「はーい、笑って、笑って!」
年甲斐もない笑い声を上げて、可南子は由加里に携帯を向ける。彼女の指が動くと同時に、由加里はムリに笑顔を作った。それは片栗粉で固められている。
「ふーん、そういう態度に出るんだ? アレ?」
粉臭い味に舌までやられた可南子は不満の表情を造った。由加里に戦慄が走る。今や、可南子の表情のすべてに、敏感に反応する奴隷になってしまった。それが楽しいのかやや機嫌を取り戻す。
「なあに? 笑えないの?ママと遊んであげたのに楽しくないの?」
「ヒ?・・・・?!」
ただでさえ引きつった笑顔が、精鋭化した恐怖によって、さらに硬化する。目尻から崩れた皮膚がポロポロと落ちる。夜に散らばった水晶の美しさを彷彿とさせた。それは肌の流す涙かもしれない。
「うふふふ」
可南子は悪魔特有の笑いを浮かべる。
大人が持つ迫力に由加里は、胃を直接握られるかのような感触を味わっていた。もはや、身動きはおろか呼吸すらままならない。恐怖のあまり胃液はおろか、血液まで逆流してしまいそうだ。全身が震えるために鼻の頭に咲いた汗の花までが揺れる。
「どうして、そんなの怯えているの? かわい子ちゃん。別に痛いことするわけじゃないのよ、いいこと教えてあげようか、わたしねえ、看護大学を出てはじめての職場が小児科だったのよ」
可南子は、自分のことばに噴き出してしまった。何を埒のあかないことを言っているのだろう。まるで三流シネマの台詞じゃないか。
しかしながら、もっと自嘲すべきことがある。
自分とは30歳近くも年下の少女相手に、変態SMゲームを繰り広げているのである。
娘と同じような歳とは良く言ったものだが、じっさい、彼女の次女であるぴあのは、彼女のクラスメートなのだ。
レズに目覚めたのは高校時代だが年下を相手にしたことは長いレズ生活の中でも、今年までなかった。目の前の華奢な小娘に出会うまでは・・・・・。
少女はおむつを変えられた幼女よろしく大腿を広げて、恥ずかしい恰好を堪え忍びながら、加害者を睨みつけている。その目つきの健気な様子にほくそ笑んだ可南子だったが、自分の命令通りに、由加里が表情を作らないことに不満の吐息を漏らした。
「せっかく、キレイにしてあげたのよ、笑ってくれてもいいじゃない」
可南子は恩着せがましい笑顔を作った。いかにもこうして見せろとばかりに、少女に迫る。
「言ってご覧なさい、いままで、ヘンタイの由加里チャンはどんな風だったのかしら?」
その表情はあまりにも怖ろしかったために、由加里は動かすべき舌も声帯も正常に働かすことができなくなってしまった。
「ウウ・ウ・ウ・ウ・・」
「言えないの!? だったら、今晩も楽しんでもらうことになるわよ!」
「ひっ!!?い、言います、いえ、言わせてくださぁアい!!」
とたんに、由加里の表情が青くなった。可南子の言葉が何を意味するのか、その決意の鋼鉄のような強さが、痛いほどわかったからである。いつの間にか、懇願に変わっていることが涙と同情を誘う。
可南子は残酷に言い放つ。一見、提案しているように聞こえるが、その実、脅迫以外のなにものでもない。
看護婦の残酷な瞳が膨らむと、由加里はそのかたちが何かを思い出させる。そう、彼女を一晩中責めさいなんだ拷問具に見えた。
「いい訳するまえに、実行したら?」
「は・・・・・はぃ・・・・・ウウ」
――――生理、血まみれ・・臭い。
可南子にさんざん投げつけられた暴言が蘇る。由加里は、可南子の横にひとりのクラスメートが佇立しているのを見たのである。
鋳崎はるか。その人である。
「ヒ?!」
8ミリカメラの再生音とともに、由加里の脳裏に苦痛に満ちた記憶が蘇る。由加里が見ている影像の中で、由加里ははるかと照美に小説やマンガを描くことを強制されていた。それも単なる小説やマンガではない。少女の年令ならば手に触れるのも憚られるような内容を描かされるのである。
最初は、はるかが持ってきた猥褻本をコピーするだけだったが、最近ではオリディナルティを要求されるようになったのである。これは、苦痛と恥辱に満ちていている行為だった。少女は全身の皮膚を剥かれるような思いに涙したものである。
いま、由加里はそれと同じことを可南子によって、命じられていた。もっとも、はるかの命令が持つ叙情性とは完全に無縁だった。この女には文学的センスというものが完全に抜け落ちているのである。
「・・・・へ、ヘンタイのゆ、由加里は・・・ウウウ・・・き、汚らしい、せ、生理の血にまみれていました。そして、と、とても臭かったです・・・ウウ・ウ・ウ・ウ」
「そう、とても臭かったのね、鼻が曲がるくらい、見てご覧なさいよ、あの花。あなたの臭いであんなに萎れちゃったじゃない?! アハハハ」
床がぬけるような可南子の笑いは、由加里を恥辱の地獄へと放り込む。
「それにしても、よくも、滑らかに言えたものね。はずかしい子だわ、本当に!!そしてものすごい臭いし」
「ウウ・ウ・ウ・ウ・ウ・うう!? ウウウ・・・・・うう?!」
「そんなに泣かないの!」
「ぁあぅ・・・・・」
可南子は、由加里の股間にそっと手を置いた。少女の生理用のショーツがぐっと熱を含んでいる。可南子はそれを感じるとたまらなくなってしまう。自分の身の内に燃え上がりつつある嗜虐心に歯止めが効かなくなるのだ。
「ウウ・ウ・・ウ・ウ・ウ・・・・うう・・・ウウ・・うう!?」
激しく泣き続ける由加里。その勢いで全身の細胞がばらばらになってしまいそうだ。
可南子はいったい、自分をどのように観ているのか。それは想像すれば簡単に映像化できる。由加里の脳裏に、情けない恰好の自分が映る。
身も世もない自分の姿に、少女は心底嫌気がさしていた。できることならば自分を消してしまいたい。その思いが涙の唄になって哀しみの音符を作っていく。
しかし、それはまるで夏の雪のように、虚しく消えていくのだった。病室の壁にぶつかって、音もなく消えていく。
願わくば、空をもとめん。籠の中の小鳥が大空へと自由を希うように、締め切った窓から自由になって星々の大海への遊泳を、由加里は夢見た。しかし、夢は夢におわり、虚しくその翼は堕ち果てた・・・・・・。
「ふふ、これがそんなにいやなの? 昨晩はあんなにおもらしして、楽しんでたじゃない?」
「ヒ!?」
可南子は優しい葉っぱの上に言葉を載せたが、由加里の耳には悪魔の囁きしか聞こえないらしい。
「ふふ、約束通り、今晩は許してあげるって」
「・・・・!?」
『今晩は』という主語が濁点を以て強調されていたことに、由加里は気づいた、いや気づかされた。痛め付けられると、痛め付けられるほどに人間というのは警戒心を増してしまうらしい。今の由加里は、超合金の鎖帷子で全身を覆ってしまっている。
もっとも、幼少時代にそれで遊んだ記憶がある人間ならば、あんがいその造りがもろいことを、知っていることだろう。ロボットの腕が何かの拍子に壊れてしまった苦い経験があるひともいるだろう。
少女の精神は一見ごつい鎧で固めているように見えるが、実際は弱々しいブリキの城で身を守っているだけなのだ。
可南子は、それに気づくともう責めることをやめた。
「おやすみ、子供は夢見る時間が必要よ」
いつか読んだ本から借用した台詞を言いながら、おやすみのキスを由加里の額にくっつけた。
「ヒイ!?」
それは、しかし、キリでぎりぎりと穴を開けられるように、由加里は思えた。決して、甘い愛の囁きには聞こえなかった。少女はふと、昔のことをおもいだした。小学生の少女は、寝る前にある儀式を母親にしてもらうのが、日常だった。
「おやすみ、由加里」
「うん、ママ」
別に春子は西洋のようにおやすみのキスをするわけではない。ただ、布団を掛けてやるだけである。しかし、その行為は少女に、西宮家の娘であること、そしてこの優しい母親の娘であることを、保証してくれること、すなわち、その身分を保障してくれることでもあったのである。春子の優しい手が、布団を由加里の胸にかける。その温もりは少女に限りない安らぎを与え、想像できる限りすばらしい未来を保証してくれた。
ドアが閉まる音と春子のスリッパが立てる慎ましいそれを聴きながら、由加里は夢の世界へと遊んでいったものだ。
しかし、今、由加里に与えられるのは氷のキスにすぎない。
哀しみに哀しみは重ねられ、不毛の山を作っていく。どれほど高く摘まれようとも、星々の大海へと達するわけがない。
しかし、少女のクラスメートたち3人は、彼女が見果てぬ夢をいとも簡単に実現していた。
デコボココンビならぬ、デコボコトリオは、東衣沢駅のホームに降り立った。時計は6時30分を回ろうとしている。
それにしても、海崎照美、鋳崎はるか、鈴木ゆららの3人を行き交う人たちは、どう見るだろうか。前者二人は、どう見ても女子高生。そして、後者は小学生としか受け取らないだろう。
3人は、何故か慌てている。一番、慌てているのは一番背の高いはるかである。小麦色に日焼けした肌にじっとりと汗を滲ませているのは、季節のせいだけではあるまい。梅雨の蒸し暑さは、空を破りたくなるくらいの鬱陶しさで、辺りを包んでいる。冷房の効いた車内から出た直前のために、脊椎を遡ってくるような不快感は、なおさらはるかの神経を逆撫でする。
「二人とも、もっとはやく走って遅れちゃう」
「別に怒られるのは、はるかでしょう?」
自分は関係ないという顔を、親友に向ける。まだ冷戦中であることは、意識から除外してしまっているようだ。それはゆららの功績なのだが、彼女にその自覚はない。いたずらっぽい顔ははるかにしか見せない顔だ。はるかはムッとして、言い返そうとしたとき、あることに気づいた。
「はぁ、はぁ、はぁ」
喘息患者のように苦しみながらも、二人の後に付いていこうとしている。未だ、彼女の視界に二人の背中が入っているということで、表彰状をもらってもいいだろう。そのくらい、前者と後者では運動能力に差があるのだ。それを考慮できないはるかではない。
しかし、それを不可能するくらいに、はるかは焦っているのだ。それほど、これから遭う人間は、親友の弱みを握っているにちがいない。照美は、思った。蚊が一回の羽ばたきによって押し返す空気ぶんくらい、美少女は嫉妬した。彼女のすぐ先には、はるかの褐色の頬がある。あきらかに、普段見たことがない表情だ。
「はるか、ゆららちゃんが着いて来れないじゃない!」
二つ目の階段を上がりかけたところで、照美がその言葉をついに吐いた。
一方、このときゆららの視界から、はじめて二人が消えた。だから、ひしゃげた心臓をさらに働かせて、視界に彼女らを復活させようとする。
「・・・・・ぁ」
改札に通じるエスカレーターに到着したとき、ゆららは二人を発見することができた。
「・・」
「おう」
一方、二人はゆららの瞳に魂を奪われていた。それは明かにかつていじめられていたときのそれに酷似していた。その事実に意識を向けなかったことに対する罪悪感が、二人の心にできた孔から、這い上がってきた。もちろん、二人は観て観ぬふりをしていたわけではない。巨像が一匹の蟻の運命を知ることがないように、意識から除外していたのだ。
「ごめんね、ゆららちゃん」
「・・・・だ、大丈夫ですよ」
「ですよ?」
照美は孔を塞ぐように優しい声をかけた。
「ううん、大丈夫」
言い直したゆららの顔は上気していた。それは今の今まで喘息で走っていたからだけではないようだ。いささか、自分が受け入れられているという喜びが紛れ込んでいた。
「それにしても、こいつ『おう』なんて親父みたいだよね」
笑いながら照美は言う。
「ふふ」
照美のつられたのか、ゆららも笑った。それにはるかが不満を述べようとしたとき、彼女の顔が凍りついた。改札の向こうに赤い車と、同じ色の『鬼』を見つけたのである。
年甲斐もない笑い声を上げて、可南子は由加里に携帯を向ける。彼女の指が動くと同時に、由加里はムリに笑顔を作った。それは片栗粉で固められている。
「ふーん、そういう態度に出るんだ? アレ?」
粉臭い味に舌までやられた可南子は不満の表情を造った。由加里に戦慄が走る。今や、可南子の表情のすべてに、敏感に反応する奴隷になってしまった。それが楽しいのかやや機嫌を取り戻す。
「なあに? 笑えないの?ママと遊んであげたのに楽しくないの?」
「ヒ?・・・・?!」
ただでさえ引きつった笑顔が、精鋭化した恐怖によって、さらに硬化する。目尻から崩れた皮膚がポロポロと落ちる。夜に散らばった水晶の美しさを彷彿とさせた。それは肌の流す涙かもしれない。
「うふふふ」
可南子は悪魔特有の笑いを浮かべる。
大人が持つ迫力に由加里は、胃を直接握られるかのような感触を味わっていた。もはや、身動きはおろか呼吸すらままならない。恐怖のあまり胃液はおろか、血液まで逆流してしまいそうだ。全身が震えるために鼻の頭に咲いた汗の花までが揺れる。
「どうして、そんなの怯えているの? かわい子ちゃん。別に痛いことするわけじゃないのよ、いいこと教えてあげようか、わたしねえ、看護大学を出てはじめての職場が小児科だったのよ」
可南子は、自分のことばに噴き出してしまった。何を埒のあかないことを言っているのだろう。まるで三流シネマの台詞じゃないか。
しかしながら、もっと自嘲すべきことがある。
自分とは30歳近くも年下の少女相手に、変態SMゲームを繰り広げているのである。
娘と同じような歳とは良く言ったものだが、じっさい、彼女の次女であるぴあのは、彼女のクラスメートなのだ。
レズに目覚めたのは高校時代だが年下を相手にしたことは長いレズ生活の中でも、今年までなかった。目の前の華奢な小娘に出会うまでは・・・・・。
少女はおむつを変えられた幼女よろしく大腿を広げて、恥ずかしい恰好を堪え忍びながら、加害者を睨みつけている。その目つきの健気な様子にほくそ笑んだ可南子だったが、自分の命令通りに、由加里が表情を作らないことに不満の吐息を漏らした。
「せっかく、キレイにしてあげたのよ、笑ってくれてもいいじゃない」
可南子は恩着せがましい笑顔を作った。いかにもこうして見せろとばかりに、少女に迫る。
「言ってご覧なさい、いままで、ヘンタイの由加里チャンはどんな風だったのかしら?」
その表情はあまりにも怖ろしかったために、由加里は動かすべき舌も声帯も正常に働かすことができなくなってしまった。
「ウウ・ウ・ウ・ウ・・」
「言えないの!? だったら、今晩も楽しんでもらうことになるわよ!」
「ひっ!!?い、言います、いえ、言わせてくださぁアい!!」
とたんに、由加里の表情が青くなった。可南子の言葉が何を意味するのか、その決意の鋼鉄のような強さが、痛いほどわかったからである。いつの間にか、懇願に変わっていることが涙と同情を誘う。
可南子は残酷に言い放つ。一見、提案しているように聞こえるが、その実、脅迫以外のなにものでもない。
看護婦の残酷な瞳が膨らむと、由加里はそのかたちが何かを思い出させる。そう、彼女を一晩中責めさいなんだ拷問具に見えた。
「いい訳するまえに、実行したら?」
「は・・・・・はぃ・・・・・ウウ」
――――生理、血まみれ・・臭い。
可南子にさんざん投げつけられた暴言が蘇る。由加里は、可南子の横にひとりのクラスメートが佇立しているのを見たのである。
鋳崎はるか。その人である。
「ヒ?!」
8ミリカメラの再生音とともに、由加里の脳裏に苦痛に満ちた記憶が蘇る。由加里が見ている影像の中で、由加里ははるかと照美に小説やマンガを描くことを強制されていた。それも単なる小説やマンガではない。少女の年令ならば手に触れるのも憚られるような内容を描かされるのである。
最初は、はるかが持ってきた猥褻本をコピーするだけだったが、最近ではオリディナルティを要求されるようになったのである。これは、苦痛と恥辱に満ちていている行為だった。少女は全身の皮膚を剥かれるような思いに涙したものである。
いま、由加里はそれと同じことを可南子によって、命じられていた。もっとも、はるかの命令が持つ叙情性とは完全に無縁だった。この女には文学的センスというものが完全に抜け落ちているのである。
「・・・・へ、ヘンタイのゆ、由加里は・・・ウウウ・・・き、汚らしい、せ、生理の血にまみれていました。そして、と、とても臭かったです・・・ウウ・ウ・ウ・ウ」
「そう、とても臭かったのね、鼻が曲がるくらい、見てご覧なさいよ、あの花。あなたの臭いであんなに萎れちゃったじゃない?! アハハハ」
床がぬけるような可南子の笑いは、由加里を恥辱の地獄へと放り込む。
「それにしても、よくも、滑らかに言えたものね。はずかしい子だわ、本当に!!そしてものすごい臭いし」
「ウウ・ウ・ウ・ウ・ウ・うう!? ウウウ・・・・・うう?!」
「そんなに泣かないの!」
「ぁあぅ・・・・・」
可南子は、由加里の股間にそっと手を置いた。少女の生理用のショーツがぐっと熱を含んでいる。可南子はそれを感じるとたまらなくなってしまう。自分の身の内に燃え上がりつつある嗜虐心に歯止めが効かなくなるのだ。
「ウウ・ウ・・ウ・ウ・ウ・・・・うう・・・ウウ・・うう!?」
激しく泣き続ける由加里。その勢いで全身の細胞がばらばらになってしまいそうだ。
可南子はいったい、自分をどのように観ているのか。それは想像すれば簡単に映像化できる。由加里の脳裏に、情けない恰好の自分が映る。
身も世もない自分の姿に、少女は心底嫌気がさしていた。できることならば自分を消してしまいたい。その思いが涙の唄になって哀しみの音符を作っていく。
しかし、それはまるで夏の雪のように、虚しく消えていくのだった。病室の壁にぶつかって、音もなく消えていく。
願わくば、空をもとめん。籠の中の小鳥が大空へと自由を希うように、締め切った窓から自由になって星々の大海への遊泳を、由加里は夢見た。しかし、夢は夢におわり、虚しくその翼は堕ち果てた・・・・・・。
「ふふ、これがそんなにいやなの? 昨晩はあんなにおもらしして、楽しんでたじゃない?」
「ヒ!?」
可南子は優しい葉っぱの上に言葉を載せたが、由加里の耳には悪魔の囁きしか聞こえないらしい。
「ふふ、約束通り、今晩は許してあげるって」
「・・・・!?」
『今晩は』という主語が濁点を以て強調されていたことに、由加里は気づいた、いや気づかされた。痛め付けられると、痛め付けられるほどに人間というのは警戒心を増してしまうらしい。今の由加里は、超合金の鎖帷子で全身を覆ってしまっている。
もっとも、幼少時代にそれで遊んだ記憶がある人間ならば、あんがいその造りがもろいことを、知っていることだろう。ロボットの腕が何かの拍子に壊れてしまった苦い経験があるひともいるだろう。
少女の精神は一見ごつい鎧で固めているように見えるが、実際は弱々しいブリキの城で身を守っているだけなのだ。
可南子は、それに気づくともう責めることをやめた。
「おやすみ、子供は夢見る時間が必要よ」
いつか読んだ本から借用した台詞を言いながら、おやすみのキスを由加里の額にくっつけた。
「ヒイ!?」
それは、しかし、キリでぎりぎりと穴を開けられるように、由加里は思えた。決して、甘い愛の囁きには聞こえなかった。少女はふと、昔のことをおもいだした。小学生の少女は、寝る前にある儀式を母親にしてもらうのが、日常だった。
「おやすみ、由加里」
「うん、ママ」
別に春子は西洋のようにおやすみのキスをするわけではない。ただ、布団を掛けてやるだけである。しかし、その行為は少女に、西宮家の娘であること、そしてこの優しい母親の娘であることを、保証してくれること、すなわち、その身分を保障してくれることでもあったのである。春子の優しい手が、布団を由加里の胸にかける。その温もりは少女に限りない安らぎを与え、想像できる限りすばらしい未来を保証してくれた。
ドアが閉まる音と春子のスリッパが立てる慎ましいそれを聴きながら、由加里は夢の世界へと遊んでいったものだ。
しかし、今、由加里に与えられるのは氷のキスにすぎない。
哀しみに哀しみは重ねられ、不毛の山を作っていく。どれほど高く摘まれようとも、星々の大海へと達するわけがない。
しかし、少女のクラスメートたち3人は、彼女が見果てぬ夢をいとも簡単に実現していた。
デコボココンビならぬ、デコボコトリオは、東衣沢駅のホームに降り立った。時計は6時30分を回ろうとしている。
それにしても、海崎照美、鋳崎はるか、鈴木ゆららの3人を行き交う人たちは、どう見るだろうか。前者二人は、どう見ても女子高生。そして、後者は小学生としか受け取らないだろう。
3人は、何故か慌てている。一番、慌てているのは一番背の高いはるかである。小麦色に日焼けした肌にじっとりと汗を滲ませているのは、季節のせいだけではあるまい。梅雨の蒸し暑さは、空を破りたくなるくらいの鬱陶しさで、辺りを包んでいる。冷房の効いた車内から出た直前のために、脊椎を遡ってくるような不快感は、なおさらはるかの神経を逆撫でする。
「二人とも、もっとはやく走って遅れちゃう」
「別に怒られるのは、はるかでしょう?」
自分は関係ないという顔を、親友に向ける。まだ冷戦中であることは、意識から除外してしまっているようだ。それはゆららの功績なのだが、彼女にその自覚はない。いたずらっぽい顔ははるかにしか見せない顔だ。はるかはムッとして、言い返そうとしたとき、あることに気づいた。
「はぁ、はぁ、はぁ」
喘息患者のように苦しみながらも、二人の後に付いていこうとしている。未だ、彼女の視界に二人の背中が入っているということで、表彰状をもらってもいいだろう。そのくらい、前者と後者では運動能力に差があるのだ。それを考慮できないはるかではない。
しかし、それを不可能するくらいに、はるかは焦っているのだ。それほど、これから遭う人間は、親友の弱みを握っているにちがいない。照美は、思った。蚊が一回の羽ばたきによって押し返す空気ぶんくらい、美少女は嫉妬した。彼女のすぐ先には、はるかの褐色の頬がある。あきらかに、普段見たことがない表情だ。
「はるか、ゆららちゃんが着いて来れないじゃない!」
二つ目の階段を上がりかけたところで、照美がその言葉をついに吐いた。
一方、このときゆららの視界から、はじめて二人が消えた。だから、ひしゃげた心臓をさらに働かせて、視界に彼女らを復活させようとする。
「・・・・・ぁ」
改札に通じるエスカレーターに到着したとき、ゆららは二人を発見することができた。
「・・」
「おう」
一方、二人はゆららの瞳に魂を奪われていた。それは明かにかつていじめられていたときのそれに酷似していた。その事実に意識を向けなかったことに対する罪悪感が、二人の心にできた孔から、這い上がってきた。もちろん、二人は観て観ぬふりをしていたわけではない。巨像が一匹の蟻の運命を知ることがないように、意識から除外していたのだ。
「ごめんね、ゆららちゃん」
「・・・・だ、大丈夫ですよ」
「ですよ?」
照美は孔を塞ぐように優しい声をかけた。
「ううん、大丈夫」
言い直したゆららの顔は上気していた。それは今の今まで喘息で走っていたからだけではないようだ。いささか、自分が受け入れられているという喜びが紛れ込んでいた。
「それにしても、こいつ『おう』なんて親父みたいだよね」
笑いながら照美は言う。
「ふふ」
照美のつられたのか、ゆららも笑った。それにはるかが不満を述べようとしたとき、彼女の顔が凍りついた。改札の向こうに赤い車と、同じ色の『鬼』を見つけたのである。
「そうよ、良い子ね。ちゃんと全部食べるのよ、残しちゃだめよ。ほら、こっちに付いているじゃない」
「ウグググ・・・むぐ・・・・ぐち」
屈辱的な姿勢。
よつんばいにさせられたあおいは、スプーンに舌を這わせている。自分の舌が、あたかも自分のものではないような錯覚に襲われる。それは、まるで少女から独立した物体のように、銀色の半球体を移動していく。芋虫か、得体の知れない軟体生物のように、ヒクヒクとその身体を変化させながら、淫靡な汁を流す。
それは、あまりにも現実感のなさが起因しているのかもしれない。自分がやっていること、あるいはさせられていることが、とても真実とは思えない。そのような思いは、しかし、顎の筋肉の緊張や痛みによって、それが現実であることをイヤでも実感させられる。すると、屈辱や恥辱と直面することになる。
少女は、綺麗になったはずのスプーンに舌を這わせる。それ自身は角度が変わらないので、彼女じしんが、頭部を回転させねばならない。スプーンはあくまでも動かない。それは、鉄のように非情な有希江じしんを暗示していた。あおいは、それに従ってひれ伏すしかない。
有希江の方から見ると、本当に犬のように見える。可愛らしい子犬が、尾っぽを振りながらまとわりついてくる。そんな妹に、憐憫とも嗜虐とも知れぬ気持がわき起こってくるのだった。
思わず、笑みが浮かぶ。
「ほら、まだついてるわよ!」
よく見るとわかる。カツ煮の衣の部分が、こびり付いているのだ。
有希江は、それもすべて舐め終えるように、命じている。もしも、鏡がここあったならば、どのように見えるだろうかと想像しながら、雌犬に堕ちた自分を思う。言うなれば、それは文字通り自慰ということになるのだろうか。もちろん、小学生のあおいにそのような知識はないから、そこまでの理解は不可能だった。しかしながら、意識の辺境でそれを認識していた。
自嘲という行動は、人間にとって高等技術である。意識的にそれをするほどに精神が成長していないが、無意識のレベルで行っていることで、少女を美しく魅せていた。内面の灯火が見る人に感動を与えているのだ。
しかし、当の少女自身は自分自身の内面などに、興味を持つ余裕があるわけはない。
彼女はただ、自分の舌に意識を集中させる。それが限界を越えると、舌自身の蠕動行為に委託する。
――――勝手に舌が動いている。
そう思った方が精神的にも、肉体的にも楽なことはもう書いた通りだ。
顎が痛い。この姿勢を維持するのは、首の筋肉に極度の緊張を強いるし、腕にも相当の負荷がかかる。気づかないうちに、両手が指がわなわなと震えている。
有希江は、皇帝か国王のようにテーブルに座りながら、あおいにスプーンを差し向けている。しかし、しばらくすると飽きがきたようだ。
わざとらしく、スプーンをわざと離した。
「ほら、餌はこちらよ、あおいはぐずなんだから!」
「うぐ・・・・・痛ッ!?」
スプーンで、あおいの頬や鼻を打ったりする。そして、可哀想な妹の顔が汚れるのを見て楽しむわけだ。
「あおい、何をしているのよ。あんたって子は、まともに食事もできないの。犬や猫の子だってできることよ。あなたはそれ以下ねえ!?アハハハ」
「ウウ・ウ・・ウ・ウウ」
恥辱を表す涙がかたちのいい頬を伝う。
「ふふ、まだ残っているわよ」
有希江が皿の底を覗いた。そのとき、有希江のひじが四角い箱に直撃した。
「あら」
箱だと思った物は、一冊の本だった。書名は、『百川高等学校世界史』。物体が床に落ちるまで一秒とかからないだろう。それは、人間にとってみれば一瞬のことだが、高解像度カメラにとってみれば無数の世界と空間が目の前に展開する。ここで、カメラの視点を採用してみよう。
本が落ちたとき、それは、491頁を開いていた。
『20世紀前半のバルカン、アッバース・トルコ朝から独立する西スラブ諸民族』
おそらく、小学生のあおいにとってみれば、ほとんど何のことか見当も付かないだろう。有希江は、遊び人でありながら、その成績は常に非凡な能力を持っていることを証明している。しかし、まだ授業でやっていない範囲だ。それに、世界史にそれほど興味があるわけではない。だから、彼女にしたところであおいの理解力をはるかに凌駕しているというわけではない。
有希江の視力は、ニフェルティラピアという活字を捕らえていた。
あおいは、自分の感情を飼い慣らすのに汲々として、姉の視線に感受性を発揮するところではない。事実、姉の目の色が変わっていたことにも気づかなかった。日本人なら当然だろうか、茶色の瞳は、薄い榛色になっている。その憂いを含んだ目つきは、本来の、少なくともあおいが知っている姉ではないはずだ。
この時代のことを、教科書はたった数行で片づけてしまう。
1913第一次世界大戦勃発。
1914年、ニフェルティラピア、独立宣言。しかる後、アッバース朝トルコに宣戦布告。
一般的な世界史の教科書において、ニフェルティラピアについて詳しく書かれることは少ない。その国名すら転載されない教科書も珍しくない。しかし、そこは行間を読んでいただこう。
有希江は、たしかにそこにいた。
ただし、意識的には外の世界になんら関われない身として・・・・・・・・。
意識に、二重にも三重にも虹を掛けられて、彼女は夢の中にいたのである。
彼の地は空気が乾燥していた。だから、風景は固まって見えた。たしかに、人間たちは自分たちの骨格が大地に屹立して生きていたのである。家屋を一歩出るならば、すぐに地平線が開けていた。 湿潤な大気を持たぬぶん、陽光は厳父のように降り注ぎ、色彩に力を与えていた。
小さな体、全体でそれを受け取っていた。
父の視線を太陽とし、母親のそれを月として朗らかに成長していたのである。
その時、たしかに太陽と月が世界のすべてだった。しかし、突如として両者が争っている声が聞こえた。小さな彼女にしてみれば、世界の半分と半分が矛を交わしているのである。それは、世界そのものが終わるかのような恐怖だったにちがいない。
やがて、それは終結し月が姿を消した。世界は太陽だけになった。しかし、彼女にとって明るい世界ではなかった。たしかに巨大な光に世界は照らされてはいるが、ただまぶしいだけの冷たい照明にすぎなかった。
以上は、有希江が幼児から見続けた夢の一部である。高等部に入って、世界史を知るにあたってニフェルティラピアという国名に触れた。そのことが、夢に濃い色彩と立体感を与えることになった。しかし、それが真実どのような意味を持つのか、この時の有希江はまだ気づいていない。
有希江は自分の感情を解明していない。ただ、泉のようにあふれるままに、喉の渇きを癒やしているだけだ。
「あら、こちらのお口も涎を垂らしてるわ。どちらが、本当のお口なのかしら?」
「へ? ぇえ!?いやあぁぁぁ!?」
最初、あおいは姉が何を言っているのか理解できなかった。しかし、すぐに体で知ることになった。よつんばいということは、ハマグリの口を背後からあからさまにすることになる。
有希江は、妹の性器に米を挿入したのだ。炊いてからかなり時間が経っているだめに、そうとう滑りが発生している。それだけに、少女の性器の細かなところにまで侵入し、刺激を与え続ける。
「ぅひい! ぃいやあ! ぃぃいやあああ!!」
「こちらのお口も満足させてあげなきゃ、不公平でしょう? それに ―――」
あおいは、返ってくる言葉の鞭を予想して、身構えた。しかし、その毒の意地悪さは想像以上だった。
「どちらのお口が、本当なのかしらね? いやらしいあおいチャンのアタマはこちらかもね? うふふ」
小学生のあおいにも、言葉の持つ辛辣さは明かである。上半身よりも下のほうが、重要だと言っているのだ。そう、肩に乗っかっている可愛らしい小顔など、何の意味もないと言い放っているのである。それは、ダイヤモンドで造った土台すら、簡単に腐らせてしまいかねない。少女のか弱い精神など一瞬で、腐食させてしまう。
「ぁあぐう!ァァアグウ・・・・・!! お、おねがい! ゆ、有希江姉 あね、姉さん! ゆ、許してェ・・・・・ぁあう!?ぅ!」
しかし、局所を襲う暴虐は、一種の麻薬の役割を果たしていた。認めたくないことだが、心の何処かで、それを歓迎している。もちろん、意識ではそれを受け入れたくない。そのことは、自分が人間でないと宣言しているようなものだ。残存した人間の尊厳は、けっして少女にそれを許さなかった。
「はあぁぁぅう!? ぁぁはぅ!?」
「あははは、やっぱり、こちらの方がお口なんじゃない? 何だったらと目と鼻を書いてあげてもいいのよ」
有希江は悪魔的な笑顔を浮かべると、デスクから黒の油性マジックを取り出した。そして、キュキュと淫靡な音を立てながら、目と鼻を一気に書き上げた。
「ふふ、下のお口は隠さなくちゃね、うふふふ」
「い?ひぐう?!」
たまたま見つけた革ジャンをあおいのアタマにかぶせた。革ごしに、かわいい妹のうめきを振動として感じる。
―――有希江姉さん! 有希江姉さん! もう許して! 堪忍して!!
空気の震えを伴わない音は、たしかにそう言っている。革が遮断する少女の哀しみに満ち汗と叫びは、温度となって伝わってくる。熱伝導の法則は、有希江の掌を温め、その血管を拡張させる。有希江はそれを不快な感覚として受け取った。それはどうしても認めたくない気持が関係しているのかもしれない。愛情と憎しみが白昼する相殺点にて、何が見えるのか。その地平に現出する風景が意味するものは?
その問いに答えるためには、あきらかに記憶が欠けている。この世の生を受けて16年、あおいと出会って10年間、確かに玉の人生を歩んできた。彼女と同じ唄を唄ってきたわけだが、その中にいやな曲は一曲もなかった。
ならば、どうして妹が憎いのだろう。あれほどに可愛がった妹は、よつんばいになって、女として大事なところを弄ばれている。相手が姉であって、異性でないことは、けっして慰めにならないだろう。
いやらしい中年男に性的な虐待を受けることに比べて、残酷でないなどということはできない。むしろ、同性でしかも姉であることが、あおいに与えるトラウマは、筆舌に尽くしがたいものがあるだろう。
その証拠は、妹の泣き顔を見れば明らかだろう。まるで、出産直前の女性のような顔をしている。
苦痛と恐怖に、目と鼻と口がばらばらになる。それぞれ固有の意思に目覚めたかのように、動き出した。
革特有の臭い。醤油に味の素を混ぜたような臭気は、あおいの鼻を詰まらせ絶望の孤島へと彼女を追放する。
革ジャンによって阻まれているとはいえ、ハウリングした声は、むしろ悲しげに響いている。有希江は、それを微笑さえ浮かべながら見下ろしている。それは、決して母親をはじめとする家族に迎合しているわけじゃない。母親からもらったメールが脳裏に蘇る。その文面から伝わってくる思考の波は、共感できる部分とできない部分がモザイクのように混在して、ひとつの絵を構成している。
しかし、その絵を仰いでも何も生まれない。むしろ思考は停止して、頭の中は真っ白になってしまう。確かにそこに何かがあるはずなのに、それがわからない、触れられない。加害者は加害者で、苦悩の文字で便箋を埋めているのだ。もちろん、そんなことがあおいに伝わるはずはない。あんなに深かった姉妹の絆がこんな形で、崩壊し、今はむしろ、マイナスの方向に絡みあうなどと、つい数ヶ月前には思いもしなかったことだ。
当時は、外界から刺激を受けると、性器が濡れるなどとことは知らなかった。たしかに、勢いよく下着を穿いたときなど、ぐうぜんにも局所が刺激を受けたときなど、意味不明の感覚を味わうことがあった。しかし、それが快感という言葉をイーコールで結ばれることはなかったのだ。
今、両者は少女のどこかで連結しようとしている。それは、彼女にとって身を裂かれるほどの羞恥心を呼び寄せた。
「ウグググ・・・むぐ・・・・ぐち」
屈辱的な姿勢。
よつんばいにさせられたあおいは、スプーンに舌を這わせている。自分の舌が、あたかも自分のものではないような錯覚に襲われる。それは、まるで少女から独立した物体のように、銀色の半球体を移動していく。芋虫か、得体の知れない軟体生物のように、ヒクヒクとその身体を変化させながら、淫靡な汁を流す。
それは、あまりにも現実感のなさが起因しているのかもしれない。自分がやっていること、あるいはさせられていることが、とても真実とは思えない。そのような思いは、しかし、顎の筋肉の緊張や痛みによって、それが現実であることをイヤでも実感させられる。すると、屈辱や恥辱と直面することになる。
少女は、綺麗になったはずのスプーンに舌を這わせる。それ自身は角度が変わらないので、彼女じしんが、頭部を回転させねばならない。スプーンはあくまでも動かない。それは、鉄のように非情な有希江じしんを暗示していた。あおいは、それに従ってひれ伏すしかない。
有希江の方から見ると、本当に犬のように見える。可愛らしい子犬が、尾っぽを振りながらまとわりついてくる。そんな妹に、憐憫とも嗜虐とも知れぬ気持がわき起こってくるのだった。
思わず、笑みが浮かぶ。
「ほら、まだついてるわよ!」
よく見るとわかる。カツ煮の衣の部分が、こびり付いているのだ。
有希江は、それもすべて舐め終えるように、命じている。もしも、鏡がここあったならば、どのように見えるだろうかと想像しながら、雌犬に堕ちた自分を思う。言うなれば、それは文字通り自慰ということになるのだろうか。もちろん、小学生のあおいにそのような知識はないから、そこまでの理解は不可能だった。しかしながら、意識の辺境でそれを認識していた。
自嘲という行動は、人間にとって高等技術である。意識的にそれをするほどに精神が成長していないが、無意識のレベルで行っていることで、少女を美しく魅せていた。内面の灯火が見る人に感動を与えているのだ。
しかし、当の少女自身は自分自身の内面などに、興味を持つ余裕があるわけはない。
彼女はただ、自分の舌に意識を集中させる。それが限界を越えると、舌自身の蠕動行為に委託する。
――――勝手に舌が動いている。
そう思った方が精神的にも、肉体的にも楽なことはもう書いた通りだ。
顎が痛い。この姿勢を維持するのは、首の筋肉に極度の緊張を強いるし、腕にも相当の負荷がかかる。気づかないうちに、両手が指がわなわなと震えている。
有希江は、皇帝か国王のようにテーブルに座りながら、あおいにスプーンを差し向けている。しかし、しばらくすると飽きがきたようだ。
わざとらしく、スプーンをわざと離した。
「ほら、餌はこちらよ、あおいはぐずなんだから!」
「うぐ・・・・・痛ッ!?」
スプーンで、あおいの頬や鼻を打ったりする。そして、可哀想な妹の顔が汚れるのを見て楽しむわけだ。
「あおい、何をしているのよ。あんたって子は、まともに食事もできないの。犬や猫の子だってできることよ。あなたはそれ以下ねえ!?アハハハ」
「ウウ・ウ・・ウ・ウウ」
恥辱を表す涙がかたちのいい頬を伝う。
「ふふ、まだ残っているわよ」
有希江が皿の底を覗いた。そのとき、有希江のひじが四角い箱に直撃した。
「あら」
箱だと思った物は、一冊の本だった。書名は、『百川高等学校世界史』。物体が床に落ちるまで一秒とかからないだろう。それは、人間にとってみれば一瞬のことだが、高解像度カメラにとってみれば無数の世界と空間が目の前に展開する。ここで、カメラの視点を採用してみよう。
本が落ちたとき、それは、491頁を開いていた。
『20世紀前半のバルカン、アッバース・トルコ朝から独立する西スラブ諸民族』
おそらく、小学生のあおいにとってみれば、ほとんど何のことか見当も付かないだろう。有希江は、遊び人でありながら、その成績は常に非凡な能力を持っていることを証明している。しかし、まだ授業でやっていない範囲だ。それに、世界史にそれほど興味があるわけではない。だから、彼女にしたところであおいの理解力をはるかに凌駕しているというわけではない。
有希江の視力は、ニフェルティラピアという活字を捕らえていた。
あおいは、自分の感情を飼い慣らすのに汲々として、姉の視線に感受性を発揮するところではない。事実、姉の目の色が変わっていたことにも気づかなかった。日本人なら当然だろうか、茶色の瞳は、薄い榛色になっている。その憂いを含んだ目つきは、本来の、少なくともあおいが知っている姉ではないはずだ。
この時代のことを、教科書はたった数行で片づけてしまう。
1913第一次世界大戦勃発。
1914年、ニフェルティラピア、独立宣言。しかる後、アッバース朝トルコに宣戦布告。
一般的な世界史の教科書において、ニフェルティラピアについて詳しく書かれることは少ない。その国名すら転載されない教科書も珍しくない。しかし、そこは行間を読んでいただこう。
有希江は、たしかにそこにいた。
ただし、意識的には外の世界になんら関われない身として・・・・・・・・。
意識に、二重にも三重にも虹を掛けられて、彼女は夢の中にいたのである。
彼の地は空気が乾燥していた。だから、風景は固まって見えた。たしかに、人間たちは自分たちの骨格が大地に屹立して生きていたのである。家屋を一歩出るならば、すぐに地平線が開けていた。 湿潤な大気を持たぬぶん、陽光は厳父のように降り注ぎ、色彩に力を与えていた。
小さな体、全体でそれを受け取っていた。
父の視線を太陽とし、母親のそれを月として朗らかに成長していたのである。
その時、たしかに太陽と月が世界のすべてだった。しかし、突如として両者が争っている声が聞こえた。小さな彼女にしてみれば、世界の半分と半分が矛を交わしているのである。それは、世界そのものが終わるかのような恐怖だったにちがいない。
やがて、それは終結し月が姿を消した。世界は太陽だけになった。しかし、彼女にとって明るい世界ではなかった。たしかに巨大な光に世界は照らされてはいるが、ただまぶしいだけの冷たい照明にすぎなかった。
以上は、有希江が幼児から見続けた夢の一部である。高等部に入って、世界史を知るにあたってニフェルティラピアという国名に触れた。そのことが、夢に濃い色彩と立体感を与えることになった。しかし、それが真実どのような意味を持つのか、この時の有希江はまだ気づいていない。
有希江は自分の感情を解明していない。ただ、泉のようにあふれるままに、喉の渇きを癒やしているだけだ。
「あら、こちらのお口も涎を垂らしてるわ。どちらが、本当のお口なのかしら?」
「へ? ぇえ!?いやあぁぁぁ!?」
最初、あおいは姉が何を言っているのか理解できなかった。しかし、すぐに体で知ることになった。よつんばいということは、ハマグリの口を背後からあからさまにすることになる。
有希江は、妹の性器に米を挿入したのだ。炊いてからかなり時間が経っているだめに、そうとう滑りが発生している。それだけに、少女の性器の細かなところにまで侵入し、刺激を与え続ける。
「ぅひい! ぃいやあ! ぃぃいやあああ!!」
「こちらのお口も満足させてあげなきゃ、不公平でしょう? それに ―――」
あおいは、返ってくる言葉の鞭を予想して、身構えた。しかし、その毒の意地悪さは想像以上だった。
「どちらのお口が、本当なのかしらね? いやらしいあおいチャンのアタマはこちらかもね? うふふ」
小学生のあおいにも、言葉の持つ辛辣さは明かである。上半身よりも下のほうが、重要だと言っているのだ。そう、肩に乗っかっている可愛らしい小顔など、何の意味もないと言い放っているのである。それは、ダイヤモンドで造った土台すら、簡単に腐らせてしまいかねない。少女のか弱い精神など一瞬で、腐食させてしまう。
「ぁあぐう!ァァアグウ・・・・・!! お、おねがい! ゆ、有希江姉 あね、姉さん! ゆ、許してェ・・・・・ぁあう!?ぅ!」
しかし、局所を襲う暴虐は、一種の麻薬の役割を果たしていた。認めたくないことだが、心の何処かで、それを歓迎している。もちろん、意識ではそれを受け入れたくない。そのことは、自分が人間でないと宣言しているようなものだ。残存した人間の尊厳は、けっして少女にそれを許さなかった。
「はあぁぁぅう!? ぁぁはぅ!?」
「あははは、やっぱり、こちらの方がお口なんじゃない? 何だったらと目と鼻を書いてあげてもいいのよ」
有希江は悪魔的な笑顔を浮かべると、デスクから黒の油性マジックを取り出した。そして、キュキュと淫靡な音を立てながら、目と鼻を一気に書き上げた。
「ふふ、下のお口は隠さなくちゃね、うふふふ」
「い?ひぐう?!」
たまたま見つけた革ジャンをあおいのアタマにかぶせた。革ごしに、かわいい妹のうめきを振動として感じる。
―――有希江姉さん! 有希江姉さん! もう許して! 堪忍して!!
