京王線の駅は、何処も似ている。都心から離れるほどに、その度合いを強くしていくのだが、その疑似宮殿性である。ディズニーランドの、お城のように、そのコンクリートの塊からは、虚無ばかりが目に付く。由加里は、財布だけ持って、フラフラと、そんな駅の構内へと入っていく。
新宿行きの急行は、すぐにやってきた。もう、上がりはスカスカである。まばらな客たちは、石化した珊瑚の海を思わせる。以前に、由加里もテレビで視たことがあるのだが、見かけがキレイに白くなった珊瑚は、実際は、死滅しているのだという。
それは、もしかしたら、少女自身も同じではないか。絶望的な思いで、ひたすらに姉の家を目指して、電車を乗り継ぐ。
当然のことながら、だんだん都心に向かっていくのだが、そこに幸せが本当にあるのか、疑問だった。まるで、蟻地獄のように、一点にむかって回転しながら落ちていくだけではないか。
都心というところは、少女が堕ちていく先であると聞く。子どもの売春や、怪しげな職業を斡旋する大人たちがうようよしているという。はたして、今いる地獄と、どちらが地獄だろうか。確かめてみる価値はありそうだ。
この電車はある悪夢を思い起こさせる。照美たちに、連れられて新宿行きの列車に乗ったのだ。性器に埋め込まれた異物は、戸外で自慰を強要されているような、羞恥心を起こさせた。その感覚は、今でも残っており、何も入れられていなくても、性器が興奮して、勝手に濡れてしまうことすらある。躰が変えられてしまった。そして、まだ、それは何かに変身させられる途上かもしれない。
何処をどう乗り継いだのか、よく憶えていない。ほとんど反射運動のように、やってきた。おそらく正しいのだろう。
気が付くと、見慣れた駅舎が見えてきた。それは姉の優しい面差しのように思えた。
姉には予め連絡を取っていない。そんなことをする気力もなかったし、思いつきもしなかった。夜の街を一人で、ぶらぶら歩きをしたかっただけだ。その駅は、何てことはない都心の駅の一つだ。姉の大学が近い、いわゆる学園都市である。
姉に会う前に、少しぐらい顔を洗って行きたかった。まばらなネオンサインにそれを期待したのである。しかし、彼等が洗ってくれたのは、髪の毛の表面だけだった。ぱさぱさした髪に、多少なりとも湿り気をもたらしてくれた。しかしながら、それは湿っぽい夏の夜のおかげだったかもしれない。
しばらく歩くと、大学生の下宿とは思えないマンションが出現する。しかし、実感覚として、その辺の常識が彼女にはない。自分の体験はない上に、姉がふつうであると思っているからだ。それは、小説や新聞の多読を通じて、おかしいということは解っているが、実感覚とは、かなり隔たっていると言わねばならない。
由加里は、エントランスにある機械を操作する。赤や黄色、それに緑色のボタンが設置してある。マンションに縁がない人にはわからないかもしれないが、これは、各部屋へのインターフォンである。こんなものがある自体、大学生の下宿にはふさわしくない。たとえ、その大学が、国立大学の医学部であってもだ。
自動ドアが重々しく開く。まるでホテルに設置されているような代物である。由加里は、その中へ、当たり前のように歩を進めていく。ガラスのようにキラキラした床は、少女が歩くと、クリスタルの音を発する。そのために、どれだけ下層階級の労働が隠されているか、少女は考えもしないだろう。 もっとも、そのために少女が、非難される言われはないが。
冴子の部屋は46階。かなりの高層である。エレベータの中は、ひんやりとしている。その空気は、由加里を何故か、安心させない。鎖骨のくぼみや、肩胛骨の割れ目に、汗が溜まっている。それが、冷えるのが気持ち悪いからだろうか。
あっという間に目指す階に到着した。機械の作動音は、静かで心地よかった。姉の部屋まで、誰とも会わない。まるで、都会の孤島を思わせた。さしずめ、ここはラピュタであろうか。
『西宮』の表札。それが目に入ると、無条件に安心する。
はたして、解錠して、ドアを開けると想像もしてなかった声が聞こえた。
「え?由加里ちゃんだったの?」
「じゅ、淳一お兄ちゃん」
端正な顔が、由加里の顔を赤らめさせる。インターフォンでは、ボタンひとつで受信できるから、あえて声で交信する必要がない。
