、街角からマンションを見張っている。もう10分ほど経つ。
「本当に出てくるのかなあ、同棲してるんでしょう?」
「出てくるって、ミチル」
貴子は確証があるようだ。
「当たり前でしょう?裏切られたのよ!ふつうだったら追い出すな、だって、先輩のお父さんの名義なんでしょう」
由加里は目でイエスと言った。
「あ、淳一さん」
「敬称なんて付ける必要はないですよ、あんなおとこのクズに!」
貴子は、吐き捨てるように言った。
「さ、後を追うよ」
「待って、ミチルちゃん、もう淳一さんが何処に行くかわかった」
「え?」
「実家を知っているから ――――――」
「それって、遠いんですか?」
「邸町よ」
「それって何線? ――――――?あ!まさか」
ミチルは、勝手に自己解決していた。
由加里とミチルは、かなりの時間、二人で対峙していたらしい。彼女に話しかけられるまで、二人は、そのことにすら気づかなかった。三人とも蝋人形のように、無言のまま、レジに押しかけ、注文を終えると、夜の街がよく見える場所に席を求めた。トレーを運んだのは由加里である。
「夜景がきれいですね、こんな席で、ロマンティックな気分ですか?よくそんな気分になれますね、私はなれませんけど」
付き合っていながら、不満たらたらの体で由加里にあたる。
「ミチルちゃん・・・・・・・・・!?」
「ミチル!」
由加里は絶句し、貴子は切れた。
「あんた!何を考えているのよ!いい加減にしなさいよ!」
ミチルは、まるで1980年代の不良のように、スネている。それは、不恰好に組まれた足にも表現されている。剣呑な表情に、全身を包んでいる。だから、貴子に何を言われても、知らん顔だ。あさっての方向を向いている。
「ミチルちゃん、こうやって誘ってくれたのは、まだ許してくれるってことだよね」
由加里は、絶え絶えの精神状態で、やっと言葉を紡いだ。葉っぱの一枚、一枚は、擦り切れて、葉脈が食み出ている。
「先輩 ――――」
「はーん、誘ったのは貴子じゃないですか?あたしは、彼女に付いてきただけですよ、ちょうど、ライブで疲れたしね・・・・・・・・・な!貴子!!何するのよぉ!!」
ミチルの頭を襲ったのは、冷たいコーラのシャワーだった。氷が入っていたのはご愛嬌というところだろうか。
「た、貴子ちゃん!」
「いつまでたっても信用してくれないのは、先輩の方でしょう?!この人、友達なんて欲しくないのよ!」
「ともだち? ウウ・・・・ウ・ウ・・ウ・ウウ!!」
その一言を聞くなり、由加里はポロポロと涙をこぼしはじめた。
まるで水銀のような粒のひとつひとつは、それぞれ煌めいて、それぞれ、星を形作っていた。そして、その星々は、それぞれ主張を持っているようにも見えた。
つい、1年前まで、その言葉の重みを理解していなかった。少女の周囲に、存在して、あたりまえだったからだ。小さい時から常に人気の的だった。誰もが、少女の隣にいることを希望した。その席を巡って、みんな争っていた。それを見て、少女はただ微笑んでいればよかった。
「な、泣けばいいでしょう?!本当に泣きたいのはこちらの方ですよ!」
ミチルは、狼狽を隠すように、足を組みなおす。
しかし、その手や足首は震えて、目つきはうろうろとしていた。
―――この不器用な子が、何をやっているのよ!
貴子はそう思いながら、手を動かした。ミチルは、何をするつもりだと、高をくくっていると、はたして、平手打ちが飛んできた。
ビシッ!
冷房で乾ききった空気に、その音はよく響いた。
「あんたさ!言ったよね、先輩にさ、信用できないなら、しなくてもいいって!!それで納得したんじゃないの?!あんたなんか、嘘つきのへんべらぽんよ!」
「へんべらぽん?!」
「もう知らない!」
貴子は立ち上がると、去ろうとした。
「待って、貴子ちゃん!」
「・・・・・・・・・」
由加里の声に立ち止まらざるをえなかった。
「先輩、行きましょう、こんなの相手にしていてもしょうがないよ!」
貴子は、改めて由加里を見た。躰が小刻みに震えている。それは、効き過ぎている冷房のせいだけではないだろう。
「先輩!」
「私ね、私・・・・・・・・・」
「座ってください、さあ、落ち着いて」
由加里の尋常でない様子に、ミチルも旋毛を元に戻したようだ。
「何があったんですか?」
氷が完全に溶けたコーラを一口飲む。
「お、男の人にね・・・・されちゃたの!!・・・大切なもの・・・・・何もかも、奪われちゃった・・・・・・・・・」
「・・・・・・・!!」
その一言で、すべて通じた。二人は絶句するとともに、その身を燃え上がらせるような怒りを感じた。それは、由加里をいじめる部員に対する怒りとはまた違った種類のものだった。しかし、今、できることは、彼女の傷に燃えさかる哀しみの炎を鎮圧するだけだった。それが唯一、彼女に示せる誠意だった。
しかし、誰に?とは口が裂けても言えなかった。ただ、目の前で大事な人が、血まみれになっているにも、係わらず、何の手当も出来ない、おのれの無能さを恨むだけである。
――――どうすればいいのか?もどかしい!
ミチルが手をこまねいているときに、貴子は、別のことを考えていた。
「じゃあ、警察に行きましょうよ、先輩」
「・・・・・・・・・・」
「貴子!」
「じゃあ、このまま黙っているんですか?」
「相手はわかっているの」
何かを決めたという顔をした。
「じゃあ、話しは早いじゃないですか」
貴子は畳み掛ける。
「あ、相手は淳一さんなの ――――――――冴子姉さんの許婚者」
「え?」
「な!!」
しばらくの間、由加里と交際を絶っていたために、その名前を知らなかったが、由加里から、その由来を知って、さらに怒りを燃え上がらせた。さらに姉に言われたこと知ると、怒りを複雑な色に塗り替えてしまった。
「そんな!信じてくれないんですか?」
冴子とは、直接の知己はなかったが、由加里の話を通じて、相当に仲が良いことは、わかっていた。
「で、先輩はどうしてほしんですか?いや、どうしたいんですか?」
貴子である。今回は、彼女が先に立って、由加里を支えている。
「さ、冴子姉さんにきら、嫌われたことが、まだ信じられない。この疑いが晴れないと生きていられない!」
言い終わるなり、号泣をはじめた。
「先輩にとって、お姉さんが一番大切なんですね」
「た、貴子ちゃん・・・・・・・」
もしかして、取り戻すことができるかもしれない。
由加里はそう思った。大事な二人との関係を、もう一度構築できるかの瀬戸際だった。
それがあっという間に事切れてしまう。
しかし、それは杞憂だった。
「それは、わかりますよ、みんなでどうしたらいいのか、考えましょうよ」
「私も協力しますよ」
「貴子ちゃん、ミチルちゃ・・・・・・」
零す涙はもうないと思っていた。しかし、留め止めなく涙はあふれてくる。
――――こんな私でも、味方をしてくれるひとがいる。しっかりしないと、この人たちまで、私を見限ってしまう。
「どうしたら、冴子姉さんがわかってくれるかな」
「もう一度、言ってみたらどうですか?姉妹なんですから」
「それはどうかな?姉妹とは言っては、男のことだから」と貴子。
「でも、相手は中学生じゃない」
ミチルは、あたかも、自分が大人であるかのように、達観している。
「よほど、その男が好きだったんじゃない」
「先輩、その男って何処に住んでいるんですか?」
「姉と同棲しているの」
「じゃあ、これから行ってみましょうよ、とっ捕まえて、やり込めてやりましょう」
「貴子ちゃん・・・・・・・」
いつになく積極的な貴子を不思議に思い、あるいは、頼もしく思った。
姉のマンションは、駅前のマックから徒歩で五分ほどである。既に、夜の8時を超えている。
「いいの?ミチルちゃん、貴子ちゃん」
「何、言って居るんです?わたしたちが親から大目玉もらうなんて、何てことないですよ」
――――親?
それを聞いて、由加里は悲しくなった。
「あなたなんて、もう娘とは思いません、勝手になさい」
その言葉は、少女の心の中に侵入して、脳の到るところを傷付けて回る。まるで回虫のように、行くところ行くところを傷付ける。
三人は、街角からマンションを見張っている。もう10分ほど経つ。
「本当に出てくるのかなあ、同棲してるんでしょう?」
「出てくるって、ミチル」
貴子は確証があるようだ。
「当たり前でしょう?裏切られたのよ!ふつうだったら追い出すな、だって、先輩のお父さんの名義なんでしょう」
由加里は目でイエスと言った。
「あ、淳一さん」
「敬称なんて付ける必要はないですよ、あんなおとこのクズに!」
貴子は、吐き捨てるように言った。
「さ、後を追うよ」
「待って、ミチルちゃん、もう淳一さんが何処に行くかわかった」
「え?」
「実家を知っているから ――――――」
「それって、遠いんですか?」
「邸町よ」
「それって何線? ――――――?あ!まさか」
ミチルは、勝手に自己解決していた。
失禁。その行為は、ふつう、そう呼ばれている。しかし、今、少女に見舞われている災難を、そう呼ぶのはあまりにむごいだろう。何故ならば、多分に、不可抗力の性格が強いからである。
「ィヤあああアアアアアアア・・・ア・ア・」
自らの汚物で、躰が汚される感触。自分の汚い温かさによって、浸食されるおぞましさ。それを股間から、舌の先まで感じさせられたのである。あおいは、いつの間にか、縛られたまま、雨に打たれていた。完全に感覚がマヒしている。土砂であっても食べたくなるくらいの空腹も喉の渇きも感じない。自分が何処にいるのかわからない。きつく縛られた手首と足首は、もう痛くないし、雨は冷たくなかった。そして、身体が濡れる気持ち悪さからも、解放された。
――――私はもう死ぬのかな。
まだ11才。その若さで、あおいは、そんな気分に溺れていた。
本来なら、家族と楽しい夕食後のひとときを過ごしているはずだった。しかし、今や、少女は生きながらにして、無惨な屍を晒していた。
赤いハイヒールが、あおいの目に入ったのは、雨が止んだ後だった。
「ゆ、有希江姉サ・・・・ウグ・・・・!有希江お、お嬢さま・・・・・・・」
とても懐かしい名前を呼んだとたんに、あおいの喉元に、ピンヒールが突き刺さった。
雨が止んだというのに、少女の頬は濡れ続ける。
「あおい!何て、無様な姿なのかしら?あなたにふさわしい恰好ね」
しゃっくりを上げて、泣いている妹に、さらに追い打ちをかける。
「アレ?ヘンな臭いがするわね?」
有希江は、何かの棒を取り出すと、それで、あおいのスカートを捲り上げた。
「イヤアアァアア!や!ヤメテ!」
無力な小学生相手に、この暴虐である。しかも抵抗できないように、四股を縛っているのである。
「臭いわ、当然、あなた自身が臭いんだけど、コレは別の臭いね、あんたお漏らししたでしょう?」
羞恥心のあまり、頬がリンゴのようになった。まるで、顔のすべての毛細血管が、固有の意思を持って暴れるかのような感覚が襲う。
「あ、雨です!」
「う・そ!ふふふ、卑しい捨て猫は、嘘もつくのね」
「す、ステネコ?ウウ・・・・・・・・・・・・ウ!」
想像を絶する非道い言葉に、返す方法を思いつかない。家族、すなわち誰よりも少女を保護すべき存在から、このような仕打ちを受けている。あおいは、その事実をまだ受け入れられずにいた。
「それで、言いつけは守ってくれたんでしょうね」
有希江の口元が、意地悪に歪んだ。
「ウウ・・ウ・ウ・ウ・・ウ・ウ!お、お願いです!もう、ゆ、許してくださいィ!!」
「そう、見付からなかったのね、本当にどうしようもない捨て猫だわ!じゃあ素直に自分の状態を説明したら、許してあげる」
「ウウ・・ウ・ウ・す、捨て猫の、さ、榊、あお、あおいは、お、おもらししちゃいました・・・ウ・・ウ・・ウ・・ウ」
このままの状態から、抜けだしたい一心で、命令に従った。しかし、その後は、まるで、全身の内蔵のすべてを吐き出すように、泣きじゃくった。
中でも、『捨て猫』という表現は、あおいの境遇と酷似していた。そのために、いたく少女を傷付けた。
「あなた、幾つなの?!」
急に優しくなった姉。そのわざとらしい仕草が、かつての彼女を思い出されて、あまりに悲しかった。
「ウウ・・ウ・ウ・ウ・ウ!じゅ、11才です・・・・・・ウ・ウ・ウ・ウ・・ウ・ウ・・ウ・ウウうう!」
「11才の女の子が、お漏らししちゃったんだ?!トイレまで我慢できずにね」
「だ、だって、縛られていたら、」
「うるさいわね!お漏らししたことは確かでしょう!?それに」
「それに?」
