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主人公はu15の少女たち。 主な内容はいじめ文学。このサイトはアダルトコンテンツを含みます。18歳以下はただちに退去してください。
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『マザーエルザの物語・終章 21』
 あおいの脊椎に電撃のような衝撃が走る。
「あおいちゃん! あおいちゃん! 大丈夫なの? 具合悪いの!?」
 なおもエキセントリックな声がトイレ中に響き渡る。床に散りばめられたタイルというタイルに反響して音の芸術を作り出した。
 しかし、それはあおいにとって鑑賞すべき対象ではない。いや、現在少女の内面を形作っている感情が、それを許さないのだ。
 
 全身を凍りつかせるような羞恥心。

 それが今のあおいを支配している感情だ。目の前に存在する現実にどうやって対処していいのかわからずに戦慄している。
「だ、大丈夫だよ・・・・・・け、啓子ちゃん・・・・」
 あおいは、指を性器の中に食い込ませたままやっと人語を発することができた。
「あおいちゃん_?」
「う?!」
 啓子に神経をとられるあまり指を局所に深く食い込ませてしまった。得体の知れない軟体動物の臓物を摑みとってしまった。
 しかも、いやらしい粘液が糸を引く内臓の間を泳ぎ回る。その度に、少女の未成熟な官能は、乱雑に刺激されて、経験したことのない感覚に身を躍らせる。
 しかし、大人の女性のように何処かいちばん感じるのを熟知しているわけではない。
 めちゃくちゃに動かした指がたまたま触れる。その部分によって、官能を感じ取る度合いがちがう。 いわゆる、試行錯誤の段階なのである。幼児が手足を動かして触れながら世界の基礎を知るように、発達心理学が言う、初段階を踏んでいるわけである。
 
 啓子が聞いたくぐもった声。
 
 それはいわば宇宙語だった。このとき、自分が大人の入り口に立っていることに気づくことがなかった。
 ただ、あおいの具合にたいする懸念だけが少女の初々しい脳を支配していた。その年令にしては大人びた性格を有しているとはいえ、しょせんは小学生の女の子にすぎなかった。

「しまった ―――」
 あおいは冷たいドアに頬を押しつけて、火照りを取り除くことにした。
「あおいちゃん!」
「ちょっと、待ってよ!」
 思わず大声を出すあおい。その態度が常ならぬ様子であることは声の様子から明かだった。しかし、壁の向こうに起こっていることを露知らない啓子は、あおいのことを察しようにも察しえなかった。
 自分の親友が隠れて自慰に耽っているなどと、啓子は、想像もできなかったのである。ついでに触れておくと、この時、すでに啓子は自慰という言葉を知っており、自覚してそれを行っていた。自分よりもはるかに幼いと踏んでいるあおいがそれを知っているはずがない、少なくとも、啓子の主観から説明すれば――――の話しだが。
「あおいちゃん、もしかして、アレなの?」
「アレって?」
 あおいはうそぶくことなく返した。本当にわからなかったのである、啓子が仄めかしたことが。言うまでもないことだが、啓子は生理のことを言っているのである。
 もちろん、年頃から羞恥心のあまり言葉を濁したのだ。しかし、もとよりあおいは生理を迎えておらず、その言葉の意味することもわからなかった。
「何よ!?それ?」
 不機嫌そうな声が響いてきた。まるで地獄の底から這い上がってくるように思えた。あまりにガラガラ声だったために、親友のそれだとは思えなかった。
 あるいは時間の彼方から吹いてくる嵐のようにも思えた。それがあまりに距離が遠いために音はそれほど大きくないが、当地では大地が割れて何万人もの人がそこに落ち込んでいく。かつてそこに巨大な城がそびえていたとは信じられないほどに、昔の偉容は消え去ってしまった。
 城が、街そのものが灰燼に帰したのである。二人が共有する遠い異世界が、彼女らに何かを語りかけたのかもしれない。

「大丈夫、おばさん呼ぼうか?」
「ヤメテ! それだけは?!」
「あおいちゃん!?」
 親友の剣幕に、胃を抜かれたような気がした。今まで、自分は榊あおいについて何を知っていたというのだろう。今更ながらに猛省させられる思いだった。それとも何かあったのだろうか。そうでなくては説明がつかない。啓子は無理にでも個室に入り込もうとした。すなわち、あおいが入っている個室の隣に入り、便器を伝って侵入を試みたのである。
 少女は親友の予期せぬ行動に度肝を抜かれた。意表をつかれるとはまさにこのことである。
「ナ!? け、啓子ちゃん!?」
「あお、あおいちゃん・・・・・・?」
 啓子はすばやい身のこなしで颯爽と立ち落ちると、親友を見下ろした。何だか意地悪な気持が胃の中にあふれてくる。それは食道を通って口腔にまで込み上げてくる。
「な、何よ! け、啓子ちゃん・・・・・う?!」
 あおいは蛇に睨まれたカエルのように身をよじった。しかし、狭い個室の中。逃げられる場所はない。自分を顧みると、パンツの中に手を突っ込んで立ち尽くしている。あまりに無様な格好だ。