空気の震えを伴わない音は、たしかにそう言っている。革が遮断する少女の哀しみに満ち汗と叫びは、温度となって伝わってくる。熱伝導の法則は、有希江の掌を温め、その血管を拡張させる。有希江はそれを不快な感覚として受け取った。それはどうしても認めたくない気持が関係しているのかもしれない。愛情と憎しみが白昼する相殺点にて、何が見えるのか。その地平に現出する風景が意味するものは?
その問いに答えるためには、あきらかに記憶が欠けている。この世の生を受けて16年、あおいと出会って10年間、確かに玉の人生を歩んできた。彼女と同じ唄を唄ってきたわけだが、その中にいやな曲は一曲もなかった。
ならば、どうして妹が憎いのだろう。あれほどに可愛がった妹は、よつんばいになって、女として大事なところを弄ばれている。相手が姉であって、異性でないことは、けっして慰めにならないだろう。
いやらしい中年男に性的な虐待を受けることに比べて、残酷でないなどということはできない。むしろ、同性でしかも姉であることが、あおいに与えるトラウマは、筆舌に尽くしがたいものがあるだろう。
その証拠は、妹の泣き顔を見れば明らかだろう。まるで、出産直前の女性のような顔をしている。
苦痛と恐怖に、目と鼻と口がばらばらになる。それぞれ固有の意思に目覚めたかのように、動き出した。
革特有の臭い。醤油に味の素を混ぜたような臭気は、あおいの鼻を詰まらせ絶望の孤島へと彼女を追放する。
革ジャンによって阻まれているとはいえ、ハウリングした声は、むしろ悲しげに響いている。有希江は、それを微笑さえ浮かべながら見下ろしている。それは、決して母親をはじめとする家族に迎合しているわけじゃない。母親からもらったメールが脳裏に蘇る。その文面から伝わってくる思考の波は、共感できる部分とできない部分がモザイクのように混在して、ひとつの絵を構成している。
しかし、その絵を仰いでも何も生まれない。むしろ思考は停止して、頭の中は真っ白になってしまう。確かにそこに何かがあるはずなのに、それがわからない、触れられない。加害者は加害者で、苦悩の文字で便箋を埋めているのだ。もちろん、そんなことがあおいに伝わるはずはない。あんなに深かった姉妹の絆がこんな形で、崩壊し、今はむしろ、マイナスの方向に絡みあうなどと、つい数ヶ月前には思いもしなかったことだ。
当時は、外界から刺激を受けると、性器が濡れるなどとことは知らなかった。たしかに、勢いよく下着を穿いたときなど、ぐうぜんにも局所が刺激を受けたときなど、意味不明の感覚を味わうことがあった。しかし、それが快感という言葉をイーコールで結ばれることはなかったのだ。
今、両者は少女のどこかで連結しようとしている。それは、彼女にとって身を裂かれるほどの羞恥心を呼び寄せた。
「あははは、なんて臭いかしら? これじゃ、奇形児しか生まれないわね。それにしてもなんて臭う月経なのかしら?臭い!臭い!!臭いわ!!」
少女のハマグリが鉄臭い血液を吐き出す。それを見ると、すぐに可南子はクラクラと笑声を立てる。すると、女の鼻梁がヒクヒクと動く。そこから腐ったマヨネーズの臭いが漂ってくる。
「ウウ・・ウ・ウ・ウ・ウウ!!」
由加里の目には、異常にきらきらしている可南子の鼻梁がやけに目立つ。脂を塗り付けたかのように、いやらしく光を反射する鼻梁は、女のいちばん、醜い部分を暗示しているように思えた。
男ならば、一瞬で卒倒しそうな腐った臭いのなかで、二人は相対していた。はたして、どちらが臭いを発しているのか、傍目にはわからない。病室は、自分の胎内で行われている行為をどのように感じていたのだろう。腹が痒いとでも思っていたろうか。
「見てみなさい、ほら、見るのよ!」
声量は小さいが、決めつけるような物言いは、可南子をじっさいよりも大きく見せた。鈍く光る眼光。大根を思わせる外観は、少女を戦慄させる。可南子は、少女の頭をむんずと摑むと、無理矢理に自己の股間を見させた。そこには真っ赤に濡れる性器があった。
「あら、あら、生理だけじゃじゃないみたいね? とうめいな液が出ているわよ、いやらしい液がね! 由加里ちゃん、それ程までに男が恋しいの!?本当に恥ずかしい子ねえ、アハハハ」
可南子の手が、少女の股間を探す。そして、企業の科学者が、秘密への入り口で指紋IDを照会するように、そこに手を這わす。由加里の性器は、誰かに触れて欲しげに、ヒクヒクと言っている。少なくとも、可南子にはそう見えた。
女は、嫌らしげにほくそ笑むと、ハマグリの口を確認する。
慣れた手つきで、その位置を認めると口腔内へと指を挿入する。
「ウグ・・・・・ゥ!?いやあぁあぁぁぁ!?」
激しく胸郭を上下させて、いやいやをする由加里。局所はふだんでも敏感な部位である。それが生理中となると、その感度は数倍となる。しかしながら、単純に快感が倍増するというわけではない。 性に対する不快感も右にならうからである。
まるで自分からはみ出てしまうように思える。もはや、そこは自分ではない。そう思うことで、自我の同一性を保っているのかもしれない。それが思春期の独自の心理だろう。しかし、可南子の歪んだ眼光と鼻息は、少女の感傷など目に入った小虫ほどにも感じない。
「嗅いでみなさい、臭いでしょう? 自分が出したものがどれほど臭いのか、よく知ることね!?」
可南子は、少女の孔から抜いた指を、彼女の眼球の前に差し出して見せた。少女の、柔らかな瞼は、有無を言わせぬ暴力によって、開かれている。少女は、そこに歪んだ鉄を感じた。この世のマイナスの磁力が、すべてそこに集積していた。
「ウウ・・ブ・・・・・ウウウウウ!?」
片方の指で、整った鼻梁を歪ませて、その孔を開かせる。当然のことながら、少女じしんが排泄した愛液と生理血が、べったりと顔にへばりつく。普段は、気にしない臭いがやけにひどく思える。それは、可南子にさんざん罵られたせいか。
その行為は、あたかもこの醜女の嫉妬心を満足させるかのように見えた。月の女神ヘスティアは、三日月の目で苦笑していた。自分の力が地上に及ばないことを悲しみもしたし、安心もした。
さて、可南子と由加里は、自分の全く知らない次元のことなど、露知らぬといった感じで、人間の関係を続けている。
人間の関係とは何か。それは喰う者喰われる者。言い換えればいじめというただひとつの単語に集約される。
この世に、対等の人間関係なぞ何処にも存在しない。麗しい友人関係や家族関係などというのは、ファンタジーのなかにしか存在しない。一見、温和に見えるだけ陰険で醜悪な感情が、その底流に見ることが出来る。
閑話休題(それはさておき)。
「あははは、キレイな顔が台無しね、だけど、生理がこんなに臭い女の子には、相応しいわ。ついでに言っておくと、この病院には私の伯母がいてねえ、美容外科医なのよ。マイケルジャクソンみたいになってみる?!」
当然のことだが、可南子は海崎照美に知己がない。もしも、由加里が照美ほどの美少女だったら、本当に傷をつけないまでも、しばらく顔が元に戻らないほどには指に力を入れていたかも知れない。
少女の脳裏には、さきほど急逝した外人歌手の顔が浮かんでいる。まるで骸骨のような頭部は、とうてい、スーパースターのそれのようには思えない。
そうは言うが、可南子ですらリアルタイムで、彼を知っているわけではない。少女が詳しく知るはずもない。だいいち、少女は、2000年代のユルイ音楽文化に慣らされた世代である。マイケルの良さが理解できるはずもない。
―――――なんで、あんな死に神みたいな人が、騒がれているんだろう。
少女は、テレビ受信機を通してマイケルを見ながら、思ったものだ。それは上の世代が、消化しそこねた食物のようなものだ。
―――――あの人たちが大事にしているものって一体なんだろう?
スーパースターの追悼番組と称して、大人たちは、浮かれ騒いでいる。彼の身体にこびりついたコールタールなどは完全に無視している。
由加里が見るところ、良くて出来損ないのマネキンにすぎない。
ただ、児童虐待者という不名誉なイメージだけが、まとわりつく。それが、目の前に存在する可南子と像が収斂する。過剰に塗りたくられた乳液は、嫌らしげなテカリを作り出す。一見、彼女はマイケルとは似ても似つかない容姿である。わりとふっくらとしているにもかかわらず、痩けた頬は、何処か似ているような気がする。骸骨を容易に想像できる外見などは、なおさらに、彼を彷彿とさせる。週刊誌に載っていた彼の顔は、まるで子供が厚紙で作った顔のように崩れていた。
恐怖に戦く少女の目からは、可南子はまさにそれと像が重なるのだった。
「ヒ・・・・ゆ、許してエエ!?」
そんなことが、現実的に起こるとは思えない。それが常識的な見方である。しかし、今の由加里に通用するはずはない。今にも、顔にメスが入るのではないかと怯えた。
「ナあに? 顔がそんなに大事なの?」
「・・・・・・・・・・?!」
可南子の責めは、酸鼻を極めた。少女の心にメスが入り込む。傷を抉り、赤い血を流させる。
「聞いているのよ!?私は!!」
「ヒヒグウ!ぅ?」
少女の顔に、さらなる力が入る。可南子の指が、少女の頬、鼻の穴に侵入していく。若々しい顔に似合わぬ影を作り出す・・・・・・・・・・。
夜は、哀れな少女の境遇を思って、戦慄いていた。それが病院を覆って、入院患者の余命を奪ってしまうように見えた。
ここで、時間を遡ってヘスティアには、地中に戻ってもらうことにしよう。
巨大なコンクリートの壁が、地平線まで続く。中をうかがうと、鉄塔がそそり立っている。バロック的な飾り気など入る隙間もない。
そんな壁の前に、赤い車が止まっている。しかし、その車は、背景とはまったくちがう、あるいは、その巨大な建築物を、呑みこんでしまいそうな瀟洒さが、その車にはあった。
ルィィィィン。
ごく機械的な作動音ともに扉が開く。それには生命的な雰囲気すら醸し出されている。
中から出てきたのは一人の女性だった。すくっと、黒いタイツが見えると、すらりと伸びた長身が出現した。彼女はOLを思わせるスーツを着用しているが、隠しきれない筋肉が、その身分を暗示している。
「もう少しね ―――」
女性は、メタリックな輝きを見せる車体に、身を寄せると携帯を取り出した。
彼女の氏名は、西沢あゆみその人である。世界的に名を知られるテニスプレイヤーである。世界ランキング3位は、男女通じて、日本テニス史上最高位である。まさにスポーツ界の寵児という名を欲しいままにしている。
そんな人物がどうして、こんなところにいるのだろうか。
向こう側から、美しい女性が歩いてくる。彼女はそんな解答に答えを示してくれるのだろうか。
あゆみは、恐るべき言葉を吐いたのである。
「母さん・・・・・」
「あゆみ!」
しかし、女性は語気を強めて、あゆみを嗜めた。彼女の年令は、外見からはわからない。
20歳を越えているあゆみの母親ならば、少なくとも40代のはずである。しかし、どう見ても30代にしか見えない。
決して、若くは見えないが、中高年でもない。
「早く乗ってよ、誰も見ているわけじゃあるまいし ・・・・・」
「あなたは有名人なのよ、それを自覚しなさい」
車に乗り込みながら、女性は畳み掛けた。
「行くよ」
女性が助手席に乗り込んだのを確認すると、エンジンを掛ける。軽快な音は、生物の覚醒を思わせる。冬眠から醒めた熊のそれを思い出せばいい。芸術品を思わせる内装とメータに代表される電子の顔は好対照を為している。
良い車について、あるドイツの評論家の言葉がある。
「良い車とは、いつ動いたのか、わからないことを言う、もちろん、同乗者にとってだけどね」
彼は、かの国の元有名エンジニアなのだが、言い得て妙ではある。
あゆみが操る車はたしかに、それを同乗者に悟らせなかった。しかし、その功績は必ずしも車の性能とは関係ないかもしれない。
「で、どうだった、姉さんは」
「いつもと変わらないよ」
母娘の間に、彼女らにしか共有できない空気が生じる。
「私のことなんか言ってた?」
「怪我のこと心配してたよ」
あゆみは、母親の言葉に満足できない。それをアクセルにぶつけようとする。
「ねえ、あゆみ・・・・・・」
「もう、来ないで。わざわざ、迎えにくる必要もないだろう。母さんのところにもね」
あゆみは、それには無言で答えの代わりにした。それは抗議の現れでもある。大きな造りの目や鼻は、整っているが美人というよりは、美男子と表現したほうが適当だろう。その点に関してみれば、鋳崎はるかと軌道を一にするだろう。
しかし、次ぎの言葉があゆみに、口を開かせることにした。
「でも、あなたがお父さんに似てくれてよかったわ」
「な、何を言っているのよ!!」
いきなり激昴するあゆみ。しかし、年の功というべきか、母親はまったく意に介さない。
「よく、それでシャラポラに勝てたわね」
「これは試合じゃない。人生は」
「だけど、インタビューで言ってたけじゃない、テニスは自分の人生だって」
「母さん!」
器の差を如実に見せつけられたかのように、あゆみは押し黙ってしまった。
母親も、もう何も語ろうとしない。二人の間に触れてはいけない空気が横たわっている。それは他 人には窺い知れない過去なのかもしれない。
車は音もなく駅前に止まった。そして、車外の人となった母親は、娘を一回もふり返らずに、改札の向こうへと消えていった。
そして、あゆみの車も背後になんら未練もないように、暗くなり始めた喧噪へと滑り出す。しかし、背後を過去と同一視できない。振り切れない。そんな思いに囚われて、彼女はムリに自分を励まそうとする。
いっそこのこと、歩行者を轢き殺してやろうかと思った。
―――ドケよ! 一般人ども!!
あゆみは、高校生の自分に戻っていた。
自分は特別な人間だと思っていた。周囲の人間は、自分を女神のように扱う。しかし、知っている。 彼ら『一般人』が彼女がいないところで、どんなことを言っているのか・・・・。
「あの人、人間じゃないよね」
「完璧すぎてコワイよ、きっと泣いたことないだろうな」
「そうよ、人を見下してさ ―――」
――私ったら、旧いことを・・・・・・。
あゆみはやっと、エンジンを吹かすことができた。車は、彼女の皮膚になってくれる。すべての脳に発するすべての神経が、すべてのパーツに連結される。それらがみんな彼女の意のままに動く。タイヤに巻き込まれて飛び跳ねた砂粒が、車体をかすめる。そんな些細な刺激すら、あゆみに伝えられる。ハンドル、エンジン、ギアが彼女の手足のように自由になる。
しかし、カーステにCDを挿入することくらいは、手動でやらねばならない。
「マイケルジャクソン、デンジャラス? 奇遇な。あいつへのレクイエムのつもりで聞いてやってもいいわね」
ラケットを扱うように、優雅な手つきでCDをセットする。
しかるのちに、聞こえてきた音。
それは、1980年代への葬送曲に聞こえた。
「90年代があまりにも印象が薄かったからね ――――――」
あゆみは、背後へと飛び去っていくライト群を、過去に見立てた。
エンジンはなおも軽快に、夜の街に響き渡る。
少女のハマグリが鉄臭い血液を吐き出す。それを見ると、すぐに可南子はクラクラと笑声を立てる。すると、女の鼻梁がヒクヒクと動く。そこから腐ったマヨネーズの臭いが漂ってくる。
「ウウ・・ウ・ウ・ウ・ウウ!!」
由加里の目には、異常にきらきらしている可南子の鼻梁がやけに目立つ。脂を塗り付けたかのように、いやらしく光を反射する鼻梁は、女のいちばん、醜い部分を暗示しているように思えた。
男ならば、一瞬で卒倒しそうな腐った臭いのなかで、二人は相対していた。はたして、どちらが臭いを発しているのか、傍目にはわからない。病室は、自分の胎内で行われている行為をどのように感じていたのだろう。腹が痒いとでも思っていたろうか。
「見てみなさい、ほら、見るのよ!」
声量は小さいが、決めつけるような物言いは、可南子をじっさいよりも大きく見せた。鈍く光る眼光。大根を思わせる外観は、少女を戦慄させる。可南子は、少女の頭をむんずと摑むと、無理矢理に自己の股間を見させた。そこには真っ赤に濡れる性器があった。
「あら、あら、生理だけじゃじゃないみたいね? とうめいな液が出ているわよ、いやらしい液がね! 由加里ちゃん、それ程までに男が恋しいの!?本当に恥ずかしい子ねえ、アハハハ」
可南子の手が、少女の股間を探す。そして、企業の科学者が、秘密への入り口で指紋IDを照会するように、そこに手を這わす。由加里の性器は、誰かに触れて欲しげに、ヒクヒクと言っている。少なくとも、可南子にはそう見えた。
女は、嫌らしげにほくそ笑むと、ハマグリの口を確認する。
慣れた手つきで、その位置を認めると口腔内へと指を挿入する。
「ウグ・・・・・ゥ!?いやあぁあぁぁぁ!?」
激しく胸郭を上下させて、いやいやをする由加里。局所はふだんでも敏感な部位である。それが生理中となると、その感度は数倍となる。しかしながら、単純に快感が倍増するというわけではない。 性に対する不快感も右にならうからである。
まるで自分からはみ出てしまうように思える。もはや、そこは自分ではない。そう思うことで、自我の同一性を保っているのかもしれない。それが思春期の独自の心理だろう。しかし、可南子の歪んだ眼光と鼻息は、少女の感傷など目に入った小虫ほどにも感じない。
「嗅いでみなさい、臭いでしょう? 自分が出したものがどれほど臭いのか、よく知ることね!?」
可南子は、少女の孔から抜いた指を、彼女の眼球の前に差し出して見せた。少女の、柔らかな瞼は、有無を言わせぬ暴力によって、開かれている。少女は、そこに歪んだ鉄を感じた。この世のマイナスの磁力が、すべてそこに集積していた。
「ウウ・・ブ・・・・・ウウウウウ!?」
片方の指で、整った鼻梁を歪ませて、その孔を開かせる。当然のことながら、少女じしんが排泄した愛液と生理血が、べったりと顔にへばりつく。普段は、気にしない臭いがやけにひどく思える。それは、可南子にさんざん罵られたせいか。
その行為は、あたかもこの醜女の嫉妬心を満足させるかのように見えた。月の女神ヘスティアは、三日月の目で苦笑していた。自分の力が地上に及ばないことを悲しみもしたし、安心もした。
さて、可南子と由加里は、自分の全く知らない次元のことなど、露知らぬといった感じで、人間の関係を続けている。
人間の関係とは何か。それは喰う者喰われる者。言い換えればいじめというただひとつの単語に集約される。
この世に、対等の人間関係なぞ何処にも存在しない。麗しい友人関係や家族関係などというのは、ファンタジーのなかにしか存在しない。一見、温和に見えるだけ陰険で醜悪な感情が、その底流に見ることが出来る。
閑話休題(それはさておき)。
「あははは、キレイな顔が台無しね、だけど、生理がこんなに臭い女の子には、相応しいわ。ついでに言っておくと、この病院には私の伯母がいてねえ、美容外科医なのよ。マイケルジャクソンみたいになってみる?!」
当然のことだが、可南子は海崎照美に知己がない。もしも、由加里が照美ほどの美少女だったら、本当に傷をつけないまでも、しばらく顔が元に戻らないほどには指に力を入れていたかも知れない。
少女の脳裏には、さきほど急逝した外人歌手の顔が浮かんでいる。まるで骸骨のような頭部は、とうてい、スーパースターのそれのようには思えない。
そうは言うが、可南子ですらリアルタイムで、彼を知っているわけではない。少女が詳しく知るはずもない。だいいち、少女は、2000年代のユルイ音楽文化に慣らされた世代である。マイケルの良さが理解できるはずもない。
―――――なんで、あんな死に神みたいな人が、騒がれているんだろう。
少女は、テレビ受信機を通してマイケルを見ながら、思ったものだ。それは上の世代が、消化しそこねた食物のようなものだ。
―――――あの人たちが大事にしているものって一体なんだろう?
スーパースターの追悼番組と称して、大人たちは、浮かれ騒いでいる。彼の身体にこびりついたコールタールなどは完全に無視している。
由加里が見るところ、良くて出来損ないのマネキンにすぎない。
ただ、児童虐待者という不名誉なイメージだけが、まとわりつく。それが、目の前に存在する可南子と像が収斂する。過剰に塗りたくられた乳液は、嫌らしげなテカリを作り出す。一見、彼女はマイケルとは似ても似つかない容姿である。わりとふっくらとしているにもかかわらず、痩けた頬は、何処か似ているような気がする。骸骨を容易に想像できる外見などは、なおさらに、彼を彷彿とさせる。週刊誌に載っていた彼の顔は、まるで子供が厚紙で作った顔のように崩れていた。
恐怖に戦く少女の目からは、可南子はまさにそれと像が重なるのだった。
「ヒ・・・・ゆ、許してエエ!?」
そんなことが、現実的に起こるとは思えない。それが常識的な見方である。しかし、今の由加里に通用するはずはない。今にも、顔にメスが入るのではないかと怯えた。
「ナあに? 顔がそんなに大事なの?」
「・・・・・・・・・・?!」
可南子の責めは、酸鼻を極めた。少女の心にメスが入り込む。傷を抉り、赤い血を流させる。
「聞いているのよ!?私は!!」
「ヒヒグウ!ぅ?」
少女の顔に、さらなる力が入る。可南子の指が、少女の頬、鼻の穴に侵入していく。若々しい顔に似合わぬ影を作り出す・・・・・・・・・・。
夜は、哀れな少女の境遇を思って、戦慄いていた。それが病院を覆って、入院患者の余命を奪ってしまうように見えた。
ここで、時間を遡ってヘスティアには、地中に戻ってもらうことにしよう。
巨大なコンクリートの壁が、地平線まで続く。中をうかがうと、鉄塔がそそり立っている。バロック的な飾り気など入る隙間もない。
そんな壁の前に、赤い車が止まっている。しかし、その車は、背景とはまったくちがう、あるいは、その巨大な建築物を、呑みこんでしまいそうな瀟洒さが、その車にはあった。
ルィィィィン。
ごく機械的な作動音ともに扉が開く。それには生命的な雰囲気すら醸し出されている。
中から出てきたのは一人の女性だった。すくっと、黒いタイツが見えると、すらりと伸びた長身が出現した。彼女はOLを思わせるスーツを着用しているが、隠しきれない筋肉が、その身分を暗示している。
「もう少しね ―――」
女性は、メタリックな輝きを見せる車体に、身を寄せると携帯を取り出した。
彼女の氏名は、西沢あゆみその人である。世界的に名を知られるテニスプレイヤーである。世界ランキング3位は、男女通じて、日本テニス史上最高位である。まさにスポーツ界の寵児という名を欲しいままにしている。
そんな人物がどうして、こんなところにいるのだろうか。
向こう側から、美しい女性が歩いてくる。彼女はそんな解答に答えを示してくれるのだろうか。
あゆみは、恐るべき言葉を吐いたのである。
「母さん・・・・・」
「あゆみ!」
しかし、女性は語気を強めて、あゆみを嗜めた。彼女の年令は、外見からはわからない。
20歳を越えているあゆみの母親ならば、少なくとも40代のはずである。しかし、どう見ても30代にしか見えない。
決して、若くは見えないが、中高年でもない。
「早く乗ってよ、誰も見ているわけじゃあるまいし ・・・・・」
「あなたは有名人なのよ、それを自覚しなさい」
車に乗り込みながら、女性は畳み掛けた。
「行くよ」
女性が助手席に乗り込んだのを確認すると、エンジンを掛ける。軽快な音は、生物の覚醒を思わせる。冬眠から醒めた熊のそれを思い出せばいい。芸術品を思わせる内装とメータに代表される電子の顔は好対照を為している。
良い車について、あるドイツの評論家の言葉がある。
「良い車とは、いつ動いたのか、わからないことを言う、もちろん、同乗者にとってだけどね」
彼は、かの国の元有名エンジニアなのだが、言い得て妙ではある。
あゆみが操る車はたしかに、それを同乗者に悟らせなかった。しかし、その功績は必ずしも車の性能とは関係ないかもしれない。
「で、どうだった、姉さんは」
「いつもと変わらないよ」
母娘の間に、彼女らにしか共有できない空気が生じる。
「私のことなんか言ってた?」
「怪我のこと心配してたよ」
あゆみは、母親の言葉に満足できない。それをアクセルにぶつけようとする。
「ねえ、あゆみ・・・・・・」
「もう、来ないで。わざわざ、迎えにくる必要もないだろう。母さんのところにもね」
あゆみは、それには無言で答えの代わりにした。それは抗議の現れでもある。大きな造りの目や鼻は、整っているが美人というよりは、美男子と表現したほうが適当だろう。その点に関してみれば、鋳崎はるかと軌道を一にするだろう。
しかし、次ぎの言葉があゆみに、口を開かせることにした。
「でも、あなたがお父さんに似てくれてよかったわ」
「な、何を言っているのよ!!」
いきなり激昴するあゆみ。しかし、年の功というべきか、母親はまったく意に介さない。
「よく、それでシャラポラに勝てたわね」
「これは試合じゃない。人生は」
「だけど、インタビューで言ってたけじゃない、テニスは自分の人生だって」
「母さん!」
器の差を如実に見せつけられたかのように、あゆみは押し黙ってしまった。
母親も、もう何も語ろうとしない。二人の間に触れてはいけない空気が横たわっている。それは他 人には窺い知れない過去なのかもしれない。
車は音もなく駅前に止まった。そして、車外の人となった母親は、娘を一回もふり返らずに、改札の向こうへと消えていった。
そして、あゆみの車も背後になんら未練もないように、暗くなり始めた喧噪へと滑り出す。しかし、背後を過去と同一視できない。振り切れない。そんな思いに囚われて、彼女はムリに自分を励まそうとする。
いっそこのこと、歩行者を轢き殺してやろうかと思った。
―――ドケよ! 一般人ども!!
あゆみは、高校生の自分に戻っていた。
自分は特別な人間だと思っていた。周囲の人間は、自分を女神のように扱う。しかし、知っている。 彼ら『一般人』が彼女がいないところで、どんなことを言っているのか・・・・。
「あの人、人間じゃないよね」
「完璧すぎてコワイよ、きっと泣いたことないだろうな」
「そうよ、人を見下してさ ―――」
――私ったら、旧いことを・・・・・・。
あゆみはやっと、エンジンを吹かすことができた。車は、彼女の皮膚になってくれる。すべての脳に発するすべての神経が、すべてのパーツに連結される。それらがみんな彼女の意のままに動く。タイヤに巻き込まれて飛び跳ねた砂粒が、車体をかすめる。そんな些細な刺激すら、あゆみに伝えられる。ハンドル、エンジン、ギアが彼女の手足のように自由になる。
しかし、カーステにCDを挿入することくらいは、手動でやらねばならない。
「マイケルジャクソン、デンジャラス? 奇遇な。あいつへのレクイエムのつもりで聞いてやってもいいわね」
ラケットを扱うように、優雅な手つきでCDをセットする。
しかるのちに、聞こえてきた音。
それは、1980年代への葬送曲に聞こえた。
「90年代があまりにも印象が薄かったからね ――――――」
あゆみは、背後へと飛び去っていくライト群を、過去に見立てた。
エンジンはなおも軽快に、夜の街に響き渡る。
「私、どうしたら、照美さんとはるかさんに・・・・・・・・」
とても小さな声が、少女の口から零れた。
その空気の乱れが、人の耳に到着するまえに、語尾は、かんぜんに雲散霧消してしまった。それは、ホームランと見せて、フライにすぎなかった。
しかし、はるかは憮然とはならない。列車の窓に映るゆららの顔が、あまりに悲しすぎたからだ。透明すぎるその容姿と表情は、はるかの心を融かしていた。一般に、ドライアイスのハートと異名を持つはるかの心は、限りなく融点に近づいていたのである。
「 ――――勝てるのか?」
はるかは、ゆららの代わりに言葉をつなげて見せた。少女は、長身のアスリートが持つ鋭敏な洞察力に絶句した。
「そ、そんな!?」
ゆららは、とてもそれを言葉にできる勇気をもっていなかった。あまりにも周囲から否定されつづけたせいか、少女は、自分を弁護することに、あまりにも消極的になっていた。
はるかは、脳を頭の中で一回転させると、静かに口を開いた。
「私は、こう思うのさ。人間の能力って残酷だけど、生まれつきってものがある。それは一緒にテニスやってる子たちみればわかる ――――」
ゆららが発見したはるかの表情は、かつて見たことがないほどに砂金に満ちていた。金の砂時計が静かに回転する。
「試合やってて、勝つんだけど、何故かおもしろくない。相手は2年も3年も先輩なんだけど、何だか本気でやってないのさ。ガキ相手にふざけてるんだって思ったね。だけど事実はちがった。試合が終わって、先輩に怒ったんだよ。そうしたら、ものすごい剣幕で睨み返された。しかも恐いことに、テニスクラブの先輩たちがみんな目をつり上げてるんだよ。正直言って、面食らったね」
はるかは、遠い目をしていた。それは照美すら、滅多に見たことがない表情である。ゆららは黙って聞き入っている。自分のために、こんなに真剣に語ってくれる他人に、久しく出会っていない。
「むろん、コーチからは神童みたいに扱われるわけ。すると、なおさらみんなの表情が凍っていく。でも、あまりにガキだったから、私もその意味はわからなかった。自分の無神経さにも思いは到らなかったわけさ。自分の言葉がその先輩をどれほど傷付けたかもね ―――――」
「・・・・・・・・・」
照美も、はるかの子供を見守る母親のような顔をして、立ち尽くしている。まるで娘のお見合いにでも、居合わせているようだ。美貌を隠したマフラーは、心配そうな色で編まれていた。彼女すら知らないエピソードが含まれているのだろうか。いささか、意外そうな視線が見受けられる。
「照美を見てゴランよ」
「ちょっと、何をするの!?」
気取った顔をいとも簡単に、破壊したのは、はるかの大きな手だった。その国宝級の陶器のような顔からは、特別な雰囲気が漂っている。それは、誰にも触れることが許されないかのようだ。しかし、はるかだけが、それを為せる。豹のような俊敏さで。彼女の背後に忍び寄ると、親友の頬を鷲づかみにした。
「ほら、こうしてやりたいほど、キレイだろ?! 腹が立たないくらいにね」
「ちょっと、離してよ!? このウド大木!!」
クラスメートの中で、彼女以外が、照美のその視線をマトモに喰らったらどうなるだろう。おそらく、、あっという間に、その精神は砕け散ってしまうだろう。
平然と笑い転げているのは、はるかくらいのものだ。
本来、人よりも時間が多少かかっても、ゆららは、深い洞察力を持っている。この時、彼女自信気づいていないところで、はるかの言いたいことはわかっていた。
「でも、私は ――――」
「自分は何を持っていないなんて言うんじゃないんだろうな?」
「え?」
うららの瞳が大きく開かれる。そんな屈託のない目を、はるかは快いと思った。彼女は機先を制した。
「人間が持っているものなんて、誰もわからないさ。だけど、それは努力とか目利きの良さとかいっさい、関係ないのさ」
「それは何?」
「生まれつきだな。それは運なのか、何かの巡り合わせなのか、前世の報いなのかわからないだけど、前世ってのはな ――――」
目鼻の大きな造りは、彼女の性格を端的に表している。そんな顔を、おもいっきり歪ませた。
「この照美が前世に善行をしたとは、とうてい思えないんだよ」
「おい、言うに事欠いて! はるか、お前なんてよほどの悪党だったんだろう!?」
「フフフ」
照美の美貌が変形されていく過程で、ついにゆららから笑声が零れた。それははるかの意図したことだった。
今、このとき、彼女の手は最悪の陶芸職人に成りはてていた。その犠牲者と成りはてた照美こそ、言い面の皮というものだろう。
しかし ――――。
「あ、笑ったわね!?」
「あ、ご、ごめんなさい」
一瞬で、春に芽吹いた新芽はその手足を閉じてしまった。
―――ああ、なんて私ったら、だめなんだろう。この人たちは、本当に私のこと思ってくれているのに・・・・。こんな顔をしたら、余計に気を遣わせちゃう・・・・。
煩悶を見せまいとすれば、するほどに二人には伝わってしまう。また、それを逆に受け取ったゆららは、また煩悶に苦しむ。まるで無間地獄である。高田や金江たちが、無邪気に投げつけた悪意の塊は、相当の傷を少女の心に負わせていたようだ。
「あら、あら、これは何かしら?どうして、こんなものがかわいらしい由加里チャンの、ここに入っていたのかしら?」
ゆららたちが、車中の人になったころのことである。由加里は、鬼のような義母の言葉を受けていた。それは女性特有の子宮と生理に満ちていた。それは、男性にはいっさいあり得ない悪意である。 その生き物が生を営んでいるのが、地球である限り、これほどまでに悪質な感情は存在しない。子宮が排出する赤い液体は、天と大地を腐らせるものである。
「・・・・ウ・ウ・ウ・ウ・ウ?!」
可南子の視線がCGのそれのようなに、揶揄に濡れている。デッサンは完璧なまでに、対象を描写しているといのに、不自然さを否定できない。どうしても、CGオンリーというのは受け入れがたい。1980年代の良さと温かみを知っているからだろうか。
ヴァイブレーター。いやらしい電子音を四方に放ちながら、蠢く。蚊の鳴くような声は、一体、何を求めているのだろう。
「おかしいわねえ? どうしてこんなに濡れているのかしら?」
可南子の指は、蠢く物体を由加里に示している。その手は手根骨から、爪の先までメンスの汚さに満ちている。腐った血がネトネトとこびり付いている。彼女の手を概観すると、異常に気づく。とてもほ乳類のそれには見えないのだ。内骨格を温かい肉と血で来るんだ生き物。
要するに、我々と同族ではなく、外骨格と冷たい血に象徴される爬虫類や両生類に見えるのだ。それはクトゥルー神話や菊池秀行の創造する化け物のようだ。
それは生理を象徴するようにも思える。女性は月にいちど、人間はおろか、ほ乳類ですらなくなってしまう。
彼女の口が動くと今にも、今にも、無数の芋虫に変化しそうだ。由加里はかって、友人に菊池秀行原作のアニメを見させられたことがある。そのときは、思わず吐きそうになった。原作を試読していた由加里だったが、じっさいに、映像を目の前にすると嘔吐を止められなかった。
しかし、今、少女が目の当たりにしているのは、アニメでも小説でもなく、実存なのである。縦と高さと奥行きだけでなく、温かみまである。
ちなみにそれは異常な化学変化が生じせしめる偽りの温かみである。
「答えなさい、どうして濡れているの?」
「ウウ・・ウ・あお、愛液で濡れています・・・ウウ!?」
可南子は、大いに笑いたくなったが、いかんせん、ここは静寂を制服にすべき病院である。残念ながら、悪意の笑声は、万分の一に押さえなくてはならなかった。
しかし、それは由加里の心を傷付けるのに、十分だった。ヴェネツィアンガラスのように繊細で壊れやすい心に罅が入るには、新生児の一撃があればいい。
「このとても臭い液が、由加里ちゃんの愛液なのね、ふふふ」
「ウウ・・ウ・ウ・ウウウ!?」
可南子は、わざとらしく顔を顰める。それが大根役者のそれだということは、わかっている、ただし、それは理性でのことだ。濁流のような感情は、それに優越しかみ砕く。しまいには、胃液で消化してしまう。いや、消化不良を起こして、精神に炎症を得るかもしれない。
精神の不調は、視力を曇らせる。本来、ずば抜けた洞察力を持つ少女の視線は、かんぜんに、曇ってしまった。病室の四隅に、自分の裂かれた肉体が張り付く。しかし、赤い血は全くといっていいほどに見つけられない。見えるのは、透明な液体、少女の涙だけである。それは霧になって、病室じゅうに舞い上がっている。
可南子の嘲る声は、少女の嗅覚を刺激する。彼女の大きな鼻が、下品な動作とともに、動物のそれのように動くと、同時に少女の上品な鼻梁を光らせる。薄く塗ったような汗のせいだ。
自分の臭いを嗅がされる。それは、焼けただれた自分の顔に、鏡を突きつけられることに似ている。
妖怪じみた可南子の手が、蠢くたびに、由加里の愛液が糸を引く。そのたびに、ひくひくと大きな鼻が動物めいた動きを見せる。その動作の一つ一つが、天性の上品さと磨かれつつある知性を併せ持った少女を貶め、辱める。
「ふふ、いままで、コレが入っていた穴は何? 詳しく説明してごらんなさい」
まるで、母親然と命令を下す。
「ウウ・・・ウ・ウ・ウ、こ、ここは、いん、淫乱の、に、西宮・・・ゆ、由加里の・・ウウ・・・ウ、いやらしくて、くさ、ウウ・・ウ・・ウ? 臭、臭い、お、お、おまんこ・・・です・・・ウ・ウ・・ウウ?!」
「そうね、まるで生ごみでも、捨てるしかないくらいに汚らしい穴よね、由加里ちゃんのここは。 それにとても臭いし・・・・」
最後の「臭い」という言葉が、余計に由加里の嗅覚を刺激した。いくら、知性が麻痺しているとはいえ、羞恥心を刺激する嗅覚は、健在なようだ。いや、余計に敏感になっているのかもしれない。少女は、部屋じゅうが赤く染まってしまうほどに、目を腫らして、泣きじゃくっている。
「じゃ、今夜もこれなしじゃ、耐えれないよね」
「ひ、お、お願いです!? それだけはゆ、許してウウ・・・ウ・ウ・ください!!」
由加里は、残されたすべての生気を動員して、懇願した。その口調からは、辛い記憶が見え隠れする。
「そう? やせ我慢しなくてもいいのよ。せっかく、換えの電池を持ってきてあげたのに。ふふ、あなたのココ、悪臭を放ちながら、欲しがっているわよ」
天使の白衣を纏っているとは思えない表情を湛えて、由加里を言葉で辱める。
「ウウ・・ウ・ウ・ウ・ウ?!」
由加里は見た、口裂け女の口紅の色を。
少女は、年齢的に言っても、それを知らないが、母親の実家で見つけた絵に、見いだしていたのである。
生理の臭いが漂ってくる。それは酸味が際だった腐敗の臭い。女性のもっとも醜い姿。そして、女性ともっとも醜く形容する手段でもある。可南子を表現するのに、これほどまでに相応しい言葉はない。しかし、そのとき、少女にもそれが近づいていた。
「ァ!」
由加里は、小さく呻いた。そして、見せた表情から淫猥で狡猾な可南子は、あることを見逃さなかった。
「アレ? どうしたの? 由加里チャン?」
少女は羞恥とも悔恨とつかない色に、細面の顔を塗りつぶすと、深く息をした。そのとたんに、あることが、はじまってしまったのである。
「アラ? ついに腐り始めたのかしら? ものすごい臭いがするわよ。これはオペをして、引きずり出す必要があるわね」
「?」
その隠された目的語に、由加里は好奇心の触手を伸ばした。
「子宮よ! 子宮! きっと腐ってるのよ。あなたみたいな変態が子なんて生む資格なんてあるわけないわよ。生まれても汚らわしい奇形児くらいでしょう?」
魔女の言葉は、自分の精神が腐っていることを証明するだけだった。可南子は知らなかった。由加里が、どれほどに肉体的に痛め付けられていても、それに精神が凌駕させられても、この種の言葉に敏感に反応することを知らなかったのである。
たとえ、肉体が引き裂かれようとも、他人の名誉を大事に思うのである。この時、由加里の目に色が戻った。出会ったこともない可哀想な人間のために、大きな瞳は、ただ成らない怒りを帯びている。
「な、何よ!その目は!?」
居丈高に声を荒げていたが、動揺しているのは明らかだった。しかし。はじまってしまった身体の異変は、それを打ち消してしまうのに十分だった。由加里をそこまで追いつめてしまう異変とは・・・・・。
「アヒイ!」
素人のヴァイオリンのような音が、由加里の可愛らしい唇からほとばしり出た。それは、あたかも悪魔に精神を乗っ取られてしまったかのように、外見からは見えた。
しかし、性器からは、もっと別の液体がほとばしり出たのである。
「アハハハハ、はじまってしまったのね。アハハハ」
自分の醜さも臭さにも、興味を示さない可南子は、人のおぞましさには異常なほどに、敏感だった。
少女の陰肉から、それを同じ色の液体が零れてきた。見方によれば、それは、液体でなくて赤いゼリー状の妖怪が、手を伸ばして、少女の性器というねぐらから、這いだしてきたかのように見えた。
とても小さな声が、少女の口から零れた。
その空気の乱れが、人の耳に到着するまえに、語尾は、かんぜんに雲散霧消してしまった。それは、ホームランと見せて、フライにすぎなかった。
しかし、はるかは憮然とはならない。列車の窓に映るゆららの顔が、あまりに悲しすぎたからだ。透明すぎるその容姿と表情は、はるかの心を融かしていた。一般に、ドライアイスのハートと異名を持つはるかの心は、限りなく融点に近づいていたのである。
「 ――――勝てるのか?」
はるかは、ゆららの代わりに言葉をつなげて見せた。少女は、長身のアスリートが持つ鋭敏な洞察力に絶句した。
「そ、そんな!?」