「もしも、人間としてのプライドがあったら、舌を噛んで死ぬはずよ、そんなみっともない姿になるならね。あんた死ねばよかったのよ」
まるで、猫の目のように変わる態度。これは、有希江の真骨頂である。
「・・・・・・・・・・・・・・」
もう、泣き声さえ出ない。
「さてさ、中で仕事が待ってるんだけど、その汚い姿じゃ、入れないわね、今日はお姉 ―――違う、ご主人様が洗ってあげる」
―――今、お姉ちゃんって言おうとした、まだ、あおいのこと妹だって思ってくれているのね。
こんな小さなことでも、喉の奥からうれしさが込み上げてくる。少女は喜びの涙を流した。しかし次の瞬間、少女を襲った衝撃はこんなものじゃなかった。
「ひいぃいいイヤアアアアアアア!ぁあああああ!!」
雨に濡れたばかりだと言うのに、多量の水がかけられる。庭用の特別な仕様で造られたホースだ。榊の家のように広大な庭を所有していると、こんなものが重用される。だから、その衝撃もただごとではすまない。とにかく、痛い。叩きつけられているというのが近いであろう。
「ウウウ・・・ウ・ウ・ウ・ウ・・!うううう!どうして、どうして、こんなひどいことを!ウウ・・・・ウ・ウ・・ウ・!!」
「さ、これからが本番よ、腐りきったあなたの躰を洗うんだから、相当の石鹸が必要ね」
粉のようなものをかけられた。
「ひ!」
<黒も白に変えるドメスト!>という文字が見えた。洗濯用石鹸ではないか。
しかる後に、全身を激痛を襲った。デッキブラシで、容赦なく全身を擦られる。華奢な肩も、雷が舌を出しそうな臍も、そして少女らしく不格好な脚も、どこもかしこもデッキブラシの餌食になった。耐えられなくなったあおいは、ついに悲鳴を上げた。
「痛い!痛い!!痛いよぉ!!ママ、助けて!ゆ、有希江姉ちゃん!お、お願いだから!許してぇえええええええええええええ!!あぶう!」
顔にまで、ブラシが侵入する。さすがに、そこは力が弱められた。
「ほら、キレイになったよ、汚くて、臭いあおいちゃんがキレイになった?うん?まだするね、これってドジンの臭いかな?これはだめだわ、あんたに生まれつきついた臭いだもん、ドメスト!でもだめだわ」
有希江は、わざわざ、あおいの顔付近に、鼻を近づけた。そして、くんくんと臭いを嗅ぐ。そして、わざとらしく、顔を顰める。
「ほら、拭きなさいよ、お前ならぞうきんで十分ね」
「・・・・・・・・」
あおいは、やっと、戒めを解かれた。そして、頭にに、投げつけられたのは、柔らかなフキンではなくて、汚らしいぞうきんだった。いつだったか、まだ、あおいが小学校に上がる前、雨に濡れて帰ってきたことがあった。そのとき、有希江は、やさしくフキンで拭いてくれたものだ。
「全く、あおいはしょうがないわね」
その手つきの優しさと温かさで、思わず眠ってしまったほどだ。
しかしながら、今の有希江に、そのひとかけらも見いだせない。ただし、それは、あおいに対してであって、もうひとりの妹、茉莉に対しては優しさがかえって倍増したように見える。それが、少女にとっては、妬ましくもあり、哀しくもあった。
「はやくしなさい!仕事が待っているのよ!」
有希江は、残酷な言葉を投げつける。あおいは、心身共に、ぼろぼろになっているというのに、係わらず、全く容赦しようとしない。
よろよろと立ち上がると、姉に従って、玄関に入る。
濡れた服を着替えようと、しているあおいに、さらに残酷な言葉が投げつけられる。175センチもある相手から、見下ろされると、まさに言葉が降ってくるという表現が相応しい。
「あれ?ドブネズミじゃない?!帰ってきたの?肺炎になって死ねばよかったのに」
榊徳子は、あおいを見ると美貌を凍らせた。
「と、徳子姉ちゃ・・・・・・お、お嬢様・・・・・・ウウ・・ウ・ウ・ウ・」
少女は、激昴される前に、言い直した、
今更ながらに、この家の子でなくなったことを、自覚させられるあおいである。
「裸?じゃ、あなたにふさわしい服を貸してあげるわ」
「ウ・・・」
空から降ってきた布は、はたして、今の今まで、徳子が来ていた服だった。
―――濡れてる?
「今まで、トレーニングしてたの。内蔵から腐りきったあなたを、浄化してあげるわ」
今の今まで、着ていた下着は、洗ったままのように、濡れそぼっている。
その時、奥から久子の声が響く。
「コラ!徳子!こんなところで裸になって恥ずかしくないの?あおいじゃあるまいし、さっさといオフロに入りなさい!」
「はーい、じゃお風呂に行くか・・・・・アレ?私の服が着れないっていうの!?」
目を狐にして、睨みつける。それだけで、あおいは震え上がった。
「ひ!き、着ます!着れます!着させていただきます!」
徳子の恐ろしさを誰よりも知っているあおいである。
「それにしてはいやそうな顔ねえ?!」
「ひ!!う、嬉しいです!」
「徳子姉ちゃんが折角、あんたに恵んでくれたのよ!なんで、笑わないの!?」
騒ぎを聞きつけて、やってきたのは、茉莉である。フキンを肩にかけて、躰全体から、芳しい石鹸の匂いが漂っている。おそらく、入浴後なのだろう。少女の肌は上気して、かすかに汗が滲んでいる。
「ま、茉莉ちゃん!」
「何ですって!?」
「ヒ!」
茉莉は、まだ、小学四年生である。背丈だって、まだ、あおいの肩ぐらいにすぎない。そんな小さな妹にまでいじめられるのは、屈辱以外のなにものでもない。ちなみに、彼女だけ、『お受験』に失敗して、三人の姉とは、違う小学校に通っている。
「ま、茉莉お、お嬢さま・・ウウ・・・・ウウ・・ウ!」
激しく号泣するあおい。流れる涙と嗚咽は、鼻水を伴って、可愛らしい顔を無惨にしている。三人三様の悪意に囲まれながら、あおいは悶えた。全身から、塩っぽい臭いが漂う。徳子の汗のせいだ。いままで、トレーニングをしていたという。下着が下半身に張り付く。まるで、濡れたまま、サランラップの中に閉じこめられたようなものだ。石油臭のする生地が、毛穴の内部まで、容赦なく侵入してくる。
その肌触りはぬめぬめとしていて、まるで、生きながら、首まで沈められたようだ。
ひどく気持ち悪い。徳子の下着は、ナイロン製なので、湿り気を帯びると、引き締めが強いのだろう。当然、体格が違うために、引き締めは弱いが、それでも、少女の眉間に皺を寄せさせるくらいに、不快なことは変わりはない。
しかしながら、今、少女を苦しめているのは、それが主因ではない。三方からやってくる魔の手である。三人の姉妹から悪意が、少女を摑み、嬲り引き倒す。そして、遠方からは実母である久子のそれが、延びてくる。一番遠いはずなのに、一番強力なのである。それをひしひしと感じて、失禁しそうなほど恐怖を感じているのだった。
どうして、あおいは、どうして、こんな境遇に落とされているのだろうか。どのような罪があって、こんな目に遭わないと行けないのだろうか。
その問いに答えるために、いったん、時間を戻したい、少しばかり・・・・・・・・。
その夜、金属に何か硬いものを打ち付ける音が、幾つも虚空に響いた。それは、一様に赤で着色されていたという。
由加里は、螺旋階段を走った。ひたすらに、夜の虚空を回転して、落ちて行く。この時、どうして、エレベーターを使うことを思いつかなかったのだろうか。冴子をまくためか。いや、姉が追いかけてくることなど、思いもよらなかったはずだ。
―――嫌われちゃった!冴子姉さんにまで、もう終わりだ!何もかも終わっちゃったんだ。
それなら、何故、非常の螺旋階段に躍り出たところで、真っ逆さまに、ダイブ!ということを考えなかったのだろうか。何故ならば高級マンションよろしく、自殺防止用の鉄格子が嵌っていたからだ。
さしずめ、由加里は決められたレールの上を通っていく他ない。その鉄格子は、少女にとって、煉獄のような学校に等しかった。そこから逃げることは許されない。ただ、前進するのみ。例え。進む道に、凶悪な猛獣がうなり声をあげていようが、害虫が何匹も這っていようが、背後に戻ることは許されない。
そう、死ぬことすら許されない。
「由加里!何処にいるの!?由加里ぃ!!」
その時、我に帰っていた冴子は、既に階下にいた。あの高速エレベーターに乗っていたのだ。長い髪を振り乱して、妹を捜している。すでに、彼女の中では、残像にすぎなくなった。可愛い妹は、男に、それも姉の許婚者に乱暴され、くちゃくちゃになっていた。その上、尊敬する姉に、不貞を疑われ、絶縁状を叩きつけられた。何て可哀想な妹だろう。
しかし、次ぎの瞬間には、妹を疑っていた。もしかしたら、本当に淳一を誘ったのかもしれない。あの二人がいちゃいちゃしている映像が浮かんできた。
――――あの時も二人はあんなだった。私の知らないところで、出来ていたんだ。私は二重に裏切られたのよ、あんな子、妹じゃない!死んじゃえばいいんだ。
改めて、怒りがむらむらと蘇ってきた。この暑いのに、まるで、汗を掻くために外に出たようで、さすがにばかばかしくなってきた。
冴子は、踵を返すとエントランスに戻った。
―――もう、死のう!本当に一人になっちゃった。何処の誰が私を呪ったのかわからない。もう、私は生きている意味がない、生きていても、誰もまともに相手にしてくれない。それなら死んでしまったほうがいい!
由加里は、無意識の海に溺れそうな状況で、夜の街を走った。ネオンサインが、眼球の中を乱反射する。
―――あれって。LEDとかって言うんだっけ。たしか青いのを発明した人が何億ももらったんだよね。
こんな時まで、心の片隅は冷静だ。少女は、それを呪った。完全に、自暴自棄に成りたかった。そうすれば、どんなこともできるではないか。自殺、薬物、援助交際。
――――こんな私でも、外見にはある程度、自信がある、当時は気持ち悪いと思っただけだったけど、街でおじさんに声をかけられたことがある。ちゃんとネクタイとスーツをちゃんと纏ったサラリーマンだった。
もうどうもいい。どうせなら、サイアクの相手に処女を捧げようか。あそこに屯しているホームレスのおじさんなんてどうだろう。いや、どうせなら、あそこのおじさんがいい。
あの人は、外見は立派なものだが、おそらく内面は最低の人間だ。あの人、職業は、エ精神科医だと思う。そんな顔してるもん。もちろん、うちのパパみたいに、開業医をやってる。だから家程度に、お金はあるだろう。
その上、独身だ。私を連れ込んで、監禁するのにもってこいじゃない。
私は彼の為すがままに、性のおもちゃにされる。おまけに、逃げられないように、強い向精神薬を打たれちゃう。そうして、精神的にも肉体的にもボロボロになって、ある日、生ごみみたいに捨てられちゃうんだ。
死体になった私をママは見て、一言。
「死んでよかったわ、いやもともと生まなきゃよかった」
―――――いや!そんなのいや!いや!ママぁあああああああああ!!
由加里は、自分の紡ぎ出した妄想に、反応していた。自家撞着だ。もう救いがない。
彼女の妄想が典拠としたのは、成人マンガや小説等にちがいない。照美やはるかは、それらを少女に押しつけたのだ。恩着せがましく行ったものだ。
「西宮さんが、是非とも貸してほしいっていうから、貸すんだからね」
もちろん、その経緯は、日記に書かされた。今でも残っている。たぶん、はるかが持っているにちがいない。ことあるごとに、脅迫の道具として使ってくるのだ。」
多量の成人マンガや小説の類。イラストに書かれた男女の秘部に触れることすら、憚られた。その時、感電するほどの衝撃を受けた。思わず、床に落としてしまったほどだ。
「何やっているのよ!人の物を!」
由加里は、もちろん殴られた。
それが、今や、平気で通読できるほどになってしまった。もはや、恥ずかしいという気持は何処かに行ってしまっている。
――――海崎さん、鋳崎さん、あの時の由加里を帰してよ!それに、私、あの人たちにさえ見捨てられたんだ。相手にされない!
由加里の悲しみは果てを知らないようだ。しかし、今、少女をいちばん、打ちのめしているのは、冴子の一言だ。
『賞味期限』
それは、姉が言った言葉の中で、もっとも、由加里を傷付けたことばである。心に突き刺さって離れないのには、理由がある。その言い方は、かなりのところ、的を射ているからだ。
――――こんなに人がいっぱいいるのに、どうして、誰も私を相手にしてくれないの?助けてくれないの!?
由加里は人、人の間を縫って、ひたすら、走った。冷たいネオンサインが貫く都会を、くぐり抜けた。大人たちの支配する街。そこは、タバコや香水のきつい臭いに、鼻を刺激され、恥ずかしいピンクチラシに、目を潰される場所。
――――何か、催し物があったのかしら?それとも事故だとか?