「あら、何をしていたの?」
 いままであおいに対して感じたことのない感情がふつふつとわき起こってくる。
 ――――これは憎しみ? でも、どうして?
 自分自身にたいしても説明できない感情。
 それは、居心地の悪い椅子に座らされているようなものである。啓子は非常に気持ちの悪い思いに身を悶えさせていた。

――――裏切られた。捨てられた!
「どうして、私が知らないことがあるのよ!?」
 それはどう考えても自己中心的な考えだった。そんなことがわからない啓子ではない。しかし、理性でわかっていても感情が動いてくれない。まるで他人に強制されたように、預かり知らぬ思惟が産まれてくる。

――――お前は裏切って、去っていった。それなら。
「もう知らない!」
「ぁ、啓子ちゃん!? 待って!!」
 あおいは自分に尻を向けて去っていこうとする親友を魚の目で見た。そして、近づいていった。
「じゃあ、何をしていたのか話して! パンツに手を突っ込んで何をやっていたの?」
 右回れ右の要領でふり返った啓子は、あおいが思いも及ばないことを突きつけた。
「・・・・・・・ウウウ」
「どうしたの? 答えられないなら行くわよ。それに私を裏切るなら家に来なくてもいいわよ」
「ウウ・ウ・ウ・・ウ・ウ!?」
 あおいは声を上げて泣き始めた。頬を伝っていく涙は、無言の抗議が含まれていた。そのことに少女じしん、はたして気づいていたのか疑問である。
 しかし、幼い少女の洞察力では真実を摑むのは難しい。少女は立ち往生して事態を見つめることしかできなかった。
 事実、答えようがなかったのも事実である。今、自分が行っていたことの意味も名称も知らないのである。

「わ、わからない・・・ただ?!」
「ただ?」
 啓子は畳み掛ける。詰問の度合いを緩めようとしない。
「さ、さわると変な感じがするの・・・・ウウ・・ウ・ウ」
 言い終わるなり幼児のように泣きじゃくりはじめるあおい。啓子はかぶりを振ると個室の扉を開けた。
「その話しは家でしょう」
「け、啓子ちゃん ――――私」
 啓子は表情を和らげると、まるで恋人にそうするように口吻をあおいの耳に近づけた。そして、しかる後に、こう言ったのである。
「そんなこと、私だってやってるんだよ」
 甘い吐息とともに、何か不思議な感覚が自分の胎内に、産まれるのを感じた。それは既視感の一種だったかもしれない。
 しかしながら、それは懐かしいという一言で表現出来ない何かにまぶされていた。今、目の前にそれが存在し抱きしめることができるように思えたからだ。今、側にいる啓子は、啓子でない何者かのような気がする。しかし、両者は他人ではない・・・・・・・・・。

「何しているのよ、ママたち待ってるわよ」
「うう、うん ――――」
 急いで両手を洗うと啓子を追った。
 
 席に戻ると、そこは相変わらずレストランだった。給仕は客に畏まった表情で注文に対応しているし、趣味の悪いごちゃ混ぜ趣味といえば、相変わらずルイ14世とビアズレイがチークダンスを踊っていた。
 それぞれの娘のことなど露知らぬと言った顔で、久子と祥子は、話し込んでいる。
「あら、ごちそうを待たして何をしていたの?」
 久子はさらりと言ってのけたのである。あたかも今まで起きたことがあおいの妄想にすぎないかのように・・・・・。
 あおいは真っ青になっていた。彼女よりも後に来たのに料理を完全に平らげていることにも、気づかなかったくらいだ。
「あおい、ママはこれで帰ることにするわ、赤木さん、娘をよろしくお願いします」
「ええ」
 祥子はガラリと変わった久子の態度に、すぐには対応できなかった。そして、耳を傾けようとしたとき、既に彼女はいなくなっていた。
 
 遠くで車のエンジンが発動する音。
 
 そして、凍りついた娘だけが残された。

「どうしたの具合がわるいの? あおいちゃん?」
 祥子はごく個性のない呼びかけしかできなかった。
「あ、雨が降ってきたんだね ―――――」
 あおいを呼び覚ましたのは人間の声でなくて、自然の配剤だった。
「みぞれかもね ――――」
 啓子は返した。
 子供たちの夢見がちな態度にあきれたのか、とにかくこの場を離れるように、祥子は切り出した。
「そうだね、でもいいの? あおいちゃん、まだ半分も残ってるじゃない」
「ううん、いい」
 あおいは、現実に戻された不快感を噛みしめながら言った。
「そうだ、あおいちゃん、絵は好きだったよね」
 祥子のとつぜんの申し出に、あおいは戸惑いを隠さない。しかし、しばらくするとある画家の絵が好きなことを思いだした。

「そうだ、この前テレビでやっていた画家の絵が好きです。名前は憶えていないですけど」
「それってNHKでしょう?」
「井上順って言う画家なんだけど、外国人なのよ」
「ああ、そんなこと言ってましたっけ」
「ちょっと、待ってよ。どうして、井上順で外国人なのよ」
 啓子は、すぐに話しに入っていけない苛立ちをストレートに表した。
「本名は、たしかミアエル=ィンギ、ニフィルテラピアの人よ。たしか、自分の過去のことは完全に忘れたいって日本に来たはずよ。それで以下にも日本人っていう名前が欲しいって頼んだらしいわ」
「それがどうして井上順なの?」
「ミアエル=ィンギ? ミアエル?」
 祥子が啓子の質問に答える前に、あおいの動揺ははじまっていた。
 