ゆららは、とてもそれを言葉にできる勇気をもっていなかった。あまりにも周囲から否定されつづけたせいか、少女は、自分を弁護することに、あまりにも消極的になっていた。
はるかは、脳を頭の中で一回転させると、静かに口を開いた。
「私は、こう思うのさ。人間の能力って残酷だけど、生まれつきってものがある。それは一緒にテニスやってる子たちみればわかる ――――」
ゆららが発見したはるかの表情は、かつて見たことがないほどに砂金に満ちていた。金の砂時計が静かに回転する。
「試合やってて、勝つんだけど、何故かおもしろくない。相手は2年も3年も先輩なんだけど、何だか本気でやってないのさ。ガキ相手にふざけてるんだって思ったね。だけど事実はちがった。試合が終わって、先輩に怒ったんだよ。そうしたら、ものすごい剣幕で睨み返された。しかも恐いことに、テニスクラブの先輩たちがみんな目をつり上げてるんだよ。正直言って、面食らったね」
はるかは、遠い目をしていた。それは照美すら、滅多に見たことがない表情である。ゆららは黙って聞き入っている。自分のために、こんなに真剣に語ってくれる他人に、久しく出会っていない。
「むろん、コーチからは神童みたいに扱われるわけ。すると、なおさらみんなの表情が凍っていく。でも、あまりにガキだったから、私もその意味はわからなかった。自分の無神経さにも思いは到らなかったわけさ。自分の言葉がその先輩をどれほど傷付けたかもね ―――――」
「・・・・・・・・・」
照美も、はるかの子供を見守る母親のような顔をして、立ち尽くしている。まるで娘のお見合いにでも、居合わせているようだ。美貌を隠したマフラーは、心配そうな色で編まれていた。彼女すら知らないエピソードが含まれているのだろうか。いささか、意外そうな視線が見受けられる。
「照美を見てゴランよ」
「ちょっと、何をするの!?」
気取った顔をいとも簡単に、破壊したのは、はるかの大きな手だった。その国宝級の陶器のような顔からは、特別な雰囲気が漂っている。それは、誰にも触れることが許されないかのようだ。しかし、はるかだけが、それを為せる。豹のような俊敏さで。彼女の背後に忍び寄ると、親友の頬を鷲づかみにした。
「ほら、こうしてやりたいほど、キレイだろ?! 腹が立たないくらいにね」
「ちょっと、離してよ!? このウド大木!!」
クラスメートの中で、彼女以外が、照美のその視線をマトモに喰らったらどうなるだろう。おそらく、、あっという間に、その精神は砕け散ってしまうだろう。
平然と笑い転げているのは、はるかくらいのものだ。
本来、人よりも時間が多少かかっても、ゆららは、深い洞察力を持っている。この時、彼女自信気づいていないところで、はるかの言いたいことはわかっていた。
「でも、私は ――――」
「自分は何を持っていないなんて言うんじゃないんだろうな?」
「え?」
うららの瞳が大きく開かれる。そんな屈託のない目を、はるかは快いと思った。彼女は機先を制した。
「人間が持っているものなんて、誰もわからないさ。だけど、それは努力とか目利きの良さとかいっさい、関係ないのさ」
「それは何?」
「生まれつきだな。それは運なのか、何かの巡り合わせなのか、前世の報いなのかわからないだけど、前世ってのはな ――――」
目鼻の大きな造りは、彼女の性格を端的に表している。そんな顔を、おもいっきり歪ませた。
「この照美が前世に善行をしたとは、とうてい思えないんだよ」
「おい、言うに事欠いて! はるか、お前なんてよほどの悪党だったんだろう!?」
「フフフ」
照美の美貌が変形されていく過程で、ついにゆららから笑声が零れた。それははるかの意図したことだった。
今、このとき、彼女の手は最悪の陶芸職人に成りはてていた。その犠牲者と成りはてた照美こそ、言い面の皮というものだろう。
しかし ――――。
「あ、笑ったわね!?」
「あ、ご、ごめんなさい」
一瞬で、春に芽吹いた新芽はその手足を閉じてしまった。
―――ああ、なんて私ったら、だめなんだろう。この人たちは、本当に私のこと思ってくれているのに・・・・。こんな顔をしたら、余計に気を遣わせちゃう・・・・。
煩悶を見せまいとすれば、するほどに二人には伝わってしまう。また、それを逆に受け取ったゆららは、また煩悶に苦しむ。まるで無間地獄である。高田や金江たちが、無邪気に投げつけた悪意の塊は、相当の傷を少女の心に負わせていたようだ。
「あら、あら、これは何かしら?どうして、こんなものがかわいらしい由加里チャンの、ここに入っていたのかしら?」
ゆららたちが、車中の人になったころのことである。由加里は、鬼のような義母の言葉を受けていた。それは女性特有の子宮と生理に満ちていた。それは、男性にはいっさいあり得ない悪意である。 その生き物が生を営んでいるのが、地球である限り、これほどまでに悪質な感情は存在しない。子宮が排出する赤い液体は、天と大地を腐らせるものである。
「・・・・ウ・ウ・ウ・ウ・ウ?!」
可南子の視線がCGのそれのようなに、揶揄に濡れている。デッサンは完璧なまでに、対象を描写しているといのに、不自然さを否定できない。どうしても、CGオンリーというのは受け入れがたい。1980年代の良さと温かみを知っているからだろうか。
ヴァイブレーター。いやらしい電子音を四方に放ちながら、蠢く。蚊の鳴くような声は、一体、何を求めているのだろう。
「おかしいわねえ? どうしてこんなに濡れているのかしら?」
可南子の指は、蠢く物体を由加里に示している。その手は手根骨から、爪の先までメンスの汚さに満ちている。腐った血がネトネトとこびり付いている。彼女の手を概観すると、異常に気づく。とてもほ乳類のそれには見えないのだ。内骨格を温かい肉と血で来るんだ生き物。
要するに、我々と同族ではなく、外骨格と冷たい血に象徴される爬虫類や両生類に見えるのだ。それはクトゥルー神話や菊池秀行の創造する化け物のようだ。
それは生理を象徴するようにも思える。女性は月にいちど、人間はおろか、ほ乳類ですらなくなってしまう。
彼女の口が動くと今にも、今にも、無数の芋虫に変化しそうだ。由加里はかって、友人に菊池秀行原作のアニメを見させられたことがある。そのときは、思わず吐きそうになった。原作を試読していた由加里だったが、じっさいに、映像を目の前にすると嘔吐を止められなかった。
しかし、今、少女が目の当たりにしているのは、アニメでも小説でもなく、実存なのである。縦と高さと奥行きだけでなく、温かみまである。
ちなみにそれは異常な化学変化が生じせしめる偽りの温かみである。
「答えなさい、どうして濡れているの?」
「ウウ・・ウ・あお、愛液で濡れています・・・ウウ!?」
可南子は、大いに笑いたくなったが、いかんせん、ここは静寂を制服にすべき病院である。残念ながら、悪意の笑声は、万分の一に押さえなくてはならなかった。
しかし、それは由加里の心を傷付けるのに、十分だった。ヴェネツィアンガラスのように繊細で壊れやすい心に罅が入るには、新生児の一撃があればいい。
「このとても臭い液が、由加里ちゃんの愛液なのね、ふふふ」
「ウウ・・ウ・ウ・ウウウ!?」
可南子は、わざとらしく顔を顰める。それが大根役者のそれだということは、わかっている、ただし、それは理性でのことだ。濁流のような感情は、それに優越しかみ砕く。しまいには、胃液で消化してしまう。いや、消化不良を起こして、精神に炎症を得るかもしれない。
精神の不調は、視力を曇らせる。本来、ずば抜けた洞察力を持つ少女の視線は、かんぜんに、曇ってしまった。病室の四隅に、自分の裂かれた肉体が張り付く。しかし、赤い血は全くといっていいほどに見つけられない。見えるのは、透明な液体、少女の涙だけである。それは霧になって、病室じゅうに舞い上がっている。
可南子の嘲る声は、少女の嗅覚を刺激する。彼女の大きな鼻が、下品な動作とともに、動物のそれのように動くと、同時に少女の上品な鼻梁を光らせる。薄く塗ったような汗のせいだ。
自分の臭いを嗅がされる。それは、焼けただれた自分の顔に、鏡を突きつけられることに似ている。
妖怪じみた可南子の手が、蠢くたびに、由加里の愛液が糸を引く。そのたびに、ひくひくと大きな鼻が動物めいた動きを見せる。その動作の一つ一つが、天性の上品さと磨かれつつある知性を併せ持った少女を貶め、辱める。
「ふふ、いままで、コレが入っていた穴は何? 詳しく説明してごらんなさい」
まるで、母親然と命令を下す。
「ウウ・・・ウ・ウ・ウ、こ、ここは、いん、淫乱の、に、西宮・・・ゆ、由加里の・・ウウ・・・ウ、いやらしくて、くさ、ウウ・・ウ・・ウ? 臭、臭い、お、お、おまんこ・・・です・・・ウ・ウ・・ウウ?!」
「そうね、まるで生ごみでも、捨てるしかないくらいに汚らしい穴よね、由加里ちゃんのここは。 それにとても臭いし・・・・」
最後の「臭い」という言葉が、余計に由加里の嗅覚を刺激した。いくら、知性が麻痺しているとはいえ、羞恥心を刺激する嗅覚は、健在なようだ。いや、余計に敏感になっているのかもしれない。少女は、部屋じゅうが赤く染まってしまうほどに、目を腫らして、泣きじゃくっている。
「じゃ、今夜もこれなしじゃ、耐えれないよね」
「ひ、お、お願いです!? それだけはゆ、許してウウ・・・ウ・ウ・ください!!」
由加里は、残されたすべての生気を動員して、懇願した。その口調からは、辛い記憶が見え隠れする。
「そう? やせ我慢しなくてもいいのよ。せっかく、換えの電池を持ってきてあげたのに。ふふ、あなたのココ、悪臭を放ちながら、欲しがっているわよ」
天使の白衣を纏っているとは思えない表情を湛えて、由加里を言葉で辱める。
「ウウ・・ウ・ウ・ウ・ウ?!」
由加里は見た、口裂け女の口紅の色を。
少女は、年齢的に言っても、それを知らないが、母親の実家で見つけた絵に、見いだしていたのである。
生理の臭いが漂ってくる。それは酸味が際だった腐敗の臭い。女性のもっとも醜い姿。そして、女性ともっとも醜く形容する手段でもある。可南子を表現するのに、これほどまでに相応しい言葉はない。しかし、そのとき、少女にもそれが近づいていた。
「ァ!」
由加里は、小さく呻いた。そして、見せた表情から淫猥で狡猾な可南子は、あることを見逃さなかった。
「アレ? どうしたの? 由加里チャン?」
少女は羞恥とも悔恨とつかない色に、細面の顔を塗りつぶすと、深く息をした。そのとたんに、あることが、はじまってしまったのである。
「アラ? ついに腐り始めたのかしら? ものすごい臭いがするわよ。これはオペをして、引きずり出す必要があるわね」
「?」
その隠された目的語に、由加里は好奇心の触手を伸ばした。
「子宮よ! 子宮! きっと腐ってるのよ。あなたみたいな変態が子なんて生む資格なんてあるわけないわよ。生まれても汚らわしい奇形児くらいでしょう?」
魔女の言葉は、自分の精神が腐っていることを証明するだけだった。可南子は知らなかった。由加里が、どれほどに肉体的に痛め付けられていても、それに精神が凌駕させられても、この種の言葉に敏感に反応することを知らなかったのである。
たとえ、肉体が引き裂かれようとも、他人の名誉を大事に思うのである。この時、由加里の目に色が戻った。出会ったこともない可哀想な人間のために、大きな瞳は、ただ成らない怒りを帯びている。
「な、何よ!その目は!?」
居丈高に声を荒げていたが、動揺しているのは明らかだった。しかし。はじまってしまった身体の異変は、それを打ち消してしまうのに十分だった。由加里をそこまで追いつめてしまう異変とは・・・・・。
「アヒイ!」
素人のヴァイオリンのような音が、由加里の可愛らしい唇からほとばしり出た。それは、あたかも悪魔に精神を乗っ取られてしまったかのように、外見からは見えた。
しかし、性器からは、もっと別の液体がほとばしり出たのである。
「アハハハハ、はじまってしまったのね。アハハハ」
自分の醜さも臭さにも、興味を示さない可南子は、人のおぞましさには異常なほどに、敏感だった。
少女の陰肉から、それを同じ色の液体が零れてきた。見方によれば、それは、液体でなくて赤いゼリー状の妖怪が、手を伸ばして、少女の性器というねぐらから、這いだしてきたかのように見えた。
有希江と茉莉の違いは、ただ、ひとつのことを自覚しているか、否かにすぎない。言い換えるならば、自分が、あおいを憎んでいる。その事実に、形だけでも疑うことができるか、否かのちがいだ。
それだけのことに尽きる。
茉莉を自室に戻らせると、有希江はあおいを睨みつけた。少女がひるむと、柔らかく目を瞑った。まさに人間と犬どうしのやり取り。
それに痺れを切らしたのか、少女は立ちあがろうとした。しかし ―――――。
「・・・・・・・・」
有希江はただ、黙って掌を少女に向けた。
「・・・・・?!」
少女は無言のうちに、その意味を理解した。
「来なさい」
本当に久しぶりに、姉の声を聞いたような気がする。まるで10年ぶりに、再会したようだ。
しかしながら、その顔は少女が知っている姉のそれではなかった。
そこには真っ白な陶器があった。まるでヴェネツィアの仮面のように整った顔が、浮かんでいる。それは、あきらかに時間と空間から遊離して、ぼんやりと存在していた。
――――どうして、そんな顔をするの?
少女は意識外のところで、姉に語りかけていた。
―――――お願い、本来のあなたに戻って、仮面を脱いで!
しかし、その場所は本来の力を発揮できなかった。知識においても、精神的な体力という面に置いても、わずか10歳の心(からだ)は、彼女がその本当の能力を目覚めさせるには、あまりにも、小さすぎた。
何処か別の次元で、小さくなった姉を抱きしめていた。しかしながら、次ぎの瞬間、それは、泡沫のようにあえなく消えてしまった。それは、子猫のような産毛に包まれた優しさに満ちていたのに、一本の毛すら残してくれなかった。
意識が戻ると、少女は手と足を交互に動かしていた。
あおいは、犬のように四つんばいになって、廊下を移動していたのである。有希江が具体的に命じたわけではない。ごく自然に手足が動き出した。
自宅の廊下は、これほどまでに高かっただろうか。少女の周囲には、そそり立つような絶壁が彼女を取り囲むように。そそり立っている。彼女は、この家で生まれて、育った。
彼女が慣れ親しんだ回廊は、もはやそこになかった。まるで、大聖堂のような奥行と高さを併せ持つ。それらは、少女を押し潰さんばかりに、迫ってくるのだった。
それは三角遠近法でなくては描けない。ちょうど、マンハッタンの摩天楼を一枚のキャンバスに収めるような技術を要求された。ただ、自分の家の廊下を歩くだけなのに・・・・・。
それとちがうのは、青い空がないことと、二足歩行で移動することを許されていないことだけだ。
「ウウ・・・ウ・・ウ・ウウ」
あおいは、泣き声を星図の一角、一角に押し込める。小さいころ、有希江のいたずらに加勢したことがある。いや、性格に表現するならば、させられたと使役で表現すべきだろうか。
あおいと有希江の姉妹は、納屋から梯子を持ってくると、折り紙で作った星を、天井に貼り合わせて、昼間の天体観測と息込んだ。もっとも、その日のうちに、両親に見付かり、同じ梯子を使って、取り去ることを余儀なくされた。しかしながら、その作業はたった一名で行われた。
有希江は、頑として、自分たけでやったと主張し、あおいを庇ったのだ。そのささやかな行為の代償はすぐに与えられた。
「ごめんね、ゆきえ姉さん・・・・・」
有希江は、泣きながら彼女に付きまとう小さなストーカーを得たのである。
「わかったよ!もう!」
うっとおしげに、呻く有希江だったが、その実、嬉しそうに目を潤ませていた。
ちなみに、両親は、それを察知していが、有希江のプライドを尊重して、黙っていた。
教育的配慮を発揮したのだ。
いま、あおいが見つめているのは、そんな牧歌的な記憶ではない。ただ、無数の氷柱が刺さった冷酷な天井である。しかも、少女の身体を貫くであろう氷柱は、今にも落ちてきそうに笑っている。
少女は、強いられてこのような状況に追い込まれたのだろうか。
しかし、少女はあえて自発的に従っているようにすら見える。さながら、生まれていちども立ち上がったことがないように、右、左、右、左とよつんばいを生きている。その道程は、ある意味において、しっかりしており、勝利を約束された軍団そのものだった。
それをたった10歳の少女が行っている。
だれか、涙なしにこの様子を見ていられるだろうか。迷宮の壁という壁は泣いたし、窓から入ってくるヘスティアの使者は、少女に主人の慈悲の意思を伝えたくらいだ。
しかし、あおいは、そんなことを全く意に介せずに、奴隷としての生、いや、人間ですらないのだから、愛玩動物と表現した方が適当にちがいない。あおいは、謹んでその身分を甘受していた。
「ほら、お入り、あおいちゃん」
有希江の声は、残酷だった。それは、綿菓子のように柔らかだったにも係わらず、中世の拷問師のような鉄芯が隠されていた。
それは少女に、ある意味の引導を渡した。
何故ならば、少女に自我の存在を呼び起こさせたからだ。もと言えば、自分が榊あおいという、小学校6年生の少女である ――――ということを思い出させてしまったのだ。
「ウウ・・・ウ・・ウ・・ウ」
少女は、慟哭した。自分が置かれている状況に耐えられなくなったのである。人は、臭いに慣れるという。考えてみるがいい、子供のころ友だちの家に行って、「どうして、こんなに味噌臭いのだろう?」と首を捻ったことないか。
その友人や家族たちはその臭いの中で平然と暮らしているのだ。その逆を言うなら、彼は、あなたの部屋を別の表現で異臭を感じると主張する。このようなことは、よくあることだろう。
臭いと同じで、感情も鈍くなってしまうのかもしれない。
あおいが慣れしたしんだ亜空間は、少女の感情を司る嗅覚をマヒさせていたにちがいない。
今、自分を取り戻した少女は、はるか遠くで雪崩が起こる音とともに、それを思いだした。
巨大な雪崩を遠くから見ると、音はたいしたことがなくても、迫力だけが伝わってくる。
少女は蘇ってきた羞恥心のせいで、全身を悶えさせた。それは、外見から見ても、セックスをしているように振動しているのがわかる。
「どうしたの? あおいちゃん」
有希江は、それを見るとほくそ笑んだ。射すような目つきと口ぶりで、部屋に入るように促す。あおいは、それを肌で感じると、再び、行進を開始した。
姉の顎が、近づいてくる。少女はその迫力で押し潰されそうになった。まるで、自分を構成する分子が三分の一に圧縮されたような気がした。少女はたしかに痛みを音で聞き取ったのである。姉を見つめ返す瞳は、あきらかに萎縮していた。
「可愛い子・・・・・・・」
「・・・・・・・・・?!」
「何を怯えているの?」
「ヒ!?」
有希江の指が、サクランボのような、あおいの顎を捕まえたとき、少女は確かに痛みを感じた。中枢神経が単なる触角を痛覚と間違えることは、よくあることだ。尋常ではない恐怖を感じているときは、なおさらである。
「この部屋は暖かいでしょう?」
しかし、この部屋は少女には熱すぎた。裸なのに、玉のような汗が噴き出す。
「あら、あら、どうしちゃったのかしら? まあ、いいわ。 あおいちゃんのために用意したのよ」
そう言って、有希江は持ってきた鞄から、弁当箱を取り出した。
「即席だから、たいしたものは作れなかったけど、栄養は満タンよ」
自信ありげないつもの姉の口調。
「・・・・・・・・・・」
少女が目の当たりにしたのはカツ煮だった。姉の得意料理である。よく、両親が所用にて、出かけているときに、食べさせられたものだ。
確かに美味しいのだが、それは積み重ねられたマンネリズムの結果でもあった。どんなに料理の才能がなくても、繰り返せば、食べるに値する品がテーブルに乗るにちがいない。
きっと冷凍庫に残っていたのだ。おそらく、それを電子レンジでチンしたのだろう。
少女の脳裏に、中生代の記憶が蘇る。しかし、恐竜がうなりを上げているわけではない。四人姉妹という別の意味での、獣たちの呻き声である。
「有希江、またカツ煮なの?」
「徳子姉さん、何言っているのよ、長女のくせに、自分で作らないで文句たらたらって、どういうこと?」
「そうだよ! 徳子姉さんたらせっかく有希江姉さんが作ってくれたのに」
「何よ!? 手伝いもしなかったあんたに、そんなこと言う権利あると思ってるの?!」
あおいは憮然として、文句を舌に乗せてみた。
「あおいには、学校の宿題をこなすって言う神聖な仕事があるのよ!」
「私だってそうよ! それなのに、私だけに押しつけて!きっと、私は実の子じゃないだわ」
「安心しなさい。パパとママ以外から、あなたみたいな子が生まれるとは思えないから」
「何よ! 姉さんだってそうじゃない!!」
ちなみに、徳子を「姉さん」単称で呼ぶのは有希江だけに与えられた特権である。
「ふふ、実は、姉さんは聖母マリアさまが連れてきた天使なのよ」
「おかしいわね、天使のくせに悪魔みたいな角を生やしているのはどういうわけ? あ、しっぽまで生やしている?実に凶悪な天使もいたもんだわ」
あおいが頭を振ると、徳子は持っていたビニールボールをあおい目掛けて投げつけた。
「ちょっと! さっきまでさんざん宿題見させたくせに! 何よその態度!?」
「姉さんたち、ぐるだったのね。きっと、それでママを説得したんでしょう? あおいの宿題を見るから、ごはん作れないって!!」
「何のことか、わかりませんね ―――え?ちょっと?!茉莉!!」
ほんらい冷静なはずの徳子は、たった五秒の間にめまぐるしく表情を変えた。しかし、それは長女だけではなかった。次女も三女もそれにならった。
なんと、四女の茉莉が、できたばかりのカツ煮をよりわけで、小さな口でかぶりついていたのだ。
三人とも、いつ、この末っ子がキッチンに姿を見せたのか、いっさい記憶にない。
「ちょっと、茉莉ったら、まだ切っていないのに!」
有希江の困惑する声とともに、幸せだった記憶は、あおいの脳裏からその姿を顰めてしまった。
「さ、あおい、口を開けて」
もはや、有希江のしようとしていることは、明かである。
有希江は自らスプーンを手にすると、カツ煮に差し込んだ。非音楽的な音が響く。
ぐじゅ・・・・。
それは、どう聞いても、幸せな家庭に相応しい調べではない。あえて表現するならば、ガマガエルを踏み潰すような、どんな前衛的なロックバンドでも、使用するのを躊躇うような音である。
「・・・・・・・?!」
かつては、あのように美味しそうに見えた料理が、今や、ブタの餌に成りはてている。あおいには、そのようにしか見えない。しかし、有希江の脅迫の言葉が、彼女を単なる動物以下の存在に、貶めた。
「有希江姉さんの作った料理が食べられないの?」
「ウウ・・・」
あおいは、ためらいながらも小さな口を開けた。
「ちょっとい!? 何よ、その態度は!?」
「ウグ・・・!?」
有希江の長い足が、敏捷に動いた。しかし、あおいはその美しい軌道を確認する暇もなく、自らの神経の叫びを聞いた。高圧電流を股間に押し当てられたような苦痛が、走る。
「私は、可哀想なあなたに食べさせてあげようと用意してあげたのよ」
有希江は憐憫を声に偲ばせた。聞きようによっては、それは真実に聞こえる。あおいは屈辱とも受愛ともとれない感情に、身を焦がしている
そして、妹を見下ろす。たった今、むごい暴力を加えたようには、とても見えない。
「ぁ。ありがとう・・・ございます!」
「何よ、その口!?食べたくないのォ!?」
「ウウ・・う」
まるで、音楽教師の歌唱指導のように、大きな口を開ける。屈辱的な姿勢と、有希江の配置は、鳥の餌やりを彷彿とさせる。猫の額のような巣から、雛が母鳥に向けて、口を開けている。まさに、そのような光景だ。
「そんなに食べたいの? あおいちゃん?だったら。もっと大きなお口を開けなさいよ、裂けるくらいにね」
いとも残酷な言葉が、有希江の口からはみ出てくる。あおいは、それに答えるように、さらに口輪筋を緊張させた。顎と頬を二つに裂かされるような痛みが走る。
しかし、あおいはすがるような思いで、口を開く。一体、何にすがろうと言うのだろう。決まっている 有希江の、愛情だ。泡沫のような姉の情愛に、すがるような思いで、期待しているのだ。おびただしい涙と涎で、目と口を汚しながら・・・・・・・・・・。
中世の文筆家が、いみじくもこう書き残している。
行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。
鴨長明
それだけのことに尽きる。
茉莉を自室に戻らせると、有希江はあおいを睨みつけた。少女がひるむと、柔らかく目を瞑った。まさに人間と犬どうしのやり取り。
それに痺れを切らしたのか、少女は立ちあがろうとした。しかし ―――――。
「・・・・・・・・」
有希江はただ、黙って掌を少女に向けた。
「・・・・・?!」
少女は無言のうちに、その意味を理解した。
「来なさい」
本当に久しぶりに、姉の声を聞いたような気がする。まるで10年ぶりに、再会したようだ。
しかしながら、その顔は少女が知っている姉のそれではなかった。
そこには真っ白な陶器があった。まるでヴェネツィアの仮面のように整った顔が、浮かんでいる。それは、あきらかに時間と空間から遊離して、ぼんやりと存在していた。
――――どうして、そんな顔をするの?
少女は意識外のところで、姉に語りかけていた。
―――――お願い、本来のあなたに戻って、仮面を脱いで!
しかし、その場所は本来の力を発揮できなかった。知識においても、精神的な体力という面に置いても、わずか10歳の心(からだ)は、彼女がその本当の能力を目覚めさせるには、あまりにも、小さすぎた。
何処か別の次元で、小さくなった姉を抱きしめていた。しかしながら、次ぎの瞬間、それは、泡沫のようにあえなく消えてしまった。それは、子猫のような産毛に包まれた優しさに満ちていたのに、一本の毛すら残してくれなかった。
意識が戻ると、少女は手と足を交互に動かしていた。
あおいは、犬のように四つんばいになって、廊下を移動していたのである。有希江が具体的に命じたわけではない。ごく自然に手足が動き出した。
自宅の廊下は、これほどまでに高かっただろうか。少女の周囲には、そそり立つような絶壁が彼女を取り囲むように。そそり立っている。彼女は、この家で生まれて、育った。
彼女が慣れ親しんだ回廊は、もはやそこになかった。まるで、大聖堂のような奥行と高さを併せ持つ。それらは、少女を押し潰さんばかりに、迫ってくるのだった。
それは三角遠近法でなくては描けない。ちょうど、マンハッタンの摩天楼を一枚のキャンバスに収めるような技術を要求された。ただ、自分の家の廊下を歩くだけなのに・・・・・。
それとちがうのは、青い空がないことと、二足歩行で移動することを許されていないことだけだ。
「ウウ・・・ウ・・ウ・ウウ」
あおいは、泣き声を星図の一角、一角に押し込める。小さいころ、有希江のいたずらに加勢したことがある。いや、性格に表現するならば、させられたと使役で表現すべきだろうか。
あおいと有希江の姉妹は、納屋から梯子を持ってくると、折り紙で作った星を、天井に貼り合わせて、昼間の天体観測と息込んだ。もっとも、その日のうちに、両親に見付かり、同じ梯子を使って、取り去ることを余儀なくされた。しかしながら、その作業はたった一名で行われた。
有希江は、頑として、自分たけでやったと主張し、あおいを庇ったのだ。そのささやかな行為の代償はすぐに与えられた。
「ごめんね、ゆきえ姉さん・・・・・」
有希江は、泣きながら彼女に付きまとう小さなストーカーを得たのである。
「わかったよ!もう!」
うっとおしげに、呻く有希江だったが、その実、嬉しそうに目を潤ませていた。
ちなみに、両親は、それを察知していが、有希江のプライドを尊重して、黙っていた。
教育的配慮を発揮したのだ。
いま、あおいが見つめているのは、そんな牧歌的な記憶ではない。ただ、無数の氷柱が刺さった冷酷な天井である。しかも、少女の身体を貫くであろう氷柱は、今にも落ちてきそうに笑っている。
少女は、強いられてこのような状況に追い込まれたのだろうか。
しかし、少女はあえて自発的に従っているようにすら見える。さながら、生まれていちども立ち上がったことがないように、右、左、右、左とよつんばいを生きている。その道程は、ある意味において、しっかりしており、勝利を約束された軍団そのものだった。
それをたった10歳の少女が行っている。
だれか、涙なしにこの様子を見ていられるだろうか。迷宮の壁という壁は泣いたし、窓から入ってくるヘスティアの使者は、少女に主人の慈悲の意思を伝えたくらいだ。
しかし、あおいは、そんなことを全く意に介せずに、奴隷としての生、いや、人間ですらないのだから、愛玩動物と表現した方が適当にちがいない。あおいは、謹んでその身分を甘受していた。
「ほら、お入り、あおいちゃん」
有希江の声は、残酷だった。それは、綿菓子のように柔らかだったにも係わらず、中世の拷問師のような鉄芯が隠されていた。
それは少女に、ある意味の引導を渡した。
何故ならば、少女に自我の存在を呼び起こさせたからだ。もと言えば、自分が榊あおいという、小学校6年生の少女である ――――ということを思い出させてしまったのだ。
「ウウ・・・ウ・・ウ・・ウ」
少女は、慟哭した。自分が置かれている状況に耐えられなくなったのである。人は、臭いに慣れるという。考えてみるがいい、子供のころ友だちの家に行って、「どうして、こんなに味噌臭いのだろう?」と首を捻ったことないか。
その友人や家族たちはその臭いの中で平然と暮らしているのだ。その逆を言うなら、彼は、あなたの部屋を別の表現で異臭を感じると主張する。このようなことは、よくあることだろう。
臭いと同じで、感情も鈍くなってしまうのかもしれない。
あおいが慣れしたしんだ亜空間は、少女の感情を司る嗅覚をマヒさせていたにちがいない。
今、自分を取り戻した少女は、はるか遠くで雪崩が起こる音とともに、それを思いだした。
巨大な雪崩を遠くから見ると、音はたいしたことがなくても、迫力だけが伝わってくる。
少女は蘇ってきた羞恥心のせいで、全身を悶えさせた。それは、外見から見ても、セックスをしているように振動しているのがわかる。
「どうしたの? あおいちゃん」
有希江は、それを見るとほくそ笑んだ。射すような目つきと口ぶりで、部屋に入るように促す。あおいは、それを肌で感じると、再び、行進を開始した。
姉の顎が、近づいてくる。少女はその迫力で押し潰されそうになった。まるで、自分を構成する分子が三分の一に圧縮されたような気がした。少女はたしかに痛みを音で聞き取ったのである。姉を見つめ返す瞳は、あきらかに萎縮していた。
「可愛い子・・・・・・・」
「・・・・・・・・・?!」
「何を怯えているの?」
「ヒ!?」
有希江の指が、サクランボのような、あおいの顎を捕まえたとき、少女は確かに痛みを感じた。中枢神経が単なる触角を痛覚と間違えることは、よくあることだ。尋常ではない恐怖を感じているときは、なおさらである。
「この部屋は暖かいでしょう?」
しかし、この部屋は少女には熱すぎた。裸なのに、玉のような汗が噴き出す。
「あら、あら、どうしちゃったのかしら? まあ、いいわ。 あおいちゃんのために用意したのよ」
そう言って、有希江は持ってきた鞄から、弁当箱を取り出した。
「即席だから、たいしたものは作れなかったけど、栄養は満タンよ」
自信ありげないつもの姉の口調。
「・・・・・・・・・・」
少女が目の当たりにしたのはカツ煮だった。姉の得意料理である。よく、両親が所用にて、出かけているときに、食べさせられたものだ。
確かに美味しいのだが、それは積み重ねられたマンネリズムの結果でもあった。どんなに料理の才能がなくても、繰り返せば、食べるに値する品がテーブルに乗るにちがいない。
きっと冷凍庫に残っていたのだ。おそらく、それを電子レンジでチンしたのだろう。
少女の脳裏に、中生代の記憶が蘇る。しかし、恐竜がうなりを上げているわけではない。四人姉妹という別の意味での、獣たちの呻き声である。
「有希江、またカツ煮なの?」
「徳子姉さん、何言っているのよ、長女のくせに、自分で作らないで文句たらたらって、どういうこと?」
「そうだよ! 徳子姉さんたらせっかく有希江姉さんが作ってくれたのに」
「何よ!? 手伝いもしなかったあんたに、そんなこと言う権利あると思ってるの?!」
あおいは憮然として、文句を舌に乗せてみた。
「あおいには、学校の宿題をこなすって言う神聖な仕事があるのよ!」
「私だってそうよ! それなのに、私だけに押しつけて!きっと、私は実の子じゃないだわ」
「安心しなさい。パパとママ以外から、あなたみたいな子が生まれるとは思えないから」
「何よ! 姉さんだってそうじゃない!!」
ちなみに、徳子を「姉さん」単称で呼ぶのは有希江だけに与えられた特権である。
「ふふ、実は、姉さんは聖母マリアさまが連れてきた天使なのよ」
「おかしいわね、天使のくせに悪魔みたいな角を生やしているのはどういうわけ? あ、しっぽまで生やしている?実に凶悪な天使もいたもんだわ」
あおいが頭を振ると、徳子は持っていたビニールボールをあおい目掛けて投げつけた。
「ちょっと! さっきまでさんざん宿題見させたくせに! 何よその態度!?」
「姉さんたち、ぐるだったのね。きっと、それでママを説得したんでしょう? あおいの宿題を見るから、ごはん作れないって!!」
「何のことか、わかりませんね ―――え?ちょっと?!茉莉!!」
ほんらい冷静なはずの徳子は、たった五秒の間にめまぐるしく表情を変えた。しかし、それは長女だけではなかった。次女も三女もそれにならった。
なんと、四女の茉莉が、できたばかりのカツ煮をよりわけで、小さな口でかぶりついていたのだ。
三人とも、いつ、この末っ子がキッチンに姿を見せたのか、いっさい記憶にない。
「ちょっと、茉莉ったら、まだ切っていないのに!」
有希江の困惑する声とともに、幸せだった記憶は、あおいの脳裏からその姿を顰めてしまった。
「さ、あおい、口を開けて」
もはや、有希江のしようとしていることは、明かである。
有希江は自らスプーンを手にすると、カツ煮に差し込んだ。非音楽的な音が響く。
ぐじゅ・・・・。
それは、どう聞いても、幸せな家庭に相応しい調べではない。あえて表現するならば、ガマガエルを踏み潰すような、どんな前衛的なロックバンドでも、使用するのを躊躇うような音である。
「・・・・・・・?!」
かつては、あのように美味しそうに見えた料理が、今や、ブタの餌に成りはてている。あおいには、そのようにしか見えない。しかし、有希江の脅迫の言葉が、彼女を単なる動物以下の存在に、貶めた。
「有希江姉さんの作った料理が食べられないの?」
「ウウ・・・」
あおいは、ためらいながらも小さな口を開けた。
「ちょっとい!? 何よ、その態度は!?」
「ウグ・・・!?」
有希江の長い足が、敏捷に動いた。しかし、あおいはその美しい軌道を確認する暇もなく、自らの神経の叫びを聞いた。高圧電流を股間に押し当てられたような苦痛が、走る。
「私は、可哀想なあなたに食べさせてあげようと用意してあげたのよ」
有希江は憐憫を声に偲ばせた。聞きようによっては、それは真実に聞こえる。あおいは屈辱とも受愛ともとれない感情に、身を焦がしている
そして、妹を見下ろす。たった今、むごい暴力を加えたようには、とても見えない。
「ぁ。ありがとう・・・ございます!」
「何よ、その口!?食べたくないのォ!?」
「ウウ・・う」
まるで、音楽教師の歌唱指導のように、大きな口を開ける。屈辱的な姿勢と、有希江の配置は、鳥の餌やりを彷彿とさせる。猫の額のような巣から、雛が母鳥に向けて、口を開けている。まさに、そのような光景だ。
「そんなに食べたいの? あおいちゃん?だったら。もっと大きなお口を開けなさいよ、裂けるくらいにね」
いとも残酷な言葉が、有希江の口からはみ出てくる。あおいは、それに答えるように、さらに口輪筋を緊張させた。顎と頬を二つに裂かされるような痛みが走る。
しかし、あおいはすがるような思いで、口を開く。一体、何にすがろうと言うのだろう。決まっている 有希江の、愛情だ。泡沫のような姉の情愛に、すがるような思いで、期待しているのだ。おびただしい涙と涎で、目と口を汚しながら・・・・・・・・・・。
中世の文筆家が、いみじくもこう書き残している。
行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。
鴨長明
女は、鼻歌を歌っている。口笛を響かせたいと思ったが、ごく控えめに、ハミングを響かせるに留めていた。
自分に聞かせるためならば、周囲にとどろかせる必要もない。それは、ストレスのたまることだが、あいにくとここは、野中の一軒家ではない。あるいは、ここは数万の観客を擁するコンサート会場でもない。すんでの所で、そこに立ち損ねた彼女は、余計な感傷を穿つためにここにいるわけでもない。 少なくとも、そう思いたくなかった。
しかし、今、ここにいる以上、そんなことは眼中になかった。いや耳中になかったとでも表現すべきだろうか。
西宮冴子は、歌い疲れたと称して、個室を抜けだしていた。別に煙草を吸う悪習もないので、灰皿を汚すこともなかった。即席の歌い手が、その喉を休ませるために設えてある。それは、心ある人間からすれば、皮肉以外のなにものにも見えないだろう。
冴子は、それをしなやかな物腰で、否定するように避けると、ネオンサインに向かって新曲を献呈しはじめた。
彼女のハミングは、あきらかに何かを追跡している。
―――若いわね。いや、お嬢ちゃんって呼ぶべきかしら?
冴子は、皮肉な笑顔を浮かべると、窓にその肢体を預けた。それは、光るソファに実を横たえることを意味する。それは、数万の偽星から造られている。ネオンサインなどという代物は、しょせん張りぼての星にすぎない。それは、冴子の背景には似つかわしくなかった。彼女はもっと、光芒たるものと共演すべきなのだ。
今、それを手に入れるべくソナーを動かしはじめたところである。まだ、手に入れるどころか、存在を見つけた時点にすぎない。相手が人間なれば、慌てることはない。いや、慌ててはならないのだ。そうすれば、彼女の手から、魚はするすると手から逃げていくだろう。それは万金の価値があるのだ。
冴子がまだ片思いの食指を伸ばしていた先は、照美が歌っていた個室である。彼女が歌い終わると、個室のナンバーを確認し終わると自室に戻ろうとした。その時、タイミングよく、ドアが開いた。いっしゅん、扉が単なる物体ではなく、生きている組織めいて見えた。吐息すら感じられるようだ。
まるで思い人と出くわした小学生のように、顔を赤らめるところだった。それが彼女らしくないのは、例え、小学生のときでさえ、そのような酒に酔うことはなかったからである。
そんな冴子を救ったのは、鈴木ゆららだった。彼女とは旧知の仲である。実は、合唱団の先輩と後輩であり、卒業生である冴子は、恩師に頼まれて音楽教師のマネゴトをすることがあった。
「ゆららちゃんじゃない」
「あ、西宮さん・・・・」
個室から吐き出されたはるかと照美は、同時に驚きの口を作った。そう声すら出なかったのだ。
―――西宮由加里!
―――ママ!
その人が目の前に立っていた。しかし、ゆららは動じていない。その上、二人は知り合いらしいじゃないか。いや ―――――。
目の前の女性が、それぞれ、同定した人物でないことはすぐにわかった。映像を補正する必要があった。
「照美さん、合唱団の先輩なんです。ロックバンドやってるんですよ」
「ああ、そうなの?」
照美は、自分の思考と反応のよさに自信を持っているはずだった。しかし、この時はオーバーラップした母親の像のせいで、いまいち、反応できないでいた。
「私は、西宮冴子、ゆららの先輩にあたる人間よ ―――」
それに対して、照美とはるかは、しどろもどろながら、自己紹介を完遂する。
冴子は、二人の数倍以上、冷静だった。
―――西宮?
―――そう言えば、この人が照美の家族だって気づいているってことじゃない?
はるかは、真実を聞き出す前から、決めつけていた。
「はい、聞いています、合唱団ですか?」
照美は、完全に混乱していた。それは、冴子に対するヴィジュアル的な面に関することである。目の前の人物はどう見ても、完全に大人に見える。社会人にしか見えない。もちろん、それは老けて見えるというのではなくて、冴子の持つ落ち着いたイメージから受け取っているのだ。だが、どう見ても若い。ただ、内面から立ち上ってくる印象が、外見とかけ離れているので、戸惑っているのだ。
――――年令よりも、若く見えるのかな? 由加里の伯母さん?するとママの妹かな?