駅前に大量の人間がひしめき合っている。「押すな!」「押すな!」と若い男女が罵りあっている。群衆の中には、コスプレに身をやつしている連中がいる。いわゆるゴスロリというヤツだ。ロックバンドのコンサートでもあったのだろうか。外見だけ、メンバーを真似て、少しでも近づこうという腹だろうか。
「・・・・・・アッシュール・ハンニバル・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
―――え?ミチルちゃん。
由加里は、懐かしい声を聞いた。その声は、かつて、少女の不幸を自分のことのように、泣いてくれた、怒ってくれた。同情で無しに、まさに感情を共有してくれたのだ。
それは流れ弾のように、少女にぶち当たった。アシュールハンニバルとは、ヴィジュアル系ロックバンドの名称である。実は、ミチルと貴子が好きなバンドなのである。
―――――もしかしたら、来ているかもしれない。でも、もう当てにできない。
少女の中に、一条の光が射したが、次の瞬間、闇に消えてしまった。いや、自分で消してしまったのかもしれない。
「ミチルちゃん、貴子ちゃん・・・・・・・」
一条の光が消えるとたんに、現れたのは、二人だった。彼女らはゴスロリに身を窶してなどいなかった。ワンピースにスカートと言った中学生らしい服装は、しかし、かえって周囲から浮き出て見えた。しかし、それは由加里の主観かもしれない。
「あーら、一人が好きな西宮先輩、こんなところどうなさったのですか?」
ミチルは嘲笑するような顔で、由加里を睨んだ。しかし、その顔が引きつっているのが、暗がりでも解る。
「ミチルちゃん・・・・・・」
少女は、既に泣き出していた、言いたいことはいくらでもあるのに、いや、言いたいことはただ一つなのに、その一言が出てこない。
「お一人で、こんなところをご散歩ですが?お似合いですね」
「やめて!お願いだから!」
「・・・・・・・・・・・」
由加里の様子が、ただならないことは、わかりきっていた。しかし、彼女のことは、誰よりもわかっているつもりだった。ぎりぎりまで、人を惹き付けておいて、最後に拒否するのだ。それが彼女のやり方なのだ。
――――ここで、乗ってはいけない。裏切られるのはわかっている。
「ミチルちゃん、お願い、助けて、誰からも嫌われちゃった―――――――――」
―――当たり前でしょう?!そんなことわかりきったことじゃないですか?
そのような言葉を呑んだ。ぶつけてやりたくて、たまらない言葉だったが、あえて、飲みくだした。
それには、それだけの理由があったのである。由加里の目、両の目は、すべてを語っていた。ミチルは、自分が目の前の人間の、生殺与奪のすべてを握っているのだと知った。
由加里は、螺旋階段を走った。ひたすらに、夜の虚空を回転して、落ちて行く。この時、どうして、エレベーターを使うことを思いつかなかったのだろうか。冴子をまくためか。いや、姉が追いかけてくることなど、思いもよらなかったはずだ。
―――嫌われちゃった!冴子姉さんにまで、もう終わりだ!何もかも終わっちゃったんだ。
それなら、何故、非常の螺旋階段に躍り出たところで、真っ逆さまに、ダイブ!ということを考えなかったのだろうか。何故ならば高級マンションよろしく、自殺防止用の鉄格子が嵌っていたからだ。
さしずめ、由加里は決められたレールの上を通っていく他ない。その鉄格子は、少女にとって、煉獄のような学校に等しかった。そこから逃げることは許されない。ただ、前進するのみ。例え。進む道に、凶悪な猛獣がうなり声をあげていようが、害虫が何匹も這っていようが、背後に戻ることは許されない。
そう、死ぬことすら許されない。
「由加里!何処にいるの!?由加里ぃ!!」
その時、我に帰っていた冴子は、既に階下にいた。あの高速エレベーターに乗っていたのだ。長い髪を振り乱して、妹を捜している。すでに、彼女の中では、残像にすぎなくなった。可愛い妹は、男に、それも姉の許婚者に乱暴され、くちゃくちゃになっていた。その上、尊敬する姉に、不貞を疑われ、絶縁状を叩きつけられた。何て可哀想な妹だろう。
しかし、次ぎの瞬間には、妹を疑っていた。もしかしたら、本当に淳一を誘ったのかもしれない。あの二人がいちゃいちゃしている映像が浮かんできた。
――――あの時も二人はあんなだった。私の知らないところで、出来ていたんだ。私は二重に裏切られたのよ、あんな子、妹じゃない!死んじゃえばいいんだ。
改めて、怒りがむらむらと蘇ってきた。この暑いのに、まるで、汗を掻くために外に出たようで、さすがにばかばかしくなってきた。
冴子は、踵を返すとエントランスに戻った。
―――もう、死のう!本当に一人になっちゃった。何処の誰が私を呪ったのかわからない。もう、私は生きている意味がない、生きていても、誰もまともに相手にしてくれない。それなら死んでしまったほうがいい!
由加里は、無意識の海に溺れそうな状況で、夜の街を走った。ネオンサインが、眼球の中を乱反射する。
―――あれって。LEDとかって言うんだっけ。たしか青いのを発明した人が何億ももらったんだよね。
こんな時まで、心の片隅は冷静だ。少女は、それを呪った。完全に、自暴自棄に成りたかった。そうすれば、どんなこともできるではないか。自殺、薬物、援助交際。
――――こんな私でも、外見にはある程度、自信がある、当時は気持ち悪いと思っただけだったけど、街でおじさんに声をかけられたことがある。ちゃんとネクタイとスーツをちゃんと纏ったサラリーマンだった。
もうどうもいい。どうせなら、サイアクの相手に処女を捧げようか。あそこに屯しているホームレスのおじさんなんてどうだろう。いや、どうせなら、あそこのおじさんがいい。
あの人は、外見は立派なものだが、おそらく内面は最低の人間だ。あの人、職業は、エ精神科医だと思う。そんな顔してるもん。もちろん、うちのパパみたいに、開業医をやってる。だから家程度に、お金はあるだろう。
その上、独身だ。私を連れ込んで、監禁するのにもってこいじゃない。
私は彼の為すがままに、性のおもちゃにされる。おまけに、逃げられないように、強い向精神薬を打たれちゃう。そうして、精神的にも肉体的にもボロボロになって、ある日、生ごみみたいに捨てられちゃうんだ。
死体になった私をママは見て、一言。
「死んでよかったわ、いやもともと生まなきゃよかった」
―――――いや!そんなのいや!いや!ママぁあああああああああ!!
由加里は、自分の紡ぎ出した妄想に、反応していた。自家撞着だ。もう救いがない。
彼女の妄想が典拠としたのは、成人マンガや小説等にちがいない。照美やはるかは、それらを少女に押しつけたのだ。恩着せがましく行ったものだ。
「西宮さんが、是非とも貸してほしいっていうから、貸すんだからね」
もちろん、その経緯は、日記に書かされた。今でも残っている。たぶん、はるかが持っているにちがいない。ことあるごとに、脅迫の道具として使ってくるのだ。」
多量の成人マンガや小説の類。イラストに書かれた男女の秘部に触れることすら、憚られた。その時、感電するほどの衝撃を受けた。思わず、床に落としてしまったほどだ。
「何やっているのよ!人の物を!」
由加里は、もちろん殴られた。
それが、今や、平気で通読できるほどになってしまった。もはや、恥ずかしいという気持は何処かに行ってしまっている。
――――海崎さん、鋳崎さん、あの時の由加里を帰してよ!それに、私、あの人たちにさえ見捨てられたんだ。相手にされない!
由加里の悲しみは果てを知らないようだ。しかし、今、少女をいちばん、打ちのめしているのは、冴子の一言だ。
『賞味期限』
それは、姉が言った言葉の中で、もっとも、由加里を傷付けたことばである。心に突き刺さって離れないのには、理由がある。その言い方は、かなりのところ、的を射ているからだ。
――――こんなに人がいっぱいいるのに、どうして、誰も私を相手にしてくれないの?助けてくれないの!?
由加里は人、人の間を縫って、ひたすら、走った。冷たいネオンサインが貫く都会を、くぐり抜けた。大人たちの支配する街。そこは、タバコや香水のきつい臭いに、鼻を刺激され、恥ずかしいピンクチラシに、目を潰される場所。
――――何か、催し物があったのかしら?それとも事故だとか?
駅前に大量の人間がひしめき合っている。「押すな!」「押すな!」と若い男女が罵りあっている。群衆の中には、コスプレに身をやつしている連中がいる。いわゆるゴスロリというヤツだ。ロックバンドのコンサートでもあったのだろうか。外見だけ、メンバーを真似て、少しでも近づこうという腹だろうか。
「・・・・・・アッシュール・ハンニバル・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
―――え?ミチルちゃん。
由加里は、懐かしい声を聞いた。その声は、かつて、少女の不幸を自分のことのように、泣いてくれた、怒ってくれた。同情で無しに、まさに感情を共有してくれたのだ。
それは流れ弾のように、少女にぶち当たった。アシュールハンニバルとは、ヴィジュアル系ロックバンドの名称である。実は、ミチルと貴子が好きなバンドなのである。
―――――もしかしたら、来ているかもしれない。でも、もう当てにできない。
少女の中に、一条の光が射したが、次の瞬間、闇に消えてしまった。いや、自分で消してしまったのかもしれない。
「ミチルちゃん、貴子ちゃん・・・・・・・」
一条の光が消えるとたんに、現れたのは、二人だった。彼女らはゴスロリに身を窶してなどいなかった。ワンピースにスカートと言った中学生らしい服装は、しかし、かえって周囲から浮き出て見えた。しかし、それは由加里の主観かもしれない。
「あーら、一人が好きな西宮先輩、こんなところどうなさったのですか?」
ミチルは嘲笑するような顔で、由加里を睨んだ。しかし、その顔が引きつっているのが、暗がりでも解る。
「ミチルちゃん・・・・・・」
少女は、既に泣き出していた、言いたいことはいくらでもあるのに、いや、言いたいことはただ一つなのに、その一言が出てこない。
「お一人で、こんなところをご散歩ですが?お似合いですね」
「やめて!お願いだから!」
「・・・・・・・・・・・」
由加里の様子が、ただならないことは、わかりきっていた。しかし、彼女のことは、誰よりもわかっているつもりだった。ぎりぎりまで、人を惹き付けておいて、最後に拒否するのだ。それが彼女のやり方なのだ。
――――ここで、乗ってはいけない。裏切られるのはわかっている。
「ミチルちゃん、お願い、助けて、誰からも嫌われちゃった―――――――――」
―――当たり前でしょう?!そんなことわかりきったことじゃないですか?