「冴子さんは、用があって出てるけど、ま、入ってよ」
まるで自分の家のように言う。
高崎淳一。
言わずと知れた、冴子の恋人である。携帯のやり取りをする仲にまで、なっているいじめに関して、冴子にも言えないことを言えるのは、微妙な関係ゆえだろうか。
「同棲しているんだよ、驚いた?もちろん、お金は払っているからね」
淳一は、煙草の空箱をくしゃくしゃしながら言う。
「Purple acidは売れてるの」
「そうだよ、この家賃の半分が払えるくらいね。それにしてもどうしたの」
「うん」
由加里は自分に、イエスを言うように肯く。少女は、淳一を信用しはじめていた。それは、“淳一お兄ちゃん”という呼び方にも現れている。それは少女に起こった仄かな恋心だと、思っていた。しかし、誰からにもまとも相手にされない淋しさと、恋とを勘違いしていた。
「由加里ちゃん」
「・・・!」
男の手が少女の肩に回される。
―――――――――アーティストの手だ。
少女はそう思った。淳一は、ヴォーカリストであって、楽器の演奏家ではないが、その指のしなやかさは、そのような種類の人間が醸し出す何かを感じさせた。
「冴子姉さんと結婚するの」
「今、大事なのはおれたちのことじゃない、君のことだろう、いじめられているって具体的なことを言ってみたらどうだ」
「言えない」
由加里は風船の空気を少しづつ漏らすように言う。どうして、性的ないじめを淳一に言えて、姉に言えないのかわからない。
「男であるオレにあんなことを言えるなんて、よほどのことだと思っている。妹になる由加里ちゃんのことだし・・・・・」
「ヤメテ!」
思わず、男の胸を押しのけようとする。しかし、その瞬間、筋肉の塊を掴んだ。はじめて触れる異性の味。そのふくらみからは、非常にセクシーな刺激を感じた。
「イヤ!」
彫刻のように整った顔は、照美を思い起こさせた。
――――なんて、美しい!さすがに冴子さんの妹!いやちがう!この子自身の魅力だ。
その言葉は、男の頭の中で、何度も反芻された。相手は妹よりもさらに年下の少女。もともと、そんな趣味は彼の中にあるはずはなかった。しかし、最近では、そのような趣味に目覚め始めてはいたのだ。
今、目の前にいる少女は、格好の獲物となった。
この少女の門を無理矢理にでも、こじ開けて、その孔を征服してみたくなった。
彼は、冴子に完全に参っていた。白旗を揚げていた。その美貌、才能、すべてに平伏していた。
「あ!」
由加里は、何かに足を取られてしまった。淳一は、それを良いことに、少女をカーペットに押しつけてしまう。少女の柔らかいが、ぶよぶよしていない感触を、全身で感じる。それは、冴子の完全に発育の終わった躰と違う。彼女の場合、引き締まっているが、少女のそれは、微妙に優しさがある。
鼻の頭が、胸の谷間に埋まるように、擦りつける。冴子のそこに同じようにすると、強烈な胸の圧迫感に噎せたものだが、由加里の場合、そんなことにならない。衣服ごしに、
肌の青さを感じさせた。それが、余計に、彼の陰茎を刺激する。
清潔な衣服の匂い。決して、冴子が不潔というわけではない。ただ、発育途上の身体に書かれている歴史の浅さが、研究者の学求意欲を刺激したのかも知れない。何の学問だと?女体の研究に決まっている。男など、女性を求めるだけの学問の徒にすぎぬ。
今、ビジュアル系のヴォーカリストとしての顔は、何処に行ったのだろう。かつて、それは女性ファンを魅了する紳士の仮面だった。しかし、いまや、ただ、異性を求める雄のライオンと化して、少女を征服しようとしている。
「ヒイ!」
華奢な身体を必死に、仰け反らせて逃れようと藻掻く。
少女は、照美たちから受ける暴力とは、違う力を感じた。それは彼女たちの、それよりも、はるかに凶暴で炎の持つ破壊力に満ちていた。
淳一の手が、由加里の胸を掴もうとしている、その時、ドアが開いた。
「さ、冴子姉さん!!」
由加里は救われたと思って、叫んだ。一報、我に帰った淳一は、いい訳の言葉を必死に考えていた。虎口から逃れた由加里は、姉の元に駆け寄った。そして、得られるはずの温かみを、求めようとした。それは悲惨な目にあった彼女に、与えられて当然のものだった。
しかし ――――――――――。
ビシン!