 あおいにとってみれば聞き慣れない外国語。しかし、少女の何処かでその名前は甘美な思いとともに受け止められていた。それが二日酔いのように、蘇ってきたわけだ。胃から込み上げ来るものに、少女は吐き気を憶えた。
 テレビで視たときには、それほどに印象的でなかったのである。それが、今、少女の胸に響き、その体躯を叩き割ろうとしている。これはどうしたことだろう。
「行こうよ、行きましょうよ!」
「え!? う、うん」
 自分から提案しておきながら、面食らった色に顔を塗り直してしまった。
「啓子、いいでしょう?」
「うん・・・・・」
 何処か投げやりに答えた。実は、親友とは違う意味で、啓子も身の内の動揺を隠せずにいた。叩いてはならない扉を叩いてしまったかのように思われた。
 しかも、それをしたのは啓子自身ではないのである。入ってはいけない部屋に踏み入れてしまいそう。そこにはきっと等身大の鏡があるにちがいないのだ。根拠もないのに啓子はそう感じていた。しかし、明快な反対理由もないので、あえて反論できなかった。








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『マザーエルザの物語・終章』 キャラクター001 榊あおい
『由加里 70』
 病院の夕食は早い。大抵、午後6時には患者のベッドの上にトレイが乗っているものだ。入院患者のために特別に設えられたテーブルだが、その上に物を置くと、頼りなく揺れる。ノートパソコンですら、キーボードを打つたつたびに、年老いたウグイスのように情けない音を出す。それはほぼ悲鳴に近い。
 まるで今の由加里を写し取ったポートレートのようだ。ルノワールのような印象派ではなくて、ルネサンス時代のキリスト教絵画のように、精密、緻密な筆致により人間そのものを紙上に再現した絵画のことだ。
 巨匠の手でリアルに再現されたアイテムたち。
 今、少女の目の前に用意された小道具類はどれを視ても彼女の神経を逆撫でる。トレイ、お椀、スプーン。すべてがかつての記憶を彷彿とさせる。
 由加里は、運ばれてきたトレイに舌鼓を打つわけにはいかなかった。しかし、その記憶は少女の食欲を刺激したことは事実である。毒は時に美味しいという。腐る寸前が美味しい果実もあるらしい。河豚に毒があることを知っていながら、その卵巣を食す珍しい趣味も存在する。
 少女が手を出そうとしている記憶はそのような類だった。震える手をなんとか制御してお椀を摑ませる。
 映写機が回転する音が響く。
 
 ここは病室のはずなのに・・・・・。
 
 赤いランドセルを転がしていたあの日。少女が歩くと幸せな鈴の音がした。
「今日は、私だよ、由加里ちゃんの隣に座るの!」
「いや、私の番だもん!」
 二人の少女が由加里の目の前で争っていた。互いに相手の髪と手を摑みかねない状態である。事態は切迫している。
 しかし、由加里は二人の間でコロコロと笑っている。しかし、二人とも彼女に怒りの矛先を突き出すようすはない。あくまで互いに対して怒りを噴出させているのだ。
「なによ!この前は、あんただったでしょう?今度は私の番よ!!」
「何よ! この前の遠足の時はあんただったわよ!辻堂のね」
 二つの赤いイソギンキャクは互いを罵倒し、まさに一触即発の色は濃くなりつつある。
 これは小学生時代のある昼食前の一こまである。由加里が属する班の子たちは、こぞって少女の隣に座りたがったものだ。彼女はクラスの人気者だったのである。それも、剽軽さで人気を買うような手合いではなく、黙っていても尊敬と敬愛を集めるようなそんな子だった。
 だから、このような事態も由加里はただ黙って見ていればいい。しかし、このとき刺すような視線を贈るある人物に気が付かなかった。それは少女の怠慢だろうか。
 ある少女だけはそう思っていた。
 工藤香奈見。その人である。

―――――香奈見ちゃんはいつも一緒にいるからいいよね。
 由加里は常に、そう思っていた。香奈見は、靴が二足でひとつのように、常に横にいるべき存在だった。少なくとも、由加里はそう思いこんでいた。自宅はまさに目と鼻の先だった。とうぜんのことながら、親たちからは禁止されていたが、ベランダ同士で渡り合うことができたくらいだ。
 由加里は、自分が考えていることを香奈見もまたそうしていると思っていたのである。
 しかし、香奈見は必ずしも共有していたわけではなかった。
 さて、運ばれてきたアルミのトレイは、小学校時代のそれよりも洗練されていてかなりキレイだった。しかし、そのことはまったく由加里の心を鼓舞しなかった。思い出されたイメージのあまりの明るさに目を閉じただけである。
 ちなみに本日の夕食は、コロッケとレバニラ炒め、それにコンソメスープに野菜の煮物だった。栄養的には完璧なのだろう。なんと言っても天下の病院が出す食事なのである。さすがにチーズバーガーにコーラというわけにはいかない。由加里にとってみれば、そのほうが、味のわかりやすさと言った点から視てもよかったかもしれない。
 別に彼女の母親が育児をさぼっているというわけではない。度重なる精神的なストレスによって、味が分かりにくくなっているだけだ。こういうときはたっぷりのケチャップとマスタード、それにピクルスが食欲を刺激し、どんなときでもスムーズに食事を完遂させてくれる。
 しかし、目の前に出現した料理は、病院特有の塩味が決定的に欠けた失敗作である。料理というものはどれほど栄養的に完璧であっても、味が伴わなければ人間の食事という条件にはあわない。動物の栄養補給と人間のそれの決定的な違いはそこにあるのだ。一言で表すと精神性のあるなしとでもなるだろうか。
 由加里はケチャップとマスタードの代わりを記憶の中から呼び出すことにした。
 