そのような言葉を呑んだ。ぶつけてやりたくて、たまらない言葉だったが、あえて、飲みくだした。
それには、それだけの理由があったのである。由加里の目、両の目は、すべてを語っていた。ミチルは、自分が目の前の人間の、生殺与奪のすべてを握っているのだと知った。
榊あおいは、車上の人になっている。当たり前のことだが、運転しているのは、少女ではなく彼女の母親である。榊久子、年齢的には、30才を幾つか超えるほどだが、まだ20代前半と言っても通用する肌と目の光りを保っている。
サングラスで両目を隠してはいても、その美貌は、おおよそ見当が付く。そして、その表情をも見当がつく、いや、ついてしまう。尖った鼻先は、彼女の苛つきを暗示しているようだ。
「何なの?!あちらで1日過ごしただけで、お嬢さんになったものね」
久子は、バックミラーで背後の席を、ちらちら見ながら、棘のある言葉を吐き出す。
「そんな ――――ママ!」
「ママ!?」
彼女の声が、さらに鋭利さを増す。
「・・・・お、奥様・・・・・ウウ・・ウウ・!」
言い直したあおいは、辛気くさく泣き始めた。
「もう、許して!お願いだから・・・・・・こんなことヤメテ、お遊びでしょう?!」
「何を許すのか、わからないわ。それにそんな言い方を許した憶えはないわよ」
とうてい、娘と母の会話に聞こえない。もしかしたら、実の母娘ではないのだろうか。
「・・・・・・・・」
「いつまで、そんなお嬢さんみたいな恰好をしているつもり?早く着替えなさい。そこに服がおいてあるでしょう!あなたにはそれがふさわしいのよ」
「そ、そんな、ここで?」
「誰も、あんたの裸なんか見たくないわよ、そんな服はあなたにふさわしくないの!いい加減自覚なさい」
「・・・ハイ」
あおいは、シャックリを上げながら、服を脱ぎはじめた。そして、後部座席においてある黒い服に袖を通す。それは一見、喪服のように見えた。だれか不幸があったのだろうか。
それにしては、おかしい。何故ならば、久子は、そんな衣装を身につけているわけではないからだ。黒いシックなスーツは死臭を思わせるが、大粒の宝石をあしらったアクセサリー群は、明らかにそれを打ち消している。
「いいわよ、それがあなたにはふさわしいわ。使用人さん」
「・・・・ウウ、ひどい」
あおいは、『使用人』という言葉にひどく反応するようだ。細い首をビクつかせて、かすかに、震える。それはチック病のようだ。
少女の両の目から、大粒の涙がこぼれる。あおいが着ている服は、いわゆるメイド服である。今まで、着ていた服。高そうなブランド物とは比べるべくもない。
「・・・・ウウ、もう許して・・・・・」
両手で顔を覆って泣き続けるあおい。しかし、母親である久子は、かすかな微笑
さえ浮かべて運転を続ける。
「あら、お行儀よく、シートベルトしているのね、別にしなくてもいいのだけど」
「・・・・・・・・?!」
あおいは、母の言っている意味がよく理解できずに、目をぱちぱちとさせた。黒目がちな瞳には、まだ瑠璃のような涙が光っている。
「知ってる?シートベルトを付けないと、死亡率が何倍にも跳ね上がるのよ」
「ママ・・・!」
「ママじゃないって言ってるでしょう!!」
久子は、人がいないのを確認して、急ブレーキをわざとかけた。同時にスピンをかける。そのために、あおいの身体に余計な重力がかかる。
「ウグ・・・!!」
それは母の意思だと、はっきりわかった。
「言い直しなさい!」
「お、奥様・・・・・・・」
「今度、言い間違えたら、最高速度のまま、高速道路に放り出すわよ。あなたがいたずらしたって言えば、警察は納得してくれるわよ」
ドライアイスよりも冷たい言葉が、平気で投げつけられる。
あおいは、信じられないという顔をした。それは自分の感覚すべてに渡っている。五感のすべてである、手の感覚、足の感覚、すべてである。今、あおいは、ぬめっとした皮のシートに触れている。足下には当然の車の床があるわけだ。
しかし、それが信じられない。実感がない。
まるで、宇宙に放り投げられて、命綱のないままに、虚空を果てしなく泳いでいるようだ。
母親の心ない言葉の一葉、一葉は、それぞれ薔薇のように刺を持っている。
少女の心に否応無しに、母親の言葉は突き刺さってくる。それはまさに、ナイフ、凶器だった。これでもかと、あおいを傷付ける言葉が降ってくる。その言葉のひとつ、ひとつをとっても、とうてい、親が実の娘に、投げかけるような言葉ではない。
高速を降りたところで、久子は言い放った。あおいは、料金所のおじさんとたまたま目があって、笑い合っているときだった。
「あなたの言い分は聞いてあげたんだから、約束は守ってもらうわよ、何だったけ」
「一晩、ご、ごは、え、エサ抜きです・・・・・」
「それだけじゃないわよ、一晩中、寝ないで働いてもらうからね。覚悟なさい」
「ハイ・・・・」
おじさんの優しい笑顔と、母親の冷たい言葉の落差が、あおいを尚更深く、奈落の底に落としていた。
今、車は長いトンネルに入った。少女の暗い表情が、さらに闇を増す。それは偶然だったのだろうか。少女の今と未来を暗示しているのではなかったか。かつて巨大な山をくり抜いて、造ったことが想像される。
トンネルの出口は、何処まで行っても見えない。それが少女の未来そのものなのだろうか。オレンジ色の憂鬱なキラメキは、決して、少女の足下を明るくはしない。それでも、トンネルは出口を迎える。しかし、それはあくまで既成のトンネルだからだ。
決して、少女の未来ではない。陽光が復権し、黒い豊かな髪を奇麗な亜麻色に変えても、少女は表情を元に戻さなかった。いや、出来なかったにちがいない。むしろ、光が豊富になっただけ、そのどす黒い表情を白日の元に晒すだけだった。
小一時間ほど、走ると車は止まった。
「ほら、何ぼさっとしているの!?使用人の分際で寝るなんてどういうつもり!?」
「ひぃ!ご、ごめんなさい」
「ごめんなさいませでしょう?」
車から引きずり出されると、あおいは、耳を引っ張られて、引きずられた。
激痛とともに、起こされた少女は、我が家の前にいた。帰りたいが、決して帰りたくない場所だった。 できることなら夢の中にいたかった。
車から、邸宅が見えてくる。それは、赤木家に負けない規模と偉容を誇る。夕日に、映えている様子は、まるでオーストラリアの岩山のようだ。それはとても懐かしい風景だった。しかし、あおいは夢の中にいた。だから、本当の意味において、過去に安住していた。
「帰ってきたの、ママ。あーれ?何寝ているの?コレ!」
「有希江姉サ・・・・・・ひ!ご、ごめんなさい!ごめんなさいませ」
あおいは、みなまで言う前に、足を踏みつけられた。その犯人の名前は、榊有希江、すなわち、榊家の次女である、高校一年生、16才になったばかりだ。黒目がちな瞳と、笑うとえくぼができる頬などを見れば、二人が姉妹であることは、一目瞭然だ。
「ママ、コレの躾がなっていないみたいね」
「こんな子の相手をするなら、勉強にもっと身を入れなさい」
久子は苦笑するが、その表情は、有希江に対する顔と180度違う。娘に対する愛情に満ちている。あおいには、その落差がたまらなく辛い。
「じゃ、ママは仕事があるから」
そう言って、コツコツとハイヒールを鳴り響かせて、家に入った。ヒラメ筋がひきしまっているのが、黒いタイツの上からも見て取れた。
有希江は、それを確認すると、泣きじゃくる妹を睨んだ。
「ヒイ!」
それだけでダンゴムシのように小さくなってしまう。
「あんたに重要な仕事があるのよ」
有希江は、あおいの耳を引っ張ると、無理矢理立たせる。まだ泣き続けている。
久子が家に入ると、有希江は、あおいの目の前にあるものをぶらぶらさせた。
「・・・・・・・?!」
1円玉が一枚、有希江の手のひらに乗っていた。
「これが一枚、庭に落ちているわ、拾ってきてね」
「まさか、こんな広い庭に?そんなの無理よ!ひいい!無理です!?」
あおいは、泣いて抗議した。
「何だって?」
「わ、わかりました・・・・・」
「まだ、自分の身分がわかっていないみたいねえ?!何よ、その目!」
あおいは、姉を見上げた。その目からは、信じられないほどの憎しみが見て取れた。
「探すの?探さないの?」
「探します・・・ア?」
「そんなに抗議した罰よ、ただ、探したんじゃ、あんたのためにならないわ」
「いやあ!!!」
有希江は、妹の右手首と右足首とを縄跳びの縄で縛り上げる。左手首と足首も同様だ。ビニールの紐は、よく人の肌にフィットする。夏は、なおさらだ。何故ならば、汗と皮脂腺の働きが盛んなためだ。
少女の初々しい汗と脂がビニールの石油臭と合わさったとき、化学変化を起こす。その時、非常に芳しい匂いが発生するのだ。それは少女の背負うランドセルに似ている。
それが、どれほどある種の男にとって魅力的なのか、有希江には理解できなかった。
「姉ちゃん、有希江姉ちゃん!もう、やめて!やめて、私はあおいよ!どうして、こんな非道いことするの?!」
それは、さしずめビックバーンだった。
「さっさと探しなさい!戯言を言っていないで、あなたみたいなのから、姉よばわりされる言われはないわ、言ってみなさい、私を、正しい言い方で!」
「ひぎぃいぐ!ゆ、有希江、お、お嬢さま・・うぐう!!ウウウ!!」
「よく言えたわ、ほら、さっさとそのみっともない恰好で、探すのよ」
有希江は笑いながら、家の中へ戻っていった。コンクリートを叩く、靴音は、少女の頭を直撃した。脳の中に、鉄棒を打ち込まれて、金槌で叩きつけられているような気がする。
不自然な姿勢で、庭を歩きまわる。ただ歩くだけでなしに、1円玉という限りなく小さなものを求めて、さまよい歩く。それはもしかしたら、埋められているかもしれない。どうやって、不自由な体で掘り出すのだろう。額が熱い。気が付いたら、自分の涙だった。泣くことで、額が濡れるなんていうことあるのか。
―――――こんなことは、啓子ちゃんは経験できないよね、いや、しちゃいけないよ!
大切な親友を思い浮かべて、さらに泣いた。しかし、それは彼女に対する無限の愛だけではなかった。今、彼女は何をしているのだろう。たぶん、夕食を待っているのだろうな、自分を愛してくれる姉妹と楽しく過ごしているのだろうな。そんなこと思うと、自分が卑しい嫉妬にまみれていることに、気づいて、さらに額を濡らすのだった。
気が付くと、お尻が冷たいことに気づいた。雨だ。
―――お願い、有希江姉ちゃん、助けて、ママ、助けて、千香姉ちゃん、茉莉!ウウウウ!
あおいは、不自然な姿勢のまま、慟哭した。少女の尻を濡らした水滴が、胸を濡らし、頭を濡らす。その犯人が、雨なのか、涙なのか、汗なのか、おしっこなのか、わからない。
―――――――え?おしっこ?いや、いや、いや!いや!!
あおいは、必死にその小さな肢体を揺らした。尿意から逃げるためである。しかし、そうすれば、そうするほど、膀胱を刺激する。
―――いやあ!トイレ!トイレ!トイレ!ェエエエ!!
心の中で叫びながら、あるものを思い浮かべた。言うまでもなく。便器だ。TOTOの文字が印字されているアレだ。あの白い陶器の塊が、これほど愛おしいと思ったことはない。この世で、もっとも尊い存在のように思えた。
「あはははは!有希江姉ちゃんたら」
その時、聞こえてきたのは茉莉の笑い声だった。よく通る声だ、こんな遠くまで聞こえてくる。ちなみに、茉莉は、榊家の末っ子、すなわち、あおいの妹だ。
――――そろそろ、夕ご飯なのかな?お腹空いたな。もう、わたしには関係ないけど。
「千香姉ちゃん、何時帰ってくるのかな、でもあたしたち、兄妹が多い方だよね、三人姉妹なんてそういないよ」
――――茉莉!私だって、この家の娘なのよ!あ!いやああああああ!!あああ!!
あおいは、妹の暴言に気を取られたのか、石に躓いてしまった。当然、膀胱の筋肉が緩んだ。それは、必然的にある結末を導き出す。
地平線が咆吼する。
乾いた音が、大地に響き渡る。
男が怒りを爆発させ、女がそれを受けた。10000年以上にわたる男女の歴史において、常にあったことである。
「これで気が済んだの?」
しばらく続いた沈黙の後、口を開いたのは、女だった。平手打ちを受けた頬がほんのりと赤くなっている。
東ヨーロッパ特有の人種的特徴が、花を開いている。すなわち、小さな顔、品よく尖った鼻と、上目がちな瞳、ちなみに、瞳の色は、薄いマゼンダ。
「しゅ、修道女に飽きたらずに、汚らわしい土民の世話人になるつもりか!」
「いやな言い方!」
「いや、お前は僕との関係を清算したいだけなんだ!既に神の教えに背いているくせに、今更ながら、救われたたいのか?お前はもう、最後の審判で救われないんだよ!」
ビシッ!
