白亜の宮殿に、無声の泣き声が、響く。
「お前達、若い映画人には、理解できまいが、トーキー映画からは、雲の歌すら聞こえたものだ」とは、ある老映画人の繰り言だが、あながち、それは、嘘ではないだろう。
その老人が喜びそうな演出が、病院になされていた。
少女の哀しみは、建物にすら影響を与えている。よく見てみるがいい、廊下や壁には罅が入っているようだ。無水の涙は、密かに、病棟を侵食しているのだ。
その廊下を照美とはるかが歩いている。外部から見ると、大小の箱を取り合わせたように見える。その簡素な建築様式は、ル・コルビュジエを思わせる。
モダニズム建築が、宮殿と矛盾すると言う人がいるかもしれない。
しかしながら、アラビア世界あたりに、そのような宮殿があったような気がする。病院という女性を収容し、性的な羞恥を与える施設には、相応しい比喩であろう。言うまでもなく、この文脈においては、イスラム世界のハーレムを志向しているのだ。
イスラム世界といえば、女性は、全身のほとんどを白衣で覆っていると聞く。今の由加里はまさにその状態である。一人残された少女は、シーツを頭から被って、泣き続けている。いじめという刻印が少女に、刻み込まれているのである。
二人の足音が、薄れていくにつれて、それとは反比例に、その痛みはその色合いを濃くしていく。二人に身も心も支配されて、所有される。その証拠に、痛みを苦痛と思わなくなっていく自分を発見して、唖然とするのだった。
「ウウウウ・・ウ・・ウ・・ウ・・ウ・・・・うう!」
由加里は、声をひそめて泣き続ける。地平線近くにぼやける太陽は、オレンジ色に色褪せている。それは彼女が辿る運命を思わせた。赤色巨星。言わずとしれた恒星の終末期である。少女には、その太陽が、今現在の、自分の境遇を映しているようにしか、思えなかった。
さて、二人が由加里の病室を離れて、数分経ったころ、ようやくロビーに辿り着いた。ジャンボジェットの客室を何列も合わせた様子を思い浮かべてほしい。その壮観さがわかるにちがいない。一方向にきちんと並んだ様子は、何処かの空間を思い起こさせる。しばらく照美は、思い出せなかった。
―――そうが、学校か。
鋭敏な彼女は、すぐにその解答に辿り着いた。しかし、教卓がない。
そして、受付時間が枯れようとしているのか、空席が目立つ。黄昏れた老人たちが、数人、杖をついているだけだ。自分の名前を告げられて、立ち上がる様は、順番待ちの老人たちが、その死を告げられているようにも見える。
しかしながら、老人たちは、その死を黙って受け入れているようだ。既に、人間的な感情は、遠い過去に放り投げてしまったのだろう。
その席の一つに、鈴木ゆららが腰掛けている。彼女は別に美少女では、ないのだが、そんな黄土色の風景の中で、一本の花だった。しかし、それはタンポポや月見草の類であって、まちがっても、桜や橘の類ではないだろう。
ゆららは、肩を崩して、丸くなっている。その姿は、まるでネコのようだ。
「鈴木さん・・・・・・・・・・」
照美は、すまなさそうな顔をして、ゆららの肩を軽く叩いた。
「・・・・・」
彼女の瞳は、こころなしか、潤んでいるように見えた。その奇麗な瞳は、影が色濃く射していた。
照美は、優しげな表情を見せた。ゆららが見た照美は、とんと、由加里には縁のない代物である。 由加里が見たことがあるのは、自分に対する敵意と蔑視が微妙にブレンドされた、奇妙な表情。それに、肉食獣の嗜虐心が加わると由加里にとって、なじみの照美になる。
一方、ゆららが見たのは、その真逆を行く照美だった。だから、簡単に心を許す気になった。しかし、そうは単純な彼女ではない。自分の分際というものをわきまえている。いや。それ以上に、自分に対する評価が低い。それゆえに、照美のような素敵な人間に、まともに相手にしてもらえるとは思っていない。そのために高田のような輩の走狗となってしまってもいる。
「どうしたの? 今日はすまなかったね ―――」
照美は、表情にも増して、優しげな声をかけた。はるかは、自分はそんな甘い顔を見たことがない ――――と不満そうな顔つきだ。
「ど、どうして、こんなことをするんですか?」
「敬語? 友だちどうしなのに?」
「友だち?」
顔を顰めたゆららの顔はとても可愛らしい。これで中学生というのは詐欺だろう。単に、サイズの問題ではなく、本質的なところで、純粋に少女なのだ。簡単に表現すればませたところがないというべきか。
多少、天然パーマのかかった髪は、しっとりとしていて、パッと見では、整髪料をつけているようだ。当然のように中学では、校則でその利用は禁止されているために、何度も格子の魔の手に引っかかっては、涙を呑むような目にあっていた。
照美の目には、好ましく見えた。髪の豊かな輝きは、目の保養になるような気がした。高田や金江など口差がない連中からは、よく、ゴキブリ呼ばわりされていたものだが、何を言われても、全く反論らしい言葉を聞いたことがない。
高田のあくどい命令によって、針金で作った触角を頭につけて、教室中を走り回った。それは恥辱などという言葉では、表現できないほど辛い体験だった。
しかも、笑いながらそれを行ったのである。付け加えれば、積極的という但し書き付きである。
「ゴキブリ!あははは!ゴキブリ! 」
などと高田と金江たちは、腹を抱えて笑っていた。
ちなみに、すべてが終わったあとで、高田と金江によって、頭をなでなでしてもらっていた。まるで幼児扱いである。
そうやって、ジャブのように弱いいじめを永年に渡って受けてきたゆららと、由加里とでは自ずと状況が異なる。前者にとってみれば、ヘンな言い方だが、後者はいじめ初心車のぶんざいで、騒ぐなともで言いたくなる。もっとも、その残酷な仕打ちを思えば、同情もしたくなる。しかし ――――――――。
「あの人、小学校の時にいじめをしていたって本当なんです ――――の?」
「本当だとも」
照美の手が、ゆららのウエットした髪に触れる。
ゆららは、頬が自分のものではないように、なるのがわかる。そこが赤く発熱していくのが、見ていなくても、あたかも、視覚的に理解できる。まるで、幽体離脱して、第三者的に自分を見ているようにわかる ――――ということだ。
―――どうして、これほどの人が自分のような人間に目を向けるのだろう。
不思議でたまらないのだ。
「私、ばかだし ―――」
それは、彼女の常套句だ。由加里も聞いた。
「誰がばかだって?」
照美の意外と大きな手がゆららの頬を触れる。少女の脊髄に電気が流された。
音楽家の手の強さと温かみ。楽器を扱うには、その筋肉の発達に柔らかさと強さの微妙な複合が要求される。
まさに、彼女の手は、それに相応しい。百合絵などは、それを見越して嫌がる照美をその道へいざなったものだ。もしかしたら、未だに、それをあきらめていないかもしれない。
ゆららは、しかし、その手よりも声に注目していた。女性とは思えない低い声、アルトというには低すぎる。まさに低音の美声というべきだろう。
もしも、この声で歌ったらどれほど美しいか。そう、彼女に唯一誇れるものと言えば、歌だけだった。密かに歌を愛好しているのだが、その性格から表に出すのは、はばかれている。
「そんなの、照美さんが、知ってるでしょう?」
「友だちで、照美さんはないじゃない?」
「・・・・・・・・・・・・・?!」
その時はるかが、黙っていられなくなったのは当然だ。彼女を呼び捨てで呼ぶのを許しているのは、彼女だけなのだから・・・・・・・・・。
「照美ちゃんでいいじゃないか? くくくくくクククククク!!」
「ちょっと、何を笑っているのよ?!」
「ウウ・・ウ・ウ・ウ・ウウウ・・て、照美チャンだって?! くくくクククくくく!」
照美は抗議するが、照美は意に介さず、笑いこけている。自分で言って、ツボにはまってしまったのである。思えは、哀れな光景ではある。
「いい加減にしてよ」
照美はふくれた。
しかし、以前のような嫌悪の波を発してはいない。しかし、そんな自分に改めて気づくと、ばつが悪そうに顔を赤らめた。しかし、すぐに表情を元に戻すとゆららに向き直った。
「いいこと、あなたは、決してばかじゃないわ。他ならぬこの私が言うんだから本当よ」
「・・・・・・・・・・・」
たしかに、照美が言うなら真実の一端は存在するかもしれない。しかし、その一言だけでは、永年かかって、刻印されたレッテルが剥がれることはないのだ。ゆららの表情が変わらないのを見て取った照美は、言い方を変えることにした。
「必ずしも、知能指数が成績に反映するわけじゃないのよ。あなたはやり方が下手なだけ。いいわ、 私が教えてあげるわ。成績アップは保証するわよ」
「いいか、バカの好例を教えてやろうか、高田のような輩だな ――」
はるかが口を挟んだ。
「そうね、安心したらいいわ」
「・・ウウ・ウ・・ウ・・・」
照美の長い指が、ゆららの髪をかき分け、広い額を探り当てたときのことだ。彼女は思いあまって泣き出した。
今まで、彼女を人間として扱ってくれた他人はいなかった。
由加里の泣き顔が浮かんだが、あえて、打ち消した。
いや、家族でさえ、ゆららが成績が悪いことは、既定事実となっていた。優しい家族は、申し合わせたわけではないが。彼女のことを慮って、成績の話しは、タブーにしていた。
しかし、それ故に互いに、見えない気を遣い合い、永年の間に、見えない疲労が重なってしまった。その結果、笑い声が絶えない一家は、いつの間にか閑古鳥が鳴く家になってしまった。
家庭でさえ、そうなのだから外の世界のことは言わずもがなである。
みんな、ゆららを小馬鹿にし、唾を吐き続けた。表面的に笑っていられたのは、少女の悲しい自己保存の本能にすぎなかった。その笑顔の仮面。その内側は塩辛い液体で濡れそぼっていた。しかし、金属製の仮面はいつか錆びて、朽ちる。その時のことは考えていなかった。考えることはイコール死につながる恐怖につながるからだ。
今、彼女はそれを考えなくていい相手に出会った。嘘でもいいから、自分のことをばかにしない人間が存在した。そのことが嬉しい。自分ごときに、嘘を付いてくれる照美たちの優しさが、何よりも嬉しいのだ。
今、彼女が遇されている方法は、彼女にとってVIP以外の何者でもない。まさに大統領扱いと言っていい。
ゆららが感涙にむせんでいるとき、由加里は何をしていたのだろう。
はたして、パソコンを枕に寝入ってしまっていた。その現場を、可南子に押さえられたのである。
「由加里ちゃん、お注射の時間ですよ ・・・・・・っとお眠りですか?赤ちゃん?」
彼女が病室に入ってまず目に入ったのは、由加里の寝顔だった。睡眠中は、宿世の苦痛から解放されているのか、その寝顔は、普段とちがってとても可愛らしかった。
その愛らしさは、思わず食べてしまいそうなほどだった。
しかし、めざとい可南子の目に入ったのは、由加里にとって、致命傷になるほどのものだった。
パソコンのモニターである。
「あら、何を書いているのかしら? ――――え?」
可南子は目を疑った。
「ゆ、由加里! な、何をしてる!?」
西宮和之は、唖然とした。何と、娘がジッパーをおろすなり、彼の巨大なペニスを亀頭部をパクッと口に入れたのだ。そして、いかにも大切そうに、両手で支えると溝にそって舌を這わせたのである。
由加里は、14年の生で、夢にまで視た瞬間を味わっていた。父親のペニスを銜えて、舐め回すことが、彼女のはかない夢だったのである。
「ウグウググ・・・・・! や、やめんか! 由加里!」
和之は、今更ながら、この娘の浅ましさに呆れたのである。妻が口癖を良く聞いていた。
「由加里なんて、生むじゃなかったわ」
その意味を今更ながらに、再認識したのである。
「やっぱり、お前なんて、うちの子じゃない!!」
「ひぐ!」
和之の蹴りが、由加里の腹に命中した。しかし、より苦痛を感じたのは父親のほうだった。娘の歯が、息子の茎に突き刺さったのである。
「うぎぃ!!」
「え? この子、一体なんて言う物を読んでいるの?」
可南子は、ノートパソコンのかたわらに本を見つけた。それは相当に古びた本だった。『O嬢の物語』ジャン=ジャック・ポーヴェール著、澁澤龍彦訳。そして、その下に隠れていたのは、B4版の大きな写真集だった。『SM美少女、K子の生涯』
表紙には、そうとうきわどい写真が飾られていた。かなりの美少女が縛られている。だが、古めかしい印象を受けるのはどうしてだろう。
それは、ともかく可南子の目を引いたのは、彼女の胸である。縄で縛られて、飛び出ているとはいえ、その大きさは尋常ではない。
しかも、セーラー服からは、たわわな乳房が零れている。その大きさに、密やかなる嫉視を向けた。
「ふん、どうせ胸が大きいオンナはバカなのよ、だからこんなモデルにしかなりようがないだわ!」
その写真集を手にとって見ると、さらにおもしろい秘密を手に入れた。その裏に油性マジックで、こう書いてあるのだ。
向丘第二中学 2年3組 西宮由加里
錦原町23-2―1。
「ふふ、何て言う秘宝を、私は手に入れたのかしら」
可南子はその写真集を密かに、本棚の扉を開けると、中に放り込んだ。そして、すぐさま彼女のかわいいペットを起にかかった。
「ひ ――――――――――?!」
由加里は、知的に輝く瞳を歪めると、悲鳴を上げた。それは、小動物の断末魔を彷彿とさせた。可南子は、悪魔的な性格で、子どものころ、捨てられていた子猫やモルモットをおのれの趣向のために、殺したことがあるのである。
「ふふ、何ていう声をあげるの? 私はアクマじゃないわよ、取って喰いやしないわよ」
「見た!? 見たの? 見ましたか?」
少女は、パソコンを華奢な体で隠した。
「あら? あなたに愛されるなんて、うらやましいパソコンね?」
由加里の頭上に、絶望的な声が落ちた。まるで、金属バットで頭をかち割られたような気がする。目の前に赤い血が流れる。目の血管が絶望のあまり、出血したのか。
「ふふ、みたわよ」
「ただしクンって?誰? 由加里チャンの思い人?」
「え?」
ふいに安堵の色を浮かべる由加里。まるで空気と格闘している気分に襲われた。そのむなしさに息を吐く。
しかし、そんな気分も長続きしなかった。
「お薬を注射の時間ですよ」
「?」
一体、何を注射するというのだろう。看護婦が可南子だけに、得体の知れない薬かもしれない。自分の生殺与奪を彼女に握られていることに、なんとも言えない不安を感じた。
「ふふ、でも、二の腕に注射するわけじゃないのよ」
―――――え? まさかお尻?
由加里は恥ずかしさのあまり、それを言葉にすることができなかった。しかし、可南子がこれからしようとしていることは、恥ずかしいどころではないのだ。
「ちがうわ、これよ、普通のお注射とちがうでしょ?」
「な?」
それは注射というにはあまりに、不思議な形態をしていた。確かに注射器は注射器なのだが。まるでおもちゃのそれのように、チャチだ。そして、その先には針ではなくて、ストローのような透明な筒が嵌っている。
「それは ――――?」
由加里は、それを見たとたんに、悪寒を感じた。理性ではわかっていなくても、無意識ではその背後に存在するおぞましさをわかっていたのかもしれない。
「その注射器でね、これをお注射するの」
「?」
可南子が、見せたのは、正露丸ほどの大きさの薬瓶である。そこに横文字が書かれている。そして、その下に男性の名前が見えた。
SPERMA
遠藤唯司
その下の細かい文字は、角膜が汗を掻いたために、よく見えなかった。
「ス ――――スペル?」
「頭のいい由加里チャンならわかるでしょう?」
この時点で、先ほど見つけた秘宝のことを、明かにするつもりだった。しかし、よく考えて止めた。楽しいことは後に残しておこうと思ったのだ。彼女は食事でも、好きなおかずは後に残す。それが小さなころからの習慣ではないか。
悪魔の看護婦は、話しを続ける。
「この病院はねえ、避妊治療でも有名なのよ。知ってる?由加里チャン、避妊ってね、女性だけが原因じゃないのよ、たまに男性のせいってこともあるの」
「そ、それが、私になんの関係が、あるんですか?」
あくまで、自分には関係ないと思いたいらしい。要するに現実逃避である。
「これはねえ、ただしクンの精液なの?この中には、元気なオタマジャクシがいっぱい泳いでいるのよ、検査の結果わかったわ。問題ないってわかったから、破棄されるはずのを持ってきたのよ、由加里ちゃんのためにね?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
鋭敏な由加里のこと、この時点ですべてを理解してしまった。しかし、それを理性で認識するか否かは別であろう。目の前の人間は、自分に何やら、怖ろしいことをしようとしてる。粥のようになった脳細胞が理解できるのはその程度だった。
「由加里チャン、もう14歳でしょう?妊娠してもおかしくないわよね。初潮迎えてるんでしょう? 生物学的に、これは健康で正常なことよ。 それに由加里チャンは人間とは思えないくらい淫乱の変態さんだし ―――――――――」
「ヒイイィイイ!」
由加里は、悲鳴を挙げた。股間に可南子の手が伸びたのだ。子猫が踏みつけにされた声に似ていた。
かつて、高校生のころに犯した罪が蘇る。看護学校の受験に追われていた可南子は、道端で見つけた子猫を殺すことでストレスを処理していた。まるで、家のゴミを処理するように命を捨てたのである。人間として最低なのは、議論を待たない。
由加里は、その人非人に睨まれたのである。アクマの獲物にされたのである。生きたまま全身を刻まれ、苦痛の声を上げるだろう。この鬼畜は、少女が悶える姿を見物しなが、果てるのである。その後、少女の血があふれる風呂で、鼻歌を歌うにちがいない。
「ぃいいいいいいいいいい!」
すでに、少女の口は、人語を喋る道具ではない。声帯や舌は、声や言葉を構成するということを忘れてしまった。
彼女の瞳は、針になっている。その視線の先に、おぞましい注射器が薬瓶に挿入されるのが見えた。しかる後に、白い液体が逆注入されていく。
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その6個のアルファベッドは、由加里の頭のなかで、ばらばらに、ダンスを踊り始めた。
「ただしクンてどんな男だと思う? 白痴よ、知恵遅れなの! そんなのが子どもと持とうって言うのよ! 何て言うハレンチな話しかしら!?」
――――な!?
ヘンな話しだが、この時、可南子が汚らしい本心を明かにした。このことは、由加里にとって幸いだった ――――のだろうか?
それは歴史の神の判断に、委ねよう。
「ひどぃ! あなたアクマよ! 人間のクズだわ! 最低!どうしてそんなひどいこと言えるのよ!!」
由加里は、自らのことよりも、その見知らぬ男性のために、もちまえの優しさを発揮していた。
「そうね、由加里チャンは頭が良すぎるから、生まれる子は、その間を取って普通になるかもしれないわね」
「ムグググググぐぐぐ!」
由加里の口に、シーツを丸めたものが押し込められる。
「ちょっと、静かになさいね、子猫チャン」
なんと、はるかな昔、殺した猫たちと由加里を同一視しているのである。
「さ、用意できたわ、妊娠してもらいましょうか? そうね、たたしクンはこの病院に出入りしているわけだし、あなたを犯すっていう設定もムリないわね」
――――あなたの書いている小説に、相応しいじゃない?
そういう言葉をこのとき、すんでの所で、呑みこんだ。
喉に詰まったが、無視をした。愉しみは後まで残しておこう。
「さ、処女を失わないで、妊娠できるのよ、これってもしかして受胎告知かしら? 私って告知天使ね。まさに私に相応しい設定だわ」
このオンナにとって、現在起きていることは虚構なのだろうか。由加里は気が遠くなるのを感じた。今、口に詰め込まれているスーツは、あるものを思いだして、嗚咽を憶えた。
父親、和之のペニス。
目の前に、成人男性の亀頭が忠実に再生された。照美たちに見せられた映像だ。ネット世界に漂っている画像だと
はるかが教えてくれた。
それは、二人が西宮家を訪れたときのことだ。自宅のパソコンで見たのである。はるかは、由加里の耳元で囁いたものだ。
「いいこと? この履歴はずっと残るんだよ。 西宮のご両親に見てもらうかな?」
「心配しないでね、履歴の消し方は私たちだけが知ってるパスワードが必要なの? あなたが私たちの人形でいてくれる限り、ばらすことはないわよ」
こんなことを言う二人でも、可南子とは雲泥の差だ。何処というのではないが、人間の差というやつである。本来、人間というものは悪を行うでも善を行うでも、品というものがる。可南子が最悪とすれば、 照美とはるかは、最上級である。
――――助けて!ママ!パパ!冴子姉さん!郁子! 海崎さん、鋳崎さん!助けて!
「さあ、妊娠しまちょうね。14歳のママのご登場ですよ!はーい」
悪魔が笑い声を上げた。
由加里の目の前には、注射器が彼女の女性器に突き刺さろうとしている。それは、あたかも、乳幼児のそれのように、あからさまになっていた。
「お前達、若い映画人には、理解できまいが、トーキー映画からは、雲の歌すら聞こえたものだ」とは、ある老映画人の繰り言だが、あながち、それは、嘘ではないだろう。
その老人が喜びそうな演出が、病院になされていた。
少女の哀しみは、建物にすら影響を与えている。よく見てみるがいい、廊下や壁には罅が入っているようだ。無水の涙は、密かに、病棟を侵食しているのだ。
その廊下を照美とはるかが歩いている。外部から見ると、大小の箱を取り合わせたように見える。その簡素な建築様式は、ル・コルビュジエを思わせる。
モダニズム建築が、宮殿と矛盾すると言う人がいるかもしれない。
しかしながら、アラビア世界あたりに、そのような宮殿があったような気がする。病院という女性を収容し、性的な羞恥を与える施設には、相応しい比喩であろう。言うまでもなく、この文脈においては、イスラム世界のハーレムを志向しているのだ。
イスラム世界といえば、女性は、全身のほとんどを白衣で覆っていると聞く。今の由加里はまさにその状態である。一人残された少女は、シーツを頭から被って、泣き続けている。いじめという刻印が少女に、刻み込まれているのである。
二人の足音が、薄れていくにつれて、それとは反比例に、その痛みはその色合いを濃くしていく。二人に身も心も支配されて、所有される。その証拠に、痛みを苦痛と思わなくなっていく自分を発見して、唖然とするのだった。
「ウウウウ・・ウ・・ウ・・ウ・・ウ・・・・うう!」
由加里は、声をひそめて泣き続ける。地平線近くにぼやける太陽は、オレンジ色に色褪せている。それは彼女が辿る運命を思わせた。赤色巨星。言わずとしれた恒星の終末期である。少女には、その太陽が、今現在の、自分の境遇を映しているようにしか、思えなかった。
さて、二人が由加里の病室を離れて、数分経ったころ、ようやくロビーに辿り着いた。ジャンボジェットの客室を何列も合わせた様子を思い浮かべてほしい。その壮観さがわかるにちがいない。一方向にきちんと並んだ様子は、何処かの空間を思い起こさせる。しばらく照美は、思い出せなかった。
―――そうが、学校か。
鋭敏な彼女は、すぐにその解答に辿り着いた。しかし、教卓がない。
そして、受付時間が枯れようとしているのか、空席が目立つ。黄昏れた老人たちが、数人、杖をついているだけだ。自分の名前を告げられて、立ち上がる様は、順番待ちの老人たちが、その死を告げられているようにも見える。
しかしながら、老人たちは、その死を黙って受け入れているようだ。既に、人間的な感情は、遠い過去に放り投げてしまったのだろう。
その席の一つに、鈴木ゆららが腰掛けている。彼女は別に美少女では、ないのだが、そんな黄土色の風景の中で、一本の花だった。しかし、それはタンポポや月見草の類であって、まちがっても、桜や橘の類ではないだろう。
ゆららは、肩を崩して、丸くなっている。その姿は、まるでネコのようだ。
「鈴木さん・・・・・・・・・・」
照美は、すまなさそうな顔をして、ゆららの肩を軽く叩いた。
「・・・・・」
彼女の瞳は、こころなしか、潤んでいるように見えた。その奇麗な瞳は、影が色濃く射していた。
照美は、優しげな表情を見せた。ゆららが見た照美は、とんと、由加里には縁のない代物である。 由加里が見たことがあるのは、自分に対する敵意と蔑視が微妙にブレンドされた、奇妙な表情。それに、肉食獣の嗜虐心が加わると由加里にとって、なじみの照美になる。
一方、ゆららが見たのは、その真逆を行く照美だった。だから、簡単に心を許す気になった。しかし、そうは単純な彼女ではない。自分の分際というものをわきまえている。いや。それ以上に、自分に対する評価が低い。それゆえに、照美のような素敵な人間に、まともに相手にしてもらえるとは思っていない。そのために高田のような輩の走狗となってしまってもいる。
「どうしたの? 今日はすまなかったね ―――」
照美は、表情にも増して、優しげな声をかけた。はるかは、自分はそんな甘い顔を見たことがない ――――と不満そうな顔つきだ。
「ど、どうして、こんなことをするんですか?」
「敬語? 友だちどうしなのに?」
「友だち?」
顔を顰めたゆららの顔はとても可愛らしい。これで中学生というのは詐欺だろう。単に、サイズの問題ではなく、本質的なところで、純粋に少女なのだ。簡単に表現すればませたところがないというべきか。
多少、天然パーマのかかった髪は、しっとりとしていて、パッと見では、整髪料をつけているようだ。当然のように中学では、校則でその利用は禁止されているために、何度も格子の魔の手に引っかかっては、涙を呑むような目にあっていた。
照美の目には、好ましく見えた。髪の豊かな輝きは、目の保養になるような気がした。高田や金江など口差がない連中からは、よく、ゴキブリ呼ばわりされていたものだが、何を言われても、全く反論らしい言葉を聞いたことがない。
高田のあくどい命令によって、針金で作った触角を頭につけて、教室中を走り回った。それは恥辱などという言葉では、表現できないほど辛い体験だった。
しかも、笑いながらそれを行ったのである。付け加えれば、積極的という但し書き付きである。
「ゴキブリ!あははは!ゴキブリ! 」
などと高田と金江たちは、腹を抱えて笑っていた。
ちなみに、すべてが終わったあとで、高田と金江によって、頭をなでなでしてもらっていた。まるで幼児扱いである。
そうやって、ジャブのように弱いいじめを永年に渡って受けてきたゆららと、由加里とでは自ずと状況が異なる。前者にとってみれば、ヘンな言い方だが、後者はいじめ初心車のぶんざいで、騒ぐなともで言いたくなる。もっとも、その残酷な仕打ちを思えば、同情もしたくなる。しかし ――――――――。
「あの人、小学校の時にいじめをしていたって本当なんです ――――の?」
「本当だとも」
照美の手が、ゆららのウエットした髪に触れる。
ゆららは、頬が自分のものではないように、なるのがわかる。そこが赤く発熱していくのが、見ていなくても、あたかも、視覚的に理解できる。まるで、幽体離脱して、第三者的に自分を見ているようにわかる ――――ということだ。
―――どうして、これほどの人が自分のような人間に目を向けるのだろう。
不思議でたまらないのだ。
「私、ばかだし ―――」
それは、彼女の常套句だ。由加里も聞いた。
「誰がばかだって?」
照美の意外と大きな手がゆららの頬を触れる。少女の脊髄に電気が流された。
音楽家の手の強さと温かみ。楽器を扱うには、その筋肉の発達に柔らかさと強さの微妙な複合が要求される。
まさに、彼女の手は、それに相応しい。百合絵などは、それを見越して嫌がる照美をその道へいざなったものだ。もしかしたら、未だに、それをあきらめていないかもしれない。
ゆららは、しかし、その手よりも声に注目していた。女性とは思えない低い声、アルトというには低すぎる。まさに低音の美声というべきだろう。
もしも、この声で歌ったらどれほど美しいか。そう、彼女に唯一誇れるものと言えば、歌だけだった。密かに歌を愛好しているのだが、その性格から表に出すのは、はばかれている。
「そんなの、照美さんが、知ってるでしょう?」
「友だちで、照美さんはないじゃない?」
「・・・・・・・・・・・・・?!」
その時はるかが、黙っていられなくなったのは当然だ。彼女を呼び捨てで呼ぶのを許しているのは、彼女だけなのだから・・・・・・・・・。
「照美ちゃんでいいじゃないか? くくくくくクククククク!!」
「ちょっと、何を笑っているのよ?!」
「ウウ・・ウ・ウ・ウ・ウウウ・・て、照美チャンだって?! くくくクククくくく!」
照美は抗議するが、照美は意に介さず、笑いこけている。自分で言って、ツボにはまってしまったのである。思えは、哀れな光景ではある。
「いい加減にしてよ」
照美はふくれた。
しかし、以前のような嫌悪の波を発してはいない。しかし、そんな自分に改めて気づくと、ばつが悪そうに顔を赤らめた。しかし、すぐに表情を元に戻すとゆららに向き直った。
「いいこと、あなたは、決してばかじゃないわ。他ならぬこの私が言うんだから本当よ」
「・・・・・・・・・・・」
たしかに、照美が言うなら真実の一端は存在するかもしれない。しかし、その一言だけでは、永年かかって、刻印されたレッテルが剥がれることはないのだ。ゆららの表情が変わらないのを見て取った照美は、言い方を変えることにした。
「必ずしも、知能指数が成績に反映するわけじゃないのよ。あなたはやり方が下手なだけ。いいわ、 私が教えてあげるわ。成績アップは保証するわよ」
「いいか、バカの好例を教えてやろうか、高田のような輩だな ――」
はるかが口を挟んだ。
「そうね、安心したらいいわ」
「・・ウウ・ウ・・ウ・・・」
照美の長い指が、ゆららの髪をかき分け、広い額を探り当てたときのことだ。彼女は思いあまって泣き出した。
今まで、彼女を人間として扱ってくれた他人はいなかった。
由加里の泣き顔が浮かんだが、あえて、打ち消した。
いや、家族でさえ、ゆららが成績が悪いことは、既定事実となっていた。優しい家族は、申し合わせたわけではないが。彼女のことを慮って、成績の話しは、タブーにしていた。
しかし、それ故に互いに、見えない気を遣い合い、永年の間に、見えない疲労が重なってしまった。その結果、笑い声が絶えない一家は、いつの間にか閑古鳥が鳴く家になってしまった。
家庭でさえ、そうなのだから外の世界のことは言わずもがなである。
みんな、ゆららを小馬鹿にし、唾を吐き続けた。表面的に笑っていられたのは、少女の悲しい自己保存の本能にすぎなかった。その笑顔の仮面。その内側は塩辛い液体で濡れそぼっていた。しかし、金属製の仮面はいつか錆びて、朽ちる。その時のことは考えていなかった。考えることはイコール死につながる恐怖につながるからだ。
今、彼女はそれを考えなくていい相手に出会った。嘘でもいいから、自分のことをばかにしない人間が存在した。そのことが嬉しい。自分ごときに、嘘を付いてくれる照美たちの優しさが、何よりも嬉しいのだ。
今、彼女が遇されている方法は、彼女にとってVIP以外の何者でもない。まさに大統領扱いと言っていい。
ゆららが感涙にむせんでいるとき、由加里は何をしていたのだろう。
はたして、パソコンを枕に寝入ってしまっていた。その現場を、可南子に押さえられたのである。
「由加里ちゃん、お注射の時間ですよ ・・・・・・っとお眠りですか?赤ちゃん?」
彼女が病室に入ってまず目に入ったのは、由加里の寝顔だった。睡眠中は、宿世の苦痛から解放されているのか、その寝顔は、普段とちがってとても可愛らしかった。
その愛らしさは、思わず食べてしまいそうなほどだった。
しかし、めざとい可南子の目に入ったのは、由加里にとって、致命傷になるほどのものだった。
パソコンのモニターである。
「あら、何を書いているのかしら? ――――え?」
可南子は目を疑った。
「ゆ、由加里! な、何をしてる!?」
西宮和之は、唖然とした。何と、娘がジッパーをおろすなり、彼の巨大なペニスを亀頭部をパクッと口に入れたのだ。そして、いかにも大切そうに、両手で支えると溝にそって舌を這わせたのである。
由加里は、14年の生で、夢にまで視た瞬間を味わっていた。父親のペニスを銜えて、舐め回すことが、彼女のはかない夢だったのである。
「ウグウググ・・・・・! や、やめんか! 由加里!」
和之は、今更ながら、この娘の浅ましさに呆れたのである。妻が口癖を良く聞いていた。
「由加里なんて、生むじゃなかったわ」
その意味を今更ながらに、再認識したのである。
「やっぱり、お前なんて、うちの子じゃない!!」
「ひぐ!」
和之の蹴りが、由加里の腹に命中した。しかし、より苦痛を感じたのは父親のほうだった。娘の歯が、息子の茎に突き刺さったのである。
「うぎぃ!!」
「え? この子、一体なんて言う物を読んでいるの?」
可南子は、ノートパソコンのかたわらに本を見つけた。それは相当に古びた本だった。『O嬢の物語』ジャン=ジャック・ポーヴェール著、澁澤龍彦訳。そして、その下に隠れていたのは、B4版の大きな写真集だった。『SM美少女、K子の生涯』
表紙には、そうとうきわどい写真が飾られていた。かなりの美少女が縛られている。だが、古めかしい印象を受けるのはどうしてだろう。
それは、ともかく可南子の目を引いたのは、彼女の胸である。縄で縛られて、飛び出ているとはいえ、その大きさは尋常ではない。
しかも、セーラー服からは、たわわな乳房が零れている。その大きさに、密やかなる嫉視を向けた。
「ふん、どうせ胸が大きいオンナはバカなのよ、だからこんなモデルにしかなりようがないだわ!」
その写真集を手にとって見ると、さらにおもしろい秘密を手に入れた。その裏に油性マジックで、こう書いてあるのだ。
向丘第二中学 2年3組 西宮由加里
錦原町23-2―1。
「ふふ、何て言う秘宝を、私は手に入れたのかしら」
可南子はその写真集を密かに、本棚の扉を開けると、中に放り込んだ。そして、すぐさま彼女のかわいいペットを起にかかった。
「ひ ――――――――――?!」
由加里は、知的に輝く瞳を歪めると、悲鳴を上げた。それは、小動物の断末魔を彷彿とさせた。可南子は、悪魔的な性格で、子どものころ、捨てられていた子猫やモルモットをおのれの趣向のために、殺したことがあるのである。
「ふふ、何ていう声をあげるの? 私はアクマじゃないわよ、取って喰いやしないわよ」
「見た!? 見たの? 見ましたか?」
少女は、パソコンを華奢な体で隠した。
「あら? あなたに愛されるなんて、うらやましいパソコンね?」
由加里の頭上に、絶望的な声が落ちた。まるで、金属バットで頭をかち割られたような気がする。目の前に赤い血が流れる。目の血管が絶望のあまり、出血したのか。
「ふふ、みたわよ」
「ただしクンって?誰? 由加里チャンの思い人?」
「え?」
ふいに安堵の色を浮かべる由加里。まるで空気と格闘している気分に襲われた。そのむなしさに息を吐く。
しかし、そんな気分も長続きしなかった。
「お薬を注射の時間ですよ」
「?」
一体、何を注射するというのだろう。看護婦が可南子だけに、得体の知れない薬かもしれない。自分の生殺与奪を彼女に握られていることに、なんとも言えない不安を感じた。
「ふふ、でも、二の腕に注射するわけじゃないのよ」
―――――え? まさかお尻?
由加里は恥ずかしさのあまり、それを言葉にすることができなかった。しかし、可南子がこれからしようとしていることは、恥ずかしいどころではないのだ。
「ちがうわ、これよ、普通のお注射とちがうでしょ?」
「な?」
それは注射というにはあまりに、不思議な形態をしていた。確かに注射器は注射器なのだが。まるでおもちゃのそれのように、チャチだ。そして、その先には針ではなくて、ストローのような透明な筒が嵌っている。
「それは ――――?」
由加里は、それを見たとたんに、悪寒を感じた。理性ではわかっていなくても、無意識ではその背後に存在するおぞましさをわかっていたのかもしれない。
「その注射器でね、これをお注射するの」
「?」
可南子が、見せたのは、正露丸ほどの大きさの薬瓶である。そこに横文字が書かれている。そして、その下に男性の名前が見えた。
SPERMA
遠藤唯司
その下の細かい文字は、角膜が汗を掻いたために、よく見えなかった。
「ス ――――スペル?」
「頭のいい由加里チャンならわかるでしょう?」
この時点で、先ほど見つけた秘宝のことを、明かにするつもりだった。しかし、よく考えて止めた。楽しいことは後に残しておこうと思ったのだ。彼女は食事でも、好きなおかずは後に残す。それが小さなころからの習慣ではないか。
悪魔の看護婦は、話しを続ける。
「この病院はねえ、避妊治療でも有名なのよ。知ってる?由加里チャン、避妊ってね、女性だけが原因じゃないのよ、たまに男性のせいってこともあるの」
「そ、それが、私になんの関係が、あるんですか?」
あくまで、自分には関係ないと思いたいらしい。要するに現実逃避である。
「これはねえ、ただしクンの精液なの?この中には、元気なオタマジャクシがいっぱい泳いでいるのよ、検査の結果わかったわ。問題ないってわかったから、破棄されるはずのを持ってきたのよ、由加里ちゃんのためにね?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
鋭敏な由加里のこと、この時点ですべてを理解してしまった。しかし、それを理性で認識するか否かは別であろう。目の前の人間は、自分に何やら、怖ろしいことをしようとしてる。粥のようになった脳細胞が理解できるのはその程度だった。
「由加里チャン、もう14歳でしょう?妊娠してもおかしくないわよね。初潮迎えてるんでしょう? 生物学的に、これは健康で正常なことよ。 それに由加里チャンは人間とは思えないくらい淫乱の変態さんだし ―――――――――」
「ヒイイィイイ!」
由加里は、悲鳴を挙げた。股間に可南子の手が伸びたのだ。子猫が踏みつけにされた声に似ていた。
かつて、高校生のころに犯した罪が蘇る。看護学校の受験に追われていた可南子は、道端で見つけた子猫を殺すことでストレスを処理していた。まるで、家のゴミを処理するように命を捨てたのである。人間として最低なのは、議論を待たない。
由加里は、その人非人に睨まれたのである。アクマの獲物にされたのである。生きたまま全身を刻まれ、苦痛の声を上げるだろう。この鬼畜は、少女が悶える姿を見物しなが、果てるのである。その後、少女の血があふれる風呂で、鼻歌を歌うにちがいない。
「ぃいいいいいいいいいい!」
すでに、少女の口は、人語を喋る道具ではない。声帯や舌は、声や言葉を構成するということを忘れてしまった。
彼女の瞳は、針になっている。その視線の先に、おぞましい注射器が薬瓶に挿入されるのが見えた。しかる後に、白い液体が逆注入されていく。
S P E R M A
その6個のアルファベッドは、由加里の頭のなかで、ばらばらに、ダンスを踊り始めた。
「ただしクンてどんな男だと思う? 白痴よ、知恵遅れなの! そんなのが子どもと持とうって言うのよ! 何て言うハレンチな話しかしら!?」
――――な!?
ヘンな話しだが、この時、可南子が汚らしい本心を明かにした。このことは、由加里にとって幸いだった ――――のだろうか?
それは歴史の神の判断に、委ねよう。
「ひどぃ! あなたアクマよ! 人間のクズだわ! 最低!どうしてそんなひどいこと言えるのよ!!」
由加里は、自らのことよりも、その見知らぬ男性のために、もちまえの優しさを発揮していた。
「そうね、由加里チャンは頭が良すぎるから、生まれる子は、その間を取って普通になるかもしれないわね」
「ムグググググぐぐぐ!」
由加里の口に、シーツを丸めたものが押し込められる。
「ちょっと、静かになさいね、子猫チャン」
なんと、はるかな昔、殺した猫たちと由加里を同一視しているのである。
「さ、用意できたわ、妊娠してもらいましょうか? そうね、たたしクンはこの病院に出入りしているわけだし、あなたを犯すっていう設定もムリないわね」
――――あなたの書いている小説に、相応しいじゃない?
そういう言葉をこのとき、すんでの所で、呑みこんだ。
喉に詰まったが、無視をした。愉しみは後まで残しておこう。
「さ、処女を失わないで、妊娠できるのよ、これってもしかして受胎告知かしら? 私って告知天使ね。まさに私に相応しい設定だわ」
このオンナにとって、現在起きていることは虚構なのだろうか。由加里は気が遠くなるのを感じた。今、口に詰め込まれているスーツは、あるものを思いだして、嗚咽を憶えた。
父親、和之のペニス。
目の前に、成人男性の亀頭が忠実に再生された。照美たちに見せられた映像だ。ネット世界に漂っている画像だと
はるかが教えてくれた。
それは、二人が西宮家を訪れたときのことだ。自宅のパソコンで見たのである。はるかは、由加里の耳元で囁いたものだ。
「いいこと? この履歴はずっと残るんだよ。 西宮のご両親に見てもらうかな?」
「心配しないでね、履歴の消し方は私たちだけが知ってるパスワードが必要なの? あなたが私たちの人形でいてくれる限り、ばらすことはないわよ」
こんなことを言う二人でも、可南子とは雲泥の差だ。何処というのではないが、人間の差というやつである。本来、人間というものは悪を行うでも善を行うでも、品というものがる。可南子が最悪とすれば、 照美とはるかは、最上級である。
――――助けて!ママ!パパ!冴子姉さん!郁子! 海崎さん、鋳崎さん!助けて!
「さあ、妊娠しまちょうね。14歳のママのご登場ですよ!はーい」
悪魔が笑い声を上げた。
由加里の目の前には、注射器が彼女の女性器に突き刺さろうとしている。それは、あたかも、乳幼児のそれのように、あからさまになっていた。
「ウウ・ウ・・ウ・ウウ・・・・うう!」
あおいは、涙の粒が食器の上に、落ちるのを幾つも確認した。しかし、もうどうしようもない。彼等は、何かしら少女に訴えかけているのだが、その真意を知ることはできない。いや、探ろうとする。
今、自分の脳はどのようになっているだろう。身を裂かれそうな悲しみのなかで、ふと、あおいはそう想像してみた。
CT―スキャンしたら、きっと、アルツハイマー患者よろしく、空の脳が見えることだろう。いつか、家族で見たドキュメンタリー番組で仕入れた知識だ。勉強はそれほど好きでないし、積極的に取り組むことはないが、憶えはいい。
いや、本人の自覚はないが、大人たちはそう言って誉めてくれる。いや、それは過去形だろう。いや、高得点の答案を見せても、「ずるしたんでしょう?」と言われかねない。そんな経験など、全くないのに、どうしてこんな想像が浮かんでくるのだろう。いや。想像しなければならないのだろう。
「うう・う・う・う・・ううう!」
裾で涙を拭う。
「あおいちゃんは、頭がいいのね、勉強しなくても良い点がとれるんだから、でももう少し努力してほしいな ―――」
いたずらっぽく笑った母親は、年齢よりも若く見えた。お姉さんのような母親。あおいは、大好きだった。いや、今でもその気持は焦ることはない。かえって、失ったいまこそ、その愛情を余計に感じる。どれだけ、母親に愛されたことがよくわかる。
―――ちがう! 今でもママに嫌われてなんかない!!