 それはまさに一人芝居。自作自演。過去の再現映画である。
 
――――ほら、百合絵ちゃん、ケンカしないでよ、明日はいっしょに食べよう。
――――うん、ありがとう。由加里ちゃんは優しいね。
 涙を拭く友人。由加里はさらに畳み掛ける。
――――これ、食べてもいいよ。
――――いいよ、ありがとう。こんなに美味しいのにごめんね。
 肉きれの乗ったトレイを友人の胸元に示す。
―――――由加里ちゃんは優しいよね、誰かとはまったくちがうわね。
――――そんな、そんなこと言わないで。
 由加里は頼まれてもいないのに、その子を庇う。さきほど百合絵と席を争った経緯がある。
「憶えてないな、あの時、誰だったけ?」
 由加里は自分が庇った子の名前を覚えていない。顔もおぼろげだ。よく憶えていないことからすると それほど個性的な子ではなかったらしい。
 しかし、その表情ははっきりと憶えている。由加里は好意で行ったはずなのに、彼女はあきらかに不満そうな顔をしていた。普段ならば由加里に声を掛けられて喜ばない子がこのクラスにいるはずはないのに。その表情だけがやけに心に残った。由加里の記憶に注意深く焼き付けられたのである。
 今、再度味わってみるとその記憶は、焼きすぎたアジの塩焼きのように口に苦く、脂の部分が腐ったチーズのような味が口の中に侵入してきた。
 今、口に入れたコロッケは同様の味にくるまれていた。味が薄いだけに、嫌な記憶に裏付けされた思いは食べ物に転移しやすい。

―――私を嫌う子なんているはずがないのに!!
 当時の幼い記憶と感情が共に蘇ってくる。
 しかし、それは現在少女が持ち合わせている理性と感情によって検閲され、別のものに生まれ変わる。
 人間は良かれ悪しかれ、年をとるものだ。いつまでも砂糖まみれの菓子を好むわけでない。

―――今は、私を好きになる子なんているはずないか・・・・・・。
 由加里は思わず箸を落としてしまった。朱色の箸は、偽物の漆器はやはり偽物の音しか出すことができない。由加里が共有していた友情は偽物だったのだろうか。濡れ手に泡とはよく言ったもので、簡単に得ることができたと思った友情は泡のようにあえなく消えていってしまった。おもわす両手で整った顔を隠す由加里。
 食物を胃まで送り込むために必要な熱量、そして、それを消化するための熱量。それらすべてが惜しい。今、この身の内で起こっている熱情、あるいは悲嘆。涙、それらすべてを消化するのに使ってほしい。
 熱い!熱い!熱いよ!
 
 由加里は自分の身の内で起こった炎を消すのに戸惑っていた。あるいは、どうしたらいいのかわからずに立ち尽くしていた。もはや劫火は家屋の八割方まで達し、もはやなすべきことはない。まるで両親の救いを求める、いや、求めることすら忘れた幼児のように、頭の中は真っ白になって、立ち尽くしている。
 
 それが今の由加里のすべてである。

「ぁぁぅ・・・・」
 由加里は思わず身をかがめてしまった。彼女の悪い癖が出てしまったのである。感情が行き詰まって、行き所がなくなるとすぐに股間に逃げ込むのである。
 同時に少女の中で、恥ずかしい回想が再会された。

 糸を引く分泌液で自分の指を汚しながら・・・・・。

 今、蠅の唸り声のようないやらしい音を立てながら、映写機が発動する。由加里にとっては死んでもみたくないフィルムがはじまる。


 さて、ここでゆららたちに視線を変更してみよう。
 
 まるでホテルのような受付を抜けると白亜の空間が現れた。それは吹き抜けの天井が相当に高いところまで突き抜ける。おそらくはビルにして5階分の高さはあるのではないか、照美は冷静にそう推測した。
 あゆみは足を踏み入れるなり口を開いた。
「私は一度、部屋に戻るから」
「わかりました ――――」
 はるかは畏まって答えた。その様子が異様におかしかったのか、太陽に槍を突き刺した勇者のような笑い声を上げて、あゆみはエレベータに消えていった。
「さ、イコ。ゆららちゃん ―――」
「あ、ごめんなさい」
 見入っていたのである。まるでヴェルサイユ宮殿のような内装に魂をぬかれる思いだった。と言っても、少女は当所を訪問したことがないので、便宜上に豪家という単語に見合う一般的な用語を取り出しただけである。
「テニスに必要な用具は借りられるからね、靴のサイズを申請しないと ――――。おい、お前も、この口裂け女!」
 照美の容姿に対して何か言える人間はほとんどいない。はるかは乏しい人材のひとりである。
「口裂け女とはね。年齢詐称してんじゃないの? この運動バカ!」
「そういう事を知ってるってだけで十分詐称じゃねえか?」
 ゆららに微笑みが蘇った。この二人を視ているだけで、下手な漫才職人のそれよりも楽しめそうだ。
 はるかは、文句を垂れ流しながらも、二人から聞いたサイズを元に靴を取りに行った。
 