今度は、男の顔を平手打ちが炸裂した。無精髭が新芽を出した顎が、男の匂いを発するそれはまるで、叩きつけられた綿毛のタンポポが、種を飛ばすようだ。
「それ以上、言ったら、顎を砕いてやる!」
上品な顔と声に、似合わない言い方が、さらに男を興奮させる。
「よくも、他人に祝福を与える修道女が、そんな口がきけるな」
「・・・・・・・・?!」
「ちがうか?もはや、修道女じゃないもんな、男と姦淫しやがって、アギリに行くっていうなら、バラし てやる!事実をな、お前は追放されるんだ!」
男女のバトルは、地平線の見える農場で、続行している。枯れ木と崩壊直前のブランコは、何を暗示しているのだろう。
しかし直線だと思われた地平線は、一瞬で歪んで歪んだ。
「家族や恋人を犠牲にして、何が、土民の救済だ!?」
今、地平線の歪みは、極度に達した。それはすなわち、その世界の消滅を意味する。
「啓子ちゃん?!」
「はあ!はあ!はあ!」
赤木啓子は、肌の表面で息をしていた。走ってもいないのに、全身、珠のような汗が滲んでいる。興奮する事由もないのに、アドレナリンが全身に分泌される。そのために、燃え上がった怒りで、頭が割れそうだ。
「怖い夢でも見たの?!」
親友であり、幼なじみでもある榊あおいは、心配そうな視線で、啓子を、包もうとする。
ここは、啓子の部屋、普段寝ているベッドは。一人では、広すぎるくらいだ。あおいが側にいるだけで、安心感が生まれる ――――はずだったのに、あんな悪夢を見てしまった。あんなと言っても、その内容を具体的に示すことはできない。
薄暗い闇には月光すら入ってこない。仄かなランプだけが、唯一の灯りだ。
「そんな目で見るな!そんな資格がお前にあると思うのか!?」
「啓子ちゃん?」
「ア・・・・?!私、何を言っているのかしら?」
「啓子ちゃん?どんな夢を見たの?」
「ううううっん?」
首を捻る啓子。
「ぜんぜん、憶えていないわ、でも夢を見ていたのはたしかよ」
憶えていない夢というのは、非常に、不快なものだ。何処か、他の場所にいたという感覚はある。それは強烈で、時ににおいや風の声までわかることがある。しかし、細かなことは全く憶えていないし、ストーリーを再編成することもできないのだ。これほど不快なことがあろうか。裁判所に足を踏み入れた記憶もないのに、気が付いたら刑務所に収容されている。あえて表現するならば、そのようなイメージである。
「どんな夢だったのかしら」
あおいは、気楽に言う。何故か、無性に腹が立ってくる。裏切られたような怒りが込み上げてきた。
「ねえ、お風呂に入らない?」
「また?」
あおいは眠そうな仕草で目を擦りながら言う。
「だって、あおいは眠いもん」
甘えた声を出す。
「なら、いいよ、今度起きたら、親友は溺れ死んでたってことがあるかもね」
「わかったわよ」
仕方なくあおいは諒とする。
「でも着替えが一日分しかないよ」
「私の貸してあげるって」
啓子は、早く全身の汗を拭いたいのだ。ちなみに、赤木家の風呂は24時間営業中である。
どんな時でも40度を保っている。
「だけど、本当に、あおいちゃんは子どもね」
「何よ!」
全裸になったあおいは、顔を真っ赤にさせて怒った。啓子のように、ふたり並べてみると、同じ小学6年生なのかと、疑念を抱かせる。前者は、その胸も幼いなりに、こんもりともりあがり、乳房らしきものを形成している。しかし、あおいのそれは、男の子そのものだ。
「本当は、おちんちんついているんじゃないの?何処に隠しているのよ!」
「いやあ!啓子ちゃんたら!もう!」
あおいの大腿を無理矢理に開かせようとする。それに抵抗するが、体格の差が、あえなく恥部を視られてしまう。そこには無毛のスリットがあった。男を受け入れる気配すらない。器官そのものが使命を憶えているのかが、はなはだ、疑問だ。
啓子は自身の恥部と比べて、可愛いと思った。
「まだ、生えてないんだ」
「見ないでよ!」
親友の声が、泣き声になったのでやめる。
「こんなことで泣かないでよ、まるでいじめているみたいじゃない」
「違うわよ!いじめっていうのは、こんなことを言うんじゃないの!?」
「あおい?」
ただならぬ様子に驚く。
「はやく、入ろう」
それを打ち消すように、中に誘う。
「でも、24時間完備っていいな」
あおいは、湯の温かさを全身で感じながら言った。
「そうでしょう?あおいちゃんの家でもやればいいのに」
「うん――――」
あおいは気づいた、家のことを話すとき、その可愛らしい顔に、影が射す。何かあったのだろうか? あんなに仲のいい家族は、探しても簡単に見つけられないだろう。家族の誰かが病気なのだろうか。 それなら、啓子に話してくれてもいいはずだ。多少なりとも、水くさく感じた啓子は聞いてみた。
「みんな元気?」
「うーん、元気だよ」
歯切れの悪い返事。
「そう?何か心配そうだったから」
大人びてはいても、しょせんは、小学生である。無意味に畳み掛けてしまった。
「何でもないって言ってるでしょう!」
あおいは、湯面を両手で叩いた。水しぶきが、少し離れた啓子のところへも飛んでくる。
―――――どうしたの?あおいちゃん。
その表情からは、何も読み取れない。まるで、さきほどの悪夢のように、焦点にフィルターがかけられているようだ。核心部分を見ようと集中すればするほど、ぼやけてしまう。彼女の幼いからだの何処に、そんな苦悩が隠れているのだろう。同い年にもかかわらず、啓子は、そう思った。
「あおいちゃん」
まるで壊れものに触れるように、あおいの肩胛骨に手をかけた。その幾何学状の隆起は、かすかに震えていて、少女の悲しみを表していた。今は、その具体的な中身はわからない。しかし、今は、それごと抱きしめてあげようと思った。
「啓子ちゃん・・・・・・」
あおいは、思いあまって、泣き始めてしまった。
「・・・・・・・啓子はいつでも、あおいちゃんの味方だよ」
柔らかい肌の感触が気持ちよかった。それだけに、彼女が悲しんでいるのが、辛い。気持ちよさを共有できたらどんなに嬉しいか。今までは、それを無条件に愉しむことができたのだ。それが、今や、 彼女の中の一部が、何処か隔てた場所に行ってしまったかのように思える。
あおいは、母親である久子が運転する車で、帰っていった。その最後の表情が、啓子には印象的だった。後ろ髪を引かれるような、目つきだった。久美子の様子も何処かおかしかった。たしかに表面的には、いつもと変わらなかったが、何かしら演技しているような顔つきや手つきが、啓子に不審を与えた。母と娘という役柄を演じているようにしか見えなかったのである。昨日のことで、母親と話していたので、後で聞いてみようと思った。
「じゃあね、啓子ちゃん、あおいお礼を言いなさい」
「ありがとうね、啓子ちゃん」
「うん」
ドアの閉まる音、エンジンの始動音。みんな何処か、ウソっぽく、三流俳優の演技のように空々しかった。
「ママ、何処かおかしくない?さっき、何を話してたの」
「子どもには関係ない話しですよ」
こういう時、久子は必ず、自分の子どもにまで丁寧語を使う。
―――――これ以上、聞いたらいけないのか。
無言のメッセージが伝わったと解って、満足そうに笑った。
「何処に行くの」
「庭に水やりに行くのよ、付いてくる?」
このことは聞いて良いようだ。啓子は如雨露を取りに行った。
「フォースもお願いね」
「わかった」
物置から青いフォースを引っ張り出す。掌に絡みついてくるゴムの感触は、忘れたくても忘れられない過去のように思えた。それはいたずらに巨大で、胡散臭かった。
「あ」
そのとたんに、中に残っていた水が飛び出た。その一滴が顔にかかった。過去には、まだ生きている内蔵が備わっていた。いや、中身を失った血なのか。夕日に映えて、いくらか赤く見えた。
「啓子、何をしているの」
フォースを引きずって、広大な庭まで連れて行く。
「そろそろ夏も本場ね」
「地平線見えるかな?」
啓子は、ファースから飛び出る水を見つめた。それは、放物線を描いて、その中に虹を作る。虹の向こうに、地平線を想像したのだ。いや、思い出したのかも知れない。
「何をバカなこと言っているの、アメリカやアフリカじゃあるまいし」
「ニフェルティラピアは?」
「何?何処にある国?」
「バルカン半島」
自分で答えていて、肉体は今ここにあるのに、魂は他の場所に旅行でもしているような気がする。そんな不思議な感覚に囚われていた。
「どうかしら?地平線見えるのかしら」
母親の言葉は、もう啓子の耳に届いていなかった。
京王線の駅は、何処も似ている。都心から離れるほどに、その度合いを強くしていくのだが、その疑似宮殿性である。ディズニーランドの、お城のように、そのコンクリートの塊からは、虚無ばかりが目に付く。由加里は、財布だけ持って、フラフラと、そんな駅の構内へと入っていく。
新宿行きの急行は、すぐにやってきた。もう、上がりはスカスカである。まばらな客たちは、石化した珊瑚の海を思わせる。以前に、由加里もテレビで視たことがあるのだが、見かけがキレイに白くなった珊瑚は、実際は、死滅しているのだという。
それは、もしかしたら、少女自身も同じではないか。絶望的な思いで、ひたすらに姉の家を目指して、電車を乗り継ぐ。
当然のことながら、だんだん都心に向かっていくのだが、そこに幸せが本当にあるのか、疑問だった。まるで、蟻地獄のように、一点にむかって回転しながら落ちていくだけではないか。
都心というところは、少女が堕ちていく先であると聞く。子どもの売春や、怪しげな職業を斡旋する大人たちがうようよしているという。はたして、今いる地獄と、どちらが地獄だろうか。確かめてみる価値はありそうだ。
この電車はある悪夢を思い起こさせる。照美たちに、連れられて新宿行きの列車に乗ったのだ。性器に埋め込まれた異物は、戸外で自慰を強要されているような、羞恥心を起こさせた。その感覚は、今でも残っており、何も入れられていなくても、性器が興奮して、勝手に濡れてしまうことすらある。躰が変えられてしまった。そして、まだ、それは何かに変身させられる途上かもしれない。
何処をどう乗り継いだのか、よく憶えていない。ほとんど反射運動のように、やってきた。おそらく正しいのだろう。
気が付くと、見慣れた駅舎が見えてきた。それは姉の優しい面差しのように思えた。
姉には予め連絡を取っていない。そんなことをする気力もなかったし、思いつきもしなかった。夜の街を一人で、ぶらぶら歩きをしたかっただけだ。その駅は、何てことはない都心の駅の一つだ。姉の大学が近い、いわゆる学園都市である。
姉に会う前に、少しぐらい顔を洗って行きたかった。まばらなネオンサインにそれを期待したのである。しかし、彼等が洗ってくれたのは、髪の毛の表面だけだった。ぱさぱさした髪に、多少なりとも湿り気をもたらしてくれた。しかしながら、それは湿っぽい夏の夜のおかげだったかもしれない。
しばらく歩くと、大学生の下宿とは思えないマンションが出現する。しかし、実感覚として、その辺の常識が彼女にはない。自分の体験はない上に、姉がふつうであると思っているからだ。それは、小説や新聞の多読を通じて、おかしいということは解っているが、実感覚とは、かなり隔たっていると言わねばならない。
由加里は、エントランスにある機械を操作する。赤や黄色、それに緑色のボタンが設置してある。マンションに縁がない人にはわからないかもしれないが、これは、各部屋へのインターフォンである。こんなものがある自体、大学生の下宿にはふさわしくない。たとえ、その大学が、国立大学の医学部であってもだ。
自動ドアが重々しく開く。まるでホテルに設置されているような代物である。由加里は、その中へ、当たり前のように歩を進めていく。ガラスのようにキラキラした床は、少女が歩くと、クリスタルの音を発する。そのために、どれだけ下層階級の労働が隠されているか、少女は考えもしないだろう。 もっとも、そのために少女が、非難される言われはないが。
冴子の部屋は46階。かなりの高層である。エレベータの中は、ひんやりとしている。その空気は、由加里を何故か、安心させない。鎖骨のくぼみや、肩胛骨の割れ目に、汗が溜まっている。それが、冷えるのが気持ち悪いからだろうか。
あっという間に目指す階に到着した。機械の作動音は、静かで心地よかった。姉の部屋まで、誰とも会わない。まるで、都会の孤島を思わせた。さしずめ、ここはラピュタであろうか。
『西宮』の表札。それが目に入ると、無条件に安心する。
はたして、解錠して、ドアを開けると想像もしてなかった声が聞こえた。
「え?由加里ちゃんだったの?」
「じゅ、淳一お兄ちゃん」
端正な顔が、由加里の顔を赤らめさせる。インターフォンでは、ボタンひとつで受信できるから、あえて声で交信する必要がない。
「冴子さんは、用があって出てるけど、ま、入ってよ」
まるで自分の家のように言う。
高崎淳一。
言わずと知れた、冴子の恋人である。携帯のやり取りをする仲にまで、なっているいじめに関して、冴子にも言えないことを言えるのは、微妙な関係ゆえだろうか。
「同棲しているんだよ、驚いた?もちろん、お金は払っているからね」
淳一は、煙草の空箱をくしゃくしゃしながら言う。
「Purple acidは売れてるの」
「そうだよ、この家賃の半分が払えるくらいね。それにしてもどうしたの」
「うん」
由加里は自分に、イエスを言うように肯く。少女は、淳一を信用しはじめていた。それは、“淳一お兄ちゃん”という呼び方にも現れている。それは少女に起こった仄かな恋心だと、思っていた。しかし、誰からにもまとも相手にされない淋しさと、恋とを勘違いしていた。
「由加里ちゃん」
「・・・!」
男の手が少女の肩に回される。
―――――――――アーティストの手だ。
少女はそう思った。淳一は、ヴォーカリストであって、楽器の演奏家ではないが、その指のしなやかさは、そのような種類の人間が醸し出す何かを感じさせた。
「冴子姉さんと結婚するの」
「今、大事なのはおれたちのことじゃない、君のことだろう、いじめられているって具体的なことを言ってみたらどうだ」
「言えない」
由加里は風船の空気を少しづつ漏らすように言う。どうして、性的ないじめを淳一に言えて、姉に言えないのかわからない。
「男であるオレにあんなことを言えるなんて、よほどのことだと思っている。妹になる由加里ちゃんのことだし・・・・・」
「ヤメテ!」
思わず、男の胸を押しのけようとする。しかし、その瞬間、筋肉の塊を掴んだ。はじめて触れる異性の味。そのふくらみからは、非常にセクシーな刺激を感じた。
「イヤ!」
彫刻のように整った顔は、照美を思い起こさせた。
――――なんて、美しい!さすがに冴子さんの妹!いやちがう!この子自身の魅力だ。
その言葉は、男の頭の中で、何度も反芻された。相手は妹よりもさらに年下の少女。もともと、そんな趣味は彼の中にあるはずはなかった。しかし、最近では、そのような趣味に目覚め始めてはいたのだ。
今、目の前にいる少女は、格好の獲物となった。
この少女の門を無理矢理にでも、こじ開けて、その孔を征服してみたくなった。
彼は、冴子に完全に参っていた。白旗を揚げていた。その美貌、才能、すべてに平伏していた。
「あ!」
由加里は、何かに足を取られてしまった。淳一は、それを良いことに、少女をカーペットに押しつけてしまう。少女の柔らかいが、ぶよぶよしていない感触を、全身で感じる。それは、冴子の完全に発育の終わった躰と違う。彼女の場合、引き締まっているが、少女のそれは、微妙に優しさがある。
鼻の頭が、胸の谷間に埋まるように、擦りつける。冴子のそこに同じようにすると、強烈な胸の圧迫感に噎せたものだが、由加里の場合、そんなことにならない。衣服ごしに、
肌の青さを感じさせた。それが、余計に、彼の陰茎を刺激する。
清潔な衣服の匂い。決して、冴子が不潔というわけではない。ただ、発育途上の身体に書かれている歴史の浅さが、研究者の学求意欲を刺激したのかも知れない。何の学問だと?女体の研究に決まっている。男など、女性を求めるだけの学問の徒にすぎぬ。
今、ビジュアル系のヴォーカリストとしての顔は、何処に行ったのだろう。かつて、それは女性ファンを魅了する紳士の仮面だった。しかし、いまや、ただ、異性を求める雄のライオンと化して、少女を征服しようとしている。
「ヒイ!」
華奢な身体を必死に、仰け反らせて逃れようと藻掻く。
少女は、照美たちから受ける暴力とは、違う力を感じた。それは彼女たちの、それよりも、はるかに凶暴で炎の持つ破壊力に満ちていた。
淳一の手が、由加里の胸を掴もうとしている、その時、ドアが開いた。
「さ、冴子姉さん!!」
由加里は救われたと思って、叫んだ。一報、我に帰った淳一は、いい訳の言葉を必死に考えていた。虎口から逃れた由加里は、姉の元に駆け寄った。そして、得られるはずの温かみを、求めようとした。それは悲惨な目にあった彼女に、与えられて当然のものだった。
しかし ――――――――――。
ビシン!