自分の内面に存在する、何者かに、牙をむいた。
しかしながら、実在しない猛獣を怒鳴りつけても、誰も誉めてくれないだろう。今まで、たいした努力をしなくてもチヤホヤされた“あおいちゃん”はもう何処にもいないのだ。
「そんなところで、拭いたら、せっかくのいっちょうらが台無しよ、ほらおいで、拭いてあげるから。あおいちゃん! 笑って! 折角の可愛い顔が台無しよ!」
久子は、そう言って涙で濡れた頬を脱ぐってくれた。その手は、お日様と同じように温かかった。大好きだった。いや、今でも大好きだ。そして、家族は彼女のいちばん、大切なもののはずだった。
しかし、今は ――――――――。
彼女の涙を拭ってくれるママはもういない。
有希江も久子に促されて、キッチンを去っていった。彼女の最後の言葉が、いまでも耳にこびりついている。
「ちゃんと、後始末するのよ! 一枚でも割ったら許さないからね、お給金から抜きますから」
―――お給金って何だっけ?
確か、国語の授業で、読まされた小説にそんな言葉があった。
あおいは、小学生の未経験な頭をフル稼働させて、今、自分が置かれた状況を理解しようとした。しかし、何も浮かばない。思いつかない。目の前で、ぞうきんが動いている。
いったい、誰が動かしているのだろう? 何のために動いているのだろう?
茉莉にされたいじめのせいで、ハンガリアチキンが零れたのだ。妹は、あおいが全部食べ終わるまで、許してくれなかった。まるで犬のように、いや、犬になってエサをもらった。
―――え?いじめ? あたし、いじめられたの? 家族に? 妹に? そんなこと?!
姉としての自尊心が、少女にそう思わせていた。こんな小さな、まだ初潮も迎えていない少女の、華奢な身体の中に、たしかに確としたものが芽生えていた。
だが、あらためて、それを自覚するほど、少女は精神的に成長しておらず、ただ戸惑う能力があるだけだ。目の前のぞうきんは、なおも動いている。一体、誰が動かしているのだろう。
―――え?私? 本当に、私が動かしているの?!
あおいは、自分の視覚が信じられなかった。いや、五感、すべてが信じられないと言っていい。床のゴム臭は、フローリングのコーティングのせいか、ワックスのせいか。
そして、加えて、全身の痛みは何なのだろう? 何処かにぶつけたのだろうか。
よもや、自分が、誰からも愛される自分が、暴力をふるわれることなんて、ありえない。
だから、何か硬い物に身体を打ち付けたのだ。
だけど、それにしては、おかしい。背中が痛いのだ、どうやって、そんな場所を打つというのだろうか。寝返りが悪かったせいだろうか。
頭や顔までが、痛い。どんな寝方をすれば、こんなことになるのだろう。しずちゃんに聞いてみたいものだ、ちなみに、それは、あおいが小さいころから気に入っているぬいぐるみのことだ。この狸のぬいぐるみは、少女の寵愛をたいそう、賜ったものだ。
あくまでも、先ほどまで、自分に起こったことを認めたくない。そんな思いが、あらぬ妄想を掻き立てる。手を動かす。ひたすらにぞうきんを動かす。あたかも、この世の始まりから、終わりまで、ずっとそうし続けるかのようにすら思える。時間の間隔が全くない。誰かに止めてほしい。自分では、もはや止められない。ありえないはずの永久機関が、悲しみをひたすらに増刷し続ける。
しかし、そんな少女を止めた者がいた。
「あおい!」
「ウ・・ウ・うう?!」
もはや、人間としての言葉は出てこない。
「もういいよ、そこで休んでな、後は私がやるから ――――」
言うまでもなく、有希江だった。あおいは、その優しい手に誘導されるまま、椅子に座った。姉は、何も言わずに、休むように促してくれる。
「・・・・・・・・・・」
もはや、涙も出ないという様子で、机の表面を見つめる。
――あ、こんなところに傷があったんだ。
今まで、気付きもしなかったへこみを見つけた。マホガニーの机とはいえ、長く使っていれば、傷の一つも走るというものだ。ちなみに、あおいが生まれる遥か前、この机が、榊家にやってきたのは、徳子が赤子の有希江をあやしていたころだ。
少女は放心状態のまま、数分を過ごした。その間、有希江はてきぱきとした手つきで、後始末をこなしたが、あおいはそれをよく憶えていない。ただ、いきなりやってきた精霊が、光のスピードで、あっという間に終えてしまった ―――――そんな認識しかない。
「あ、有希江姉さん ――」
だから、後始末を終えた有希江に、肩を触れられたとき、まったく反応できなかった。まるで人形のような感触に、有希江も凍り付いた。
「お腹、空いただろう、用意しておいたから、私の部屋で食べなさい」
「・・・・・・・・・」
かすかに俯いただけで、あおいは、小刻みに震えるようだ。有希江は妹を立たせると、まるで老人を介護するように、自分の部屋へと誘う。
あおいが、意識を取り戻したのは、栄養がその身体に、生気を蘇らせて後のことだった。
その様子は、命の保証を得た傷病兵が、改めて苦痛で呻きだすのに似ていた。皮肉なことに、虎口を逃れた傷病兵は、命の保証を得て、はじめて自分が痛みを感じていることを思い出すそうである。
「ウウ・ウ・ウ・・ウ・ウウウ・・うううう!!」
あおいは、有希江の部屋で、与えられたサンドウイッチを頬張りながら、泣き出した。それには、有希江の手のぬくもりが残っていた。
それは、彼女にとってみれば薬だったのかもしれない。妹を気遣う気持があったのなら、薬にちがいはない。
薬は、時に毒になる。
その微かな優しさであっても、今のあおいには毒薬だった。少女の焼き爛れた喉と消化器にとってみれば、ごく微少の薬物でさえも受け入れることはできなかった。その反応が、激しい嗚咽と涙だった。
口に入れたとたんに、息が出来なくなった。
そのかけらに、有希江の優しさを感じたからこそ、である。
かつて、家族から受けた愛情の片鱗を呼び覚ましたのかもしれない。
たった1日前のことなのである。まるで、悪い病気に感染したかのように、家族の態度は一変してしまった。
その極寒の中で、唯一の温もりと思われたのは、有希江だった。あおいにとってみれば、それが目に眩しく、肌には火傷すると思われるほどに熱かったのである。
「有希江姉さん ――――どうして、こんなことになったのかしら」
まだ嗚咽を残した口調で、言葉を紡ぎはじめた。サンドウィッチを食べ終えて、温かい紅茶を煤って、一息入れたのである。時刻はすでに午前0時を超えていた。
「たしか、茉莉のこと言ってたわ、心当たりはないの?」
「・・・・・わからない ―――」
あおいは頭を抱えて、苦悩を表す。
それも仕方ないと思う。どのような理由があろうとも、妹が、あのような仕打ちを受ける筋合いはない。しかし、何故か、それを強弁する気にならない。
「私、何も悪いコトしてない!」
「・・・・・・・?!」
有希江は、ふと、今までになかった感覚が身の内に起こるのを感じた。
―――――それは違う!
具体的に、何を指すのかわからないが、確かに何かを感じる。ちょうど、それは、料理の隠し味のようで、味の鍵を握っているのだが、その正体がようと知れないということは、よくあることだ。
「ねえ、そうでしょう?!」
口調は、勢いをまして、いつの間にか抗議になっていた。
――――どうして、私にぶつけるのよ。
あおいに対する憐憫とふつふつと沸いてきた不満。
両者の葛藤は、常に、有希江にまとわりつき、彼女を悩ませてきたことだった。ただ、一つだけ違うことがある。
それは憐憫でなくて、愛情だった。
いつも笑っていて、家族に黄金の光と福をもたらすニンフ。
彼女は、いわば、榊家に咲いた一輪の花だった。家族にとって、アイドルそのものだったことは、もう書いた。有希江も当然のように、妹を愛した。口では、彼女の天性のものである口癖の悪さが頭をもたげたが、それは決して本心ではなかった。それは、あおいも承知していた。互いの間には、他の家族同士とは、また違う信頼感があった ―――はずだった。
しかし、その半面、敵意を抱いていたことは否定できない事実である。それが、今、この時に蘇ってきたのである。あおいが、絶体絶命のこのときに、頭をもたげてきたのは、皮肉中の皮肉だった。
あおいは、回転椅子に座りながら、足を組んでいる。その伸ばしている足の細さに、わけのわからない感情を憶えた。しかし、細いとは言っても、大人のようにくびれがはっきりとしているわけではない。その不完全さが、いささか哀れみをも憶えた。
感情の冷却や、自動的にその身体に影響した。
「あ、有希江姉さん・・・・・・・・・・」
あおいは、その温度差から、熱いと感じ、有希江はその逆に感じた
――なんて、冷たい。こんなに冷え切っているの?
その熱は、有希江の怒りを、一時的にしろ、冷ます役割をしたのかもしれない。
「ああ、ゆ、有希江姉さん?」
あおいは、姉の不自然な手の動きに、動揺したのか、ぷるぷると震えた。怯えた目で、姉を見上げる。
「きゃ ――――――」
思わず、回転椅子から、転がり落ちる。
あおいは、目をシロクロさせて、姉の様子を観察した。
「どうして、こんなことになったと、あおいは思うの?」
「・・・・・何か悪いことしたから?」
まるで誰かに質問するような答えだ。
「・・・・・・・・・」
有希江は喉の渇きを覚えた。
炎天下の砂漠を、何時間も歩き通した旅人。彼等は、食糧も水すらなしで、歩き通したのだ。そして、やっと、辿りついたオアシスでは、美味しそうな料理が、湯気を立てていた。
――――どうしてだろう?
彼女は、自分の気持ちを訝しく思った。あおいは、同性、しかも妹なのだ。それなのに、あらぬ感情を抱いている自分を不思議に思った。
――――私に、こんな趣味があったなんて・・・・・・・。
それは、今まで、茉莉やあおいに感じていた感情とは、性格を異にするものだった。有希江は、密かに舌なめずりをした。
確かに、可愛い女の子は、そばにいて気持ちいいとは思う。後輩は、有希江を姉のように慕っているし、バレンタインの日には、鼻血が大変だと、同級生から大量の鼻紙をプレゼントされるほどだ。大変、手の込んだ皮肉だが、同じ日、下駄箱にはチョコレートが置いてあり、同級生の名前が書いてあって、うんざりしたものだ。
それはともかく、彼女たちを可愛いと思うのは事実である。面倒見のいい有希江は、後輩に限らず、同級生の女の子にも好かれている。
しかし、それはネコを愛おしく思う、それ以上でもそれ以下でもなかったはずだ。間違っても性的な好奇心の対象ではなかったはずだ。それなのに、今、有希江は、あおいに飛びかかろうとしている。
「ゆ、有希江姉さん ――――」
「ふふ、知ってるのよ、お風呂場でヘンな声あげてたでしょう?」
あおいは、有希江が想像したような顔はしなかった。その可愛らしい顔に、羞恥の色は見えない。
「有希江姉さん、私、病気かもしれない。こんな」
「ふうん、あんな声だして、何をしていたの? あおいちゃんは?!」
有希江は重々承知のくせに、あえて聞いた。あおいは気づかなかったが、彼女の切れながらの瞳は、慧眼よろしく輝いていたのである。そこには、有希江自身気づかない悪魔が、寝そべって酒盛りをしていた。
「うん ――――」
はじめて、あおいは羞恥心を顕わにした。しかし、彼女じしん、どうして自分の顔から火が出そうになるのかわかっていない。なんと言っても、彼女はまだ10歳の小学生にすぎないのだ。
あおいは、涙の粒が食器の上に、落ちるのを幾つも確認した。しかし、もうどうしようもない。彼等は、何かしら少女に訴えかけているのだが、その真意を知ることはできない。いや、探ろうとする。
今、自分の脳はどのようになっているだろう。身を裂かれそうな悲しみのなかで、ふと、あおいはそう想像してみた。
CT―スキャンしたら、きっと、アルツハイマー患者よろしく、空の脳が見えることだろう。いつか、家族で見たドキュメンタリー番組で仕入れた知識だ。勉強はそれほど好きでないし、積極的に取り組むことはないが、憶えはいい。
いや、本人の自覚はないが、大人たちはそう言って誉めてくれる。いや、それは過去形だろう。いや、高得点の答案を見せても、「ずるしたんでしょう?」と言われかねない。そんな経験など、全くないのに、どうしてこんな想像が浮かんでくるのだろう。いや。想像しなければならないのだろう。
「うう・う・う・う・・ううう!」
裾で涙を拭う。
「あおいちゃんは、頭がいいのね、勉強しなくても良い点がとれるんだから、でももう少し努力してほしいな ―――」
いたずらっぽく笑った母親は、年齢よりも若く見えた。お姉さんのような母親。あおいは、大好きだった。いや、今でもその気持は焦ることはない。かえって、失ったいまこそ、その愛情を余計に感じる。どれだけ、母親に愛されたことがよくわかる。
―――ちがう! 今でもママに嫌われてなんかない!!
自分の内面に存在する、何者かに、牙をむいた。
しかしながら、実在しない猛獣を怒鳴りつけても、誰も誉めてくれないだろう。今まで、たいした努力をしなくてもチヤホヤされた“あおいちゃん”はもう何処にもいないのだ。
「そんなところで、拭いたら、せっかくのいっちょうらが台無しよ、ほらおいで、拭いてあげるから。あおいちゃん! 笑って! 折角の可愛い顔が台無しよ!」
久子は、そう言って涙で濡れた頬を脱ぐってくれた。その手は、お日様と同じように温かかった。大好きだった。いや、今でも大好きだ。そして、家族は彼女のいちばん、大切なもののはずだった。
しかし、今は ――――――――。
彼女の涙を拭ってくれるママはもういない。
有希江も久子に促されて、キッチンを去っていった。彼女の最後の言葉が、いまでも耳にこびりついている。
「ちゃんと、後始末するのよ! 一枚でも割ったら許さないからね、お給金から抜きますから」
―――お給金って何だっけ?
確か、国語の授業で、読まされた小説にそんな言葉があった。
あおいは、小学生の未経験な頭をフル稼働させて、今、自分が置かれた状況を理解しようとした。しかし、何も浮かばない。思いつかない。目の前で、ぞうきんが動いている。
いったい、誰が動かしているのだろう? 何のために動いているのだろう?
茉莉にされたいじめのせいで、ハンガリアチキンが零れたのだ。妹は、あおいが全部食べ終わるまで、許してくれなかった。まるで犬のように、いや、犬になってエサをもらった。
―――え?いじめ? あたし、いじめられたの? 家族に? 妹に? そんなこと?!
姉としての自尊心が、少女にそう思わせていた。こんな小さな、まだ初潮も迎えていない少女の、華奢な身体の中に、たしかに確としたものが芽生えていた。
だが、あらためて、それを自覚するほど、少女は精神的に成長しておらず、ただ戸惑う能力があるだけだ。目の前のぞうきんは、なおも動いている。一体、誰が動かしているのだろう。
―――え?私? 本当に、私が動かしているの?!
あおいは、自分の視覚が信じられなかった。いや、五感、すべてが信じられないと言っていい。床のゴム臭は、フローリングのコーティングのせいか、ワックスのせいか。
そして、加えて、全身の痛みは何なのだろう? 何処かにぶつけたのだろうか。
よもや、自分が、誰からも愛される自分が、暴力をふるわれることなんて、ありえない。
だから、何か硬い物に身体を打ち付けたのだ。
だけど、それにしては、おかしい。背中が痛いのだ、どうやって、そんな場所を打つというのだろうか。寝返りが悪かったせいだろうか。
頭や顔までが、痛い。どんな寝方をすれば、こんなことになるのだろう。しずちゃんに聞いてみたいものだ、ちなみに、それは、あおいが小さいころから気に入っているぬいぐるみのことだ。この狸のぬいぐるみは、少女の寵愛をたいそう、賜ったものだ。
あくまでも、先ほどまで、自分に起こったことを認めたくない。そんな思いが、あらぬ妄想を掻き立てる。手を動かす。ひたすらにぞうきんを動かす。あたかも、この世の始まりから、終わりまで、ずっとそうし続けるかのようにすら思える。時間の間隔が全くない。誰かに止めてほしい。自分では、もはや止められない。ありえないはずの永久機関が、悲しみをひたすらに増刷し続ける。
しかし、そんな少女を止めた者がいた。
「あおい!」
「ウ・・ウ・うう?!」
もはや、人間としての言葉は出てこない。
「もういいよ、そこで休んでな、後は私がやるから ――――」
言うまでもなく、有希江だった。あおいは、その優しい手に誘導されるまま、椅子に座った。姉は、何も言わずに、休むように促してくれる。
「・・・・・・・・・・」
もはや、涙も出ないという様子で、机の表面を見つめる。
――あ、こんなところに傷があったんだ。
今まで、気付きもしなかったへこみを見つけた。マホガニーの机とはいえ、長く使っていれば、傷の一つも走るというものだ。ちなみに、あおいが生まれる遥か前、この机が、榊家にやってきたのは、徳子が赤子の有希江をあやしていたころだ。
少女は放心状態のまま、数分を過ごした。その間、有希江はてきぱきとした手つきで、後始末をこなしたが、あおいはそれをよく憶えていない。ただ、いきなりやってきた精霊が、光のスピードで、あっという間に終えてしまった ―――――そんな認識しかない。
「あ、有希江姉さん ――」
だから、後始末を終えた有希江に、肩を触れられたとき、まったく反応できなかった。まるで人形のような感触に、有希江も凍り付いた。
「お腹、空いただろう、用意しておいたから、私の部屋で食べなさい」
「・・・・・・・・・」
かすかに俯いただけで、あおいは、小刻みに震えるようだ。有希江は妹を立たせると、まるで老人を介護するように、自分の部屋へと誘う。
あおいが、意識を取り戻したのは、栄養がその身体に、生気を蘇らせて後のことだった。
その様子は、命の保証を得た傷病兵が、改めて苦痛で呻きだすのに似ていた。皮肉なことに、虎口を逃れた傷病兵は、命の保証を得て、はじめて自分が痛みを感じていることを思い出すそうである。
「ウウ・ウ・ウ・・ウ・ウウウ・・うううう!!」
あおいは、有希江の部屋で、与えられたサンドウイッチを頬張りながら、泣き出した。それには、有希江の手のぬくもりが残っていた。
それは、彼女にとってみれば薬だったのかもしれない。妹を気遣う気持があったのなら、薬にちがいはない。
薬は、時に毒になる。
その微かな優しさであっても、今のあおいには毒薬だった。少女の焼き爛れた喉と消化器にとってみれば、ごく微少の薬物でさえも受け入れることはできなかった。その反応が、激しい嗚咽と涙だった。
口に入れたとたんに、息が出来なくなった。
そのかけらに、有希江の優しさを感じたからこそ、である。
かつて、家族から受けた愛情の片鱗を呼び覚ましたのかもしれない。
たった1日前のことなのである。まるで、悪い病気に感染したかのように、家族の態度は一変してしまった。
その極寒の中で、唯一の温もりと思われたのは、有希江だった。あおいにとってみれば、それが目に眩しく、肌には火傷すると思われるほどに熱かったのである。
「有希江姉さん ――――どうして、こんなことになったのかしら」
まだ嗚咽を残した口調で、言葉を紡ぎはじめた。サンドウィッチを食べ終えて、温かい紅茶を煤って、一息入れたのである。時刻はすでに午前0時を超えていた。
「たしか、茉莉のこと言ってたわ、心当たりはないの?」
「・・・・・わからない ―――」
あおいは頭を抱えて、苦悩を表す。
それも仕方ないと思う。どのような理由があろうとも、妹が、あのような仕打ちを受ける筋合いはない。しかし、何故か、それを強弁する気にならない。
「私、何も悪いコトしてない!」
「・・・・・・・?!」
有希江は、ふと、今までになかった感覚が身の内に起こるのを感じた。
―――――それは違う!
具体的に、何を指すのかわからないが、確かに何かを感じる。ちょうど、それは、料理の隠し味のようで、味の鍵を握っているのだが、その正体がようと知れないということは、よくあることだ。
「ねえ、そうでしょう?!」
口調は、勢いをまして、いつの間にか抗議になっていた。
――――どうして、私にぶつけるのよ。
あおいに対する憐憫とふつふつと沸いてきた不満。
両者の葛藤は、常に、有希江にまとわりつき、彼女を悩ませてきたことだった。ただ、一つだけ違うことがある。
それは憐憫でなくて、愛情だった。
いつも笑っていて、家族に黄金の光と福をもたらすニンフ。
彼女は、いわば、榊家に咲いた一輪の花だった。家族にとって、アイドルそのものだったことは、もう書いた。有希江も当然のように、妹を愛した。口では、彼女の天性のものである口癖の悪さが頭をもたげたが、それは決して本心ではなかった。それは、あおいも承知していた。互いの間には、他の家族同士とは、また違う信頼感があった ―――はずだった。
しかし、その半面、敵意を抱いていたことは否定できない事実である。それが、今、この時に蘇ってきたのである。あおいが、絶体絶命のこのときに、頭をもたげてきたのは、皮肉中の皮肉だった。
あおいは、回転椅子に座りながら、足を組んでいる。その伸ばしている足の細さに、わけのわからない感情を憶えた。しかし、細いとは言っても、大人のようにくびれがはっきりとしているわけではない。その不完全さが、いささか哀れみをも憶えた。
感情の冷却や、自動的にその身体に影響した。
「あ、有希江姉さん・・・・・・・・・・」
あおいは、その温度差から、熱いと感じ、有希江はその逆に感じた
――なんて、冷たい。こんなに冷え切っているの?
その熱は、有希江の怒りを、一時的にしろ、冷ます役割をしたのかもしれない。
「ああ、ゆ、有希江姉さん?」
あおいは、姉の不自然な手の動きに、動揺したのか、ぷるぷると震えた。怯えた目で、姉を見上げる。
「きゃ ――――――」
思わず、回転椅子から、転がり落ちる。
あおいは、目をシロクロさせて、姉の様子を観察した。
「どうして、こんなことになったと、あおいは思うの?」
「・・・・・何か悪いことしたから?」
まるで誰かに質問するような答えだ。
「・・・・・・・・・」
有希江は喉の渇きを覚えた。
炎天下の砂漠を、何時間も歩き通した旅人。彼等は、食糧も水すらなしで、歩き通したのだ。そして、やっと、辿りついたオアシスでは、美味しそうな料理が、湯気を立てていた。
――――どうしてだろう?
彼女は、自分の気持ちを訝しく思った。あおいは、同性、しかも妹なのだ。それなのに、あらぬ感情を抱いている自分を不思議に思った。
――――私に、こんな趣味があったなんて・・・・・・・。
それは、今まで、茉莉やあおいに感じていた感情とは、性格を異にするものだった。有希江は、密かに舌なめずりをした。
確かに、可愛い女の子は、そばにいて気持ちいいとは思う。後輩は、有希江を姉のように慕っているし、バレンタインの日には、鼻血が大変だと、同級生から大量の鼻紙をプレゼントされるほどだ。大変、手の込んだ皮肉だが、同じ日、下駄箱にはチョコレートが置いてあり、同級生の名前が書いてあって、うんざりしたものだ。
それはともかく、彼女たちを可愛いと思うのは事実である。面倒見のいい有希江は、後輩に限らず、同級生の女の子にも好かれている。
しかし、それはネコを愛おしく思う、それ以上でもそれ以下でもなかったはずだ。間違っても性的な好奇心の対象ではなかったはずだ。それなのに、今、有希江は、あおいに飛びかかろうとしている。
「ゆ、有希江姉さん ――――」
「ふふ、知ってるのよ、お風呂場でヘンな声あげてたでしょう?」
あおいは、有希江が想像したような顔はしなかった。その可愛らしい顔に、羞恥の色は見えない。
「有希江姉さん、私、病気かもしれない。こんな」
「ふうん、あんな声だして、何をしていたの? あおいちゃんは?!」
有希江は重々承知のくせに、あえて聞いた。あおいは気づかなかったが、彼女の切れながらの瞳は、慧眼よろしく輝いていたのである。そこには、有希江自身気づかない悪魔が、寝そべって酒盛りをしていた。
「うん ――――」
はじめて、あおいは羞恥心を顕わにした。しかし、彼女じしん、どうして自分の顔から火が出そうになるのかわかっていない。なんと言っても、彼女はまだ10歳の小学生にすぎないのだ。
「ほう、早速、創作意欲に燃えてきたようだな」
鋳崎はるかは、ほくそ笑んだ。
由加里は、ほぼ本能的に目を背ける。それは、怖ろしいものから、身の安全をはかるための当然の行動だろう。
「ウウ・・・ウ・・ウ・・ウウ・・・ もう、もういじめないでください!ウウ・・ウ・ウ・ウ・・ウ・・・うう!」
まるで園児のように、両手で顔を覆って、泣き出す。
「よくある現実逃避だな、西宮、だけど、これがおまえの現実なんだよ! 見ろ! 目を背けるな!」
はるかは、本を一冊、彼女の鼻先に押しつけた。さきほどまで凝視していた18禁本である。整った鼻梁が歪む。
「今すぐ、小説を書いてみなさい。そうね、小学生の由加里ちゃんが、パパにセックスをねだるっていう設定で書きなさい」
「どんな筋が頭に浮かぶのか、言ってみろ」
はじめて、二人のコンビネーションが成立した。期せずして、二人は、同じ位相に立ったのである。しかし ――――。
「ふん」
「ふん」
別に、マンガのように違いにそう言い合ったわけではない。しかし、目と目でそう会話したのである。そのことは由加里に伝わっていた。
「プ・・・・・」
少女は、煉獄で拷問されているにもかかわらず、獄吏のコミカルな態度に、噴き出してしまった。彼女は、この二人のことを完璧に見抜いていた。
「な、何を笑っている!? はやく言ってみろ!」
しかし、すぐに拷問は再開された。もう笑っているばあいではない。
「ウウ・・ウ・ウ・・ゆ、由加里は、お父さんの・・・・」
「実名で言いなさいよ、あなたの父親の名前は!?」
照美は、情け容赦なく命じた。
「そんな・・・・・ウグ!」
照美に教えられた筋から、イメージが沸いてくる。はるかの訓練によって、些細なイメージの水滴から、いくらでも海が生まれてくるようになった。
小学生の由加里、まるで成長アルバムを見返すように、かつての自分の映像が浮かんでくる。
「あははは、ママ、パパ、早く来てよ!」
彼女は、庭を走り回っていた。ひたすら、無邪気に、あるいは無遠慮に、世界を満喫している。
「あはは、パパ、こっち」
ちょうど、大きな木と納屋がある場所がある。ここは周囲から視覚になる。自分の家族からも他人からも、隠れることができる恰好のばしょだ。
「パパ!」
「どうしたの? 由加里ちゃん」
西宮和之は、相当腰をおらねば、愛娘と視線を合わせることができなかった。まだ、若いおそらく20代後半だろう。はつらつとした感じからは、青年医師としての栄誉を欲しいままにしているのが伝わってくる。
「由加里ね、パパのたいせつなもの、ほしいの」
「え? なんだい?おい、由加里! 止めなさい! やめろ!」
由加里は、和之の社会の窓を開けると ―――――――――――。
「いいやあああああああああ!!」
少女の視界いっぱいに、和之のペニスが入った。亀頭溝にこびりついた恥垢の臭いまでが、リアルに再生される。
由加里は自ら紡いだイメージに、取り込まれてしまった。あまりの俗悪さに、自己嫌悪の海に沈んでいくように思えた。いや、その方がかえってましだったかもしれない。照美やはるかは、そんなことを許すはずはない。
えり首を摑まれると、海中から、乱暴に引きずり出された。
「何がいやなんだ?!」
由加里の性器に圧力が加えられる。ナイフの柄がペニスの代わりに食い込んでいく。
「はやくしろ! 官能に身を委ねるあまり、実の父親の名前を忘れたというのか」
はるかは、自分の言った台詞で、顔を赤らめた。照美は、あからさまに笑った。
「・・・・・・・・・・く!」
「か、和之に、せ、せ、セックスをねね、ウウウ・・・ウ・ウ・ウ!ねだりますけど・・・・・う・う・う・きょ、拒否されて、、お、オナニーしているところを、ウウ・ウ・・ウ・ウ・ウ・ウ・・ウ!家を追い出されます・・・・・ウ・ウ・ウ・ウ・・ウウウウ!」
まさに、はるかの訓練が功を奏していた。プロットを組み立てるという段階では、一発の官能作家になっていた。
「パパのあそこが、我慢できずに、はじめちゃったわけだ。淫乱な西宮らしいな」
はるかが、勝ち誇ったように言い放つ。
「ウウ・ウ・・ウ・ウ・ウ・ウウ!!」
由加里は、自分の口を使って、あまりにハレンチなことを言わされたわけである。しかも、言葉を発するためには、頭を使うことが肝要だ。
自分の頭を使うということは、能動的に、性的な情報にアクセスするということだ。性的な情報とは具体的に言えば、記憶のことだ。今まで、二人によって、無理矢理に見せられた18禁マンガや小説、エロサイトの情報は、由加里の記憶になって脳内に蓄積された。
それに加えて、いままで彼女自身の好奇心によって蓄えられた記憶もあろう。
つい、最近まで、由加里はそのようなことに、全く興味がないと思っていた。コンビニなどで、男性向けの雑誌が目に入るたびに、思わず顔を赤らめていたぐらいである。
確かに横目で、それを見てしまうくらいのことはあったのである。それは、思春期を迎えた少女なら、当たり前のことである。
しかし、きまじめな由加里は、それを当然のこととは、受け取れなかった。
性的な物は悪であり、近づくべきものではない。大人ですらそうなのに、まだ子どもにすぎない自分が興味を持つなどとありえないことである。
それが彼女の、性的なものにたいする印象であり、自己イメージとも重なっていた。それが、二人によって無理矢理に破壊され、新たなイメージを擦り込まれたのである。その結果、彼女は、自分が汚らわしい淫乱という錯覚を持つにいたった。同時に、行われた性的ないじめは、それを加速させるだけだった。
結果として、行くところまで、行ってしまった自己嫌悪は、少女をさらなる精神的な煉獄へと誘うのだった。そこに、一体何が待ち受けているのか、獄吏であるはるかと照美も、そして、二人に責めさいなまれる由加里も、検討すらつかない世界だと言わねばならなかった。
「
だけど、西宮さんたら、よくもこんな恥ずかしいことが、頭に浮かぶよね」
「ウウウ・ウ・・ウ・ウ・・ウ・ウ・うう!」
「西宮、ほら、はやくはじめるんだ ――――」
はるかは、用意の良いことに、ウィンドウズを起動し、ワードが使えるようになったパソコンを押しつけた。
由加里は、涙を流しながらも両手をキーボードの上に這わした。
「パソコンは、あなたのあそこじゃないのよ、力任せにやったら壊れるからね」
「ウウ・ウ・ウ・ウ・ウ・・・・・うう!」
照美に、罵られながらも表題をつける。
『近親相姦、中学生の変態少女とパパの許されざる昆交』
「すごい題ねえ? 西宮さん?!」
「中学生淫乱作家の本領発揮だな」
実は、はるかに貸し与えられた書籍からの流用である。照美は、それを知らないが、はるかはもちろん、その超人的な記憶力からして、忘れているわけはない。
「だけど、独創性に欠けるんじゃないか、もっと、西宮らしさがないとな」
「アアアウ・・・・・・どう、どうすれば、アウウ・・あ!」
由加里は、膣を弄られながら、はるかの言葉に耳を傾ける。彼女は一発の編集者ぶりを発揮している。彼女が、単なる運動少女でないことを証明しているだろう。そもそも対して、勉強もしないのに、成績上位を保っていることは、公然の秘密だった。
「ねえ、西宮さん、本当はナイフの柄なんかじゃなくて、本物のパパので、攻めてほしいんでしょう?!」
「ウウ・・ウ・ウ・ウ・ウ!ひどい!ウウ・ウ・・ウ・ウ・ウウ!う!そ、そんなこと・・・・・・・ウウ・・・ウ・ウウあ、ありません!ウウ・ウ・ウ・ウ・ウアウウ!! あうう!!」
「本当は、もうやってるんじゃないか? ほら、指を動かせ!」
「ヒギイィぃ! いたい!」
はるかの指が、優雅な手つきで、由加里の耳に伸びると、一瞬で体育会系の本性を顕わにした。耳介を乱暴に摑みとると、有無を言わせずに捻り潰した。はるかの指に、心地よい硬さが伝わる。下手に軟骨が、中に入っていて、硬度を保っているだけに、潰された時の痛みは、耳蓋よりも強い。
「ああうう!! やめて! やめて! いたい!お、お願いですうぅ! か、書きます!書きますから! やめてええぇえ」
「良いじゃない?ここ、病院でしょう? いくらでも怪我しても治して貰えばいいじゃない? そのための病院よ、何を考えているの?!」
「ウウウ・・・ウ・ウ・ウ・・ウ!」
『西宮由加里の変態性欲、父の亀頭を夢見る』
小説の題名は、何度も推敲された結果。それになった。
キーボードを押せば、すぐにその文字が、意図とは別にインプットされる。由加里は、その操作を理解できるほどの知能を、与えられている。
そのことを呪った。神といった超常的な存在があるとするならば、それを恨んだ。
実際に、彼女が生まれるときに付与された知性は、人並みをはるかに超えるものだった。この時、少女はそのことを自覚していない。そのことは高田や金江といった、よくても十人並みの知性を与えられた者たちの嫉妬を呼んだ。いわゆる、天賦の才というやつである。
しかし、それがいじめの主因ではない。ただ、由加里がそれを使いこなすアートを習得していなかったということである。
どうして、はるかや照美が、由加里と同じ徹を踏まなかったのだろう。その疑問を考えてみれば、その問いに対する模本解答の一つになるかもしれない。
少女は限界を超えた羞恥心と恥辱のなかで、両手をキーボードに這わせていた。
西宮由加里は、食事にあたって、家族とテーブルを共有することを許されなかったのです。
こんなとき、由加里は絶対に聞きたくない音があります。
しかし、どんなに塞いでも耳に入ってくるのです。由加里は自分が五体満足であることを呪いました。
由加里は、自分のご飯ができるのを正座のまま、待ち続けます。それが、母親から命じられた食前のマナーです。
その間、ひたすらに、その音が耳に響くのを怖れています。それは、家族のたわいない話し声です。由加里の姉と妹は、学校での出来事を美化して、愛する両親に語ります。彼等は、それを最大限の愛情を持って迎えます。その一欠片でも、由加里にあたえられることはありません。それを思うと、惨めな由加里は、涙を押しとどめることはできません。
どうして、自分だけが愛されないのか。由加里はこの自問自問をひたすらに繰り返してきました。しかし、ようとしてその解答に辿り着くことはありません。
こんな辛いときに、愛と食べ物に飢えた由加里は、何を思い浮かべて、その飢餓を癒やしたと思いますか? 美味しそうな料理を想像して、そうしたわけではありません。
もしもそんなことすれば、どうしても、母親をはじめとする家族たちを思い浮かべてしまいます。その結果、耐え難い喉の渇きに、苦しむことになりそうです。
きっと、100リットルの水を飲んでも癒やせそうにありません。すると、何も以て、代償行為と為すのでしょうか。
端的に言うと、それは父親のペニスです。その巨大なこけしが、自分の性器に合わされているのを、性器の潤いを以て、思い浮かべるのです。
両手が無意識のうちに、自分の性器に向かっていきます。
「アア・・・アああ、パパ、早く入れて! 由加里のいやらしいおまんこを、パパのおちんちんで埋めて!」
由加里の両手が、キーボードの上で停止した。小刻みに震える白魚のような指は、少女の惨めな心持ちを暗示している。 ――――もう限界だと。
「ああ、もう、だめです、お願いですから、許してください・・・・・・ウウ・ウ・・うう!」
由加里は懇願しながら、泣きじゃくりはじめた。涙の海に溺れながら、少女は、意味不明の安心感に包まれるのを感じた。少女は、照美とはるかの二人に、その秘密の鍵を見つけていた。二人に、いじめられることが、安心感につながっている。それならば、自分は変態なのだろうか。
「ウウ・・・ウ・ウ・・ウ・ウ・ウウ・・・うう・・・ウ・・・・ウウウ・・・・・・うう!」
涙の理由は、照美たちのひどい仕打ちだけではないだろう。惨め。あまりにも、惨めだ。いじめられて、安心感を得ているなんて。少なくとも、ふつうの女の子としては、ありえないことだろう。恥辱と羞恥心で、喉の骨がくの字に曲がりそうに思えた。このまま一生、涙が枯れることがないように思えた。
「うぐ・・・・ウ・ウ・ウ・ウ・ウウ・・・・うう!」
「ふふ、いくら西宮さんでも、赤ちゃんじゃないんだから、泣いてことが解決するとは思わないよね ――」
一見、照美の言い方は、提案のように聞こえるが、その実、一つの答えに導くことを強要しているのである。まるで、真綿で首を絞められるように、攻めてくる照美の手段は、彼女ならではの知性を感じさせた。
――ああ、私はこの人が本当に好きなんだわ。
由加里は降参の白旗を挙げかけた。心の中では既に、それが風に揺らいでいたのである。そうすれば、どんなに楽だろうか。はるかから借りた漫画によれば、マゾの変態であることを告白すれば、はたして、二人はどんな反応をするだろうか。自分がいじめられていることで、欲情する変態だと、知ったら。
―――いや、違う! 私はそんな変態じゃない!
ここで、もたげてきたのは、まだ存命中のプライドだった。この時、由加里の瞼がかすかに動いた。それを照美は、見逃さなかった。
――――ふふ、だからいじめがいがあるのよ。
照美は、完全に見抜いていたのである。何故だか、わからないが、由加里のことは何でも見通すことができた。あたかも、心と心がわかりあった姉妹か親友どうしのように思える。
―――親友だって?
照美は、その言葉から、最初に思い浮かべるべきか、よく知っていた。その人物は、彼女のかたわらにいる。しかし、高すぎるプライドはそれを認めることをよくしなかった。
「ふふん、じゃあ、次ぎに来るときには完成させておくんだぞ」
「・・・・・」
「返事は!?」
「ハイ・・・・・・・ウウウウウ・ウ・ウ・ウ・・ウ・ウ・ウ・ウ・ウ・ウウ!」
頭を傾けると、涙がノートパソコンの上に垂れた。
「ああ、ノートはディスクトップよりも高いんだからな、涙なら、いいけど、おまえの汚い液で濡らすなよ、いくらオナニーに目がないからってさ ―――」
「ウウ・ウ・・ウウ・ウ・ウウウウウ・・・ウ・ウ・ウ!」
――――おかしいな、どうして、はるかが言うことなら、“ひどい”って思えるのかしら?