照美は、無邪気にもそんなふうに考えていた。
冴子はしばらく、この美しい少女を見つめていた。しかし、再び口を開いた。
「見たところ、中学生みたいだけど、珍しい曲を知っているのね、郭・・・・・」
冴子の発言を途絶させたのは、大阪弁だった。例の少年の声が、蛍光灯に照らされた冷たい廊下を彩る。
「リーダー! 時間でっせ。延長しますか?」
「ああ、いい、いまいく。」
騎士然として、出現したバンドのメンバーに答えを返した。
「海崎さんだったわね ―――――」
冴子は、品定めをするような視線を向ける。照美は、それに慣れていなかったのか、不快の色をすばやく顔に乗せた。彼女は、そんな少女に好感を得た。高い自尊心と若さのせめぎ合いからは、かつての自分を彷彿とさせるものがあった。それに、声の質から、彼女を取り込んだ歌唱が、照美のそれだと見抜いていたのである。
「今後よろしく、じゃ、ゆららちゃん ――」
「はい!」
このうえもなく美しい声を、これまたこのうえなく元気な返事で、ゆららは応じた。
冴子が去った後に、残されたのは、それぞれにちがう思いたちだった。それを一つに統合したのは、消えていく冴子たちの足音ではなく、はるかの声だった。少女らしくない野太い声は、あきらかに彼女が焦っていることを、自ら証明していた。
「照美、まずい! 時間だ!」
浅黒い腕を鋭角的に曲げて、時計に見入っていた。ゆららに向けられた膝蓋骨が、騎士の甲冑のように精悍だった。
ゆららは、幸せだった。少なくとも、彼女のなかで、砂漠化した原野に潤いの水が届きかけていた。 しかし、少女の人生とは裏腹に、不幸の深海に縛られている人間もいる。彼女は、完全に光から追放されて、その華奢な手足を、頑丈な鎖で身動きできないようにされていた。
「ウウ・ウ・・ウ・ウ!」
そのころ、由加里は真空になった病室に向けて、くぐもった呻き声を上げていた。不自由な肢体を、くの字に曲げてどうにか身体から、心を自由にさせようとしている。はたして、その野心は成功するだろうか。心に翼をつけて、大空に羽ばたかせるという夢である。少女らしいその夢は、彼女のクラスメートたちはいとも簡単に果たしているはずである。
「ふふ、母親の前で、よくもこんなに欲情していたものね」
「ウウ・ウ・・・ウ・ウ・そ、そんな!」
由加里は、可南子に向けて悲しみの涙を放り投げた。しかし、彼女はまったく意に介さない。むしろ、今自分が行っている行為に、自ら、正当性を与えただけである。
「ふふ・・・・・」
可南子はほくそ笑んだ。今、彼女は非番なのである。本来ならば、簡易ベッドにてその疲れた身体を休めているはずだった。しかし、今やその代わりに精神を活性化させることにした。モルヒネで、神経をマヒさせる代わりに、覚醒剤で亢進させることにしたのである。
「お、お願いです! は、外してくださいぃ! ウグググ!!」
「何言っているのよ、ここまで、あなたを満足させてくれたモノでしょう? 義理ってものがあるんじゃない?」
意地悪な口調で、ヤクザのようなことを言う。由加里にとって、可南子はまるで異次元の生き物だった。まるで言葉が通じない。共通理解というものがまったくない。きっと、由加里の身体で通用する物理法則は、可南子の内においては、その限りでないらしい。
「外してほしいなら、それに感謝しなさい」
可南子は、由加里の股間を見下ろした。少女は、あられもない姿を晒している。大股で開いた大腿は、その秘所を顕わにしている。思春期の少女としては、ありえない恰好を月はどんな目で見ているのだろう。少なくとも、看護婦は無感情に見下ろしている。
彼女の視線の先には、少女のハマグリが口を閉じている。あたかも呼吸をしているように、透明な液体を吐き出している。
しかし、ここで留意すべき点がある。
ハマグリは、糸のようなものを銜えているのである。それは、あたかも生きているかのように、じーじーというモーターの音とともに、ひくひくと震えている。どうやら、少女はその糸を抜いてほしいと言っているようだ。
「さあ、はやく!」
可南子は、魔女めいた声を由加里にぶつける。少女は全身の毛穴が縮み上がった。高圧電流が毛穴という毛穴に感電する。それは彼女の口腔内にも影響を与えた。
「ウグウグググ・・・・うう!」
「由加里ちゃんは、本当に赤ちゃんになっちゃったみたいね、日本語忘れたの!?」
「ムギイィ!!痛ぃ!やまて、ヤメテェエエエ!!」
今度は魔女の杖が少女に突き刺さった。可南子は、由加里の大腿の中で、もっとも柔らかいところを抓り挙げたのである。鋼鉄の蜂に刺されたかのような痛みが、全身を貫く。
「うぐぐぐグググ!!」
激痛のあまり腰を捻る。それは、ブリッジのように見えた。テムズ川ならぬ病室のロンドン橋は、簡単に落ちてしまった。
由加里は、望まぬことであったが、自ら性器を刺激してしまったのだ。
「あら、あら。もう、イっちゃったの? ママの許しも得ずにね。そういう子はお仕置きをしないとね」
「ウウ・ウ・・ウ・ウウ・ウ・ウ・・ウ・・・ウ・・・うう!?」
可南子は一体、何を言っているのだろう。由加里は、慟哭した。しかし、彼女は少女に暇を与えない。感傷に耽っている余裕を与えなかったのだ。
「う!ぐうう!?!」
素早い手つきで、少女の股間に指を持って行くと、しかる後に、そこから何やら異物を取り出した。その間に、性的な敏感な部分に触れてしまったらしい。少女は涎を垂れ流しながら、呻いた。可南子が、少女のハマグリを見てみると、ひらひらの部分がぬらぬらとなっている。まるで、今、捌いたように、透明な液体を垂れ流している。それはあたかもエイリアンのように見えた。
「ふふ、見てゴランなさいよ、これ」
「・・・・・・・・」
由加里は、目を背けた・
「見なさいって、言っているのよ!!ママは」
「ひぐ! 痛い! 」
可南子の手が巨大な岩になって、少女にぶつかった。視界をスーパーノヴァが奪う。
「痛いじゃない? いいこと、ぶつほうが痛いのよ!」
勝手なことを言って、可南子は自分の掌を見つめている。この種の人間は、平気で他人を傷付けるくせに、自分の躰が傷つくことは我慢が出来ない。そう、針の穴ほどの怪我でさえ、地球の終わりが来たような悲鳴を上げるのだ。
由加里は、眩しさに痛む目を大きく見ひらいた。そこには、悪魔がそそり立っていた。悪魔のくせに、白い服に身を包んだ可南子は、ぶるぶると震えるものを指にはさんでいた。それは、あたかも生き物のように見えた。それは、動いている上に、濡れていたからである。あたかも子宮から飛び出た新生児のように、ぬらぬらと蠢いている。由加里は、それを見るとおもわず、失神してみたくなった。
そのころ、三人は西沢あゆみと合流すべく時速80キロで、地上を移動していた。より正確を期するならば、そのスピードで移動する物体に寄生していた。そう表現すべきだろう。
もしも、子供から「どうして、電車の中でジャンプしたら、取り残されないの?」と聞かれたら、未だに、論理的で明晰な解答を用意できない。それは「どうして、お空は青いの?」と聞かれて即答できないのと同じである。確か、光の波長が関係していたと思うが、確かなことは覚えていない。
三人が仰いでいたのは、青空ではなくて、桎梏の夜とそれにつり下げられた星々の群れだった。
地方都市から都心に向かう電車は、そんな星空の瞬きを弱くする。それらに代わって偽りの星々、すなわちネオンサインが台頭しはじめる。鈴木ゆららの脳裏に、その変容はどのように映ったのだろうか。新しいよりいい未来を予感させただろうか。それに値する新鮮な空気が灰を満たすことがあったろうか。
それは、ゆらら本人も理解していない。彼女は、黒を白とみなす性癖があったからだ。これまで高田や金江の類を聖人君子だと思っていたことからも、相当の重症だということが推察できるだろう。
「なにを考えているのさ」
「・・・・・・・・?!」
ゆららは思わず、息をのんだ。とつぜん、彼女の施行に割り込んできたのは、褐色の肌だった。それは、アスリートらしく健康に輝く。しかし、青木ことりのそれとは、完全に、性格を異にする。ちょうどセリエAのサッカーとJリーグのそれのように、根本的にレベルの差があった。ことりが反射するのは、不快なテカリかもしれないが、はるかのそれは、目を清潔にしてくれる。仮に、試合に負けたとしても相手を誉めたくなる、そこまで行かなくても、口汚く非難する気にはならない。それほど清冽な反射だった。
たとえ、その相手が高田や金江のような連中であっても・・・・・・・・・。
ゆららは、未来の友人にどうにか、返事をすべく口を開いた。
――――ふっ、白昼夢?
有希江は、苦笑を禁じ得なかった。白昼夢と言っても、常に夜のとばりは降りており、アポロンは、美女と同衾のすえ、疲れを癒やすために就寝中にちがいないのである。
少女は、妹に、演技じみた視線を向けると、口を開いた。
「さ、お腹空いたでしょう? 有希江姉さんとごはん食べようか」
「・・・・・・・・」
あおいは、水に浸かったお握りのような顔を姉に向けた。有希江は、彼女を見下ろしている。その目は、優しさに満ちている。
「ウウ・・ウ・ウ・・ウ・ウウ!!」
思わず、嗚咽が漏れる。今更ながらに、自分が空腹であることを思い知らされた。ほんとうならば、満腹刺激に満たされた視床下部を、温かい布団のなかで、熟成させているはずだった。母親の提供する食事によって、身も心も温められたあおいは、幸福な夢を見ているはずだった。
それなのに、血液から、リンパ液、果ては骨髄液まで凍らせて、絶対零度の宇宙を彷徨っている。
それは、何故か?
「ウウ・ウ・・ウ・ウウウウ!?」
あおいは、姉に抱き寄せられると、さらに嗚咽のトーンを上げた。全身を優しく拭かれると、気のせいかもしれないが、凍り付いた体液が、溶け始めるような気がする。そこまで行かなくても、停止した分子のひとつひとつが、動く意思を表明するように見える。そんな予感がする。
しかし、姉の口から零れた言葉、言葉は、頑是無い少女にとって、完全に理解の範疇を越えていた。
「ふふ、これから、あおいは、自分で何もやっちゃだめだよ」
「・・・・・・・?」
突然、降ってきた有希江の言葉は、それが錯覚にすぎないことを裏付けていた。
一見、優しそうに見える目つきは、愛情というよりは、愛玩動物に対して向けるそれにしかすぎなかった。完全に見下したその態度は、けっして、妹に対して向けるものではなかった。いや、人間に対して発する視線ではない。
あおいは、それに敏感に反応した。姉の視線の異様さに気づいていたのである。
ここに、少女のプライドの萌芽を見ることができるだろう。それは、同時に成長をも意味していた。
少女はしかし、そのことにはいっさい、気づいていなかった。
有希江は、そんなあおいに、語りかける。
「まだ、泣いているの?」
「・・・・・・・・・」
まるで、赤ちゃんにするような仕草は、少女のプライドや尊厳を踏みにじっていた。
しかし、あおいは、それに対して、明確な態度を取ることが出来なかった。そのノウハウを持っていなかったのだ。
できたのは、ただ口調のトーンを上げることだけだった。そのことによって、すこしでも不服の意思を見せようとしたのだ。しかし、それが、ガラスのように冷たい、有希江の頬を通過することができようか。
「う、自分で着れる ――――」
「何、言っているのよ、あおいは赤ちゃんなのよ!」
やはり、誘蛾灯に惑わされた愚者のように、虚しく落ちていく。鈍い輝きを放つガラスの肌は、あおいの思いをはねのけるだけだった。
「だめよ!あんたは、赤ちゃんなんだから!」
語気にまかせて、決めつけた。
しかるのちに、有希江は、寝間着を少女の華奢な身体に通しはじめる。その姿は、まさに幼女を世話する母親のそれだった。
「おわかり? これからは、有希江姉さんが全部やってあげる。頑是無いあおいちゃんのためにね」
頑是無いという単語の意味は、知らなかったが、姉の口調から、そのニュアンスは伝わってきた。本来ならば、その意味を聞いて、教養がないとやりこめられる。それが仲の良い姉妹の関係だった。外見的には、口を窄めていたあおいも、内心で満足していた。自分の立ち位置というものに納得していたのである。
そこには対等な人間関係の萌芽が、見て取れたからである。しかし、現在の姉との関係は、完全な、人間と愛玩動物との関係に等しい。それは恥辱と屈従に満ちていた。
だが、完全な孤独への恐怖は、宇宙飛行士が恐れる闇黒へのそれに似ていた。
「完全なる黒。あえて、無と表現したくなるような ―――――」
彼は、はじめて、宇宙遊泳を行うにあたって、それを見いだしたというのである。
あおいは、同じような恐怖を自宅の中に見いだしていた。目の前の人物に、絶対的な屈従を誓わない限り、その中に放り込まれてしまいそうだ。
自然と、あおいの取るべき途は決まっていた。
「ハイ・・・・・・・・」
蚊の鳴くような声で、あおいは肯いた。さらに頬をとかすような涙がこぼれる。それは、確かに少女の精神的な成長を暗示している。有希江も、そこまでは気づくことはない。今、彼女は、ある快感に意識のすべてを集中させていた。それは、人間の生殺与奪をすべて握ることが出来るということに尽きる。
それは人間の歴史が続く限り、普遍的な麻薬にちがいない。有形無形のすべての薬物の中で、この快感は絶品という噂である。
他人を思い通りにできるということ。
しかし、人を支配するのは、何も財力や武力だけに限定されない。
人間の魅力や才能は、時として、特定の人物を縛ることがある。それは別名、愛という。この時、有希江はあおいをその名において、支配したくなったのである。
しかし、それは意識的な動機から、発動した行為ではなかった。よもや、自分が、過去の怒りに突き動かされているとは思えなかった。
有希江の記憶には、あおいを憎むような、具体的な出来事はなかった。
それなのに、この憎しみはなんだろう。
少女の中で、一瞬だけだが、混乱が生じた。しかし、それはすぐに消え去った。あおいの、あどけない顔をみていたら、圧倒的な憎しみが、愛情を勝った。
しかし、この時、その記憶は大海のような過去に葬り去られて、その正体を明らかにしていなかった。
ただ、情感だけが、蛇のように蠢いて、目の前の人物を罰せよと命じていた。
酒好きの人は、詳しいことだと思うが、泣き上戸というのがあるが、あれは、具体的に何が哀しい対象があって、泣いているわけではないらしい。ただ、哀しくて泣いているのだ。一説によれば、酒によって柔らかくなった海馬が、哀しい記憶を小出しにしているとのこと。それは意識には昇らず、ただ哀しいという気分だけが、酔いどれを号泣させるらしい。
その説の真偽はともかく、有希江は、自分ではコントロールできない感情の奴隷になっていた。そのベクトルは、可愛いはずの妹に向かっている。
――――裏切られた!
そのように、まったく根拠のない記憶に基づいた感情が、少女の幼い肢体をナイロンザイルで、二重にも三重にも縛り付けている。その柔らかな肌には、あきらかな内出血が見られ、青黒い跡ができている。その様子は、痛々しく、涙を誘うのに、有希江は微笑さえ浮かべている。明かに、何者かに操られている。しかし、その本人はその自覚がない。
「成長期なのに、あれだけじゃオナカふくれないでしょう?有希江姉さんがたべさせてあげる、姉さんの部屋に戻ってなさい」
あおいは、立ち上がると、指定された部屋へと向かった。その姿は、さながら墓場から蘇ったゾンビのようである。その手足からは、まったく生気というものが感じられない。その手足には、子供らしさというものが一切ない。か細いだけに、やけに骨のかたちだけが、目立つ。
有希江は、妹を見送るとキッチンへと向かった。
しかし、その狭い背中を見送ったのは、彼女だけではなかったのである。
「こんなところで、何をしているのよ!!」
非常に攻撃的だが、無邪気な声が響いた。あおいは、びくっと全身の筋肉を震わせた。あたかも、 電流を流されたカエルのように、何度も身体を不随に動かす。
しかし、なんとか声のする方向へと振り向くことに成功した。はたして、そこには彼女の妹である茉莉が仁王立ちになっていた。
あおいは、ほぼ反射的に肉親の名前を口にした。それは、随意筋ではなく、不随意筋の発動だった。ごく自然に出てきたのである。それは茉莉の方でも同じだった。最初、姉を見つけたときには、別の表情を見せたのだが、次の瞬間、表情を一転させた。
意識して、般若の面を被ったのである。
―――あ、あおいお姉ちゃん・・・・いや、ちがう、これはこの家のドレイなんだわ!
これが少女に起こった感情の流れである。
「ま、茉莉・・・・・茉莉おじょうさま・・・・」
「何だって、何よ!その態度!?」
茉莉は、あおいの呼び方に敏感な反応を見せた。自分の名前のすぐ下に、敬称がつけられなかったことに激怒したのである。
「ヒギゥイィイ!?」
強烈な苦痛が、少女の小さな肢体を電流のように貫く。妹である茉莉の蹴りが、あおいの腰に炸裂したのだ。
「イヤ。許して!痛いッッ!!?」
懇願の意思を即座に示すが、容赦はしない。子どもながらの残酷さを発揮して、あおいをサッカーボールに仕立てる。ちょうど、彼女は壁と挟まれているために、バウンドして帰ってきたところを、再び、蹴りつける。
哀れな少女は、血を分けた妹によってその肉体を裂かれ、魂を焼かれる。肉体の痛みよりも魂に負った火傷のほうがより深刻だった。繰り返される暴虐の中で、少女は自分がやがて、球体に変形していくのを感じた。
無色のはずの空気が赤く色づいていく。いや、自分こそが染まっていくのだ。やがて単なる肉の塊と化して、魂も、そしてそれに付随する意思をも消え去っていく。すると、苦痛も哀しみも恥辱も、消えていくのだ。
幼い妹の口から零れた言葉は、あおいの想像を超えている。
「あんたなんて、死んじゃえばいいのよ!このブタ!」
「グググ・・・・!?」
突如とした止んだ暴行と残酷な台詞が、皮肉なことに、幸せな夢想に区切りをつけた。そして、即座に柔らかな頬に、再度の暴虐が加えられる。
そこは本来ならば、誰の足が置かれることがない場所のはずだ。本来ならば、自分の足さえ踏み入れることのできない場所。いわば、神聖不可侵な土地なのだ。
しかし、今、柔らかな牧場は、残虐な狼によって踏み荒らされている。しかも、その狼は、ついこの前まで、あおいが可愛くてたまらないと思っていた相手なのである。深窓の令嬢と言ってもいいほど、おとなしげな少女は、今やその牙に赤い血をこびりつかせていた。しかも、その血と肉は、自分のそれなのだ。
事もあろうに、あおいは、妹に顔を踏み潰されつつある。他人に神聖不可侵な場所を侵害されるという意味においては、レイプと似ているかもしれない。
茉莉に対しては、可愛いと思う反面、自分の思うとおりになる存在だった。少なくとも、そう見なしていた。あおいの見るところ、自分に対して服属していたはずなのである。
しかし、そうは言っても、妹を力によって従わせるとか、いじめるということはなかった。みんな、自分の人望によって、従っていた。すなわち、自分のことが好きだから、家臣のように、寄り添っていた。そのように思っていた、いや思いたかったのかもしれない。どうやら真実は、後者だったのだろうか。
頬を不自然な形で圧迫される。そのことによって、起こる肉体的、あるは心理的な衝撃によって、あおいは、噎せ返る。
「ちょっと、家を汚さないでよ!汚いな!!」
姉を罵るのに、べつの表現もあったろうが、あいにくと、9歳の語彙では、それが限界だった。だから、ペンの力よりは、剣のそれに頼るしかなかった。
「ゥギイィ!!!もう、あやあ、えてええええ!!やめてぇえええええェェェ!?」
いったん、足に力を入れると、姉は、激しく泣きわめきはじめた。その勢いは、激しく、茉莉としても思わず足首を捻ってしまうほどだった。もちろん、それは錯覚にすぎない。しかし、上下が逆転した今でも、姉から受ける圧迫感は否定することはできない。それは、子どものころ父親から虐待を受けた青年が、大人になった今も、恐怖をぬぐい去れない。そのことと似ている。
かつての父親は老人になって、目の前で寝たきりになっている。彼が、全く抵抗できないのは、理性ではわかっている。しかし、そんな父親に対して、身体に残る怯えを消し去ることができないのだ。
茉莉は、それに似た感覚に支配されていた。しかし、あまりに幼すぎる少女は、それを認識することができなかった。どうして、自分が急に姉を憎みだしたのか、わかっていない。何やら、意味不明の衝動に駆られて、暴虐に走っているだけだ。それを止めることができたのは、彼女じしんの理性ではなく、姉の一言だった。
「茉莉ちゃん、もう寝る時間でしょう?ブタの相手をしている暇はないでしょう?」
「有希江姉ちゃん・・・・・・」
茉莉は、そこのない優しさで、自分を見つめる姉を発見した。あおいは、頭蓋骨が破裂するような苦痛に呻きながらも、妹に嫉妬していた。そして、そんな自分を発見して、驚いていた。もしも、姉の声が聞こえるならば、自分を庇って、妹を叱ってくれるとばかり思っていたのである。
有希江は、苦笑を禁じ得なかった。白昼夢と言っても、常に夜のとばりは降りており、アポロンは、美女と同衾のすえ、疲れを癒やすために就寝中にちがいないのである。
少女は、妹に、演技じみた視線を向けると、口を開いた。
「さ、お腹空いたでしょう? 有希江姉さんとごはん食べようか」
「・・・・・・・・」
あおいは、水に浸かったお握りのような顔を姉に向けた。有希江は、彼女を見下ろしている。その目は、優しさに満ちている。
「ウウ・・ウ・ウ・・ウ・ウウ!!」
思わず、嗚咽が漏れる。今更ながらに、自分が空腹であることを思い知らされた。ほんとうならば、満腹刺激に満たされた視床下部を、温かい布団のなかで、熟成させているはずだった。母親の提供する食事によって、身も心も温められたあおいは、幸福な夢を見ているはずだった。
それなのに、血液から、リンパ液、果ては骨髄液まで凍らせて、絶対零度の宇宙を彷徨っている。
それは、何故か?
「ウウ・ウ・・ウ・ウウウウ!?」
あおいは、姉に抱き寄せられると、さらに嗚咽のトーンを上げた。全身を優しく拭かれると、気のせいかもしれないが、凍り付いた体液が、溶け始めるような気がする。そこまで行かなくても、停止した分子のひとつひとつが、動く意思を表明するように見える。そんな予感がする。
しかし、姉の口から零れた言葉、言葉は、頑是無い少女にとって、完全に理解の範疇を越えていた。
「ふふ、これから、あおいは、自分で何もやっちゃだめだよ」
「・・・・・・・?」
突然、降ってきた有希江の言葉は、それが錯覚にすぎないことを裏付けていた。
一見、優しそうに見える目つきは、愛情というよりは、愛玩動物に対して向けるそれにしかすぎなかった。完全に見下したその態度は、けっして、妹に対して向けるものではなかった。いや、人間に対して発する視線ではない。
あおいは、それに敏感に反応した。姉の視線の異様さに気づいていたのである。
ここに、少女のプライドの萌芽を見ることができるだろう。それは、同時に成長をも意味していた。
少女はしかし、そのことにはいっさい、気づいていなかった。
有希江は、そんなあおいに、語りかける。
「まだ、泣いているの?」
「・・・・・・・・・」
まるで、赤ちゃんにするような仕草は、少女のプライドや尊厳を踏みにじっていた。
しかし、あおいは、それに対して、明確な態度を取ることが出来なかった。そのノウハウを持っていなかったのだ。
できたのは、ただ口調のトーンを上げることだけだった。そのことによって、すこしでも不服の意思を見せようとしたのだ。しかし、それが、ガラスのように冷たい、有希江の頬を通過することができようか。
「う、自分で着れる ――――」
「何、言っているのよ、あおいは赤ちゃんなのよ!」
やはり、誘蛾灯に惑わされた愚者のように、虚しく落ちていく。鈍い輝きを放つガラスの肌は、あおいの思いをはねのけるだけだった。
「だめよ!あんたは、赤ちゃんなんだから!」
語気にまかせて、決めつけた。
しかるのちに、有希江は、寝間着を少女の華奢な身体に通しはじめる。その姿は、まさに幼女を世話する母親のそれだった。
「おわかり? これからは、有希江姉さんが全部やってあげる。頑是無いあおいちゃんのためにね」
頑是無いという単語の意味は、知らなかったが、姉の口調から、そのニュアンスは伝わってきた。本来ならば、その意味を聞いて、教養がないとやりこめられる。それが仲の良い姉妹の関係だった。外見的には、口を窄めていたあおいも、内心で満足していた。自分の立ち位置というものに納得していたのである。
そこには対等な人間関係の萌芽が、見て取れたからである。しかし、現在の姉との関係は、完全な、人間と愛玩動物との関係に等しい。それは恥辱と屈従に満ちていた。
だが、完全な孤独への恐怖は、宇宙飛行士が恐れる闇黒へのそれに似ていた。
「完全なる黒。あえて、無と表現したくなるような ―――――」
彼は、はじめて、宇宙遊泳を行うにあたって、それを見いだしたというのである。
あおいは、同じような恐怖を自宅の中に見いだしていた。目の前の人物に、絶対的な屈従を誓わない限り、その中に放り込まれてしまいそうだ。
自然と、あおいの取るべき途は決まっていた。
「ハイ・・・・・・・・」
蚊の鳴くような声で、あおいは肯いた。さらに頬をとかすような涙がこぼれる。それは、確かに少女の精神的な成長を暗示している。有希江も、そこまでは気づくことはない。今、彼女は、ある快感に意識のすべてを集中させていた。それは、人間の生殺与奪をすべて握ることが出来るということに尽きる。
それは人間の歴史が続く限り、普遍的な麻薬にちがいない。有形無形のすべての薬物の中で、この快感は絶品という噂である。
他人を思い通りにできるということ。
しかし、人を支配するのは、何も財力や武力だけに限定されない。
人間の魅力や才能は、時として、特定の人物を縛ることがある。それは別名、愛という。この時、有希江はあおいをその名において、支配したくなったのである。
しかし、それは意識的な動機から、発動した行為ではなかった。よもや、自分が、過去の怒りに突き動かされているとは思えなかった。
有希江の記憶には、あおいを憎むような、具体的な出来事はなかった。
それなのに、この憎しみはなんだろう。
少女の中で、一瞬だけだが、混乱が生じた。しかし、それはすぐに消え去った。あおいの、あどけない顔をみていたら、圧倒的な憎しみが、愛情を勝った。
しかし、この時、その記憶は大海のような過去に葬り去られて、その正体を明らかにしていなかった。
ただ、情感だけが、蛇のように蠢いて、目の前の人物を罰せよと命じていた。
酒好きの人は、詳しいことだと思うが、泣き上戸というのがあるが、あれは、具体的に何が哀しい対象があって、泣いているわけではないらしい。ただ、哀しくて泣いているのだ。一説によれば、酒によって柔らかくなった海馬が、哀しい記憶を小出しにしているとのこと。それは意識には昇らず、ただ哀しいという気分だけが、酔いどれを号泣させるらしい。
その説の真偽はともかく、有希江は、自分ではコントロールできない感情の奴隷になっていた。そのベクトルは、可愛いはずの妹に向かっている。
――――裏切られた!
そのように、まったく根拠のない記憶に基づいた感情が、少女の幼い肢体をナイロンザイルで、二重にも三重にも縛り付けている。その柔らかな肌には、あきらかな内出血が見られ、青黒い跡ができている。その様子は、痛々しく、涙を誘うのに、有希江は微笑さえ浮かべている。明かに、何者かに操られている。しかし、その本人はその自覚がない。
「成長期なのに、あれだけじゃオナカふくれないでしょう?有希江姉さんがたべさせてあげる、姉さんの部屋に戻ってなさい」
あおいは、立ち上がると、指定された部屋へと向かった。その姿は、さながら墓場から蘇ったゾンビのようである。その手足からは、まったく生気というものが感じられない。その手足には、子供らしさというものが一切ない。か細いだけに、やけに骨のかたちだけが、目立つ。
有希江は、妹を見送るとキッチンへと向かった。
しかし、その狭い背中を見送ったのは、彼女だけではなかったのである。
「こんなところで、何をしているのよ!!」
非常に攻撃的だが、無邪気な声が響いた。あおいは、びくっと全身の筋肉を震わせた。あたかも、 電流を流されたカエルのように、何度も身体を不随に動かす。
しかし、なんとか声のする方向へと振り向くことに成功した。はたして、そこには彼女の妹である茉莉が仁王立ちになっていた。
あおいは、ほぼ反射的に肉親の名前を口にした。それは、随意筋ではなく、不随意筋の発動だった。ごく自然に出てきたのである。それは茉莉の方でも同じだった。最初、姉を見つけたときには、別の表情を見せたのだが、次の瞬間、表情を一転させた。
意識して、般若の面を被ったのである。
―――あ、あおいお姉ちゃん・・・・いや、ちがう、これはこの家のドレイなんだわ!
これが少女に起こった感情の流れである。
「ま、茉莉・・・・・茉莉おじょうさま・・・・」
「何だって、何よ!その態度!?」
茉莉は、あおいの呼び方に敏感な反応を見せた。自分の名前のすぐ下に、敬称がつけられなかったことに激怒したのである。
「ヒギゥイィイ!?」
強烈な苦痛が、少女の小さな肢体を電流のように貫く。妹である茉莉の蹴りが、あおいの腰に炸裂したのだ。
「イヤ。許して!痛いッッ!!?」
懇願の意思を即座に示すが、容赦はしない。子どもながらの残酷さを発揮して、あおいをサッカーボールに仕立てる。ちょうど、彼女は壁と挟まれているために、バウンドして帰ってきたところを、再び、蹴りつける。
哀れな少女は、血を分けた妹によってその肉体を裂かれ、魂を焼かれる。肉体の痛みよりも魂に負った火傷のほうがより深刻だった。繰り返される暴虐の中で、少女は自分がやがて、球体に変形していくのを感じた。
無色のはずの空気が赤く色づいていく。いや、自分こそが染まっていくのだ。やがて単なる肉の塊と化して、魂も、そしてそれに付随する意思をも消え去っていく。すると、苦痛も哀しみも恥辱も、消えていくのだ。
幼い妹の口から零れた言葉は、あおいの想像を超えている。
「あんたなんて、死んじゃえばいいのよ!このブタ!」
「グググ・・・・!?」
突如とした止んだ暴行と残酷な台詞が、皮肉なことに、幸せな夢想に区切りをつけた。そして、即座に柔らかな頬に、再度の暴虐が加えられる。
そこは本来ならば、誰の足が置かれることがない場所のはずだ。本来ならば、自分の足さえ踏み入れることのできない場所。いわば、神聖不可侵な土地なのだ。
しかし、今、柔らかな牧場は、残虐な狼によって踏み荒らされている。しかも、その狼は、ついこの前まで、あおいが可愛くてたまらないと思っていた相手なのである。深窓の令嬢と言ってもいいほど、おとなしげな少女は、今やその牙に赤い血をこびりつかせていた。しかも、その血と肉は、自分のそれなのだ。
事もあろうに、あおいは、妹に顔を踏み潰されつつある。他人に神聖不可侵な場所を侵害されるという意味においては、レイプと似ているかもしれない。
茉莉に対しては、可愛いと思う反面、自分の思うとおりになる存在だった。少なくとも、そう見なしていた。あおいの見るところ、自分に対して服属していたはずなのである。
しかし、そうは言っても、妹を力によって従わせるとか、いじめるということはなかった。みんな、自分の人望によって、従っていた。すなわち、自分のことが好きだから、家臣のように、寄り添っていた。そのように思っていた、いや思いたかったのかもしれない。どうやら真実は、後者だったのだろうか。
頬を不自然な形で圧迫される。そのことによって、起こる肉体的、あるは心理的な衝撃によって、あおいは、噎せ返る。
「ちょっと、家を汚さないでよ!汚いな!!」
姉を罵るのに、べつの表現もあったろうが、あいにくと、9歳の語彙では、それが限界だった。だから、ペンの力よりは、剣のそれに頼るしかなかった。
「ゥギイィ!!!もう、あやあ、えてええええ!!やめてぇえええええェェェ!?」
いったん、足に力を入れると、姉は、激しく泣きわめきはじめた。その勢いは、激しく、茉莉としても思わず足首を捻ってしまうほどだった。もちろん、それは錯覚にすぎない。しかし、上下が逆転した今でも、姉から受ける圧迫感は否定することはできない。それは、子どものころ父親から虐待を受けた青年が、大人になった今も、恐怖をぬぐい去れない。そのことと似ている。
かつての父親は老人になって、目の前で寝たきりになっている。彼が、全く抵抗できないのは、理性ではわかっている。しかし、そんな父親に対して、身体に残る怯えを消し去ることができないのだ。
茉莉は、それに似た感覚に支配されていた。しかし、あまりに幼すぎる少女は、それを認識することができなかった。どうして、自分が急に姉を憎みだしたのか、わかっていない。何やら、意味不明の衝動に駆られて、暴虐に走っているだけだ。それを止めることができたのは、彼女じしんの理性ではなく、姉の一言だった。
「茉莉ちゃん、もう寝る時間でしょう?ブタの相手をしている暇はないでしょう?」
「有希江姉ちゃん・・・・・・」
茉莉は、そこのない優しさで、自分を見つめる姉を発見した。あおいは、頭蓋骨が破裂するような苦痛に呻きながらも、妹に嫉妬していた。そして、そんな自分を発見して、驚いていた。もしも、姉の声が聞こえるならば、自分を庇って、妹を叱ってくれるとばかり思っていたのである。
「ママ、もう面会時間終わりが近いよ ―――」
「何よ、母親を追い出すつもり?」
春子は、娘の言葉におもわず、鼻白んだ。自分の提案に対して、そのような返事が返ってくるとは、夢にも思わなかったのである。
―――由加里の個室は、18時を迎えようとしていた。それは、この病院の面会時間が終了する30分ほど前のことである。
「・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・」
二人は、一刻ほど睨み合った後にほぼ同時に口を開いた。しかし、正確を期すならば、いささか、母親のほうが早かった。
「由加里!」
「ママ・・・・」
由加里も、負けじと先に声を出そうとしたのだが、惜しくも遅れを取った。
しかし、反射神経といえば、娘のほうがはるかに、若いのだから、肉体的な面からも、母親に負けるはずはないのだが・・・・・・・。
それは意思の欠如が、原因だったのかもしれないが、確かなことは、わからない。
春子は、まさに大人の論理で、責め立ててくる。
「お騙りなさい。由加里、これを見てごらんなさい!」
「ぐ!?」
春子は一冊のノートを示した。それは、少女の脊椎に迫るほどの衝撃を与えた。その見えない衝撃は、彼女の股間をも直撃していた。その無毛の逆三角形には、秘密があったのである。
けっして、春子に知られてはならない。
その気持ちが、最愛の母親に思いもよらないことを、吐かせたのである。心ならずも言い放ってしまった。その内容に、発言者自らが心を痛めてしまう。
しかしながら、その気持ちを素直に表明できない。
それは、反抗期特有の、不自然なしょうぶんが邪魔しているのかもしれない。背中の痒い場所がわかっていながら、そこに手を出すことができない。
自分を救う方法を知っていながら、それを利用しようとしなかった。
いわば、溺れる人藁をも摑むではなく、目の前に、慄然と存在する大陸すら拒否したということである。
思春期特有の幼いプライドが原因だった。
由加里は、そういう理由から、いじめの実態を母親に語ることができなかった。そもそも、それをつぶさに語ることができたならば、ここまでひどい展開を見ることはなかったかもしれない。
「見てごらんなさい、青木さんっていう子よね ―――――」
春子は、さらにたたみかけようとする ―――――――。
「・・・・・・・・・・・!?」
それはバイブレーターのように、少女の花芯に、緩慢な刺激を与え続ける。その絶え間ない振動は、少女の心だけではなく、体にまで影響を及ぼす。
心の陰核は、すでにぐにゃぐにゃに、なっている。朽ち木のように、湿り気を帯びている。
川の流れは、岩にすらその足跡を残す。柔らかいものの代表である水が硬い岩を削るのだ。それは、永年の刺激によるものだろう。緩慢だが揺るぎのない攻撃は、常識では考えられない効果をもたらす。
春子の台詞は、由加里をさらに追い込む。
「こんなに、綺麗にノートを写してくれただけでなくて、謝罪の手紙まで、書いてくれたのよ」
「や、やめてよ!!」
由加里は、言葉を知らなかった。自分が置かれている境遇を説明することができない。もしかしたら、今、自分が何処に立っているのかすら、理解していなかったのかもしれない。
自分でわかっていないことを、どうしたら、他者に説明することができようか。そのもどかしい思いに、全身を引き裂きたいきもちに陥った。
春子は、気づくべきだったろうか。由加里のただならない様子から、何かを感じ取るべきだったろうか。いや、それは酷というものだろう。人間は常に疑心暗鬼の世界に生きている。たとえ、それがこの世でもっとも信頼している相手であっても、である。
もしも、それが敵ならば、どうやって、自分を攻撃してくるのか。それを探る前に、敵がどこにいるのかを探らねばならない。
そして、味方のばあいは、相手が何を自分に求めているのかを知らねばならない。
不足しているのは、弾薬だろうか。それとも、食糧や薬品などの救援物質なのだろうか。相手にそれを問おうとしても、口がふさがれているばあいがあるから、ことは面倒だ。
それが、今の由加里の状態なのだが、春子はそれさえも気づいてくれない。少女は、それが哀しくてたまらないのだ。
もしも、自分のことを思ってくれているならば、口で言わなくても通じるはずだ。いわゆる、以心伝心というわけだ。
それがわからないのならば、自分に対する愛情が薄い。それしか考えられない。
しかし、それは少女ゆえの浅はかさだったとも言える。
近しい間柄ならばこそ、気づかないことがある。
由加里は、高い知性を持っている。それは同年齢の少年少女からは、完全にかけ離れている。しかし、こと、このような範疇にあっては、ほぼ赤ん坊も同様だった。
人間の情愛の基礎とでもいうべきもの。
それは、誰でも成長の過程において、ごく自然に潜ってきた門のはずだ。しかし、由加里は潜ることができなかったのである。それは、彼女のせいではない。この件に関しては100%冤罪である。
それを由加里に理解しろというのは、植物に動けと命じているのに等しい。
少女はただ、立ち止まって泣き続けることしかできない。しかも、その泣き声と涙は、外に露出するのではなく、内部にひたすら体積していくのである。
それゆえに、外部から観察する者は、事態の深刻さに気づくことはない。その気配を察知することはできるかもしれないが、その本質を摑み取ることはできない。
春子は、それを摑み取ろうと、あえて心を鬼にすることにした。
「とにかく、早く退院できることをめざしなさい。そしたら、すぐに学校に行くの。期末テストを病院で受けられるそうだけど、それに甘えないことね。先生には、お断りの電話をしておきますから」
「そんな!? 勝手なことしないで・・・・ぐ!?ぁアア・・・ググ・・・・!」
「由加里? ばちがあたったのね、ママに逆らうから!」
春子は、にわかに苦しみだした、娘に残酷なことを言い放った。彼女は知らなかった。由加里の下 半身にどんな秘密があるのか。もしも、知ったら拉致してでも、退院させたにちがいない。
――――ひどい、なんていうことを言うの?!
由加里は、空気による言葉で抗議したが、当然のごとく通じなかった。ただ、母親を居丈高にしただけである。
「わかっているの? 青木さんだけじゃないわ。みんな、真摯に謝罪しているのよ」
――――ママに、何がわかるっていうの!!