平手打ちが、ものすごい勢いで炸裂した。由加里には弧を描く手の先しか見えなかった。
苦痛だったのは、信号としての痛みではない。一瞬、何が起こったのかわからずに立ち尽くすだけだ。しかし、たしかに右の頬が硬い物にぶつかったのだ。そして、赤みを帯びて腫れ始めている。
「由加里!あなた、何をしているの!?」
「冴子姉さん!!」
次ぎの姉の言葉は、とうてい信じられなかった、絶対に、受け入れられない。
「あなたがそんな人間だとは思わなかった。もう妹だとは思わない!」
「ち、違う!彼が・・・・」
「違う、冴子さん、由加里ちゃんが誘ったんだ、自分から服を脱いで」
足下を見ると、上着が広がっている。それは魂を失った肉体。すなわち、死体のように見えた。
「その年で、よくもこんなことを!あなたみたいな人間、いじめられて当然だわ、はやく出て行きなさい!もう、顔も見たくない!」
―――ワタシは一体何を?!
冴子は、燃えさかる頭の中で、口から出てくる言葉と真意との落差を知って、唖然となった。しかし、もう引き返せない。可愛い妹に裏切られた、許婚者を取られたという感情だけが、ガン細胞のように無限に増殖し、彼女を支配してしまった。しかし、由加里を無条件に疑ったのは何故だろう。それは潜在的な感情だろうか。
―――ワタシはこんな感情で苦しんできたのに、あなたは違う!ママの実の娘だと思って、疑っていない。それが許せない。
「ねえ知ってる?あんたさ、ママの子じゃないのよ」
「?!!」
「ウソだって言いたいんでしょう?鏡を見てゴランよ、どう見てもうちの人間じゃないわよ、パパとママがねえ、ある日、拾ってきたのよ、まるで捨てられた猫みたいにね、あんたなんか、所詮はペットなのよ。飽きられたら捨てられるの!わかった?」
由加里の頭の中は、わけのわからない記号の羅列でいっぱいになった。
「何よ、その顔?もう気づいているんでしょう?どうして、みんなが冷たいのか?おわかり?賞味期限よ、それがもう過ぎたの」
こんなとき高い知能は、より事態を悪化させる。冴子の良く回る頭と舌は、理性から離れた知性と一体化して、妹を叩きのめす。
「・・・・・・・・・」
改めて、由加里は姉の顔を仰ぎ見る。よく似ているはずなのだ。同年代の写真を見ると、そっくりである。しかし、そんなことは、今、頭にない。身の内からあふれ出てくる感情の波が、少女の理性を浸食し、蹂躙していた。
「う・・・・・・・・・・!!」
由加里はその小さな口を手で隠すと、外に向かって走っていった。
―――――由加里!
心の中で、冴子は叫んだ。
しかし、零れたミルクはもとに戻らない。
冴子は、複雑な感情の処理に煩雑される中で、あることに気づいた。
足下に、大きな生ごみが転がっている。
「ねえ、あんたどうしてそこにあるの?」
汚らしいものを見る目で、冴子は見下ろした。
「さ、冴子さん!」
「やかましい!」
「げいん!」
ハイヒールを履いたままの足に、蹴りつけられると。本当に、そう叫んで転がった。あまりにブザマだった。本当に、自分はこんな男と、昨晩まで寝ていたのか。自分の曲をこんなヴォーカリストに唄わせていたのか!そう思うと、自分に腹が立ってならない。
冴子は、レジ袋から取り出した牛乳を開けると、半分だけ飲んだ。そして、思いあまって、中に唾を吐きかけると、淳一の頭から振りかけた。
「ほら、精液だよ!お前みたいな球無しは、肛門にでも、入れてやろうか?妊娠するかもね?ほら!」
「やめろ!やめてくれ!やめてくっださいっ!」
文法的には、これは何活用というのだろう。あまりにブザマな様を晒して、玄関からたたき出されていた。
床に出来た水溜まり。それを見つめていると、いやがおうにも理性が蘇ってくるのを感じた。
大事な妹、由加里、Purple acidのメンバー、そして、ここまで支えてくれたファンたち。彼等から唯一無二のヴォーカリストを奪ったのだ。これでは、彼女が尊敬たてまつる何処かのバンドと同じだ。彼等と同じ徹は踏まないと誓ったはずなのに!
「由加里!」
つい最近、彼女をコンサートに招待したことを思い出した。彼女を奉るような視線を送る由加里、そして、ファン達の歓声が聞こえた。しかし、それは一瞬で消え去った。
しかし、このことは、彼女がアーティストとして、勇躍する伏線になる出来事だった。そして、それは皮肉な出来事を踏み台にするのだが、それは先の話しになる。
由加里が妹に、平手打ちを喰わせるちょうど、2時間ほど前に、時間を遡ってみよう。
おまけに、空間的にもちょっと移動する。何?Google earthで見るならば、所詮は数ドットにすぎない。
夏休み直前の太陽は、時間の感覚を誤らせる。既に、帰宅すべき時間なのに、照美とはるかは、放送室に居座っていた。しかし、日が長いとはいえ、二人の影の長さは、彼女らに、帰宅の催促をしているようだ。それとも、不安の深さや広さを暗示しているのだろうか。
「はるか・・・・」
照美は、思わず声を漏らした。
「私はどうしたって言うんだろう?」
はるかに対してだけは、男っぽい言い方もする。
「たしかにおかしいね、お前が、丸当ごときにぞっこんになるとは思えないな」
「冷静な言い方ね。だけど、人の心はそんなに割り切れるものじゃないわ?」
照美は、嘘をつくとき、特有の目の動き方をする。それをはるが知らないわけはない。もちろん、わかっていて嘘をつくのだ。
「照美、お前に聞きたいことがある」
「何よ?」
「どうして、お前自身、お前が西宮を憎むのか、解っているのか」
「なんか歯切れの悪い聞き方をするのね」
――――わかっていて、そう言うのは意地悪だな!いや、わかっていないか!?
はるかは、照美を向き合った。
「何で、そんな目で見るのよ!」
照美が腰掛けている壁に手をつく。そんなふたりの影は、さながら仲の良い恋人同士のようだ。
はるかの脳裏にある映像が浮かぶ。それは10才のころである。ふたりの家族は、何処かへキャンプに行った。誰もが寝静まった夜のことである。はるかは眠れずに、一人で夏の夜に身を委ねた。
しばらく歩くと聞き慣れた声がして、思わず隠れた。見つかったら怒られるとおもったのだ。
その時の会話だ。
「ユカリさんを忘れるのかい」
「忘れるわ、いまのわたしには、照美がいる。あの子が私の子よ、きっとユカリとサエコは、私を許しはしないわ ―――――でも思うの!もしも照美とはるかが私の産んだ子だったらどんなにいいか、でもその時は、ユカリもサエコも、私の子じゃなくなってしまう」
「考えちゃだめだ。もう、何も考えるな」
涙を押し殺すような声と、夫婦の愛撫はいつまでも続いた。
――――照美は、百合絵ママの実の子じゃない。
―――――百合絵ママは、あたしのことを本当の子みたいに思ってくれている!
その時、二つの事実が少女を貫いた。その時、引き返せない道を歩いているということに、完全な自覚があったわけではない。しかし、照美を第一に思うという決意は、確かにあった。
―――私だけは、照美の味方。
「わからないわよ!どうして、あの子があんなに憎いのか!ただわかるのは!あいつに会わなかったら、私はこんなことしてないっ!」
照美は床に両手を付いた。そして、手が痛むのも忘れて、床を打ち始めた。絨毯が引かれているとはいえ、無事にはすまないだろう。
「照美ぃ!やめるんだ!やめろ!」
照美の両腕は、空気に絡み、虚空を蹴破ろうと動く。しかし、はるかの力腕は、それを難なく受け止めてしまう。
「殴るなら、私を殴りな!」
「ううう!」
照美は、その言葉通り、はるかの胸を叩きだした。中学生離れした乳房は、こんもりと、内部から盛り上がっている。外見からも、そのかたちがはっきりとわかる。
「照美!」
鍛え上げた肢体を持つはるかであっても、さすがに女の子だ。胸部は弱いらしい。さらなる攻撃に堪えかねたのだろう。照美の手首を片手で押さえつけると、彼女をひょいっと、抱き上げた。
「離して!離せ!」
照美は、なおも激しく抵抗しようとする。しかし、叶わないとあきらめたのか、腕を振り上げたまま、一秒ほど停止する。
そして、はるかの胸に顔を埋めると、激しく泣き出した。
「・・・・・」
はるかは、それを黙って受け止めた。照美の流す涙も慟哭も、すべて受け止める。そのような心持ちで、腕の筋肉に力を入れる。すると、照美の繊細な肌を通じて、心臓の鼓動と動悸が、直に伝わってくる。それは、彼女の心動きを直で、表しているように思えた。
――言うべきなのか?言ってはいけないのか?
そのことが数秒ごとに、反芻され、はるかの脳髄と脳下垂体でかみ砕かれた。しかし、何も消化されず、栄養になることもない。
―――こいつにとって、冴子ママが、実の母親でないことは、耐えられない事実だろう。
そう思うと、はるかは一歩踏み出せないのが、現実だった。しかし、不思議なのは、冴子と由加里が酷似していることに気づかないことだ。徹底的に、美術的センスに欠けているのか、心持ちというのは、こんなにまで主観を歪ませるものなのか。
陽光が力を失うまで、その反芻は続いた。
再び、時間を元に戻そう。由加里が郁子に平手打ちを喰わせた、まさにその瞬間である。
ピシッ!!
―――由加里姉!
「何かあったの!?」
春子がキッチンから出てきた。
その音は、廊下から、キッチンまで響いた。その衝撃がわかるであろう。
母親が見たものは、泣きじゃくる郁子と、放心したように立ち尽くす由加里だった。妹は、赤子のように、声を上げて泣き続け、由加里は、幽霊を見たように黒目を小さくして、何処か虚空を睨んでいる。
一瞬で、すべてを悟った。
「由加里!あなた、何してるの?!」
「ママ・・・・・!」
本能的に、郁子を庇うように立ちはだかった。その行為が、由加里には妬ましかった。
「ママ・・・・・!」
「答えなさい!どうして、こんなことをするの?!」
ビシッ!
今度は、由加里が平手打ちを喰う番だった。
「・・・・・・・!?」
無条件に弱い方を、庇う性質が母親には、備わっているようだ
―――――弱い?小さくて、可愛いだけで、それを判断するの?!
「オネガイ、聞いて、由加里の話を!」
由加里は、かつてまるで、クラスメートにそうしたように、懇願した。
「ママっあ!ぶったんだよ!」
泣きじゃくる郁美。どう見ても、妹をいじめる姉という構図しか生まれてこない。
「ママあ、この人、いじめやってるんだよ!最低だわ!」
吐き捨てるように言う郁子。「この人」という表現が衝撃的だった。由加里を見上げるその目は、どうみてもかつての郁子ではない。一見怯えているように見えるが、その実、母親が我が手にあるという優越感が見えてしまうのはどうしてだろう。
「ワタシ、そんなことしてない!してない!!」
由加里は叫んだが、何の説得力もないことに、自分ながらに驚かされた。
「ウソよ!穂灘に責められたんだから!」
――――やっぱり、そのルートで、話しが流れているんだ。でも穂灘さんは、私のことを恨んでいるふうはなかったのに!