それは愛情だった。自分でも気づかない由加里への愛情だった。思慕といってもいい。当然のことながら、それが意識の上に登ってくるには、プライドという障壁を幾つも破らなければならなかった。だから、当然のごとく、すぐに無意識の、ユングが想定する世界へと消え去ってしまう。
「じゃあ、帰るぞ。西宮、それからな、退院したら、登校拒否なんてことないよな。こちらにはあんたの恥ずかしいアレコレが、いっぱいあるんだぞ、それを忘れないことだ。命令に従わなかったらどうなるかな?」
「ウウ・ウ・ウ・・ウ・ウウウ! ウウウウウうううう!」
由加里は、両手に顔を埋めて、泣き続けていた。彼女の手はそんなに広いのだろうか、自分の顔をすっぽりと銜えてしまうほどに。少女は思った、このまま、両手に作られた海に溺れて死ねばいいと。しかし、何時まで経っても、彼女が溺れるほど涙はたまらないし、それよりも、自分の頭が収まるほどに、両手は広くないのだった。
はるかは、病室を後にするその瞬間、照美に話しかけた。
「これから、テニスの連中に行くんだが、付き合わないか」
「勝手にすれば ―――」
言葉の表面をドライアイスよりも冷たい物質で、コーティングした。しかし、その下では、相反する考えが、マグマの熱を持って、蠢いている。ちょうど、地球における表面とコアの関係に例えられるだろう。
「西沢さんが来られるンだけど ―――――」
「そんなことが私に関係があるとは?」
はるかの方から話しかけてくれた。照美は、内心、そのことが嬉しくてたまらないのだった。もちろん、まだ、絶対零度のコーティングが融けることはなかったが。
鋳崎はるかは、ほくそ笑んだ。
由加里は、ほぼ本能的に目を背ける。それは、怖ろしいものから、身の安全をはかるための当然の行動だろう。
「ウウ・・・ウ・・ウ・・ウウ・・・ もう、もういじめないでください!ウウ・・ウ・ウ・ウ・・ウ・・・うう!」
まるで園児のように、両手で顔を覆って、泣き出す。
「よくある現実逃避だな、西宮、だけど、これがおまえの現実なんだよ! 見ろ! 目を背けるな!」
はるかは、本を一冊、彼女の鼻先に押しつけた。さきほどまで凝視していた18禁本である。整った鼻梁が歪む。
「今すぐ、小説を書いてみなさい。そうね、小学生の由加里ちゃんが、パパにセックスをねだるっていう設定で書きなさい」
「どんな筋が頭に浮かぶのか、言ってみろ」
はじめて、二人のコンビネーションが成立した。期せずして、二人は、同じ位相に立ったのである。しかし ――――。
「ふん」
「ふん」
別に、マンガのように違いにそう言い合ったわけではない。しかし、目と目でそう会話したのである。そのことは由加里に伝わっていた。
「プ・・・・・」
少女は、煉獄で拷問されているにもかかわらず、獄吏のコミカルな態度に、噴き出してしまった。彼女は、この二人のことを完璧に見抜いていた。
「な、何を笑っている!? はやく言ってみろ!」
しかし、すぐに拷問は再開された。もう笑っているばあいではない。
「ウウ・・ウ・ウ・・ゆ、由加里は、お父さんの・・・・」
「実名で言いなさいよ、あなたの父親の名前は!?」
照美は、情け容赦なく命じた。
「そんな・・・・・ウグ!」
照美に教えられた筋から、イメージが沸いてくる。はるかの訓練によって、些細なイメージの水滴から、いくらでも海が生まれてくるようになった。
小学生の由加里、まるで成長アルバムを見返すように、かつての自分の映像が浮かんでくる。
「あははは、ママ、パパ、早く来てよ!」
彼女は、庭を走り回っていた。ひたすら、無邪気に、あるいは無遠慮に、世界を満喫している。
「あはは、パパ、こっち」
ちょうど、大きな木と納屋がある場所がある。ここは周囲から視覚になる。自分の家族からも他人からも、隠れることができる恰好のばしょだ。
「パパ!」
「どうしたの? 由加里ちゃん」
西宮和之は、相当腰をおらねば、愛娘と視線を合わせることができなかった。まだ、若いおそらく20代後半だろう。はつらつとした感じからは、青年医師としての栄誉を欲しいままにしているのが伝わってくる。
「由加里ね、パパのたいせつなもの、ほしいの」
「え? なんだい?おい、由加里! 止めなさい! やめろ!」
由加里は、和之の社会の窓を開けると ―――――――――――。
「いいやあああああああああ!!」
少女の視界いっぱいに、和之のペニスが入った。亀頭溝にこびりついた恥垢の臭いまでが、リアルに再生される。
由加里は自ら紡いだイメージに、取り込まれてしまった。あまりの俗悪さに、自己嫌悪の海に沈んでいくように思えた。いや、その方がかえってましだったかもしれない。照美やはるかは、そんなことを許すはずはない。
えり首を摑まれると、海中から、乱暴に引きずり出された。
「何がいやなんだ?!」
由加里の性器に圧力が加えられる。ナイフの柄がペニスの代わりに食い込んでいく。
「はやくしろ! 官能に身を委ねるあまり、実の父親の名前を忘れたというのか」
はるかは、自分の言った台詞で、顔を赤らめた。照美は、あからさまに笑った。
「・・・・・・・・・・く!」
「か、和之に、せ、せ、セックスをねね、ウウウ・・・ウ・ウ・ウ!ねだりますけど・・・・・う・う・う・きょ、拒否されて、、お、オナニーしているところを、ウウ・ウ・・ウ・ウ・ウ・ウ・・ウ!家を追い出されます・・・・・ウ・ウ・ウ・ウ・・ウウウウ!」
まさに、はるかの訓練が功を奏していた。プロットを組み立てるという段階では、一発の官能作家になっていた。
「パパのあそこが、我慢できずに、はじめちゃったわけだ。淫乱な西宮らしいな」
はるかが、勝ち誇ったように言い放つ。
「ウウ・ウ・・ウ・ウ・ウ・ウウ!!」
由加里は、自分の口を使って、あまりにハレンチなことを言わされたわけである。しかも、言葉を発するためには、頭を使うことが肝要だ。
自分の頭を使うということは、能動的に、性的な情報にアクセスするということだ。性的な情報とは具体的に言えば、記憶のことだ。今まで、二人によって、無理矢理に見せられた18禁マンガや小説、エロサイトの情報は、由加里の記憶になって脳内に蓄積された。
それに加えて、いままで彼女自身の好奇心によって蓄えられた記憶もあろう。
つい、最近まで、由加里はそのようなことに、全く興味がないと思っていた。コンビニなどで、男性向けの雑誌が目に入るたびに、思わず顔を赤らめていたぐらいである。
確かに横目で、それを見てしまうくらいのことはあったのである。それは、思春期を迎えた少女なら、当たり前のことである。
しかし、きまじめな由加里は、それを当然のこととは、受け取れなかった。
性的な物は悪であり、近づくべきものではない。大人ですらそうなのに、まだ子どもにすぎない自分が興味を持つなどとありえないことである。
それが彼女の、性的なものにたいする印象であり、自己イメージとも重なっていた。それが、二人によって無理矢理に破壊され、新たなイメージを擦り込まれたのである。その結果、彼女は、自分が汚らわしい淫乱という錯覚を持つにいたった。同時に、行われた性的ないじめは、それを加速させるだけだった。
結果として、行くところまで、行ってしまった自己嫌悪は、少女をさらなる精神的な煉獄へと誘うのだった。そこに、一体何が待ち受けているのか、獄吏であるはるかと照美も、そして、二人に責めさいなまれる由加里も、検討すらつかない世界だと言わねばならなかった。
「
だけど、西宮さんたら、よくもこんな恥ずかしいことが、頭に浮かぶよね」
「ウウウ・ウ・・ウ・ウ・・ウ・ウ・うう!」
「西宮、ほら、はやくはじめるんだ ――――」
はるかは、用意の良いことに、ウィンドウズを起動し、ワードが使えるようになったパソコンを押しつけた。
由加里は、涙を流しながらも両手をキーボードの上に這わした。
「パソコンは、あなたのあそこじゃないのよ、力任せにやったら壊れるからね」
「ウウ・ウ・ウ・ウ・ウ・・・・・うう!」
照美に、罵られながらも表題をつける。
『近親相姦、中学生の変態少女とパパの許されざる昆交』
「すごい題ねえ? 西宮さん?!」
「中学生淫乱作家の本領発揮だな」
実は、はるかに貸し与えられた書籍からの流用である。照美は、それを知らないが、はるかはもちろん、その超人的な記憶力からして、忘れているわけはない。
「だけど、独創性に欠けるんじゃないか、もっと、西宮らしさがないとな」
「アアアウ・・・・・・どう、どうすれば、アウウ・・あ!」
由加里は、膣を弄られながら、はるかの言葉に耳を傾ける。彼女は一発の編集者ぶりを発揮している。彼女が、単なる運動少女でないことを証明しているだろう。そもそも対して、勉強もしないのに、成績上位を保っていることは、公然の秘密だった。
「ねえ、西宮さん、本当はナイフの柄なんかじゃなくて、本物のパパので、攻めてほしいんでしょう?!」
「ウウ・・ウ・ウ・ウ・ウ!ひどい!ウウ・ウ・・ウ・ウ・ウウ!う!そ、そんなこと・・・・・・・ウウ・・・ウ・ウウあ、ありません!ウウ・ウ・ウ・ウ・ウアウウ!! あうう!!」
「本当は、もうやってるんじゃないか? ほら、指を動かせ!」
「ヒギイィぃ! いたい!」
はるかの指が、優雅な手つきで、由加里の耳に伸びると、一瞬で体育会系の本性を顕わにした。耳介を乱暴に摑みとると、有無を言わせずに捻り潰した。はるかの指に、心地よい硬さが伝わる。下手に軟骨が、中に入っていて、硬度を保っているだけに、潰された時の痛みは、耳蓋よりも強い。
「ああうう!! やめて! やめて! いたい!お、お願いですうぅ! か、書きます!書きますから! やめてええぇえ」
「良いじゃない?ここ、病院でしょう? いくらでも怪我しても治して貰えばいいじゃない? そのための病院よ、何を考えているの?!」
「ウウウ・・・ウ・ウ・ウ・・ウ!」
『西宮由加里の変態性欲、父の亀頭を夢見る』
小説の題名は、何度も推敲された結果。それになった。
キーボードを押せば、すぐにその文字が、意図とは別にインプットされる。由加里は、その操作を理解できるほどの知能を、与えられている。
そのことを呪った。神といった超常的な存在があるとするならば、それを恨んだ。
実際に、彼女が生まれるときに付与された知性は、人並みをはるかに超えるものだった。この時、少女はそのことを自覚していない。そのことは高田や金江といった、よくても十人並みの知性を与えられた者たちの嫉妬を呼んだ。いわゆる、天賦の才というやつである。
しかし、それがいじめの主因ではない。ただ、由加里がそれを使いこなすアートを習得していなかったということである。
どうして、はるかや照美が、由加里と同じ徹を踏まなかったのだろう。その疑問を考えてみれば、その問いに対する模本解答の一つになるかもしれない。
少女は限界を超えた羞恥心と恥辱のなかで、両手をキーボードに這わせていた。
西宮由加里は、食事にあたって、家族とテーブルを共有することを許されなかったのです。
こんなとき、由加里は絶対に聞きたくない音があります。
しかし、どんなに塞いでも耳に入ってくるのです。由加里は自分が五体満足であることを呪いました。
由加里は、自分のご飯ができるのを正座のまま、待ち続けます。それが、母親から命じられた食前のマナーです。
その間、ひたすらに、その音が耳に響くのを怖れています。それは、家族のたわいない話し声です。由加里の姉と妹は、学校での出来事を美化して、愛する両親に語ります。彼等は、それを最大限の愛情を持って迎えます。その一欠片でも、由加里にあたえられることはありません。それを思うと、惨めな由加里は、涙を押しとどめることはできません。
どうして、自分だけが愛されないのか。由加里はこの自問自問をひたすらに繰り返してきました。しかし、ようとしてその解答に辿り着くことはありません。
こんな辛いときに、愛と食べ物に飢えた由加里は、何を思い浮かべて、その飢餓を癒やしたと思いますか? 美味しそうな料理を想像して、そうしたわけではありません。
もしもそんなことすれば、どうしても、母親をはじめとする家族たちを思い浮かべてしまいます。その結果、耐え難い喉の渇きに、苦しむことになりそうです。
きっと、100リットルの水を飲んでも癒やせそうにありません。すると、何も以て、代償行為と為すのでしょうか。
端的に言うと、それは父親のペニスです。その巨大なこけしが、自分の性器に合わされているのを、性器の潤いを以て、思い浮かべるのです。
両手が無意識のうちに、自分の性器に向かっていきます。
「アア・・・アああ、パパ、早く入れて! 由加里のいやらしいおまんこを、パパのおちんちんで埋めて!」
由加里の両手が、キーボードの上で停止した。小刻みに震える白魚のような指は、少女の惨めな心持ちを暗示している。 ――――もう限界だと。
「ああ、もう、だめです、お願いですから、許してください・・・・・・ウウ・ウ・・うう!」
由加里は懇願しながら、泣きじゃくりはじめた。涙の海に溺れながら、少女は、意味不明の安心感に包まれるのを感じた。少女は、照美とはるかの二人に、その秘密の鍵を見つけていた。二人に、いじめられることが、安心感につながっている。それならば、自分は変態なのだろうか。
「ウウ・・・ウ・ウ・・ウ・ウ・ウウ・・・うう・・・ウ・・・・ウウウ・・・・・・うう!」
涙の理由は、照美たちのひどい仕打ちだけではないだろう。惨め。あまりにも、惨めだ。いじめられて、安心感を得ているなんて。少なくとも、ふつうの女の子としては、ありえないことだろう。恥辱と羞恥心で、喉の骨がくの字に曲がりそうに思えた。このまま一生、涙が枯れることがないように思えた。
「うぐ・・・・ウ・ウ・ウ・ウ・ウウ・・・・うう!」
「ふふ、いくら西宮さんでも、赤ちゃんじゃないんだから、泣いてことが解決するとは思わないよね ――」
一見、照美の言い方は、提案のように聞こえるが、その実、一つの答えに導くことを強要しているのである。まるで、真綿で首を絞められるように、攻めてくる照美の手段は、彼女ならではの知性を感じさせた。
――ああ、私はこの人が本当に好きなんだわ。
由加里は降参の白旗を挙げかけた。心の中では既に、それが風に揺らいでいたのである。そうすれば、どんなに楽だろうか。はるかから借りた漫画によれば、マゾの変態であることを告白すれば、はたして、二人はどんな反応をするだろうか。自分がいじめられていることで、欲情する変態だと、知ったら。
―――いや、違う! 私はそんな変態じゃない!
ここで、もたげてきたのは、まだ存命中のプライドだった。この時、由加里の瞼がかすかに動いた。それを照美は、見逃さなかった。
――――ふふ、だからいじめがいがあるのよ。
照美は、完全に見抜いていたのである。何故だか、わからないが、由加里のことは何でも見通すことができた。あたかも、心と心がわかりあった姉妹か親友どうしのように思える。
―――親友だって?
照美は、その言葉から、最初に思い浮かべるべきか、よく知っていた。その人物は、彼女のかたわらにいる。しかし、高すぎるプライドはそれを認めることをよくしなかった。
「ふふん、じゃあ、次ぎに来るときには完成させておくんだぞ」
「・・・・・」
「返事は!?」
「ハイ・・・・・・・ウウウウウ・ウ・ウ・ウ・・ウ・ウ・ウ・ウ・ウ・ウウ!」
頭を傾けると、涙がノートパソコンの上に垂れた。
「ああ、ノートはディスクトップよりも高いんだからな、涙なら、いいけど、おまえの汚い液で濡らすなよ、いくらオナニーに目がないからってさ ―――」
「ウウ・ウ・・ウウ・ウ・ウウウウウ・・・ウ・ウ・ウ!」
――――おかしいな、どうして、はるかが言うことなら、“ひどい”って思えるのかしら?
それは愛情だった。自分でも気づかない由加里への愛情だった。思慕といってもいい。当然のことながら、それが意識の上に登ってくるには、プライドという障壁を幾つも破らなければならなかった。だから、当然のごとく、すぐに無意識の、ユングが想定する世界へと消え去ってしまう。
「じゃあ、帰るぞ。西宮、それからな、退院したら、登校拒否なんてことないよな。こちらにはあんたの恥ずかしいアレコレが、いっぱいあるんだぞ、それを忘れないことだ。命令に従わなかったらどうなるかな?」
「ウウ・ウ・ウ・・ウ・ウウウ! ウウウウウうううう!」
由加里は、両手に顔を埋めて、泣き続けていた。彼女の手はそんなに広いのだろうか、自分の顔をすっぽりと銜えてしまうほどに。少女は思った、このまま、両手に作られた海に溺れて死ねばいいと。しかし、何時まで経っても、彼女が溺れるほど涙はたまらないし、それよりも、自分の頭が収まるほどに、両手は広くないのだった。
はるかは、病室を後にするその瞬間、照美に話しかけた。
「これから、テニスの連中に行くんだが、付き合わないか」
「勝手にすれば ―――」
言葉の表面をドライアイスよりも冷たい物質で、コーティングした。しかし、その下では、相反する考えが、マグマの熱を持って、蠢いている。ちょうど、地球における表面とコアの関係に例えられるだろう。
「西沢さんが来られるンだけど ―――――」
「そんなことが私に関係があるとは?」
はるかの方から話しかけてくれた。照美は、内心、そのことが嬉しくてたまらないのだった。もちろん、まだ、絶対零度のコーティングが融けることはなかったが。
あおいは祈るような気持で、鉄格子の向こうにある満月を見つめていた。しかし、そうは言っても、別に、少女は牢獄に閉じこめられているわけではない。これまで使っている部屋を追い出されるということはなかった。
しかし、少女を取り巻く空気は、悪化の一途を辿っている。薄めた毒ガスを絶え間なく、注入されるような状況は、じきに彼女を追いつめていった。当然のことながら、それは、精神状態にも影響を与えていた。
彼女の部屋は、ヨーロッパ風建築によくあるような、鋼鉄の格子が入っているのだ。
混乱し、停滞した精神は、見慣れているはずの部屋を、牢獄にしてしまったのだ。
しかし、部屋の様子は、いままでとだいぶ違う。まだ午後9時を少しだけ回っただけだというのに、真っ暗なのだ。停電したとでもいうのだろうか。
だが、この息苦しい雰囲気は、なんだろう。
8畳ほどの部屋に、所狭しと、巨大な荷物が鼻歌を歌っている。それほど低くはない天井に、達するほどの大荷物も存在する。その中で、あおいは、放心したように、鉄格子の間から満月を眺めている。その目はうつろで、はたして、満月の明るさを感じているのか、疑わしい。
両手は、まるでマリオネットのように、垂れている。一生分に働くべき労力をたった数時間で、使ってしまったかのように、うなだれている。
少女をここまで疲弊させたという。殺人的な労働とは、いったい、どのようなものだったのだろうか。
これらは、その日の内に、運び込まれたのである。いや、正しくは、あおいが自身で運んだのだ。もっと正確を期せば、その小さな躯で、自分の背丈よりもはるかに大きく重い荷物を、運ぶことを強要されたのである。
全身の筋肉が悲鳴を上げている。もう、限界だ。もう動けないと、泣き声を上げている。まだ小学生なのに、老人のように節々が痛い。祖父や祖母がそのように嘆いていたのだが、こういうことかと、ヘンな納得のさせられ方をした。
有希江は、手助けしてやろうと食指を動かしたが、久子によって阻まれた。甘やかすなというである。彼女によれば、今まで、さんざん甘やかしてきた。そのために増長し、わがままになってしまった。そのあおいにお灸を据えようというのである。
「これは、あおいちゃんのためなのよ ―――」
それは、久子が強調したことだった。家族はみんな、彼女の言うことに納得している。しかし、ことに、茉莉は進んで、母親の考えに賛同している。どうしてなのか、あんなにおとなしく、自分から何かを主張するということがなかった。そんな茉莉の変容は、有希江には訝しいことだった。
徳子と久子は、彫像のように立ち尽くしているだけだ。
「なにも、ここまですることないじゃない! これって虐待よ!」
今まで、セーブしていた感情を、露出してみせた。
「有希江、あなた、茉莉がどれほど傷ついていると思っているの?」
徳子が逆に抗議する。有希江の抗議は、まったく意に介されない。
「あおいが、茉莉に何かしたの?」
有希江は、テーブルの上を拭きながら、言った。ここは、ダイニング。今、夕食が終わったところである。しかし、メインディッシュが盛られていた皿は、四枚しかなかった。現在、榊家の家族は五人構成にもかかわらず、その数である。
しかも、普段なら汚れているはずの席は、キレイなままだった。ご飯粒、ひとつ残っていなかった。あおいは、年甲斐もなく、食べ物を零すので、久子や徳子に叱られ、有希江には嫌みを言われていたものだ。
しかし、外では誰よりも上品に、マナーを守って見せるので、その内弁慶ぶりに、家族は開いた口がふさがらないのだった。
こと、あおいのことになると、興味深いエピソードに事欠かない家族である。笑い話とともに、いつも思いだしていたものだが、今回は違う。
そもそも、みんなあおいには甘かった。これは確かなことである。しかし、このような挙に出るほど、ひどかったわけではない。あるいは陰険な非行を働くわけでもない。
だから、みんな、あおいを笑って許していたのである。
それは彼女の性格ゆえだった。みんな罪のない、彼女の笑顔が大好きだったはずである。裏表のない性格は、家族のみならず、誰にも好かれている ――――はずであった。今、茉莉がそれを否定するというのである。
有希江はその理由は訊くことにした。この際、それをあきらかにしない限り、何も始まらない。
「言ってみなさいよ、茉莉、いったい、何があったのよ!?」
「ちょっと、有希江、この子は被害者なのよ!」
徳子が激しくテーブルを叩きつけた。銀食器がぐらぐらと、悲鳴をあげる。それと呼応するように、ドアがノックされた。その音は弱々しく、まるで空気を摑むような仕草である。
「誰かしら?」
久子が冷たく言い放つ。おそらく相手が誰かわかっているのだ。有希江が知っている限り、誰構わず冷たい態度を取る人間ではない。
「あおいです ・・・・・・・・」
震える声が、ドアの向こうから聞こえる。一枚の板を隔てても、彼女の顔が恐怖のあまり引きつっているのがわかる。
たった一枚の板で、彼女と家族は引き裂かれてしまったのだろうか。有希江は思った。
もっとも、彼女こそ、それを実感していることだろう。しかし、何があっても解決しなければという意気込みがないのは、どういうわけだろう。
壁に掛けられている絵画は、東郷青児という戦後まもなく活躍した画家の作品である。
一見して、マネキンを思わせる人物群が、絵の中を占める。とてつもなくシュールな画風。彼女らの視線を追っても、何処を、そして、何を見ているのかわからない、さながら、今の久子を彷彿とさせる。いや、ここにいる四人を象徴しているのかもしれない。
「どうして、こんなに遅れるの!?」
「・・・・・・・・に、荷物を・・・・・・」
「いい訳しない」
バシッッ!!
空気を切り裂くような音がした。有希江が絵画とにらめっこしていう間に、事態は進行しているようだ。なんと、久子が平手打ちを喰わせたのだ。あおいは、凍り付いて佇立している。
しかし、理性を完全に失ったあおいは、こんな状況になってもその言葉を発した。
「ママ?!」
その一言は、久子を完全に、怒りのために凍り付かせた。
あおいは、ほとんど、母親に暴力をふるわれたことがない。だから、その思考は停止してしまったにちがいない。未体験の出来事に、人は、ただ直立するしかないだろう。
あおいは、頬を震える手で、触りながら、母親を見上げている。彼女は、この世でもっとも信頼しているはずの人間である。しかし、今、あおいにしてみれば、まさに悪鬼にしか見えないにちがいない。
「いやあ! ママ! 許してぇええ!!」
久子は、あおいの髪を鷲摑みにすると、その力をもって、床に這わせた。そして、娘の背中に馬乗りになって、その頭を何度も平手打ちしはじめた。唖然となる有希江。恐る恐る茉莉と徳子に視線を移す。
何と、二人はマネキン人形のように、無表情のまま立ち尽くしている。この二人は、10何年も家族と呼んできたひとたちなのだろうか。そして、あおいを叩きのめしている鬼母は、本当に、自分の母親なのだろうか。
有希江は、あたかも白昼夢を見ているような錯覚に陥った。
ひとしきり殴りつけた久子は、次ぎのように短く命じて、ダイニングを去っていった。
「この後始末をお願いね、お手伝いさん」
あおいの黄色い泣き声が、部屋中が響いていた。しかし、茉莉は傷口に塩を塗るような行動に出ていた。
「あおいさん、ごはん、まだなんでしょう? 有希江姉さんたら、お腹すいてなかったみたいで、こんなに残しちゃったんだよ、あなたにエサをあげる ―――」
そう言うと、茉莉は薄笑いを浮かべながら、その皿を手摑みにした。いたのである。あたかも、UFOのように、弧を描いて飛ぶ料理。そして、恭しい手つきで、それを泣きじゃくるあおいの目の前に置いたのである。
コト。
皿が床に置かれる音。それは、やけに嘘らしく聞こえた。あたかも、ドラマの演出のように、作り物めいていた。
あおいは、涙で濡れる顔を、妹に向けることでしか、答えることはできない。声は一切でない。泣き声すら立てることができなかった。声帯はその機能を忘れ、喉は単なる筒と化した。
「?」
あおいは、まるで赤子のような声を出すと、ただ、意識を茉莉に向けた。おびただしく流れる涙を拭くことも忘れて、妹に意識を集中させようと努力をする。もしかしたら、涙が流れていることにも、気づいていないのかもしれない。
ただ、目の前に起こっていること、自分の身にふりかかっていることが信じられないのだろう。有希江は、ただ大道芸人が突如として出現したときのように、意識を中空へと放散させた。そうすることで、意識が集中しすぎて、過熱することを避けているのである。
「どう? 感謝しなさいよ、あなたみたいなドロボウネコには、もったいないくらいのごちそうよ」
恩着せがましく、茉莉は、あおいにそれをたべるように促す。
しかも、それはあおいが小さいころから好きだった料理だった。ハンガリアチキン。有希江の脳裏に残っているのは、まさ5歳当時の、あおいが、ナイフとフォークを握っている場面である。当然のように、彼女はそれをどのように使うのか、よくわかっていない。ただ、振り上げて怪獣遊びをするだけだ。
「ほら、ほら、あおいちゃん、それは遊び道具じゃないのよ」
それは、この世のものとは思えない優しい声だった。聖母マリアのようだという形容が、これほど相応しい場面は、これまでもこれからも、ないだろうと思われる。
久子は、あおいの両手に触れると、チキンを切り分けて見せたのである。
「ナイフとフォークはこう使うのよ、言ってご覧なさい、これとこれは何ていうの?」
「ないふとふぉーく!」
「はーい、よくできました。ほら、お口を開けて ―――」
「ああー、おいしいぃ!」
久子の手を介して、チキンが、あおいの口に入ると、彼女は歓声を上げた。
「ほら、お食事中は騒いじゃだめでしょう、ほら、お姉ちゃんたちは、ちゃんと食べているでしょう」
「 ふふ――――」
「――――」
当時、自分がどんな目つきを妹に向けたのか、よく憶えていないが、徳子が見せた笑顔は、とてもすてきな表情だった。決して、自分には見せたことのないほどの笑顔がこぼれていた。有希江は自分だけが、家族から取り残されたような気がした。
今、目の前では、あおいがそのような境遇を辿っている。いや、それどころではない。まさに家族からつまはじきにされてしまったほどだ。そして、家政婦として、家に残ることを許されたことを感謝しろと強要されているほどなのだ。
あおいは、犬のように、よつんばいにされていた。そして、頭を摑まれると、無理矢理に有希江の残飯に、顔を突っ込まされている。
「ほら、食べなさいよ、あおい姉 ―――いや、あんたの大好物でしょう?!」
「ひぎぃ・・・・ウウ!!」
家政婦と言うべきところを『あおい姉さん』と言い間違えたことは、有希江の涙を誘った。それはあおいもそうだったかもしれない。もっとも、自分にふりかかっている陵辱行為のために、そんなことに耳を傾ける余裕はなかったかもしれない。
「ほら!」
「ウグググギエ!」
茉莉は、間違った自分に対する、気持を整理するためか、余計に乱暴になる。それは折檻と言うほかに表現方法が見付からないほど、ひどいものになった。
一体、自分たちの家族に何が起こったのだろう。起こっているのだろう。有希江は、何か見えない風圧を受けて、後ずさった。このとき、何かしら手を出していたら、事態はあれほど深刻にならずにすんだろうか。
その答えは、誰も知らない。榊家の家族の誰も答えられないだろう。明かに見えない力に突き動かされていたのである。
有希江が、手をこまねいている先で、事態は、さらに悪化の途をたどっていた。
あおいは、泣き叫びながらも、元ハンガリアキチンだったものを銜えている。茉莉から受ける折檻に耐えかねて、従ったのであろう。
おそらくは、有希江の唾液が残っていると思われる。他人の唾液には味があるんだろうか? たしか、哺乳動物の唾というものは、それを分泌した本人以外にとって、みれば毒にしかならないという。すると、接吻というのは、毒の交換を意味するのだろうか。
あおいにとってみれば、その残骸は、かつて好物だったものを彷彿とさせる。それは、単に、物質的な意味だけに限ったことではあるまい。楽しかった家族との記憶をも、蘇らせていることだろう。
きっと、その記憶と、現在、彼女が置かれている境遇を比較しているにちがいない。
有希江は、それを思うと、胸が痛んだ。
「あははは、お前はまるで犬ね、家政婦じゃなくて、いっそのこと飼い犬になってみる? そうしたら働かなくてもいいわよ、その代わりに学校もいけないし、一日中裸でいてもららわないとね」
徳子が、酷薄に言い放つ。
あおいは、もうハンガリアチキンの味を忘れてしまったらしい。「ただ、塩の味しかわからなかった」と後から述懐している。
――――私も、この空気になるしかないのかしら。
有希江は、いつしかそう思うようになっていた。
誰の戯れか、ここに掛けられた東郷青児は、不気味に笑っていた。
「私の姿は、未来の、いや、すぐ先の現実そのものだよ」
絵画が、そのように笑っている。
有希江は、とてつもなく高価な、その絵を破ってしまいたい衝動に駆られた。
しかし、少女を取り巻く空気は、悪化の一途を辿っている。薄めた毒ガスを絶え間なく、注入されるような状況は、じきに彼女を追いつめていった。当然のことながら、それは、精神状態にも影響を与えていた。
彼女の部屋は、ヨーロッパ風建築によくあるような、鋼鉄の格子が入っているのだ。
混乱し、停滞した精神は、見慣れているはずの部屋を、牢獄にしてしまったのだ。
しかし、部屋の様子は、いままでとだいぶ違う。まだ午後9時を少しだけ回っただけだというのに、真っ暗なのだ。停電したとでもいうのだろうか。
だが、この息苦しい雰囲気は、なんだろう。
8畳ほどの部屋に、所狭しと、巨大な荷物が鼻歌を歌っている。それほど低くはない天井に、達するほどの大荷物も存在する。その中で、あおいは、放心したように、鉄格子の間から満月を眺めている。その目はうつろで、はたして、満月の明るさを感じているのか、疑わしい。
両手は、まるでマリオネットのように、垂れている。一生分に働くべき労力をたった数時間で、使ってしまったかのように、うなだれている。
少女をここまで疲弊させたという。殺人的な労働とは、いったい、どのようなものだったのだろうか。
これらは、その日の内に、運び込まれたのである。いや、正しくは、あおいが自身で運んだのだ。もっと正確を期せば、その小さな躯で、自分の背丈よりもはるかに大きく重い荷物を、運ぶことを強要されたのである。
全身の筋肉が悲鳴を上げている。もう、限界だ。もう動けないと、泣き声を上げている。まだ小学生なのに、老人のように節々が痛い。祖父や祖母がそのように嘆いていたのだが、こういうことかと、ヘンな納得のさせられ方をした。
有希江は、手助けしてやろうと食指を動かしたが、久子によって阻まれた。甘やかすなというである。彼女によれば、今まで、さんざん甘やかしてきた。そのために増長し、わがままになってしまった。そのあおいにお灸を据えようというのである。
「これは、あおいちゃんのためなのよ ―――」
それは、久子が強調したことだった。家族はみんな、彼女の言うことに納得している。しかし、ことに、茉莉は進んで、母親の考えに賛同している。どうしてなのか、あんなにおとなしく、自分から何かを主張するということがなかった。そんな茉莉の変容は、有希江には訝しいことだった。
徳子と久子は、彫像のように立ち尽くしているだけだ。
「なにも、ここまですることないじゃない! これって虐待よ!」
今まで、セーブしていた感情を、露出してみせた。
「有希江、あなた、茉莉がどれほど傷ついていると思っているの?」
徳子が逆に抗議する。有希江の抗議は、まったく意に介されない。
「あおいが、茉莉に何かしたの?」
有希江は、テーブルの上を拭きながら、言った。ここは、ダイニング。今、夕食が終わったところである。しかし、メインディッシュが盛られていた皿は、四枚しかなかった。現在、榊家の家族は五人構成にもかかわらず、その数である。
しかも、普段なら汚れているはずの席は、キレイなままだった。ご飯粒、ひとつ残っていなかった。あおいは、年甲斐もなく、食べ物を零すので、久子や徳子に叱られ、有希江には嫌みを言われていたものだ。
しかし、外では誰よりも上品に、マナーを守って見せるので、その内弁慶ぶりに、家族は開いた口がふさがらないのだった。
こと、あおいのことになると、興味深いエピソードに事欠かない家族である。笑い話とともに、いつも思いだしていたものだが、今回は違う。
そもそも、みんなあおいには甘かった。これは確かなことである。しかし、このような挙に出るほど、ひどかったわけではない。あるいは陰険な非行を働くわけでもない。
だから、みんな、あおいを笑って許していたのである。
それは彼女の性格ゆえだった。みんな罪のない、彼女の笑顔が大好きだったはずである。裏表のない性格は、家族のみならず、誰にも好かれている ――――はずであった。今、茉莉がそれを否定するというのである。
有希江はその理由は訊くことにした。この際、それをあきらかにしない限り、何も始まらない。
「言ってみなさいよ、茉莉、いったい、何があったのよ!?」
「ちょっと、有希江、この子は被害者なのよ!」
徳子が激しくテーブルを叩きつけた。銀食器がぐらぐらと、悲鳴をあげる。それと呼応するように、ドアがノックされた。その音は弱々しく、まるで空気を摑むような仕草である。
「誰かしら?」
久子が冷たく言い放つ。おそらく相手が誰かわかっているのだ。有希江が知っている限り、誰構わず冷たい態度を取る人間ではない。
「あおいです ・・・・・・・・」
震える声が、ドアの向こうから聞こえる。一枚の板を隔てても、彼女の顔が恐怖のあまり引きつっているのがわかる。
たった一枚の板で、彼女と家族は引き裂かれてしまったのだろうか。有希江は思った。
もっとも、彼女こそ、それを実感していることだろう。しかし、何があっても解決しなければという意気込みがないのは、どういうわけだろう。
壁に掛けられている絵画は、東郷青児という戦後まもなく活躍した画家の作品である。
一見して、マネキンを思わせる人物群が、絵の中を占める。とてつもなくシュールな画風。彼女らの視線を追っても、何処を、そして、何を見ているのかわからない、さながら、今の久子を彷彿とさせる。いや、ここにいる四人を象徴しているのかもしれない。
「どうして、こんなに遅れるの!?」
「・・・・・・・・に、荷物を・・・・・・」
「いい訳しない」
バシッッ!!
空気を切り裂くような音がした。有希江が絵画とにらめっこしていう間に、事態は進行しているようだ。なんと、久子が平手打ちを喰わせたのだ。あおいは、凍り付いて佇立している。
しかし、理性を完全に失ったあおいは、こんな状況になってもその言葉を発した。
「ママ?!」
その一言は、久子を完全に、怒りのために凍り付かせた。
あおいは、ほとんど、母親に暴力をふるわれたことがない。だから、その思考は停止してしまったにちがいない。未体験の出来事に、人は、ただ直立するしかないだろう。
あおいは、頬を震える手で、触りながら、母親を見上げている。彼女は、この世でもっとも信頼しているはずの人間である。しかし、今、あおいにしてみれば、まさに悪鬼にしか見えないにちがいない。
「いやあ! ママ! 許してぇええ!!」
久子は、あおいの髪を鷲摑みにすると、その力をもって、床に這わせた。そして、娘の背中に馬乗りになって、その頭を何度も平手打ちしはじめた。唖然となる有希江。恐る恐る茉莉と徳子に視線を移す。
何と、二人はマネキン人形のように、無表情のまま立ち尽くしている。この二人は、10何年も家族と呼んできたひとたちなのだろうか。そして、あおいを叩きのめしている鬼母は、本当に、自分の母親なのだろうか。
有希江は、あたかも白昼夢を見ているような錯覚に陥った。
ひとしきり殴りつけた久子は、次ぎのように短く命じて、ダイニングを去っていった。
「この後始末をお願いね、お手伝いさん」
あおいの黄色い泣き声が、部屋中が響いていた。しかし、茉莉は傷口に塩を塗るような行動に出ていた。
「あおいさん、ごはん、まだなんでしょう? 有希江姉さんたら、お腹すいてなかったみたいで、こんなに残しちゃったんだよ、あなたにエサをあげる ―――」
そう言うと、茉莉は薄笑いを浮かべながら、その皿を手摑みにした。いたのである。あたかも、UFOのように、弧を描いて飛ぶ料理。そして、恭しい手つきで、それを泣きじゃくるあおいの目の前に置いたのである。
コト。
皿が床に置かれる音。それは、やけに嘘らしく聞こえた。あたかも、ドラマの演出のように、作り物めいていた。
あおいは、涙で濡れる顔を、妹に向けることでしか、答えることはできない。声は一切でない。泣き声すら立てることができなかった。声帯はその機能を忘れ、喉は単なる筒と化した。
「?」
あおいは、まるで赤子のような声を出すと、ただ、意識を茉莉に向けた。おびただしく流れる涙を拭くことも忘れて、妹に意識を集中させようと努力をする。もしかしたら、涙が流れていることにも、気づいていないのかもしれない。
ただ、目の前に起こっていること、自分の身にふりかかっていることが信じられないのだろう。有希江は、ただ大道芸人が突如として出現したときのように、意識を中空へと放散させた。そうすることで、意識が集中しすぎて、過熱することを避けているのである。
「どう? 感謝しなさいよ、あなたみたいなドロボウネコには、もったいないくらいのごちそうよ」
恩着せがましく、茉莉は、あおいにそれをたべるように促す。
しかも、それはあおいが小さいころから好きだった料理だった。ハンガリアチキン。有希江の脳裏に残っているのは、まさ5歳当時の、あおいが、ナイフとフォークを握っている場面である。当然のように、彼女はそれをどのように使うのか、よくわかっていない。ただ、振り上げて怪獣遊びをするだけだ。
「ほら、ほら、あおいちゃん、それは遊び道具じゃないのよ」
それは、この世のものとは思えない優しい声だった。聖母マリアのようだという形容が、これほど相応しい場面は、これまでもこれからも、ないだろうと思われる。
久子は、あおいの両手に触れると、チキンを切り分けて見せたのである。
「ナイフとフォークはこう使うのよ、言ってご覧なさい、これとこれは何ていうの?」
「ないふとふぉーく!」
「はーい、よくできました。ほら、お口を開けて ―――」
「ああー、おいしいぃ!」
久子の手を介して、チキンが、あおいの口に入ると、彼女は歓声を上げた。
「ほら、お食事中は騒いじゃだめでしょう、ほら、お姉ちゃんたちは、ちゃんと食べているでしょう」
「 ふふ――――」
「――――」
当時、自分がどんな目つきを妹に向けたのか、よく憶えていないが、徳子が見せた笑顔は、とてもすてきな表情だった。決して、自分には見せたことのないほどの笑顔がこぼれていた。有希江は自分だけが、家族から取り残されたような気がした。
今、目の前では、あおいがそのような境遇を辿っている。いや、それどころではない。まさに家族からつまはじきにされてしまったほどだ。そして、家政婦として、家に残ることを許されたことを感謝しろと強要されているほどなのだ。
あおいは、犬のように、よつんばいにされていた。そして、頭を摑まれると、無理矢理に有希江の残飯に、顔を突っ込まされている。
「ほら、食べなさいよ、あおい姉 ―――いや、あんたの大好物でしょう?!」
「ひぎぃ・・・・ウウ!!」
家政婦と言うべきところを『あおい姉さん』と言い間違えたことは、有希江の涙を誘った。それはあおいもそうだったかもしれない。もっとも、自分にふりかかっている陵辱行為のために、そんなことに耳を傾ける余裕はなかったかもしれない。
「ほら!」
「ウグググギエ!」
茉莉は、間違った自分に対する、気持を整理するためか、余計に乱暴になる。それは折檻と言うほかに表現方法が見付からないほど、ひどいものになった。
一体、自分たちの家族に何が起こったのだろう。起こっているのだろう。有希江は、何か見えない風圧を受けて、後ずさった。このとき、何かしら手を出していたら、事態はあれほど深刻にならずにすんだろうか。
その答えは、誰も知らない。榊家の家族の誰も答えられないだろう。明かに見えない力に突き動かされていたのである。
有希江が、手をこまねいている先で、事態は、さらに悪化の途をたどっていた。
あおいは、泣き叫びながらも、元ハンガリアキチンだったものを銜えている。茉莉から受ける折檻に耐えかねて、従ったのであろう。
おそらくは、有希江の唾液が残っていると思われる。他人の唾液には味があるんだろうか? たしか、哺乳動物の唾というものは、それを分泌した本人以外にとって、みれば毒にしかならないという。すると、接吻というのは、毒の交換を意味するのだろうか。
あおいにとってみれば、その残骸は、かつて好物だったものを彷彿とさせる。それは、単に、物質的な意味だけに限ったことではあるまい。楽しかった家族との記憶をも、蘇らせていることだろう。
きっと、その記憶と、現在、彼女が置かれている境遇を比較しているにちがいない。
有希江は、それを思うと、胸が痛んだ。
「あははは、お前はまるで犬ね、家政婦じゃなくて、いっそのこと飼い犬になってみる? そうしたら働かなくてもいいわよ、その代わりに学校もいけないし、一日中裸でいてもららわないとね」
徳子が、酷薄に言い放つ。
あおいは、もうハンガリアチキンの味を忘れてしまったらしい。「ただ、塩の味しかわからなかった」と後から述懐している。
――――私も、この空気になるしかないのかしら。
有希江は、いつしかそう思うようになっていた。
誰の戯れか、ここに掛けられた東郷青児は、不気味に笑っていた。
「私の姿は、未来の、いや、すぐ先の現実そのものだよ」
絵画が、そのように笑っている。
有希江は、とてつもなく高価な、その絵を破ってしまいたい衝動に駆られた。
「由加里ちゃん・・・・・・そう呼んでもいいんだよね」
「・・・・・・・」
由加里は黙って頷く。まるで、ぬいぐるみの首が曲がったように、見える。
「今日、一日だけで、信頼されるのは無理だってわかってるよ。私たちが、由加里ちゃんにやってきたことを考えればね ――――――」
この台詞は、高田でも、照美でもなく、ゆららの独創だった。
「うん ―――――――」
由加里の表情は曇ったままだ。しかし、心の何処かで明るいきざしを感じてはいた。それを疑う気持と信じたい気持が、錯綜して、葛藤を作り出す。
「信じたい、信じたいの! だけど・・・・・・・・・・・」
少女は、何処まで行っても、自分の気持ちに素直だった。吐かれる言葉は、それを端的に表している。
「大丈夫だよ、いくらでも疑ってもいいから、ずっと、待っているからね」
これは照美が、考え出した台詞である。ゆららは、自分の背後でほくそ笑んでいる美少女を感じた。
「ウウ・ウ・・ウ・ウ・ウ!!」
呻くような、泣き声を聞くと、本当に辛くなる。ゆららは、目頭が熱くなるのを感じる。涙が込み上げてくるのを、必死に押さえながらも、自分が芝居をしていることを再認識する。
そうすると、涙腺を締め直すことができる。
自分は高田や照美たちの人形にすぎない。だから、すべての責任は彼女らにあるのだ。一体、何を思い悩むことがあろうか。
そう思いこもうとしても、やはり、何かが残る。わだかまりと単純に言っていいのか、その正体はわからないが、自分にとって不快なものであることは確かである。
それは、殺人者が、その手からいくら血を拭おうとしても、拭えないのと同じで、まるで宿痾のように、ゆららの小さな身体に、こびりつき、その心を侵食しつつあるのだ。
「じゃあ、私は帰るね。携帯の番号、書いておいたから、いつでもかけてきてよ」
「うん」
「じゃ・・・・ぅあ!!」
再度、さよならをして、ゆららは病室を後にした。
ほっとして、由加里は一息ついた。花をよく見てみようと、花瓶に手を伸ばそうとしたとき、全身が凍り付くのを感じた。二つの足音が、由加里を訪れたのである。そちらを見なくてもわかる。
「ぁ・・あ・・・・あ・・・ああ!!」
あの世の門番すら裸足で逃げそうな叫び声を、自分の内に向けて、注ぎ込んだのである。
ゆららと入れ替わりに、入ってきた人物の顔を忘れることはないだろう。
「か、海崎さん、い、い、鋳崎さん ――――」
身の内がガタガタ震える。得体の知れない薬を注射されたような気がする。照美の美貌は、地獄の季節の到来を、意味していた。
「いやねえ、冷房が効きすぎているのかしら? 病院なのにね、あら、挨拶がまだだったわね、こんにちは、西宮さん」
「ああ・・あ・あ・・あ・・あ」
由加里は、マヒしてしまった口を必死に開いて、人語を話そうと試みた。しかし、うまく舌が動いてくれない。何を甘えているのだろう。舌は随意筋肉のはずだ。自分で動かさずに、誰が動かしてくれるというのだろう。不随意筋肉を統轄する自律神経から文句が来そうだ。
由加里が目の前の人物たちから、蒙った精神的および、肉体的な苦痛と恥辱の記憶。それらは、少女の神経を、完全にマヒさせてしまったのである。
涎さえ、こぼれようとしたとき、ようやく、由加里は年齢に見合った自尊心を回復させた。
「か、海崎さん ―――――」
「こんにちは、西宮さん」
「こ、こんにちは・・・・でございます」
摩訶不思議な日本語は、少女の知性が、かなり侵食されていることを証明している。
照美は、いやらしい手つきで、持ってきた花束を弄ぶ。ネコは、痛め付けた獲物が、死にゆくのを愉しむという。ちょうど、そのように、由加里を見下ろしている。彼女は、病床に縛り付けられ、身動きすらままならないのである。
「・・・・・・・・・・・・・・」
照美は、由加里の全身を足の先から頭まで、舐めるように眺め尽くす。それが無言で行われるために、彼女が感じる恐怖は、並大抵のものではない。照美の唇と舌がぶつかる音までが、由加里には聞こえる。舌づりする音が、生々しく、犠牲者の聴覚神経を刺激する。
すると、いままで、照美にされた行為が、走馬燈のように蘇ってくるのだ。
「ぁ・あ・・・・あああ ―――」
由加里は、何とか逃げようとするが、右腕以外は、包帯で巻かれているその姿では、病床の上をただ蠢くことしかできない。いわば、滑稽とすら言えるその様子は、手負いの芋虫を思わせる。
なおも無言のまま、照美は由加里を見下ろし続ける。その視線は、熱を持っているかのように、由加里の身体を焼き尽くす。肌には、火傷の結果として、水ぶくれができるほど、見つめ続ける。視線には、熱が籠もっているのである。
「あ、・・・・あの、海崎さん ―――」
ついにしびれを切らして、由加里は自分の所有者の名前を呼んだ。
「ここでは暇なのようなだから、お土産を持ってきてあげだんだよ、感謝してほしいな」
鋳崎はるかが、持ってきたのはボストンバッグだった。中を開けると、ノートパソコンと、書籍類が姿をあらわした。
由加里が察したとおり、単なる本ではない。おそらくは、18禁という文字が入った特別な代物なのだろう。
こんなところでも、恥辱の創作活動を強要しようというのか。
「持ってきてやったよ、西宮の大好きな本をさ。あんたもエロ作家としてデビューの日も近いかもな」
はるかは、照美とは全く違う方法で、由加里を攻めてくる。
彼女の声は、ライオンの咆吼を思わせた。由加里は、両耳を覆って、凌ごうとしなければならない。
照美の冷たい炎と、はるかの熱い炎に、責め立てられて、由加里は、さながら落城寸前の姫になろうとしている。今、燃え上がらんとする城のすぐ側では、美しい姫を我がものとせんばかりに、その薄汚い性欲をたぎらせている。
しかし、由加里はあることに気づいていた。それは照美とはるかの関係である。今まで、由加里を攻め抜いていたときは、何処か様子がちがう。それは、いままで、互いを連理の翼のように信頼しきって、行動していたのに、目の前に存在する二人は、ばらばらに己の意思に従って由加里を攻めているように見える。同じ場所にいながら、別の位相から攻撃してくるようだ。
だが、城に延焼しようとする炎にA種もB種もない。それぞれが、少女にとってみれば脅威なのである。彼女を焼き尽くし、陵辱しつくす紅蓮の炎なのだ。
「西宮さん、みじめな恰好ね」
「・・・・・・・・・・・」
掛け物を引っぺがすと、大腿を閉じられない由加里がいた。
「あら、ノーパンなのね、かわいいわ」
「ああ、み、見ないで!」
照美は、由加里の顕わな恥部を発見して、微笑んだ。由加里は、羞恥のあまり顔を赤らめる。
「今更、何で、顔を真っ赤にしているのよ」
「鈴木さんが来たようだな、あんなヤツにまで、いじめられるようになったんだ、本当にウジ虫に相応しいな」
はるがの言だ。照美の発言と全く、つがいを為していない。まるで、互いが見えていない。それぞれが、勝手に由加里に対している。まるで時間差を作られ、攻撃されているような、奇妙な気分に囚われる。いったい、何があったのだろう。その理由は、由加里の知るよしではない。
「後輩にまで、いじめられるんだから、あんたテニス部でおもちゃになってるんでしょう? ―――――」
「・・・・・・・・・・?!」
照美の言葉は、由加里の爛れた傷に、直接触れた。言いようもない痛みが、湿潤する傷口に走る。
「いっそのこと、このまま寝たきりにでもなったら? どうせ、この先何処に行っても、いじめられるんだから、その方がいいんじゃない。一生、人の世話になるのが、あなたには相応しいわよ、みっともない西宮さんにはね ―――」
「ぁああぅ!」
照美は、由加里に肉体的な責め苦をも与えはじめた。手近にあった果物ナイフで、少女の股間を弄びはじめたのである。もちろん、刃物とは逆の部分を使ってのことだ。しかし、彼女の心を突き刺し、傷口をえぐることはできる。そこからは、果てしなく、見えない血が、また流れはじめている。
「ぅひぃ!」
「あら、ココが悦んでいるわよ。久しぶりに、弄ってもらえて、本当に嬉しそうだわ、待ち遠しかったのね?! ごめんなさいね、お待たせして!」
「ぅうううう! そ、そんなこと・・・ウ・ウ・・ウ・・ウ! あ、ありません・・・・ウ・・ウ・ウ・・ウ・・・・!!」
本来、平和の象徴であるはずの病院に、こんな世界ができあがっている。それは、学校も同じ事であろうが、病院という、人間を癒すはずの空間に、こんな拷問部屋が現出しているのである。まさに笑止というほかはない。
由加里は、氷の冷たさを、性器で感じた。それは、黄色い涙をもたらすほどの狂気に満ちていた。
ナイフは、由加里の性器に侵入していく。ずぶずぶと小陰脚や陰核を陵辱する。刺激された陰部としては、持ち主の意思とは別の生き物のように、呼吸をはじめ、その意思を表明する。すなわち、興奮し、涎を垂れ流す。
「相変わらず、我慢のできないアソコねえ? それにスゴイ臭いよ、看護婦さんも大変ねえ、あなたの世話なんて、あははっ!」
「ぁあああ・・・ア・・・・ウウ・・・ウ・ウ・・・うう! やめて! アア・・・ア・ア・ああ、やめてください!」
「ねえ、こんな汚いものは、全部剥いじゃおうか?」
「え?」
照美が真顔になった。由加里は、それだけで、全身の毛が抜けるような風圧を受ける。驚愕の表情を、可愛らしい顔に浮かべた。照美は、それだけでなく、ナイフを由加里の性器立てるマネをしたのである。いかにも、そこに突き刺してしまいそうな勢いだ。いや、既にそうしてしまったかのような錯覚に囚われた。事実、由加里は、陰部に強い痛みを感じた。
「あーあ!?」
「西宮は、日本語をしゃべれないのか? いやしくもエロ作家を目指そうって女が!?」
はるかが嘴を突き刺した。勝手に決めつけるその話しようは、なんだろう。まるで、由加里の鼻に刃物を突き刺してくるようだ。由加里なら、日本刀で斬ってくる残酷さだが、はるかのそれは、西洋の剣なのである。知っておられようか、日本刀が弧を描いて、斬るのに、比べて、西洋の諸刃の剣は、突き刺すのである。話しがそれた。
閑話休題。
照美は、なおも自分の美しい舌に、残酷な言葉を乗せる。
「そうすれば、薄汚いあなたも、すこしはまともな生き物になれるかもよ」
「みんな、お前の汚いココには、迷惑しているんだよ」
「このナイフ、よく切れそうね」
「ひっ! ひひひひひひぃ!!」
たまたま、傾けたナイフに太陽が反射して、由加里の目を直撃した。照美は、太陽神アポロンをも、自分の味方につけたというのか。
濡れた金属製の物質は、よく光を反射する。由加里の愛液によってあたかも、手鏡のようになったナイフは、由加里をどんな光で照らすのだろうか。彼女は、あたかも正義の光によって、浄化されるような気分を味わっていた。いじめっ子たちによって、さんざん、汚い、淫乱などと罵られた少女は、自分をそのように見なすようになってしまったのだ。
「それとも、この顔を剥いでみる?!」
「ひ!・・・・・ひひぃ!!」
ナイフを顔に、示された由加里は、恐怖のあまり戦いた。そのとき、はじめて、はるかは、照美の存在を認めて肯いた。
―――照美!