よほど、空気を物質化したくなったが、彼女の中にわだかまる何かが、それを妨害した。そして、同時に小鳥の乱暴な顔が浮かんで、さらに、少女の心を萎えさせた。
別に、彼女が、肉食獣の顔をしているというわけではない。それどころか、小麦色に焼けた生気に満ちた顔は、春子やその他の大人たちに、好感以外のどんな印象も与えないだろう。
部活で焦がした肌は、誰しも好感を持つ。絵に描いたようなスポーツ少女なのだ。
しかし、その裏で、陰険な人格が蛆虫のようにうごめいているのだ。彼女は、それを大人たちや先輩、それに同級生が相手であっても、それが上位にあたる人物ならば、髪の毛の先ほどもあらわにしないだろう。たとえば、照美やはるかに対して、そのような顔を見せたことをいまだかって、観たことはない。それが、後輩や、由加里など同級生でも、あきらかに下位とわかると、態度が豹変する。
それが、小麦色の体育系娘の本質なのだ。教師や先輩たちには、よく気がつくし、練習態度や授業態度も、常にまじめな子だと見えている。しかし、一皮向けば酷薄な子悪党にすぎない。
少しでも、相手が下位だと見なせば、掌を返すように居丈高になる。
とにかく、そのような光景を由加里は、小学生のころから見てきた。当時の由加里は、優等生で、美少女、その上、クラスの人気者である。美少女という点においては、今日、照美という太陽がいるために、目立たないが、夜空ともなれば、月やシリウスは煌々と輝き始めるだろう。
すなわち、照美がいない小学校は、由加里の天下だった。彼女はまさに万能の児童として、わが世の春を謳歌していた。相手を見るのに聡い小鳥が、それを見誤るはずはない。従って、少女を敵視することはなく、迎合を決め込んでいた。
由加里は、しかし、そのことによって、少しばかり不快な気分を味わったことがある。
クラスで上位である由加里を利用して、下位や同級の者を貶めることがあった。そのとき、勇気がない由加里は、何もできずに立ち尽くしていた。由加里は、犠牲者に憐憫の気持を持ちながら、恐怖のあまり、見て見ぬフリをしていたのである。上位である由加里が、怯えるとは不思議かもしれない。おそらく、その恐怖は、小鳥に対する感情ではなく。当時、彼女が得ていた位置を失ってしまう。そのような恐怖だったにちがいない。
ただし、不快な気分とは言っても、被害者には、まったくちがう風景が見えるだろう。
―――気持ち悪い。不快だ。
彼らにとってみれば、傷がそのていどですんだはずはない。むしろ、小鳥ではなく由加里を恨んだ可能性すらある。いじめられっ子にしては、由加里が単なる傍観者というだけでなしに、小鳥を使嗾して、いじめに係わっているのではないか。
知らず知らずのうちに、被害者や周囲に、そのような疑いを与えていた可能性もあるのだ。
話を元に戻すが、今、春子が娘に示しているのは、小鳥が書き写したノートである。期末テストが近いということで、由加里にしても所望であることは否定できなかった。
小鳥の丁寧な文字は、人知れず、由加里を恫喝することに成功していた。字の書き手と同じように、春子をはじめとする大人たちを懐柔している。しかし、由加里をだますことは不可能だった。
いじめられっ子は、いじめっ子の一挙一動をつぶさに観察している。そして、それにいちいち反応するのだ。後者は、それがおかしくてたまらずに、前者の心を弄ぶ。
由加里は、痛いほどにそれを思い知らされているのだ、煉獄に似た教室において・・・・。
春子は、そんな由加里を理解することはできない。だから、つぎのようなことも平気で言える。
「由加里、せめて、面会ぐらいいいでしょう? 小鳥さんたち、家に来てくれたのよ
「え? まさか私の部屋に入れたわけじゃないでしょうね!?」
とうぜんのごとく、語尾には、抗議のスパイスが相当量、含まれていた。春子はそれをあからさまに無視して、言葉を続ける。
「心の狭いことね! 謝罪を受け入れられないなんて!」
春子は、娘がいじめられているという事実をどうしても、受け入れられずにいた。クラスの人気者で、教師の秘蔵っ子。それが、幼稚園、小学校と進むにあたって、由加里が受けていた評判だった。いちどとして春子の期待を裏切ったことはない。むしろ、そのことで気をもんだぐらいだ。
―――この子は出生の秘密を知っているのではないか。そのことで、自分に気を使っているのではないか。
常に、そのことが春香の脳髄を支配していた。久子経由で、それが伝わってしまうということは、十分にありえたことだ。しかし、一方で、バトルの末に気づき上げた絆は、完全に信用できた。だから、その点は心配なかった。
そのような経緯があって、由加里とはどこか、空気を介して、接しているような気分を払拭できずにいた。むしろ、心のどこかで、このような問題が起こることを期待していたきらいがある。そこを橋頭堡にして、彼女を理解できると考えたのである。
もちろん、それには罪悪感を否定できなかったが、一方、それは避けられぬこと、いずれ起こることだろうとも思っていた。
だが、それが彼女の想像を絶するような事態に、発展しているとは夢にも思っていなかったのである。
「無視される程度のこと、誰にもあるものよ」
「・・・・・・・・?!」
春子のその一言は、おとなしい由加里の肩を怒らせるのに十分だった。しかし、それを言葉に変換することはできない。できるのは、ただ、母親を睨みつけることだけだった。だが、それも長いこと続かなかった。
「はーい、お母さん、面会時間は終わりですよ」
唐突に、轟いた声が、母娘の論争を終わらせた。言うまでもなく、その声は、似鳥可南子である。生理中の子宮のようにねちっこい声は、不快な空気を伴ってくる。
由加里は、思わず整った顔を歪める。
しかし、先方は、そんな由加里を意に介そうとしない。
看護婦は、軽いノリで入ってくると、由加里に唇を使わずに接吻した。少女は、自分の頬に透明な口紅が付着したのを皮切りに、恐怖の時間が舞い戻ってきたのを感じた。
しかし、春子は、可南子に疑念を感じている様子もない。素っ気なく言葉を置いた。
「・・・・・いいね、考えておくのよ」
「・・・・・・・」
由加里は、そんな母親に背中を向けざるをえなかった。
―――どうせ、わかってくれないんだ!
一方、春子は、娘の狭い背中に、何故か、夫の面影を見て、ぞっとさせられた。
―――そうだ、当たり前だけど、あの二人は血がつながっているんだ。
今更ながらに、そんな事実を目の当たりにさせられて、額を幅広の木刀でかち割られたような気分になった。
頭が、ズワンズワンというのを聴きながら、娘に別れを告げることにした。
「何よ、母親を追い出すつもり?」
春子は、娘の言葉におもわず、鼻白んだ。自分の提案に対して、そのような返事が返ってくるとは、夢にも思わなかったのである。
―――由加里の個室は、18時を迎えようとしていた。それは、この病院の面会時間が終了する30分ほど前のことである。
「・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・」
二人は、一刻ほど睨み合った後にほぼ同時に口を開いた。しかし、正確を期すならば、いささか、母親のほうが早かった。
「由加里!」
「ママ・・・・」
由加里も、負けじと先に声を出そうとしたのだが、惜しくも遅れを取った。
しかし、反射神経といえば、娘のほうがはるかに、若いのだから、肉体的な面からも、母親に負けるはずはないのだが・・・・・・・。
それは意思の欠如が、原因だったのかもしれないが、確かなことは、わからない。
春子は、まさに大人の論理で、責め立ててくる。
「お騙りなさい。由加里、これを見てごらんなさい!」
「ぐ!?」
春子は一冊のノートを示した。それは、少女の脊椎に迫るほどの衝撃を与えた。その見えない衝撃は、彼女の股間をも直撃していた。その無毛の逆三角形には、秘密があったのである。
けっして、春子に知られてはならない。
その気持ちが、最愛の母親に思いもよらないことを、吐かせたのである。心ならずも言い放ってしまった。その内容に、発言者自らが心を痛めてしまう。
しかしながら、その気持ちを素直に表明できない。
それは、反抗期特有の、不自然なしょうぶんが邪魔しているのかもしれない。背中の痒い場所がわかっていながら、そこに手を出すことができない。
自分を救う方法を知っていながら、それを利用しようとしなかった。
いわば、溺れる人藁をも摑むではなく、目の前に、慄然と存在する大陸すら拒否したということである。
思春期特有の幼いプライドが原因だった。
由加里は、そういう理由から、いじめの実態を母親に語ることができなかった。そもそも、それをつぶさに語ることができたならば、ここまでひどい展開を見ることはなかったかもしれない。
「見てごらんなさい、青木さんっていう子よね ―――――」
春子は、さらにたたみかけようとする ―――――――。
「・・・・・・・・・・・!?」
それはバイブレーターのように、少女の花芯に、緩慢な刺激を与え続ける。その絶え間ない振動は、少女の心だけではなく、体にまで影響を及ぼす。
心の陰核は、すでにぐにゃぐにゃに、なっている。朽ち木のように、湿り気を帯びている。
川の流れは、岩にすらその足跡を残す。柔らかいものの代表である水が硬い岩を削るのだ。それは、永年の刺激によるものだろう。緩慢だが揺るぎのない攻撃は、常識では考えられない効果をもたらす。
春子の台詞は、由加里をさらに追い込む。
「こんなに、綺麗にノートを写してくれただけでなくて、謝罪の手紙まで、書いてくれたのよ」
「や、やめてよ!!」
由加里は、言葉を知らなかった。自分が置かれている境遇を説明することができない。もしかしたら、今、自分が何処に立っているのかすら、理解していなかったのかもしれない。
自分でわかっていないことを、どうしたら、他者に説明することができようか。そのもどかしい思いに、全身を引き裂きたいきもちに陥った。
春子は、気づくべきだったろうか。由加里のただならない様子から、何かを感じ取るべきだったろうか。いや、それは酷というものだろう。人間は常に疑心暗鬼の世界に生きている。たとえ、それがこの世でもっとも信頼している相手であっても、である。
もしも、それが敵ならば、どうやって、自分を攻撃してくるのか。それを探る前に、敵がどこにいるのかを探らねばならない。
そして、味方のばあいは、相手が何を自分に求めているのかを知らねばならない。
不足しているのは、弾薬だろうか。それとも、食糧や薬品などの救援物質なのだろうか。相手にそれを問おうとしても、口がふさがれているばあいがあるから、ことは面倒だ。
それが、今の由加里の状態なのだが、春子はそれさえも気づいてくれない。少女は、それが哀しくてたまらないのだ。
もしも、自分のことを思ってくれているならば、口で言わなくても通じるはずだ。いわゆる、以心伝心というわけだ。
それがわからないのならば、自分に対する愛情が薄い。それしか考えられない。
しかし、それは少女ゆえの浅はかさだったとも言える。
近しい間柄ならばこそ、気づかないことがある。
由加里は、高い知性を持っている。それは同年齢の少年少女からは、完全にかけ離れている。しかし、こと、このような範疇にあっては、ほぼ赤ん坊も同様だった。
人間の情愛の基礎とでもいうべきもの。
それは、誰でも成長の過程において、ごく自然に潜ってきた門のはずだ。しかし、由加里は潜ることができなかったのである。それは、彼女のせいではない。この件に関しては100%冤罪である。
それを由加里に理解しろというのは、植物に動けと命じているのに等しい。
少女はただ、立ち止まって泣き続けることしかできない。しかも、その泣き声と涙は、外に露出するのではなく、内部にひたすら体積していくのである。
それゆえに、外部から観察する者は、事態の深刻さに気づくことはない。その気配を察知することはできるかもしれないが、その本質を摑み取ることはできない。
春子は、それを摑み取ろうと、あえて心を鬼にすることにした。
「とにかく、早く退院できることをめざしなさい。そしたら、すぐに学校に行くの。期末テストを病院で受けられるそうだけど、それに甘えないことね。先生には、お断りの電話をしておきますから」
「そんな!? 勝手なことしないで・・・・ぐ!?ぁアア・・・ググ・・・・!」
「由加里? ばちがあたったのね、ママに逆らうから!」
春子は、にわかに苦しみだした、娘に残酷なことを言い放った。彼女は知らなかった。由加里の下 半身にどんな秘密があるのか。もしも、知ったら拉致してでも、退院させたにちがいない。
――――ひどい、なんていうことを言うの?!
由加里は、空気による言葉で抗議したが、当然のごとく通じなかった。ただ、母親を居丈高にしただけである。
「わかっているの? 青木さんだけじゃないわ。みんな、真摯に謝罪しているのよ」
――――ママに、何がわかるっていうの!!
よほど、空気を物質化したくなったが、彼女の中にわだかまる何かが、それを妨害した。そして、同時に小鳥の乱暴な顔が浮かんで、さらに、少女の心を萎えさせた。
別に、彼女が、肉食獣の顔をしているというわけではない。それどころか、小麦色に焼けた生気に満ちた顔は、春子やその他の大人たちに、好感以外のどんな印象も与えないだろう。
部活で焦がした肌は、誰しも好感を持つ。絵に描いたようなスポーツ少女なのだ。
しかし、その裏で、陰険な人格が蛆虫のようにうごめいているのだ。彼女は、それを大人たちや先輩、それに同級生が相手であっても、それが上位にあたる人物ならば、髪の毛の先ほどもあらわにしないだろう。たとえば、照美やはるかに対して、そのような顔を見せたことをいまだかって、観たことはない。それが、後輩や、由加里など同級生でも、あきらかに下位とわかると、態度が豹変する。
それが、小麦色の体育系娘の本質なのだ。教師や先輩たちには、よく気がつくし、練習態度や授業態度も、常にまじめな子だと見えている。しかし、一皮向けば酷薄な子悪党にすぎない。
少しでも、相手が下位だと見なせば、掌を返すように居丈高になる。
とにかく、そのような光景を由加里は、小学生のころから見てきた。当時の由加里は、優等生で、美少女、その上、クラスの人気者である。美少女という点においては、今日、照美という太陽がいるために、目立たないが、夜空ともなれば、月やシリウスは煌々と輝き始めるだろう。
すなわち、照美がいない小学校は、由加里の天下だった。彼女はまさに万能の児童として、わが世の春を謳歌していた。相手を見るのに聡い小鳥が、それを見誤るはずはない。従って、少女を敵視することはなく、迎合を決め込んでいた。
由加里は、しかし、そのことによって、少しばかり不快な気分を味わったことがある。
クラスで上位である由加里を利用して、下位や同級の者を貶めることがあった。そのとき、勇気がない由加里は、何もできずに立ち尽くしていた。由加里は、犠牲者に憐憫の気持を持ちながら、恐怖のあまり、見て見ぬフリをしていたのである。上位である由加里が、怯えるとは不思議かもしれない。おそらく、その恐怖は、小鳥に対する感情ではなく。当時、彼女が得ていた位置を失ってしまう。そのような恐怖だったにちがいない。
ただし、不快な気分とは言っても、被害者には、まったくちがう風景が見えるだろう。
―――気持ち悪い。不快だ。
彼らにとってみれば、傷がそのていどですんだはずはない。むしろ、小鳥ではなく由加里を恨んだ可能性すらある。いじめられっ子にしては、由加里が単なる傍観者というだけでなしに、小鳥を使嗾して、いじめに係わっているのではないか。
知らず知らずのうちに、被害者や周囲に、そのような疑いを与えていた可能性もあるのだ。
話を元に戻すが、今、春子が娘に示しているのは、小鳥が書き写したノートである。期末テストが近いということで、由加里にしても所望であることは否定できなかった。
小鳥の丁寧な文字は、人知れず、由加里を恫喝することに成功していた。字の書き手と同じように、春子をはじめとする大人たちを懐柔している。しかし、由加里をだますことは不可能だった。
いじめられっ子は、いじめっ子の一挙一動をつぶさに観察している。そして、それにいちいち反応するのだ。後者は、それがおかしくてたまらずに、前者の心を弄ぶ。
由加里は、痛いほどにそれを思い知らされているのだ、煉獄に似た教室において・・・・。
春子は、そんな由加里を理解することはできない。だから、つぎのようなことも平気で言える。
「由加里、せめて、面会ぐらいいいでしょう? 小鳥さんたち、家に来てくれたのよ
「え? まさか私の部屋に入れたわけじゃないでしょうね!?」
とうぜんのごとく、語尾には、抗議のスパイスが相当量、含まれていた。春子はそれをあからさまに無視して、言葉を続ける。
「心の狭いことね! 謝罪を受け入れられないなんて!」
春子は、娘がいじめられているという事実をどうしても、受け入れられずにいた。クラスの人気者で、教師の秘蔵っ子。それが、幼稚園、小学校と進むにあたって、由加里が受けていた評判だった。いちどとして春子の期待を裏切ったことはない。むしろ、そのことで気をもんだぐらいだ。
―――この子は出生の秘密を知っているのではないか。そのことで、自分に気を使っているのではないか。
常に、そのことが春香の脳髄を支配していた。久子経由で、それが伝わってしまうということは、十分にありえたことだ。しかし、一方で、バトルの末に気づき上げた絆は、完全に信用できた。だから、その点は心配なかった。
そのような経緯があって、由加里とはどこか、空気を介して、接しているような気分を払拭できずにいた。むしろ、心のどこかで、このような問題が起こることを期待していたきらいがある。そこを橋頭堡にして、彼女を理解できると考えたのである。
もちろん、それには罪悪感を否定できなかったが、一方、それは避けられぬこと、いずれ起こることだろうとも思っていた。
だが、それが彼女の想像を絶するような事態に、発展しているとは夢にも思っていなかったのである。
「無視される程度のこと、誰にもあるものよ」
「・・・・・・・・?!」
春子のその一言は、おとなしい由加里の肩を怒らせるのに十分だった。しかし、それを言葉に変換することはできない。できるのは、ただ、母親を睨みつけることだけだった。だが、それも長いこと続かなかった。
「はーい、お母さん、面会時間は終わりですよ」
唐突に、轟いた声が、母娘の論争を終わらせた。言うまでもなく、その声は、似鳥可南子である。生理中の子宮のようにねちっこい声は、不快な空気を伴ってくる。
由加里は、思わず整った顔を歪める。
しかし、先方は、そんな由加里を意に介そうとしない。
看護婦は、軽いノリで入ってくると、由加里に唇を使わずに接吻した。少女は、自分の頬に透明な口紅が付着したのを皮切りに、恐怖の時間が舞い戻ってきたのを感じた。
しかし、春子は、可南子に疑念を感じている様子もない。素っ気なく言葉を置いた。
「・・・・・いいね、考えておくのよ」
「・・・・・・・」
由加里は、そんな母親に背中を向けざるをえなかった。
―――どうせ、わかってくれないんだ!
一方、春子は、娘の狭い背中に、何故か、夫の面影を見て、ぞっとさせられた。
―――そうだ、当たり前だけど、あの二人は血がつながっているんだ。
今更ながらに、そんな事実を目の当たりにさせられて、額を幅広の木刀でかち割られたような気分になった。
頭が、ズワンズワンというのを聴きながら、娘に別れを告げることにした。
少女の耳には、イヤフォンが詰め込まれている。そこから聞こえてくる音楽は、深海を泳ぐ紳士淑女のようなものである。彼らは、しかし、いくら金銀のような美しい色で飾られようとも、その真価を理解するものは、ひとりしかいない。
イヤフォンは聴く人のみに、音楽を観る視力を与える。
深海においても視力を有する者。
それは、海神、ネプチューンである。
ただし、音楽を嗜む海の神というのは、絵にならないか。何故ならば、水中を音が伝わることはないからだ。もっとも、神話に科学を持ち込むのは、無粋かもしれない。
非常灯が、妖しく緑に光る。
夜のとばりが降りた病院は、深海に似ている。『出口』と表示された文字は、闇の中に、何か投げかけている。その冷たい光は、蜃気楼のように、うつろで、実体がないように見える。
あるいは、アンコウの罠に似ているかもしれない。彼女らは、本体である身体から、妖しく光るハンカチを振って、小魚たちを誘う。そして、まんまとかかったところを丸飲みにするのである。
すると、病院における罠とは何だろう。
一体、どんな獲物を待ちかまえているというのだろう、夜の病院は。
病室では、彼女は、ひとり、孤独をかこっている。その様子は、何処か、キリコの描く少女に似ている。少女は、あいにくと、手足が不自由になっている。そのために、車輪を転がすことはできなかった。
ただ、イヤフォンを通じて、音楽を聴いていた。
地平線まで 予の手足が 伸びていた
もう少し
そう もう少し 手を伸ばせば 摑めそう
そう もう少し 足を伸ばせば 踏みつぶせそう
その時に 若いそなたが 剣(つるぎ)を置こうというのか
未だ 夢は成らぬと言うのに
果実は いまこそ 赤く色づこうというのに
その時に 若いそなたが 剣(つるぎ)を置こうというのか
そなたは影 予の赴くところ 控えてもらわなれば・・・・・・
陽のある限り・・・・・・・・・・
地平が絶える処まで・・・・・
未だ 果実は落ちず
彼女の姉が所属し、リーダーを務めているバンド、Assemble nightのナンバーである。ここで、読者は驚かれるかもしれない。たとえ、未遂とはいえ、自分を陵辱しようとした男のヴォーカルを聴こうというのか ――――と。
しかし、慌てなくてもいい。彼女が聴いているのは、冴子のピアノ演奏によるインスツルメンタルだ。 だから、とうぜんのことながら、歌声に怯えることなく、曲を愉しむことができる。
少女は、既に詩を暗唱してしまっている。だから、メロディとともに、歌詞を記憶のなかで聴くことが出来る。
そこまでして、どうして、その曲を聴こうというのだろうか。
あの事件以来、少女は、Assemble nightの曲を聴けないでいた。それはとても、辛いことだった。
音楽を聴いているうちに、自然に、それと一体化してしまっていたのである。一言で言えば、ファンになっていた。
しかし、姉妹ということもあるかもしれないが、そのことを、冴子には、直言できずにいた。
今、それを聴くことは、由加里にとって、一種の癒しを意味しているのかもしれない。
少女の傷ついた躰に、冴子のピアノが浸みていく。それは、いわば、MP3が冴子であり、少女自身が楽器のようだった。まさに、彼女の胎内で、ピアノが共鳴しているのである。
こうしていると、事故による怪我も、可南子によってもたされた虐待も、すべてが癒やされていくような気がする。そして、学校で行われたいじめも、みんなウソだったかのようにすら、思える。
――――あれは、みんなウソなのではないか。このまま、学校に行けば、笑顔で迎えてくれるのではないだろうか。今までのことは、ぜんぶ、悪夢なのではないかしら。きっと、事故のせいで、頭がおかしくなったのだわ。
それは、楽観的というよりは、落下的な視線だった。墜落していく飛行機のなかで、ただひとり、笑っている。何故ならば、頭がいかれているからだ、そのために、今、自分が落下していることにすら気づかない。あるいは、それが自分にもたらす災厄そのものを理解することができない。
しかし、あえて、そのように、思わせるほどに、冴子の曲は、力と祈りに満ちている。少しでも力を抜けば、あの声が聞こえてくる。そう、少女を陵辱しようとした高崎淳一の、尖った鼻が見えてくるのだ。 まるで、それは、研ぎ澄まされたナイフだった。今にも、彼女を切り刻もうとしていた。
しかも、冴子は最初、それを認めてくれなかった。由加里がレイプの被害者であることを意識的なのか、無意識なのか、あえて見逃そうとしていたのだ。
――――!?
聞き慣れたメロディは、しかし、淳一のヴォーカルとともにある。その曲を聴くことは、同時に、彼の声と暴力を思い出させてしまうのだ。由加里は思わず、イヤホンを外してしまった。
由加里は、下腹部を押さえて、にわかに苦しみはじめた。
―――アゥアウ・・・・うう!
由加里は、思わず、呻いた。可南子にさんざん弄ばれた性器が、疼いたとてもいうのだろうか。股間を布団の上から押さえる。
――――ァア・・・・・・いや、あの人の声なんて、聴きたくない!?
それは、さきほどまで聴いていた音楽とは、まったく、性格が違う。まるで蚊の鳴く音のように、小さいが、やけに耳に付く。由加里は、思わず両耳を押さえたが、その音は止まない。それもそのはず、 少女の内奥に組み込まれた振動は、耳を覆ったとはいえ、消せるはずはなかった。
「あ・・・・」
その時、扉が開く音は、少女に何を与えるのか。絶望か、それとも・・・・・・・。
「ママ」
少女は、絶望ともあきらめともつかぬ顔を浮かべた。それは絶対的な安心と、つながっているという安心感が、もたらすものだったかもしれない。命の危険とまで、言わないが、何かに忙しいときは、痒みを感じないものだ。
しかし、ひとたび、自宅に足を踏み入れたとき、とたんに、治りかけの傷が、疼きはじめるのである。 彼女にとっての自宅とは、母親を意味する。彼女がいるところ、少女にとってみれば、それと同意になるのだ。良い意味においても、悪い意味においても、母親は、一番、親しい存在だった。
――――あれ、面会時間ってまだあったっけ?
そんなことを思いながら、由加里は、期待と不安を胸に同居させていた。
そこから、数キロと離れていないカラオケ店では、照美が同じ曲を冷唱していた。当然、ここでは熱唱という言葉を使いたいが、彼女ほどに、この言葉が似合わない歌い手はいない。
しかし、まちがっても、歌が下手だとか、熱心ではないと受け取られては困る。彼女の音程は完璧だったし、表現力も素人とはとうてい思えなかった。
では、熱唱と表現できない何が、彼女の歌唱にあるのだろう。それは、徹底的に抑制された感情とエネルギーにある。両者はたしかにあるのだが、押さえこまれているのである。
だから、けっして、ゼロというわけではない。この世にないものを封じ込めることはできない。しかし、そこに余波が生まれる。その余波こそが、彼女の歌唱の魅力である。
よく日本画においては、余白の重要性が謳われる。もしかしたら、それに近いかもしれない。
ただし、その魅力に気づいているのは、この時点においては、ほんの小数である。なんと言っても 本人が、それを認めていないのである。歌手になろうなどと、間違っても考えていない。いや、音楽関係に進もうなどと夢にもおもわないだろう。
それでも、その道に通じているのは、幼少時から、母親に半ば強制された教育と、自らの器用な性分から来ていると思っている。
――――それは、こいつも似ているか、いや、これに関してだけはそうじゃない。同じにされて、たまるか。
照美は、歌いながら、はるかを見た、そして、その向こうで、感心した顔で、歌に聴き入っているゆららを見いだした。しかし、その顔が、すぐに崩壊するのが見えた。これは予言ではない。予定である、既成事実である。未来に起こることでありながら、過去形で語ることができるほどの事実なのだ。照美だけがその事実を知っていた。
―――――でも、どうして、破顔っていう言葉が、今、使えないのかな?
照美は歌いながら、その歌詞とは、まったく関係がないことを考えていた。そう、彼女が歌っているのは、王様が、優秀な臣下が若くして、亡くなったのを惜しむ歌である。とてもシリアスな、たとえば、色で表現するならば、黒曜石が発するシックな雰囲気の内容である。とても、笑いを殺しながら歌う歌ではない。ただ、次ぎの歌詞は、そのような空気のなかで、異彩を放っていた。
ああ、そなたは、深謀遠慮に優れ ――――
ああ、何人の仇を、葬ったかわからない ―――――
ただし、欺かれた者たちは、誰も自分が被害者だとは思っていなかった ――――
この歌詞が甘いメロディとともに、クライマックスを迎えるのである。
―――このバンドの曲は、珍しいよな、歌詞と曲調が、完全にマッチしてないことがある。ま、これがおもしろいんだが ―――。
これははるかの述懐である。これから、大いなる公害を為すなどとは、夢にも思っていない。呑気な者ではある。
―――さて、照美の次ぎは、自分が励ましてやろう ―――などと、まるで極上のワインにうっとりするように、歌に聴き入っているゆららを垣間見ているのだ。
その時、病室では、殺気だった空気が充満していた。ちょうど、敗戦寸前の軍首脳部のように、二人は、にらみあっている。この場合、あくまで二人だけの作戦会議だったが・・・・。
人間の歴史というのも長いが、ほぼ、100%敗戦が濃厚という時に、作戦本部では、どのような空気が支配していたのだろうか。勝者の数だけ、敗者がいるわけだから、ほぼ、戦争が行われた数だけ、惨めったらしい会議があったはずである。もっとも、引き分けということも考えねばならないが、少なくとも、この場面では関係ない。西宮家はほぼ100%敗者なのである。間違っても、引き分けにはらない。
春子は、娘がいじめられていることは、ある程度、見抜いていた。しかし、それが彼女の人格の基礎、そのものを危うくするほど、陰険で深刻な内容だとは思っていなかったのである。ひどくて、物を隠されるくらい、軽く無視されるくらいだと思っていた。それには理由がある。
今まで、娘が恵まれていることは、わかっていた。だから、少しくらいの風にも悲鳴をあげると思っていたのである。
―――――この子は、やはり、温室育ちだから・・・・・。
春子は、常にそう感じていた。それは、姉の久子の場合と異なる。彼女とは、人にはとうてい話せないようなバトルを乗り越えて、絆を育んできた。この点が、由加里と久子が違う点である。両者の境遇は、似ているでいて、似ていないのだ。外見的にみれば、由加里は、久子に比べて恵まれているかもしれない。しかし、それは、根本的に誤った見方である。
―――――ここで、甘やかすわけにはいかないわ。このていどの風でしおれるくらいなら、とうてい、世の中で生きていけない。
「退院したら、学校行くのよ!」
気が付くと、春子は、娘に残酷な言葉を言い放っていた。
いま、この時間、少女の恥部に、何が起こっているか知らずに ――――。もっとも、このことは、彼女がいじめられていることを、無関係に見える。しかし、由加里が、底なし沼に嵌った子馬のように、抜き差しならない状況に陥っている。ただ、そのことにおいて、たいした差異はないのである。
そのことに気づいてやれないという一点において、たいした違いはない。
ただし、そのことは、血の分けた娘だからこそ、盲目になってしまうということもありえず。その点においては、永年の ―――というよりは生来の乖離は、飛び越えたはずだった。つながらない血は、 確かに、その限界を超えて、結束を誇っていたのである。
にもかかわらず、この病室においては、二重にも三重にも、複雑に絡み合った血と境遇の因縁によって、空気が切り刻まれて、めちゃくちゃに混ざり合っていた。
――――ちょうど、めちゃくちゃに嵌められたジクソーパズルのように。
「ハア・・・ハア・・・・・・ハア・・ア・ア・ァァ・・・・ハア」
あおいは、よつんばいになって、有希江の責めを受けている。幼い肢体を見えない手枷足枷に、拘束されて、恥部を蹂躙されている。その姿は、見方を変えれば、自分から、それをねだっているかのようにすら見える。
「有希江姉さんの言うこと聞くなら、たまには、こうしてあげるわ、これは、あんたへの愛情の記なのよ」
「ウウ・ウ・・ウ・・ウ・ウ・ウ・ウウ!?」
間違っても、いやとは言えない。少女は、頬が焦げてしまいそうな、恥ずかしさに身体が縛れるのを感じた。少しでも、姉の意思に反することをしたら、見捨てられてしまうかもしれない。それは、少女にとって、この家での死を意味する。それは身の60%をもがれてしまうことを意味する。残る40%とは、学校での友人関係を意味する。そのことは、ある意味において、少女の成長を意味するのだろう。
「そんなに、私に嫌われたくないの?」
「ウウ・・ウ・・ウ・・ウ・ウ!?」
トランスレーションすれば、当たり前のことを聞くなということだ。有希江にとって、それは自明のことだったが、あえて、それを聞いた。それは、彼女の意地悪さを表すものであったが、同時に、何か、底知れない恨みを表明するものでもあった。ただし、後者にあっては、それは無自覚である。ただ、漠然と、いくら妹を愛しても、いつか、裏切られてしまうかのような、焦燥感を抱いている。それは、大同小異ながら、他の家族もそうだった。
「いいじゃない、あんたには、大事なお友達がたくさんいるじゃない。啓子ちゃんとなんて、私たちよりも仲がよかったじゃない」
有希江は、赤木啓子を思い浮かべた。肩で風を切るような美少女だ。
「・・・・・・・・?!」
即答できないことが、余計に、あおいを苦しめる。有希江は、それを見越して、言葉を畳み掛けているのだ。肉体的には、おろか、精神的にまで、妹を責めさいなもうというのだ。
そのあまりにも未発達なさなぎだけでなく、その心まで手に入れようとしているのだろうか。
いや、さなぎというよりは、糸を巻きはじめた幼虫というべきであろう。
「ウアン・・・・ウア・・・うう!?」
幼虫は、糸を吐き始めたばかりだ。
有希江の指は、まだやわらかい糸を、刺激してゆく。まだ乾いてないのか、ねちゃねちゃと、いやらしい音を立てる。
「ぅあぅうう!」
それは、たまたま、指が、陰核に触れたときだった。今まで、行った刺激のなかで、それが最大だったわけじゃない。
オルガズムを迎えるために、破るべきダムのようなものがあるとする。その壁は、ガラスのように、ポイントがあるのかもしれない。必ずしも、強く刺激すれば破壊出来るというわけではない。
いま、ひとつの責めが、あおいを押した。
その刺激によって、少女は、決壊のときを迎えた。そのダムは、まだ着工からそう経っていないために、キャパシティが大変、少なかった。
「あら、いちゃったわね」
にこりともせずに、有希江は言い放った。それには、いかばかりが、蔑視のスパイスが含まれていた。だから、その発言には、少なからず、唾が入っていたにちがいない。
「ウウ・ウ・・ウ・ウ・ウウウ・・・・・ううう!!?」
あおいは、わけもわからずに、泣きじゃくりはじめた。よつんばいのままで、顔を床に突き出すという、屈辱的で淫靡な姿勢を強いられているが、何故か、不思議な安心感に全身を包まれるのを感じた。
「ほら、泣かないの、そうだ、お風呂にでも行こうか、涙を拭いて、可愛いあおいちゃんに戻ろうよ」
「ウ・ウ・ウ・ウ・ウウウウ・・・ウ・ウ・ウ・・・・・うう!」
蔑まれているのか、可愛がられているのか、あおいは、わからなくなった。おそらく、両者が同居しているのだろう。
すると、なおも流れ続ける涙は、前者のせいなのか、後者のせいなのか。いままで、体験したことのない感情に、少女は打ちのめされた。
全身が震えて、身動きできないが、有希江に促されて、浴室へと向かう。涙が、床にしみをつくる。少女の柔らかな頬や、顎を伝って、垂れる水滴は、どうしてこんなに奇麗なのだろう。そして、冷たいのだろう。どうして、冷たいことがこんなに美しいのだろう。月と雪は、そう見ていた。
「ゆ、有希江姉さん・・・・ウウ・・・・ウ・ウ・ウ?」
「急ごうよ、風邪、ひいちゃうよ」
なおも、服を着ることは許されなかったが、有希江は抱擁しながら、連れて行ってくれた。あおいにとってみれば、まさにあめ玉と鞭だった。寒風と温風を交互に、受けているようなものである。
肩胛骨の下あたりに、何か、柔らかいものを感じた。それは言うまでもなく、姉の乳房である。ふたつの果実は、母親とは違うぬくもりと、弾力をあおい与える。それは、デジャブーを含んでいながら、新しい刺激に満ちている。
「ウウ・・・」
「どう熱くないでしょう?」
有希江は、温度を確認してから、シャワーをかけてくれた。その気遣いが、かつて、自分が置かれていた境遇を思い出させた。涙は、とうぶん、止まりそうにない。体を伝う湯と合流する。温度が違う水同士が出会うと、互いに、激流を作るというが、この場合は、どんな影響を白い肉体に与えるというのだろう。
ぶくぶくと、透明な泡を作っては、壊される。それらはおいの肉体の上で、死の舞踏を踊っては、藻くずとなる。少女は、その様子を眺めながらも、感想らしきものは、何も生まれなかった。頭の中がマヒしてしまって、何も考えられない。
「きれいにしようね」
「・・・・」
有希江の声は、優しい。しかし、それは愛玩動物に向けられるものに近い。あおいは、確かに違和感を抱いていたが、それを言語化するだけの語彙力を持ち合わせていなかった。
だから、何ら抗議らしい言葉を発することはなかった。ただ、居心地の悪さを感じているだけだった。それは、生乾きのコンクリートの上で、ダンスを踊らされるようなものである。靴は、地面に食い込み、脱げそうになって、前につんのめる。そして、コンクリートの青臭い臭いに、思わず吐きそうになる。
「あおいちゃんの肌は、すべすべできれいだよね、はちきれそうよ」
「ああ ――」
あおいは、有希江に、腹を撫でられて、おもわず呻き声を上げた。
「だめじゃない。せっかく、洗ってるんだから、声をあげたら ――――」
和歌の結句に何が置かれるのか、あおいは分かっていた。恥ずかしさのために、顔を赤らめる。
「あおいちゃんは、どうして、この下が気持ちいいのか知ってるの?」
「ぁ・・・・・・・・・」
姉の手は、下腹部を探検しはじめる。産毛の台地をいく。その一本、一本が性感帯につながっているかのように、その手の動きに、いちいち、反応する。
「どうなの?」
「そ、そんな・・・・き、気持いいなんて・・・・・」
――――カマトトぶるんじゃないわよ!
思わず、怒鳴りつけたくなったが、何とか、自分を制御した。巨大なペニスで、幼児の性器を征服して、何がおもしろいというのだろう。ここは、真綿で締めるようにして、被害者を窒息まで持って行くべきだ。
しかし、その過程が、サディズムの根幹に係わるなどということは、夢にも思わなかった。自分がやっていることを達観できるほどに、スレていなければ、大人にもなっていない。ただ、ひたすらに、わき起こってくる生の感情に従順なだけである。
―――これでは、人間に品性というものを求めるのは、無理だな。え?生の感情?何処かで聞いた台詞だな。
有希江は、血のつながった妹を弄びながら、ある感情に、操られていることにすら気づいていない。ただ、意味不明の気持ち悪さを味わっているだけだ。それは、もちろん、極上の悦び、すなわち、サディズムの悦びに混じり込んでいるわけだが、それが如何に微量であっても、無視できない影響を与え続けるのだ。ちょうど、青酸カリが、耳かきイッパイ程度で、ヒトを殺すように。
――――今日は、このていどで許してやるか。
有希江は、陵辱はここまでにすることにした。石鹸をスポンジに含ませると、手ずから、
洗ってやる。
「いいこと、これからは、自分で洗っちゃだめよ、有希江姉さんがキレイにしてあげる。あおいちゃんは、赤ちゃんなんだから」
優しげな手つきで、洗ってもらうことは、想像以上の快感を引き寄せる。小さいころは、無自覚に、そのような栄誉に預かっていたと思うと、何だか、もったいないような気がした。少女は、一流のマッサージ師に、身を預けるような気分で、姉に総てを委ねていた。
そうしていると、ほんとうに、赤ちゃんに戻っていくような気がする。もはや、何も気にする必要はない、摂食や排泄で気に病む必要もない。何もない白紙の状態に、戻っていく。そこは、ミルクのように、やや黄色がかった温かい白に、澱んでいる。
―――え?何か見える?白紙なのに、何もないはず。あおいは、何もできない赤ちゃんなのに。
少女は、もはや、無色透明のはずだった。キャンバスには、何も描かれていない。しかし、何かを感じる、何か、目指すものがある。それは、明かにベクトルだった。その具体的な道筋は見て取れないが、確かに、矢印ははっきりと見える。ただし、回転しているために、道しるべの役割を果たすことはできない。
―――私が、ここで死んだら、アギリが?! 死ぬわけには ――――私の子が何万と苦しんでいるのに!!
―――え?アギリって? 外国かしら?何処かで聞いたことがある。私は、どうしてこんなことを思っているのかしら?
あおいは、変な思惟に驚いた。それは、自分の意識の底で見つけた、とてつもなく変なヤツだ。彼に、何を言ったらいいのかわからない。いや、どういう風に表情を造ったらいいのかさえ不明だ。
どうして、自分がこんなことを考えているのか、とうてい理解できない。
―――死ぬだなんて、まだ10年しか生きていないのよ!?私!!
困惑。幼い少女の脳裏に、そんな感情しか生まれてこない。ビールすら、まともに口にしたことがない大学生が、老酒をがぶ飲みするようなものだ。年齢に合わない思考は、その主を、底を知らない混乱に落とし込める。
―――助けたい、助けたい! 何を犠牲にしても、この人たちを・・・・・。
少女のイメージに現れたのは、ひび割れた大地と、やけに黒い肌の人たち。彼らは、肋骨の一つ一つが、はっきりと分かるほどに痩せていた。しかも、血の痰を吐き続けている。それなのに、白い肌をした人間に、鞭で打たれている。
―――フランス人。
少女は、その言葉を、不快な感情とともに、思いだしていた。それは、自分でもいやになるほどに否定的な言葉で満たされていた。
―――え?白い?私も同族?!
次の瞬間、少女は自らの手を見ていた。それは、フランス人と同じ色をしていた。彼女がどれほど、否定しても、否定できないほどに憎んで、軽蔑した色だった。
あおいは、よつんばいになって、有希江の責めを受けている。幼い肢体を見えない手枷足枷に、拘束されて、恥部を蹂躙されている。その姿は、見方を変えれば、自分から、それをねだっているかのようにすら見える。
「有希江姉さんの言うこと聞くなら、たまには、こうしてあげるわ、これは、あんたへの愛情の記なのよ」
「ウウ・ウ・・ウ・・ウ・ウ・ウ・ウウ!?」
間違っても、いやとは言えない。少女は、頬が焦げてしまいそうな、恥ずかしさに身体が縛れるのを感じた。少しでも、姉の意思に反することをしたら、見捨てられてしまうかもしれない。それは、少女にとって、この家での死を意味する。それは身の60%をもがれてしまうことを意味する。残る40%とは、学校での友人関係を意味する。そのことは、ある意味において、少女の成長を意味するのだろう。
「そんなに、私に嫌われたくないの?」
「ウウ・・ウ・・ウ・・ウ・ウ!?」
トランスレーションすれば、当たり前のことを聞くなということだ。有希江にとって、それは自明のことだったが、あえて、それを聞いた。それは、彼女の意地悪さを表すものであったが、同時に、何か、底知れない恨みを表明するものでもあった。ただし、後者にあっては、それは無自覚である。ただ、漠然と、いくら妹を愛しても、いつか、裏切られてしまうかのような、焦燥感を抱いている。それは、大同小異ながら、他の家族もそうだった。
「いいじゃない、あんたには、大事なお友達がたくさんいるじゃない。啓子ちゃんとなんて、私たちよりも仲がよかったじゃない」
有希江は、赤木啓子を思い浮かべた。肩で風を切るような美少女だ。
「・・・・・・・・?!」
即答できないことが、余計に、あおいを苦しめる。有希江は、それを見越して、言葉を畳み掛けているのだ。肉体的には、おろか、精神的にまで、妹を責めさいなもうというのだ。
そのあまりにも未発達なさなぎだけでなく、その心まで手に入れようとしているのだろうか。
いや、さなぎというよりは、糸を巻きはじめた幼虫というべきであろう。
「ウアン・・・・ウア・・・うう!?」
幼虫は、糸を吐き始めたばかりだ。
有希江の指は、まだやわらかい糸を、刺激してゆく。まだ乾いてないのか、ねちゃねちゃと、いやらしい音を立てる。
「ぅあぅうう!」
それは、たまたま、指が、陰核に触れたときだった。今まで、行った刺激のなかで、それが最大だったわけじゃない。
オルガズムを迎えるために、破るべきダムのようなものがあるとする。その壁は、ガラスのように、ポイントがあるのかもしれない。必ずしも、強く刺激すれば破壊出来るというわけではない。
いま、ひとつの責めが、あおいを押した。
その刺激によって、少女は、決壊のときを迎えた。そのダムは、まだ着工からそう経っていないために、キャパシティが大変、少なかった。
「あら、いちゃったわね」
にこりともせずに、有希江は言い放った。それには、いかばかりが、蔑視のスパイスが含まれていた。だから、その発言には、少なからず、唾が入っていたにちがいない。
「ウウ・ウ・・ウ・ウ・ウウウ・・・・・ううう!!?」
あおいは、わけもわからずに、泣きじゃくりはじめた。よつんばいのままで、顔を床に突き出すという、屈辱的で淫靡な姿勢を強いられているが、何故か、不思議な安心感に全身を包まれるのを感じた。
「ほら、泣かないの、そうだ、お風呂にでも行こうか、涙を拭いて、可愛いあおいちゃんに戻ろうよ」
「ウ・ウ・ウ・ウ・ウウウウ・・・ウ・ウ・ウ・・・・・うう!」
蔑まれているのか、可愛がられているのか、あおいは、わからなくなった。おそらく、両者が同居しているのだろう。
すると、なおも流れ続ける涙は、前者のせいなのか、後者のせいなのか。いままで、体験したことのない感情に、少女は打ちのめされた。
全身が震えて、身動きできないが、有希江に促されて、浴室へと向かう。涙が、床にしみをつくる。少女の柔らかな頬や、顎を伝って、垂れる水滴は、どうしてこんなに奇麗なのだろう。そして、冷たいのだろう。どうして、冷たいことがこんなに美しいのだろう。月と雪は、そう見ていた。
「ゆ、有希江姉さん・・・・ウウ・・・・ウ・ウ・ウ?」
「急ごうよ、風邪、ひいちゃうよ」
なおも、服を着ることは許されなかったが、有希江は抱擁しながら、連れて行ってくれた。あおいにとってみれば、まさにあめ玉と鞭だった。寒風と温風を交互に、受けているようなものである。
肩胛骨の下あたりに、何か、柔らかいものを感じた。それは言うまでもなく、姉の乳房である。ふたつの果実は、母親とは違うぬくもりと、弾力をあおい与える。それは、デジャブーを含んでいながら、新しい刺激に満ちている。
「ウウ・・・」
「どう熱くないでしょう?」
有希江は、温度を確認してから、シャワーをかけてくれた。その気遣いが、かつて、自分が置かれていた境遇を思い出させた。涙は、とうぶん、止まりそうにない。体を伝う湯と合流する。温度が違う水同士が出会うと、互いに、激流を作るというが、この場合は、どんな影響を白い肉体に与えるというのだろう。
ぶくぶくと、透明な泡を作っては、壊される。それらはおいの肉体の上で、死の舞踏を踊っては、藻くずとなる。少女は、その様子を眺めながらも、感想らしきものは、何も生まれなかった。頭の中がマヒしてしまって、何も考えられない。
「きれいにしようね」
「・・・・」
有希江の声は、優しい。しかし、それは愛玩動物に向けられるものに近い。あおいは、確かに違和感を抱いていたが、それを言語化するだけの語彙力を持ち合わせていなかった。
だから、何ら抗議らしい言葉を発することはなかった。ただ、居心地の悪さを感じているだけだった。それは、生乾きのコンクリートの上で、ダンスを踊らされるようなものである。靴は、地面に食い込み、脱げそうになって、前につんのめる。そして、コンクリートの青臭い臭いに、思わず吐きそうになる。
「あおいちゃんの肌は、すべすべできれいだよね、はちきれそうよ」
「ああ ――」
あおいは、有希江に、腹を撫でられて、おもわず呻き声を上げた。
「だめじゃない。せっかく、洗ってるんだから、声をあげたら ――――」
和歌の結句に何が置かれるのか、あおいは分かっていた。恥ずかしさのために、顔を赤らめる。
「あおいちゃんは、どうして、この下が気持ちいいのか知ってるの?」
「ぁ・・・・・・・・・」
姉の手は、下腹部を探検しはじめる。産毛の台地をいく。その一本、一本が性感帯につながっているかのように、その手の動きに、いちいち、反応する。
「どうなの?」
「そ、そんな・・・・き、気持いいなんて・・・・・」
――――カマトトぶるんじゃないわよ!