小学校時代から、彼女を知っているが、それほど親しかった記憶がない。もちろん、その反対に喧嘩をしたという思いもない。彼女に弟か妹がいることすら知らないのだ。
しかし、春子には、自分がクラスでのけ者にされていることは知っている。それなのに、由加里のことを信じてくれないのか。
裁判で行われたことが、そのまま穂灘の兄妹に伝わり、そして郁子が知ることになった、それも最悪の状況で。
そして、そのまま母親に伝えられた。こういうことだろう。
どうにかしなければならない。母を説得しなければ、本当に、自分のいる場所が何処にもなくなってしまう。そのような恐ろしい直感が現実のものになろうとしている。自分の足下が完全に崩れ去ってしまう現実は、まさに目の前にあった。
その後の言い争いや、涙の応酬はよく憶えていない。ただ、憶えているのは、夜の街を駅に向かって歩いていたことだ。冷たいネオンサインの類は、青も緑も黄色も、少女を嘲笑っている。
今、たまたま通った車は、水しぶきのプレゼントを由加里に呉れてやった。たぶん、水溜まりを通過するさい、注意しなかったせいだ。きっと、少女を嫌っているのだろう。
それは、彼女には、街に吐きかけられた唾に思えた。もっと言えば、社会に、見捨てられたようにすら思えた。
―――私は村八分だ。
それが被害妄想であることは、100も承知だ。しかし、泣きはらした顔に誰もキスをしてくれないのは、何故だろう。今通りかかった、OLは?土木業者の兄ちゃんは?、
そして、犬は?動物さえ由加里を相手にしてくれない。
少女を迎えたのは、共産社会の近代街のように、誰も笑わないコンクリートの塊だった。裸の王様の宮殿、京王線の駅。通勤ラッシュは過ぎたとはいえ、まだ利用客は行き交っている。
しかし、マネキンのようなOLやサラリーマンの顔に、表情はなく、哀れな少女に何も与えてくれない。そう、キスはおろか、慰めの言葉さえかけてくれないのだ。
赤木啓子の家は、都心から車で10分といったところにある。緑に覆われた高台の真ん中に、その閑静な住宅街はある。
彼女の母親が運転する車は、今、桜の花が降りしきる大通りを走っている。すぐ、そこの道を併走する少年がいたが、一瞬で追い抜いてしまった。
「わあ、桜、キレイねえ」
「啓子ちゃんは、いつも見てるのに。」
啓子の発言に難癖を付けるあおい。
「あおいちゃんは、桜好きじゃないの?」
そう言っている母親は、祥子というのだが、実のところ、桜が好きじゃない。何故ならば、彼女の許可なしに車に積もった花びらの掃除が面倒だからだ。相当な資産家とはいえ、家族は、家のなかに他人を入れるのを好まない。使用人がいないのだから、自然と主婦である彼女の仕事になる。
「別に、好きでも嫌いでもないよ。だけど甘くて食べられたら好きかな――――」
あおいは、無邪気に言いのける。
今、車が左折したために、少女のランドセルの左部分が圧縮された。乾いた皮のニオイがわずかだが、発した。きっと、それには少女の汗の臭気が含まれているにちがいない。
桜で有名な公園を抜けると、啓子の家はすぐそこだ。
巨大な鉄門を潜ると、車は大きな車庫に入る。小さな養鶏場くらいの面積はあるだろう。しかし、あおいは、別に驚きはしない。何度も訪問しているからではなくて、実家がそのくらいの経済力がなければ、この学校に入ることはできないからだ。
そこから5分くらい歩くと、ゴシック様式を真似たと思われる洋館が出現する。マネゴトとは言っても、本物が、巨大な大聖堂であることを考えれば、その洋館がたいした屋敷であることは想像できるはずだ。
ふつうの家庭環境で育った者から見れば、それは、必要以上に広いと映るのであろう。
二人が上がった玄関は、ピカピカに磨き立てられている。たしか、京都か奈良に、そんな寺があったはずだ。真っ黒な床を見ると、まるで満月の湖面のように、自分の顔が見えた。陰毛が恥ずかしかった、そんな時代のことだ。
話を元に戻そう。もちろん、この二人のスリットには、陰毛のいの字も見ることは出来ない。
「あおいちゃん、早速調べよう」
革靴を脱いだ啓子は、すぐに誘った。
「えー?もう?」
あおいは不満顔だ。
「一体、何を調べるの」
「マザーエルザ」
母親に即答する啓子。
「小学生らしくていいじゃない」
あおいが脱ぎ散らかした革靴をそろえる母親。黒光りする靴からは、清潔な消毒薬のにおいと、女の子特有の脂のにおいが、たぶんに、蓄えられていた。しかし、彼女は別にそういう趣味がないために、全く反応しなかった。
「あ、ごめんなさい」
「これからはちゃんとしようね」
彼女は、あおいの頭をそっと撫でた。
―――――かわいい、かわいい。
あおいは本当に愛されていた。どんな所に行っても、誰にでも愛される。そして、それを当然のように思っている。啓子は、妬ましかったが、それよりも妬ましいと思う自分自身が嫌になっていた。
「はやく、パソコンの部屋においでよ」
「うん」
啓子が言うパソコンの部屋とは、居間のことである。当然のことながら、こんなに金持ちなのに、娘にパソコンを買い与えていない。それは、あおいの親も、そうだが、それぞれ、娘たちを愛しているからである。常に監視が効く、居間に共有のパソコンを設置してある。
「マザーエレザ、マザーエレザ」
啓子は、Google検索に、その文字を打ち込んだ。母親の微笑が、宙に舞う砂金のように、二人の少女に降り注いでいる。それに気づかない二人は、モニターの情報に釘付けになった。
~1910年12月27日、ニェルティラピアに生まれる。アグネ=ゴンジと名付けられる。二人にとってみれば気が遠くなるくらいに、過去である。ちなみに、この屋敷の門には、1910年、建築と大理石の門構えに彫りこんである。
「え?マザーエレザって本名じゃないんだ。ていうことは芸名ね」
「啓子ったらそんなんじゃないって!」
――――?
啓子は、不思議に思った。他人が軽く言ったことを、真に受けることはよくあるが、今回はちょっとちがう。何をむきになっているのだろう。
「すごいな、金持ちに生まれたのに、アギリに行って、困った人を救うなんて、えらい人だな」
「でもさ、家族は心配しなかったのかな。もしも、ママや姉ちゃんたちが、貧しい国に行くっていたら、ヤダな」
「そんなことない!!なんで、彼女じゃないのに!そんなことがわかるの!?」
「あおいちゃん・・・!?」
さすがに、啓子も祥子も、あおいの剣呑な態度には驚いた。こんな彼女を見たことがなかった。あおい自身、自分の胎内に宿した子のことを、よく理解していなかった。この時、思いがけず、為した子は、彼女じしんばかりが、周囲を巻き込んで、古傷を蘇らせることになるのである。そのことを、二人は知るよしもなかった。
「ごめんね、啓子ちゃん、だけど、わかるんだ。アギリの人を助けたかったんだよ!きっと」
「・・・・・・・・・」
モニターを見つめるあおいの視線は真剣そのものだ。まるで、彼女の視線が、モニターに乗り移ってしまうのではないかと、危惧させるくらいに普通ではなかった。
「でも、当時のアギリって今みたいに、ITが発達していたわけじゃないんでしょう?みんな貧しかったのよね」
「今もそうは変わらなかったと思うわ。ITが発達していると言っても、ごく一部のことで、ほとんどの人は貧しい生活を強いられているのよ」
祥子が口を挟んだ。
「ふうん」
今、周囲にあるのは、当然の結果ではない。手足が完備されているのは、当たり前のことではない。鉛筆で文字が書けること、ふつうに歩けること。それらは、決して、当たり前のことではないのだ。
そのことを知るのも教育の成果である。しかし、この時は、まだ少女たちは、自分たちが置かれている状況がどれくらい恵まれているのか、自覚が足りなかった。
二人が見つめるホームページには、マザーエレザが慣れない異国で、どのように奮闘したかが、如実に書かれている。
――――何処かで見たことがある。
やせ細った真黒な人間が、老女に撫でられて、感涙している。そんな映像を見ているうちに、あおいの中で、わけのわからないデジャヴュが生まれてくるのがわかった。見たこともないはずの世界が、彼女の中で、化学変化を起こしているのだ。
いささか、緊張はしているせいか、油の乗った手で、マウスを動かす。
まるで、アルバムを見返すような、気分で映像を通り抜けていく。30分に渡って、二人はモニターに釘付けになっていた。しかし、小学生の集中力はそれほど続くわけはない。やがて、あおいの手は、邪な方向に移動していく。Google検索、そして、少女の不格好な指は、何やらキーボード上を探索していた。
「・・・・・・・・・?」
啓子の目は、その動きをくまなく追っていく。そして、―――――――。
「ちょっと!あおいちゃん!」
その文字列が示すのは、とあるオンラインRPGのサイトだった。
「やっとメイフィール金貨が見付かったんだよ」
「そんなことやってる場合じゃないでしょう?」
「ふふ、あおいちゃんたら、疲れちゃったんでしょう?啓子、おやつにしようかナバロフのチーズケーキを買ってあるわよ」
「はーい」
「わたしの注意はあまり聞こえないくせに、ママのは聞こえるらしいわね」
いささか、軽蔑の色が含まれた視線を送る啓子。あおいは、それを無視して、祥子の元に走る。
「はい、はい、ケーキは逃げませんよ」
「全く!ふふ」
文句を言いながらも、啓子も続く。
「マザーエルザって、何故か、家でも評判よくないんだよね」
「おばさんたち?」
「特に、徳子姉がね」
啓子は、榊家の長女を思い起こした。ちょっと尖った目つきのが特長である。
「じゃあ、私とも話が合いそうじゃない」
「みんな、なんでそんなに悪く言うのかな、聖女なのに、ノーベル平和賞もらったんだよ」
「私はもらう資格がないなんて、偽善的じゃない」
どちらかと言えば、釣り目がちな眼差しが、かすかに光を帯びる。
「ぎぜんてき?徳子姉が、そう言えば、言ってたわ」
「啓子は心がねじ曲がっているから、そう見えるのね」
祥子が助け船を出した。
「そうだよね、啓子が好きなのって、織田信長とか、この前言っていたのって、誰だっけ、ソウソ?」
「曹操!中国の英雄よ」
「英雄って、人殺しでしょう?」
「そうねえ、曹操は才能を重んじたのよ、30分も勉強が続かない、あおいちゃんなんて、殺しちゃうかもね」
「今、ソウソなんていないもん」
「曹操!それに、もしも1500年前にいたらの話し」
「今は、1500年前じゃないもん」
あおいは、最後のひとかけらを呑みこんだ。
「うん、美味しい!1500年前に、少なくとも、こんな美味しいケーキはなかったわね」
「ふたりは、本当に仲がいいのねえ」
祥子は、目の前に現出した絵画に舌鼓を打った。思わず微笑んでしまう。しかし、遠くない将来に、この美しい絵に罅が入ることなぞ、想像できたであろうか?あおいが零すあふれんばかりの笑顔が消えるなどと・・・・。
平和な絵画に亀裂が走ったのは、夕食の後だった。
祥子が作る料理は、ケーキに輪をかけて贅沢なものだったが、その時に、事件は起こった。啓子の家族一同が揃っていた。
夕食が終わり、デザートという段になったときだ。啓子が姉に言った次ぎの台詞が引き金になった。
「可愛い妹がいるときには、いつもいないくせに、今日は、どうしたのよ」
「可愛い妹?何処にいるの?」
当然、これは冗談である。姉の怜夏は既に大学生だから、家族と夕食を共にすることはすくないのだ。それを皮肉った啓子に、いつもの返事をしただけった。
一同は朗らかに笑いを添えた―――――はずだった。しかし、 ―――――――。
「・・・・・・・!!」
「あおいちゃん?どうしたの?」
あおいはデザートを突っつくはずのフォークを落としてしまった。しかるのちに、立ち上がると、怜夏を睨んだ。血相を変えたその顔は、今までのあおいではなかった。
「あおいちゃん?」
怜夏もあおいのただならぬ様子に、とまどいを隠せないようだ。
すべてが凍り付いて溶けないのだと思わせた後、あおいは小さな口を開いた。
「だめ!家族にそんなこと言っちゃ・・・・・だめ!!ぁあ、ごめん・・・・!ごめんなさい」
「そんな、別に、あおいちゃんが悪いわけじゃないわよ」
「ぁ」
小さく呻き声を上げると、両手で小さな顔を覆うと、脱兎のごとくドアに向かって駈け出した。
「あおい!」
啓子は、当然のことながら、あおいを追いかける。あおいが走り去った後には、涙の粒が、何粒も転がっていた。
「あおいちゃん?」
小さいころから、彼女を知っている怜夏である。さすがに不思議に思った。