「この顔が悪いのよ! 許せない! さあ、選びなさい! 死ぬか、顔の皮を自ら剥ぐか!」
「ううう・う・・う・う・う・う・う・う・う・う!!」
まるで、この病室だけ、戦国時代と化したようだ。時間から取り残されたのではなく、時代が逆行してしまったのだ。この時代錯誤をどのように見るべきか。照美は、しかし、理性を完全に失ってしまっていた。怒りのあまり、我を忘れていたのである。本当に、由加里の顔にナイフで傷を付けんばかりの形相になった。由加里は、理性を完全に失った照美の顔をはじめて見た。
――ああ、この人は、いったい、何を言っているの?
由加里は、当然のことながら、照美が何を言っているのかわからない。
――あ。
その時、由加里はひらめいた。はるかの顔が見えたとき、思いだした。
―――そうだ、鋳崎さんが、コテージで言ってた。
照美が言っていることは、そのときに、はるかが言っていたことと同じだったのである。
「い、鋳崎さん、も、海崎さんもわたしの顔に、何の怨みがあるんですか!?」
「何?」
泣きわめく由加里。照美は、彼女の言葉に手が止まった。『鋳崎』という言葉である。
この時、察しのいい照美は、すべてを理解していた。おそらく、はるかは、かつて、由加里に、同じようなことを言ったにちがいない。照美の心が揺らぐ。やはり、自分のことをこんなに思っていてくれたのかと。
しかし、それをを素直に外に出すには、あまりにプライドが高すぎた。
一方、はるかの方では、由加里が仮面の下で、それを察していることに気づいていた、ダテに、14年間も、照美と幼馴染みをやっているわけではないのだ。
互いににらみ合う。照美とはるか。
――――何なのよ! 私と関係ないところで、わけのわからないドラマをやってないでよ!
理性を完全に、粉々にされてしまったはずだった。しかし、由加里は、何処かで物事を達観する視線を得ていた。それはある意味作家のそれだった。
少女は自分でも知らないうちに、自分の未来を見据えていたのである。それは、自分の中に、自分とは違う主観があって、由加里の知らないうちに、将来を目指しているようですらあった。
そして、少女にその道程を示したのは、誰でもない、鋳崎はるかなのである。そのことは、はるか自身、気づいていなかった。彼女は、単に、精神的に由加里を痛め付けたいと思っていただけである。
バッグから零れた一冊の本が、由加里の未来を示していた。そのカバーは、大変、刺激的な内容だった。初潮も迎えてもいないと思われる少女が、縛られ、性器を露出しているイラストである。由加里の年齢の少女が、好きそうな少女漫画様式に、描かれていることがなおさら、衝撃的と言えるだろう。
それは彼女の才能を鼓舞し、稔らせようとしているかのようである。
しかし、それは、彼女が想像しえないほどの先のこと、はるかな未来のことである。
「・・・・・・・」
由加里は黙って頷く。まるで、ぬいぐるみの首が曲がったように、見える。
「今日、一日だけで、信頼されるのは無理だってわかってるよ。私たちが、由加里ちゃんにやってきたことを考えればね ――――――」
この台詞は、高田でも、照美でもなく、ゆららの独創だった。
「うん ―――――――」
由加里の表情は曇ったままだ。しかし、心の何処かで明るいきざしを感じてはいた。それを疑う気持と信じたい気持が、錯綜して、葛藤を作り出す。
「信じたい、信じたいの! だけど・・・・・・・・・・・」
少女は、何処まで行っても、自分の気持ちに素直だった。吐かれる言葉は、それを端的に表している。
「大丈夫だよ、いくらでも疑ってもいいから、ずっと、待っているからね」
これは照美が、考え出した台詞である。ゆららは、自分の背後でほくそ笑んでいる美少女を感じた。
「ウウ・ウ・・ウ・ウ・ウ!!」
呻くような、泣き声を聞くと、本当に辛くなる。ゆららは、目頭が熱くなるのを感じる。涙が込み上げてくるのを、必死に押さえながらも、自分が芝居をしていることを再認識する。
そうすると、涙腺を締め直すことができる。
自分は高田や照美たちの人形にすぎない。だから、すべての責任は彼女らにあるのだ。一体、何を思い悩むことがあろうか。
そう思いこもうとしても、やはり、何かが残る。わだかまりと単純に言っていいのか、その正体はわからないが、自分にとって不快なものであることは確かである。
それは、殺人者が、その手からいくら血を拭おうとしても、拭えないのと同じで、まるで宿痾のように、ゆららの小さな身体に、こびりつき、その心を侵食しつつあるのだ。
「じゃあ、私は帰るね。携帯の番号、書いておいたから、いつでもかけてきてよ」
「うん」
「じゃ・・・・ぅあ!!」
再度、さよならをして、ゆららは病室を後にした。
ほっとして、由加里は一息ついた。花をよく見てみようと、花瓶に手を伸ばそうとしたとき、全身が凍り付くのを感じた。二つの足音が、由加里を訪れたのである。そちらを見なくてもわかる。
「ぁ・・あ・・・・あ・・・ああ!!」
あの世の門番すら裸足で逃げそうな叫び声を、自分の内に向けて、注ぎ込んだのである。
ゆららと入れ替わりに、入ってきた人物の顔を忘れることはないだろう。
「か、海崎さん、い、い、鋳崎さん ――――」
身の内がガタガタ震える。得体の知れない薬を注射されたような気がする。照美の美貌は、地獄の季節の到来を、意味していた。
「いやねえ、冷房が効きすぎているのかしら? 病院なのにね、あら、挨拶がまだだったわね、こんにちは、西宮さん」
「ああ・・あ・あ・・あ・・あ」
由加里は、マヒしてしまった口を必死に開いて、人語を話そうと試みた。しかし、うまく舌が動いてくれない。何を甘えているのだろう。舌は随意筋肉のはずだ。自分で動かさずに、誰が動かしてくれるというのだろう。不随意筋肉を統轄する自律神経から文句が来そうだ。
由加里が目の前の人物たちから、蒙った精神的および、肉体的な苦痛と恥辱の記憶。それらは、少女の神経を、完全にマヒさせてしまったのである。
涎さえ、こぼれようとしたとき、ようやく、由加里は年齢に見合った自尊心を回復させた。
「か、海崎さん ―――――」
「こんにちは、西宮さん」
「こ、こんにちは・・・・でございます」
摩訶不思議な日本語は、少女の知性が、かなり侵食されていることを証明している。
照美は、いやらしい手つきで、持ってきた花束を弄ぶ。ネコは、痛め付けた獲物が、死にゆくのを愉しむという。ちょうど、そのように、由加里を見下ろしている。彼女は、病床に縛り付けられ、身動きすらままならないのである。
「・・・・・・・・・・・・・・」
照美は、由加里の全身を足の先から頭まで、舐めるように眺め尽くす。それが無言で行われるために、彼女が感じる恐怖は、並大抵のものではない。照美の唇と舌がぶつかる音までが、由加里には聞こえる。舌づりする音が、生々しく、犠牲者の聴覚神経を刺激する。
すると、いままで、照美にされた行為が、走馬燈のように蘇ってくるのだ。
「ぁ・あ・・・・あああ ―――」
由加里は、何とか逃げようとするが、右腕以外は、包帯で巻かれているその姿では、病床の上をただ蠢くことしかできない。いわば、滑稽とすら言えるその様子は、手負いの芋虫を思わせる。
なおも無言のまま、照美は由加里を見下ろし続ける。その視線は、熱を持っているかのように、由加里の身体を焼き尽くす。肌には、火傷の結果として、水ぶくれができるほど、見つめ続ける。視線には、熱が籠もっているのである。
「あ、・・・・あの、海崎さん ―――」
ついにしびれを切らして、由加里は自分の所有者の名前を呼んだ。
「ここでは暇なのようなだから、お土産を持ってきてあげだんだよ、感謝してほしいな」
鋳崎はるかが、持ってきたのはボストンバッグだった。中を開けると、ノートパソコンと、書籍類が姿をあらわした。
由加里が察したとおり、単なる本ではない。おそらくは、18禁という文字が入った特別な代物なのだろう。
こんなところでも、恥辱の創作活動を強要しようというのか。
「持ってきてやったよ、西宮の大好きな本をさ。あんたもエロ作家としてデビューの日も近いかもな」
はるかは、照美とは全く違う方法で、由加里を攻めてくる。
彼女の声は、ライオンの咆吼を思わせた。由加里は、両耳を覆って、凌ごうとしなければならない。
照美の冷たい炎と、はるかの熱い炎に、責め立てられて、由加里は、さながら落城寸前の姫になろうとしている。今、燃え上がらんとする城のすぐ側では、美しい姫を我がものとせんばかりに、その薄汚い性欲をたぎらせている。
しかし、由加里はあることに気づいていた。それは照美とはるかの関係である。今まで、由加里を攻め抜いていたときは、何処か様子がちがう。それは、いままで、互いを連理の翼のように信頼しきって、行動していたのに、目の前に存在する二人は、ばらばらに己の意思に従って由加里を攻めているように見える。同じ場所にいながら、別の位相から攻撃してくるようだ。
だが、城に延焼しようとする炎にA種もB種もない。それぞれが、少女にとってみれば脅威なのである。彼女を焼き尽くし、陵辱しつくす紅蓮の炎なのだ。
「西宮さん、みじめな恰好ね」
「・・・・・・・・・・・」
掛け物を引っぺがすと、大腿を閉じられない由加里がいた。
「あら、ノーパンなのね、かわいいわ」
「ああ、み、見ないで!」
照美は、由加里の顕わな恥部を発見して、微笑んだ。由加里は、羞恥のあまり顔を赤らめる。
「今更、何で、顔を真っ赤にしているのよ」
「鈴木さんが来たようだな、あんなヤツにまで、いじめられるようになったんだ、本当にウジ虫に相応しいな」
はるがの言だ。照美の発言と全く、つがいを為していない。まるで、互いが見えていない。それぞれが、勝手に由加里に対している。まるで時間差を作られ、攻撃されているような、奇妙な気分に囚われる。いったい、何があったのだろう。その理由は、由加里の知るよしではない。
「後輩にまで、いじめられるんだから、あんたテニス部でおもちゃになってるんでしょう? ―――――」
「・・・・・・・・・・?!」
照美の言葉は、由加里の爛れた傷に、直接触れた。言いようもない痛みが、湿潤する傷口に走る。
「いっそのこと、このまま寝たきりにでもなったら? どうせ、この先何処に行っても、いじめられるんだから、その方がいいんじゃない。一生、人の世話になるのが、あなたには相応しいわよ、みっともない西宮さんにはね ―――」
「ぁああぅ!」
照美は、由加里に肉体的な責め苦をも与えはじめた。手近にあった果物ナイフで、少女の股間を弄びはじめたのである。もちろん、刃物とは逆の部分を使ってのことだ。しかし、彼女の心を突き刺し、傷口をえぐることはできる。そこからは、果てしなく、見えない血が、また流れはじめている。
「ぅひぃ!」
「あら、ココが悦んでいるわよ。久しぶりに、弄ってもらえて、本当に嬉しそうだわ、待ち遠しかったのね?! ごめんなさいね、お待たせして!」
「ぅうううう! そ、そんなこと・・・ウ・ウ・・ウ・・ウ! あ、ありません・・・・ウ・・ウ・ウ・・ウ・・・・!!」
本来、平和の象徴であるはずの病院に、こんな世界ができあがっている。それは、学校も同じ事であろうが、病院という、人間を癒すはずの空間に、こんな拷問部屋が現出しているのである。まさに笑止というほかはない。
由加里は、氷の冷たさを、性器で感じた。それは、黄色い涙をもたらすほどの狂気に満ちていた。
ナイフは、由加里の性器に侵入していく。ずぶずぶと小陰脚や陰核を陵辱する。刺激された陰部としては、持ち主の意思とは別の生き物のように、呼吸をはじめ、その意思を表明する。すなわち、興奮し、涎を垂れ流す。
「相変わらず、我慢のできないアソコねえ? それにスゴイ臭いよ、看護婦さんも大変ねえ、あなたの世話なんて、あははっ!」
「ぁあああ・・・ア・・・・ウウ・・・ウ・ウ・・・うう! やめて! アア・・・ア・ア・ああ、やめてください!」
「ねえ、こんな汚いものは、全部剥いじゃおうか?」
「え?」
照美が真顔になった。由加里は、それだけで、全身の毛が抜けるような風圧を受ける。驚愕の表情を、可愛らしい顔に浮かべた。照美は、それだけでなく、ナイフを由加里の性器立てるマネをしたのである。いかにも、そこに突き刺してしまいそうな勢いだ。いや、既にそうしてしまったかのような錯覚に囚われた。事実、由加里は、陰部に強い痛みを感じた。
「あーあ!?」
「西宮は、日本語をしゃべれないのか? いやしくもエロ作家を目指そうって女が!?」
はるかが嘴を突き刺した。勝手に決めつけるその話しようは、なんだろう。まるで、由加里の鼻に刃物を突き刺してくるようだ。由加里なら、日本刀で斬ってくる残酷さだが、はるかのそれは、西洋の剣なのである。知っておられようか、日本刀が弧を描いて、斬るのに、比べて、西洋の諸刃の剣は、突き刺すのである。話しがそれた。
閑話休題。
照美は、なおも自分の美しい舌に、残酷な言葉を乗せる。
「そうすれば、薄汚いあなたも、すこしはまともな生き物になれるかもよ」
「みんな、お前の汚いココには、迷惑しているんだよ」
「このナイフ、よく切れそうね」
「ひっ! ひひひひひひぃ!!」
たまたま、傾けたナイフに太陽が反射して、由加里の目を直撃した。照美は、太陽神アポロンをも、自分の味方につけたというのか。
濡れた金属製の物質は、よく光を反射する。由加里の愛液によってあたかも、手鏡のようになったナイフは、由加里をどんな光で照らすのだろうか。彼女は、あたかも正義の光によって、浄化されるような気分を味わっていた。いじめっ子たちによって、さんざん、汚い、淫乱などと罵られた少女は、自分をそのように見なすようになってしまったのだ。
「それとも、この顔を剥いでみる?!」
「ひ!・・・・・ひひぃ!!」
ナイフを顔に、示された由加里は、恐怖のあまり戦いた。そのとき、はじめて、はるかは、照美の存在を認めて肯いた。
―――照美!
「この顔が悪いのよ! 許せない! さあ、選びなさい! 死ぬか、顔の皮を自ら剥ぐか!」
「ううう・う・・う・う・う・う・う・う・う・う!!」
まるで、この病室だけ、戦国時代と化したようだ。時間から取り残されたのではなく、時代が逆行してしまったのだ。この時代錯誤をどのように見るべきか。照美は、しかし、理性を完全に失ってしまっていた。怒りのあまり、我を忘れていたのである。本当に、由加里の顔にナイフで傷を付けんばかりの形相になった。由加里は、理性を完全に失った照美の顔をはじめて見た。
――ああ、この人は、いったい、何を言っているの?
由加里は、当然のことながら、照美が何を言っているのかわからない。
――あ。
その時、由加里はひらめいた。はるかの顔が見えたとき、思いだした。
―――そうだ、鋳崎さんが、コテージで言ってた。
照美が言っていることは、そのときに、はるかが言っていたことと同じだったのである。
「い、鋳崎さん、も、海崎さんもわたしの顔に、何の怨みがあるんですか!?」
「何?」
泣きわめく由加里。照美は、彼女の言葉に手が止まった。『鋳崎』という言葉である。
この時、察しのいい照美は、すべてを理解していた。おそらく、はるかは、かつて、由加里に、同じようなことを言ったにちがいない。照美の心が揺らぐ。やはり、自分のことをこんなに思っていてくれたのかと。
しかし、それをを素直に外に出すには、あまりにプライドが高すぎた。
一方、はるかの方では、由加里が仮面の下で、それを察していることに気づいていた、ダテに、14年間も、照美と幼馴染みをやっているわけではないのだ。
互いににらみ合う。照美とはるか。
――――何なのよ! 私と関係ないところで、わけのわからないドラマをやってないでよ!
理性を完全に、粉々にされてしまったはずだった。しかし、由加里は、何処かで物事を達観する視線を得ていた。それはある意味作家のそれだった。
少女は自分でも知らないうちに、自分の未来を見据えていたのである。それは、自分の中に、自分とは違う主観があって、由加里の知らないうちに、将来を目指しているようですらあった。
そして、少女にその道程を示したのは、誰でもない、鋳崎はるかなのである。そのことは、はるか自身、気づいていなかった。彼女は、単に、精神的に由加里を痛め付けたいと思っていただけである。
バッグから零れた一冊の本が、由加里の未来を示していた。そのカバーは、大変、刺激的な内容だった。初潮も迎えてもいないと思われる少女が、縛られ、性器を露出しているイラストである。由加里の年齢の少女が、好きそうな少女漫画様式に、描かれていることがなおさら、衝撃的と言えるだろう。
それは彼女の才能を鼓舞し、稔らせようとしているかのようである。
しかし、それは、彼女が想像しえないほどの先のこと、はるかな未来のことである。
その花は、赤いスイトピー。アイドル全盛時代に、かつて、そのような歌を歌った歌手がいたはずだ。しかし、その歌手の名前が思い出せない。何というアイドルが歌っていたのだろう。
由加里は、この花を見せられたとき、一抹の不安がよぎるのを感じた。
花びらをじっと見てみる。いったい、何に似ているだろうか。
赤い血の塊が浮遊している。
まるでその外観は赤血球そっくりだ。それも、重症の貧血患者のそれのように、いびつな姿は、由加里そのものを暗示しているようだ。
中学二年生。
普通の女の子なら、一番幸せな時のはずだ。たくさんの友人とともに、青春を謳歌しているはずである。にこやかに笑うその口は、いつでも外界に開かれ、吐く息からは、鈴のように可愛らしい鳥の声が聞こえ、少女たちが、通う道端には、春でなくても桜が咲くものだ。
しかし、由加里は、クラス中の鼻つまみ者になって、いじめられている。吐く息すら、みんなに白い目で見られて、罵られる原因となる。ひどいときには、情け容赦ない暴力の標的となる。
彼女がいくところ、トイレから休憩室まで、みんなの軽蔑と憎しみの視線が待ち受けている。
少女は、この学校であたかも犯罪者のような扱いを受けているのだ。
彼女がいくところ、いばらのあだ花しか咲かない。
由加里は、考えに考えた挙げ句、その理由を外にではなく、内に求めた。
いじめっ子たちと一緒になって、自分自身を責めることにしたのだ。そこに悲しい心の平和を求めた。
由加里は、人間として一番大切なものが欠如している。それはかつて、体育教師に指摘されたことだ。教師は、由加里が嫌われる原因が本人にあると言ったのだ。
きまじめな由加里は、それを真に受けたわけではないが、正しいと感じた。
自分はいじめられて当然なんだ。みんなが正しい。自分はこんなにみっともないのに、このクラスにいさせてもらえるだけ、恵まれているのだ。みんなに感謝しなければならない。
謝罪しなければならない。
しかし、由加里がそうしなれば、ならない相手は、クラスメートだけではなかった。
いじめられているという事実。
その境遇は、彼女の家族の表情を曇らせている。自分は、家族を楽しませなければならないのに、それができない。かつては、由加里がいるだけで、楽しく笑っていた。しかし、今は、腫れ物を扱うように扱う。家の中は、すべてのものが、まるで霞みがかかったように、ぼやけて見える。
その理由は、自分が欠陥商品だからだ。
由加里は、いつしか自分を責め始めていた。この花はいやでも、自分の身の上を彷彿とさせる。
もうひとつ、付け加えると、スイトピーという花は本来、6月が旬だ。夏休み目前というこの時に、咲いている花ではない。
季節はずれとも言える、スイトピーの開花は、由加里にとってどういう意味があるのだろうか。
今、由加里は、その花が揺れているのを見ていた。いや、揺れているのは、少女の心の方だったのかもしれない。その赤い花に、アクセサリーのように、填められた水晶。それは水滴だった。
きっと、ゆららが水をかけたのだろう。しかしながら、その意図はよくわからない。はたして、由加里のことを思ってやっているのか、何らかの理由があって、由加里の歓心を買おうとでもいうのだろうか。それなら、背後に高田と金江のどす黒いものを感じずにはいられない。
そもそも、生かされることがいいとは限らない。
世間には、生かして殺すという言葉があったはずだ。
何も生かしておくことが、彼女にとって幸せとは限らないということだ。
ゆららは、自分の味方か、否か?
由加里は、幼児のようにだらしなく、口を開けて、込み上げてくる官能をひっしに、耐えている。可南子が、動かす指は、由加里を耐えず責め続けるのだ。
その様子から、少女に理性的な思考を要求するのは無理というものだろう。
そんなものは、度重なるいじめによって、失われてしまったのだ。赤い花の、奥深く隠れている花弁には、高い知性が隠されているにもかかわらず、その思考能力は、著しく限定されている。
「西宮さん、この花の名前、知ってる?」
「な、何だっけ?」
由加里は震える声で、答えた。少女の華奢な肢体は、まだ可南子の膝に乗せられている。いわば、その生殺与奪を握られていると言っていい。
「私んち、花屋だから、花の名前だけには詳しいんだ。他には何にもできないけどね」
ゆららは、自嘲ぎみに笑っている。
由加里は、そんなゆららを見ていると、ひどく気の毒になってくる。いつしか、股間を執拗に襲ううずきに、耐えながらも、ゆららを気遣っていた。
―――自分のことをそんな言い方でしか、表現できないなんて・・・・・・・。
自分の躰に、刻まれた無数の傷を忘れて、ゆららをおもっているのだ。彼女のそういう側面を偽善と取る人は多い。高田などはその典型だろう。きっと、彼女の無意識レベルの何かを刺激するにちがいない。
「あら、何? もっと拭いて欲しいの?」
「そんな・・・・」
ゆららがいるせいか、その日は、責めを途中でやめていった。いつもなら、性器の襞の隅々まで、拭ったあげく、その濡れた指を、自分の鼻に近づけてて臭いを嗅いでみせる。そのくらいのことは、普通にしていく。
今回は、それが叶わなかったので、嫌みの一つでも残していたい気持になったのだろう。
「ねえ、あの看護婦さん、似鳥さんのお母さんでしょう? 何か普通じゃないよね」
「うん ・・・・・」
ゆららも、直感的に見抜いていたのだろう。母娘だから当然かもしれないが、かなんと可南子はよく似ている。ジャガイモを思わせる容姿は、もちろんのこと、その内部から漂う生理を思わせるイメージは、そっくりである。レズ行為を趣味とする女性は、何処か似通っているのだろうか? 母娘としての遺伝なのか、由加里は判別できなかった。
他にレズ趣味を持った女性を知らないのだから、比較できようはずがない。
この会話が、由加里のわだかまりを多少なりとも、解消したことは事実である。彼女は、自分の性器が潤んでいるのも忘れて、ゆららに近づこうとした。それは自ずから、彼女が求めたものであり、当然のことだった。
一方、ゆららにしてみれば、期せずして、クモの糸に獲物が掛かったと思ったことだろう。高田や金江に脅迫されて、命令に従ったものの、心の何処かでは、自分の恥辱を分かってくれた由加里に、同情しはじめていたである。それは、芝居が真実になった瞬間だった。
しかし、それを表に出すわけにはいかない。それは自然と自滅を意味するのである。それは譲れないことだった。もしも、そこまで見透かして、ゆららに白羽の矢を立てたのなら、高田の悪魔ぶりも度を超したといえるが、それは事実ではないだろう。高田がそれほどの知性が持ち合わせているとは思えないのである。
「鈴木さん、ありがとう ・・・・」
由加里は、まるで死線をくぐり抜けた傷兵のように、うなだれた。二人は、ことばを互いに、そうめんを細い箸ですくうように、拾い上げようとする。何とか、共通点はないだろうか? 共感できる言葉はないだろうかと。その手繰り合いが、何かを生み出すのかもしれない。
「西宮さん ・・・・・・」
「・・・・・・・・」
由加里は、ゆららの顔があまりに眩しくて視線を反らした。久しく、そのような視線をもらった記憶がない。とてつもなく懐かしいけれど、今、自分がもらう資格があるようには思えない。自分は、淫乱で、変質者で、人間として一番大切な部分が欠落している。だから、クラスの誰にも好かれるわけはないし、顧みられることもない。良いところ、唾を吐いてもらえるだけ、感謝しないといけない。
クラスメートに言われたことが、脳裏に映る。
「わ、私、悪いけど、す、鈴木さんが信じられない! だって、私みたいなのを相手にする人がいるとは思えないもん ―――――」
由加里は、両手で顔を覆うと、泣き声を立て始めた。それは、とてつもなく控えめで、自己主張が少ないように思えた。
――――ここだ、ここだよ、ここで言いなさい。
今度、聞こえてきたのは、照美の声だった。彼女の美貌が、備えつけのテレビに映っていた。
ゆららは決心した。
「西宮さん、私のこと、ゆららって呼んで、私は西宮さんのこと、由加里ちゃんって呼んでいいかな?」
由加里が気が付くと、彼女の両手を握りしめて、顔を見上げる炎が見えた。それはとても小さく、控え目だったが、確かな温度は、由加里の凍り付いた心を、融かしはじめていた。
―――鈴木さん!
由加里の小さな口が、かすかに動いたために、ゆららにはそう見えた。
「だめ、ゆららって呼んで」
その積極的な態度は、本来の彼女を知っている人間とすれば、想像できない姿だろう。
「ゆららちゃん!」
「由加里ちゃん」
由加里は、後ろめたくて、握られている手が燃えそう思えた。それほどに、ゆららの手が熱いのだ。
「わ、私、すず・・・・ゆ、ゆららちゃんを友だちって呼んでいいの?」
その語尾は、消え入りそうなほど微弱だった。しかし、ゆららはそれをしっかり受け止めていた ―――いや、いてくれていると、由加里は思いたかった。だから期待を込めて、甘えてみた。まるで往来の乞食が、貴族の従者に、コインの一枚でもねだるように。
「ウウ・・ウ・・ウ・ウ・ウウウ・・うう!」
由加里は、ゆららに抱きしめながら、泣いた。その悲しみは、ただ一点に凝縮されているだけに、強力であり、受け止めるには相当の揚力を必要とした。ゆららは、自分の躰が破裂しそうな痛みに襲われた。それは、由加里がどんな目にあってきたのか、その目で、躰で知っているからだろう。ゆららは、教室外での出来事も知っている。テニス部で、衆人環視のまま、恥ずかしい恰好で、テニスを強制されていた。
ちなみに、その日、由加里をいじめる役を担っていたのは、一年生だった。
6人対1人というむちゃくちゃな条件で、打ち合いの練習に引きだされていた。情け容赦なく、打ち込まれるテニスボール。6人がほぼ同時にサービスを打つのだ。由加里の華奢な身体は、またたくまに、めった打ちに合っていた。
しかも、由加里が着せられているテニスウェアは、とても中学生が着るようなサイズではなかった。臍は丸出し。下着が丸見えというハレンチな姿で、衆人環視のまま、ぶざまな曲芸を晒していたのである。ゆららは、クラスメートたちと一緒に、それを見ていた。彼女たちの手前、表向きは笑っていたが、心の中はまさに悲惨の一言だった。
―――心を鬼にしないと!
しかし、ゆららは密かに決心していた。自分のこころが、情に流されないようにと、必死に歯を食いしばっていた。少しでも油断したならば、舵を持って行かれそうになる。ゆららが戦っていたのは、峻厳な岩をも削る急流だった。水しぶきは、宙を舞い、波打ち際をはるかに超える霧を生み出す。
空は真っ黒で、豪雨が降り注いでくる。その上、風も激しい。一瞬でも、力を抜いたら、全身がばらばらになってしまいそうだ。
一方、由加里は、完全にゆららを信じ始めていた。その背後に高田と照美がいて、蜘蛛の巣を用意しているとは、露ほどにも知らず、友情が育ちはじめていると、勝手に思っていた。
―――――だめ! 信じちゃだめ! いつも簡単に信じて、裏切られてきたんだもん。
このとき、由加里はミチルと貴子を思い出していた。何故、こんなときに、二人の顔が浮かんでくるのかわからなかった。二人に裏切られたことはない。いつも倒れそうな由加里を必死に支えてくれていた。
裏切ったとすれば、由加里のほうだ。我慢できずに自殺しようとしてしまった。あの時のミチルのあきれ顔はけっして、忘れられない。忘れないはずだったのに、由加里は、また同じことをしてしまった。
あの事件いらい、二人とは、まだ連絡を取っていない。その結果がもたらす恐ろしさに、耳を塞いでいるのだ。また裏切ってしまったという意識が拭えない。次ぎはもうないのではないか。由加里は、ゆららに抱かれながら、無数の流れを感じていた。まさに、疑心暗鬼という言葉が脳裏に刻み込まれている。それを見ろと、無意識が命令するのだ。
この時、由加里は過去に彷徨っていた。
テニスコート。由加里がかつて、あこがれ、失望し、絶望し、幾多の血を流した因縁の地である。
「西宮さん、今日は久しぶりに練習させてもらえるわよ」
意味ありげに、高田が笑う。
「荒木さん、伊藤さん、用意して、いやだろうけど、これの相手してやってよ。これも、一応、うちの部員だからさ」
金江が続いた。彼女の言葉には、あきらかに毒がついて回る。
「はい、高田先輩、西宮先輩、よろしくね」
荒木と伊藤をはじめとする一年生は、うなだれる由加里の顔を伺う。その視線は、由加里を観察するようであり、値踏みするようにも見えた。自分をせせら笑うその表情に、由加里は怯えた。
「はい・・・・ありがとうございます」
まるで蚊の鳴くような声が、由加里から聞こえる。それは彼女の口から聞こえるのではなく、あたかも、彼女の胎内に音声機械が組み込まれていて、それが作動しているようだった。
高田は、テニスコートの一方に、由加里を立たせると、もう一方に、荒木や伊藤をはじめとする1年生を6人配置した。そして、高田の合図で、一斉に、由加里目掛けて、サービスが打たれはじめた。後輩の手から、ボールが投げられ、落ちてくる。それ目掛けて、腕を上げるあのポーズは、由加里にとってどのように見えただろうか。その中には、由加里が懇切丁寧に、教えた子もいた。
「ありがとうございます!、西宮先輩!」
1年生らしい、初々しい声は、いまでも由加里の耳に木霊している。それほど運動神経がよくないために、なかなか試合には出してもらえなかった。しかし、そのテニスに対する真摯な態度は、自然に、彼女に基本的な技術の習熟をもたらした。
その姿は、先輩たちも、顧問の教師も、認めていて、由加里の指導は、一定の評価を得ていた。もちろん、1年生はみんな由加里を慕っていた。
そのために、由加里はたとえ、試合には出して貰えなくても、腐ったりはしなかった。
上には愛され、下からは慕われる。まさに理想的な部活ライフを過ごしていたのである、それが。
由加里に、6人は次々とサービスをぶつけてくる。まるで銃弾のようだ。あの場所はさながら、少女にとって戦場だった。しかも、四面楚歌の、味方が誰もいない死線である。いや、一方的な虐殺とさえ言えるかもしれない。この場合は、命の危険はないかもしれないが、いじめという心が殺されるまさに、ジェノサイドだ。
その一球、一球は、由加里の身体を切り裂き、心を血まみれのザクロにしてしまう。当然、一球とて、返せるわけはない。すると、情け容赦ない罵詈雑言が投げつけられる。
「西宮さん、何しているのよ! あんたなんかを相手にしてもらっているのよ! 何よ、その態度は!?」
手持ちのボールがすべて無くなるまで、この行為は続く。しかも、このいじめの目的は、由加里を肉体的に痛め付けるだけではない。
テニス部の練習に、部外者が見物しにくるようになったのは、ごく、最近のことである。
「あははは! あいつ露出狂かよ! よくもあんな恥ずかしい恰好で、部活が出来るよな」
「いやだわ! 知ってる? あの人、2年3組の変態って有名らしいよ、裸で夜の街を彷徨っているって」
「え?嘘! あははは、でも、あの変態ぶりならありえそうね、見てよ、あの恰好!」
「いやあああ!!」
部外者の、それも男子にまで、恥ずかしいところを見られてしまう。
由加里は、下着丸見えの下半身を手で隠そうとする。しかし、動きが止まったところで、サービスが集中することになった。そのとき、6個のボールが一斉に、由加里に当たった。
「ムギ!」
まるで小動物の断末魔に似ていた。それは人間の声のように聞こえなかった。
由加里は、テニスコートに転がっていた。まるでボロぞうきんのように、全身に穴が穿たれていた。
由加里は、倒れる寸前、ある少女の笑顔が視界に入るのを見た。それは鈴木ゆららだった。
二人が思い出していたのは、奇しくも同じ体験だったのである。
由加里は、この花を見せられたとき、一抹の不安がよぎるのを感じた。
花びらをじっと見てみる。いったい、何に似ているだろうか。
赤い血の塊が浮遊している。
まるでその外観は赤血球そっくりだ。それも、重症の貧血患者のそれのように、いびつな姿は、由加里そのものを暗示しているようだ。
中学二年生。
普通の女の子なら、一番幸せな時のはずだ。たくさんの友人とともに、青春を謳歌しているはずである。にこやかに笑うその口は、いつでも外界に開かれ、吐く息からは、鈴のように可愛らしい鳥の声が聞こえ、少女たちが、通う道端には、春でなくても桜が咲くものだ。
しかし、由加里は、クラス中の鼻つまみ者になって、いじめられている。吐く息すら、みんなに白い目で見られて、罵られる原因となる。ひどいときには、情け容赦ない暴力の標的となる。
彼女がいくところ、トイレから休憩室まで、みんなの軽蔑と憎しみの視線が待ち受けている。
少女は、この学校であたかも犯罪者のような扱いを受けているのだ。
彼女がいくところ、いばらのあだ花しか咲かない。
由加里は、考えに考えた挙げ句、その理由を外にではなく、内に求めた。
いじめっ子たちと一緒になって、自分自身を責めることにしたのだ。そこに悲しい心の平和を求めた。
由加里は、人間として一番大切なものが欠如している。それはかつて、体育教師に指摘されたことだ。教師は、由加里が嫌われる原因が本人にあると言ったのだ。
きまじめな由加里は、それを真に受けたわけではないが、正しいと感じた。
自分はいじめられて当然なんだ。みんなが正しい。自分はこんなにみっともないのに、このクラスにいさせてもらえるだけ、恵まれているのだ。みんなに感謝しなければならない。
謝罪しなければならない。
しかし、由加里がそうしなれば、ならない相手は、クラスメートだけではなかった。
いじめられているという事実。
その境遇は、彼女の家族の表情を曇らせている。自分は、家族を楽しませなければならないのに、それができない。かつては、由加里がいるだけで、楽しく笑っていた。しかし、今は、腫れ物を扱うように扱う。家の中は、すべてのものが、まるで霞みがかかったように、ぼやけて見える。
その理由は、自分が欠陥商品だからだ。
由加里は、いつしか自分を責め始めていた。この花はいやでも、自分の身の上を彷彿とさせる。
もうひとつ、付け加えると、スイトピーという花は本来、6月が旬だ。夏休み目前というこの時に、咲いている花ではない。
季節はずれとも言える、スイトピーの開花は、由加里にとってどういう意味があるのだろうか。
今、由加里は、その花が揺れているのを見ていた。いや、揺れているのは、少女の心の方だったのかもしれない。その赤い花に、アクセサリーのように、填められた水晶。それは水滴だった。
きっと、ゆららが水をかけたのだろう。しかしながら、その意図はよくわからない。はたして、由加里のことを思ってやっているのか、何らかの理由があって、由加里の歓心を買おうとでもいうのだろうか。それなら、背後に高田と金江のどす黒いものを感じずにはいられない。
そもそも、生かされることがいいとは限らない。
世間には、生かして殺すという言葉があったはずだ。
何も生かしておくことが、彼女にとって幸せとは限らないということだ。
ゆららは、自分の味方か、否か?