思わず、怒鳴りつけたくなったが、何とか、自分を制御した。巨大なペニスで、幼児の性器を征服して、何がおもしろいというのだろう。ここは、真綿で締めるようにして、被害者を窒息まで持って行くべきだ。
しかし、その過程が、サディズムの根幹に係わるなどということは、夢にも思わなかった。自分がやっていることを達観できるほどに、スレていなければ、大人にもなっていない。ただ、ひたすらに、わき起こってくる生の感情に従順なだけである。
―――これでは、人間に品性というものを求めるのは、無理だな。え?生の感情?何処かで聞いた台詞だな。
有希江は、血のつながった妹を弄びながら、ある感情に、操られていることにすら気づいていない。ただ、意味不明の気持ち悪さを味わっているだけだ。それは、もちろん、極上の悦び、すなわち、サディズムの悦びに混じり込んでいるわけだが、それが如何に微量であっても、無視できない影響を与え続けるのだ。ちょうど、青酸カリが、耳かきイッパイ程度で、ヒトを殺すように。
――――今日は、このていどで許してやるか。
有希江は、陵辱はここまでにすることにした。石鹸をスポンジに含ませると、手ずから、
洗ってやる。
「いいこと、これからは、自分で洗っちゃだめよ、有希江姉さんがキレイにしてあげる。あおいちゃんは、赤ちゃんなんだから」
優しげな手つきで、洗ってもらうことは、想像以上の快感を引き寄せる。小さいころは、無自覚に、そのような栄誉に預かっていたと思うと、何だか、もったいないような気がした。少女は、一流のマッサージ師に、身を預けるような気分で、姉に総てを委ねていた。
そうしていると、ほんとうに、赤ちゃんに戻っていくような気がする。もはや、何も気にする必要はない、摂食や排泄で気に病む必要もない。何もない白紙の状態に、戻っていく。そこは、ミルクのように、やや黄色がかった温かい白に、澱んでいる。
―――え?何か見える?白紙なのに、何もないはず。あおいは、何もできない赤ちゃんなのに。
少女は、もはや、無色透明のはずだった。キャンバスには、何も描かれていない。しかし、何かを感じる、何か、目指すものがある。それは、明かにベクトルだった。その具体的な道筋は見て取れないが、確かに、矢印ははっきりと見える。ただし、回転しているために、道しるべの役割を果たすことはできない。
―――私が、ここで死んだら、アギリが?! 死ぬわけには ――――私の子が何万と苦しんでいるのに!!
―――え?アギリって? 外国かしら?何処かで聞いたことがある。私は、どうしてこんなことを思っているのかしら?
あおいは、変な思惟に驚いた。それは、自分の意識の底で見つけた、とてつもなく変なヤツだ。彼に、何を言ったらいいのかわからない。いや、どういう風に表情を造ったらいいのかさえ不明だ。
どうして、自分がこんなことを考えているのか、とうてい理解できない。
―――死ぬだなんて、まだ10年しか生きていないのよ!?私!!
困惑。幼い少女の脳裏に、そんな感情しか生まれてこない。ビールすら、まともに口にしたことがない大学生が、老酒をがぶ飲みするようなものだ。年齢に合わない思考は、その主を、底を知らない混乱に落とし込める。
―――助けたい、助けたい! 何を犠牲にしても、この人たちを・・・・・。
少女のイメージに現れたのは、ひび割れた大地と、やけに黒い肌の人たち。彼らは、肋骨の一つ一つが、はっきりと分かるほどに痩せていた。しかも、血の痰を吐き続けている。それなのに、白い肌をした人間に、鞭で打たれている。
―――フランス人。
少女は、その言葉を、不快な感情とともに、思いだしていた。それは、自分でもいやになるほどに否定的な言葉で満たされていた。
―――え?白い?私も同族?!
次の瞬間、少女は自らの手を見ていた。それは、フランス人と同じ色をしていた。彼女がどれほど、否定しても、否定できないほどに憎んで、軽蔑した色だった。
有希江は、小雪の降りしきる夜に、秘密を明かしはじめた。それは、ごく小さく、針の穴を通すような細さだった。しかし、周囲が暗ければ、暗いほど、その光は、まぶしく感じるものだ。ちなみに、二人が棲まう部屋は、夜の妖怪が好むくらいに薄暗い。近代文明の恩恵を拒否するように、蝋燭の明かりほどの、光度しか保っていなかった。
「伯母さんの、こと、どう思う? とうぜん、真美伯母さんのことよ」
「えー? ぜんぜん、会ってくれないんでしょう?」
がちがちと震えながら、言葉を紡ぐ。
「寒いの? 温めてあげる」
「ウ・・ウ・・」
意識しなくても、自然に涙が流れてくる。有希江の服が直に触れる。ちくちくするが、その下に存在する有希江の温度は、確かに、あおいの心を温めて、蘇らせる。
有希江は、再び、口を開く。
「先生が言ってたんだって、伯母さんが、再入院したのは、あおいのせいだって ―――」
「そ、そんな!?」
それはまさに青天の霹靂だった。
―――そんな、バカな!? ウソよ!?
真美伯母の優しい顔が浮かぶ。どの記憶を見ても、みんなあおいに、融けるように優しい笑顔を向けている。まるで生クリームで、贅沢に彩ったケーキのようだ。
言葉を呑みこむものは、当然、ストレスを背負い込む。それは、発散されてこそ、精神の健康を保てるのだ。それは身体にも関係することだ。
「ほら、暴れない!」
「ぁああぅ!?」
余計に動いたために、余計に、少女の性器に食い込む。それは、まだ蕾にもなっていない。有希江の指は、未成熟な陰核や小陰脚を探検する。ホタテ貝の手足のような、性器は、まだ硬く、自分のそれとは、勝手が違う。しかし、幼いときを思いだして、探検を続ける。
「そんなぁ?!そんなぁ?!」
絶叫しながらも、しかし、家族がどうして、自分を急に冷遇しはじめたのか。合点がいくことに、悲しいほど納得できた。解答は、単純であればあるほど、相手に説得力がある。かつて、ワンフレーズポリティックスと銘打って、人気を博した宰相がいたが、それこそ、まさにその好例と言えよう。
あおいは、一国の宰相とは、まったく違う椅子に座っているが、その点に関していえば、彼となんらかわりはない。
自分は、愛する真美伯母にとって、有害である。
そのごく単純な図式が、頭にこびりついて離れなくなった。
けっして、それについて、疑いを抱くというようなことは、思いも寄らない。少女が置かれた状況が、彼女に考える余裕を与えなかった。姉たちの血を引いているだけあって、彼女も高い知性を持ち、それは初々しく芽吹きはじめていた。
家族は、みんな、それを喜んで、祝福してくれたのだ。少女は確かに、大人への階段を心身共に、歩み始めていた。たしかに、徳子のように、まっすぐな階段を直進するというのではなかった。まるで峻厳な山に、穿たれた階(きざはし)のように、歪んでいたが、むしろ、それゆえに、愛されているのである。それは、無意識ながら、あおいも気づいていた。
今 、少女の頭に、その図式が固定してしまった。その音は、たしかに、有希江に聞こえた。これで、妹を完全に支配できる。
有希江は、耳小骨の一部で、それを確信した。愛情と、支配欲と嗜虐心はいずれも、表裏一体の関係にある。
「げ、ゲームのせいじゃなかったの・・・・・・・?! ウグググ・・・・・・ヌグぅ!?」
「単なる偶然だとおもったわけだ?」
有希江は、くぐもった妹の喘ぎ声のむこうに、確としたものを見つけた。それをさらに突かない手はない。前立腺は、刺激を当たるほどに、柔らかくなり、少年に、彼が感じてはならない快感を与え続けた ――――――。有希江は、今読んでいるBL小説の一節を思いだした。
あいにくと、というか、当然のことだが、妹には、前立腺はない。しかし、陰核は、たしかに存在する。 あまりに未成熟で、青い果実だが、それゆえに、大人が感じることができない官能をかき鳴らすことができる。おそらく、大人たちが持たぬ羞恥心という酒精が、それを彩るのだろう。
「みんなで、話し合ったのよ、自然な形でやってあげようって」
「ウウ・ウ・・ウ・ウ、じゃ、じゃあ、ウウ・・ウ・ウ・ウ、あたしを、き、嫌いに・・・・ウ・・ウウ!!」
あおいは、喉元に渦巻く感情のために、うまく言葉を操ることが出来ない。しかし、姉がそれを代弁した。
「なったのよ。こういう形になったのは、せめてもの愛情かしらね」
あっさりと言い放った。ちなみに、温情という表現をしなかったのは、あおいには通じないと思ったからだ。
「ウウ・ウ・・ウ・ウ・ウ・ウウ!?」
股間をえぐる、有希江の指は、言葉と裏腹に、少女を責め続ける。その動きは、あおいの神経を確実に探しあて、刺激を加えていく。少女の貝肉は、びらびらとその穴を開き、彼女には早すぎる淫液を、分泌し続ける。
「ママア・ァ・・・・ウウ・ウ・・ウ・・ウうう!?」
「もう、あんたにはいないのよ!」
「ウウ・ウ・・ウ・ウ・ウ、でも、ハア、どうして、ハアハア、あたしのせい・・・ハア・・・・ハアア・・なの!?」
「さあ、ねえ、こんなにいやらしいからかな?」
「そ、そんあのって?ハア・・ヒイィ!?」
激しく抗議しようとするが、込み上げてくる官能のために、ほとんど笑劇にしか見えない。
「それを一緒に考えてみようよ、協力するからさ ―――」
「・・・・・・・・ウウ・・ウ・ウ!?」
あおいは、その幼い身体に、不似合いな反応を示している。ぴくぴくと、小刻みに震えながら、地底から込み上げてくる感覚に耐えている。少女は、たしかに、自らの不器用な指で、その性器を弄びはした。しかし、それは、軽く触れてみた程度のことだ。何を血迷ったのか、シャワーを恥部に当ててみたのだが、その刺激の大きさに、ビクついたくらいだ。シャワーを投げつけ、自分は、椅子から転がって、したたかに、タイルに腰を打ち付けてしまった。
あたかも、悪魔を招聘した者が、自分が引き起こしたことの重大さに、額を割る哀しさに、むせび泣くように・・・・・。
「グアウ!ゥウウウウアウウ」
今、悪魔を呼び出す秘密の呪文を、唱えていた。味わったことのない官能に、いや、その感覚が、官能と名付けられていることすら、知らない。女性が行う自慰は、時として、性行為以上の悦びを感じることがある。女性の特権だ。それは、神が女性に与えた福音かもしれない。
男は、時として、無自覚なまま、妻や恋人といった女性に暴力を奮うことがある。それは男性が、女性に対して、本能的に持っている敵意なのである。
どうして、女性は、男性が持たない快感を愉しんでいるのか。しかも、その快楽に、自分たちは必要ないのだ。それが、嫉妬を呼び起こし、絶えざるドメスティックヴァイオレンスを呼ぶのだ。
閑話休題。話しを元に戻そう。
あおいは、その感覚に、逃げることに、本能的な嫌悪と悦楽を感じていた。その二律背反な気持は、少女の小さな躯をまっぷたつに、切り裂き、哀しみの涙を流させる。
彼女が皇帝のように座っている、いや、縛り付けられている椅子は、肉体だった、何と、自分の姉なのである。あおいは、姉の膝に乗せられ、まるで幼女の時のように、あらゆる権利を奪われ、欲しいままにされている。
「グア・・・・は・・アァ! あ、あたしの、何がグ・・・・いけなかったの?」
「お姉さんの言うこと、何でも聞く?」
有希江は、畳み掛けるように、奴隷になることを迫る。あおいの答えは決まっている。
「わ、わかったから、ハア・・・・ああ、聞くから、あ、あおいを、み・・・はあァ・・、見捨てないで・・・アアア」
哀しい歌。これほどまでに、哀しい歌が、この世にあろうか。いささか、鼻声がかかったヴォーカルは、少しばかりハスキーだった。それが有希江の耳を、やけに刺激する。
「見捨てたりしないわよ、あおいが可愛い限りはね」
可愛いという形容詞が、あおいに重くのしかかる。それは、姉に握られた鎖であり、その鎖は、あおいの首に連結しているのだ。しかし、あくまで、首輪を外す権利は、奪わないという。好きなときに、何処にでも行って良いというのである。それは、「死ね」と言われるよりも、はるかに残酷だ。
「そうなら、あなたは犬よね、お姉さんが言う限り」
「ウッゥゥァ、は、はい」
有希江が言っていることを理解もせずに、肯いた。しかし、それが、彼女が予期もしない仕打ちを蒙ることになる。
「なら、どうして、こんなところにいるの?!犬コロッが?!」
「ああう!?」
あおいは、とつぜん、素っ裸のまま、空の旅を迎えることになった。
「ぐあぃう!い、痛い!ィィィイィィ!!」
少女は、自分の体を抱きながら転がった。その行為は、あたかも、水中で、片栗粉の塊を探すようなものだ。触れども、触れども、いや、触れるほどに、それは失われていく。
「クウアア・・・う?!」
ほんとうに、畜生に成り下がってしまったのか、あおいは、子犬さながらの声を上げて、跪いた。
「ほら、お座り!」
「・・・・・?!」
不憫な身には、あいにくと、有希江が言っていることが理解できなかった。
「自分で、首輪の鎖を外すのね、それでもいいわよ、何処にでも行っちゃいなさい。もう二度と、お姉さんの視界から消えてちょうだい!」
「ゥあゥッツ!?クアウエあ!? それだけはゆ、許して!」
「だったら、言うこと聞きなさい!?」
「はい、はい!?」
あおいは、命じられたままの恰好をするために、大腿筋に、グリコーゲンを注入しはじめた。その動作は、緩慢で、ぶざまだった。そのために、有希江の笑いを大いに、誘った。
少女は、記憶に残っている「お座り」を真似ている。その過程は、想像を絶するほどに、屈辱的で、息苦しいものだったが、何故か、何も感じない。強烈な苦痛は、人に、それを感じなくさせるという。脳内麻薬のせいだ。これは、瀕死の人間が、苦痛を感じていない証左だろう。
しかし、今、あおい自身は、瀕死の状態ではない。そうなのは、彼女のプライドと自我だった。
「ふふ・・・・」
勝ち誇ったように、有希江は、妹を見下ろす。正座をして、上体を前方に突き出すその恰好は、けっして、犬ができるものではなかったが、確かに、絶対的屈従を意味している。そのことは確かだった。
「伯母さんの、こと、どう思う? とうぜん、真美伯母さんのことよ」
「えー? ぜんぜん、会ってくれないんでしょう?」
がちがちと震えながら、言葉を紡ぐ。
「寒いの? 温めてあげる」
「ウ・・ウ・・」
意識しなくても、自然に涙が流れてくる。有希江の服が直に触れる。ちくちくするが、その下に存在する有希江の温度は、確かに、あおいの心を温めて、蘇らせる。
有希江は、再び、口を開く。
「先生が言ってたんだって、伯母さんが、再入院したのは、あおいのせいだって ―――」
「そ、そんな!?」
それはまさに青天の霹靂だった。
―――そんな、バカな!? ウソよ!?
真美伯母の優しい顔が浮かぶ。どの記憶を見ても、みんなあおいに、融けるように優しい笑顔を向けている。まるで生クリームで、贅沢に彩ったケーキのようだ。
言葉を呑みこむものは、当然、ストレスを背負い込む。それは、発散されてこそ、精神の健康を保てるのだ。それは身体にも関係することだ。
「ほら、暴れない!」
「ぁああぅ!?」
余計に動いたために、余計に、少女の性器に食い込む。それは、まだ蕾にもなっていない。有希江の指は、未成熟な陰核や小陰脚を探検する。ホタテ貝の手足のような、性器は、まだ硬く、自分のそれとは、勝手が違う。しかし、幼いときを思いだして、探検を続ける。
「そんなぁ?!そんなぁ?!」
絶叫しながらも、しかし、家族がどうして、自分を急に冷遇しはじめたのか。合点がいくことに、悲しいほど納得できた。解答は、単純であればあるほど、相手に説得力がある。かつて、ワンフレーズポリティックスと銘打って、人気を博した宰相がいたが、それこそ、まさにその好例と言えよう。
あおいは、一国の宰相とは、まったく違う椅子に座っているが、その点に関していえば、彼となんらかわりはない。
自分は、愛する真美伯母にとって、有害である。
そのごく単純な図式が、頭にこびりついて離れなくなった。
けっして、それについて、疑いを抱くというようなことは、思いも寄らない。少女が置かれた状況が、彼女に考える余裕を与えなかった。姉たちの血を引いているだけあって、彼女も高い知性を持ち、それは初々しく芽吹きはじめていた。
家族は、みんな、それを喜んで、祝福してくれたのだ。少女は確かに、大人への階段を心身共に、歩み始めていた。たしかに、徳子のように、まっすぐな階段を直進するというのではなかった。まるで峻厳な山に、穿たれた階(きざはし)のように、歪んでいたが、むしろ、それゆえに、愛されているのである。それは、無意識ながら、あおいも気づいていた。
今 、少女の頭に、その図式が固定してしまった。その音は、たしかに、有希江に聞こえた。これで、妹を完全に支配できる。
有希江は、耳小骨の一部で、それを確信した。愛情と、支配欲と嗜虐心はいずれも、表裏一体の関係にある。
「げ、ゲームのせいじゃなかったの・・・・・・・?! ウグググ・・・・・・ヌグぅ!?」
「単なる偶然だとおもったわけだ?」
有希江は、くぐもった妹の喘ぎ声のむこうに、確としたものを見つけた。それをさらに突かない手はない。前立腺は、刺激を当たるほどに、柔らかくなり、少年に、彼が感じてはならない快感を与え続けた ――――――。有希江は、今読んでいるBL小説の一節を思いだした。
あいにくと、というか、当然のことだが、妹には、前立腺はない。しかし、陰核は、たしかに存在する。 あまりに未成熟で、青い果実だが、それゆえに、大人が感じることができない官能をかき鳴らすことができる。おそらく、大人たちが持たぬ羞恥心という酒精が、それを彩るのだろう。
「みんなで、話し合ったのよ、自然な形でやってあげようって」
「ウウ・ウ・・ウ・ウ、じゃ、じゃあ、ウウ・・ウ・ウ・ウ、あたしを、き、嫌いに・・・・ウ・・ウウ!!」
あおいは、喉元に渦巻く感情のために、うまく言葉を操ることが出来ない。しかし、姉がそれを代弁した。
「なったのよ。こういう形になったのは、せめてもの愛情かしらね」
あっさりと言い放った。ちなみに、温情という表現をしなかったのは、あおいには通じないと思ったからだ。
「ウウ・ウ・・ウ・ウ・ウ・ウウ!?」
股間をえぐる、有希江の指は、言葉と裏腹に、少女を責め続ける。その動きは、あおいの神経を確実に探しあて、刺激を加えていく。少女の貝肉は、びらびらとその穴を開き、彼女には早すぎる淫液を、分泌し続ける。
「ママア・ァ・・・・ウウ・ウ・・ウ・・ウうう!?」
「もう、あんたにはいないのよ!」
「ウウ・ウ・・ウ・ウ・ウ、でも、ハア、どうして、ハアハア、あたしのせい・・・ハア・・・・ハアア・・なの!?」
「さあ、ねえ、こんなにいやらしいからかな?」
「そ、そんあのって?ハア・・ヒイィ!?」
激しく抗議しようとするが、込み上げてくる官能のために、ほとんど笑劇にしか見えない。
「それを一緒に考えてみようよ、協力するからさ ―――」
「・・・・・・・・ウウ・・ウ・ウ!?」
あおいは、その幼い身体に、不似合いな反応を示している。ぴくぴくと、小刻みに震えながら、地底から込み上げてくる感覚に耐えている。少女は、たしかに、自らの不器用な指で、その性器を弄びはした。しかし、それは、軽く触れてみた程度のことだ。何を血迷ったのか、シャワーを恥部に当ててみたのだが、その刺激の大きさに、ビクついたくらいだ。シャワーを投げつけ、自分は、椅子から転がって、したたかに、タイルに腰を打ち付けてしまった。
あたかも、悪魔を招聘した者が、自分が引き起こしたことの重大さに、額を割る哀しさに、むせび泣くように・・・・・。
「グアウ!ゥウウウウアウウ」
今、悪魔を呼び出す秘密の呪文を、唱えていた。味わったことのない官能に、いや、その感覚が、官能と名付けられていることすら、知らない。女性が行う自慰は、時として、性行為以上の悦びを感じることがある。女性の特権だ。それは、神が女性に与えた福音かもしれない。
男は、時として、無自覚なまま、妻や恋人といった女性に暴力を奮うことがある。それは男性が、女性に対して、本能的に持っている敵意なのである。
どうして、女性は、男性が持たない快感を愉しんでいるのか。しかも、その快楽に、自分たちは必要ないのだ。それが、嫉妬を呼び起こし、絶えざるドメスティックヴァイオレンスを呼ぶのだ。
閑話休題。話しを元に戻そう。
あおいは、その感覚に、逃げることに、本能的な嫌悪と悦楽を感じていた。その二律背反な気持は、少女の小さな躯をまっぷたつに、切り裂き、哀しみの涙を流させる。
彼女が皇帝のように座っている、いや、縛り付けられている椅子は、肉体だった、何と、自分の姉なのである。あおいは、姉の膝に乗せられ、まるで幼女の時のように、あらゆる権利を奪われ、欲しいままにされている。
「グア・・・・は・・アァ! あ、あたしの、何がグ・・・・いけなかったの?」
「お姉さんの言うこと、何でも聞く?」
有希江は、畳み掛けるように、奴隷になることを迫る。あおいの答えは決まっている。
「わ、わかったから、ハア・・・・ああ、聞くから、あ、あおいを、み・・・はあァ・・、見捨てないで・・・アアア」
哀しい歌。これほどまでに、哀しい歌が、この世にあろうか。いささか、鼻声がかかったヴォーカルは、少しばかりハスキーだった。それが有希江の耳を、やけに刺激する。
「見捨てたりしないわよ、あおいが可愛い限りはね」
可愛いという形容詞が、あおいに重くのしかかる。それは、姉に握られた鎖であり、その鎖は、あおいの首に連結しているのだ。しかし、あくまで、首輪を外す権利は、奪わないという。好きなときに、何処にでも行って良いというのである。それは、「死ね」と言われるよりも、はるかに残酷だ。
「そうなら、あなたは犬よね、お姉さんが言う限り」
「ウッゥゥァ、は、はい」
有希江が言っていることを理解もせずに、肯いた。しかし、それが、彼女が予期もしない仕打ちを蒙ることになる。
「なら、どうして、こんなところにいるの?!犬コロッが?!」
「ああう!?」
あおいは、とつぜん、素っ裸のまま、空の旅を迎えることになった。
「ぐあぃう!い、痛い!ィィィイィィ!!」
少女は、自分の体を抱きながら転がった。その行為は、あたかも、水中で、片栗粉の塊を探すようなものだ。触れども、触れども、いや、触れるほどに、それは失われていく。
「クウアア・・・う?!」
ほんとうに、畜生に成り下がってしまったのか、あおいは、子犬さながらの声を上げて、跪いた。
「ほら、お座り!」
「・・・・・?!」
不憫な身には、あいにくと、有希江が言っていることが理解できなかった。
「自分で、首輪の鎖を外すのね、それでもいいわよ、何処にでも行っちゃいなさい。もう二度と、お姉さんの視界から消えてちょうだい!」
「ゥあゥッツ!?クアウエあ!? それだけはゆ、許して!」
「だったら、言うこと聞きなさい!?」
「はい、はい!?」
あおいは、命じられたままの恰好をするために、大腿筋に、グリコーゲンを注入しはじめた。その動作は、緩慢で、ぶざまだった。そのために、有希江の笑いを大いに、誘った。
少女は、記憶に残っている「お座り」を真似ている。その過程は、想像を絶するほどに、屈辱的で、息苦しいものだったが、何故か、何も感じない。強烈な苦痛は、人に、それを感じなくさせるという。脳内麻薬のせいだ。これは、瀕死の人間が、苦痛を感じていない証左だろう。
しかし、今、あおい自身は、瀕死の状態ではない。そうなのは、彼女のプライドと自我だった。
「ふふ・・・・」
勝ち誇ったように、有希江は、妹を見下ろす。正座をして、上体を前方に突き出すその恰好は、けっして、犬ができるものではなかったが、確かに、絶対的屈従を意味している。そのことは確かだった。
さて、ここで、時間を少し、巻き戻してみようと思う。何、そんなに前のことではない。由加里が耐え難い陵辱を受けている最中のことである。
その時、三人の少女が連れ立っていた。鋳崎はるか、海崎照美、そして、鈴木ゆらら。以上の三人が、アルミニウムの靴音を立てていた。そう、友人を見舞ったすぐ後のことである。
ここは、由加里が入院している病院の表玄関、いわば、ロビーのような空間である。さて、三人が行った見舞いとは、どのようなものだったのだろう。
ちなみに、それは、同時に、行われたわけではないが、たいへんに、友情という点において、比類ないくらいに豊かだった。
しかし、それにしては、三人三様、複雑な色を顔に乗せている。
時間は午後3時半を回ったころである。三人は、病院を出ると、まず、はるかが口を開いた。
「まだ、こんな時間か」
「西沢さんとの約束は?」
照美が口をきいた。意外そうな顔を隠さずに、はるかは続ける。
「6時半に、西朝幸駅だ ――――」
「じゃあ、だいぶあいちゃったわけだ、どうして、時間つぶそうか。そうだ、誰かさんと、殴り合いでもして、過ごすかな、どうせ、ここ、病院だし ・・・・・・」
なんと、照美は、場外乱闘を始めたのである。
「!?」
ゆららは、つぶらな瞳に、おびえの色を乗せた。その目は、たしかに、いじめられていたときのそれと同じだった。
「ゆららちゃん・・・・・・・」
「いえ ―――――」
ゆららは、アルマジロのように畏まっている。その態度はとても、同級生に対するものではない。照美は後悔した。彼女は、まだ、自分が無意識に出しているオーラに気づいていなかった。
一方、ゆららの方では、完全に怯えきっていた。
おそらく、彼女の由加里に対する遇し方を、知っているからこそにちがいない。どれだけ説明しても、わかってもらえないらしい、しょうがない。それならば、実体験として学習させるしかない。
虐待された小動物を、なつかせるように、少しづつキャラメルを塗り込んでいく。そう、生まれたときから、いじめつづけられた動物たちは、なかなか、人間になつこうとしない。だから、バウムクーヘンを重ねるように、情愛を教えていくのだ。
照美は、自分では、優しい笑顔を注ぎ込んでいると思っている。しかし、それが必ずしも、うまくいってないことがわかった。ゆららは、笑っているが、それが心からのものでないことは、明白だった。
そこで、趣向を加えてみることにした。
「遊びに行こうか ―――」
「え!?」
それは、ゆららにとって、青天の霹靂だった。友だちから、誘ってもらえることである。ただ、それだけのことが、彼女にとっては千金の値があった。しかし、何処か、現実感が薄い。まるで雲の上を歩いているかのようだ。
そんな少女を大地におろしたのは、はるかの低い声だった。
「カラオケでも行くか」
はるかである。
「?!」
よもや、金銭が必要な場所へ、友だちどうしで、行くなど、一般人にとってみれば、ハワイに行く体験に匹敵する。とても心躍る提案だった。
しかも、はるかが提案したのは、彼女はるかの低い声だった。はるかの低い声だった。これはゆららが唯一得意なことなのである。きっと、音楽のテストの時のことを、憶えていたにちがいない。驚いたことに、ほんとうに、自分の気を遣ってくれている。自分なんかの好みを知っていてくれる。
もしかしたら、この人たちは、本当に友だちになってくれるのかもしれない。半信半疑ながらも、淡い希望のために、心臓が口から飛び出そうになった。
長きに渡って、いじめられ続けた人間のかなしさである。しかも、本人は、いじめられていることを認めていなかった。彼女自身に内包されている何かが、それを押しとどめていた。自尊心? 淋しさとかなしさ? 家族への思い? それらが幾重にも、組み込まれて、複雑な迷宮を構成している。
一体、何が何なのかわからない。自他の区別すら、ままならない。
人格の中心が損なわれて、自我が危うくなっている。そのような人間が、明日を信じられるのか。今度目覚めたとき、朝日が昇っていると、思えるのか。
そこまで、追いつめられたとしても、人間は、プラスの方向に、思考を進めることができる。このときのゆららは、その好例だったと言えよう。
「はい・・・行きたいです」
「うん、だよ! ゆららちゃん」
「は・・・うん」
ゆららは、はにかみながらも、そう返事をした。その微笑んだ顔を、照美は本当に美しいと思った。しかし、彼女は、複雑な気持ちを心の棚に押し込んでいた。
――――私、妹だと思った。
それは、彼女を好ましいと思っていながら、その反面、見下していることだった。由加里に対する態度だけを見ていれば、とても信じられないが、これが彼女の性格の別の面である。クラスでこれを知っているのは、おそらく、はるかぐらいだろう。
一見、この美少女は、周囲に、冷徹な印象を見る人に与える。しかし、その彫像のような仮面の下で、温かい血液を、繊細なまでに、細い血管に流していたのである。
「ゆららちゃんは、どんな歌が得意?」
「ぴんきーとか、いいな」
ぴんきーとは、最近、売出し中のアイドル歌手である。
照美は、ゆららが、はじめて彼女自らため口を遣ったことを、素直に喜んだ。
「あ、そうだ、500円で大丈夫・・・・かな?」
「大丈夫だよ」
照美は軽く答えたが、ゆららの顔を見ると、真顔になった。
少女がポケットのなかで、握っている500円硬貨は、いわくつきだったのである。
その小さな掌で、硬貨のギザギザを舐めながら、少女は、何かと会話をしていた。しかし、はるかと照美には、その声は聞こえなかった。
「な、なんでもないよ」
それは、なんでもないという顔ではなかったが、二人は、それ以上、追求することはできなかった。
ゆららは、こう考えていたのである。
―――今日は、夕飯抜きね。
その500円玉は、その日のエンゲル係数そのものだった。なんと安上がりなのことか。一番喜んでいるのは、彼女の母親だろうか。
―――ママ、ごめんね・・・・・・・。せっかく・・・・。
少女は心の中で、母にそっとわびた。彼女が、辛い仕事で稼いだ血と涙が、この小さな硬貨に集約されているのだ。
「それにしても、ゆららちゃん、歌うまいよね。この前のテストの時、驚いちゃった ――」
「そんなことないよ」
少しばかり、声が落ち着いてきたので、照美はほっとした。
「カラオケ、そうとう行ってるんでしょう」
照美は、あいにくと、彼女の家の経済状況を知らなかった。しかし、すぐに表情を凍らせたことから、何かを感じ取っていた。
「実は、すごい秘密があるんだ ―――」
「え? 何?何?」
はるかと照美は、まるで小学生のように、ワラワラと集まってくる。二人の視線は、ゆららの額あたりに集まっている。そこに帯電するように、熱が集まってくる。少女は、このとき、自分が意識を離れて、自身を達観していることに気づかなかった。あたかも、幽体離脱をするように、意識が、肉体から、離れて自己を観察しているのである。
ゆららは、二人の友だちと和やかに談笑している。
――――これは、はたして、真実だろうか。
「わ、わたしね、合唱団に参加しているんだ。でも、みんなには内緒だよ ――」
――――高田さんたちに、見付かったらどんな目に合わされるかわからない。彼女たちには知られたくない。
ゆららは、楽しい時間を過ごしながらも、錯綜する思考に振り回され続ける。
それでも、笑顔を絶やさないようにしなければならない。そうしないと、ふたりをつなぎ止めておけないと考えたのだ。どうして、素直に、笑顔でいられないのだろう。
少女は、普通の人間がしなくていい苦悩に、頭を悩ませていた。
友だちに囲まれて、しぜんに笑えないというのは、どう考えてもおかしい。まるで、常に銃を突きつけられているように、ぎこちない。あまりに、情けない気持ちに陥るのだった。
「でも、だから上手いんだね、ゆららちゃん」
これは、けっして、照美のお世辞ではない。母親の薫陶を得て、音楽を嗜んできたゆえの、言葉である。
「そ、そんなこと・・・・・」
――――海崎さんはすごい。
そう言いかけて、それ叶わないことがわかった。実は、音楽の実技テストを休んだために、彼女の歌声を聞くという恩恵に浴することができなかった。そして、その台詞を言うことができなかった。だから、聴いてもいない歌声を誉めることはできなかった。しかし、普段から、ピアノを受業で弾いていたので、その技術の確かさは、熟知していた。
「ほら、ついたよ」
店頭にでかでかと貼られた「1時間、470円」という謳い文句が、ゆららを安心させた。
ヨーロッパ辺りの宮殿を、モチーフしたと、大声で言うのも憚られる。そんな陳腐な外見は、二人に何の感慨も与えなかった。
しかし、ゆららは、感動しまくっていた。
「どうしたの? 早く中に入ろう」
固まってしまったゆららの背中をポンと押す。すると、まるでおもちゃのボタンを押されたかのように、きらきらと笑い出す。それが、例え、不自然だったとしても、照美は、それを単純に、受け入れることにした。
受付への対応は、はるかが引き受けていた。彼女は、今年大学に入ったばかりだったが、どのように、三人を見ただろうか。たしかに、受付などという職種は、多くの客を相手にする。しかし、記憶の何処かに、滞らせる何かを、三人に発見していた。
それは、彼女の主観からすれば、高校生と小学生という奇妙な取り合わせである。姉妹ということもあろうが、どう見ても、三人三様で全く、似通っていない。そのことが、彼女の記憶に残らせた理由であろう。
もちろん、三人とも中学2年生の女の子である。しかし、端からみれば、決して、そのように見えなかった。
―――もしかしたら、後で刑事に事情を訊かれるかもしれないわ。
当然のことながら、女子大生は、もはや、夢見る夢子という年齢ではなかったが、かつてに物語を捏造(つく)っていた。おそらく、この後、何らかの事件に巻き込まれて、目撃者として、警察に遇されることを想像しているのだろう。そのために、次ぎの客を多少なりとも、待たせることになった。
「ちょっと、何をしているんだ!?」
「あ、申し訳ございません ――――」
「おい、そこまで言うことないだろう?」
髪を赤く染め、逆立たせた少年を、嗜めたのは、長身の女性である。黒色のシックなスーツに、細身を包んだその姿は、他の三人とあきらかに一線を画していた。言うまでもなく、他の三人は、少年に大同小異の恰好をしていた。
――――今日は、ほんとうに、変な客が多いわねえ。女教師に、不良少年少女? 何ていう取り合わせよ。
女子大生は、客に対応しながら、思ったものだ。
実は、四人は、同年齢である。
「ねえ、リーダー、オレたち、こんなことしてていいのかな?」
「うまくいかないときは、何をしてもだめなものだ。こんな時はカラオケにかぎる」
「それにしても、地元に戻って、カラオケとはね ――」
「でも、僕は地元やないで、冴さん」
その言い方から、あきらかに少年が、関西人であることがわかる。
「当たり前だ。日本人はそんな言い方はしないさ」
「何? 大阪は日本やないっていうか?」
しかしながら、いかなるときも、口調は柔らかいのが、関西人の特長である。
西宮冴子は、少年を見下ろした。彼は、冴子の肩ほどしか、背丈がない。少年にとってみれば、冴子は生まれながらの犯罪者なのである。159センチほどしかない彼には、冴子は、実に忌むべき存在だったが、その反面、別の世界においては、常に側にいたい、いや、仕えていたいほどに、尊敬している相手であった。
犯罪者と言ったが、それは、彼らの側に発生したのである。表だって、警察が動くとか、マスコミに書き立てられるということには、ならなかったが、道徳的な面においては、それは許されざる犯罪だった。
しかも、それは一番、四人が信頼している人物だったのだ。しかも、冴子にとってみれば・・・・・。
――――しかし、あいつがあんなことに・・・・・・・・。
少年は、おもわず、その言葉が呑みこんだ。それは、四人の間では、タブーだったからだ。
――――冴えさんがヴォーカルやればいいんだよ!