「ただごとじゃないわよねえ、あの様子。変に他人行儀になったかと思うと・・・・」
妹のように思ってきたあおいの変容に、驚きを隠せなかった。
祥子は、食卓を片づけながら言った。
「成長の儀式にしては、おかしいわねえ、久美子に電話しておくか」
「だめよ、それはよした方が良いわ、ママ」
怜夏は、あまり嘴を出すのはよくないと諭す。
二人が心配しているうちに、ふたりは、はたして戻ってきた。しかし、あおいはもう泣いていなかった。
「あおいったらおかしいよねえ、小公女セーラを読んでいたんだって、あの話しって、たしか家族にいじめられる女の子の話よね」
「・・・・・・ごめんなさい」
あおいの作った笑顔は、巨匠の名画というよりは、弟子のデッサンのようだった。しかし、一同は、それを知っていて、知らぬフリをした。
二人は、啓子の部屋に戻っていった。
「ねえ、ママ、セーラーってそういう話しだっけ」
「いや、ちがうと思うけど?」
あおいが残したのは、疑念のたっぷり仕込まれたケーキだった。
彼女の母親が運転する車は、今、桜の花が降りしきる大通りを走っている。すぐ、そこの道を併走する少年がいたが、一瞬で追い抜いてしまった。
「わあ、桜、キレイねえ」
「啓子ちゃんは、いつも見てるのに。」
啓子の発言に難癖を付けるあおい。
「あおいちゃんは、桜好きじゃないの?」
そう言っている母親は、祥子というのだが、実のところ、桜が好きじゃない。何故ならば、彼女の許可なしに車に積もった花びらの掃除が面倒だからだ。相当な資産家とはいえ、家族は、家のなかに他人を入れるのを好まない。使用人がいないのだから、自然と主婦である彼女の仕事になる。
「別に、好きでも嫌いでもないよ。だけど甘くて食べられたら好きかな――――」
あおいは、無邪気に言いのける。
今、車が左折したために、少女のランドセルの左部分が圧縮された。乾いた皮のニオイがわずかだが、発した。きっと、それには少女の汗の臭気が含まれているにちがいない。
桜で有名な公園を抜けると、啓子の家はすぐそこだ。
巨大な鉄門を潜ると、車は大きな車庫に入る。小さな養鶏場くらいの面積はあるだろう。しかし、あおいは、別に驚きはしない。何度も訪問しているからではなくて、実家がそのくらいの経済力がなければ、この学校に入ることはできないからだ。
そこから5分くらい歩くと、ゴシック様式を真似たと思われる洋館が出現する。マネゴトとは言っても、本物が、巨大な大聖堂であることを考えれば、その洋館がたいした屋敷であることは想像できるはずだ。
ふつうの家庭環境で育った者から見れば、それは、必要以上に広いと映るのであろう。
二人が上がった玄関は、ピカピカに磨き立てられている。たしか、京都か奈良に、そんな寺があったはずだ。真っ黒な床を見ると、まるで満月の湖面のように、自分の顔が見えた。陰毛が恥ずかしかった、そんな時代のことだ。
話を元に戻そう。もちろん、この二人のスリットには、陰毛のいの字も見ることは出来ない。
「あおいちゃん、早速調べよう」
革靴を脱いだ啓子は、すぐに誘った。
「えー?もう?」
あおいは不満顔だ。
「一体、何を調べるの」
「マザーエルザ」
母親に即答する啓子。
「小学生らしくていいじゃない」
あおいが脱ぎ散らかした革靴をそろえる母親。黒光りする靴からは、清潔な消毒薬のにおいと、女の子特有の脂のにおいが、たぶんに、蓄えられていた。しかし、彼女は別にそういう趣味がないために、全く反応しなかった。
「あ、ごめんなさい」
「これからはちゃんとしようね」
彼女は、あおいの頭をそっと撫でた。
―――――かわいい、かわいい。
あおいは本当に愛されていた。どんな所に行っても、誰にでも愛される。そして、それを当然のように思っている。啓子は、妬ましかったが、それよりも妬ましいと思う自分自身が嫌になっていた。
「はやく、パソコンの部屋においでよ」
「うん」
啓子が言うパソコンの部屋とは、居間のことである。当然のことながら、こんなに金持ちなのに、娘にパソコンを買い与えていない。それは、あおいの親も、そうだが、それぞれ、娘たちを愛しているからである。常に監視が効く、居間に共有のパソコンを設置してある。
「マザーエレザ、マザーエレザ」
啓子は、Google検索に、その文字を打ち込んだ。母親の微笑が、宙に舞う砂金のように、二人の少女に降り注いでいる。それに気づかない二人は、モニターの情報に釘付けになった。
~1910年12月27日、ニェルティラピアに生まれる。アグネ=ゴンジと名付けられる。二人にとってみれば気が遠くなるくらいに、過去である。ちなみに、この屋敷の門には、1910年、建築と大理石の門構えに彫りこんである。
「え?マザーエレザって本名じゃないんだ。ていうことは芸名ね」
「啓子ったらそんなんじゃないって!」
――――?
啓子は、不思議に思った。他人が軽く言ったことを、真に受けることはよくあるが、今回はちょっとちがう。何をむきになっているのだろう。
「すごいな、金持ちに生まれたのに、アギリに行って、困った人を救うなんて、えらい人だな」
「でもさ、家族は心配しなかったのかな。もしも、ママや姉ちゃんたちが、貧しい国に行くっていたら、ヤダな」
「そんなことない!!なんで、彼女じゃないのに!そんなことがわかるの!?」
「あおいちゃん・・・!?」
さすがに、啓子も祥子も、あおいの剣呑な態度には驚いた。こんな彼女を見たことがなかった。あおい自身、自分の胎内に宿した子のことを、よく理解していなかった。この時、思いがけず、為した子は、彼女じしんばかりが、周囲を巻き込んで、古傷を蘇らせることになるのである。そのことを、二人は知るよしもなかった。
「ごめんね、啓子ちゃん、だけど、わかるんだ。アギリの人を助けたかったんだよ!きっと」
「・・・・・・・・・」
モニターを見つめるあおいの視線は真剣そのものだ。まるで、彼女の視線が、モニターに乗り移ってしまうのではないかと、危惧させるくらいに普通ではなかった。
「でも、当時のアギリって今みたいに、ITが発達していたわけじゃないんでしょう?みんな貧しかったのよね」
「今もそうは変わらなかったと思うわ。ITが発達していると言っても、ごく一部のことで、ほとんどの人は貧しい生活を強いられているのよ」
祥子が口を挟んだ。
「ふうん」
今、周囲にあるのは、当然の結果ではない。手足が完備されているのは、当たり前のことではない。鉛筆で文字が書けること、ふつうに歩けること。それらは、決して、当たり前のことではないのだ。
そのことを知るのも教育の成果である。しかし、この時は、まだ少女たちは、自分たちが置かれている状況がどれくらい恵まれているのか、自覚が足りなかった。
二人が見つめるホームページには、マザーエレザが慣れない異国で、どのように奮闘したかが、如実に書かれている。
――――何処かで見たことがある。
やせ細った真黒な人間が、老女に撫でられて、感涙している。そんな映像を見ているうちに、あおいの中で、わけのわからないデジャヴュが生まれてくるのがわかった。見たこともないはずの世界が、彼女の中で、化学変化を起こしているのだ。
いささか、緊張はしているせいか、油の乗った手で、マウスを動かす。
まるで、アルバムを見返すような、気分で映像を通り抜けていく。30分に渡って、二人はモニターに釘付けになっていた。しかし、小学生の集中力はそれほど続くわけはない。やがて、あおいの手は、邪な方向に移動していく。Google検索、そして、少女の不格好な指は、何やらキーボード上を探索していた。
「・・・・・・・・・?」
啓子の目は、その動きをくまなく追っていく。そして、―――――――。
「ちょっと!あおいちゃん!」
その文字列が示すのは、とあるオンラインRPGのサイトだった。
「やっとメイフィール金貨が見付かったんだよ」
「そんなことやってる場合じゃないでしょう?」
「ふふ、あおいちゃんたら、疲れちゃったんでしょう?啓子、おやつにしようかナバロフのチーズケーキを買ってあるわよ」
「はーい」
「わたしの注意はあまり聞こえないくせに、ママのは聞こえるらしいわね」
いささか、軽蔑の色が含まれた視線を送る啓子。あおいは、それを無視して、祥子の元に走る。
「はい、はい、ケーキは逃げませんよ」
「全く!ふふ」
文句を言いながらも、啓子も続く。
「マザーエルザって、何故か、家でも評判よくないんだよね」
「おばさんたち?」
「特に、徳子姉がね」
啓子は、榊家の長女を思い起こした。ちょっと尖った目つきのが特長である。
「じゃあ、私とも話が合いそうじゃない」
「みんな、なんでそんなに悪く言うのかな、聖女なのに、ノーベル平和賞もらったんだよ」
「私はもらう資格がないなんて、偽善的じゃない」
どちらかと言えば、釣り目がちな眼差しが、かすかに光を帯びる。
「ぎぜんてき?徳子姉が、そう言えば、言ってたわ」
「啓子は心がねじ曲がっているから、そう見えるのね」
祥子が助け船を出した。
「そうだよね、啓子が好きなのって、織田信長とか、この前言っていたのって、誰だっけ、ソウソ?」
「曹操!中国の英雄よ」
「英雄って、人殺しでしょう?」
「そうねえ、曹操は才能を重んじたのよ、30分も勉強が続かない、あおいちゃんなんて、殺しちゃうかもね」
「今、ソウソなんていないもん」
「曹操!それに、もしも1500年前にいたらの話し」
「今は、1500年前じゃないもん」
あおいは、最後のひとかけらを呑みこんだ。
「うん、美味しい!1500年前に、少なくとも、こんな美味しいケーキはなかったわね」
「ふたりは、本当に仲がいいのねえ」
祥子は、目の前に現出した絵画に舌鼓を打った。思わず微笑んでしまう。しかし、遠くない将来に、この美しい絵に罅が入ることなぞ、想像できたであろうか?あおいが零すあふれんばかりの笑顔が消えるなどと・・・・。
平和な絵画に亀裂が走ったのは、夕食の後だった。
祥子が作る料理は、ケーキに輪をかけて贅沢なものだったが、その時に、事件は起こった。啓子の家族一同が揃っていた。
夕食が終わり、デザートという段になったときだ。啓子が姉に言った次ぎの台詞が引き金になった。
「可愛い妹がいるときには、いつもいないくせに、今日は、どうしたのよ」
「可愛い妹?何処にいるの?」
当然、これは冗談である。姉の怜夏は既に大学生だから、家族と夕食を共にすることはすくないのだ。それを皮肉った啓子に、いつもの返事をしただけった。
一同は朗らかに笑いを添えた―――――はずだった。しかし、 ―――――――。
「・・・・・・・!!」
「あおいちゃん?どうしたの?」
あおいはデザートを突っつくはずのフォークを落としてしまった。しかるのちに、立ち上がると、怜夏を睨んだ。血相を変えたその顔は、今までのあおいではなかった。
「あおいちゃん?」
怜夏もあおいのただならぬ様子に、とまどいを隠せないようだ。
すべてが凍り付いて溶けないのだと思わせた後、あおいは小さな口を開いた。
「だめ!家族にそんなこと言っちゃ・・・・・だめ!!ぁあ、ごめん・・・・!ごめんなさい」
「そんな、別に、あおいちゃんが悪いわけじゃないわよ」
「ぁ」
小さく呻き声を上げると、両手で小さな顔を覆うと、脱兎のごとくドアに向かって駈け出した。
「あおい!」
啓子は、当然のことながら、あおいを追いかける。あおいが走り去った後には、涙の粒が、何粒も転がっていた。
「あおいちゃん?」
小さいころから、彼女を知っている怜夏である。さすがに不思議に思った。
「ただごとじゃないわよねえ、あの様子。変に他人行儀になったかと思うと・・・・」
妹のように思ってきたあおいの変容に、驚きを隠せなかった。
祥子は、食卓を片づけながら言った。
「成長の儀式にしては、おかしいわねえ、久美子に電話しておくか」
「だめよ、それはよした方が良いわ、ママ」
怜夏は、あまり嘴を出すのはよくないと諭す。
二人が心配しているうちに、ふたりは、はたして戻ってきた。しかし、あおいはもう泣いていなかった。
「あおいったらおかしいよねえ、小公女セーラを読んでいたんだって、あの話しって、たしか家族にいじめられる女の子の話よね」
「・・・・・・ごめんなさい」
あおいの作った笑顔は、巨匠の名画というよりは、弟子のデッサンのようだった。しかし、一同は、それを知っていて、知らぬフリをした。
二人は、啓子の部屋に戻っていった。
「ねえ、ママ、セーラーってそういう話しだっけ」
「いや、ちがうと思うけど?」
あおいが残したのは、疑念のたっぷり仕込まれたケーキだった。