由加里は、幼児のようにだらしなく、口を開けて、込み上げてくる官能をひっしに、耐えている。可南子が、動かす指は、由加里を耐えず責め続けるのだ。
その様子から、少女に理性的な思考を要求するのは無理というものだろう。
そんなものは、度重なるいじめによって、失われてしまったのだ。赤い花の、奥深く隠れている花弁には、高い知性が隠されているにもかかわらず、その思考能力は、著しく限定されている。
「西宮さん、この花の名前、知ってる?」
「な、何だっけ?」
由加里は震える声で、答えた。少女の華奢な肢体は、まだ可南子の膝に乗せられている。いわば、その生殺与奪を握られていると言っていい。
「私んち、花屋だから、花の名前だけには詳しいんだ。他には何にもできないけどね」
ゆららは、自嘲ぎみに笑っている。
由加里は、そんなゆららを見ていると、ひどく気の毒になってくる。いつしか、股間を執拗に襲ううずきに、耐えながらも、ゆららを気遣っていた。
―――自分のことをそんな言い方でしか、表現できないなんて・・・・・・・。
自分の躰に、刻まれた無数の傷を忘れて、ゆららをおもっているのだ。彼女のそういう側面を偽善と取る人は多い。高田などはその典型だろう。きっと、彼女の無意識レベルの何かを刺激するにちがいない。
「あら、何? もっと拭いて欲しいの?」
「そんな・・・・」
ゆららがいるせいか、その日は、責めを途中でやめていった。いつもなら、性器の襞の隅々まで、拭ったあげく、その濡れた指を、自分の鼻に近づけてて臭いを嗅いでみせる。そのくらいのことは、普通にしていく。
今回は、それが叶わなかったので、嫌みの一つでも残していたい気持になったのだろう。
「ねえ、あの看護婦さん、似鳥さんのお母さんでしょう? 何か普通じゃないよね」
「うん ・・・・・」
ゆららも、直感的に見抜いていたのだろう。母娘だから当然かもしれないが、かなんと可南子はよく似ている。ジャガイモを思わせる容姿は、もちろんのこと、その内部から漂う生理を思わせるイメージは、そっくりである。レズ行為を趣味とする女性は、何処か似通っているのだろうか? 母娘としての遺伝なのか、由加里は判別できなかった。
他にレズ趣味を持った女性を知らないのだから、比較できようはずがない。
この会話が、由加里のわだかまりを多少なりとも、解消したことは事実である。彼女は、自分の性器が潤んでいるのも忘れて、ゆららに近づこうとした。それは自ずから、彼女が求めたものであり、当然のことだった。
一方、ゆららにしてみれば、期せずして、クモの糸に獲物が掛かったと思ったことだろう。高田や金江に脅迫されて、命令に従ったものの、心の何処かでは、自分の恥辱を分かってくれた由加里に、同情しはじめていたである。それは、芝居が真実になった瞬間だった。
しかし、それを表に出すわけにはいかない。それは自然と自滅を意味するのである。それは譲れないことだった。もしも、そこまで見透かして、ゆららに白羽の矢を立てたのなら、高田の悪魔ぶりも度を超したといえるが、それは事実ではないだろう。高田がそれほどの知性が持ち合わせているとは思えないのである。
「鈴木さん、ありがとう ・・・・」
由加里は、まるで死線をくぐり抜けた傷兵のように、うなだれた。二人は、ことばを互いに、そうめんを細い箸ですくうように、拾い上げようとする。何とか、共通点はないだろうか? 共感できる言葉はないだろうかと。その手繰り合いが、何かを生み出すのかもしれない。
「西宮さん ・・・・・・」
「・・・・・・・・」
由加里は、ゆららの顔があまりに眩しくて視線を反らした。久しく、そのような視線をもらった記憶がない。とてつもなく懐かしいけれど、今、自分がもらう資格があるようには思えない。自分は、淫乱で、変質者で、人間として一番大切な部分が欠落している。だから、クラスの誰にも好かれるわけはないし、顧みられることもない。良いところ、唾を吐いてもらえるだけ、感謝しないといけない。
クラスメートに言われたことが、脳裏に映る。
「わ、私、悪いけど、す、鈴木さんが信じられない! だって、私みたいなのを相手にする人がいるとは思えないもん ―――――」
由加里は、両手で顔を覆うと、泣き声を立て始めた。それは、とてつもなく控えめで、自己主張が少ないように思えた。
――――ここだ、ここだよ、ここで言いなさい。
今度、聞こえてきたのは、照美の声だった。彼女の美貌が、備えつけのテレビに映っていた。
ゆららは決心した。
「西宮さん、私のこと、ゆららって呼んで、私は西宮さんのこと、由加里ちゃんって呼んでいいかな?」
由加里が気が付くと、彼女の両手を握りしめて、顔を見上げる炎が見えた。それはとても小さく、控え目だったが、確かな温度は、由加里の凍り付いた心を、融かしはじめていた。
―――鈴木さん!
由加里の小さな口が、かすかに動いたために、ゆららにはそう見えた。
「だめ、ゆららって呼んで」
その積極的な態度は、本来の彼女を知っている人間とすれば、想像できない姿だろう。
「ゆららちゃん!」
「由加里ちゃん」
由加里は、後ろめたくて、握られている手が燃えそう思えた。それほどに、ゆららの手が熱いのだ。
「わ、私、すず・・・・ゆ、ゆららちゃんを友だちって呼んでいいの?」
その語尾は、消え入りそうなほど微弱だった。しかし、ゆららはそれをしっかり受け止めていた ―――いや、いてくれていると、由加里は思いたかった。だから期待を込めて、甘えてみた。まるで往来の乞食が、貴族の従者に、コインの一枚でもねだるように。
「ウウ・・ウ・・ウ・ウ・ウウウ・・うう!」
由加里は、ゆららに抱きしめながら、泣いた。その悲しみは、ただ一点に凝縮されているだけに、強力であり、受け止めるには相当の揚力を必要とした。ゆららは、自分の躰が破裂しそうな痛みに襲われた。それは、由加里がどんな目にあってきたのか、その目で、躰で知っているからだろう。ゆららは、教室外での出来事も知っている。テニス部で、衆人環視のまま、恥ずかしい恰好で、テニスを強制されていた。
ちなみに、その日、由加里をいじめる役を担っていたのは、一年生だった。
6人対1人というむちゃくちゃな条件で、打ち合いの練習に引きだされていた。情け容赦なく、打ち込まれるテニスボール。6人がほぼ同時にサービスを打つのだ。由加里の華奢な身体は、またたくまに、めった打ちに合っていた。
しかも、由加里が着せられているテニスウェアは、とても中学生が着るようなサイズではなかった。臍は丸出し。下着が丸見えというハレンチな姿で、衆人環視のまま、ぶざまな曲芸を晒していたのである。ゆららは、クラスメートたちと一緒に、それを見ていた。彼女たちの手前、表向きは笑っていたが、心の中はまさに悲惨の一言だった。
―――心を鬼にしないと!
しかし、ゆららは密かに決心していた。自分のこころが、情に流されないようにと、必死に歯を食いしばっていた。少しでも油断したならば、舵を持って行かれそうになる。ゆららが戦っていたのは、峻厳な岩をも削る急流だった。水しぶきは、宙を舞い、波打ち際をはるかに超える霧を生み出す。
空は真っ黒で、豪雨が降り注いでくる。その上、風も激しい。一瞬でも、力を抜いたら、全身がばらばらになってしまいそうだ。
一方、由加里は、完全にゆららを信じ始めていた。その背後に高田と照美がいて、蜘蛛の巣を用意しているとは、露ほどにも知らず、友情が育ちはじめていると、勝手に思っていた。
―――――だめ! 信じちゃだめ! いつも簡単に信じて、裏切られてきたんだもん。
このとき、由加里はミチルと貴子を思い出していた。何故、こんなときに、二人の顔が浮かんでくるのかわからなかった。二人に裏切られたことはない。いつも倒れそうな由加里を必死に支えてくれていた。
裏切ったとすれば、由加里のほうだ。我慢できずに自殺しようとしてしまった。あの時のミチルのあきれ顔はけっして、忘れられない。忘れないはずだったのに、由加里は、また同じことをしてしまった。
あの事件いらい、二人とは、まだ連絡を取っていない。その結果がもたらす恐ろしさに、耳を塞いでいるのだ。また裏切ってしまったという意識が拭えない。次ぎはもうないのではないか。由加里は、ゆららに抱かれながら、無数の流れを感じていた。まさに、疑心暗鬼という言葉が脳裏に刻み込まれている。それを見ろと、無意識が命令するのだ。
この時、由加里は過去に彷徨っていた。
テニスコート。由加里がかつて、あこがれ、失望し、絶望し、幾多の血を流した因縁の地である。
「西宮さん、今日は久しぶりに練習させてもらえるわよ」
意味ありげに、高田が笑う。
「荒木さん、伊藤さん、用意して、いやだろうけど、これの相手してやってよ。これも、一応、うちの部員だからさ」
金江が続いた。彼女の言葉には、あきらかに毒がついて回る。
「はい、高田先輩、西宮先輩、よろしくね」
荒木と伊藤をはじめとする一年生は、うなだれる由加里の顔を伺う。その視線は、由加里を観察するようであり、値踏みするようにも見えた。自分をせせら笑うその表情に、由加里は怯えた。
「はい・・・・ありがとうございます」
まるで蚊の鳴くような声が、由加里から聞こえる。それは彼女の口から聞こえるのではなく、あたかも、彼女の胎内に音声機械が組み込まれていて、それが作動しているようだった。
高田は、テニスコートの一方に、由加里を立たせると、もう一方に、荒木や伊藤をはじめとする1年生を6人配置した。そして、高田の合図で、一斉に、由加里目掛けて、サービスが打たれはじめた。後輩の手から、ボールが投げられ、落ちてくる。それ目掛けて、腕を上げるあのポーズは、由加里にとってどのように見えただろうか。その中には、由加里が懇切丁寧に、教えた子もいた。
「ありがとうございます!、西宮先輩!」
1年生らしい、初々しい声は、いまでも由加里の耳に木霊している。それほど運動神経がよくないために、なかなか試合には出してもらえなかった。しかし、そのテニスに対する真摯な態度は、自然に、彼女に基本的な技術の習熟をもたらした。
その姿は、先輩たちも、顧問の教師も、認めていて、由加里の指導は、一定の評価を得ていた。もちろん、1年生はみんな由加里を慕っていた。
そのために、由加里はたとえ、試合には出して貰えなくても、腐ったりはしなかった。
上には愛され、下からは慕われる。まさに理想的な部活ライフを過ごしていたのである、それが。
由加里に、6人は次々とサービスをぶつけてくる。まるで銃弾のようだ。あの場所はさながら、少女にとって戦場だった。しかも、四面楚歌の、味方が誰もいない死線である。いや、一方的な虐殺とさえ言えるかもしれない。この場合は、命の危険はないかもしれないが、いじめという心が殺されるまさに、ジェノサイドだ。
その一球、一球は、由加里の身体を切り裂き、心を血まみれのザクロにしてしまう。当然、一球とて、返せるわけはない。すると、情け容赦ない罵詈雑言が投げつけられる。
「西宮さん、何しているのよ! あんたなんかを相手にしてもらっているのよ! 何よ、その態度は!?」
手持ちのボールがすべて無くなるまで、この行為は続く。しかも、このいじめの目的は、由加里を肉体的に痛め付けるだけではない。
テニス部の練習に、部外者が見物しにくるようになったのは、ごく、最近のことである。
「あははは! あいつ露出狂かよ! よくもあんな恥ずかしい恰好で、部活が出来るよな」
「いやだわ! 知ってる? あの人、2年3組の変態って有名らしいよ、裸で夜の街を彷徨っているって」
「え?嘘! あははは、でも、あの変態ぶりならありえそうね、見てよ、あの恰好!」
「いやあああ!!」
部外者の、それも男子にまで、恥ずかしいところを見られてしまう。
由加里は、下着丸見えの下半身を手で隠そうとする。しかし、動きが止まったところで、サービスが集中することになった。そのとき、6個のボールが一斉に、由加里に当たった。
「ムギ!」
まるで小動物の断末魔に似ていた。それは人間の声のように聞こえなかった。
由加里は、テニスコートに転がっていた。まるでボロぞうきんのように、全身に穴が穿たれていた。
由加里は、倒れる寸前、ある少女の笑顔が視界に入るのを見た。それは鈴木ゆららだった。
二人が思い出していたのは、奇しくも同じ体験だったのである。
「そうだ、家政婦、忘れ物、あんたの夕御飯よ!」
「茉莉!」
残照を切り裂くような声とともに、あおいの頬に飛んできたものは、500円硬貨だった。榊家の浴室は広大で、目標までかなり距離があるにもかかわらず、それは、的を誤らなかった。あおいの眉間に当たって、タイルの床に転がった。
犠牲者の目には、それが螺旋に回転しながら、堕ちる様が、まるで、自分の運命を暗示しているように見えたかもしれない。
たしかに、見えない血が、少女の白い眉間に、不気味な糸を垂らしていたのである。それは、少女が美しいだけに、その不気味さを際だたせていたのである。その血は、心が流した血だったかもしれない。
悲しければ、心は涙を流したりもするし、血も流したりもするのだ。
しかし、あおいは、血まみれになった顔で、硬貨を見続けていた。それは、タイルの床に異次元の音と、奇妙な残像のハーモニーを造りながら、回転を終えた。
――――夕御飯?
最初、少女はその言葉の意味を理解できなかった。
「茉莉?」
あおいは、叫んだが、その意味を問うべき相手は、あっという間に消え去ってしまった。
「ウウ・・ウ・ウ、ゆ、有希江お姉ちゃん?!」
だから、それを有希江にぶつけるしかなかった。
「私にもわからない、一体どういうこと?」
有希江は途方にくれた。何が起こっているのだろう。茉莉が、あおいに対する不満を溜めていることは、端から見ていても、わかった。だから、いつか注意しようと、機会を見つけようとしていたのだ。しかし、いざ、爆発してみて、これほどとは思っていなかった。
いや、家族全体の、あおいに対する態度が、こんなに急変するとは、とてもついて行けなかった。だが、有希江自身、妹に対して、感情が変わっていくことに気付きはじめていた。敵意や憎しみというのではないが、熱意が失せようとしている。
それは、肉親なら会って当たり前の熱意だ。例え、互いの感情が愛情やいたわりといったプラスでなくてもよい。憎しみや殺意といった、一般的にはマイナスのエネルギーであっても、そこには、他人にはない熱意があるはずなのだ。
いま、その熱意が失せようとしている。今、有希江の膝で、おいおい泣いているあおいを見ても、(かわいそう)と思うだけだ。それは他人に対する憐憫である。街を歩いていて、誰も知らない小学生が、いじめられていたとする。その子を哀れむのと同程度の(かわいそう)にすぎない。それは、いくら払ってもただの、同情であって、おのれの身を切り売りしても、与えたいと思う、肉親の情ではない。
―――わかったわよ! あなたは、私たちよりも、何処の馬とも知れない人たちを選んだのね、汚らわしい有色人種の土民を!! だったら、いいわよ、あなたなんて、他人だわ! どうとれもすればいい!!
――――ええ?え?!有色人種だって? 土民? 何だって?私たら、こんなことを!?
その時、有希江の脳裏に差し込んだのは、光の矢だった。その矢には、彼女が想像したこともない映像と音声が塗られていた。それは、毒だったかもしれない。一本の毒矢が、飛んできたのである。
「あれ? 私、何してたんだろう?」
「有希江お姉ちゃん! ウウ・ウ・ウ・ウ・・ウ!」
気が付くと、あおいが、まだ泣き伏していた。有希江は、この場所にいながら、億万浄土の彼方へ旅をして、鳶帰りで戻ったような気がした。
しかしながら、こともあろうに、つい、数秒前に見聞きしたすべての映像と音声を忘れてしまったというのである。
「あおい、それにしてもとんでもない寒さね――」
まだ、覚醒がしっくりと来ないのか、返事も何処か抜けている。
「有希江お姉ちゃん、どうしたらいいの? 私? 何がいけなかったの?」
「・・・・・・・・・・」
その言葉に、有希江は敏感に反応した。その理由はわからない。しかし、億万浄土からやってきた通信のように思えた。
「あなたは、やっぱりそうなのよ! 人のことなんて何も考えないのよ!」
「有希江お姉・・・・・・!?」
ふいをつかれた由加里は、姉の顔をまざまざと見た。急に、温かい膝から投げ出されて、あどけない顔は、苦痛と恐怖に歪んでいる。
無性に腹が立ってくる。その理由がわからないのが、余計に有希江を苛立たせた。しかし、そんなことがあおいに通じるわけはない。何かわからないが、自分の態度が、姉を怒らせたらしい。由加里は、その理由を探ろうと、自分の体内に指を入れてみたが、答えらしい答えに手を触れることはできなかった。
「ど、どうしたの? ゆ、有希江お姉ちゃん!?」
「あなた、一体、みんなに何をしたの?!」
それは、妹にではなく、自分に対しての問いだったかもしれない。
「あ、あおい、何もしてないよ!」
おいは、500円硬貨を握りしめながら泣くばかりだ。母親がこんなことを、まさか本当にやるとは思っていなかった。腹立ちまぎれの冗談かと高をくくっていたのだ。しかし、同情の念がわき起こってこない。怒りが込み上げてこないのはどうしてだろう。
自分は、この妹をとても可愛がっていたはずだ。わがままだけど、本当は人の気持ちがよくわかる優しい子。しかし、そのやり方がひとと違うために、数々の誤解を買っていた。そんなあおいをみんな好きだったはずだ。すくなくとも、自分は好きなはずだ。そういう認識を持っていたはずなのに。
「とりあえず、ママのところに言いに行くから」
「あおいも ―――」
「いや、あんたは一緒に行かないほうがいい」
それは直感的に出した答えだった。有希江は、妹の顔を見た。完全に、顔面蒼白で、ほとんど生きた死体のようになっていた。息が白い。ふと視線を下げる。
「あおい、足が真っ赤じゃない」
「裸足で、やれって言われたから・・・・」
あおいは、自らの足を改めて見つめた。その足はまるで蛸の足のようになっている。こんなに早く霜焼けになるものだろうか。いや、少女は生来、そんな病気になったことはない。そういう状況に堕ちいる機会がなかったのである。
「早く、出ないと本当に霜焼けになっちゃうよ。よく拭くんだよ。」
「うん ―――――」
姉の優しい言葉に、あおいは、思わず目が潤んでしまった。こんな時でないと、感じない温かさだ。普段、自分はこんな温かい愛情に、守られていたのか。今更ながらに気づいて、涙の量が増える。
姉に促されて、浴室を出ようとしたとき、聞き慣れたメロディが鳴った。携帯である。本人に似合わない、それはあくまで、あおいが言い続けた言葉だが、ショパンのノクターンは、赤木啓子の着信だった。
「あああ、啓子ちゃん?」
「どうしたの? 何かあったの? あおいちゃん?」
携帯の向こうから、すっとんきょうな声が聞こえてくる。平時、冷静な彼女らしくない。しかし、その理由が、自分にあるとは、このときあおいは露ほどにも考えなかった。ただ、自分が急に着せられた服のひどさに、対応できなかった少女は、友人に気を遣う余裕などあるはずはなかった。
しかし、有希江が背中を耳にして、聞いたあおいの声からすると、すでに、かつての元気さを取り戻しているのがわかる。だが、よく聞いてみれば、無理して、作っているのは、明かだった。
有希江はそれに気づかなかった。いや、気づこうとしていなかったのかもしれない。この時、彼女は、榊家が向かっている大きなベクトルに、無意識のうちに従うことにしていたのかもしれない。
「え? 行っていいの?」
あおいの声は、たしかに浮き足だっていた。彼女が、浴室から出るとき、有希江の姿はなかった。
「もう、ママのところに行ったのかな」
多分、うまく取りなしてくれるにちがいない。少女は姉に期待するほかはなかった。いまのところ、正気でいてくれているのは、有希江だけだった。彼女の主観からすれば、この家はほとんど狂っているとしか思えない。
何か巨大な車輪が、回っているような気がする。何かが動いている。何かが変わろうとしている。昨日見た柱は、今日、見ている柱と、決して同じではない。
それを考えると、経験したことのない不安で押し潰されそうになる。
あおいは意を決して、久子のところに行くことにした。啓子と交わした約束のことを話すためである。
母親がいるはずのダイニングからは、家族の団欒の声が聞こえる。それはいつもと変わらない光景だった。たったひとつだけを除けば、昨日と全く同じである。そのたったひとつとは、あおいが抜けていることである。
――――私もあの輪に入りたい、いや、かならず、入れるはず。
根拠のない確信の元に、扉を開くと、一瞬で、笑い声が凍り付いた。四人のあおいに降り注ぐ視線は、かってのそれではない、家族に対するそれでなかった。
「あ、あの ――――」
「ご苦労さん、お掃除は終わったのね、あおいさん」
「・・・・・?!」
久子の言いようはさらに酷薄で、辛辣だった。
「あおいさん、部屋に入るときはノックするのよ」
「・・・・うん、ごめん」
「ごめんだって?」
久子は怪訝な顔をしたが、あおいはそれを無視することした。機先を制することにしたのだ。懐から、500円硬貨を取り出すと、母親の前に置いた。コトリという音は、あおいに耳には、なぜか、とても大きく聞こえた。まるで、鼓膜が破れそうになるほどだった。
「ママ、これって、冗談だよね、夕御飯って、冗談きついよ! それに、あした、啓子ちゃんに誘われたんだ、泊まりにいってもいい?」
一気に用件を言い終わると、あおいは笑ってみせた。今までのように笑ったつもりだったが、口の端当たりが、微妙に引きつるのを防ぐことはできなかった。
「度重なる失言ね、あおいさんは、他人をママって呼ぶの? それにごめんですって? とんでもない家政婦ね、今すぐにでも出て行ってもいいのよ」
「・・・・・・・・」
凍り付いた空気に、罅が入った。すくなくとも、あおいの網膜は、そのような情景を映した。
「・・・・・なんの。なんの冗談なの!? ねえ! もうヤメテよ!! いや!ねえ! 有希江お姉ちゃん?!」
あおいは、藁を摑む思いで、有希江に救いを求めた。
「・・・・あおい」
「有希江お姉ちゃん!」
何かが違う。確かに、さきほどの彼女は、あおいに同情的だったはずだ。それが、どうしたというのだろう。たった数分に、何があったというのだろう。まるで、あおいを憎む病原菌があって、次々と感染してしまったかのようだ。
「何を世迷い言を言っているの? この子は、あなたのお姉さんじゃないのよ、もしかして、頭がおかしくなったのかしら? 実家のご両親にそう報告してもいいかしら?」
決して、芝居をしているように見えない。久子にそういう趣味はなかったはずだ。あおいの知っている範囲では、少なくとも、そうだった。もしかして、学生時代に、演劇部にでも所属していたのだろうか。
有希江は、変わり果ててしまった母親を見つめた。あおいは、涙で部屋中が濡れてしまうのえはないかと思われるほどの剣幕で、泣きわめいている。
「ごめんなさい! 本当に、ごめんなさい!ねえ、教えて、ママ! あおいが何をしたっていうの!?」
「・・・・・・・・・」
有希江はある事実を見逃さなかった。茉莉がかすかに笑っているのである。その笑みは悪魔のそれを彷彿とさせた。いままで、有希江が知っている茉莉ではなかった。
―――やはり、あのことが、茉莉を追いつめていたのかしら? でも、ずっとそんな風には見えなかったのに。
有希江には、それが榊家に刺さった棘のように思えてならなかった。しかし、そのことで、あおいが茉莉をいじめたことはなかったはずだ。少なくとも、彼女が知る限りでは、見たことがない。
「その啓子ちゃんって子しらないけど、そんなに行きたいなら、言ってもいいわよ、ただし、もう帰ってこなくてもいいわ」
久子は、泣きじゃくる我が子を足下にして、ごく自然に言いのけた。
「ウウ・ウ・ウ・ウ・ウ・ウ・ウ!ママ!?」
その小さな躰が、涙で溶けそうになる勢いで、泣きじゃくるあおい。仕方あるまい、産まれてからずっと、虐待を受けてきたならともかく、今日の今日まで、温かい愛情の毛布にくるまれて育ってきたのだ。それが、急に寒風吹き荒む大地に、放り出されたのだ。動転しない方が異常だろう。
しかし、久子は、溺死寸前の娘に、情け容赦なく次ぎの言葉を吐いたのである。
「いいわよ、帰ってきても。だけど、条件があるわ、明日までに、主人である、私たちに奉仕しなさい」
「な、何すれば、ウウ・ウ・ウ・ウ・ウ・ウウ・・・・・・・!」
「それは自分で考えなさい。もしも、みんなが満足できたら、行ってもいいわよ、特別に、休暇を上げる。だけど交通費は、毎日の食事代から貰いますからね」
有希江は、久子が目をつり上げているのが、背後からでも、手に取るようにわかった。妹は、水の全く存在しない部屋で、溺死していた。
姿を現したのは、幼児のように、指をくわえている由加里だった。
それは、もしかしたら、ゆららの錯覚だったのかもしれない。しかし、少なくとも彼女の目にはそう見えたのである。
「由加里、鈴木さんがお見舞いに来てくれているのよ」
社交辞令のような、春子の言い方。病床の娘よりも、ゆららに気を遣っているように見える。
「西宮さん ―――」
ゆららは、改めて由加里を見てみる。
まるで金目鯛のような瞳は、一体、何処を見ているのかわからない。それは完全に無垢な乳幼児のそれとは、自ずから異なる。
ゆららが知っている由加里は、大人っぽい優等生というイメージだった。男子の間では、海崎照美には、叶わないものの、美人で通っていた。いじめられていないころは、むしろ、照美よりも自分たち近いという意味で、人気があったのかもしれない。照美は、あまりにもその美貌度が非現実的で、男子の誰もが憧れているが、近寄りがたい存在になっていた。
しかし、いま、由加里にそのころの片鱗は何もない。
彼女は、まるで、親に捨てられた子どものように、虚空を見つめている。そのまま、何処かを見つめ続ければ、空腹を満たせるとでも言うのか。じっと、睨みつけている。あたかも、死の大陸で、黒く飢える子どもたちのようだ。目だけが異様にらんらんとして、息づいている。
彼女の心を例えれば、さしずめ地獄絵で有名な餓鬼だろう。腹だけが膨らんだ異様な姿は、いったい、何の暗喩なのだろう。
そのやせ細った手足では、さぞかし、その腹を持て余しているにちがいない。
由加里は、今、その精神が飢えている。友だちという心の栄養を求めて、大きな腹を引きずっている。きっと、その中は空で、中身が満たされるのをじっと待っているのだろう。その保証もないのに、確信というべきか、悲願というべきか、眉間に寄せられた皺は、少女を年齢よりも老けさせた。
互いに矛盾した本性を、その華奢な躰に内包されたその姿は、異常と言うより他に表現方法がない。あきらかに、その躰が限界のために泣き叫んでいる。皮膚が震えている。青白い肌からは、年齢に相応しい少女の健康を完全に否定している。
ゆららは、そんな由加里の姿を見ると、密かに心動かされる自分を発見していた。
しかし、心を鬼にして、そんな気持を凍結させることにした。なぜならば、自分は分水嶺に立っているのがわかったからだ。間違って、片方に転がれば、いじめられっ子に転落してしまう。しかし、もう一方に転がればどうなるのだろう。自分はあれほど怖れて、憎んだいじめっ子になってしまうのだろうか?
しかし、由加里が体験した地獄を考えれば、選択肢は一つしかない。あんな思いを自分がすることを考えれば、死んだ方がましだと思った。それなら、死ぬよりも悪魔の子分にでもなったほうが親孝行というものだ。
――――ごめんね、西宮さん、べつにあなたに怨みがあるわけじゃないのよ。
ゆららは、心に決めた。高田と照美から渡された台本が、頭に浮かぶ。
ふいに、携帯の呼び出し音が響いた。そのメロディから、冴子が春子を呼び出したことがわかった。
「じゃ、ママは席を外しますからね、お願いね、鈴木さん」
―――ま、待って! ママ!見殺しにするの!?
ドアの開閉と、遠ざかっていく足音を聞かされながら、由加里は思った。まるで、飢えた狼と虎がうなりをあげる牢屋に、放り込まれたきぶんになった。
―――心細い。友だちが欲しい。だけど、この人は本当に信じられるの? さんざん、裏切られてきたのよ!
しかし、意を消して、ゆららに話しかけることにした。
「す、鈴木さん・・・・・・・・・」
由加里は、ゆららが「私ばばかです」と連呼しながら、教室中を走り回る姿を思い浮かべていた。あれはたしかにいじめ以外のなにものでもなかった。どんなに辛かっただろう。どんなに悔しかったろう。根が優しくできているのか、どんなに踏みつけられても、けなげに優しく咲き続けているのだ。
「に、西宮さん ――――」
「・・・・・・・?」
由加里は、ゆららの顔をはじめて、じっと見た。その小さな口から出るべく言葉は、決まっていた。あまりにも、それは言い尽くされた言葉だった。ある意味、陳腐だといえる。実際に、その言葉を聞きたいのか、聞きたくないのか、わからない。ただ言えるのは、時間が止まってほしい。ただ、そのことだけだった。もう、だれも疑いたくない。そして、期待もしたくない。しかし、その時は一瞬でやってきた。
由加里は、ほとんど意識的ではなく、自分の口が動くのに驚いた。
「ごめんね、本当に、ごめんなさい、西宮さん!」
「ウウ・ウ・ウ・ウ・ウ・ウウウ・・ウ・ウ・ウウ!!うう!」
「西宮さん?」
一瞬、ゆららは、由加里が笑っているように見えた。
「え? 何処か苦しいの? 先生、呼ぼうか?」
「ううん、違うの! 違うの!」
由加里は嗚咽を止められなかったのだ。涙の粒が、汗のように流れている。
「西宮さん、みんなもそう思ってるよ、だから、ノートも私だけじゃなくて、みんな映してくれたんだよ、 私はばかだから、私のがいやなら ――――」
「そんなことない! そんなことあるわけない!!」
「西宮さん!?」
由加里は、ゆららの華奢な両腕にまとわりついていた。その様子は、二人の体格差があまりにあるたけに、端から見れば、母親が娘にすがりついているようにすら見えるだろう。
今まで、自分に向けられた刃の数々が、顕わになる。まるで、この病室が教室で、いじめられっ子に囲まれているような、気分になる。あるいは、放送室で、照美やはるかたちに、性的なおもちゃにされているような錯覚に陥る。
「ィヤ!」
「え?」
その声は、あまりに小さかったので、ゆららの耳には届かなかった。
「もう、いやあああああああ!! いじめられるのは、いやなの!!」
「西宮さん、大丈夫だよ、きっと、もうそんなことなくなるよ」
――――たっぷりと、慰めてあげるんだよ!
高田の言葉が、見えないイヤフォンを通して、聞こえる。彼女の得意そうな顔まで、見えるようだ。
由加里は、ひとしきり泣くと、驚くべき言葉を吐き出した。それが、あまりに唐突だったので、ゆららは、空気と格闘しているような気になった。
「ああ、鈴木さん、ごめんね、ごめんね、あの時、何も言えなくて!」
「・・・・・・・・・・!」
由加里が何を言っているのか、直感的にわかった。何故か聞いてみたくなった。
「えええ? なんのこと?!」
「私ねえ、鈴木さんが、みんなの前で、恥ずかしいことをされているとき、黙って見ていたの、本当は恐くてなにもできなかったの、ごめんね! それでも、笑っていた子たちと、私は、鈴木さんにとってみれば同じだもんね、もしかして、私がいじめられているのは、その報いかもしれないの」
――――そんな・・・・・・。
―――――西宮さんは、こんなにまで思っていてくれたのか。クラスメートは、全員、自分のことを嘲 笑っていたと思ったのに・・・・・・。
ゆららは、葛藤に、自分の心が揺れるのを見た。このまま、すべてを開かしてしまおうか。その上で、謝罪すればいい。
しかし、そんなことをしたら、目の前で傷ついたドライフラワーは、崩れ去ってしまうかもしれない。あるいは、100日間も、水だけで過ごした修行者のようだ。最初から、ビフテキを与えたら、その瞬間に、躰が拒否反応を起こして、悶絶死するにちがいない。
―――後にすればいいわ。
この時のゆららの選択が、さらなる悲劇を生むことになるである。
何処かの国の政治家たちではないが、問題を先送りすることによって、傷の深さを増すことになるとは思わなかった。いや、深く考えもしなかったにちがいない。
そうすることによって、傷にばい菌が侵入し、膿を形成し、臭い液を垂らすことになるのだ。
その周囲に、蠅の王(ベールゼブブ)を呼び寄せ、彼が産んだ子供たち、すなわち、おぞましい蛆どもが群を作る結果となることを、この時、ゆららは想像もできなかったにちがいない。
二人は、しばらく親密な時間を過ごした。それはあくまで双方向ではなかったのだが、由加里にとっては、しばらくぶりに笑顔を取り戻したのである。
しかし、魚が水を得たような気分になることができなかったのは、彼女の心がアンテナを失っていない証拠だろう。何か物足りないような空気を、ゆららを通じて味わっていたのである。
しかし、それはけっして、騙されている予感ではない。単に、彼女が対等の友人として物足りないという感触である。だが、この時は、それが顕わな形を為して、意識に登ってくることはなかった。
二人の会話中止させたのは、ドアが開く音だった。春子かと思ったら、看護婦の似鳥可南子だった。一瞬で、由加里の顔が曇る。まさか、人がいるところで、無体なマネをするまいと思ったが、込み上げてきた不安を押さえることはできなかった。
「由加里ちゃん、躰を拭こうね、沙紀ちゃん、はやく、運んで」
「はい」
可南子の背後から、若い看護婦が、湯の入った桶を持ってきた。本当に、人がいる前で、何かするつもりだろうか。
―――大丈夫だよね。
由加里は自分に言い聞かせるようにして、服を脱いだ。
「ああ、私は出ていようか?」
「大丈夫よ、お嬢さん、女の子なんだし」
最後の奇妙なイントネーションが、由加里を不安にした。まるで耳掻きを乱暴に挿入されて、ぐいぐいと痛め付けられるような衝撃を味わった。
「さあ、拭くわよ、由加里ちゃん」
「・・・・・」
いつから、「由加里ちゃん」と呼ばれるようになったのだろうか。たった一日で、本当になれなれしくなった。態度も横柄で、遠慮のないものになっている。
「さあ、脱いで ――――――」
可南子は、ベッドに座ると、由加里を自分の膝の上に乗せる。こうされると、もう抗いようがない。無事なのは右腕だけなのだ。それも、可南子の右肩によって、無抵抗にされてしまう。
「ああ」
「ふふ、そんなに気持ちいい? 由加里ちゃん ―――」
可南子は、まるで小さな子どもにそうするような、手つきと口ぶりで、由加里をせめてくる。ちょうど腋から、胸の小さなふくらみまで、誘うように拭いていく。それだけではない、彼女の吐息が、首に当たる。そこは由加里の敏感な場所で、少しでも触られるだけで、悲鳴を上げてしまうのだ。
何度も、何度も、腋と胸を往復する。そのたびに、乳首に近づいていく。まるで愛撫をされているようだ。
由加里の性的な刺激を喚起しているような手つき。それは、往復するたびに、強さを増していく。
―――ああ、鈴木さんがいるのに! このままじゃ ―――――。
股間が潤んできたのである。それは、照美やはるかに、さんざんおもちゃにされたことが影響しているだろう。
それだけではない。由加里にしては、刺激的すぎる情報を無理矢理に摂取させられたのだ。
はるかは、由加里に創作活動まで、強要してきたことは、もう記述した。
加えて、この可南子の娘であるかなんによる、強制レズ行為は、少女をさらに性的に目覚めさせる結果となったのである。
だが、彼女の名誉のために一言、言っておきたいが、けっして、性的な快感に、完全に堕ちてしまうことはなかったのである。一瞬だけなら、完全な官能に身を委ねることがあるかもしれない。
しかし、その後には、それと同等な、あるいは、それを凌ぐ、羞恥心、そして、いったい、誰に対してなのかわからない罪悪感に、膣と肛門に侵入され、脊椎を満たし、脳を洗われる苦痛に悶え泣く地獄を過ごしてきたのである。
そして、いま、やっと友だちに慣れそうなゆららの前で、陵辱を受けようとしている。さすがに、可南子も大ぴらにはやるまいが、それだけ陰に籠もっているだけに、彼女の悪意と嘲笑を感じて、由加里は思わず、涙ぐんでしまうのである。
「そうだ、お花を花瓶に挿さないと ―――――」
―――ああ!
ゆららが、背中を向けたときである。可南子の指が、由加里の性器を捕まえた。さすがに、そこはフキンのような布で隠されてはいた。しかし、それは逆に言えば、陵辱行為を外から隠匿することになった。
可南子はついに、毒牙を見せたのである。ゆららの視線がなくなったところで、本性のほんのわずかをかいま見せた。
―――お友だちの前で、こんなに欲情しちゃって、とんでもない赤ちゃんですねえ。
背後から聞こえてくる可南子の声。それは鼻くぐもっていて、まるでフランス語のようだ。それは、由加里の心をも陵辱するための武器だ。
―――や、やめてください、こんなところで辱めるのは許してください。
ひっしに、声をひそめて、由加里は許しを乞うた。折角、友だちができようとしているのだ。そんなささやかな幸せまで、奪おうというのか? なんと、運命の神さまは残酷なことか。いや、悪魔の囁きにしか聞こえない。
由加里は、侵入してくる芋虫に、身をよじった。
―――アア・・ア・ア・ア・ウウ!
しかし、すぐそこにゆららがいるために、大きな声を出すわけにはいかない。可南子は、今、由加里が置かれている状況など、お構いなしに、責め続けてくる。少女そのものを鷲摑みにするように、侵入してくる。
――あは・・・・アア
―――おおきな声出すと、お友だちに知られちゃうよ ―――――由加里ちゃんが淫乱な、赤ちゃんだってこと!
―――いやあ! いやあ!あああアアア!
可南子の躰の中で、いや、躰という十字架に、その手足を打ち付けられて、由加里は、陵辱され続ける。しかも、友だちになりかけたクラスメートがいる部屋で。
―――あああ、来ちゃう、お願い! もう許してぇぇぇ!