 照美とゆららが残された。アーチ型に区切られたホールは戦前に建設された学校を思わせる。客はまばらで、たまに人が通りすぎるだけである。彼ら一様にふたりに奇異さと好奇心のまじった視線を贈ってくる。
 照美は目の置き所に苦しんでいた。ゆららに対しては非常に複雑な感情を持っていたのである。だが、それはあくまで内面的な気持の問題であって、ゆらら自身に対して不満があるわけではない。
 ただ、自分と明かに境遇が違うあいてに対してどのように振る舞ったらいいのかわからないのだ。
 それは、たとえば、高田のような手合いが相手であれば事は簡単だ。何も斟酌せずに立ち向かえばいい。もしも、照美が、その竜の黄金に輝く鱗のひとつでも開いてしまえば、高田などはあさっての方向に飛ばされてしまうだろう。
 
 照美は思案深げに顎をしゃくった。
 これまで彼女が相手にしてきた人間とは、まったく違うものを、この少女は持っている。それは彼女が生きてきた歴史である。もちろん、具体的なことはわからないが、何かがそこはかとなく伝わってくる。
 ともかく、それを感じるだけの能力を照美は持っていた。そのことが彼女にとって幸福だけをもたらしてきたわけではないが、いま、このとき、彼女に対してその能力を使うべきだと、何者かが語っている。

「ゆららちゃん ―――」
「照美さん」
 照美は、しかし、少女の小さな肩に手をのせるぐらいのことしかできなかった。あふれる感情を表現する技術がない。しかし、未熟な筆であってもどうにか熟練の技術に似せて絵を描くものである。どうにかして、自分の感情を表現しようとしていた。
 だが、ゆららにしてみれば、ただ、照美やはるかがそこにそうしているだけでいいのである。それだけで、今まで歩んできた苦難の思いが安んじていくように思われた。
 照美が常備薬としての役割を果たしているあいだに、はるかと彼女に合流したあゆみがやってきた。
「諸君、お待たせしてもうしわけない ――」
 あまりに場違いな台詞に、一堂は思わず笑いそうになったが、すんでのところで留まった。
 あゆみは周囲にそうさせる見えない力を持っている。
「待っていないではじめていればよかったのに、そうか、はるかがいないとはじまらないか ――――」
 あゆみはラケットを指でさすりながら言った。絵になっている。この場所にいる誰もがそう思った。3人だけでなく用具を運ぶスタッフや犬を連れた客までがあゆみを発見すると一様に同じ顔になった。一瞬で凍りつくとすぐに驚嘆の色に顔が染まる。
 しかし、当のあゆみはまったく無頓着に ――――あくまで3人がそう受けとっただけだが、コートへと歩みを早めるのだった。
「私はウォーミングアップしているからあなたたちやってなさい」
「じゃ、やろうか? 照美?」
「ナ・・?!」
 一瞬だけ、ひるんだ照美。そして、次ぎの瞬間に少女の頭脳は次ぎのような解答を出した。
「ゆ、ゆららちゃん、先でいいよ」
「え ―――?私が?」
 ゆららは仰天の声を上げたが、彼女に拒否という選択肢はなかった。
「・・・・・・・うん」
 照美のアンテナはそれを受け取らないわけがなかった。しかし、それを表に出すわけにはいかない。顎に青い宇宙をたっぷり入れ込むと、照美は表情を元にもどした。
「わかった ―――」
 健気にそう答えるゆらら。
 はるかは、そんな彼女を本当に可愛いと思った。だから、照美のそばを通るときに、囁いたのである、そっと。
――――叩きのめすのが後になるだけさ。
―――何よ、大人げない!?
 これはあゆみと照美の共通了解だった。もっとも、互いに互いの意志を照会し合ったわけではないが・・・・。
 ホールから足を踏み出す。
 回廊のようなホテルの通路を抜けるとテニスコートが6面もある。コートは一面、23メートルもある、それが6っつもあるのだから、相当の広さであることが理解されるだろう。

「さ、そんなに緊張しないで、ゆららちゃん」
 はるかは口を開いた。彼女の声は大きい。23メートルの距離などおかまいなしといった感じだ。ゆららはそんなはるかを羨ましいと思った。少女の前にコートは、まるで10センチもあるコンクリートの壁のように、そこに佇立していた。


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『マザーエルザの物語・終章 20』
「ほら、何をしているの? はやく食べなさいな」
 いち早く到着したハンバーグを目の前にして凝固している娘に、久子は言った。『召し上がれ』ではなく『食べなさい』と言われたことが、余計に涙を誘う。ぷるぷると震えながら涙を拭くあおいを、まるで猫が瀕死の獲物を弄ぶように、取り扱う。