それは、赤い髪の少年の述懐だったが、彼とて、それを音声化する勇気はなかった。
「さあ、歌うぞ!」
冴子は、回廊を歩く足を早めた。壁から、天井、それに床まで、下世話な色にペインティングされている。それは四人が置かれている状況を暗示していた。しかし、冴子をはじめてとしてそれを言葉にする、いや、意識に立ちのぼらせることすら、控えていた。
「何?」
その時、冴子の絶対音感をかすかに、刺激した。それは限られた生き物しか、受け取れない超音波のように、空間を、遠慮がちに飛んでいた。あたかも、冬の小虫のように、見えるか見えないかの、境界を彷徨っていた。それを受け取ったのである。しかし、この時は、それを重大なことと思っていなかった。彼女の頭のなかでは、すでに好きな曲のイントロが始まっていた。歌う意欲に充ち満ちていたのである ――――――この女教師は。
その時、三人の少女が連れ立っていた。鋳崎はるか、海崎照美、そして、鈴木ゆらら。以上の三人が、アルミニウムの靴音を立てていた。そう、友人を見舞ったすぐ後のことである。
ここは、由加里が入院している病院の表玄関、いわば、ロビーのような空間である。さて、三人が行った見舞いとは、どのようなものだったのだろう。
ちなみに、それは、同時に、行われたわけではないが、たいへんに、友情という点において、比類ないくらいに豊かだった。
しかし、それにしては、三人三様、複雑な色を顔に乗せている。
時間は午後3時半を回ったころである。三人は、病院を出ると、まず、はるかが口を開いた。
「まだ、こんな時間か」
「西沢さんとの約束は?」
照美が口をきいた。意外そうな顔を隠さずに、はるかは続ける。
「6時半に、西朝幸駅だ ――――」
「じゃあ、だいぶあいちゃったわけだ、どうして、時間つぶそうか。そうだ、誰かさんと、殴り合いでもして、過ごすかな、どうせ、ここ、病院だし ・・・・・・」
なんと、照美は、場外乱闘を始めたのである。
「!?」
ゆららは、つぶらな瞳に、おびえの色を乗せた。その目は、たしかに、いじめられていたときのそれと同じだった。
「ゆららちゃん・・・・・・・」
「いえ ―――――」
ゆららは、アルマジロのように畏まっている。その態度はとても、同級生に対するものではない。照美は後悔した。彼女は、まだ、自分が無意識に出しているオーラに気づいていなかった。
一方、ゆららの方では、完全に怯えきっていた。
おそらく、彼女の由加里に対する遇し方を、知っているからこそにちがいない。どれだけ説明しても、わかってもらえないらしい、しょうがない。それならば、実体験として学習させるしかない。
虐待された小動物を、なつかせるように、少しづつキャラメルを塗り込んでいく。そう、生まれたときから、いじめつづけられた動物たちは、なかなか、人間になつこうとしない。だから、バウムクーヘンを重ねるように、情愛を教えていくのだ。
照美は、自分では、優しい笑顔を注ぎ込んでいると思っている。しかし、それが必ずしも、うまくいってないことがわかった。ゆららは、笑っているが、それが心からのものでないことは、明白だった。
そこで、趣向を加えてみることにした。
「遊びに行こうか ―――」
「え!?」
それは、ゆららにとって、青天の霹靂だった。友だちから、誘ってもらえることである。ただ、それだけのことが、彼女にとっては千金の値があった。しかし、何処か、現実感が薄い。まるで雲の上を歩いているかのようだ。
そんな少女を大地におろしたのは、はるかの低い声だった。
「カラオケでも行くか」
はるかである。
「?!」
よもや、金銭が必要な場所へ、友だちどうしで、行くなど、一般人にとってみれば、ハワイに行く体験に匹敵する。とても心躍る提案だった。
しかも、はるかが提案したのは、彼女はるかの低い声だった。はるかの低い声だった。これはゆららが唯一得意なことなのである。きっと、音楽のテストの時のことを、憶えていたにちがいない。驚いたことに、ほんとうに、自分の気を遣ってくれている。自分なんかの好みを知っていてくれる。
もしかしたら、この人たちは、本当に友だちになってくれるのかもしれない。半信半疑ながらも、淡い希望のために、心臓が口から飛び出そうになった。
長きに渡って、いじめられ続けた人間のかなしさである。しかも、本人は、いじめられていることを認めていなかった。彼女自身に内包されている何かが、それを押しとどめていた。自尊心? 淋しさとかなしさ? 家族への思い? それらが幾重にも、組み込まれて、複雑な迷宮を構成している。
一体、何が何なのかわからない。自他の区別すら、ままならない。
人格の中心が損なわれて、自我が危うくなっている。そのような人間が、明日を信じられるのか。今度目覚めたとき、朝日が昇っていると、思えるのか。
そこまで、追いつめられたとしても、人間は、プラスの方向に、思考を進めることができる。このときのゆららは、その好例だったと言えよう。
「はい・・・行きたいです」
「うん、だよ! ゆららちゃん」
「は・・・うん」
ゆららは、はにかみながらも、そう返事をした。その微笑んだ顔を、照美は本当に美しいと思った。しかし、彼女は、複雑な気持ちを心の棚に押し込んでいた。
――――私、妹だと思った。
それは、彼女を好ましいと思っていながら、その反面、見下していることだった。由加里に対する態度だけを見ていれば、とても信じられないが、これが彼女の性格の別の面である。クラスでこれを知っているのは、おそらく、はるかぐらいだろう。
一見、この美少女は、周囲に、冷徹な印象を見る人に与える。しかし、その彫像のような仮面の下で、温かい血液を、繊細なまでに、細い血管に流していたのである。
「ゆららちゃんは、どんな歌が得意?」
「ぴんきーとか、いいな」
ぴんきーとは、最近、売出し中のアイドル歌手である。
照美は、ゆららが、はじめて彼女自らため口を遣ったことを、素直に喜んだ。
「あ、そうだ、500円で大丈夫・・・・かな?」
「大丈夫だよ」
照美は軽く答えたが、ゆららの顔を見ると、真顔になった。
少女がポケットのなかで、握っている500円硬貨は、いわくつきだったのである。
その小さな掌で、硬貨のギザギザを舐めながら、少女は、何かと会話をしていた。しかし、はるかと照美には、その声は聞こえなかった。
「な、なんでもないよ」
それは、なんでもないという顔ではなかったが、二人は、それ以上、追求することはできなかった。
ゆららは、こう考えていたのである。
―――今日は、夕飯抜きね。
その500円玉は、その日のエンゲル係数そのものだった。なんと安上がりなのことか。一番喜んでいるのは、彼女の母親だろうか。
―――ママ、ごめんね・・・・・・・。せっかく・・・・。
少女は心の中で、母にそっとわびた。彼女が、辛い仕事で稼いだ血と涙が、この小さな硬貨に集約されているのだ。
「それにしても、ゆららちゃん、歌うまいよね。この前のテストの時、驚いちゃった ――」
「そんなことないよ」
少しばかり、声が落ち着いてきたので、照美はほっとした。
「カラオケ、そうとう行ってるんでしょう」
照美は、あいにくと、彼女の家の経済状況を知らなかった。しかし、すぐに表情を凍らせたことから、何かを感じ取っていた。
「実は、すごい秘密があるんだ ―――」
「え? 何?何?」
はるかと照美は、まるで小学生のように、ワラワラと集まってくる。二人の視線は、ゆららの額あたりに集まっている。そこに帯電するように、熱が集まってくる。少女は、このとき、自分が意識を離れて、自身を達観していることに気づかなかった。あたかも、幽体離脱をするように、意識が、肉体から、離れて自己を観察しているのである。
ゆららは、二人の友だちと和やかに談笑している。
――――これは、はたして、真実だろうか。
「わ、わたしね、合唱団に参加しているんだ。でも、みんなには内緒だよ ――」
――――高田さんたちに、見付かったらどんな目に合わされるかわからない。彼女たちには知られたくない。
ゆららは、楽しい時間を過ごしながらも、錯綜する思考に振り回され続ける。
それでも、笑顔を絶やさないようにしなければならない。そうしないと、ふたりをつなぎ止めておけないと考えたのだ。どうして、素直に、笑顔でいられないのだろう。
少女は、普通の人間がしなくていい苦悩に、頭を悩ませていた。
友だちに囲まれて、しぜんに笑えないというのは、どう考えてもおかしい。まるで、常に銃を突きつけられているように、ぎこちない。あまりに、情けない気持ちに陥るのだった。
「でも、だから上手いんだね、ゆららちゃん」
これは、けっして、照美のお世辞ではない。母親の薫陶を得て、音楽を嗜んできたゆえの、言葉である。
「そ、そんなこと・・・・・」
――――海崎さんはすごい。
そう言いかけて、それ叶わないことがわかった。実は、音楽の実技テストを休んだために、彼女の歌声を聞くという恩恵に浴することができなかった。そして、その台詞を言うことができなかった。だから、聴いてもいない歌声を誉めることはできなかった。しかし、普段から、ピアノを受業で弾いていたので、その技術の確かさは、熟知していた。
「ほら、ついたよ」
店頭にでかでかと貼られた「1時間、470円」という謳い文句が、ゆららを安心させた。
ヨーロッパ辺りの宮殿を、モチーフしたと、大声で言うのも憚られる。そんな陳腐な外見は、二人に何の感慨も与えなかった。
しかし、ゆららは、感動しまくっていた。
「どうしたの? 早く中に入ろう」
固まってしまったゆららの背中をポンと押す。すると、まるでおもちゃのボタンを押されたかのように、きらきらと笑い出す。それが、例え、不自然だったとしても、照美は、それを単純に、受け入れることにした。
受付への対応は、はるかが引き受けていた。彼女は、今年大学に入ったばかりだったが、どのように、三人を見ただろうか。たしかに、受付などという職種は、多くの客を相手にする。しかし、記憶の何処かに、滞らせる何かを、三人に発見していた。
それは、彼女の主観からすれば、高校生と小学生という奇妙な取り合わせである。姉妹ということもあろうが、どう見ても、三人三様で全く、似通っていない。そのことが、彼女の記憶に残らせた理由であろう。
もちろん、三人とも中学2年生の女の子である。しかし、端からみれば、決して、そのように見えなかった。
―――もしかしたら、後で刑事に事情を訊かれるかもしれないわ。
当然のことながら、女子大生は、もはや、夢見る夢子という年齢ではなかったが、かつてに物語を捏造(つく)っていた。おそらく、この後、何らかの事件に巻き込まれて、目撃者として、警察に遇されることを想像しているのだろう。そのために、次ぎの客を多少なりとも、待たせることになった。
「ちょっと、何をしているんだ!?」
「あ、申し訳ございません ――――」
「おい、そこまで言うことないだろう?」
髪を赤く染め、逆立たせた少年を、嗜めたのは、長身の女性である。黒色のシックなスーツに、細身を包んだその姿は、他の三人とあきらかに一線を画していた。言うまでもなく、他の三人は、少年に大同小異の恰好をしていた。
――――今日は、ほんとうに、変な客が多いわねえ。女教師に、不良少年少女? 何ていう取り合わせよ。
女子大生は、客に対応しながら、思ったものだ。
実は、四人は、同年齢である。
「ねえ、リーダー、オレたち、こんなことしてていいのかな?」
「うまくいかないときは、何をしてもだめなものだ。こんな時はカラオケにかぎる」
「それにしても、地元に戻って、カラオケとはね ――」
「でも、僕は地元やないで、冴さん」
その言い方から、あきらかに少年が、関西人であることがわかる。
「当たり前だ。日本人はそんな言い方はしないさ」
「何? 大阪は日本やないっていうか?」
しかしながら、いかなるときも、口調は柔らかいのが、関西人の特長である。
西宮冴子は、少年を見下ろした。彼は、冴子の肩ほどしか、背丈がない。少年にとってみれば、冴子は生まれながらの犯罪者なのである。159センチほどしかない彼には、冴子は、実に忌むべき存在だったが、その反面、別の世界においては、常に側にいたい、いや、仕えていたいほどに、尊敬している相手であった。
犯罪者と言ったが、それは、彼らの側に発生したのである。表だって、警察が動くとか、マスコミに書き立てられるということには、ならなかったが、道徳的な面においては、それは許されざる犯罪だった。
しかも、それは一番、四人が信頼している人物だったのだ。しかも、冴子にとってみれば・・・・・。
――――しかし、あいつがあんなことに・・・・・・・・。
少年は、おもわず、その言葉が呑みこんだ。それは、四人の間では、タブーだったからだ。
――――冴えさんがヴォーカルやればいいんだよ!
それは、赤い髪の少年の述懐だったが、彼とて、それを音声化する勇気はなかった。
「さあ、歌うぞ!」
冴子は、回廊を歩く足を早めた。壁から、天井、それに床まで、下世話な色にペインティングされている。それは四人が置かれている状況を暗示していた。しかし、冴子をはじめてとしてそれを言葉にする、いや、意識に立ちのぼらせることすら、控えていた。
「何?」
その時、冴子の絶対音感をかすかに、刺激した。それは限られた生き物しか、受け取れない超音波のように、空間を、遠慮がちに飛んでいた。あたかも、冬の小虫のように、見えるか見えないかの、境界を彷徨っていた。それを受け取ったのである。しかし、この時は、それを重大なことと思っていなかった。彼女の頭のなかでは、すでに好きな曲のイントロが始まっていた。歌う意欲に充ち満ちていたのである ――――――この女教師は。
由加里は、可南子に、命じられるままに、そのおぞましい料理を噛み続ける。
「ふふ、よく噛んでから、呑みこむのよ。そうじゃないと消化に悪いからね」
「フグウ・・ウ・・ウ・・ウ」
さらに畳み掛けてくる可南子の言葉に、戦慄すら憶える。由加里は、自分の口が自分のものではないような気がする。今、動いているのは、何ていう器官だろう。何のために上下しているのだろう。
咀嚼しながら、五里霧中の思考を続ける。
「あははは、タルタルソースはどうかしら?」
可愛らしい口の端から、はみ出た精液を見て、おもわず口元が緩む。可南子は、高笑いを響かせる。当然、声を抑えているために、それほど大きな声で笑うわけにはいかない。
しかし、由加里にとってみれば、ロックコンサートのスピーカーに縛り付けられるようなものだ。四方八方から、可南子の笑い声が、響く。それは、由加里の骨にまで染みこんでいく。
「これから、あなたが大好きになるものよ、食事しながら、ココをこんなにしちゃうなんて、さすがに、将来のAV女優ね、あははは」
「アゥウウ・・・・ひぐひぐ!」
由加里に、息つく暇も与えぬとばかりに、可南子の指が、少女の未成熟な性器に触れる。そして、しかる後に、貝を呑みこむ海星のように、その妖しげに長い指を、少女の苺に這わせていく。
「ググググ!、やあ・・・・・」
「ほら、ヤメテほしかったら、ちゃんと完食なさい、ほら、テレビを見てゴラン、あんな細い体で、あれほどの量を食べるのよ。それとも、本心はもっと弄ってほしかったりして! あはははは」
ちょうど、備え付けのテレビの中では、異様な競技が行われていた。可南子の言うとおりに、とても大食とは縁がなさそうに痩身の女性たちが、それぞれ、多量の食物をほおばっているのだ。
テレビの中で行われているのは、いわゆる、大食い大会である。
由加里の目をひいたのは、数居る競技者の中でも、ひときわ、華奢でひ弱そうに見える子だった。まだ、20歳をいくつも越えてないのではないか。見方によっては、少女といってもおかしくない。
たまたま、画面に顔が大写しになったので、由加里もはっきりと見る機会を得た。その卵形の小さな顔には、これでもかと化粧が塗りたくられている。まるで白粉のようだ。
しかし、べつだん、不快な印象をうけないのはどうしてか。ただ、何かから隠れようとする自我の哀しさだけが、異様に、際だつ。
それが、何か、彼女を別の惑星の人間のように見せていた。
由加里は、そこに自分との共通点を見て取った。
しかし、今は、他人の競技の心配よりも、自分もことをこそ気に掛けるべきである。まだ。少女が完食するべき、料理は、お皿の上で風変わりなダンスを踊っているのだ。しかも、吐き気を催すソースがたっぷりと、かけられている。
「はぐうぅ・・・・ぁああううゥゥ・・・・・ぁ」
「ははは、なんていう声を出すの? 何処までいやらしく出来ているのかしら?」
可南子の情け容赦ない指は、由加里の大事な苺を揉んで、ぐちゃぐちゃにしている。すると、中から、いやらしい液が、流れ出してくる。
果汁だ。
苺は、ひしゃげて、あふれる果汁によって、濡れそぼっている。
それを、さらに、ねりつけて、音がするほど、揉みこんでいく。
「あぶぅ・・・・・・・・!!」
おもわす、口の中のものがあふれそうになった。
しかし、そのような汚物で、身体が汚れることは、彼女の清潔感から見て、ありえないことだった。 だから、ひっしに、口の中のモノを押しとどめた。皮肉なことに、口の中ならば、耐えられるという命題が生じるが、それは深く考えないことにした。そう、大便をじかに触れるなどということは、ありえないが、じっさいに、人間はそれに触れているのだ。大腸という器官は、どんなに否定しようが、あなた自身ではないか。どうして、手で触れることは耐えられないのに、大腸ならば、我慢できるのだろうか。人間といういきものは、ほんとうに不思議な動物ではある。
いま、由加里は口腔をとおして、精液に触れているわけだ。
由加里は、しかし、それを考えないことにした。見えないものは存在しない。それが少女の考え出した苦肉の策である。
何の策か?自分をだますこと、要するに欺瞞である。そうしないと、どうかなってしまいそうだったからだ。鼻を突く刺激臭。それは、耐えられないことだが、少女自身の口腔から、催しているのである。 可南子が言うところの、タルタルソースは、じっとりと、唾液と絡み、少女自身の口腔にへばりつく。
可南子に、性器を陵辱されていることと、相まって、まさに強姦されているような気がする。まだ、フィクションでしか知らぬ行為を先取りしているような気がする。
マンガで見た、ある場面を彷彿とさせる。
ある少女が、男子に輪姦されるという、その手の劇画においては、よくある内容だ。
彼女は、犯されている上に、膨張したペニスを頬張らされている。それだけでなくて、艶ややかな髪の毛や、制服にまで、精液をぶちまけられている。
今の由加里は、その少女に酷似していた。
少女の口の中には、精液まみれになった食物が、詰め込まれている。それがペニスと何が違うというのだろう。女の子の大事な部分は、可南子によって蹂躙されている。これも、ペニスに攻め込まれるのと、何が違うというのだろう。
男性的な精神の発露という意味においては、何も変わることはないだろう。
「うぐぐぐィ!!」
さらに、下半身から迫ってくる肉感は、呑みこむことを邪魔する。
しかし、可南子はどう見ても、異性にはみえない。
想像のなかだけの、異性たち。
相手が見えないだけに、想像力をいやでも刺激した。
香取信吾、27歳とは、どのような男性だろうか。
―――そうだわ、子どもが欲しいんだったら、きっと、やさしい人にちがいない。
由加里は、すこしでも、言い方向に物事を考えようとした。しかし ――――。
どすぐろい白濁の臭いは、いやがおうでも、少女を陵辱するアクマのような男性像を彷彿とさせた。
――――ああ、からだが奪われる!
何かわけのわからない力に、身体を絡み捕られる。濁流に、揉まれて、子鹿は、為す術を持たない。茶色に汚れた水が、ありとあらゆる穴に侵入してくる。目や口はおろか、鼻の穴や性器や肛門まで、到るところすべて。逃れる方法はない。
しかし、濁流とても、流木や土石によってせき止められることもある。
そのとき、ドアが開いて、花束がまず由加里の視界に入ってきた。
「あ・・・・ミチルちゃん ―――!?」
由加里は、思わず、口の中をはきだしてしまった。まさに汚物としかいいようのないものが、吐き出される。いままでの努力は水の泡になったわけだ。可南子はほくそ笑んだ。
「・・・・・・・・」
由加里にとって、幸運だったのは、可南子が陵辱を止めたことだ。
二人の前で、それをされるのは、とても耐えられない。
ミチルは、黙って花を持ってき花瓶に活ける。
水を入れて、花をさすという一連の行為が、まるで予定されているように見えた。運動部の決まり切った練習のように、自動的で機械じみている。しかも、目の前で、由加里が食物を吐くという普通ではありえないことを披露されても、一顧だにしない。一連の行動を支障なく実行することだけに、重きを置いているようだ。
「み、ミチルちゃん、貴子ちゃん・・・・・・・・・・」
ほんとうに由加里の声が聞こえないのか。それとも、彼女の構音機能が、異常をきたしているのか。すると、いま、聞こえる自分の声は何なのだろう。単なる錯覚が、もしかして、気が狂ってしまったのか。いや、ミチルと貴子の姿すら、幻像かもしれない。
しかし、二人が幻像だとすると、可南子の反応はどうなのだろう。二人は、彼女とは会釈を交わし合っているではないか。
――――ミチルちゃん、貴子ちゃん、由加里はここにいるのよ! どうして無視するの!?
どんなに無言で、訴えようとも、目によって必死の懇願をさしむけようとも、二人は、可南子の姿しか、目に入らないようだ。
由加里のことは、完全に無視している。あたかも、ここにいないかのようだ。そして、決定的な言葉を吐いたのだ。ミチルである。
「看護婦さん、西宮先輩に、よろしくおねがいします ―――。今、検査でもしているんですか、あえなくて残念です ――」
「ミチルちゃん!!」
ついに、由加里は声を張り上げたが、ついに、全く反応を示さなかった。
「今、検査に行ってるのよ、よく言っておくわ」
可南子も示し合わせに、参加して、演技をしているかのように、ごく自然に、言葉を紡ぐ。
二人とも、単に予め決められた動きを、こなす。それだけのために、来たとでもいうのか。
その様子は、江戸時代に作られた人形のようだった。それは精巧なからくりで製作されているのだ。その人形はお盆を掲げているのだが、それに茶を乗せると、主人のところまでそれを運んでいく。 そして、主人が茶を持ち上げると、元来たところまで帰っていく。
ミチルと貴子は、まさに、その茶坊主人形そのものに見えた。鑞を縫ったように、凍り付いた表情など、その身体の中に仕掛けがあるのではないかと、疑問を抱かせるほどだ。
はたして、そこに心がこもっているのだろうか。
由加里は、しかし、そこに二人の大きすぎる心を感じた。
破裂しそうな風船のように、そこにある、たしかに。しかし、触れることはできない。すこしでも触れたら、病院ごと消し飛んでしまいそうだ。
「ウウ・・ウ・・ウ・ウ・ウウ!」
由加里は、思わず、可南子が側にいることを知りながら。声を上げて泣いた。幼児のように、食べ物をまき散らしながら、そして、それを恥ずかしいという感情も、マヒしていた。おそらく、心をえぐるような悲しみは、麻薬の役割を果たしているのだろう。
「・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・」
しかし、ふたりは何も言わずに、病室を後にしていった。フルーツでも入っていそうなバスケットを置いて。
「み、ミチルちゃん、貴子ちゃん!」
「・・・」
しかし、ふたりは振り向くことはなかった。病室に入ってから、出て行くまで、この間、数分、徹頭徹尾、一貫していた。その機械的な動きは、一見、精神や心というものを感じさせないように思える。だが、その度合いが徹底的すぎるからこそに、裏返しの意味で、精神性が見て取れるのだ。
ふたりの言いたいことは、もうわかっていた。いやすぎるほどに、知っている。しかし、すでにそれを言葉にする気にならない。だから、ふたりは黙っていたのだろう。由加里は、赤ん坊のように顔を拭かれながら、さらに泣いた。その惨めな境遇も、悲しみに拍車を掛ける。
――――しかし、どうして来てくれたのだろう? もしかして別れの挨拶のつもり?! でも、こんなひどいやり方ってないよ!
由加里は、慟哭した。
「ほら、赤チャン、泣かないの!め!」
一体、この人は、どこまで自分を侮辱すれば、気が済むのだろう。
可南子は、さんざん彼女に侮辱のことばを吐きながら、後始末をし終わると去っていった。ちなみに最後の言葉は、「これで、非番もおわりだわ、楽しい休みをありがとうね、赤チャン!」だった。
「ウウ・ウ・・ウ・ウ・ウウ!!」
由加里は泣き声を、心臓の奥へと押し込みながら、苦界をさまよっていた。視界が、涙に滲む。白い世界が崩れると灰色になるらしい。白と黒では、いくら混ざっても色を形成することはない。まるで、いまの由加里の境遇そのものだ。
――――?あんなもの!?
ふと、バスケットが目に入った。ミチルと貴子が置いていったものだ。
ふいに、ものすごい怒りが込み上げてくるのを感じた。
腹立ちまぎれに、投げつけようと思って、手を伸ばす。ただ、ひとつ無事な右手だけだと、うまく摑めない。しかし、不自由な体をよじって、何とか手に入れることができた。すぐに、引き寄せる。意外と重 量があることに、驚く。それでも、なんとか目の前にバスケットを押さえることができた。
バスケットを開けてみると、四角い箱が見付かった。
――――弁当箱?
本能的にそう思った。空腹がそう錯覚させるのだろうか。
――うん?
―――――――バスケットの底に何かある?
それは一枚のノート片だった。
――――何よ、嫌みでも書いてあるの?!それともお別れの言葉!?
それを開いた由加里は、前言を撤回せざるを得なくなった。
―――――――――――――!?
とたんに、白い光が病室中に展開した。
――先輩へ、病院食ってまずいでしょう?食べてください。貴子とふたりで、精一杯つくりました。ミチルより。
この世で、こんなに温かい言葉があるものかと、思った。
はたして、由加里の目の前に展示されたものは、手作りの弁当だった。キャベツの千切りなど、大きさが千差万別で、いかにも、普段、母親の手伝いをしていないことが、明白だが、そのぶん、あふれてくる情愛は、今の由加里には痛いほど感じられた。
メインディッシュは、豚肉のショウガ焼きだった。焼き加減はいいようだが、香辛料が強すぎると言う点において、いくらでもダメだしができそうだったが、かえって、頬笑ましい。
あの不器用なミチルが料理をしている姿を想像すると、温かい笑みがこぼれてくる。いま、自分が置かれている状況など、あさっての世界にうっちゃってしまうのだ。それに比べて、卵焼きの奇麗な色と艶はどうだろう。これはきっと、貴子の技にちがいない。
「ウウ・ウ・ウ・うう、おいしい ―――ウウ!」
由加里は、弁当を頬張りながら、二人がケンカしている様子を見ていた。
「ミチル! 何、考えているのよ!汚いなあ!?ほら、お肉がはみ出てるじゃない!ここは、卵焼きの場所よ!」
「うるさいわね! あんた神経質すぎるのよ!」
まるで、舌にまで、視神経が通っているかのように思えた。たしかに、見えたのである。
「ウウ・ウ・・・ウウウ!ご、ごめんね! ミチルちゃん、貴子ちゃん・・・・・・・・」
由加里は、慟哭しながら思った。米の一粒、一粒まで、深く噛みしめようと、心に決めた。二人の思いを無にしてはならないと、そのために自分は何をしなくては行けないのか、未だに、わからないが、それを探求することは、けっして、止めないと、決意を新たにした。
涙で、滲んで弁当は見えなくなっていた。両者の距離が、現在の二人との間柄をそのまま示しているように思った。
愛おしい二人は、手を伸ばせば触れられるところにいる。
しかし、直接触ることはできない。
両者ともに、思いは接近しているはずなのに、細かな思いが邪魔して、両者を切断している。
由加里はやるせない思いを新たにするのだった。
「ふふ、よく噛んでから、呑みこむのよ。そうじゃないと消化に悪いからね」
「フグウ・・ウ・・ウ・・ウ」
さらに畳み掛けてくる可南子の言葉に、戦慄すら憶える。由加里は、自分の口が自分のものではないような気がする。今、動いているのは、何ていう器官だろう。何のために上下しているのだろう。
咀嚼しながら、五里霧中の思考を続ける。
「あははは、タルタルソースはどうかしら?」
可愛らしい口の端から、はみ出た精液を見て、おもわず口元が緩む。可南子は、高笑いを響かせる。当然、声を抑えているために、それほど大きな声で笑うわけにはいかない。
しかし、由加里にとってみれば、ロックコンサートのスピーカーに縛り付けられるようなものだ。四方八方から、可南子の笑い声が、響く。それは、由加里の骨にまで染みこんでいく。
「これから、あなたが大好きになるものよ、食事しながら、ココをこんなにしちゃうなんて、さすがに、将来のAV女優ね、あははは」
「アゥウウ・・・・ひぐひぐ!」
由加里に、息つく暇も与えぬとばかりに、可南子の指が、少女の未成熟な性器に触れる。そして、しかる後に、貝を呑みこむ海星のように、その妖しげに長い指を、少女の苺に這わせていく。
「ググググ!、やあ・・・・・」
「ほら、ヤメテほしかったら、ちゃんと完食なさい、ほら、テレビを見てゴラン、あんな細い体で、あれほどの量を食べるのよ。それとも、本心はもっと弄ってほしかったりして! あはははは」
ちょうど、備え付けのテレビの中では、異様な競技が行われていた。可南子の言うとおりに、とても大食とは縁がなさそうに痩身の女性たちが、それぞれ、多量の食物をほおばっているのだ。
テレビの中で行われているのは、いわゆる、大食い大会である。
由加里の目をひいたのは、数居る競技者の中でも、ひときわ、華奢でひ弱そうに見える子だった。まだ、20歳をいくつも越えてないのではないか。見方によっては、少女といってもおかしくない。
たまたま、画面に顔が大写しになったので、由加里もはっきりと見る機会を得た。その卵形の小さな顔には、これでもかと化粧が塗りたくられている。まるで白粉のようだ。
しかし、べつだん、不快な印象をうけないのはどうしてか。ただ、何かから隠れようとする自我の哀しさだけが、異様に、際だつ。
それが、何か、彼女を別の惑星の人間のように見せていた。
由加里は、そこに自分との共通点を見て取った。
しかし、今は、他人の競技の心配よりも、自分もことをこそ気に掛けるべきである。まだ。少女が完食するべき、料理は、お皿の上で風変わりなダンスを踊っているのだ。しかも、吐き気を催すソースがたっぷりと、かけられている。
「はぐうぅ・・・・ぁああううゥゥ・・・・・ぁ」
「ははは、なんていう声を出すの? 何処までいやらしく出来ているのかしら?」
可南子の情け容赦ない指は、由加里の大事な苺を揉んで、ぐちゃぐちゃにしている。すると、中から、いやらしい液が、流れ出してくる。
果汁だ。
苺は、ひしゃげて、あふれる果汁によって、濡れそぼっている。
それを、さらに、ねりつけて、音がするほど、揉みこんでいく。
「あぶぅ・・・・・・・・!!」
おもわす、口の中のものがあふれそうになった。
しかし、そのような汚物で、身体が汚れることは、彼女の清潔感から見て、ありえないことだった。 だから、ひっしに、口の中のモノを押しとどめた。皮肉なことに、口の中ならば、耐えられるという命題が生じるが、それは深く考えないことにした。そう、大便をじかに触れるなどということは、ありえないが、じっさいに、人間はそれに触れているのだ。大腸という器官は、どんなに否定しようが、あなた自身ではないか。どうして、手で触れることは耐えられないのに、大腸ならば、我慢できるのだろうか。人間といういきものは、ほんとうに不思議な動物ではある。
いま、由加里は口腔をとおして、精液に触れているわけだ。
由加里は、しかし、それを考えないことにした。見えないものは存在しない。それが少女の考え出した苦肉の策である。
何の策か?自分をだますこと、要するに欺瞞である。そうしないと、どうかなってしまいそうだったからだ。鼻を突く刺激臭。それは、耐えられないことだが、少女自身の口腔から、催しているのである。 可南子が言うところの、タルタルソースは、じっとりと、唾液と絡み、少女自身の口腔にへばりつく。
可南子に、性器を陵辱されていることと、相まって、まさに強姦されているような気がする。まだ、フィクションでしか知らぬ行為を先取りしているような気がする。
マンガで見た、ある場面を彷彿とさせる。
ある少女が、男子に輪姦されるという、その手の劇画においては、よくある内容だ。
彼女は、犯されている上に、膨張したペニスを頬張らされている。それだけでなくて、艶ややかな髪の毛や、制服にまで、精液をぶちまけられている。
今の由加里は、その少女に酷似していた。
少女の口の中には、精液まみれになった食物が、詰め込まれている。それがペニスと何が違うというのだろう。女の子の大事な部分は、可南子によって蹂躙されている。これも、ペニスに攻め込まれるのと、何が違うというのだろう。
男性的な精神の発露という意味においては、何も変わることはないだろう。
「うぐぐぐィ!!」
さらに、下半身から迫ってくる肉感は、呑みこむことを邪魔する。
しかし、可南子はどう見ても、異性にはみえない。
想像のなかだけの、異性たち。
相手が見えないだけに、想像力をいやでも刺激した。
香取信吾、27歳とは、どのような男性だろうか。
―――そうだわ、子どもが欲しいんだったら、きっと、やさしい人にちがいない。
由加里は、すこしでも、言い方向に物事を考えようとした。しかし ――――。
どすぐろい白濁の臭いは、いやがおうでも、少女を陵辱するアクマのような男性像を彷彿とさせた。
――――ああ、からだが奪われる!
何かわけのわからない力に、身体を絡み捕られる。濁流に、揉まれて、子鹿は、為す術を持たない。茶色に汚れた水が、ありとあらゆる穴に侵入してくる。目や口はおろか、鼻の穴や性器や肛門まで、到るところすべて。逃れる方法はない。
しかし、濁流とても、流木や土石によってせき止められることもある。
そのとき、ドアが開いて、花束がまず由加里の視界に入ってきた。
「あ・・・・ミチルちゃん ―――!?」
由加里は、思わず、口の中をはきだしてしまった。まさに汚物としかいいようのないものが、吐き出される。いままでの努力は水の泡になったわけだ。可南子はほくそ笑んだ。
「・・・・・・・・」
由加里にとって、幸運だったのは、可南子が陵辱を止めたことだ。
二人の前で、それをされるのは、とても耐えられない。
ミチルは、黙って花を持ってき花瓶に活ける。
水を入れて、花をさすという一連の行為が、まるで予定されているように見えた。運動部の決まり切った練習のように、自動的で機械じみている。しかも、目の前で、由加里が食物を吐くという普通ではありえないことを披露されても、一顧だにしない。一連の行動を支障なく実行することだけに、重きを置いているようだ。
「み、ミチルちゃん、貴子ちゃん・・・・・・・・・・」
ほんとうに由加里の声が聞こえないのか。それとも、彼女の構音機能が、異常をきたしているのか。すると、いま、聞こえる自分の声は何なのだろう。単なる錯覚が、もしかして、気が狂ってしまったのか。いや、ミチルと貴子の姿すら、幻像かもしれない。
しかし、二人が幻像だとすると、可南子の反応はどうなのだろう。二人は、彼女とは会釈を交わし合っているではないか。
――――ミチルちゃん、貴子ちゃん、由加里はここにいるのよ! どうして無視するの!?
どんなに無言で、訴えようとも、目によって必死の懇願をさしむけようとも、二人は、可南子の姿しか、目に入らないようだ。
由加里のことは、完全に無視している。あたかも、ここにいないかのようだ。そして、決定的な言葉を吐いたのだ。ミチルである。
「看護婦さん、西宮先輩に、よろしくおねがいします ―――。今、検査でもしているんですか、あえなくて残念です ――」
「ミチルちゃん!!」
ついに、由加里は声を張り上げたが、ついに、全く反応を示さなかった。
「今、検査に行ってるのよ、よく言っておくわ」
可南子も示し合わせに、参加して、演技をしているかのように、ごく自然に、言葉を紡ぐ。
二人とも、単に予め決められた動きを、こなす。それだけのために、来たとでもいうのか。
その様子は、江戸時代に作られた人形のようだった。それは精巧なからくりで製作されているのだ。その人形はお盆を掲げているのだが、それに茶を乗せると、主人のところまでそれを運んでいく。 そして、主人が茶を持ち上げると、元来たところまで帰っていく。
ミチルと貴子は、まさに、その茶坊主人形そのものに見えた。鑞を縫ったように、凍り付いた表情など、その身体の中に仕掛けがあるのではないかと、疑問を抱かせるほどだ。
はたして、そこに心がこもっているのだろうか。
由加里は、しかし、そこに二人の大きすぎる心を感じた。
破裂しそうな風船のように、そこにある、たしかに。しかし、触れることはできない。すこしでも触れたら、病院ごと消し飛んでしまいそうだ。
「ウウ・・ウ・・ウ・ウ・ウウ!」
由加里は、思わず、可南子が側にいることを知りながら。声を上げて泣いた。幼児のように、食べ物をまき散らしながら、そして、それを恥ずかしいという感情も、マヒしていた。おそらく、心をえぐるような悲しみは、麻薬の役割を果たしているのだろう。
「・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・」
しかし、ふたりは何も言わずに、病室を後にしていった。フルーツでも入っていそうなバスケットを置いて。
「み、ミチルちゃん、貴子ちゃん!」
「・・・」
しかし、ふたりは振り向くことはなかった。病室に入ってから、出て行くまで、この間、数分、徹頭徹尾、一貫していた。その機械的な動きは、一見、精神や心というものを感じさせないように思える。だが、その度合いが徹底的すぎるからこそに、裏返しの意味で、精神性が見て取れるのだ。
ふたりの言いたいことは、もうわかっていた。いやすぎるほどに、知っている。しかし、すでにそれを言葉にする気にならない。だから、ふたりは黙っていたのだろう。由加里は、赤ん坊のように顔を拭かれながら、さらに泣いた。その惨めな境遇も、悲しみに拍車を掛ける。
――――しかし、どうして来てくれたのだろう? もしかして別れの挨拶のつもり?! でも、こんなひどいやり方ってないよ!
由加里は、慟哭した。
「ほら、赤チャン、泣かないの!め!」
一体、この人は、どこまで自分を侮辱すれば、気が済むのだろう。
可南子は、さんざん彼女に侮辱のことばを吐きながら、後始末をし終わると去っていった。ちなみに最後の言葉は、「これで、非番もおわりだわ、楽しい休みをありがとうね、赤チャン!」だった。
「ウウ・ウ・・ウ・ウ・ウウ!!」
由加里は泣き声を、心臓の奥へと押し込みながら、苦界をさまよっていた。視界が、涙に滲む。白い世界が崩れると灰色になるらしい。白と黒では、いくら混ざっても色を形成することはない。まるで、いまの由加里の境遇そのものだ。
――――?あんなもの!?
ふと、バスケットが目に入った。ミチルと貴子が置いていったものだ。
ふいに、ものすごい怒りが込み上げてくるのを感じた。
腹立ちまぎれに、投げつけようと思って、手を伸ばす。ただ、ひとつ無事な右手だけだと、うまく摑めない。しかし、不自由な体をよじって、何とか手に入れることができた。すぐに、引き寄せる。意外と重 量があることに、驚く。それでも、なんとか目の前にバスケットを押さえることができた。
バスケットを開けてみると、四角い箱が見付かった。
――――弁当箱?
本能的にそう思った。空腹がそう錯覚させるのだろうか。
――うん?
―――――――バスケットの底に何かある?
それは一枚のノート片だった。
――――何よ、嫌みでも書いてあるの?!それともお別れの言葉!?
それを開いた由加里は、前言を撤回せざるを得なくなった。
―――――――――――――!?
とたんに、白い光が病室中に展開した。
――先輩へ、病院食ってまずいでしょう?食べてください。貴子とふたりで、精一杯つくりました。ミチルより。
この世で、こんなに温かい言葉があるものかと、思った。
はたして、由加里の目の前に展示されたものは、手作りの弁当だった。キャベツの千切りなど、大きさが千差万別で、いかにも、普段、母親の手伝いをしていないことが、明白だが、そのぶん、あふれてくる情愛は、今の由加里には痛いほど感じられた。
メインディッシュは、豚肉のショウガ焼きだった。焼き加減はいいようだが、香辛料が強すぎると言う点において、いくらでもダメだしができそうだったが、かえって、頬笑ましい。
あの不器用なミチルが料理をしている姿を想像すると、温かい笑みがこぼれてくる。いま、自分が置かれている状況など、あさっての世界にうっちゃってしまうのだ。それに比べて、卵焼きの奇麗な色と艶はどうだろう。これはきっと、貴子の技にちがいない。
「ウウ・ウ・ウ・うう、おいしい ―――ウウ!」
由加里は、弁当を頬張りながら、二人がケンカしている様子を見ていた。
「ミチル! 何、考えているのよ!汚いなあ!?ほら、お肉がはみ出てるじゃない!ここは、卵焼きの場所よ!」
「うるさいわね! あんた神経質すぎるのよ!」
まるで、舌にまで、視神経が通っているかのように思えた。たしかに、見えたのである。
「ウウ・ウ・・・ウウウ!ご、ごめんね! ミチルちゃん、貴子ちゃん・・・・・・・・」
由加里は、慟哭しながら思った。米の一粒、一粒まで、深く噛みしめようと、心に決めた。二人の思いを無にしてはならないと、そのために自分は何をしなくては行けないのか、未だに、わからないが、それを探求することは、けっして、止めないと、決意を新たにした。
涙で、滲んで弁当は見えなくなっていた。両者の距離が、現在の二人との間柄をそのまま示しているように思った。
愛おしい二人は、手を伸ばせば触れられるところにいる。
しかし、直接触ることはできない。
両者ともに、思いは接近しているはずなのに、細かな思いが邪魔して、両者を切断している。
由加里はやるせない思いを新たにするのだった。
「お姉さんに話してご覧なさい、何をしていたの?」
「・・・・・・・・・・・・・・」
有希江は、あおいの意図を探るように、針を密かに刺してくる。あおいは、それにどのように対処していいのか、わからずに、黙りこくってしまった。そこで、貝殻に籠もってしまった貝をどうやって吸い出すのか、有希江は、言葉の手練手管を使って、おびき出すことにした。
「ほら、別に恥ずかしいことじゃないからさ ――」
あおいは、有希江の首筋を頭で感じた。仄かな肌の温かみが空気を伝わってくる。それは情愛なのだろうか。あおいは、それに酔ってしまったのか。顔の表面が、熱を帯びてくる。かすかな痒みを感じるほどに、突っ張ってきた。
彼女は初恋の経験はまだないのだが、もしも、そのような体験が存在するとすれば、どのようなものなのか。それは、最近読み始めた小説や、歌詞から、一定の想像は可能だった。
ちなみに、親友である赤木啓子に、読むように誘われたのである。高い知性を有していながら、無駄に遊ばせている親友を見ていて、啓子は歯がゆくなったのだろう。
それはともかく、あおいは初恋なるものに、興味を持ち始めていたころである。もしも、理想的な男の子が側にいたら、心臓がドキドキするのだろうか。顔が真っ赤になるのだろうか。少女は、さきほどの参考文献から、そのような情報を得ていた。
しかし、それが姉によってもたされるなどと、想像だにしなかった。
「ねえ、言っちゃいなさいよ ―――」
「・・・・・・・・・」
有希江の吐息が、あおいの首筋を走っていく。そのいたずらな小人たちは、少女の産毛を逆立てながら、頭へと駈け込む。
「誰にも言わない?」
「うん、大丈夫、口は堅いよ」
有希江は常套句を言ったが、あおいはそうとは受け取らなかった。それは、彼女の人生経験不足を証明しているのかもしれない。有希江は、そんなあおいを以前よりも、はるかにかわいいと感じていた。妹のうなじはほんのりと赤くなっていた。思わず、そこに触れたくなった。さらに口を近づける。
「ひ」
あおいは、予想もしなかった刺激に、驚いた顔を見せた。
「あら、私が嫌いなの?」
「そんな、違う!おどろいただけ!」
あおいは、有希江の反応に驚いた。このままでは、本当に孤立無援になってしまう。有希江は、もはや、この家での唯一の味方なのだ。それを失っては、本当に絶望の海に沈んでしまう。気が付かないうちに、頬が濡れていた。
「あ!?」
少女は、涙を拭こうしたが、有希江に阻止された。両手首を摑まれたのだ。妹を動けないようにしておいて、頬にキスをする。
「ひあ?!」
「アメリカじゃあたりまえのことよ、仲のいい家族ならね」
「家族・・・・・・?」
あおいは、改めてその言葉を噛みしめた。何故か、苦い味が滲んでくる。これまでなら、それは彼女にとって、この世でもっとも美味な存在のはずだった。誰が敵になっても、家族だけは、彼女の味方になってくれるはずだった。
しかし、今、そのことばを改めて、口に含んでみると、その痛い苦みにおもわず顔を歪めてしまう。
「あおいちゃん、可愛いいんだから、そんな顔しちゃだめだよ。台無しじゃない。有希江は、そんなあおいちゃんが大好きだな ―――」
「ぅうああぅ・・・・・」
巧妙にことばで誘い出してみる。
かわいいとは、あおいが小さいころから、言われ続けたことばだ。だから、耳に蛸ができてしまって、その本当の価値を忘れてしまっていた。人間は、甘いものも慣れすぎると、甘く感じなくなるものだ。愛情もそれに似ているかもしれない。
あるいは、そういうあおいに、有希江は知らず知らずのうちに嫉妬していた可能性もある。
有希江は、妹の涙を舐めてみた。当たり前のことだが、それは海の味がした。彼女は海に囲まれた国に住んでいる上に、車を使えば、20分ほどで海に辿り着くことができる。そんな場所に住んできた。しかし、有希江は、何故か、海という言葉が、縁遠い気がするのだ。その字に親しみがわかない。だからと言って、海に嫌な記憶があるというのではない。むしろ、泳ぎは得意であるし、むしろ親しんできたほうだ。
海は、自分の大事なものを阻んでしまうような気がする。その言葉から、いいイメージがわかないのだ。それは、実体験からもたらされたイメージではないような気がする。何やら夢の世界での出来事が元になっているような気がする。
そう言えば、海で何かを無くしたかのような夢を見る。詳しい内容は憶えていないが、意味不明の 喪失感と海という言葉は、常に同居しているのである。
有希江は、あおいにそれを感じていた。
「ここを触っていたんじゃなくて?」
「ひい!いやぁあ・・・・ぁ!」
有希江の手が、あおいの股間を捕まえていた。あおいは、抵抗しようとするが、両手首を奪われているために、身動きひとつできない。できるのは、無駄に蠢くばかりだ。有希江の目には、それは、蜘蛛の巣にかかった可憐な蝶にみえた。可愛いということは、対象をどのように扱っても、自分に害がかえってこないことを意味する。だから、嗜虐の心が起こってくるのだ。本人が意識していようと、していまいと・・・・・・・・・・。
有希江は、さらに質問を続ける。
「言いなさい、何をしていたの?」
「ウウ・・ウ・ウ、こ、ここをさ、触ってると・・・・・・・・・・」
小さな孔に押し込まれたような声。有希江は、さっそく、それを現実世界に引き戻したくなった。
「触ってると?」
「ッ・・・・・ウウ・・・き、気持、気持ちよくなって ――――」
「気持ちよくなって?」
有希江は、まるで被疑者を追いつめる刑事のように、追求の手を休めない。
その顔にはいやらしい笑みが浮かんでいる。しかし、あおいはその顔を拝むことはできない。
少女は、顔を真っ赤にして、背中に迫ってくるプレッシャーに耐えていた。いったい、どんな態度を取れば有希江に嫌われずにすむのだろう。
有希江に嫌われずにすむのだろう。あおいは、今まで使ってこなかった脳のある部分をフル回転させなくてはならなかった。それは、今まで彼女がほとんどしなかったことである。あるいは、しなくてもすんでいたことである。
「ウグググ・・・・・ウウ」
しかし、そんなことを考えている間にも、有希江の手は、あおいの局所を蹂躙する。下着の上から、膣の中にまで侵入されている。
この時、あおいは、その刺激の意味を理解していない。そして、その刺激からくる反作用については、ほとんど知識ゼロのネンネにすぎない。だからこそ、とまどいを隠せないのだ。いったい、自分が何処にいるのかわからない。しかし、それは、いきなり家族から冷水を浴びせかけられた時とは違う。
いま、あおいが弄られているばしょは、彼女にとってみれば、唯一排泄だけの道具だった。それ以外の機能があるとは夢にも思わなかった。だが、今、それ以外の方法で使われようとしている。しかも、自分以外の人間の手によって、無理矢理にその扉をこじ開けられようとしているのだ。これは我慢ができない。しかし、縛りがあるために、抵抗できない。よもや抵抗しようとするが、それは、ほとんど本能的な反射作用にすぎない。
「ここを弄って、どう思ったの?」
「もう、いや!いや!いやああ!ママ!?」
あおいは、激しく抵抗した。それは、有希江の予想を裏切るほどだった。だから ――――。
びしっ!!