絶頂を迎えつつある由加里の視線に、ゆららの顔が見えた。彼女は、花瓶を持っている。その花瓶には、いま、活けられたばかりの花が歌を歌っている。
花は赤い歌を歌っていた。
ーNO.5 高田あみる(たかだ あみる)
属性重要度・B3
身分:向丘第二中学2年生 (14才)
知能指数:103
一学期、中間試験結果 :137位/200人
美人度:31(海崎照美を100とする)
運動能力:61(鋳崎はるかを100とする)
人気:75(1年次終了、西宮由加里を100とする)
性格:攻撃性:100(高田あみるを100とする)
自尊心:88
残酷性:100高田あみるを100とする)
協調性:30(鈴木ゆららを100とする)
親和性:20(鈴木ゆららを100とする)
劣等感:88
カリスマ性:28(海崎照美を100とする)
作者から愛され度:2(海崎照美を100とする)
作者から憎まれ度:67(高田あみるを100とする)
身長:157センチ
体重:44.5キログラム
家庭環境:愛情:22pts/100pts
経済状況:39pts/100pts
健康度 98pts/100pts
喫煙経験・有
性体験・有
万引き体験・有
備考:小学校時代、数々の非行行動によって、児童相談所に通知されている。しかし、中学に上がってからはおとなしくなったようだ。少なくとも周囲の大人達はそう見ている。
属性重要度・B3
身分:向丘第二中学2年生 (14才)
知能指数:103
一学期、中間試験結果 :137位/200人
美人度:31(海崎照美を100とする)
運動能力:61(鋳崎はるかを100とする)
人気:75(1年次終了、西宮由加里を100とする)
性格:攻撃性:100(高田あみるを100とする)
自尊心:88
残酷性:100高田あみるを100とする)
協調性:30(鈴木ゆららを100とする)
親和性:20(鈴木ゆららを100とする)
劣等感:88
カリスマ性:28(海崎照美を100とする)
作者から愛され度:2(海崎照美を100とする)
作者から憎まれ度:67(高田あみるを100とする)
身長:157センチ
体重:44.5キログラム
家庭環境:愛情:22pts/100pts
経済状況:39pts/100pts
健康度 98pts/100pts
喫煙経験・有
性体験・有
万引き体験・有
備考:小学校時代、数々の非行行動によって、児童相談所に通知されている。しかし、中学に上がってからはおとなしくなったようだ。少なくとも周囲の大人達はそう見ている。
ーNO.4 鈴木ゆらら(すずき ゆらら)
属性:
身分:向丘第二中学2年生 (14才)
知能指数:109
一学期、中間試験結果 :197位/200人
美人度:50(海崎照美を100とする)
運動能力:21(鋳崎はるかを100とする)
人気:45(1年次終了、西宮由加里を100とする)
性格:攻撃性:25(高田あみるを100とする)
自尊心:58
協調性:100(鈴木ゆららを100とする)
親和性:100(鈴木ゆららを100とする)
劣等感:98
カリスマ性:5(海崎照美を100とする)
作者から愛され度:50(海崎照美を100とする)
作者から憎まれ度:0(高田あみるを100とする)
身長:143センチ
体重:34.5キログラム
家庭環境:愛情:50pts/100pts
経済状況:50pts/100pts
健康度 50pts/100pts
備考:成績が悪いわりに、知能指数と自尊心が高いことに注目。
属性:
身分:向丘第二中学2年生 (14才)
知能指数:109
一学期、中間試験結果 :197位/200人
美人度:50(海崎照美を100とする)
運動能力:21(鋳崎はるかを100とする)
人気:45(1年次終了、西宮由加里を100とする)
性格:攻撃性:25(高田あみるを100とする)
自尊心:58
協調性:100(鈴木ゆららを100とする)
親和性:100(鈴木ゆららを100とする)
劣等感:98
カリスマ性:5(海崎照美を100とする)
作者から愛され度:50(海崎照美を100とする)
作者から憎まれ度:0(高田あみるを100とする)
身長:143センチ
体重:34.5キログラム
家庭環境:愛情:50pts/100pts
経済状況:50pts/100pts
健康度 50pts/100pts
備考:成績が悪いわりに、知能指数と自尊心が高いことに注目。
由加里の病院に、鈴木ゆららが現れたのは、入院して、二日目のことだった。受業が終わるとすぐ、その足で病院に向かったのである。しかし、由加里は、ゆららの顔を見つけると、すぐ布団を覆ってしまった。
「由加里、どうしたの? せっかく来てくれたのに」
母親である春子が、声をかけても、梨の礫だった。
「西宮さん、みんなで手分けして、ノート取ったんだよ ―――」
ゆららの声は、由加里には地獄への招待にしか聞こえなかった。
―――ママ、そんなの追っ払って、みんなで由加里をいじめたのよ、あなたの娘を自殺まで追いこんだのは、その人たちなの! 憎いでしょう? それなのに、どうして、そんな甘い顔していられるのよ! どうでなら、その場でビンタぐらい喰らわせてよ! それとも大切なのは体面なの? 由加里のことなんてどうでもいいの?
少女は、この薄い布団の上で、行われている取引に嫌気がさした。春子とゆららが何やら話しているのだ。
「ごめんなさいね、鈴木さん」
「いえ、私たちが悪いんです ――――」
―――鈴木ゆららってどういう子だったけ?
記憶の糸をたぐってみる。しかし、すぐには名前と顔が一致しない。しかし、しばらくして、(そうだ、あの小さな女の子だ)
ゆららとは、小学校は違うし、同じクラスになったのも、はじめてだったので、すぐには思い出せなかった。
それに、いじめられるようになってから、新しい友だちを作る余裕はなかった。
仮にあったとしても、高田と金江たちの手によって潰されたであろう。
もしかして、あれほどあった誘いのメールのうちに、本物があったのかもしれない。そんな風に考えて、後悔することがある。
これは、前にも記述したことだが、おそらく、あの二人による企みだと思われるが、かなり、騙しメールがあったのである。2年生になって、まもないころ、由加里がクラスの女子からしだいに、無視されるようになったことは、既に記述した。
しかし、ネット世界においては、必ずしもそうではなかった。毎日のように、クラスの女子から、誘いのメールが来ることは来るのである。
長い間、友だちがいない淋しさに耐えていた由加里は、それに簡単に飛びついてしまった。その様子は、まるで飢えた獣が、食物を目の前に出された様子に似ている。例え、それがプラスティックの模造品であっても、目にしたとたん、よだれを垂れ流しながら、飛びつくに違いない。
飢えていれば、視覚も嗅覚も鈍るだろうから、それを判別する能力も劣ってしまうだろう。
左様に、由加里は哀れな状況に追い込まれたが、それを検分して楽しんでいた連中がいたのである。
連中は嘘のメールを由加里に送る。そのメールには、普通では考えられない服装で、来るように指定してあった。もしも、彼女がいじめられていなければ、ろくに内容も見ずに破棄したにちがいない。
あいにくと、由加里が置かれた精神状態はふつうではなかった。
朝の挨拶をしてもらえないほど、無視され、その存在を完全に否定された由加里は、いまや、一言でも会話をしてくれるなら、いくらでも出すにちがいない。何も、休みの日に、一緒に映画に行ってほしいとか、要求しているわけではない。
たまたま、床に転がった消しごむを拾ってあげて、「ありがとう」の一言でも言って貰えばいいのである。
「あ、幽霊がいる! 勝手にケシゴムが浮かんでいる!」などと騒がれるのは、どう考ええても、耐えられない。
そんな絶望的な孤独の中で、一条の光を見たような気がしたのである。それに飛びつかない手はない。
例え、そこにいじめっ子たちの嘲笑が待っていようとも・・・・・・・・・・・・・。
騙されたとは知らない由加里は、指定のとおり、お洒落をして待ち合わせの場所に行くが、待てども待てども、メールの送り主は現れない。当然のごとく、泣きべそを掻きながら帰宅するわけだが、 本当に驚いたのは、次の日のことである。由加里は教室に入ったとき、真相のすべてを明かされたのである。
黒板に、その写真は貼られていた。大きく引き延ばされたその画像は、入り口から見ても、由加里のものだとわかった。その回りに何重もつくられたクラスメートたちの輪。みんな一様に、にやにやと笑っていた。由加里を見つけるなり、好奇心と軽蔑の入り交じった視線を送ってくる。かなりの割合で悪意も含まれていた。
覚悟を決めて、黒板に近づくと、彼女のはずかしい姿が映っている。それはとてもリアルで、頬に滲んだ汗の一粒、一粒まで、手に取るようにわかるように思えた。
そして、横には、彼女を嘲笑いに、嘲笑った文字が並んでいた。
『淫乱、男好き、西宮由加里、すっぽかしを喰らう! お洒落をして、待てども、待てども、オトコは現れず!』
「ひどい!」
それは言葉というよりも、むしろ悲鳴に聞こえたかもしれない。
由加里は絶望のあまり、立ち尽くした。巨大な万力で、全身を押し潰されつつあるような気がする。耳が痛い。肩胛骨と大腿骨は、その圧力のあまり、音を立てて軋んでいる。鎖骨は、胸骨から離れて、
今にもポキッと折れそうだ。
パンツが見えんばかりのミニパンツに、臍丸出しの、ブラウスは、由加里を相当の遊び人に仕立てていた。しかし、遊び人と言うにはあまりに、幼い外見は、なおさら、その姿を異様で滑稽なカリアチュアに見せている。
しかしながら、もっとも、観客の好奇心を刺激したのは、厚化粧だった。年齢に必要ではない化粧ほど滑稽なものはない。背伸びしたお洒落ほどピエロを彷彿させるものはない。この時の由加里は、喜劇女優以外の何物でもなかった。ただ、喜劇女優なら、プライドを売り払った売女らしく笑っているべきだ。この写真の少女はなんと悲愴な顔をしているのだろう。
クラスメートたちの嘲笑は、まるで咲き乱れた花壇のようだった。ろくに世話をされない花壇には、雑草がその背丈を争い、勝手に花々が狂い咲き、調和を乱す。
その中で、ひときわ大きな声で笑っていたのは、青木ことりだった。言うまでもなく、由加里に騙しメールを送った張本人である。
「困るよね、自分ってものがわかっていないヤツはさ ―――――」
ことりは、そんなことは、まったくお構いなしに言い放つ。
「自分がどれほど、卑しい人間かわかってないんだよ、コイツ、自分が今でも誘いのメールをもらえる 人間だと思ってるのよ、それが救いがないよね。誰が、こんなのをマトモに相手にする? 冗談じゃないよね、あははは!」
「・・・・・・・・・・・」
由加里はことりを見る。その瞳には、温度というものがなかった。ただ、哀しみと、憤りがモザイクのように入り交じった蒼色が、茶目に溶けていた。それはとても奇麗だったけれど、この世のすべてが凍りついてしまいそうな氷に満ちていた。
「ホント、本当! みんなに嫌われているくせに、その自覚がないくらい、救いがないってないよね」
「もしも、自覚があったら、あんなに大きな顔していられないと思うな ―――――」
「そうよ、そうよ、ゴミ箱にでも入って、小さくなっていてほしいよね」
「そうよ、そうよ!あはははは」
ちなみに、これからしばらくして、無理矢理に押し込められるわけだが、それはかつて記述したとおりだ。
しかし、この時、鈴木ゆららはどんな顔をしていたのだろう。由加里は憶えていない。
例え、いじめに積極的に参加していないにしても、あのクラスメートの一人というだけで、由加里にとってみれば、悪鬼以外の何者でもない。
彼女をさんざんいじめぬいた悪魔たち。
高田あみる、金江礼子、そして、海崎照美と、鋳崎はるか。その罪は、彼女たちに劣るはずはない。彼女を傷付け、そのプライドを粉々にし、人間の尊厳を踏みにじった。
もう顔も見たくないし、声も聞きたくない。あの教室ごと、異次元にでも消え去ってしまえばいい。
「西宮さん・・・・・・・・・・ごめんね、ごめんなさい・・・・・・・・・・」
その声は、いくらかの化粧や涙をふくんで、多少、ウエットしていた。しかし ――――――。
――――騙されるものか。
由加里は、頬に涙の筋を作りながら、思った。その手で、高田と金江の二人は、由加里の心をずたずたにしたのだ。ゆららの声の向こうに、二人の高らかな嘲笑がかいま見える。これも、すべて由加里をいじめの中央に、引きずり込むための企みにすぎないのだ。誰が乗るものか。もう誰も信用できない、たとえ、香奈見が来ようとも ―――――――――。
―――そうだ、もしかして、この声がゆららじゃなくて、香奈見ちゃんだったらどんな反応をしただろう、少なくとも、彼女を使っての騙しのメールはなかった。
「由加里、いい加減にしなさい」
―――ママ、何も知らないくせに!
なんと春子の声が聞こえてきた。
「ああ、私たちがみんな悪いんです、西宮さんを責めないでください ――――」
―――ああ、下手な芝居はもうやめてよ!
まるでドラマの一節のような、ゆららの発言に唖然となった。その上、母親までが、それに加味しているのだ。ほぼ、完全に近いほどに幻滅していた。しかし、心の隙間に、わずかながら余白を残していた。
この世の中には、家族では埋めきれない淋しさがあるのだと、痛いほどこの数ヶ月間で実感させられた。
しかし、それは友情という簡単な言葉で、表現したくはなかった。それよりもはるかに適当な言葉があるのかもしれないと、まるで放浪の詩人のように、少女は、病床という砂漠を彷徨い歩くのだった。あたかも、イスラム教徒の夫人のように、頭から白い布を被って、自分のすべてを外界から隠匿したのである。
ゆららは、焦った。海崎照美と高田あみるは組んだのである。少なくとも、彼女の単純な図式ではそうだった。だから二人の要求を満足させられないことは、由加里に変わっていじめられっ子に堕ちることを意味していた。
――そうだ。
この時、ゆららは高田の言葉を思い浮かべた。
「ねえ、西宮さん、私はばかだからさ、参考にならないかもしれないけれど、先生のをちゃんと書き写したんだよ」
ここで板書という単語が出てこないぶん、彼女の知性を暗示しているかもしれない。しかし、それは彼女が怠惰である可能性もある。
―――この子、自分のテストをみんなに見せて笑ってたっけ?
由加里は自分がいじめられる前に起こったことを思いだしていた。それは中間テストの前のことだ。その教師は、テストが多いので有名だった。中間期末以外に、そのテストも成績に加味されるのだ。だから、不真面目な生徒たちには、すこぶる人気がなかった。なぜならばまじめにやっていれば、難なくできる内容だったからだ。
その試験が返されたとき、ゆららの答案が偶然なのか、誰かの悪意からか、床に転がった。みんなの視線に晒されたその点数は、お世辞にも高得点とはいえなかった。
「鈴木さんはばかなんだ ――――」
高田が無遠慮にも、そう言った。
「・・・・・」
「うん、ばかだよ」
ゆららは、その限りなく0点にちかい答案用紙を拾いながら言った。その手は恥辱のあまり震えていた。
「じゃあ、みんなに教えてあげなよ、それを見せてさ」
金江が畳み掛けた。
「唄にでもしたら?なにできない鈴木さんだけど、唄だけなら、なんとか人並みにできるじゃない」
「・・・・・・・・・・・」
ゆららは、内心、屈辱にうちふるえていたが、二人に睨まれるとそれを表に出すわけにはいかなくなった。結果。
「す、鈴木、ゆ、ゆららはばかです!」
それを連呼しながら、教室中を何度も往復させられた。もちろん、限りなく軽い答案用紙を掲げながら、強ばった笑みまで浮かべて、走り回ったのである。もちろん、高田と金江をはじめとするクラスメートは大喜びだった。ただし、はるかと照美は、かるく微笑を浮かべるだけだった。そして ――――、忘れてはならないのは、由加里だ。彼女は俯いたまま、無関心を装っていた。自分の中で起こった感情をどう表現していいのか、わからずただ戸惑っていたというのが事実だろう。
「よかったね、これで鈴木さんは人気者だよ」
ちょうど教室を一周したとき、高田はそのように言った。
「うん!」
満面の笑みを浮かべて、ゆららは高田にそう返事するしか生きる道はなかった。クラスメートの笑いは、自分を好いてくれている証拠だと、自分に言い聞かせた。
それが起こってから、自分のことをばかよばわりすることは、彼女がこのクラスにおける存在意義、あるいは証明となった。
今、それを由加里に言ったのである。その意味を理解できない由加里ではなかった。もともと、人並みはずれた知性を持っている上に、他人を思いやる能力はずば抜けている。そして、この日まで、歩いてきたいじめの日々は、その感覚をより磨く結果となった。もちろん、複雑にしたことも事実ではある。
「じゃ、ノート置いておくね、よかったら見てじゃ」
「・・・・待って、鈴木さん!」
由加里は、ゆららの背中に声をかけた。
ゆららの頭の中では、高田の酷薄な声が巡っている。
――――いいこと? あいつは偽善者だから、鈴木さんが少しでも弱みを見せれば同情するよ。わかってるでしょう?どうすればいいのか。いつものようにすればいいのよ。
―――ひどい! ふだんから私が気にしていることを知っていたんだ!
ゆららは怒りで頭と脊椎が焦げてしまうと思った。しかし、素直に感情を表すわけにはいかない。
「わかった・・・・・・・」
「よかった、くれぐれもお願いね」
くれぐれというところに、相当の悪意が滲んでいるのを見て取れた。ゆららは恥辱のあまり、顔を真っ赤にしながらも、服従せざるをえなかった。
その結果、高田と照美からレクチャーを受けることになったのである。昼食時と、昼休みを通して、ゆららは、二人から詳細な行動を支持された。言うまでもなく、由加里にどう対するからである。しばしば、二人は対立したから、少女は小さな頭を常に混乱させていなければならなかった。
―――私、ばかだから・・・・・・・・・・・・・。
もちろん、この台詞は高田のレクチャーの結果だった。この時、照美は眉を顰めたが、それは彼女には伝わらなかった。顔を真っ赤にしていたゆららは、当然のことだが、そんなことに神経が行かない。
もしも、それを認知した人間がいたとすれば、はるかだけだ。彼女は、しかし、一切を見て見ぬフリをしている。いや、海崎照美という少女がこの場所にいないフリをしている。
しかし、どうして、照美に付き添っているのか、周囲は不思議でたまらなかった。高田の配下のうちに、真野京子というものがいる。彼女はどうやら空気を読めないようで、命知らずなのか、はるかにこのように言った。
「海崎さんって、いやなヤツだよね ―――」
――――ばか!
高田と金江は、その瞬間、全身の血液が凍り付いたような気がした。しかし、次ぎの瞬間には、京子自身が命が縮む思いをすることになるのである。
「!!」
「ひぇい!」
何語がわからない声を発して、京子は、ブザマに転げた。哀れ、男子の前に汚い下着を晒しても、隠すことすらおもいもよらない。彼女をそのように追い込んだ張本人は、涼しい顔をして、京子を見下ろしている。
筆舌に尽くしがたい恐怖のあまり、全身の毛が総毛立つ。しかしながら、はるかは、京子に鉄拳をふるったわけではない。もしも、そんなことをしたら、京子はただじゃすまないだろう。前歯の一本くらい失って、しばらく歯医者に通う目にあうだろう。
はるかがしたことは、ただ睨みつけただけである。それだけで、京子は、震え上がり、ほとんど人事不省になるまで追い込まれた。高田はしかし、助け船を出すことをしなかった。いや。出せなかったというのが、正解だろう。
ゆららはこのような、混乱の中で、長ったらしい台詞を憶えなければならなかった。
そして、今、目の前に、彼女が演技しなければならない相手が、顔を顕わにした。
―――ダルマさんが転んだ。
ゆららの頭の中で、誰かの声が聞こえた。
「由加里、どうしたの? せっかく来てくれたのに」
母親である春子が、声をかけても、梨の礫だった。
「西宮さん、みんなで手分けして、ノート取ったんだよ ―――」
ゆららの声は、由加里には地獄への招待にしか聞こえなかった。
―――ママ、そんなの追っ払って、みんなで由加里をいじめたのよ、あなたの娘を自殺まで追いこんだのは、その人たちなの! 憎いでしょう? それなのに、どうして、そんな甘い顔していられるのよ! どうでなら、その場でビンタぐらい喰らわせてよ! それとも大切なのは体面なの? 由加里のことなんてどうでもいいの?
少女は、この薄い布団の上で、行われている取引に嫌気がさした。春子とゆららが何やら話しているのだ。
「ごめんなさいね、鈴木さん」
「いえ、私たちが悪いんです ――――」
―――鈴木ゆららってどういう子だったけ?
記憶の糸をたぐってみる。しかし、すぐには名前と顔が一致しない。しかし、しばらくして、(そうだ、あの小さな女の子だ)
ゆららとは、小学校は違うし、同じクラスになったのも、はじめてだったので、すぐには思い出せなかった。
それに、いじめられるようになってから、新しい友だちを作る余裕はなかった。
仮にあったとしても、高田と金江たちの手によって潰されたであろう。
もしかして、あれほどあった誘いのメールのうちに、本物があったのかもしれない。そんな風に考えて、後悔することがある。
これは、前にも記述したことだが、おそらく、あの二人による企みだと思われるが、かなり、騙しメールがあったのである。2年生になって、まもないころ、由加里がクラスの女子からしだいに、無視されるようになったことは、既に記述した。
しかし、ネット世界においては、必ずしもそうではなかった。毎日のように、クラスの女子から、誘いのメールが来ることは来るのである。
長い間、友だちがいない淋しさに耐えていた由加里は、それに簡単に飛びついてしまった。その様子は、まるで飢えた獣が、食物を目の前に出された様子に似ている。例え、それがプラスティックの模造品であっても、目にしたとたん、よだれを垂れ流しながら、飛びつくに違いない。
飢えていれば、視覚も嗅覚も鈍るだろうから、それを判別する能力も劣ってしまうだろう。
左様に、由加里は哀れな状況に追い込まれたが、それを検分して楽しんでいた連中がいたのである。
連中は嘘のメールを由加里に送る。そのメールには、普通では考えられない服装で、来るように指定してあった。もしも、彼女がいじめられていなければ、ろくに内容も見ずに破棄したにちがいない。
あいにくと、由加里が置かれた精神状態はふつうではなかった。
朝の挨拶をしてもらえないほど、無視され、その存在を完全に否定された由加里は、いまや、一言でも会話をしてくれるなら、いくらでも出すにちがいない。何も、休みの日に、一緒に映画に行ってほしいとか、要求しているわけではない。
たまたま、床に転がった消しごむを拾ってあげて、「ありがとう」の一言でも言って貰えばいいのである。
「あ、幽霊がいる! 勝手にケシゴムが浮かんでいる!」などと騒がれるのは、どう考ええても、耐えられない。
そんな絶望的な孤独の中で、一条の光を見たような気がしたのである。それに飛びつかない手はない。
例え、そこにいじめっ子たちの嘲笑が待っていようとも・・・・・・・・・・・・・。
騙されたとは知らない由加里は、指定のとおり、お洒落をして待ち合わせの場所に行くが、待てども待てども、メールの送り主は現れない。当然のごとく、泣きべそを掻きながら帰宅するわけだが、 本当に驚いたのは、次の日のことである。由加里は教室に入ったとき、真相のすべてを明かされたのである。
黒板に、その写真は貼られていた。大きく引き延ばされたその画像は、入り口から見ても、由加里のものだとわかった。その回りに何重もつくられたクラスメートたちの輪。みんな一様に、にやにやと笑っていた。由加里を見つけるなり、好奇心と軽蔑の入り交じった視線を送ってくる。かなりの割合で悪意も含まれていた。
覚悟を決めて、黒板に近づくと、彼女のはずかしい姿が映っている。それはとてもリアルで、頬に滲んだ汗の一粒、一粒まで、手に取るようにわかるように思えた。
そして、横には、彼女を嘲笑いに、嘲笑った文字が並んでいた。
『淫乱、男好き、西宮由加里、すっぽかしを喰らう! お洒落をして、待てども、待てども、オトコは現れず!』
「ひどい!」
それは言葉というよりも、むしろ悲鳴に聞こえたかもしれない。
由加里は絶望のあまり、立ち尽くした。巨大な万力で、全身を押し潰されつつあるような気がする。耳が痛い。肩胛骨と大腿骨は、その圧力のあまり、音を立てて軋んでいる。鎖骨は、胸骨から離れて、
今にもポキッと折れそうだ。
パンツが見えんばかりのミニパンツに、臍丸出しの、ブラウスは、由加里を相当の遊び人に仕立てていた。しかし、遊び人と言うにはあまりに、幼い外見は、なおさら、その姿を異様で滑稽なカリアチュアに見せている。
しかしながら、もっとも、観客の好奇心を刺激したのは、厚化粧だった。年齢に必要ではない化粧ほど滑稽なものはない。背伸びしたお洒落ほどピエロを彷彿させるものはない。この時の由加里は、喜劇女優以外の何物でもなかった。ただ、喜劇女優なら、プライドを売り払った売女らしく笑っているべきだ。この写真の少女はなんと悲愴な顔をしているのだろう。
クラスメートたちの嘲笑は、まるで咲き乱れた花壇のようだった。ろくに世話をされない花壇には、雑草がその背丈を争い、勝手に花々が狂い咲き、調和を乱す。
その中で、ひときわ大きな声で笑っていたのは、青木ことりだった。言うまでもなく、由加里に騙しメールを送った張本人である。
「困るよね、自分ってものがわかっていないヤツはさ ―――――」
ことりは、そんなことは、まったくお構いなしに言い放つ。
「自分がどれほど、卑しい人間かわかってないんだよ、コイツ、自分が今でも誘いのメールをもらえる 人間だと思ってるのよ、それが救いがないよね。誰が、こんなのをマトモに相手にする? 冗談じゃないよね、あははは!」
「・・・・・・・・・・・」
由加里はことりを見る。その瞳には、温度というものがなかった。ただ、哀しみと、憤りがモザイクのように入り交じった蒼色が、茶目に溶けていた。それはとても奇麗だったけれど、この世のすべてが凍りついてしまいそうな氷に満ちていた。
「ホント、本当! みんなに嫌われているくせに、その自覚がないくらい、救いがないってないよね」
「もしも、自覚があったら、あんなに大きな顔していられないと思うな ―――――」
「そうよ、そうよ、ゴミ箱にでも入って、小さくなっていてほしいよね」
「そうよ、そうよ!あはははは」
ちなみに、これからしばらくして、無理矢理に押し込められるわけだが、それはかつて記述したとおりだ。
しかし、この時、鈴木ゆららはどんな顔をしていたのだろう。由加里は憶えていない。
例え、いじめに積極的に参加していないにしても、あのクラスメートの一人というだけで、由加里にとってみれば、悪鬼以外の何者でもない。
彼女をさんざんいじめぬいた悪魔たち。
高田あみる、金江礼子、そして、海崎照美と、鋳崎はるか。その罪は、彼女たちに劣るはずはない。彼女を傷付け、そのプライドを粉々にし、人間の尊厳を踏みにじった。
もう顔も見たくないし、声も聞きたくない。あの教室ごと、異次元にでも消え去ってしまえばいい。
「西宮さん・・・・・・・・・・ごめんね、ごめんなさい・・・・・・・・・・」
その声は、いくらかの化粧や涙をふくんで、多少、ウエットしていた。しかし ――――――。
――――騙されるものか。
由加里は、頬に涙の筋を作りながら、思った。その手で、高田と金江の二人は、由加里の心をずたずたにしたのだ。ゆららの声の向こうに、二人の高らかな嘲笑がかいま見える。これも、すべて由加里をいじめの中央に、引きずり込むための企みにすぎないのだ。誰が乗るものか。もう誰も信用できない、たとえ、香奈見が来ようとも ―――――――――。
―――そうだ、もしかして、この声がゆららじゃなくて、香奈見ちゃんだったらどんな反応をしただろう、少なくとも、彼女を使っての騙しのメールはなかった。
「由加里、いい加減にしなさい」
―――ママ、何も知らないくせに!
なんと春子の声が聞こえてきた。
「ああ、私たちがみんな悪いんです、西宮さんを責めないでください ――――」
―――ああ、下手な芝居はもうやめてよ!
まるでドラマの一節のような、ゆららの発言に唖然となった。その上、母親までが、それに加味しているのだ。ほぼ、完全に近いほどに幻滅していた。しかし、心の隙間に、わずかながら余白を残していた。
この世の中には、家族では埋めきれない淋しさがあるのだと、痛いほどこの数ヶ月間で実感させられた。
しかし、それは友情という簡単な言葉で、表現したくはなかった。それよりもはるかに適当な言葉があるのかもしれないと、まるで放浪の詩人のように、少女は、病床という砂漠を彷徨い歩くのだった。あたかも、イスラム教徒の夫人のように、頭から白い布を被って、自分のすべてを外界から隠匿したのである。
ゆららは、焦った。海崎照美と高田あみるは組んだのである。少なくとも、彼女の単純な図式ではそうだった。だから二人の要求を満足させられないことは、由加里に変わっていじめられっ子に堕ちることを意味していた。
――そうだ。
この時、ゆららは高田の言葉を思い浮かべた。
「ねえ、西宮さん、私はばかだからさ、参考にならないかもしれないけれど、先生のをちゃんと書き写したんだよ」
ここで板書という単語が出てこないぶん、彼女の知性を暗示しているかもしれない。しかし、それは彼女が怠惰である可能性もある。
―――この子、自分のテストをみんなに見せて笑ってたっけ?
由加里は自分がいじめられる前に起こったことを思いだしていた。それは中間テストの前のことだ。その教師は、テストが多いので有名だった。中間期末以外に、そのテストも成績に加味されるのだ。だから、不真面目な生徒たちには、すこぶる人気がなかった。なぜならばまじめにやっていれば、難なくできる内容だったからだ。
その試験が返されたとき、ゆららの答案が偶然なのか、誰かの悪意からか、床に転がった。みんなの視線に晒されたその点数は、お世辞にも高得点とはいえなかった。
「鈴木さんはばかなんだ ――――」
高田が無遠慮にも、そう言った。
「・・・・・」
「うん、ばかだよ」
ゆららは、その限りなく0点にちかい答案用紙を拾いながら言った。その手は恥辱のあまり震えていた。
「じゃあ、みんなに教えてあげなよ、それを見せてさ」
金江が畳み掛けた。
「唄にでもしたら?なにできない鈴木さんだけど、唄だけなら、なんとか人並みにできるじゃない」
「・・・・・・・・・・・」
ゆららは、内心、屈辱にうちふるえていたが、二人に睨まれるとそれを表に出すわけにはいかなくなった。結果。
「す、鈴木、ゆ、ゆららはばかです!」
それを連呼しながら、教室中を何度も往復させられた。もちろん、限りなく軽い答案用紙を掲げながら、強ばった笑みまで浮かべて、走り回ったのである。もちろん、高田と金江をはじめとするクラスメートは大喜びだった。ただし、はるかと照美は、かるく微笑を浮かべるだけだった。そして ――――、忘れてはならないのは、由加里だ。彼女は俯いたまま、無関心を装っていた。自分の中で起こった感情をどう表現していいのか、わからずただ戸惑っていたというのが事実だろう。
「よかったね、これで鈴木さんは人気者だよ」
ちょうど教室を一周したとき、高田はそのように言った。
「うん!」
満面の笑みを浮かべて、ゆららは高田にそう返事するしか生きる道はなかった。クラスメートの笑いは、自分を好いてくれている証拠だと、自分に言い聞かせた。
それが起こってから、自分のことをばかよばわりすることは、彼女がこのクラスにおける存在意義、あるいは証明となった。
今、それを由加里に言ったのである。その意味を理解できない由加里ではなかった。もともと、人並みはずれた知性を持っている上に、他人を思いやる能力はずば抜けている。そして、この日まで、歩いてきたいじめの日々は、その感覚をより磨く結果となった。もちろん、複雑にしたことも事実ではある。
「じゃ、ノート置いておくね、よかったら見てじゃ」
「・・・・待って、鈴木さん!」
由加里は、ゆららの背中に声をかけた。
ゆららの頭の中では、高田の酷薄な声が巡っている。
――――いいこと? あいつは偽善者だから、鈴木さんが少しでも弱みを見せれば同情するよ。わかってるでしょう?どうすればいいのか。いつものようにすればいいのよ。
―――ひどい! ふだんから私が気にしていることを知っていたんだ!
ゆららは怒りで頭と脊椎が焦げてしまうと思った。しかし、素直に感情を表すわけにはいかない。
「わかった・・・・・・・」
「よかった、くれぐれもお願いね」
くれぐれというところに、相当の悪意が滲んでいるのを見て取れた。ゆららは恥辱のあまり、顔を真っ赤にしながらも、服従せざるをえなかった。
その結果、高田と照美からレクチャーを受けることになったのである。昼食時と、昼休みを通して、ゆららは、二人から詳細な行動を支持された。言うまでもなく、由加里にどう対するからである。しばしば、二人は対立したから、少女は小さな頭を常に混乱させていなければならなかった。
―――私、ばかだから・・・・・・・・・・・・・。
もちろん、この台詞は高田のレクチャーの結果だった。この時、照美は眉を顰めたが、それは彼女には伝わらなかった。顔を真っ赤にしていたゆららは、当然のことだが、そんなことに神経が行かない。
もしも、それを認知した人間がいたとすれば、はるかだけだ。彼女は、しかし、一切を見て見ぬフリをしている。いや、海崎照美という少女がこの場所にいないフリをしている。
しかし、どうして、照美に付き添っているのか、周囲は不思議でたまらなかった。高田の配下のうちに、真野京子というものがいる。彼女はどうやら空気を読めないようで、命知らずなのか、はるかにこのように言った。
「海崎さんって、いやなヤツだよね ―――」
――――ばか!