「ほら、醒めちゃうでしょう?」

 久子の優しさはいわばテレビCMの中の母親のそれだ。素人女優の底の浅い演技のように、見え透いている。
 しかし・・・・。
 かえって娘役の少女の方が天才子役ともてはやされるだけ、上手に見えるし、真にも迫ってくる。
 ここで、救いようがないのは久子がすべてを理解した上で芝居をやっているということだ。見え透いた芝居であることは了承しながら、あえてあおいを傷付けるために猿芝居の猿であることを楽しんでいるのだ。なんとも悪魔的なはなしではある。

「ウウ・・・ウ・ウウ」
 食べ慣れたはずのハンバーグを口に運びながら、あおいは呻いた。そのおいしさはあまりにも非現実的だった。口の中でジュワと広がる肉汁の味の深さ。この店特有のタレの濃厚さは1000年経っても朽ちない縄文杉のようだ。
「フフ、にんげん、芝居も必要よ ―――」
「・・・・・・・・・・?!」
 母親の口から飛び出した言葉は、あおいにとってはさらに残酷だった。少女のまろやかな身体に痣が走るのが見える。そのあまりの衝撃のために血管は震え、少女は、その絹のよな身体に、ところどころ鳥肌が立たせている。それでもナイフとフォークを落とさないのは、少女の卑しさのためだと、久子は思った。
「本当に卑しいのね、ここまで言われて食べていられるなんて ―――」
 その声は微風そのものだったが、少女の外耳を突き破り鼓膜を破損させるほどの衝撃を秘めていた。
―――ヒドイ!
 しかし、少女はその言葉を音声化することはできなかった。
 今の今までとうてい言葉にできないようなひどい扱いを受けていたのである。それは一般的に言って、虐待という以外に表現しうる言葉がなかった。
 それはぐっちゃぐっちゃに濡れた粘土に足を突っ込んだようなものである。いったん、入ってしまえば抜けだそうとしても、そうすればそうするほどに抜けられなくなる。水分を相当量吸った靴のせいで、足は重くなり、少女は前につんのめりそうになる。それは少女の筋肉と体力の限界まで負荷を、彼女に追わせる。疲労は意識の減退をもたらし、心まで濡れた泥のような状況に追いつめてしまう ―――。

 粘土のような泥に沈もうとしていた少女の心胆を寒からしめたのは、この状況を彩るには、あまりにも明るい声だった。
「よ、あおい、こんにちは、おばさん」
―――――エ!? 啓子ちゃん!?
 目の前に啓子と彼女の母親が立っている。
 想像もしない展開にどういう表情で答えていいのかわからずに、少女は顔を顰める。
「ちょっと、親友がせっかく来ているのに何よ、その顔は!?」
「ううっん」
 おべんとうつけて何処に行くの?という童謡があったが、それよろしくハンバーグを口の端に付着させながら、言葉を詰まらせる。
 レストラン等でよく見られることだが、親の躾の悪い子供が顔を汚して暴れまわっているのをよく見受ける。しかし、あおいは、そのような悪評から完全に自由である。一般的に騒いでいる子供たちよりも年嵩にもかかわらず、この少女は体躯の芯に凛としたものを確として持っている。
 だからこそ涙を流す姿は、見る人の同情を誘うのだが、何故か榊家の人たちにはそれが通じないらしい。

 あおいは急いで仮面を被らねばならなかった。それも親友の目の前で行わねばならないのである。細工は粒々、仕上げは上々といかなければ、簡単に見抜かれてしまう。
 この時、10歳の少女は、肉体的な苦痛をはるかに凌ぐ乾きを体験することになるのである。悲しみと恥辱を隠して、いつわりの笑顔色に顔を塗りたくることをこの時はじめて知ったのである。
 そして、もう一方の少女は見事な洞察力を持っていながら、それを隠すことを知ったのである。双方ともに、10歳という年令に似つかわしくない白粉を顔にまぶすことで、真意を隠すことを知ったのである。そのふかい意味まで知ることはなかったが、女性にとって一番大切なものが女陰の奥に鎮座ましましているように、何かを隠すことで何かを得ることを憶えたのである。

 母親たちの表面的な挨拶はふたりにとってBGMていどの意味すらなかった。店内に流れているピアノ演奏のほうがよほど耳に入ってくる。
 あおいは、すべてを打ち明けて親友の胸に飛び込んでいきたかった。そして、啓子はそれを受け止めてしまいたかった。親友の顔を自分の胸に埋めて溶かしてしまいたかった。血液と血液、そして骨と骨が互いに交流してひとつになる、それを夢見ていた。お互いの心がお互いの知らないところでひとつになったそのとき、祥子が口を開いた。久子と負けず劣らずの金満家の令夫人なのだが、第三者が受けるイメージはまったく違う。
 前者をあえて表現するならば、良家の世間知らずのお嬢さんということになろうか。現在においては、ほぼ絶滅してしまったと見ていい、いわゆる深窓の令嬢という画である。一方、後者においては、画題『金満家の令夫人』以外の表現はないといってよい。
 しかし、その言葉の持つ冷たいイメージとは裏腹に、隠れた優しさが砂漠の下に眠る泉水のようにあふれている。その事実を啓子は見抜いていた。