平手打ちが、ものすごい勢いで炸裂した。由加里には弧を描く手の先しか見えなかった。
苦痛だったのは、信号としての痛みではない。一瞬、何が起こったのかわからずに立ち尽くすだけだ。しかし、たしかに右の頬が硬い物にぶつかったのだ。そして、赤みを帯びて腫れ始めている。
「由加里!あなた、何をしているの!?」
「冴子姉さん!!」
次ぎの姉の言葉は、とうてい信じられなかった、絶対に、受け入れられない。
「あなたがそんな人間だとは思わなかった。もう妹だとは思わない!」
「ち、違う!彼が・・・・」
「違う、冴子さん、由加里ちゃんが誘ったんだ、自分から服を脱いで」
足下を見ると、上着が広がっている。それは魂を失った肉体。すなわち、死体のように見えた。
「その年で、よくもこんなことを!あなたみたいな人間、いじめられて当然だわ、はやく出て行きなさい!もう、顔も見たくない!」
―――ワタシは一体何を?!
冴子は、燃えさかる頭の中で、口から出てくる言葉と真意との落差を知って、唖然となった。しかし、もう引き返せない。可愛い妹に裏切られた、許婚者を取られたという感情だけが、ガン細胞のように無限に増殖し、彼女を支配してしまった。しかし、由加里を無条件に疑ったのは何故だろう。それは潜在的な感情だろうか。
―――ワタシはこんな感情で苦しんできたのに、あなたは違う!ママの実の娘だと思って、疑っていない。それが許せない。
「ねえ知ってる?あんたさ、ママの子じゃないのよ」
「?!!」
「ウソだって言いたいんでしょう?鏡を見てゴランよ、どう見てもうちの人間じゃないわよ、パパとママがねえ、ある日、拾ってきたのよ、まるで捨てられた猫みたいにね、あんたなんか、所詮はペットなのよ。飽きられたら捨てられるの!わかった?」
由加里の頭の中は、わけのわからない記号の羅列でいっぱいになった。
「何よ、その顔?もう気づいているんでしょう?どうして、みんなが冷たいのか?おわかり?賞味期限よ、それがもう過ぎたの」
こんなとき高い知能は、より事態を悪化させる。冴子の良く回る頭と舌は、理性から離れた知性と一体化して、妹を叩きのめす。
「・・・・・・・・・」
改めて、由加里は姉の顔を仰ぎ見る。よく似ているはずなのだ。同年代の写真を見ると、そっくりである。しかし、そんなことは、今、頭にない。身の内からあふれ出てくる感情の波が、少女の理性を浸食し、蹂躙していた。
「う・・・・・・・・・・!!」
由加里はその小さな口を手で隠すと、外に向かって走っていった。
―――――由加里!
心の中で、冴子は叫んだ。
しかし、零れたミルクはもとに戻らない。
冴子は、複雑な感情の処理に煩雑される中で、あることに気づいた。
足下に、大きな生ごみが転がっている。
「ねえ、あんたどうしてそこにあるの?」
汚らしいものを見る目で、冴子は見下ろした。
「さ、冴子さん!」
「やかましい!」
「げいん!」
ハイヒールを履いたままの足に、蹴りつけられると。本当に、そう叫んで転がった。あまりにブザマだった。本当に、自分はこんな男と、昨晩まで寝ていたのか。自分の曲をこんなヴォーカリストに唄わせていたのか!そう思うと、自分に腹が立ってならない。
冴子は、レジ袋から取り出した牛乳を開けると、半分だけ飲んだ。そして、思いあまって、中に唾を吐きかけると、淳一の頭から振りかけた。
「ほら、精液だよ!お前みたいな球無しは、肛門にでも、入れてやろうか?妊娠するかもね?ほら!」
「やめろ!やめてくれ!やめてくっださいっ!」
文法的には、これは何活用というのだろう。あまりにブザマな様を晒して、玄関からたたき出されていた。
床に出来た水溜まり。それを見つめていると、いやがおうにも理性が蘇ってくるのを感じた。
大事な妹、由加里、Purple acidのメンバー、そして、ここまで支えてくれたファンたち。彼等から唯一無二のヴォーカリストを奪ったのだ。これでは、彼女が尊敬たてまつる何処かのバンドと同じだ。彼等と同じ徹は踏まないと誓ったはずなのに!
「由加里!」
つい最近、彼女をコンサートに招待したことを思い出した。彼女を奉るような視線を送る由加里、そして、ファン達の歓声が聞こえた。しかし、それは一瞬で消え去った。
しかし、このことは、彼女がアーティストとして、勇躍する伏線になる出来事だった。そして、それは皮肉な出来事を踏み台にするのだが、それは先の話しになる。
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