高田と金江は、その瞬間、全身の血液が凍り付いたような気がした。しかし、次ぎの瞬間には、京子自身が命が縮む思いをすることになるのである。
「!!」
「ひぇい!」
何語がわからない声を発して、京子は、ブザマに転げた。哀れ、男子の前に汚い下着を晒しても、隠すことすらおもいもよらない。彼女をそのように追い込んだ張本人は、涼しい顔をして、京子を見下ろしている。
筆舌に尽くしがたい恐怖のあまり、全身の毛が総毛立つ。しかしながら、はるかは、京子に鉄拳をふるったわけではない。もしも、そんなことをしたら、京子はただじゃすまないだろう。前歯の一本くらい失って、しばらく歯医者に通う目にあうだろう。
はるかがしたことは、ただ睨みつけただけである。それだけで、京子は、震え上がり、ほとんど人事不省になるまで追い込まれた。高田はしかし、助け船を出すことをしなかった。いや。出せなかったというのが、正解だろう。
ゆららはこのような、混乱の中で、長ったらしい台詞を憶えなければならなかった。
そして、今、目の前に、彼女が演技しなければならない相手が、顔を顕わにした。
―――ダルマさんが転んだ。
ゆららの頭の中で、誰かの声が聞こえた。
教室というのは、ほんらい、学びの室(へや)だったはずである。だが、いつから戦場になったのだろう。
こんな命題に、きょうび、誰も解答しようとすらしない。生徒はおろか、教師すら、こんな命題に意味があるなどと、牧歌的な夢を見たりはしない。
ここ、向丘 第二中学2年3組の教室では、いつ果てるとも知れぬ冷戦が繰り広げられていた。今まで、クラスのペットであり、奴隷である西宮由加里を巡って、二つの派閥が争っていた。一つは、高田あみる、金江礼子を中心とするグループ。もう一つはいうまでもなく、海崎照美と鋳崎はるかを中心とするグループである。
他には、由加里の幼なじみである香奈見たち、どちらにも属さずに静観するグループもある。しかしながら、後者はほとんど、前者を相手にしておらず、前者の一人相撲だったと見て良い。だが、ここ来て、クラス全体に問題が起こっていた。由加里が事故で入院し、姿を見せなくなった上に、どうやら照美たちのグループに問題が起きたらしいのである。噂では、あの二人が仲違いしたというのである。
「ねえ、ねえ、本当かしら? その噂」
「本当だってよ、海崎さんと鋳崎さんが喧嘩したって」
「あたし、見たんだから、昨日のことだけどさ ―――――」
「まさか、ありえないわよ、あの二人に限って! まるで双子みたいに仲がよかったんだから、小学生のときから知っている私が言うんだから事実よ」
青木ことりは、胸を張って、自己の正当性を主張した。
「し! 来たわよ! え」
「やっぱり、ウソじゃない!」
「・・・・・・・・・?!」
「ちょっと! しー!」
「・・・・・・・・・」
はたして、教室に入ってきたのは、照美とはるかだった。しかし、いつもと、様子が違う。通例なら、二人とも談笑しながら入ってくるはずだ。お互いを心底信頼し合っているという空気は、誰しも、うらやましがったものである。そして、あたかも、この世が二人によって分割支配されているような錯覚を、見るものに与えたものである。これには、高田と金江が常日頃、カチンと来ていた風景である。
「おはよう」
「あ、おはようございます! 海崎さん、鋳崎さん・・・・・・」
「おはよう」
二人とも、視線を合わせようとしない。お互いが、完全に視界に入っていないようだ。それでいて、磁石のN極とS極のように、全く離れようとしない。ほとんど軍隊の行進のように、自分たちの机へと、並んで進んでいく。
おどろいたことに、歩幅まで同じだ。その様子は気持ち悪いばかりか、教室全体を恐惶に陥らせた。それは、由加里を覆っていたあのどす黒い空気とは、性格を完全に異にするものである。ふたりから漂ってくる空気は、近づくものを直ちに射殺するような鬼気迫る音色に満ちている。
さながら、立場が逆転したのである。由加里が感じていた恐怖をクラス全体が蒙る番なのだろうか?それにしても、わずか2名が33名を脅かしているのである。思えば、これよりも滑稽な図は、他はないだろう。
しかし、表面だけでもそれをごまかそうとする輩が約2名いる。言うまでもなく、高田と金江である。内心では、二人が怖ろしくてたまらないのに、表面的には、平静を装っている。クラスのほぼ全員が怖れる二人は、今、自分の席について、受業の準備をしている。
二人の席は、青木ことりを真ん中において、隔たっているわけだが、恐るべきことに、一旦座った照美がはるかのところへやってきたのである。そして、ことりの机の上に座った。当然、はるかとは向き合うことになるわけだ。
「お、おはようございます ―――――」
「おはよう、青木さん」
ことりを見ようともせずに、挨拶をする。その表情は凍り付いて、頬には氷の結晶が幾つもへばりついているのがみえる。いや、照美自身が凍って、結晶を引き寄せているのだ。ことりは、自分が悪いわけではないのに、がたがたと震えている。自分の机に無断で座られているのに、わけのわからない罪悪感を彼女に対して、感じている、いや、感じさせられている。
二人はまったく目と目を合わせようとしない。それにもかかわらず、二人の間には、異様な秋波が飛び交っている。それがひしひしと周囲に伝わるのだ。二人とも、互い以外に眼中はないのに、周辺に恐怖を与え続けている
休み時間は、休み時間で、ろくにというよりは、まったく会話をしないのに、恋人のようによりそっていた。その様子は、二人の取り巻きたちはおろか、クラス全体にとって不気味としかいいようがなかった。他の生徒とは、違う次元に行ってしまったかのように見える。一体、由加里の事故にまつわる問題で、何があったのか。事実を知らないクラスメートたちは、ただ首を捻るだけだった。
この事態に、果敢なる態度で取りくもうとしたのは、高田あみると金江礼子だった。早くから、このクラスに由加里がいないことに、耐えられない事実に気づいていた。そのための協力を二人に要請したのである。
「ねえ、海崎さん、鋳崎さん ―――――――」
高田は、内心の怖れを必死に押さえて、話しかけた。少なくとも、共通の利益のために何をしなくてはいけないか。そのコモンセンスはあるはずだ。しかし ――――――――。
――――ここで舐められてはいけない。
それは、自分の沽券に係わることだ。嘘でも、なんでも、威厳は保たなければならない。
「何かしら?」
「何?」
二人はほぼ同時に、問いを返してきた。ふたりだけの世界を形成しておきながら、まるで互いが見えていないのか。
「西宮さん、どうしているのかしら?」
「入院しているんじゃないの?」
「入院してるって話しだろう?」
――――やりにくいなあ。
「西宮さんも、鋳崎さんも、昨日、大石先生の話を聞いたでしょう。もう学校にこないとか、言っているみたいたけど ―――」
「結構じゃない!」
クラス全体が、その声の主に意識を集中させる。
工藤香奈見。由加里の幼なじみで、かつてクラス裁判の裁判長を勤めていた少女である。彼女がクラスに対して、イニシアティブを発揮するのは珍しいことだった。だから、みんな、耳を傾けているのである。
「あんなヤツ、いなくなったら、それでいいじゃん、どうでなら事故で死ねばよかったのよ」
「そうよ!」
「賛成!」
数人が、香奈見に同調した。しかし、それは教室では少数派だった。ほとんどの人間が、由加里を嫌うというよりも、おもちゃにして弄ぶことに、喜びを見いだしていたのある。特に個人的な怨みはないけれども、助ける義理はない。
最初は、見て見ぬフリを決め込んでいた多数派は、由加里が惨めに嬲られていくのを見ていくうちに、何か新しい感覚に気が付いた。それは自己の内部に巣くっていた嗜虐心だった。
中学生という不安定な身分。教師に、内申書を握られているということは、常に、自分たちが監視されているという感覚を生み出すのだ。
一見、刑務所における、看守と囚人の関係に酷似しているかもしれない。
その煉獄においては、加えて受験というストレスが加わっている。
成績によって、自分たちの将来がすべて決められてしまうという恐怖は、生徒たちに阿鼻叫喚の地獄を味あわせていた。これは多分に、被害妄想を含んでいるのだが、それに彼らは気づかない、あるいは気づこうとしない。
つまりは、こういう種々のストレスを、無意識のうちに由加里にぶつけていたのである。もしも、それを意識的にやっているとすれば、それは高田と金江だった。個人的なアイデンティティに根付いた根拠を持つ照美や、それに追随するはるあと例外とすれば、ほとんどの者たちは、自分が何をやっているのかという自覚がないままに、由加里いじめに参画していたのである。
さらに例外に属するのが、香奈見である。しかし、彼女とて、どうして由加里を嫌うのか、わかっていない。ただ、彼女から自由になりたい。これまで、彼女と連れ合っていた過去を白紙に戻したいという望みを持っていた。そのような香奈見の態度は、由加里をことさら傷付けた。それは、照美や高田たちのいじめ行為とは、また違ったかたちで、彼女を痛め付ける結果となった。
「私はそんなのいやだからね」
「そんなこと言ってもさ、工藤さん ――――」
高田がなんと言おうとも、香奈見はがんとして、拒否し続けた。そして、いつのまにか、貝になってしまった。
「しかし、あの先生も、あれほど自分もいじめに参加しておきながら、よくもあんなこと言えるよな」
大石が言ったのは、傷ついた由加里を、クラス全体で励ましてやろうということだった。その具体的な内容を、クラスメートたちに、考えるように要求したのである。
「いじめっていうけど、私たち、あいつをいじめていたのかな?」
「それが問題よね」
高田の問いに、金江が答える。
「そう、そう、あたしたち、別に何も悪いことしてないのに、いじめって決めつけられるのもね ―――――」
青木ことりが割って入った。
「でも、いやじゃん、疑われたまま、あいつに登校拒否でもされたらさ ―――あいつ親達にも誤解されそうだし ――――自殺されて、裁判とかなっちゃうよ」
「そうだよね、うちらのせいにされちゃうって、後味わるー」
「じゃあ、こうしようぜ、期末、近いだろ? ノート持って行ってやるの」
「でも、うちらのノートなんて、バカにするんじゃない? あいつ勉強だけはできるじゃん、性格も人間性もさいてーだけどさ」
「そう、そう、人間として根本的なところが、欠けているよね、だから友達できないんだよ」
「でも、工藤さん、友達だったんでしょう!?」
青木ことりが藪を突っついた。案の定、蛇が這ってきた。その牙の威力は、ことりの予想を、しかし、はるかに超えていたのである。
「やめてよ!」
香奈見は、持っていた教科書を机に叩きつけた。その音は周囲の耳に突き刺さり、彼女が本気で怒っていることを、いまさらながら、知らしめた。
「やるなら、勝手にやってちょうだい、私は関係ないから」
「海崎さんは、どうなのよ、あれほど西宮さんで楽しんでおきながら ―――」
高田が、話しを振った。
「あれは、私のおもちゃだから、何時でも、私の思うときに遊べるのよ」
――――何時聞いても、こいつの言うことはむかつくな。
密かに、彼女はそう思ったが、口にすることができなかった。
「どうせなら、教室に持ってきて、みんな、一緒に遊ぼうよ」
金江が言った。
何れも、ぞっとする言葉遣いである。完全に、由加里を人間扱いしていないのである。彼女が自分たちがよってたかって、やってきたいじめによるものなどと、露ひとつも思いもしない。むしろ、自殺でなしに、単なる事故だと思っている。そのために、彼女の鈍くささをバカにするくらいなのである。
「あんたらで、勝手に遊べはいいさ ――――」
今度は、はるかの言だ。照美は、その声がなかったかのように、言葉を続ける。
「じゃあ、鈴木さんを使うしかないわね ―――」
「?」
鈴木とは、鈴木ゆららのことである。本人は、照美に自分の名前を呼ばれてぎょっとなったのか、香奈見の背後で、震えている。彼女は。海崎、高田の両派閥のどちらにも、属していない。
あえて言うなら、香奈見と一緒にいる。どっちも着かずの処世術で、常にいじめの犠牲者に堕ちずに済んできた。今も、この小さな中学生の頭部は、一体、誰が強者なのかの見極めに忙しいのだ。
小さいと書いたが、彼女は身長が143センチしかない。この年の14歳の、平均身長が156センチだから、その小ささがわかることだろう。ちなみに、その背では、小学校4年生の平均にすぎない。
ゆららは、香奈見を見た。無意識のうちに、彼女の助けを求めているのだ。しかし、彼女の保護者であるはずの香奈見は、一心不乱に読書にのめり込んでいる。
「・・・・・・・・・・」
ゆららは、焦点の定まらぬ目で、照美と高田を見比べた。
絶世の美少女と普通の女の子。あの照美と比較するなどと、あまりに高田に酷というものだ。たしかに、ゆららは少女であって、男子とは自ずから、見る目が違うかもしれない。しかしながら、たしかに、二人の人間としての格の違いを見て取った。
「そうね、鈴木さんなら適当かも」
ゆららは、頭からつま先までぶるぶると奮わせて、これから起こることに対して、身構えようとしていた。
こんな命題に、きょうび、誰も解答しようとすらしない。生徒はおろか、教師すら、こんな命題に意味があるなどと、牧歌的な夢を見たりはしない。
ここ、向丘 第二中学2年3組の教室では、いつ果てるとも知れぬ冷戦が繰り広げられていた。今まで、クラスのペットであり、奴隷である西宮由加里を巡って、二つの派閥が争っていた。一つは、高田あみる、金江礼子を中心とするグループ。もう一つはいうまでもなく、海崎照美と鋳崎はるかを中心とするグループである。
他には、由加里の幼なじみである香奈見たち、どちらにも属さずに静観するグループもある。しかしながら、後者はほとんど、前者を相手にしておらず、前者の一人相撲だったと見て良い。だが、ここ来て、クラス全体に問題が起こっていた。由加里が事故で入院し、姿を見せなくなった上に、どうやら照美たちのグループに問題が起きたらしいのである。噂では、あの二人が仲違いしたというのである。
「ねえ、ねえ、本当かしら? その噂」
「本当だってよ、海崎さんと鋳崎さんが喧嘩したって」
「あたし、見たんだから、昨日のことだけどさ ―――――」
「まさか、ありえないわよ、あの二人に限って! まるで双子みたいに仲がよかったんだから、小学生のときから知っている私が言うんだから事実よ」
青木ことりは、胸を張って、自己の正当性を主張した。
「し! 来たわよ! え」
「やっぱり、ウソじゃない!」
「・・・・・・・・・?!」
「ちょっと! しー!」
「・・・・・・・・・」
はたして、教室に入ってきたのは、照美とはるかだった。しかし、いつもと、様子が違う。通例なら、二人とも談笑しながら入ってくるはずだ。お互いを心底信頼し合っているという空気は、誰しも、うらやましがったものである。そして、あたかも、この世が二人によって分割支配されているような錯覚を、見るものに与えたものである。これには、高田と金江が常日頃、カチンと来ていた風景である。
「おはよう」
「あ、おはようございます! 海崎さん、鋳崎さん・・・・・・」
「おはよう」
二人とも、視線を合わせようとしない。お互いが、完全に視界に入っていないようだ。それでいて、磁石のN極とS極のように、全く離れようとしない。ほとんど軍隊の行進のように、自分たちの机へと、並んで進んでいく。
おどろいたことに、歩幅まで同じだ。その様子は気持ち悪いばかりか、教室全体を恐惶に陥らせた。それは、由加里を覆っていたあのどす黒い空気とは、性格を完全に異にするものである。ふたりから漂ってくる空気は、近づくものを直ちに射殺するような鬼気迫る音色に満ちている。
さながら、立場が逆転したのである。由加里が感じていた恐怖をクラス全体が蒙る番なのだろうか?それにしても、わずか2名が33名を脅かしているのである。思えば、これよりも滑稽な図は、他はないだろう。
しかし、表面だけでもそれをごまかそうとする輩が約2名いる。言うまでもなく、高田と金江である。内心では、二人が怖ろしくてたまらないのに、表面的には、平静を装っている。クラスのほぼ全員が怖れる二人は、今、自分の席について、受業の準備をしている。
二人の席は、青木ことりを真ん中において、隔たっているわけだが、恐るべきことに、一旦座った照美がはるかのところへやってきたのである。そして、ことりの机の上に座った。当然、はるかとは向き合うことになるわけだ。
「お、おはようございます ―――――」
「おはよう、青木さん」
ことりを見ようともせずに、挨拶をする。その表情は凍り付いて、頬には氷の結晶が幾つもへばりついているのがみえる。いや、照美自身が凍って、結晶を引き寄せているのだ。ことりは、自分が悪いわけではないのに、がたがたと震えている。自分の机に無断で座られているのに、わけのわからない罪悪感を彼女に対して、感じている、いや、感じさせられている。
二人はまったく目と目を合わせようとしない。それにもかかわらず、二人の間には、異様な秋波が飛び交っている。それがひしひしと周囲に伝わるのだ。二人とも、互い以外に眼中はないのに、周辺に恐怖を与え続けている
休み時間は、休み時間で、ろくにというよりは、まったく会話をしないのに、恋人のようによりそっていた。その様子は、二人の取り巻きたちはおろか、クラス全体にとって不気味としかいいようがなかった。他の生徒とは、違う次元に行ってしまったかのように見える。一体、由加里の事故にまつわる問題で、何があったのか。事実を知らないクラスメートたちは、ただ首を捻るだけだった。
この事態に、果敢なる態度で取りくもうとしたのは、高田あみると金江礼子だった。早くから、このクラスに由加里がいないことに、耐えられない事実に気づいていた。そのための協力を二人に要請したのである。
「ねえ、海崎さん、鋳崎さん ―――――――」
高田は、内心の怖れを必死に押さえて、話しかけた。少なくとも、共通の利益のために何をしなくてはいけないか。そのコモンセンスはあるはずだ。しかし ――――――――。
――――ここで舐められてはいけない。
それは、自分の沽券に係わることだ。嘘でも、なんでも、威厳は保たなければならない。
「何かしら?」
「何?」
二人はほぼ同時に、問いを返してきた。ふたりだけの世界を形成しておきながら、まるで互いが見えていないのか。
「西宮さん、どうしているのかしら?」
「入院しているんじゃないの?」
「入院してるって話しだろう?」
――――やりにくいなあ。
「西宮さんも、鋳崎さんも、昨日、大石先生の話を聞いたでしょう。もう学校にこないとか、言っているみたいたけど ―――」
「結構じゃない!」
クラス全体が、その声の主に意識を集中させる。
工藤香奈見。由加里の幼なじみで、かつてクラス裁判の裁判長を勤めていた少女である。彼女がクラスに対して、イニシアティブを発揮するのは珍しいことだった。だから、みんな、耳を傾けているのである。
「あんなヤツ、いなくなったら、それでいいじゃん、どうでなら事故で死ねばよかったのよ」
「そうよ!」
「賛成!」
数人が、香奈見に同調した。しかし、それは教室では少数派だった。ほとんどの人間が、由加里を嫌うというよりも、おもちゃにして弄ぶことに、喜びを見いだしていたのある。特に個人的な怨みはないけれども、助ける義理はない。
最初は、見て見ぬフリを決め込んでいた多数派は、由加里が惨めに嬲られていくのを見ていくうちに、何か新しい感覚に気が付いた。それは自己の内部に巣くっていた嗜虐心だった。
中学生という不安定な身分。教師に、内申書を握られているということは、常に、自分たちが監視されているという感覚を生み出すのだ。
一見、刑務所における、看守と囚人の関係に酷似しているかもしれない。
その煉獄においては、加えて受験というストレスが加わっている。
成績によって、自分たちの将来がすべて決められてしまうという恐怖は、生徒たちに阿鼻叫喚の地獄を味あわせていた。これは多分に、被害妄想を含んでいるのだが、それに彼らは気づかない、あるいは気づこうとしない。
つまりは、こういう種々のストレスを、無意識のうちに由加里にぶつけていたのである。もしも、それを意識的にやっているとすれば、それは高田と金江だった。個人的なアイデンティティに根付いた根拠を持つ照美や、それに追随するはるあと例外とすれば、ほとんどの者たちは、自分が何をやっているのかという自覚がないままに、由加里いじめに参画していたのである。
さらに例外に属するのが、香奈見である。しかし、彼女とて、どうして由加里を嫌うのか、わかっていない。ただ、彼女から自由になりたい。これまで、彼女と連れ合っていた過去を白紙に戻したいという望みを持っていた。そのような香奈見の態度は、由加里をことさら傷付けた。それは、照美や高田たちのいじめ行為とは、また違ったかたちで、彼女を痛め付ける結果となった。
「私はそんなのいやだからね」
「そんなこと言ってもさ、工藤さん ――――」
高田がなんと言おうとも、香奈見はがんとして、拒否し続けた。そして、いつのまにか、貝になってしまった。
「しかし、あの先生も、あれほど自分もいじめに参加しておきながら、よくもあんなこと言えるよな」
大石が言ったのは、傷ついた由加里を、クラス全体で励ましてやろうということだった。その具体的な内容を、クラスメートたちに、考えるように要求したのである。
「いじめっていうけど、私たち、あいつをいじめていたのかな?」
「それが問題よね」
高田の問いに、金江が答える。
「そう、そう、あたしたち、別に何も悪いことしてないのに、いじめって決めつけられるのもね ―――――」
青木ことりが割って入った。
「でも、いやじゃん、疑われたまま、あいつに登校拒否でもされたらさ ―――あいつ親達にも誤解されそうだし ――――自殺されて、裁判とかなっちゃうよ」
「そうだよね、うちらのせいにされちゃうって、後味わるー」
「じゃあ、こうしようぜ、期末、近いだろ? ノート持って行ってやるの」
「でも、うちらのノートなんて、バカにするんじゃない? あいつ勉強だけはできるじゃん、性格も人間性もさいてーだけどさ」
「そう、そう、人間として根本的なところが、欠けているよね、だから友達できないんだよ」
「でも、工藤さん、友達だったんでしょう!?」
青木ことりが藪を突っついた。案の定、蛇が這ってきた。その牙の威力は、ことりの予想を、しかし、はるかに超えていたのである。
「やめてよ!」
香奈見は、持っていた教科書を机に叩きつけた。その音は周囲の耳に突き刺さり、彼女が本気で怒っていることを、いまさらながら、知らしめた。
「やるなら、勝手にやってちょうだい、私は関係ないから」
「海崎さんは、どうなのよ、あれほど西宮さんで楽しんでおきながら ―――」
高田が、話しを振った。
「あれは、私のおもちゃだから、何時でも、私の思うときに遊べるのよ」
――――何時聞いても、こいつの言うことはむかつくな。
密かに、彼女はそう思ったが、口にすることができなかった。
「どうせなら、教室に持ってきて、みんな、一緒に遊ぼうよ」
金江が言った。
何れも、ぞっとする言葉遣いである。完全に、由加里を人間扱いしていないのである。彼女が自分たちがよってたかって、やってきたいじめによるものなどと、露ひとつも思いもしない。むしろ、自殺でなしに、単なる事故だと思っている。そのために、彼女の鈍くささをバカにするくらいなのである。
「あんたらで、勝手に遊べはいいさ ――――」
今度は、はるかの言だ。照美は、その声がなかったかのように、言葉を続ける。
「じゃあ、鈴木さんを使うしかないわね ―――」
「?」
鈴木とは、鈴木ゆららのことである。本人は、照美に自分の名前を呼ばれてぎょっとなったのか、香奈見の背後で、震えている。彼女は。海崎、高田の両派閥のどちらにも、属していない。
あえて言うなら、香奈見と一緒にいる。どっちも着かずの処世術で、常にいじめの犠牲者に堕ちずに済んできた。今も、この小さな中学生の頭部は、一体、誰が強者なのかの見極めに忙しいのだ。
小さいと書いたが、彼女は身長が143センチしかない。この年の14歳の、平均身長が156センチだから、その小ささがわかることだろう。ちなみに、その背では、小学校4年生の平均にすぎない。
ゆららは、香奈見を見た。無意識のうちに、彼女の助けを求めているのだ。しかし、彼女の保護者であるはずの香奈見は、一心不乱に読書にのめり込んでいる。
「・・・・・・・・・・」
ゆららは、焦点の定まらぬ目で、照美と高田を見比べた。
絶世の美少女と普通の女の子。あの照美と比較するなどと、あまりに高田に酷というものだ。たしかに、ゆららは少女であって、男子とは自ずから、見る目が違うかもしれない。しかしながら、たしかに、二人の人間としての格の違いを見て取った。
「そうね、鈴木さんなら適当かも」
ゆららは、頭からつま先までぶるぶると奮わせて、これから起こることに対して、身構えようとしていた。
家族の急変は、あおいの予想をはるかに超えていた。まるである時刻を境に、世界が一変してしまったかのようだ。自分は、何処か別世界に飛ばされてしまったとでもいうのだろうか。家も家具も、家族もみんな同じなのに、何かが決定的に違う。有希江がいつも身につけているイヤリングまで同じなのに、世界は、あおいにとって完全に異国になってしまった。ちなみに、それは、サーファーである彼からプレゼントされた品で、サーフボードを形取っている。
少女は、確かに家族とは違う流れに迷い込んでしまったのだ。皮肉なことに、元々、それは自ら望んだことだった。
今、あおいは風呂場にいる。昼間のこんな時間に、ここにいることは、今までほとんどなかったことだ。しかし、ここにいる理由も、普段とはまったく違う。今までほとんど家の手伝いなどしない彼女にとって、完全に不慣れなことだった。
シュシュシュという音が、この薄暗い空間に響く。何か、硬い者どうしを擦り合わせる音だ。
何処か孤独を思わせる音。現在、あおいが置かれている状況を例えてみるならば、巨大かつ堅牢な石たちに囲まれた中世の牢獄。その中では、白髪白髭の老人が、何のおまじないか、石と石を擦り合わせている。惨めなことに、この行為だけが、彼の世界に対する働きかけだとでも言うのだろうか。
何処か、ここでない世界を、うつろな目で見やりながら、からくり人形のように、両手を互いに動かしている。石が擦り合うのも恣意的なことでなしに、偶然のようにすら思える。それほどに、その音は、生身の人間が持つ意識というものを感じさせないのだ。
何度この単調な行為を繰り返してきたのであろう。何時、どんな理由で、ここに連れてこられ、閉じこめられたのか、老人は、今となっては憶えていない。ただ、単調で陰鬱な時間が過ぎていくだけだ。
昼間だというのに、アポロンの祝福から完全に無視されたこの場所にいると、時間の感覚などあさっての方向へと去っていく。
真冬の浴室は、凍えるほどに寒い。まるで、全身の血液が凍って、躰から飛び出てしまいそうだ。コーラの瓶を冷凍庫に入れたときのことを思いだしてほしい。スコンという音とともに、割れたはずだ。
その時と同じように、あおいはその可憐な心が壊れてしまいそうなのだ。
浴室の場合、それほど極端ではないが、プライバシーの保護の観点から、光が射さない場所にあるのが普通だ。このことが、余計に、この場所をシベリアの流刑地にしたてている。あおいは、実の家族から追放されたのだ。そして、この地で、頬を冷気で真っ赤にして、かじかむ手足を動かしている。
厳寒の中での風呂掃除。慣れぬ手つきで泡を擦りつけていく。その泡のひとつひとつが、割れずに凍ってしまいそうだ。吐き出す息は、あくまで白い。こんなところで、恵子おばさんは、何も文句を言わずに、掃除をしていたのだ。かつて、久子は家政婦を雇うと言ったのだが、自分でやると恵子は言ってきかなかった。
そして、久子は、あおいに浴室の掃除を命じた。それも、この寒空に、裸足でするように厳しく言ったのである。
――――寒い、寒いよぉ! 今まで手伝ってあげなくて、ごめんね、恵子おばさん。
思わず、涙がこぼれる。どうして、今まで手伝ってあげなかったのだろう。こんなに辛いことだとは夢にも思わなかった。
「ひ! 痛い! つうぅ!」
思わずスポンジを落としてしまった。タイルとタイルの凹凸に指をぶつけてしまったのか、知らぬうちに、血の糸が這っている。そのとき、背後から冷たい声が聞こえた。
「ちょっと! 家政婦! 何をさぼっているのよ」
「ま、茉莉ちゃん!?ひ!痛い!」
そう呼んだとたんに何か硬いものが飛んできた。その方向にふり返ると、はたして、妹の茉莉が立っていた。
「何言ってるのよ! あたしはお嬢様なのよ!」
「痛い! やめ!ひ!うぐ!」
抗議する余裕すら与えられずに、次ぎの攻撃が加えられる。茉莉の足先が、あおいのみぞおちに食い込む。まさか、そこが急所だとわかってやったわけではなかろうが、結果として、あおいに、徹底的なダメージを与えた。猛烈な苦痛のために、しばらく、呻き声すら出せない。冷たい脂汗が額に滲む。その不自然な温かさと、タイルの冷たさは、少女の精神を異常な不均衡へと導くのだった。
いや、それ以上にあれほどおとなしい妹の変貌を、容易に、認めることはできなかった。あれほど、従順で、姉になついていた妹がどうしたことだろう。まさか普段から、自分を憎んでいたのだろうか。あんなにおとなしい妹の仮面の裏で ――――――――。
「ま、茉莉ちゃん!」
「まだ言うの? 家政婦のくせに!」
その時、浴室の鏡に、自分を見た。茉莉の足下に、まるで犬か奴隷のように、惨めに転がる自分が見えた。そして、彼女は、そんな自分を平然と見下ろしている。親友かふたごの姉妹のように思っていたのは自分だけだったのだろうか。上の二人が、自分たちと年齢が隔たっているために、竹馬の友のように育った。あおいは、妹が自分に信頼のすべてを寄せてくれていると思っていた。
「ほら、ちゃんと働きなさいよ、家政婦でしょう?!」
「グ」
茉莉の足が今度は、背中を踏みつける。まるで巨大怪獣に踏みつけられたドームのように、無惨に崩れ落ちる。
「ヤメテ ――――」
その声は、まるで壊れたオルゴールを思わせた。悲鳴と簡単に表すには、あまりにも涙を内包していた。茉莉は、そんなことは構わずに容赦なく踏み潰す。
「グぎィ ・・・・・・・」
オルゴールは、ごく器械的な音とともに、完全に潰されてしまった。
「本当に、役に立たない家政婦ね、きっと、もうクビよ、あんたなんて生ごみみたいに捨てられちゃえばいいのよ!」
上から振ってくる声は、とても茉莉のそれとは思えない。しかし、確かに彼女の声なのだ。9年間、その声を聞いてきたあおいが保証するのだから、それは確かなことだ。
「どうして? こんなことするの?!」
あおいは、妹の顔を仰ぎ見た。
「・・・・・?!」
濡れた大きな瞳が、上目遣いに光る。その光は、茉莉の心の何処かを刺激した。その部分は ―――、少女の脳深く沈む記憶を、多少なりとも蘇らせたかもしれない。しかしながら、ここのところ、その家を包んだ空気は少女をさらなる攻撃に踏み切らせた。
「ィぐ!」
「ほら、ちゃんと拭くの!!」
「ウウ・ウ・ウ・・ウ・ウ・うう!!」
あおいは、茉莉の、いや、茉莉の背後に控える力に圧されて、ぞうきんを拾った。そして、それを再び、浴槽に擦りつけはじめる。
「ちゃんと、お仕事するのよ、ごほうびにエサを持ってきてあげたんだから」
――――この子は、こんなに喋る子だったけ?
凍ってしまいそうな涙に手足を滑らせながらも、ぞうきんを動かしながら思った。天と地が逆転するほどの、ショックに心を動揺させられながらも、一方で、ある部分は健在で、理性的な思考を有し、物事を達観するのだった。しかし、それを直に見せつけられるあおいとしては、たまったものではない。手足を椅子に縛り付けられて、悪口を無制限に聞かされるようなものである。例え、それがビデオやテープであっても、とうてい耐えうるものではないだろう。
「ウウ・・・ウ・ウ、なんで、どうして? お姉ちゃんが何をしたっているの? うう・う・う・・う」
さらに暴力を受けることがわかっていながら、どうしようもない言葉が零れてくる。それは、必ずしも、 茉莉に向けて発した言葉ではないかもしれない。
「お姉ちゃんって誰のこと?」
「ウウ・・ウ・ウ・・ウ・うう!」
茉莉が見たのは、姉の恨めしさに満ちた瞳だった。それは、さきほどの上目遣いの目と違って、明らかに姉の視線だった。すなわち、人を上から見る目つきである。それは姉としての威厳を意味した。
「・・・・・・・・!?」
さすがにひるむ茉莉。生まれてきたころから、その目で言い意味でも、悪い意味でも睨みつけられてきた妹の身である。さすがに上の二人は、姉とは言っても、巨樹すぎた。
その一方あおいとは、双子の姉妹のように育ったのである。しかしながら、そこにはたしかに位階なるものが存在した。
それを家族は否定したが、無意識のうちに、あおいを上座に据えていたのである。もちろん、一方では、「あおいはお姉ちゃんなんだから」と常々、言われつづけ、そのことで、不利益を蒙ってきたと主張するにちがいない。
しかし、そんなことは茉莉にとっては無意味である。単に、姉によって理不尽な支配を受けてきたとしか思えない。今、目の前に、あれほど優越を示していた姉が、無残にも這い蹲っている。いまや、自分の思うがままに動く人形でしかない。
このことは、少女に一種の快楽を与えている。奴隷を所有するということは、世界最高の快楽を得る反面、想像しがたい重荷を背負うことにも通じるのだ。
それは、少女が今まで感じたことのない感情である。しかし、それはわずか9歳の少女にとって、劇薬でしかない。先ほど描いた、姉によって支配を受けていたなどという意識があったわけではない。ただ、意識しない場所で怪物のように、蠢いているぶん、残酷さも容易にK点を超えてしまう。
「あんたなんて、家族じゃない! お姉ちゃんじゃない!!」
「ヤ、やめて! おねがい! 茉莉! いや! イタイ!」
茉莉はたまたま、摑んだモップを手にすると、あおいを殴り始めた。9歳の子供が10歳の子供に暴力を振っている。傍から見れば、単なる兄弟げんかにしか見えないかもしれない。しかし、これは歴っとしたドメスティックヴァイオレンスなのである。夢中で、振り上げたモップを振り下ろす。それは無意識により、支配の否定だったかもしれない。しかし、幼い茉莉には、自分が何をしているのか、わかっていなかった。いったい、何を否定し、拒否しているのかさえ理解していなかった。その行為によって、いかに愛するものを傷つけているということにも気づいていなかったのである。
子供の暴力というものは、際限がない分、度し難い。あおいの身体は、瞬く間に、赤いあざだらけになってしまう。
「せっかく、ご褒美を持ってきてあげたのに!」
恩着せがましく言う茉莉。あおいは、そんな妹が怖くてはたまらなくなった。
―――お姉ちゃん、あおいお姉ちゃん!!
そう言って、いつも彼女の後ろを付いてきた妹は、いったい何処に行ってしまったというのだろうか?
「ちょっと! あんたたち!何やっているのよ!」
突如として、有希江の声が響いた。その声は、茉莉の耳を劈いた。そして、彼女に恐怖心を与えるのに十分だった。
「・・・・・・・・・・・・・・・!?」
「止めなさい! 何やってるの!? バカ!!」
スリッパのまま、浴室に滑り込むと、有希江は、茉莉が振り上げたモップを鷲摑みにした。
「ゆ、有希江お姉ちゃ! ・・・いや!いや!」
「止めなさい! 茉莉!」
激しく暴れる茉莉を力で押さえ込もうとする。しかし、少女はなおも抵抗しようとする。その動きは、まるで混乱する少女の心を暗示しているように見えた。茉莉の手も自分の手もわからなくなったとき、有希江は、力任せに封じ込めるべく力を込めた。その時、悲劇は起こった。
ビシッ!!
「ィ、痛い!!ィイイイイイイ!!うううう!ゆ、有希江姉ちゃん?!」
あきらかに頭蓋を打つ鈍い音が、浴室に響いた。
モップの柄が、茉莉の小さな顔を直撃したのだ。その勢いでは、可愛らしい妹の頭は、まるで関羽の 青龍偃月刀よろしく、空へと吹き飛んでしまうのではないかと思わせた。
「有希江お姉ちゃん!! こいつは家族じゃないのよ!」
「ううう・う・うウウ・ウ・ウ・ウ・ウ・・ウ・う・う・う・・ううう!!」
あおいは、有希江に頭を撫でられると、姉の懐に飛び込んで、泣きじゃくりはじめた。
「気持ち悪くないの!!ううう!!」
茉莉も、負けずに泣き声を上げながら抗議の意を示す。
「いいかげんになさい! 茉莉!!」
「・・・・・・もう、知らない!!」
「茉莉!!」
有希江は、みぞおちに向かって言葉の刃を投げつけたが、梨の礫だった。痛くもかゆくもないという顔で、見下ろしてみせる。無理もない彼女の背後には、母親と徳子という絶対的な保護者がいるのだ。
茉莉は、あおいのすぐ目の前に、モップを投げつけると踵を返して出て行った。
「うううう・う・・う・・う・う・・ううう!! ひどい! 何も悪いことしていないのに! ウウ・ウ・ウ・・ウ・ウ・・・・・う・う・うううう!!」
モップがまっぷたつに割れる音は、さらにあおいの泣き声を高ぶらせた。
「ど、どうして? どうして、あおいがこんな目に、ああ、あわないといけないの!?ウウ・ウ・ウ・・ウ!何もわるいこと・・・・・・していないのに!!?ううう・う・・・うう・・う・うう!」
「わかってるわよ! あおい、後で話してみようね」
有希江の腕の中で、まるでモーターが振動しているように思えた。
―――たしかに、可哀想なはずなのに、この空虚感はなんだろう?
目の前で起こっていることは、非道の極致なはずなのだ。完全な幸せを謳歌していたはずの、榊家に一体、何が起こったのだろう。
両親の離婚や、ドメスティックバイオレンス、それに、兄弟姉妹の非行、有希江の同級生には、そのようなことで涙を流すものがいた。みんな有希江を慕ってその心を預けてくる。その中には、先輩すらいた。そのときは、心底彼等のことを同情し、その深い悲しみは、手に取るように理解できた。しかし、今度のことはどうだろう。あおいは大切な妹だ。しかし、彼等ほどに同情できない。いや、同情という感情が大風の前の砂のように、消え去ってしまったかのようだ。
加えて、彼等のような家族問題とは、榊家は無縁のはずだった。しかしながら、伯母の入院によって、あたかも歯車のひとつがおかしくなってしまったようだ。永年の使用によって、金属疲労でも起こったのか。榊家の何処か、おかしくなってしまった。
少女は、確かに家族とは違う流れに迷い込んでしまったのだ。皮肉なことに、元々、それは自ら望んだことだった。
今、あおいは風呂場にいる。昼間のこんな時間に、ここにいることは、今までほとんどなかったことだ。しかし、ここにいる理由も、普段とはまったく違う。今までほとんど家の手伝いなどしない彼女にとって、完全に不慣れなことだった。
シュシュシュという音が、この薄暗い空間に響く。何か、硬い者どうしを擦り合わせる音だ。
何処か孤独を思わせる音。現在、あおいが置かれている状況を例えてみるならば、巨大かつ堅牢な石たちに囲まれた中世の牢獄。その中では、白髪白髭の老人が、何のおまじないか、石と石を擦り合わせている。惨めなことに、この行為だけが、彼の世界に対する働きかけだとでも言うのだろうか。
何処か、ここでない世界を、うつろな目で見やりながら、からくり人形のように、両手を互いに動かしている。石が擦り合うのも恣意的なことでなしに、偶然のようにすら思える。それほどに、その音は、生身の人間が持つ意識というものを感じさせないのだ。
何度この単調な行為を繰り返してきたのであろう。何時、どんな理由で、ここに連れてこられ、閉じこめられたのか、老人は、今となっては憶えていない。ただ、単調で陰鬱な時間が過ぎていくだけだ。
昼間だというのに、アポロンの祝福から完全に無視されたこの場所にいると、時間の感覚などあさっての方向へと去っていく。
真冬の浴室は、凍えるほどに寒い。まるで、全身の血液が凍って、躰から飛び出てしまいそうだ。コーラの瓶を冷凍庫に入れたときのことを思いだしてほしい。スコンという音とともに、割れたはずだ。
その時と同じように、あおいはその可憐な心が壊れてしまいそうなのだ。
浴室の場合、それほど極端ではないが、プライバシーの保護の観点から、光が射さない場所にあるのが普通だ。このことが、余計に、この場所をシベリアの流刑地にしたてている。あおいは、実の家族から追放されたのだ。そして、この地で、頬を冷気で真っ赤にして、かじかむ手足を動かしている。
厳寒の中での風呂掃除。慣れぬ手つきで泡を擦りつけていく。その泡のひとつひとつが、割れずに凍ってしまいそうだ。吐き出す息は、あくまで白い。こんなところで、恵子おばさんは、何も文句を言わずに、掃除をしていたのだ。かつて、久子は家政婦を雇うと言ったのだが、自分でやると恵子は言ってきかなかった。
そして、久子は、あおいに浴室の掃除を命じた。それも、この寒空に、裸足でするように厳しく言ったのである。
――――寒い、寒いよぉ! 今まで手伝ってあげなくて、ごめんね、恵子おばさん。
思わず、涙がこぼれる。どうして、今まで手伝ってあげなかったのだろう。こんなに辛いことだとは夢にも思わなかった。
「ひ! 痛い! つうぅ!」
思わずスポンジを落としてしまった。タイルとタイルの凹凸に指をぶつけてしまったのか、知らぬうちに、血の糸が這っている。そのとき、背後から冷たい声が聞こえた。
「ちょっと! 家政婦! 何をさぼっているのよ」
「ま、茉莉ちゃん!?ひ!痛い!」
そう呼んだとたんに何か硬いものが飛んできた。その方向にふり返ると、はたして、妹の茉莉が立っていた。
「何言ってるのよ! あたしはお嬢様なのよ!」
「痛い! やめ!ひ!うぐ!」
抗議する余裕すら与えられずに、次ぎの攻撃が加えられる。茉莉の足先が、あおいのみぞおちに食い込む。まさか、そこが急所だとわかってやったわけではなかろうが、結果として、あおいに、徹底的なダメージを与えた。猛烈な苦痛のために、しばらく、呻き声すら出せない。冷たい脂汗が額に滲む。その不自然な温かさと、タイルの冷たさは、少女の精神を異常な不均衡へと導くのだった。
いや、それ以上にあれほどおとなしい妹の変貌を、容易に、認めることはできなかった。あれほど、従順で、姉になついていた妹がどうしたことだろう。まさか普段から、自分を憎んでいたのだろうか。あんなにおとなしい妹の仮面の裏で ――――――――。
「ま、茉莉ちゃん!」
「まだ言うの? 家政婦のくせに!」
その時、浴室の鏡に、自分を見た。茉莉の足下に、まるで犬か奴隷のように、惨めに転がる自分が見えた。そして、彼女は、そんな自分を平然と見下ろしている。親友かふたごの姉妹のように思っていたのは自分だけだったのだろうか。上の二人が、自分たちと年齢が隔たっているために、竹馬の友のように育った。あおいは、妹が自分に信頼のすべてを寄せてくれていると思っていた。
「ほら、ちゃんと働きなさいよ、家政婦でしょう?!」
「グ」
茉莉の足が今度は、背中を踏みつける。まるで巨大怪獣に踏みつけられたドームのように、無惨に崩れ落ちる。
「ヤメテ ――――」
その声は、まるで壊れたオルゴールを思わせた。悲鳴と簡単に表すには、あまりにも涙を内包していた。茉莉は、そんなことは構わずに容赦なく踏み潰す。
「グぎィ ・・・・・・・」
オルゴールは、ごく器械的な音とともに、完全に潰されてしまった。
「本当に、役に立たない家政婦ね、きっと、もうクビよ、あんたなんて生ごみみたいに捨てられちゃえばいいのよ!」
上から振ってくる声は、とても茉莉のそれとは思えない。しかし、確かに彼女の声なのだ。9年間、その声を聞いてきたあおいが保証するのだから、それは確かなことだ。
「どうして? こんなことするの?!」
あおいは、妹の顔を仰ぎ見た。
「・・・・・?!」
濡れた大きな瞳が、上目遣いに光る。その光は、茉莉の心の何処かを刺激した。その部分は ―――、少女の脳深く沈む記憶を、多少なりとも蘇らせたかもしれない。しかしながら、ここのところ、その家を包んだ空気は少女をさらなる攻撃に踏み切らせた。
「ィぐ!」
「ほら、ちゃんと拭くの!!」
「ウウ・ウ・ウ・・ウ・ウ・うう!!」
あおいは、茉莉の、いや、茉莉の背後に控える力に圧されて、ぞうきんを拾った。そして、それを再び、浴槽に擦りつけはじめる。
「ちゃんと、お仕事するのよ、ごほうびにエサを持ってきてあげたんだから」
――――この子は、こんなに喋る子だったけ?
凍ってしまいそうな涙に手足を滑らせながらも、ぞうきんを動かしながら思った。天と地が逆転するほどの、ショックに心を動揺させられながらも、一方で、ある部分は健在で、理性的な思考を有し、物事を達観するのだった。しかし、それを直に見せつけられるあおいとしては、たまったものではない。手足を椅子に縛り付けられて、悪口を無制限に聞かされるようなものである。例え、それがビデオやテープであっても、とうてい耐えうるものではないだろう。
「ウウ・・・ウ・ウ、なんで、どうして? お姉ちゃんが何をしたっているの? うう・う・う・・う」
さらに暴力を受けることがわかっていながら、どうしようもない言葉が零れてくる。それは、必ずしも、 茉莉に向けて発した言葉ではないかもしれない。
「お姉ちゃんって誰のこと?」
「ウウ・・ウ・ウ・・ウ・うう!」
茉莉が見たのは、姉の恨めしさに満ちた瞳だった。それは、さきほどの上目遣いの目と違って、明らかに姉の視線だった。すなわち、人を上から見る目つきである。それは姉としての威厳を意味した。
「・・・・・・・・!?」
さすがにひるむ茉莉。生まれてきたころから、その目で言い意味でも、悪い意味でも睨みつけられてきた妹の身である。さすがに上の二人は、姉とは言っても、巨樹すぎた。
その一方あおいとは、双子の姉妹のように育ったのである。しかしながら、そこにはたしかに位階なるものが存在した。
それを家族は否定したが、無意識のうちに、あおいを上座に据えていたのである。もちろん、一方では、「あおいはお姉ちゃんなんだから」と常々、言われつづけ、そのことで、不利益を蒙ってきたと主張するにちがいない。
しかし、そんなことは茉莉にとっては無意味である。単に、姉によって理不尽な支配を受けてきたとしか思えない。今、目の前に、あれほど優越を示していた姉が、無残にも這い蹲っている。いまや、自分の思うがままに動く人形でしかない。
このことは、少女に一種の快楽を与えている。奴隷を所有するということは、世界最高の快楽を得る反面、想像しがたい重荷を背負うことにも通じるのだ。
それは、少女が今まで感じたことのない感情である。しかし、それはわずか9歳の少女にとって、劇薬でしかない。先ほど描いた、姉によって支配を受けていたなどという意識があったわけではない。ただ、意識しない場所で怪物のように、蠢いているぶん、残酷さも容易にK点を超えてしまう。
「あんたなんて、家族じゃない! お姉ちゃんじゃない!!」
「ヤ、やめて! おねがい! 茉莉! いや! イタイ!」
茉莉はたまたま、摑んだモップを手にすると、あおいを殴り始めた。9歳の子供が10歳の子供に暴力を振っている。傍から見れば、単なる兄弟げんかにしか見えないかもしれない。しかし、これは歴っとしたドメスティックヴァイオレンスなのである。夢中で、振り上げたモップを振り下ろす。それは無意識により、支配の否定だったかもしれない。しかし、幼い茉莉には、自分が何をしているのか、わかっていなかった。いったい、何を否定し、拒否しているのかさえ理解していなかった。その行為によって、いかに愛するものを傷つけているということにも気づいていなかったのである。
子供の暴力というものは、際限がない分、度し難い。あおいの身体は、瞬く間に、赤いあざだらけになってしまう。
「せっかく、ご褒美を持ってきてあげたのに!」
恩着せがましく言う茉莉。あおいは、そんな妹が怖くてはたまらなくなった。
―――お姉ちゃん、あおいお姉ちゃん!!
そう言って、いつも彼女の後ろを付いてきた妹は、いったい何処に行ってしまったというのだろうか?
「ちょっと! あんたたち!何やっているのよ!」
突如として、有希江の声が響いた。その声は、茉莉の耳を劈いた。そして、彼女に恐怖心を与えるのに十分だった。
「・・・・・・・・・・・・・・・!?」
「止めなさい! 何やってるの!? バカ!!」
スリッパのまま、浴室に滑り込むと、有希江は、茉莉が振り上げたモップを鷲摑みにした。
「ゆ、有希江お姉ちゃ! ・・・いや!いや!」
「止めなさい! 茉莉!」
激しく暴れる茉莉を力で押さえ込もうとする。しかし、少女はなおも抵抗しようとする。その動きは、まるで混乱する少女の心を暗示しているように見えた。茉莉の手も自分の手もわからなくなったとき、有希江は、力任せに封じ込めるべく力を込めた。その時、悲劇は起こった。
ビシッ!!
「ィ、痛い!!ィイイイイイイ!!うううう!ゆ、有希江姉ちゃん?!」
あきらかに頭蓋を打つ鈍い音が、浴室に響いた。
モップの柄が、茉莉の小さな顔を直撃したのだ。その勢いでは、可愛らしい妹の頭は、まるで関羽の 青龍偃月刀よろしく、空へと吹き飛んでしまうのではないかと思わせた。
「有希江お姉ちゃん!! こいつは家族じゃないのよ!」
「ううう・う・うウウ・ウ・ウ・ウ・ウ・・ウ・う・う・う・・ううう!!」
あおいは、有希江に頭を撫でられると、姉の懐に飛び込んで、泣きじゃくりはじめた。
「気持ち悪くないの!!ううう!!」
茉莉も、負けずに泣き声を上げながら抗議の意を示す。
「いいかげんになさい! 茉莉!!」
「・・・・・・もう、知らない!!」
「茉莉!!」
有希江は、みぞおちに向かって言葉の刃を投げつけたが、梨の礫だった。痛くもかゆくもないという顔で、見下ろしてみせる。無理もない彼女の背後には、母親と徳子という絶対的な保護者がいるのだ。
茉莉は、あおいのすぐ目の前に、モップを投げつけると踵を返して出て行った。
「うううう・う・・う・・う・う・・ううう!! ひどい! 何も悪いことしていないのに! ウウ・ウ・ウ・・ウ・ウ・・・・・う・う・うううう!!」
モップがまっぷたつに割れる音は、さらにあおいの泣き声を高ぶらせた。
「ど、どうして? どうして、あおいがこんな目に、ああ、あわないといけないの!?ウウ・ウ・ウ・・ウ!何もわるいこと・・・・・・していないのに!!?ううう・う・・・うう・・う・うう!」
「わかってるわよ! あおい、後で話してみようね」
有希江の腕の中で、まるでモーターが振動しているように思えた。
―――たしかに、可哀想なはずなのに、この空虚感はなんだろう?
目の前で起こっていることは、非道の極致なはずなのだ。完全な幸せを謳歌していたはずの、榊家に一体、何が起こったのだろう。
両親の離婚や、ドメスティックバイオレンス、それに、兄弟姉妹の非行、有希江の同級生には、そのようなことで涙を流すものがいた。みんな有希江を慕ってその心を預けてくる。その中には、先輩すらいた。そのときは、心底彼等のことを同情し、その深い悲しみは、手に取るように理解できた。しかし、今度のことはどうだろう。あおいは大切な妹だ。しかし、彼等ほどに同情できない。いや、同情という感情が大風の前の砂のように、消え去ってしまったかのようだ。
加えて、彼等のような家族問題とは、榊家は無縁のはずだった。しかしながら、伯母の入院によって、あたかも歯車のひとつがおかしくなってしまったようだ。永年の使用によって、金属疲労でも起こったのか。榊家の何処か、おかしくなってしまった。
「あーら、どうしたの? 赤ちゃん? 出しちゃいなさいよ ――――」
「ヒイ! ひどい!ィイイイイ」
似鳥可南子の言葉は、由加里の精神ばかりか、肉体まで打ち砕く。悲鳴は、それによる苦痛の表明である。溲瓶を押しつける圧力はさらに増していく。
「ムグ・・ムギ・・・ウウ・ウ・・ウ・ウ」
緊張のあまり、膀胱付近の筋肉が過活動してしまったのだろう。尿がなかなか、顔を出さない。
「赤ちゃん!?」
「その赤ちゃんって・・・・・・・・ウ・ウウ・、や、やめてください! イウ・・ウ・・ウ・!!」
「排尿すら、一人で出来ないコが赤ちゃんじゃなくてなんなのよ」
とても白衣の天使とは思えない言葉に、由加里は絶句した。他の患者にもこんな風に接するのだろうか? いや、そんなことはありえない。おそらく、由加里にだけ、こんなことをするのだろう。そうでなければ、看護婦などやっていられるものではない。
由加里は、ジャガイモのような顔に、ぴあのやかなんの原型を見た。それは、うっすらと見えるサディステックな微笑みのことである。それに触れると、肛門に素手で、むんずと侵入され、脾臓を摑まれているような気がした。
あたかも、二人に責められているような気分になった。
――助けて! 海崎さん! 鋳崎さん!