――――何かちがうな。どうしたんだろう。
 啓子は違和感を憶えていた。注文した料理にフォークとナイフを構えながら思った。それには根拠がある。あおいがトイレに行こうとしたときにこう言ったのである。
「はしたない子ね、マナー違反よ」
 よく切れるが小さなナイフのような苛烈さを隠して、そう言ったのである。祥子は軽く受け流したが啓子は座り心地の悪さを否定できなかった。記憶の中に棲んでいる彼女と何かが違うことを意識の何処かで読み取っていたのである。

 あおいは、堪えきれない吐き気に悶えながらトイレに足を踏み入れていた。
 高級ホテルのロビーを思わせるような風情。その一角だけを運んできたような豪華な設えは、入ったひとに場違いなとまどいを感じさせる。はたして、自分はトイレに来たのだろうかという疑問を抱くのだ。床には高級なタイルが敷き詰められ、窓枠にはステンドグラスが美女の微笑を浮かべている。足を一歩でも踏み入れたならば、タイルが電子ピアノの音を奏でる。ピンク色のタイルは、少女の顔が映るほどに磨き上げられている。まぶしいほどだ。
 足が滑らぬように、力を入れたのは杞憂だった。滑り止めの処理がしてあるのだ。それを知らぬあおいは両足に力を入れたが、滑りやすいナイロンのタイツを穿いているために、さすがに力を入れにくい。裁判所に引き出された冤罪の被疑者のように、まごつきながらも、個室へと急いだ。張りのある脹ら脛は、タイツのために強調されている。それは少女を性的に強調している。

「うう・・ウウ」
 止め留め無く流れる涙は何を意味するのか。葛藤に次ぐ葛藤に疲れ果てた少女は、自分の身の内に起こったことを洞察できなかった。それが身体保全の本能に基づいていることなど知るよしもない。たとえそのメカニズムを知っていたとしても、それぐらいならば、かえって『榊あおい』というシステムそのものが崩壊することを望んだことだろう。
 同じくらいの少年少女が年に何人かみずから死を選んでいる。その理由は千差万別だろうが、それが同級生によるいじめが原因ならば、あおいが抱えている問題と軌道を一にしていると言えるだろう。
 
 個室に入るなり施錠をすると、脊椎でドアを感じた。これで完全にこの世に存在するのは、榊あおいだけになった。
「ママ・・・・ぁ」
 あおいは最愛の人間を呼ぶと、くぐもった吐息を吐いた。両手が、指が、主人の制御を離れて自然に動く。ただ一点を求めて、自分の身体を這っていく。右肩上がりの成長の、それもたった一歩を踏み出しただけの少女の肌は、珠のようなみずみずしさに満ちている。その精神状態がいくら崩壊の一途を辿っていようとも、更年期のおばさんのように、それがストレートに精神に現れることはない。いま、それは完全にべつのほうほうを取って、初潮前の蕾になる以前の生物体に、出現する、いや、しようとしている。
「ぁぁ・・ウウ!」
 この時、少女は自分が何をやっているのか理解していない。無意識のレベルにおいて了解していることが、意識にはまだ昇っていない。あるいは、それを理性によって解釈する能力を持っていない、それが成熟していないのである。
 それにも係わらず、少女の手と指は完全に理解していた。何を?性を。性の目覚めを。官能の意味はおろか、その存在さえ知らないはずなのに、確実に摑みきっている。少女の手と指は、陰核をたしかに手にしていた。自分のカラダにあるはずなのに、まるで別の生き物の臓物を摑んでいるような気がする。

「ゥヒィ・・・・・ウウ」
 身体に起こっている反応があまりに衝撃的なために、自分のそれだとどうしても認められない。冷房が効いているはずなのに、夜の真珠のような汗がタイルに零れる。そのとたんに、レモンの響きが個室に共鳴しあった。それは涙だった。少女の悲しみは量を絶しているだめに涙腺だけでは、その量を制御できないのだ。
「るぅァァ!?」
 何と、少女の性器は潤んでいる。激しく指を動かすたびに、ぬちゃぬちゃと粘着質の音がする。100匹のナメクジでおむすびを握っている。その一匹、一匹はただ生きるのに夢中でぶるりぶるりと蠢く。
「ぅあぃ・・・」
 少女は自分の中に起こってしまった火を止めようとした。しかし、そうすればするほどにぬらぬらとした炎はその鎌首を擡げる。そして、少女に襲ってくる。みずみずしい少女の大腿は、あきらかに汗でない液体で濡れている。
 その行為は生活に疲れ、自分の精神を蝕む感情の対処を誤って、外に出してしまった青年の行為に似ている。
 昨今、流行している無差別大量殺人、通り魔などという事件はそれに似ている。ただ、自分の身体にそのエネルギーを逆流させるが、本来の流れに従うかの違いである。
 別に通り魔を肯定する気はないが、長い人間の歴史において起こった戦争の根底にあるのは理性ではない。表向きには国益だの正義のためだのキレイ事を述べているが、じっさいにはただ破壊の衝動の現れでしかない。すなわち、戦争がしたくてしたにすぎない。
 ただ、理性が制御を失っていなければ、戦争をする前に勝算があるのか無いのかという計算が予め効く。通り魔などというのは、そういう計算もなしに行ったドンキホーテ的行為である。すなわち、もっとも純粋なかたちの戦争なのである。
 ただ国家という名前を出すだけに無謀な行為が許されるのか。
 勝算がないのに、国民を巻き込んで行う戦争よりも罪深い行動はない。
それは、戦争だけに限らない。事故の正義だけ猪突させ、自分を愛する人間を不幸にする輩は枚挙を厭わない。
 第二次大戦を肯定しようとする人にはそう言う観点が完全に抜け落ちている。