一瞬、その場の空気が凍り付いた。
有希江の平手打ちが、あおいに炸裂したのだ。赤い稲妻が走った。
「あ ――――」
あおいは、何が起こったのか分からずに、痴呆老人のように、小さな口を開けたまま、空気を摑もうとした。
「何言ってるのよ! ママだって? もうあんたにはママなんていないのよ! まだわかってないの!?」
「ひい!いやあああ!!」
有希江は、あおいの髪を摑むと乱暴な手つきで、引きずり倒した。しかる後に、彼女の衣服を引っ剥がしはじめたのである。まるで、宇宙服なしで、宇宙空間に放り出されたように思えた。
「やめてぇええええ!! ママあ! 助けて!!ぇええ!!」
ここに来て、なお母親を求めるあおい。その姿に、怒りを憶えると、激しく怒鳴りつけた。
「うるさいわねえ!!」
そして、激しく殴りつける。抵抗が見えなくなったところで、さらに服を脱がし、全裸にしてしまう。
「いやああ!! 有希江姉さん ――――!?」
「ほら、出て行きなさい!」
有希江は、あられもない姿になった妹の腕を摑むと、ベランダに放り投げた。無毛の股間が、有希江の視界に入った。
あおいは、野球のボールのように飛んでいく。投げられた少女は、暗闇を感じた。それは、とても小さく、そして冷たかった。
時間が時間だけに、断崖絶壁に投じられたかのような恐怖を感じる。しかも、真冬の寒さが骨に浸みる。広いベランダは、5センチほども雪で埋まっている。
「ひ!つ、めたい!」
あおいに息をつかせる暇も与えなかった。ふいに、扉が閉まって、おそるべき音が聞こえた。施錠の音である。それは、あおいにとってみれば、ギロチンの刃が落ちる音にも似ていたかもしれない。
「いやあああ!!」
広い榊家の敷地のこと、その上、大樹が外界から家を護っている。他人から、見られることはないかもしれない。
しかし、少女は本能的に胸と股間を隠した。この世のものとは思えない寒さが襲う。それに加えて、全身に羞恥の熱が起きているために、より、寒さを感じるのだ。がちがちと歯が鳴る。
「お、お願い!姉さん、開けて、開けて!寒いよぉ!いうことなんでも聞くから!おねがいぃ!!」
あおいの絶叫が響くが、夜の闇も、降り積もった雪も、答えてはくれない。よもや、有希江は、厚いガラスの向こうにいる。哀れな妹の懇願に耳ひとつ傾けようとしない。
――――あ、有希江姉さん!
しかし、有希江は、こちらに向けて歩み寄ってきた。はたして、開けてくれるのだろうか。まるで、10年も待ち望んできた援軍が来てくれるかのように思った。
「有希江姉さん!」
ダンダンと再び、窓をたたく。手が割れるほどに痛い。息まで凍ってしまいそうな寒さとあいまって、苦痛を二倍にも、三倍にも増加させていた。
「有希江姉さん! あ?!」
そのとき、あおいの目の前で信じられないことが起こった。カーテンが閉められたのである。ガラスごしのために、その音は、よく聞こえないはずだったが、少女の耳ははっきりと、聞こえた。それは少女の両耳を切断する音だった。そして、それは、最後の希望が断ち切れる音だった。
「ウウ・・ウ・ウ・・ウウウ! 」
激しく泣き崩れるあおい。もはや、両足が切断されるような冷たさも痛さも、あまり意味をなさない。 その足指は、真っ赤に晴れて、はたして霜焼けですむのかわからない。
しかし、そんなことも忘れて、窓にすがりついて泣いた。あたかも、それが、彼女の飢えた情愛を満足させてくれるかのように、すがりつづける。
「なんでもする! なんでもするから! 有希江姉さああん! 許して! 許してェエ!大願!ィイイイイ!」
一方、有希江も無傷だったわけではない。その心は、ささくれ立って、よく見るとわずかに血が滲んでいる。
彼女の心は、今や、ふたつに引き裂かれ、路傍を彷徨っていた。あおいと同じように、裸足で真冬の廃墟を、家族の愛を求めて、すがり歩いていたのだ。
「はやく、おはいり・・・・・」
「アア・・アアああ・・あ? ゆ、有希江姉さん?」
有希江は、全裸のあおいを引き入れると、即座に抱きしめた。
―――熱い!熱いヨォオ!
あおいは、一瞬、火傷がするかと思った。彼女の愛撫は、それほどに激しく、今の今まで晒されていた凍土とは、あまりに、温度の差が激しかったのだ。
姉の吐息は、地獄の熱風を思わせた。しかし、それはすぐに、人肌の温かさだとわかった。それにほだされて、さらに涙があふれてくる。
「ごめんね、悪かったわ。だけど、あおいに分かってほしかったの。私は別に、あなたをいじめたいと思ってやったわけじゃないのよ」
「うん、うん、うん、うん、わかる!」
あおいは、あたかも、自分に言い聞かせるように、頷いた。
「じゃあ、わかってくれるよね、さっきのことは別に恥ずかしいことじゃないのよ」
「・・・・・・・・・・ハイ」
少女は、ためらいながらもさらに頷いた。
「わかってくれるのね」
「・・・・・・・・・」
さらに頷くと涙が、床に零れた。
「あ」
「どうしたの? あおいちゃん」
とてつもなく優しい声で、有希江は聞いた。
「き、汚いから、あおいの涙は」
「そ、そんなことないよ!」
有希江は、その涙を小指ですくうと舐めてみせた。そして、その手を、あおいの股間に持って行った。ふいをつかれた少女は、ピンと小さな肢体を浮かせた。その様子が、あまりに可愛らしいので、 有希江は、よりいっそう食欲を感じた。
あおいの小さな肢体は、姉の指が胎内に、入っていく度に、弓なりになり、幼児のようになった。
「本当は、あおいは人魚だったのね」
「あぁぁぁぅ・・・・・・ウウ」
自分の思うとおりに、楽器が音楽を奏でてくれる。これほど、演奏者冥利なことはない。妹は、姉にとって例えようもなく可愛らしい楽器だった。
「うふふ、これを一人でやっていたのね、いけない子」
「そ、そんあ!ぁあううあう!!」
動いたために、よりいっそう、あおいの内奥に、指が侵入することになった。
「そんな、恥ずかしくないって・・・・・・」
「そう? 違うわよ、それは大人の許可を得てからのことよ。まだあなたは赤飯を炊いてもらってないでしょう?だからだめなの。それなのに、こんなことをしたから、嫌われちゃったの」
「そんなあ・・・・・・・・・・・・・」
無知とははたして、罪なのだろうか。あおいの顔は、再び絶望色に染められてしまった。
「でも、お赤飯って食べたことあるよ」
「違うわよ、特別な日のことなの、あなたの体の変化のことよ。まだなのよ」
「ウウ・・ウ・ウ・ウ、じゃあ、どうしたらいいの?有希江姉さん!?」
「だったら、お姉さんのこと、何でも聞く?」
「・・・・・・・・」
言うまでもなく、あおいの返事は決まっている。イエスである。
「私がママたちにとりなしてあげるから、もしも、このままじゃ、一生精神病院に入れられるわよ、それでもいいの?」
「いやだ! そんなの! いや!」
「伯母さんみたいになっちゃうよ」
「え? 伯母さん、もう出て来れないの?」
「かもね ―――」
有希江はかぶりを振った。その態度はあまりにわざとらしかったが、幼年のあおいには、それが理解できなかった。とてつもない不安な状況に、追いやられているとあおいは理解した。もう二度と、あの家族にはもどれない。楽しかった日々は戻らない。さらなる絶望は、あおいを生きながらの地獄を体験させた。
その地獄から這い出るためには、何が必要か。小さい頭ながらに、あおいは、救いを自分の手で求めはじめていた。
「そうならないように、姉さんがとりなしてあげる。実はね ―――」
有希江は、そうやってこれ見よがしに、秘密を、いや、秘密らしきものを明かしはじめた。
夜は全裸の妹と姉という、不思議な絵をどのように見ていたのだろうか。
降り積もった雪は、両者を既視感を以て、見ていたかもしれない。
「・・・・・・・・・・・・・・」
有希江は、あおいの意図を探るように、針を密かに刺してくる。あおいは、それにどのように対処していいのか、わからずに、黙りこくってしまった。そこで、貝殻に籠もってしまった貝をどうやって吸い出すのか、有希江は、言葉の手練手管を使って、おびき出すことにした。
「ほら、別に恥ずかしいことじゃないからさ ――」
あおいは、有希江の首筋を頭で感じた。仄かな肌の温かみが空気を伝わってくる。それは情愛なのだろうか。あおいは、それに酔ってしまったのか。顔の表面が、熱を帯びてくる。かすかな痒みを感じるほどに、突っ張ってきた。
彼女は初恋の経験はまだないのだが、もしも、そのような体験が存在するとすれば、どのようなものなのか。それは、最近読み始めた小説や、歌詞から、一定の想像は可能だった。
ちなみに、親友である赤木啓子に、読むように誘われたのである。高い知性を有していながら、無駄に遊ばせている親友を見ていて、啓子は歯がゆくなったのだろう。
それはともかく、あおいは初恋なるものに、興味を持ち始めていたころである。もしも、理想的な男の子が側にいたら、心臓がドキドキするのだろうか。顔が真っ赤になるのだろうか。少女は、さきほどの参考文献から、そのような情報を得ていた。
しかし、それが姉によってもたされるなどと、想像だにしなかった。
「ねえ、言っちゃいなさいよ ―――」
「・・・・・・・・・」
有希江の吐息が、あおいの首筋を走っていく。そのいたずらな小人たちは、少女の産毛を逆立てながら、頭へと駈け込む。
「誰にも言わない?」
「うん、大丈夫、口は堅いよ」
有希江は常套句を言ったが、あおいはそうとは受け取らなかった。それは、彼女の人生経験不足を証明しているのかもしれない。有希江は、そんなあおいを以前よりも、はるかにかわいいと感じていた。妹のうなじはほんのりと赤くなっていた。思わず、そこに触れたくなった。さらに口を近づける。
「ひ」
あおいは、予想もしなかった刺激に、驚いた顔を見せた。
「あら、私が嫌いなの?」
「そんな、違う!おどろいただけ!」
あおいは、有希江の反応に驚いた。このままでは、本当に孤立無援になってしまう。有希江は、もはや、この家での唯一の味方なのだ。それを失っては、本当に絶望の海に沈んでしまう。気が付かないうちに、頬が濡れていた。
「あ!?」
少女は、涙を拭こうしたが、有希江に阻止された。両手首を摑まれたのだ。妹を動けないようにしておいて、頬にキスをする。
「ひあ?!」
「アメリカじゃあたりまえのことよ、仲のいい家族ならね」
「家族・・・・・・?」
あおいは、改めてその言葉を噛みしめた。何故か、苦い味が滲んでくる。これまでなら、それは彼女にとって、この世でもっとも美味な存在のはずだった。誰が敵になっても、家族だけは、彼女の味方になってくれるはずだった。
しかし、今、そのことばを改めて、口に含んでみると、その痛い苦みにおもわず顔を歪めてしまう。
「あおいちゃん、可愛いいんだから、そんな顔しちゃだめだよ。台無しじゃない。有希江は、そんなあおいちゃんが大好きだな ―――」
「ぅうああぅ・・・・・」
巧妙にことばで誘い出してみる。
かわいいとは、あおいが小さいころから、言われ続けたことばだ。だから、耳に蛸ができてしまって、その本当の価値を忘れてしまっていた。人間は、甘いものも慣れすぎると、甘く感じなくなるものだ。愛情もそれに似ているかもしれない。
あるいは、そういうあおいに、有希江は知らず知らずのうちに嫉妬していた可能性もある。
有希江は、妹の涙を舐めてみた。当たり前のことだが、それは海の味がした。彼女は海に囲まれた国に住んでいる上に、車を使えば、20分ほどで海に辿り着くことができる。そんな場所に住んできた。しかし、有希江は、何故か、海という言葉が、縁遠い気がするのだ。その字に親しみがわかない。だからと言って、海に嫌な記憶があるというのではない。むしろ、泳ぎは得意であるし、むしろ親しんできたほうだ。
海は、自分の大事なものを阻んでしまうような気がする。その言葉から、いいイメージがわかないのだ。それは、実体験からもたらされたイメージではないような気がする。何やら夢の世界での出来事が元になっているような気がする。
そう言えば、海で何かを無くしたかのような夢を見る。詳しい内容は憶えていないが、意味不明の 喪失感と海という言葉は、常に同居しているのである。
有希江は、あおいにそれを感じていた。
「ここを触っていたんじゃなくて?」
「ひい!いやぁあ・・・・ぁ!」
有希江の手が、あおいの股間を捕まえていた。あおいは、抵抗しようとするが、両手首を奪われているために、身動きひとつできない。できるのは、無駄に蠢くばかりだ。有希江の目には、それは、蜘蛛の巣にかかった可憐な蝶にみえた。可愛いということは、対象をどのように扱っても、自分に害がかえってこないことを意味する。だから、嗜虐の心が起こってくるのだ。本人が意識していようと、していまいと・・・・・・・・・・。
有希江は、さらに質問を続ける。
「言いなさい、何をしていたの?」
「ウウ・・ウ・ウ、こ、ここをさ、触ってると・・・・・・・・・・」
小さな孔に押し込まれたような声。有希江は、さっそく、それを現実世界に引き戻したくなった。
「触ってると?」
「ッ・・・・・ウウ・・・き、気持、気持ちよくなって ――――」
「気持ちよくなって?」
有希江は、まるで被疑者を追いつめる刑事のように、追求の手を休めない。
その顔にはいやらしい笑みが浮かんでいる。しかし、あおいはその顔を拝むことはできない。
少女は、顔を真っ赤にして、背中に迫ってくるプレッシャーに耐えていた。いったい、どんな態度を取れば有希江に嫌われずにすむのだろう。
有希江に嫌われずにすむのだろう。あおいは、今まで使ってこなかった脳のある部分をフル回転させなくてはならなかった。それは、今まで彼女がほとんどしなかったことである。あるいは、しなくてもすんでいたことである。
「ウグググ・・・・・ウウ」
しかし、そんなことを考えている間にも、有希江の手は、あおいの局所を蹂躙する。下着の上から、膣の中にまで侵入されている。
この時、あおいは、その刺激の意味を理解していない。そして、その刺激からくる反作用については、ほとんど知識ゼロのネンネにすぎない。だからこそ、とまどいを隠せないのだ。いったい、自分が何処にいるのかわからない。しかし、それは、いきなり家族から冷水を浴びせかけられた時とは違う。
いま、あおいが弄られているばしょは、彼女にとってみれば、唯一排泄だけの道具だった。それ以外の機能があるとは夢にも思わなかった。だが、今、それ以外の方法で使われようとしている。しかも、自分以外の人間の手によって、無理矢理にその扉をこじ開けられようとしているのだ。これは我慢ができない。しかし、縛りがあるために、抵抗できない。よもや抵抗しようとするが、それは、ほとんど本能的な反射作用にすぎない。
「ここを弄って、どう思ったの?」
「もう、いや!いや!いやああ!ママ!?」
あおいは、激しく抵抗した。それは、有希江の予想を裏切るほどだった。だから ――――。
びしっ!!
一瞬、その場の空気が凍り付いた。
有希江の平手打ちが、あおいに炸裂したのだ。赤い稲妻が走った。
「あ ――――」
あおいは、何が起こったのか分からずに、痴呆老人のように、小さな口を開けたまま、空気を摑もうとした。
「何言ってるのよ! ママだって? もうあんたにはママなんていないのよ! まだわかってないの!?」
「ひい!いやあああ!!」
有希江は、あおいの髪を摑むと乱暴な手つきで、引きずり倒した。しかる後に、彼女の衣服を引っ剥がしはじめたのである。まるで、宇宙服なしで、宇宙空間に放り出されたように思えた。
「やめてぇええええ!! ママあ! 助けて!!ぇええ!!」
ここに来て、なお母親を求めるあおい。その姿に、怒りを憶えると、激しく怒鳴りつけた。
「うるさいわねえ!!」
そして、激しく殴りつける。抵抗が見えなくなったところで、さらに服を脱がし、全裸にしてしまう。
「いやああ!! 有希江姉さん ――――!?」
「ほら、出て行きなさい!」
有希江は、あられもない姿になった妹の腕を摑むと、ベランダに放り投げた。無毛の股間が、有希江の視界に入った。
あおいは、野球のボールのように飛んでいく。投げられた少女は、暗闇を感じた。それは、とても小さく、そして冷たかった。
時間が時間だけに、断崖絶壁に投じられたかのような恐怖を感じる。しかも、真冬の寒さが骨に浸みる。広いベランダは、5センチほども雪で埋まっている。
「ひ!つ、めたい!」
あおいに息をつかせる暇も与えなかった。ふいに、扉が閉まって、おそるべき音が聞こえた。施錠の音である。それは、あおいにとってみれば、ギロチンの刃が落ちる音にも似ていたかもしれない。
「いやあああ!!」
広い榊家の敷地のこと、その上、大樹が外界から家を護っている。他人から、見られることはないかもしれない。
しかし、少女は本能的に胸と股間を隠した。この世のものとは思えない寒さが襲う。それに加えて、全身に羞恥の熱が起きているために、より、寒さを感じるのだ。がちがちと歯が鳴る。
「お、お願い!姉さん、開けて、開けて!寒いよぉ!いうことなんでも聞くから!おねがいぃ!!」
あおいの絶叫が響くが、夜の闇も、降り積もった雪も、答えてはくれない。よもや、有希江は、厚いガラスの向こうにいる。哀れな妹の懇願に耳ひとつ傾けようとしない。
――――あ、有希江姉さん!
しかし、有希江は、こちらに向けて歩み寄ってきた。はたして、開けてくれるのだろうか。まるで、10年も待ち望んできた援軍が来てくれるかのように思った。
「有希江姉さん!」
ダンダンと再び、窓をたたく。手が割れるほどに痛い。息まで凍ってしまいそうな寒さとあいまって、苦痛を二倍にも、三倍にも増加させていた。
「有希江姉さん! あ?!」
そのとき、あおいの目の前で信じられないことが起こった。カーテンが閉められたのである。ガラスごしのために、その音は、よく聞こえないはずだったが、少女の耳ははっきりと、聞こえた。それは少女の両耳を切断する音だった。そして、それは、最後の希望が断ち切れる音だった。
「ウウ・・ウ・ウ・・ウウウ! 」
激しく泣き崩れるあおい。もはや、両足が切断されるような冷たさも痛さも、あまり意味をなさない。 その足指は、真っ赤に晴れて、はたして霜焼けですむのかわからない。
しかし、そんなことも忘れて、窓にすがりついて泣いた。あたかも、それが、彼女の飢えた情愛を満足させてくれるかのように、すがりつづける。
「なんでもする! なんでもするから! 有希江姉さああん! 許して! 許してェエ!大願!ィイイイイ!」
一方、有希江も無傷だったわけではない。その心は、ささくれ立って、よく見るとわずかに血が滲んでいる。
彼女の心は、今や、ふたつに引き裂かれ、路傍を彷徨っていた。あおいと同じように、裸足で真冬の廃墟を、家族の愛を求めて、すがり歩いていたのだ。
「はやく、おはいり・・・・・」
「アア・・アアああ・・あ? ゆ、有希江姉さん?」
有希江は、全裸のあおいを引き入れると、即座に抱きしめた。
―――熱い!熱いヨォオ!
あおいは、一瞬、火傷がするかと思った。彼女の愛撫は、それほどに激しく、今の今まで晒されていた凍土とは、あまりに、温度の差が激しかったのだ。
姉の吐息は、地獄の熱風を思わせた。しかし、それはすぐに、人肌の温かさだとわかった。それにほだされて、さらに涙があふれてくる。
「ごめんね、悪かったわ。だけど、あおいに分かってほしかったの。私は別に、あなたをいじめたいと思ってやったわけじゃないのよ」
「うん、うん、うん、うん、わかる!」
あおいは、あたかも、自分に言い聞かせるように、頷いた。
「じゃあ、わかってくれるよね、さっきのことは別に恥ずかしいことじゃないのよ」
「・・・・・・・・・・ハイ」
少女は、ためらいながらもさらに頷いた。
「わかってくれるのね」
「・・・・・・・・・」
さらに頷くと涙が、床に零れた。
「あ」
「どうしたの? あおいちゃん」
とてつもなく優しい声で、有希江は聞いた。
「き、汚いから、あおいの涙は」
「そ、そんなことないよ!」
有希江は、その涙を小指ですくうと舐めてみせた。そして、その手を、あおいの股間に持って行った。ふいをつかれた少女は、ピンと小さな肢体を浮かせた。その様子が、あまりに可愛らしいので、 有希江は、よりいっそう食欲を感じた。
あおいの小さな肢体は、姉の指が胎内に、入っていく度に、弓なりになり、幼児のようになった。
「本当は、あおいは人魚だったのね」
「あぁぁぁぅ・・・・・・ウウ」
自分の思うとおりに、楽器が音楽を奏でてくれる。これほど、演奏者冥利なことはない。妹は、姉にとって例えようもなく可愛らしい楽器だった。
「うふふ、これを一人でやっていたのね、いけない子」
「そ、そんあ!ぁあううあう!!」
動いたために、よりいっそう、あおいの内奥に、指が侵入することになった。
「そんな、恥ずかしくないって・・・・・・」
「そう? 違うわよ、それは大人の許可を得てからのことよ。まだあなたは赤飯を炊いてもらってないでしょう?だからだめなの。それなのに、こんなことをしたから、嫌われちゃったの」
「そんなあ・・・・・・・・・・・・・」
無知とははたして、罪なのだろうか。あおいの顔は、再び絶望色に染められてしまった。
「でも、お赤飯って食べたことあるよ」
「違うわよ、特別な日のことなの、あなたの体の変化のことよ。まだなのよ」
「ウウ・・ウ・ウ・ウ、じゃあ、どうしたらいいの?有希江姉さん!?」
「だったら、お姉さんのこと、何でも聞く?」
「・・・・・・・・」
言うまでもなく、あおいの返事は決まっている。イエスである。
「私がママたちにとりなしてあげるから、もしも、このままじゃ、一生精神病院に入れられるわよ、それでもいいの?」
「いやだ! そんなの! いや!」
「伯母さんみたいになっちゃうよ」
「え? 伯母さん、もう出て来れないの?」
「かもね ―――」
有希江はかぶりを振った。その態度はあまりにわざとらしかったが、幼年のあおいには、それが理解できなかった。とてつもない不安な状況に、追いやられているとあおいは理解した。もう二度と、あの家族にはもどれない。楽しかった日々は戻らない。さらなる絶望は、あおいを生きながらの地獄を体験させた。
その地獄から這い出るためには、何が必要か。小さい頭ながらに、あおいは、救いを自分の手で求めはじめていた。
「そうならないように、姉さんがとりなしてあげる。実はね ―――」
有希江は、そうやってこれ見よがしに、秘密を、いや、秘密らしきものを明かしはじめた。
夜は全裸の妹と姉という、不思議な絵をどのように見ていたのだろうか。
降り積もった雪は、両者を既視感を以て、見ていたかもしれない。
「ヤグググググッメエエエエエエ・・・・・・」
「あははは、由加里チャンたら、やぎさんになっちゃったの? 」
可南子は、由加里の眼前で、高笑いをする。
彼女の顔に、絶体絶命の4文字が見えた。膣を貫く異物感よりも、精神的なショックの方が強い。 精液を注入されるという恐怖が、少女の華奢な体に侵入しつくす。彼女の美しい肌を詳しく見て貰えばわかると思うが、細かいキメからも、恐怖は、冷や汗のようにあふれている。
可南子は、そのガスを吸って悦に浸っているのだ。自分が支配するペットが嘆き悲しんでいる。その事実をより強める演出の働き、料理で言うならば、スパイスの役割だろうか。
―――妊娠?!
ひとつの単語が、少女の脳裏にある花畑を荒らす。
無条件に、その言葉は恐怖の代名詞になって、少女を苦しめる。それは死のイメージに近い。自分の体が自分のモノでなくなってしまう。そのような妄想を喚起させる。
――アクマ。
呑気にも、可南子にそのような名前を与えていた。ここは戦場で、死地なのだ。圧倒的な敵兵に囲まれた寡兵。それも敵兵は、三食の上に女まで保証されて、意気盛んなのに、こちらは、もう2日も水しか口にしていない。
ちなみに、この前、女に触れることができたのが何時か?それはもう、記憶すら曖昧になほど昔のことだ。
豊潤な兵站と慰み用の女、これは古来から兵法の常識である。洋の東西を問わずに、兵法の識者と呼ばれる人なら、それを高らかに主張している。
ふと、敗者の頭に、光が射した。
「オネウゲウコアダ・・・・」
由加里は、白旗を唇の力を以て、挙げようとしたのである。しかし、猿轡を填められているために、それは言葉にならない。虚しく、涎が吹いただけである。それがあまりに滑稽なために、可南子を笑わせた。
「アハハハ、やぎの次ぎはハマグリかしら? 大丈夫よ、人間の精子とハマグリの卵子じゃ妊娠しないから、アハハハハ」
ここは病院である。
さすがに、笑い声を押さえなければならないようだ。しかし、それ故に裏返った可南子の声は、由加里にさらなる恐怖を与えた。
「ちゃんと着床したら、パパがどんな人なのか、会わせてあげるわ 精薄の愛人なんて、由加里ちゃんにはお似合いね」
相変わらず、可南子の言葉は、人の心の清潔というものからかけ離れている。
それを敏感に感じる由加里だからこそ、自分の保身よりも、他人の名誉が大事になるのだ。今、少女の身の内に起こっている炎は、正義というのではないが、少なくとも、他人への思いやりに満ちていた。
「そんな顔をしていいの? ふふ、淫乱ニンシン中学生のできあがり!」
「ウグググ!」
由加里は、思わず目を瞑った。それだけで、世界がリセットすることができるとでもいうのか。しかし、現実は、由加里をパラダイスに逃避させてくれない。股間に突き刺さった注射器は、いやでも、虎口にいることを報せる。
そして、少女の視界に、可南子が手に力をみなぎらせるのが見えた。妖女の腕は、悪魔的に強ばった。それは、同時に由加里の人生の黄昏を意味する。しかし ――――。
「うぐぐぐはああ!?」
少女は、猿轡を吐き出した。それは彼女の唾液で、濡れそぼっている。清潔なシーツの上に転がった物体は、いかにも不潔に見える。魚の腐った臭いでも漂ってきそうだ。しかし、可南子はそんなものに目もくれない。ただ、今の今まで彼女をいたぶっていた武器をかざすだけである。
「あははははあ! うーーそ!」
さすがに、この時、可南子は笑声を押さえかねた。その理由は、自分がおかれている立場や場所だけに限らない。
それだけ、美少女が見せた表情は、滑稽だったのである。
「あ・あ・・・あ・あ?!」
由加里の視線の先には、注射器がある。それは逆さまになっていて、先の部分を見ている。そこから、白い液体が零れている。間違ってもミルクではない。
――――せいえき?
それは、少女がこの世でもっとも、恐れる液体である。彼女たちを汚し、陵辱し、こともあろうに、アクマの子を妊娠させる。
「・・・・ウ・ウ・ウウ・、ああ、いやああ・・・・・・お、お」
「あはははは、ホントに赤チャンになっちゃったの? 由加里チャンは?!」
いやらしい目つきで、舐め回すように少女を見つめる。大腿から、腰、それに上半身へ、可南子の視線は、ねちっこく少女を視姦していく。
「あははあ、そうだ、赤ちゃんならミルクが必要ねえ?」
「ェ?イグッ・・・・・?!」
突如として、口腔内に痛みを感じた。針で刺されるようなちくちくする感じだ。そして、同時に塩の味を感じた。
「うぐぐうぐうぐ!?」
由加里は、自分の頭部に起こっている事実を、すぐには認められなかった。
しかし、可南子の発言と体感から、いやでも容認せざるをえない。自分の口に精液を挿入されているのだ。
自由なのは右手だけという不自由な体である。そんな彼女の自由を奪うのは、可南子にとって、まさに赤子の手をひねるように容易だった。
「うふふふ、感謝しなさいね、ニンシンは許してあげるんだから、せめてこれくらいは当然でしょう?!」
身勝手な言い分を押しつけておいて、可南子はそのおぞましい器具を、さらに奥に押しつける。
「ぅぐぐぐぐぐ!」
再び、言葉を奪われた少女は、苦痛のあえぎをあげるだけだ。
「たっぷりとお飲み、赤チャン」
「うぐぐぐうぐうっっ!」
酸鼻とはよく言ったものだ。鼻につくのは、酸っぱい臭いである。
この正体は、なんだろう? 由加里は、はじめて味わう臭いと味に、噎せ変える思いだった。嘔吐をひっしに押さえていた。
口と鼻はつながっているわけだから、当然、精液が醸し出す臭気は、少女の幼気な感覚を強姦する。強盗のように、無理矢理に押し入ってくる。
――――イカの焼いたのに似てる・・・・・・・。
由加里は、もうイカを口にすることはできないと思った。お祭りで姉妹とともに、食べた焼きイカの味が蘇る。もうあの時のような楽しい想いをすることはないかもしれない。
少女の頬に、涙が優雅な流線を作るのだった。それは哀しみの涙が奏でる円舞曲である。
水晶のように美しい涙は、しかし、可南子に同情の念をおこさせるようなことはしない。ただ、嗜虐心をよりいっそう、刺激するだけである。
「ねえ、どんな臭いがする?これから、あなたがお世話になる臭いよ、憶えておきなさいね ―――」
少女は、はるかの本によって、『イカ臭い』という隠語を知ってはいた。しかしながら、読書を通じての知識と、実体験では、比較にならない違いある。
由加里の中に戦慄が走る。子どもには、想像だにできない大人の世界への不安と焦燥。それは得体の知れない怪物となって、無防備な少女の肢体に襲い掛かってくる。
今は、未知の恐怖よりも、現実的なそれに対応するので、いっぱいだ。少女の未成熟な口腔内は、おぞましい精液の味で覆い尽くされている。
「はーい、最後まで、よく飲め飲めできましたね ――――」
自分の子どもにもそのように言っていたのだろうか。由加里には、目の前の女性が、人の親だとは信じられない。言うまでもなく、可南子は三人の女の子の母である。
ちなみに、先輩であるかなんは、彼女の所有者のひとりであり、ぴあのは、同級生である。照美の手足になって動いているのは、もう言ったとおりだ。
しかし、当の照美にとって見れば手足ほどにも想っていない。よくて、爪の垢程度にしか見ていない。さらに付け加えてれば、そのことに、いっさい気づいていないのである。彼女の人間の程度というものを表しているだろう。
さて、由加里は自分をどのような位置づけで見ているのだろうか。よくって、奴隷。しかし、所有者と名乗られることは、彼女の自尊心と自立心を、いたく傷付けたにちがいない。
少女は、精液の毒気による嘔吐に苦しんでいた。
「ういげええぇえ ―――」
「あら、吐いちゃだめよ、もしも、吐いたら、スポイトで吸い取ってまた飲ませますからね」
白衣のアクマは、さらりと残酷なことを言った。
「これから、食前酒にしてもらうんだから、いい加減その味に慣れてもらわないと」
「そ、そんな!?」
由加里の口の端から、ミルクが零れているのを見て、可南子はほくそ笑んだ。
「お、お願いです、う、うがいをさせてください」
「何を、冗談言っているの?」
可南子は、不思議そうに頷くだけだ。その能面みたいな顔の背後に、アクマが存在することを由加里は知っていた。こうしているだけで、ひしひしと感じるのだ。迫ってくる。とてつもないマイナスのエネルギーが、少女の心臓を凍らせるのだ。
「・・・・・・・・」
がらがら・・・・。
その時、非生物的な音が、廊下から転がってきた。
「あら、夕食が届いたようね」
この病院の夕食は早い。まだ5時半を回ったばかりである。
個室の外からは、あわただしい空気が侵入してくる。いろんな人たちの働く物音が聞こえる。
由加里の見えないところで、何か大きなことが動いているような気がする。
まるで、病院が一つの機械で、少女は、それに連結した部品のようである。病院に連動して、由加里もまた動く。ちょうど、歯車の大小の関係のように。
「ありがと、私が処理するから ―――」
同僚、いや、後輩だろうか、看護婦からワゴンを受け取ると、彼女を柔らかに追い出した。すると、施錠して、由加里に向き合った。
「たくさん食べないと、骨がつながらないわよ、由加里赤チャン」
「・・・・・・・・・?!」
由加里は、恥辱のあまり、キッとにらみ返す。少女の瞳は、切れ長だが、柔らかさを同時に備えている。そこからは、知性とともに涙があふれている、唇には内出血の症状が見て取れる。
「・・・・・・・・・・」
「どう?今日の夕御飯は何かしら?へえ、チキン香草風に、コンソメ風、どんな味するのかしら」
可南子は、スプーンを手にすると、味見をはじめた。
「あら、塩味が足りないわねえ、赤チャンは、別に透析患者じゃないんだし。これじゃだめだわ」
彼女は、ごそごそとポケットの中を漁る。
「ああ、あったわ、用意しておいてよかったわ」
「ま、まさか?」
少女は、彼女が取り出したものを見て、心底驚いた。試験管のような器具のなかには、白い液体が蜷局を巻いていた。
「察しがいいよおねえ ―――」
可南子は、由加里の顔が青ざめる様子を見て、心から満足そうな顔をした。それを返された少女は、さらに青を濃くした。
「いやです!? そんなの!? ウウウ・・・・ウ・ウ・!」
「あなたのお口には、一体、何がこびりついているのかしら?」
「ウウ・・・ウ・ウ・ウ・ウ! どうして、ひどい! ウウ・ウ・・ウ・ウ・ウウウ?!」
「だだっ子みたいに、いつまでも泣いていないの、さあ、お食事にするわよ、由加里赤チャン!!?」
「その、ウウ・・ウ・ウ・・うう!ああ、赤ちゃんってやめてください! イウウウ・・ウウ・ウ!?」
「鏡で見てみる?!」
可南子は、手鏡を由加里に見せた。
その小さな四角形には、まるで幼児のように泣きじゃくる少女が映っていた。とても、見ていられない。即座に目を背けた。可南子は、可愛らしい長い睫が涙を含むのを見た。それをとても可愛らしいと思った。
「これが赤チャンじゃなくって、何を赤チャンって呼ぶのかしら? ほら、行儀よくなさい、はしたない子ねえ」
可南子は、トレイを携帯テーブルの上に乗せと、唯一、自由な右腕を摑む。そして、したたかにひねり挙げる。可南子の吐息が顔にかかる。濃い化粧は、彼女の体液にまで染み込んでいるのか、吐く息から、そのいやな臭いが漂ってくる。
「さっ、味付けしようね」
「ウウ・・・ウウ・痛い・・・・・うう!」
可南子は、器具を開けると、白濁の液体を垂らす。
「あーあ、レストランみたいにいかないわねえ、この男、薄いのかしら?」
由加里は、見た。薄汚い白蛇が、コンソメスープに入っていくのを。彼は、透明なスープの上で蜷局を巻く。見ようによっては、蚊取り線香にも見える。
「香取信吾、27歳、・・・・・・・・・・・・・・」
まるで、お経のような文々が続く。由加里には、それが理解できないのは当たり前だ。医学用語を解くコードが、少女の脳に組み込まれているはずはない。
「おたまじゃくしの動きが、かなり弱いのね、これじゃ女を孕ませられるわけないじゃなない!?」
可南子は、ここにはいない香取信吾という男に、に怒りをぶつけてみせた。
「世の男どもはさ、不妊の原因が、女にあるっていうけど、けっこうの割合で、奴らに問題があるのよ、わかる?」
「・・・・・・・・・・・・・・イエ」
その言動、行動の両方に渡って、不道徳を画いてきた。病室という本来、白で統一されているべき、画布に、真っ黒な絵の具をぶちまけたのである。そんな可南子の言動に説得力があるはずはなかった。
「わかってるの? 同じ女として怒りがわいてこないの?」
「ハ・・・ハオイ・・はい・・・よく、わかります・・・・」
由加里が、見たのは、納豆のような目つきであるそして、彼女の息からは、何やら得体の知れない臭いが漂ってくる。
ジャガイモのような顔に張り付いたいやしく煌めくものは、少女に不快なデジャブーを感じさせた。
―――そうだ、似鳥先輩。
それは、由加里の所有者のひとりである。少女を自分の性欲のはけ口にしている。そして、それが愛であると誤解している哀れな人間でもある。
由加里は、知るはずもなかったが、この納豆の目つきと臭い生理の臭いは、レズを特長づけるモニュメントだった。
その時期でもないのに、鉄臭い臭いをぷんぷんさせている。男性に嫌われるはずだ。
しかし、もしも、自分の母親が、由加里を手込めにしていると知ったら、どんな顔をするだろうか。可南子は、それを思うと自然に笑いが浮かんでくるのだった。
由加里の目の前で、ミルクが料理に零れていく。
コンソメスープの次ぎは、チキン香草風の番である。
「さしずめ、ホワイトソースというわけかしら? うふふふ」
可南子の人間とは思えない笑声が耳を打つ。由加里は、その声に導かれて、刑に処される罪人である。もはや、何の抵抗もできぬままに、事態を受け入れざるを得ない。その刑が、少女にとって、いかに過酷な罰であっても。
「じ、自分で、たべ、食べられます・・・・・・・!」
由加里は、震えながらも気丈に、訴えた。その目に光る涙を、可南子は美しいと思った。
「ほら、痛くないの?」
「ウアウアウア・・・・い、痛い!ェ痛い!ウウウウウ!!」
少女の眉間に、脂汗が浮かぶ。珠のようなは、やはり、涙と同じように可南子の心の琴線に響く。 さらに、女の嗜虐心は刺激された。
「右手も怪我してるじゃない? それじゃ自分で食べられないでしょう? その代わりに、ママが食べさせてあげる。 由加里赤チャン」
「ウウ・・ウ・ウ・ハイ・・・・・・・・・・」
可南子の刑の宣告に、由加里は頷かざるを得なかった。
「じゃあ、まず、おかずから行きましょうね。はーい、あーんして」
可南子は、自らも口を開けて見せる。そして、しかる後に、鳥肉を箸で摑んだ。そして、ホワイトソースがたっぷりかけられた肉の塊を、そのままの大きさで、少女の口の中入れ込む。
唇は、恐怖と汚物に対する拒否感のあまり、震えていたから、多少は、力を要したもしれない。しかし、圧倒的兵力の前の寡兵。しょせんは、無条件降伏に近かった。
「噛みなさい、ほら、噛むのよ!」
「ヒギイィイイイ・・・・」
ざくっ!!
可南子の激しい叱責に、反応して、由加里の口は、自動的に肉に食い付いていた。さしずめ、パブロフの犬である。
由加里の口の中では、ちょこんと可愛い舌や歯さえ、狼狽の汗を掻いていた。それは、少女の中にあるべき物質ではなかった。その情景は、お嬢様学校に侵入したホームレスを思い浮かべてもらえばよい。要するに完全に異物であり、排除されるべき汚物だ。
とたんに、腐った塩の味が口中に広がる。ほとんど、肉の味などしない。精液に負けてしまっているのだ。
かすかに感じる酸味は、由加里が好きなレモンのそれでなく、物質が腐る証拠そのものである。本来、野生の生き物は、酸味の強い、たとえば、柑橘類を好まない。いや、炎を恐れるように、忌み嫌う。由加里は自分の味覚に、本能的な恐怖を感じていた。
あふれてくる涙は、その証拠だ。
長い睫は、気品すら感じさせる。それに涙の粒がいくつも転がっている。まるで、真珠のような肌に重なって、その品の良さを倍増させていた。それは、可南子の売春婦じみた下品な獣性と対をなしていた。
可南子は、由加里に嫉妬を憶えた。
―――このガキは、自分にないものをいっぱいもってる!?なんの努力もしないで!
「何しているのよ! もっと顎を動かすのよ! 美味しいでしょう!?」
「ウグ・・・・・グググぐ!!」
可南子は声を荒げるだけでなく。由加里の右腕を握りつぶそうとした。少女は苦痛に、顔を歪める。
がり・・・・・。
さらに、肉に食い付く由加里。もはや、上品なお嬢さんの姿はそこにはなかった。さながら、むさぼり食う餓鬼のように見えた、