少女の何処かに、二人は、確か棲んでいる。もう二人に助けを求めることに、疑問を感じない。それは、一つのあきらめだった可能性がある。
「ほら! はやく出すのよ! 患者さんは、あんたたけじゃないのよ! 赤ちゃん!」
排尿を意思に反して、こばんでいる由加里に対して、情け容赦ない言葉の暴力が投げつけられる。
「れ? 何だろう? 何か、濡れてきてない? これって? おしっこじゃないよね、赤ちゃん?!」
「ひ!ぃっっい!!」
ふと、力を抜いたせいなのか、わざとなのかわからないが、ガラスの淵が、由加里の小陰脚にめりこんだ。そこの部分だけ、もりあがっているだめに、見方によれば男子の亀頭に見えないこともない。
「ぁ、汗です!」
少女は、かって照美とはるかに、言ったいい訳を繰り返した。あれほど苦しい訳は珍しいだろう。
―――ああ、あれは正夢だったのかしら?
あまりの悲しさに涙すら出なかった。未だに、自分が立っている場所がわからない。自分が本当にこんなところにいることが考えられなかった。
―――これから、期末テストだ。それさえ、終われば楽しい夏休みが待っている。今度の夏休は、香奈見ちゃんたちと、旅行に行くんだ。はじめて友達だけで行くことを、ずっと前から楽しみにしていた
―――――はずなのに。いま、私は何をしてるんだろう? 誰も彼もから、いじめられ、精神的にボロボロにされたあげくに、車に飛び込んだ。
そして、いま、こんなところで、他人の前で、恥ずかしいところを丸出しにしてる。どうして、死ねなかったんだろう!? 生き地獄よ。神さまは、どれほど私が傷つけば死なしてくれるの!?
由加里は無表情だったが、その実、千差万別の感情に翻弄されていた。
そんな少女に、さらに侮辱の言葉が投げつけられる。それは、ちょうど、唾入りのジュースを頭からかけられることに、似ていた。
「こんなに濡らしちゃうなんて、もしかして、赤ちゃんたら、もう体験しているのかしら?」
ヘンにしなを作った表情は、かなんよりも、さらにパワーアップされた気色悪さだった。いや、ハイグレードと言ったほうが適当かもしれない。
「うぐぐぐぐググググ・・・・・・ウ・ウ・ウ・ウ・ルグ!?」
可南子の操る溲瓶は、由加里の膣の中にめり込んでいく。そして、奥に嵌るにつれて、いやらしい粘液が、溲瓶のなかに、そのおぞましい触手を伸ばしていくのだった。それは、まるでナメクジのように、見えた。
「やっぱり、おしっこじゃなくて、こんなのを出したかったのね、本当にいやらしい赤ちゃんね」
「ウウ・ウ・ウ・・ウ・ウ・ウウ!」
ついに、落涙を我慢できなくなった。銀色の氷柱が、液体の水にならずに、幾つも、音もなしにこぼれ落ちる。どうして、それらは透明なのだろう。可哀想な女の子が流した血がイッパイ含まれているというのに、一点の汚濁もない。
本当に、人間から涙が枯れるということはありえないのだろうか。
「オネガイです! 出ちゃう!」
「まあ、はしたない声、いいでちゅよ、赤ちゃん ―――」
咄嗟に、溲瓶を引き抜いて、尿道が真ん中にくるように、はめ直す。そのとたん ――――。
「ぃいやああああ・あああ!」
シャアアアアアアア ―――――。
少女の泣き声と、尿の発射音が同時に聞こえた。それらは奇妙なハーモニーを作って、病室に嗜虐と羞恥心の絡み合いの虹を作る。
「・・・・・・・・ウ・ウ・・ウ・ウ・・ウウ!」
被虐のヒロインは、不自由な体を必死に、曲げて、現実から背を向けようとしている。顔をあさっての方向に向けて、必死に可南子の視線から逃げようとしている、
「そんなに泣かなくてもいいでしょう? ただ、淫乱な中学生だってことがバレちゃっただけじゃない?」
「・・・・・ウ・ウ・ウ・・ウ・ウ・ウウウ! そんなのちがいます! ウウ・ウ・ウ・・ウ・ウ・ウ・・ウウ!」
由加里は、偽りの衣服を着せられることには、いい加減に慣れているはずだった。しかし、自分の母親のような年の女性に言われるのは、またショックの度合いと質がちがう。
「・・・・・・・?!」
可南子をちらっと見てみると、彼女はあからさまに嘲りと同情の入り交じった表情を向けている。それは、少女の自尊心を粉々に砕いた。しかし、それだけでは済まなかった。
「う・・・・・・・?!」
事もあろうか、彼女は溲瓶の口を鼻に近づけて、くんくんと臭いをかぎ始めたのだ。由加里は、常識からすれば、とても信じられない行動に、ただ呆然とするしかない。
「スゴイ臭いだわ、それに尿とは別の成分も含まれているわね、きっと、とてもえっちな成分が含まれているにちがいないわね―――」
「ヤメテ!もう、いや!アアアア・・ア・ア・ア・・ア・・ア!」
由加里は、両手で両耳を覆うと、泣きわめきはじめた。涙と鼻水が、透明な氷柱を作る。
「とにかく、これは叔父に、ちゃんと調べてもらうわ」
「そんな・・・・・・」
少女は気が気でなかった。一体、どんなものが出てくるというのだろうか?
「そうだ、叔父っていうのは、ここの院長なのよ。あなたを診てくれた先生よ」
――――――――え!? あれって、正夢だったの? じゃビデオも!?
由加里は、周囲を見回した。総て撮影、録画されているのだろうか?それは、完全に悪夢だった。
――――この看護婦さんは、病院で相当の力を持っているんだ・・・・・。由加里は生きた心地がしない。これから、かなんにされたように、性的なおもちゃにされるのだろうか。いや、彼女自身がここに来るかもしれない。そんな目に合うなら ――――――――。
少女は、ふと窓の外を見た。この病室は地上6階である。彼女がかつて読んだ『完全自殺マニュアル』によれば、「確実に死ぬためには、最低、10階までは登るべきだ」と書いてあった。古本屋でたまたま見つけたのだが、すぐに放り出してしまったことを憶えている。そのあまりにリアルさに怖れを為したのである。
ただし、ここでいうリアルさとは、自殺の過程や手段が克明だったということではない。いま、彼女がおかれている状況が、端的に、それを物語っている。すなわち、動機という側面において、刹那的なリアルさを感じざるを得なかったのである。
―――あら? 何処を見ているの? これから死ぬつもりなの? なら、今すぐにでもどう?
もしも、照美ならそう言いそうである。人間に対する洞察力に優れた彼女のこと、そのくらいのことは、簡単に、見抜いてしまいそうだ。
そのころ、照美はどうしていたのだろうか。
もうもうと、白い霞みが、海崎家の居間を覆っていた。朝日は、それに跳ね返されて、ごく一部しか室内に侵入できなかった。しかし、言っておくが、海崎家に喫煙の習慣がある者はいない。長時間にわたる話し合いがもたらした産物だった。
話し合い? それは、平和的で協調に満ちた、意見の交換のことを言うのだ。今回、この戦場にて、行われた銃弾の応酬を表現するのに、それは、全く適当ではない。
それは、昨夜から、いや、昨日の夕刻から、延々と続いた。実に、12時間。ついに、互いに精も魂も尽き果ててしまったのである。
海崎家の三人と、鋳崎はるか。
参戦者の4人は、伸びすぎた舌と手足を、なんとかまとめようとしている。それらは、この戦で使った武器の類だ。朝が来たとはいえ、とても、その日の労働に耐えそうにない。
あるものは、頭を抱えて、眠気をなんとか堪えようとするし、あるものはソファに首まで寝っ転がって、憂さを払おうとしている。まるで、一家心中のちのような暗鬱たる空気が、立ちこめている。それは、先ほど述べた通り、朝日すら拒む霞みを産む。
テーブルの上を見れば、出前と思われるラーメンが4つほど、うららかに鼻歌を歌っている。濁ったオレンジ色の沼には、ボウフラすら育たない。その様子は、この家で起こったことを暗示しているように思えた。
その停滞した空気を一掃するまで、行かなくても、一石を投ずるぐらいの効果を為した者がある。
「私、学校に行く」
「照美 ―――」
百合絵が、娘の言葉に、何とか応じようとする。しかし、上手く声が出ない。近来、まれに見る長期戦に脳を浪費したせいだろうか。脳も発声器官も本来の能力を発揮できない。
「何も食べなくて良いの」
それでも、ようやく人語らしきものを発することが出来た。しかし、照美は照美で、短い反応しかできない。
「いい ――――」
ゆらゆらと鞄を使って、立ち上がろうとする。何と、鞄を自室に持って帰る暇なく、議論が始まったのである。何とか、立ち上がると、母親に背中を向けようとする。その瞬間に、彼女の肩に誰かが、手を掛けた。
「照美、待てよ!」
はるかは、二人よりもやや勢力が余っていると見えて、より人語に近い。
―――――ふん
実際にそう言ったわけではないが、照美は、肩でそれを拒否すると、廊下に出て行った。
「はるか」
「わかっているよ、百合絵ママ ―――」
短く答えると、はるかも照美に続く。二人とも、着替えもせずに議論を続けたために、制服の所々に、皺が寄っている。
「・・・・・・・・・・!」
はるかは、ごく自然に照美の横に並んだ。しかし、彼女は別段拒否するわけでもなく、いつものように、敷地を出る。
「・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・」
無言のまま、学校を目指す。端から見れば、普通に仲が良い友人どうしに見えたことであろう。だが、二人は見えないところで、まさに冷戦のごとく凍った火花を散らしているのである。
「あーら、おはよう、照美ちゃんに、はるかちゃん ――――」
近所の人たちは、普段と同じように、挨拶をしてくる。それに瑕疵なく返してくるので、みんな何事もなかったかのように笑っている。爽やかな朝を満喫している。昨夜、この地で何があったのかも知らずに、当然のように平和を謳歌している。
しかしながら、これから教室のものたちは、これまで感じたことのない恐怖をもって、彼女らを迎えることになるのである。
「ヒイ! ひどい!ィイイイイ」
似鳥可南子の言葉は、由加里の精神ばかりか、肉体まで打ち砕く。悲鳴は、それによる苦痛の表明である。溲瓶を押しつける圧力はさらに増していく。
「ムグ・・ムギ・・・ウウ・ウ・・ウ・ウ」
緊張のあまり、膀胱付近の筋肉が過活動してしまったのだろう。尿がなかなか、顔を出さない。
「赤ちゃん!?」
「その赤ちゃんって・・・・・・・・ウ・ウウ・、や、やめてください! イウ・・ウ・・ウ・!!」
「排尿すら、一人で出来ないコが赤ちゃんじゃなくてなんなのよ」
とても白衣の天使とは思えない言葉に、由加里は絶句した。他の患者にもこんな風に接するのだろうか? いや、そんなことはありえない。おそらく、由加里にだけ、こんなことをするのだろう。そうでなければ、看護婦などやっていられるものではない。
由加里は、ジャガイモのような顔に、ぴあのやかなんの原型を見た。それは、うっすらと見えるサディステックな微笑みのことである。それに触れると、肛門に素手で、むんずと侵入され、脾臓を摑まれているような気がした。
あたかも、二人に責められているような気分になった。
――助けて! 海崎さん! 鋳崎さん!
少女の何処かに、二人は、確か棲んでいる。もう二人に助けを求めることに、疑問を感じない。それは、一つのあきらめだった可能性がある。
「ほら! はやく出すのよ! 患者さんは、あんたたけじゃないのよ! 赤ちゃん!」
排尿を意思に反して、こばんでいる由加里に対して、情け容赦ない言葉の暴力が投げつけられる。
「れ? 何だろう? 何か、濡れてきてない? これって? おしっこじゃないよね、赤ちゃん?!」
「ひ!ぃっっい!!」
ふと、力を抜いたせいなのか、わざとなのかわからないが、ガラスの淵が、由加里の小陰脚にめりこんだ。そこの部分だけ、もりあがっているだめに、見方によれば男子の亀頭に見えないこともない。
「ぁ、汗です!」
少女は、かって照美とはるかに、言ったいい訳を繰り返した。あれほど苦しい訳は珍しいだろう。
―――ああ、あれは正夢だったのかしら?
あまりの悲しさに涙すら出なかった。未だに、自分が立っている場所がわからない。自分が本当にこんなところにいることが考えられなかった。
―――これから、期末テストだ。それさえ、終われば楽しい夏休みが待っている。今度の夏休は、香奈見ちゃんたちと、旅行に行くんだ。はじめて友達だけで行くことを、ずっと前から楽しみにしていた
―――――はずなのに。いま、私は何をしてるんだろう? 誰も彼もから、いじめられ、精神的にボロボロにされたあげくに、車に飛び込んだ。
そして、いま、こんなところで、他人の前で、恥ずかしいところを丸出しにしてる。どうして、死ねなかったんだろう!? 生き地獄よ。神さまは、どれほど私が傷つけば死なしてくれるの!?
由加里は無表情だったが、その実、千差万別の感情に翻弄されていた。
そんな少女に、さらに侮辱の言葉が投げつけられる。それは、ちょうど、唾入りのジュースを頭からかけられることに、似ていた。
「こんなに濡らしちゃうなんて、もしかして、赤ちゃんたら、もう体験しているのかしら?」
ヘンにしなを作った表情は、かなんよりも、さらにパワーアップされた気色悪さだった。いや、ハイグレードと言ったほうが適当かもしれない。
「うぐぐぐぐググググ・・・・・・ウ・ウ・ウ・ウ・ルグ!?」
可南子の操る溲瓶は、由加里の膣の中にめり込んでいく。そして、奥に嵌るにつれて、いやらしい粘液が、溲瓶のなかに、そのおぞましい触手を伸ばしていくのだった。それは、まるでナメクジのように、見えた。
「やっぱり、おしっこじゃなくて、こんなのを出したかったのね、本当にいやらしい赤ちゃんね」
「ウウ・ウ・ウ・・ウ・ウ・ウウ!」
ついに、落涙を我慢できなくなった。銀色の氷柱が、液体の水にならずに、幾つも、音もなしにこぼれ落ちる。どうして、それらは透明なのだろう。可哀想な女の子が流した血がイッパイ含まれているというのに、一点の汚濁もない。
本当に、人間から涙が枯れるということはありえないのだろうか。
「オネガイです! 出ちゃう!」
「まあ、はしたない声、いいでちゅよ、赤ちゃん ―――」
咄嗟に、溲瓶を引き抜いて、尿道が真ん中にくるように、はめ直す。そのとたん ――――。
「ぃいやああああ・あああ!」
シャアアアアアアア ―――――。
少女の泣き声と、尿の発射音が同時に聞こえた。それらは奇妙なハーモニーを作って、病室に嗜虐と羞恥心の絡み合いの虹を作る。
「・・・・・・・・ウ・ウ・・ウ・ウ・・ウウ!」
被虐のヒロインは、不自由な体を必死に、曲げて、現実から背を向けようとしている。顔をあさっての方向に向けて、必死に可南子の視線から逃げようとしている、
「そんなに泣かなくてもいいでしょう? ただ、淫乱な中学生だってことがバレちゃっただけじゃない?」
「・・・・・ウ・ウ・ウ・・ウ・ウ・ウウウ! そんなのちがいます! ウウ・ウ・ウ・・ウ・ウ・ウ・・ウウ!」
由加里は、偽りの衣服を着せられることには、いい加減に慣れているはずだった。しかし、自分の母親のような年の女性に言われるのは、またショックの度合いと質がちがう。
「・・・・・・・?!」
可南子をちらっと見てみると、彼女はあからさまに嘲りと同情の入り交じった表情を向けている。それは、少女の自尊心を粉々に砕いた。しかし、それだけでは済まなかった。
「う・・・・・・・?!」
事もあろうか、彼女は溲瓶の口を鼻に近づけて、くんくんと臭いをかぎ始めたのだ。由加里は、常識からすれば、とても信じられない行動に、ただ呆然とするしかない。
「スゴイ臭いだわ、それに尿とは別の成分も含まれているわね、きっと、とてもえっちな成分が含まれているにちがいないわね―――」
「ヤメテ!もう、いや!アアアア・・ア・ア・ア・・ア・・ア!」
由加里は、両手で両耳を覆うと、泣きわめきはじめた。涙と鼻水が、透明な氷柱を作る。
「とにかく、これは叔父に、ちゃんと調べてもらうわ」
「そんな・・・・・・」
少女は気が気でなかった。一体、どんなものが出てくるというのだろうか?
「そうだ、叔父っていうのは、ここの院長なのよ。あなたを診てくれた先生よ」
――――――――え!? あれって、正夢だったの? じゃビデオも!?
由加里は、周囲を見回した。総て撮影、録画されているのだろうか?それは、完全に悪夢だった。
――――この看護婦さんは、病院で相当の力を持っているんだ・・・・・。由加里は生きた心地がしない。これから、かなんにされたように、性的なおもちゃにされるのだろうか。いや、彼女自身がここに来るかもしれない。そんな目に合うなら ――――――――。
少女は、ふと窓の外を見た。この病室は地上6階である。彼女がかつて読んだ『完全自殺マニュアル』によれば、「確実に死ぬためには、最低、10階までは登るべきだ」と書いてあった。古本屋でたまたま見つけたのだが、すぐに放り出してしまったことを憶えている。そのあまりにリアルさに怖れを為したのである。
ただし、ここでいうリアルさとは、自殺の過程や手段が克明だったということではない。いま、彼女がおかれている状況が、端的に、それを物語っている。すなわち、動機という側面において、刹那的なリアルさを感じざるを得なかったのである。
―――あら? 何処を見ているの? これから死ぬつもりなの? なら、今すぐにでもどう?
もしも、照美ならそう言いそうである。人間に対する洞察力に優れた彼女のこと、そのくらいのことは、簡単に、見抜いてしまいそうだ。
そのころ、照美はどうしていたのだろうか。
もうもうと、白い霞みが、海崎家の居間を覆っていた。朝日は、それに跳ね返されて、ごく一部しか室内に侵入できなかった。しかし、言っておくが、海崎家に喫煙の習慣がある者はいない。長時間にわたる話し合いがもたらした産物だった。
話し合い? それは、平和的で協調に満ちた、意見の交換のことを言うのだ。今回、この戦場にて、行われた銃弾の応酬を表現するのに、それは、全く適当ではない。
それは、昨夜から、いや、昨日の夕刻から、延々と続いた。実に、12時間。ついに、互いに精も魂も尽き果ててしまったのである。
海崎家の三人と、鋳崎はるか。
参戦者の4人は、伸びすぎた舌と手足を、なんとかまとめようとしている。それらは、この戦で使った武器の類だ。朝が来たとはいえ、とても、その日の労働に耐えそうにない。
あるものは、頭を抱えて、眠気をなんとか堪えようとするし、あるものはソファに首まで寝っ転がって、憂さを払おうとしている。まるで、一家心中のちのような暗鬱たる空気が、立ちこめている。それは、先ほど述べた通り、朝日すら拒む霞みを産む。
テーブルの上を見れば、出前と思われるラーメンが4つほど、うららかに鼻歌を歌っている。濁ったオレンジ色の沼には、ボウフラすら育たない。その様子は、この家で起こったことを暗示しているように思えた。
その停滞した空気を一掃するまで、行かなくても、一石を投ずるぐらいの効果を為した者がある。
「私、学校に行く」
「照美 ―――」
百合絵が、娘の言葉に、何とか応じようとする。しかし、上手く声が出ない。近来、まれに見る長期戦に脳を浪費したせいだろうか。脳も発声器官も本来の能力を発揮できない。
「何も食べなくて良いの」
それでも、ようやく人語らしきものを発することが出来た。しかし、照美は照美で、短い反応しかできない。
「いい ――――」
ゆらゆらと鞄を使って、立ち上がろうとする。何と、鞄を自室に持って帰る暇なく、議論が始まったのである。何とか、立ち上がると、母親に背中を向けようとする。その瞬間に、彼女の肩に誰かが、手を掛けた。
「照美、待てよ!」
はるかは、二人よりもやや勢力が余っていると見えて、より人語に近い。
―――――ふん
実際にそう言ったわけではないが、照美は、肩でそれを拒否すると、廊下に出て行った。
「はるか」
「わかっているよ、百合絵ママ ―――」
短く答えると、はるかも照美に続く。二人とも、着替えもせずに議論を続けたために、制服の所々に、皺が寄っている。
「・・・・・・・・・・!」
はるかは、ごく自然に照美の横に並んだ。しかし、彼女は別段拒否するわけでもなく、いつものように、敷地を出る。
「・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・」
無言のまま、学校を目指す。端から見れば、普通に仲が良い友人どうしに見えたことであろう。だが、二人は見えないところで、まさに冷戦のごとく凍った火花を散らしているのである。
「あーら、おはよう、照美ちゃんに、はるかちゃん ――――」
近所の人たちは、普段と同じように、挨拶をしてくる。それに瑕疵なく返してくるので、みんな何事もなかったかのように笑っている。爽やかな朝を満喫している。昨夜、この地で何があったのかも知らずに、当然のように平和を謳歌している。
しかしながら、これから教室のものたちは、これまで感じたことのない恐怖をもって、彼女らを迎えることになるのである。
清冽な朝日が、病室に差し込んでくる。もう、夏休みは間近だ。しかし、いつものウキウキとした気分は皆無だ。
このところ、由加里は自己嫌悪に苦しんでいる。自分は醜くて、臭いのだ、だから、みんなに嫌われていじめられる。そんな固定観念にはがいじめにされている。そのために、自分の醜い姿を顕わにする夏の太陽は大嫌いになった。他人から見れば、嫉妬するほど知性と容姿に恵まれているにも、かかわらずだ。
「おはようございます」
「あ、お、おはようございます」
似鳥可南子が病室に入ってきたのだ。その顔には、満面の笑顔が滲んでいる。
いろいろな理由によって、切り刻まれてはいても、由加里は、辛うじて、挨拶を返すことができた。
思えば、ほとんど眠れない夜だった。それはいじめられるようになって、珍しいことではなくなったが、中途半端に眠れなくてよかったと思っている。なぜならば、そういう夜は、夢を見るからだ。大抵、悪夢となる。夢の中でも、いじめっ子たちは、由加里に安寧を与えないのだ。
「どう? よく眠れた?」
似鳥可南子は、ざっくばらんに話しかけてくる。こういうことに、慣れているのだろうか。いじめられて、いじめられて、ぼろぼろになった女の子に、話しかけることに。
時計を見ると、ちょうど、午前7時を指し示している。よく学校にあるアナログの時計だ。昔は、といっても、ごく数ヶ月前のことだが、由加里は、デジタル時計よりも、こちらの方が好きだった。4:45というように、観察者に斟酌を与える余裕を与えずに、情報を押しつけてくる。それが、デジタル方式に、親しみをあまり感じることができなかった理由でもある。しかし、それは二次的な理由にすぎない。本当の理由は、他にある。
もちろん、その理由は、度重なったいじめにあることは、解答を待たないであろう。
何よりも、あの丸いアナログ時計は、学校を彷彿とさせる。小学校、中学校、それに高校を問わず、学校という学校には、少なくとも一台は、あの丸いヤツが大きな顔をしている。
学校と言えば、黒板と並んで、あれを思い浮かべる人も多いのではないか。
今や、由加里にとって、学校はイコール地獄を意味する。それまで、少女を養い温かく育んでくれた揺りかごのイメージは、もう何処にもない。ただ、あるのは、絶えず拷問が繰り広げられる煉獄だけだ。かつて、無邪気な顔で、教師を慕い、級友と友情を育んだうららかな牧場は存在しないのだ。
少なくとも、由加里にとっては、学校は牧場ではない。
もっとも、いじめっ子たちにとっては、未だに牧場なのかもしれない。そうなると、さしずめ、由加里は牧場の草だろうか。いや、こういう比喩のほうが適当だろう、すなわち、学校はサファリパークであり、いじめっ子たちは、猛獣や禽獣のたぐい、そして、由加里は生きながらにしてエサにされる草食動物である。ちなみに、教師は、安全なバスから、この無惨なショーを見物する客たちであろう。
この時、由加里は、自分がいじめっ子たちをこの世でもっとも憎んでいると思っていた。高田や金江たち、それにテニス部の面々。単純に、少女をサディズム解消のための道具だとみなしている連中のことだ。しかし、本当に憎んでいたのは、見て見ぬフリをする教師連中だったのである。この時は、それに気づく余裕がなかった。
「ちゃんと、食べなきゃだめよ」
「・・・・・・ハイ」
由加里は、寝台の上に設えられたテーブルを見つめた。そこには、まるで小学校の給食のような朝食が並んでいる。
諸君! ここで想像すべきはあなた方を苦しめたあの給食なのだ。栄養は、ちゃんと計算してあるのかもしれないが、味を全く考慮していない。いわゆる、記憶に刻まれている通り、あのまずい給食だ。由加里が小学校時代に、食べた給食とは、諸君が食べた、いや、食べさせられたエサとは似ても似つかないごちそうである。ゆとり世代で学力的に甘やかされた世代は、食べるものまで、スポイルされているのである。
話しを元に戻そう。閑話休題(ソレハサテオキ)。
「美味しくない?」
「え? ううん、とんでもないです」
由加里は、塩気のほとんどない病院食を、ようやく口にした。グラタン、いや、グラタンのようなモノは、完全に冷え切って、ゴムのようになっていた。
―――ふうん、珍しい子ねえ。
可南子は、少女に最近の子どもたちと、何処かちがうものを感じていた。どちらかというと、自分たちが子どもだったときと共通点を見いだしていた。
「なら、早く退院できるようになるといいね」
「はい ―――――ウウ・ウ・ウ・ウ・・・ウウ」
――どうしたのだろう? 私は。
由加里は、涙を流しながら、人事不省に陥っていた。少しでも優しい声をかけられると無条件に涙がこぼれる。その涙に温度は、まったく感じない。ただ、頬が濡れるのを関知するだけである。
「ぁ」
「どうしたの? 西宮さん」
「あ、動いちゃだめヨ」
「ぃゃ・・・・・・・・・・・・・・」
可南子は、ベッドから降りようとする由加里を制した。しかし、少女はいやいやをして、なおも不自由な躰を動かそうとする。動かせば、動かすほど尿意は、奔流のように由加里を責め続ける。自尊心と本能の狭間で、少女は悶え苦しんでいる。
「おかしい子ねえ、あなたは怪我をしているのよ ―――あそうか、おトイレね」
「――――――――」
由加里の様子から、満足な返事が得られなくても、自ずからその理由は知れた。
「連れて・・・・・・イッテクダサイ・・・」
「ダメよ、溲瓶ならここに用意してあるから、それとも大? 」
可南子は、部屋の外にまで聞こえるように、わざと大きな声をだした。首の根っこまで真っ赤になって、由加里は俯いた。
―――溲瓶って? もしかして、お年寄りの介護で使う器具よね。
少女の目の色が、不安色に染まっていく。
――――幼稚園児の前で、放尿した子が何を言っているのよ!
「え?!」
妄想の声に驚いて、由加里は頬を強ばらせた。
「あなたは中学2年生でしょう? 小学生でも言うことは聞くわよ」
まるで幼児に言うような口ぶりだ。悪気はないのだろうが、由加里に取ってみれば、恥辱以外の何物でもない。チューインガムを噛んでいる音が何処からか聞こえた。そうだ、照美とはるかに、その性を嬲られているとき、似鳥ぴあのは、チューインガムを噛んでいたことがあった、
「わかったの?」
「・・・・・・・」
「返事は?!」
急に居丈高な態度になった。しかし、それに叛意を示す余裕があるわけはない。
「ハイ・・・・・・」
可南子の顔は、教室に巣くういじめっ子たち、そのものに見えた。
「良い子、良い子・・・・ウフフフ」
満足そうに、微笑を浮かべる可南子。すると部屋の奥から、何やら透き通るものを取り出した。
「これが、溲瓶っていうのよ」
「か、看護婦さん、オネガイ」
溲瓶は、由加里の方向に、がま首を擡げていた。ひとつしかない目で睨みつけてくる。その様子は、まるで、少女を取って喰うようだ。
由加里の目には、透明なガラス製の器具など入らない。尿意が限界を超えているのだ。股間からはい上がってくる黒い悪魔に、少女は戦いた。まるで。100万匹の蟻が、少女の顔鼻の穴を目掛けて、一斉に登ってくるようだ。もはや、猶予はない。
「さて、ここに孔があるわね、」
「アア・・・、は、はやく!」
「慌てないのよ、お嬢さん」
可南子は、由加里が慌てれば慌てるほどに、わざとのろのろと動きを緩慢にしていく。わざとじらす。
「答えて、ここを何処に当てればいいの?」
「ァ・・ァ、そんな、意地悪しないで ―――」
由加里は全身を目にして、蟻の一匹、一匹を確認する。それらが登ってくるオゾマシイ感触は、筆舌に尽くしがたい。早く、この状況から逃げ出したい。そのためなら、何でもする。仮に目の前に幼気な子犬がいたとする。そして、拳銃が目の前にあるとする。もしも、唯一の望みが叶うならば、その自由な右手で、子犬を撃ち抜くことも厭わないかもしれない。
「こ、コカンです」
「ぁあ! いや!」
「どうしたの? 股間に当てるんじゃないの?」
可南子は、溲瓶の口を、由加里の股間に宛っている。しかし、ズボンの上からである。
「うぐぐうぐ!」
しかし、そのまま力任せに、食い込ませる。
「ひいぎいぃ! いやあ!! や、やめて!!」
「ぬ、脱ぎますから!や、やめて!」
「じゃあ、何処に当てればいいの?」
「はだ、ハダカの股間です・・・ウウ・ウ・・ウ・ウ・ウ!」
「自分じゃ脱げないの? じゃ、私が脱がしてあげる!」
「ウウ・ウ・ウ・ウ・・ウ・ウウ!!」
可南子は、下着ごと、ズボンを脱がしてしまった。
「アア・・ア・ア・ア」
由加里は、顔を埋めて、恥ずかしがる。涙が指と指の間から漏れる。
―――何をはずがしがっているのかしら!? さんざん、みんなに見られて、おもちゃにされたくせに!
少女の耳に、またもや、幻聴が入り込んでくる。
「あーれ? まだ生えてないんだ!?赤ちゃんみたい」
「ウグググウウ・・・ウ・・ウ! ひどい!」
由加里は、泣き声で抗議した。しかし、可南子にはそんなものが通じるはずはない。
「でも、かわいいな、ぴくぴく、震えているわよ」
「ウウ・ウ・ウ・ウ・ウ・・ウ・ウウ! お、オネガイですから! ウウウ・ウ・ウウ・ウ・・ウ!!」
「きっと、西宮さんは露出狂なのね、だから毛が生えてこないんだわ。みんなに見て欲しいって言ってるのよ、ココが!」
「ウウ・ウ・ウ・ウ・ウ! ひどい!」
少女の中で、何かが壊れる音がした。自分は何処に行ってもいじめられるのか。ならば、本当に、自分は醜くて臭いのだろうか?本当に、これまでの人生はウソだったのだろうか?あのチヤホヤされた日々は、一体なんだったのだろう。
これまで、何回も反芻してきた問いが、あふれんばかりの尿意の中で、息を吹き返した。
「ちゃんと、言いなさいよ、何処にこれをつけたらいいの?」
いつの間にか、口調が変わっていることに、由加里は気づかなかった。
「おま、お○んこです」
「えー!? そんなハシタナイこと言う子だったんだ?! 西宮さんは!?」
おそらく、照美たちによって、行われた性的ないじめが由加里にそう言わせたにちがいない。少女の中で、この病室が、放送室に入れ代わっていたのかもしれない。
「わかったわよ、ハレンチな西宮さん、溲瓶を填めてあげますよ」
「ウウ・ウ・ウ・ウ・ウ・ウ・ウ・ウ・ウ・ウウ!!」
100年の念願が叶うというのに、由加里は、救われる気がしなかった。さらに深い穴底に、引きずられるような気がした。
このところ、由加里は自己嫌悪に苦しんでいる。自分は醜くて、臭いのだ、だから、みんなに嫌われていじめられる。そんな固定観念にはがいじめにされている。そのために、自分の醜い姿を顕わにする夏の太陽は大嫌いになった。他人から見れば、嫉妬するほど知性と容姿に恵まれているにも、かかわらずだ。
「おはようございます」
「あ、お、おはようございます」
似鳥可南子が病室に入ってきたのだ。その顔には、満面の笑顔が滲んでいる。
いろいろな理由によって、切り刻まれてはいても、由加里は、辛うじて、挨拶を返すことができた。
思えば、ほとんど眠れない夜だった。それはいじめられるようになって、珍しいことではなくなったが、中途半端に眠れなくてよかったと思っている。なぜならば、そういう夜は、夢を見るからだ。大抵、悪夢となる。夢の中でも、いじめっ子たちは、由加里に安寧を与えないのだ。
「どう? よく眠れた?」
似鳥可南子は、ざっくばらんに話しかけてくる。こういうことに、慣れているのだろうか。いじめられて、いじめられて、ぼろぼろになった女の子に、話しかけることに。
時計を見ると、ちょうど、午前7時を指し示している。よく学校にあるアナログの時計だ。昔は、といっても、ごく数ヶ月前のことだが、由加里は、デジタル時計よりも、こちらの方が好きだった。4:45というように、観察者に斟酌を与える余裕を与えずに、情報を押しつけてくる。それが、デジタル方式に、親しみをあまり感じることができなかった理由でもある。しかし、それは二次的な理由にすぎない。本当の理由は、他にある。
もちろん、その理由は、度重なったいじめにあることは、解答を待たないであろう。
何よりも、あの丸いアナログ時計は、学校を彷彿とさせる。小学校、中学校、それに高校を問わず、学校という学校には、少なくとも一台は、あの丸いヤツが大きな顔をしている。
学校と言えば、黒板と並んで、あれを思い浮かべる人も多いのではないか。
今や、由加里にとって、学校はイコール地獄を意味する。それまで、少女を養い温かく育んでくれた揺りかごのイメージは、もう何処にもない。ただ、あるのは、絶えず拷問が繰り広げられる煉獄だけだ。かつて、無邪気な顔で、教師を慕い、級友と友情を育んだうららかな牧場は存在しないのだ。
少なくとも、由加里にとっては、学校は牧場ではない。
もっとも、いじめっ子たちにとっては、未だに牧場なのかもしれない。そうなると、さしずめ、由加里は牧場の草だろうか。いや、こういう比喩のほうが適当だろう、すなわち、学校はサファリパークであり、いじめっ子たちは、猛獣や禽獣のたぐい、そして、由加里は生きながらにしてエサにされる草食動物である。ちなみに、教師は、安全なバスから、この無惨なショーを見物する客たちであろう。
この時、由加里は、自分がいじめっ子たちをこの世でもっとも憎んでいると思っていた。高田や金江たち、それにテニス部の面々。単純に、少女をサディズム解消のための道具だとみなしている連中のことだ。しかし、本当に憎んでいたのは、見て見ぬフリをする教師連中だったのである。この時は、それに気づく余裕がなかった。
「ちゃんと、食べなきゃだめよ」
「・・・・・・ハイ」
由加里は、寝台の上に設えられたテーブルを見つめた。そこには、まるで小学校の給食のような朝食が並んでいる。
諸君! ここで想像すべきはあなた方を苦しめたあの給食なのだ。栄養は、ちゃんと計算してあるのかもしれないが、味を全く考慮していない。いわゆる、記憶に刻まれている通り、あのまずい給食だ。由加里が小学校時代に、食べた給食とは、諸君が食べた、いや、食べさせられたエサとは似ても似つかないごちそうである。ゆとり世代で学力的に甘やかされた世代は、食べるものまで、スポイルされているのである。
話しを元に戻そう。閑話休題(ソレハサテオキ)。
「美味しくない?」
「え? ううん、とんでもないです」
由加里は、塩気のほとんどない病院食を、ようやく口にした。グラタン、いや、グラタンのようなモノは、完全に冷え切って、ゴムのようになっていた。
―――ふうん、珍しい子ねえ。
可南子は、少女に最近の子どもたちと、何処かちがうものを感じていた。どちらかというと、自分たちが子どもだったときと共通点を見いだしていた。
「なら、早く退院できるようになるといいね」
「はい ―――――ウウ・ウ・ウ・ウ・・・ウウ」
――どうしたのだろう? 私は。
由加里は、涙を流しながら、人事不省に陥っていた。少しでも優しい声をかけられると無条件に涙がこぼれる。その涙に温度は、まったく感じない。ただ、頬が濡れるのを関知するだけである。
「ぁ」
「どうしたの? 西宮さん」
「あ、動いちゃだめヨ」
「ぃゃ・・・・・・・・・・・・・・」
可南子は、ベッドから降りようとする由加里を制した。しかし、少女はいやいやをして、なおも不自由な躰を動かそうとする。動かせば、動かすほど尿意は、奔流のように由加里を責め続ける。自尊心と本能の狭間で、少女は悶え苦しんでいる。
「おかしい子ねえ、あなたは怪我をしているのよ ―――あそうか、おトイレね」
「――――――――」
由加里の様子から、満足な返事が得られなくても、自ずからその理由は知れた。
「連れて・・・・・・イッテクダサイ・・・」
「ダメよ、溲瓶ならここに用意してあるから、それとも大? 」
可南子は、部屋の外にまで聞こえるように、わざと大きな声をだした。首の根っこまで真っ赤になって、由加里は俯いた。
―――溲瓶って? もしかして、お年寄りの介護で使う器具よね。
少女の目の色が、不安色に染まっていく。
――――幼稚園児の前で、放尿した子が何を言っているのよ!
「え?!」
妄想の声に驚いて、由加里は頬を強ばらせた。
「あなたは中学2年生でしょう? 小学生でも言うことは聞くわよ」
まるで幼児に言うような口ぶりだ。悪気はないのだろうが、由加里に取ってみれば、恥辱以外の何物でもない。チューインガムを噛んでいる音が何処からか聞こえた。そうだ、照美とはるかに、その性を嬲られているとき、似鳥ぴあのは、チューインガムを噛んでいたことがあった、
「わかったの?」
「・・・・・・・」
「返事は?!」
急に居丈高な態度になった。しかし、それに叛意を示す余裕があるわけはない。
「ハイ・・・・・・」
可南子の顔は、教室に巣くういじめっ子たち、そのものに見えた。
「良い子、良い子・・・・ウフフフ」
満足そうに、微笑を浮かべる可南子。すると部屋の奥から、何やら透き通るものを取り出した。
「これが、溲瓶っていうのよ」
「か、看護婦さん、オネガイ」
溲瓶は、由加里の方向に、がま首を擡げていた。ひとつしかない目で睨みつけてくる。その様子は、まるで、少女を取って喰うようだ。
由加里の目には、透明なガラス製の器具など入らない。尿意が限界を超えているのだ。股間からはい上がってくる黒い悪魔に、少女は戦いた。まるで。100万匹の蟻が、少女の顔鼻の穴を目掛けて、一斉に登ってくるようだ。もはや、猶予はない。
「さて、ここに孔があるわね、」
「アア・・・、は、はやく!」
「慌てないのよ、お嬢さん」
可南子は、由加里が慌てれば慌てるほどに、わざとのろのろと動きを緩慢にしていく。わざとじらす。
「答えて、ここを何処に当てればいいの?」
「ァ・・ァ、そんな、意地悪しないで ―――」
由加里は全身を目にして、蟻の一匹、一匹を確認する。それらが登ってくるオゾマシイ感触は、筆舌に尽くしがたい。早く、この状況から逃げ出したい。そのためなら、何でもする。仮に目の前に幼気な子犬がいたとする。そして、拳銃が目の前にあるとする。もしも、唯一の望みが叶うならば、その自由な右手で、子犬を撃ち抜くことも厭わないかもしれない。
「こ、コカンです」
「ぁあ! いや!」
「どうしたの? 股間に当てるんじゃないの?」
可南子は、溲瓶の口を、由加里の股間に宛っている。しかし、ズボンの上からである。
「うぐぐうぐ!」
しかし、そのまま力任せに、食い込ませる。
「ひいぎいぃ! いやあ!! や、やめて!!」
「ぬ、脱ぎますから!や、やめて!」
「じゃあ、何処に当てればいいの?」
「はだ、ハダカの股間です・・・ウウ・ウ・・ウ・ウ・ウ!」
「自分じゃ脱げないの? じゃ、私が脱がしてあげる!」
「ウウ・ウ・ウ・ウ・・ウ・ウウ!!」
可南子は、下着ごと、ズボンを脱がしてしまった。
「アア・・ア・ア・ア」
由加里は、顔を埋めて、恥ずかしがる。涙が指と指の間から漏れる。
―――何をはずがしがっているのかしら!? さんざん、みんなに見られて、おもちゃにされたくせに!
少女の耳に、またもや、幻聴が入り込んでくる。
「あーれ? まだ生えてないんだ!?赤ちゃんみたい」
「ウグググウウ・・・ウ・・ウ! ひどい!」
由加里は、泣き声で抗議した。しかし、可南子にはそんなものが通じるはずはない。
「でも、かわいいな、ぴくぴく、震えているわよ」
「ウウ・ウ・ウ・ウ・ウ・・ウ・ウウ! お、オネガイですから! ウウウ・ウ・ウウ・ウ・・ウ!!」
「きっと、西宮さんは露出狂なのね、だから毛が生えてこないんだわ。みんなに見て欲しいって言ってるのよ、ココが!」
「ウウ・ウ・ウ・ウ・ウ! ひどい!」
少女の中で、何かが壊れる音がした。自分は何処に行ってもいじめられるのか。ならば、本当に、自分は醜くて臭いのだろうか?本当に、これまでの人生はウソだったのだろうか?あのチヤホヤされた日々は、一体なんだったのだろう。
これまで、何回も反芻してきた問いが、あふれんばかりの尿意の中で、息を吹き返した。
「ちゃんと、言いなさいよ、何処にこれをつけたらいいの?」
いつの間にか、口調が変わっていることに、由加里は気づかなかった。
「おま、お○んこです」
「えー!? そんなハシタナイこと言う子だったんだ?! 西宮さんは!?」
おそらく、照美たちによって、行われた性的ないじめが由加里にそう言わせたにちがいない。少女の中で、この病室が、放送室に入れ代わっていたのかもしれない。
「わかったわよ、ハレンチな西宮さん、溲瓶を填めてあげますよ」
「ウウ・ウ・ウ・ウ・ウ・ウ・ウ・ウ・ウ・ウウ!!」
100年の念願が叶うというのに、由加里は、救われる気がしなかった。さらに深い穴底に、引きずられるような気がした。