 あおいはしかし、それを自分に対して逆流させた。もしかしたら、あまりに未成熟な理性は、そうすることでしか、自分の身の内で起こった火事を消火する方法を知らなかったのかもしれない。
あおいはただ指を動かし続ける。100匹のナメクジと化した性器を弄り続ける。
「はぁ・・・はぁ・・・ぁ」
 少女はかつて外に出してしまった攻撃のエネルギーを自分にむけてぶっ放していた。
 逃げようとするいきものを逃がすまいと指が動く。
 もはや指とナメクジの区別がつかなくなってきた。あふれてくる粘液のために、少女の指はぬちゃぬちゃになってしまっているからだ。
 しかし、それが少女に余計に官能を与える。ぬらぬらと燃え上がる炎の代わりに、超高速の電撃が身体を縦横無尽に走りまくる。もはや、少女は自分の身体が四散して宇宙の藻くずになると思った。しかし、その中途で防いだのは親友の声と足音だった。
「あおいちゃん、いるの!? あおいちゃん?」



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『由加里 69』
「ねえ、お姉ちゃん、どうしたの?」
 知らない子供がうなだれた由加里に風車をプレゼントしようと差し出した。しかし、少女はそれに気が付こうとせずに、もくもくと自分の世界にはまりこんでいる。この病院では彼女しか知らないはずの過去の世界に、手足だけでなしに、頭まで完全に浸かってしまっている。
「ヘンなの!?」
「ほら、和之くん!」
 これまた知らない看護婦の声が病室の一部を黄色に変えると、子供は風車をベッドの上に投げ入れた。そして、奇妙なものを見る目で少女を見上げると廊下へと掛けだした。

 由加里の回想は延々と続く。いやでも文章を書く者に、自分と直視することからの解放は永遠に訪れない。たとえ、キーボードやペンを叩き割ったとしても、それは訪れないであろう。
 いや、逃げ道を失うだけにかえって反発力を増して、本人に帰ってくることは必定である。人はそれを発狂と呼ぶ。
 由加里は自分が書かされたラブレターのために、南斗太一郎と塚本誠二によって個人的なレッスンを受けるようになった。それをいじめと呼ぶには、少女の自尊心が高すぎた。

 その日も二人のレッスンを受けるべく由加里は、放送室を後にした。

 放送室。

 その単語に特別な印象を受ける人は多いだろう。
 そう、照美やはるかたち四人に、性的ないじめを受ける舞台であり恥辱の地獄である。ちょうど少女の所有権は彼女たちにあったために、時間をずらすことを余儀なくされたのである。
 太一郎と塚本は、由加里にそう伝えられたときに訝しそうな顔をしたが、条件付きで呑みこまざるをえなかった。何故ならば、彼らじしん気づかない性的な衝動に突き動かされていたからである。
 どんな条件を出されても、目の前に差し出された美味しそうな料理を拒否するわけにはいかなかったのである。
 塚本は喉から手が出てくるのをすんでの所で、我慢して、代わりに舌を動かすことに成功した。いささか、軽薄な欲望のために震えてはいたが。

「もしも逃げたらあの手紙、いいね?」
「ハイ・・・・・」
 由加里は消え入りそうな声でそう答えた。
――――女の子に触れられる!!
二人の男子は、その希望をかなえられると思うと、どんなに時間を待つことも厭わない気分だった。
「しかし、神崎センパイだいじょうぶカナ?」
「なに、病欠はだしているじゃないか」
 塚本は自信満々にそう答えた。しかし、内面の恐怖を隠しきれないようだったが・・・・・。
 
 ちなみに、彼らは柔道部に属している。
 向丘第二中学は伝統的に柔道が盛んなことで県中に知られている。公立でありながら越境入学を望む者がいるほどである。
 その柔道部を牛耳っているのは部長である神崎祐介である。身長184センチ、体重89キログラム、堂々たる体躯はとても中学生とは思えない。強面を右左にばらまいて周囲を威圧している姿が日常的に目撃されたものである。
 その彼が、もしも、制服を着ていなければ、生徒として認識されることはないだろう。
 ここで、教師に見えると書かなかったのには理由がある。あまりに柄が悪いからだ。そのまま私服で校内を歩かれたら、学校にまぎれこんだヤクザにしか見えないだろう。校内は蜂の巣を散らしたような騒ぎとなり、すぐさま、警察に通報されるにちがいない。

 県大会優勝の過去を持つこの荒男は、いわゆる体育会系を一筋に突き進んでいた。その道こそが我が道と信じ込んで、たた猪突猛進の最中である。
 おそらく脳のICを撮影したら筋肉しか映らないだろう。
 それはともかく、二人はこれから叶う夢にむかって、ドキマギしていた。この時、二人の痴呆男たちは、背後から怖ろしい虎と狼が忍び寄っているとは夢にも思わなかった。

 神崎祐介、そして、照美とはるか。  

 いずれが虎か狼か。
 
 さて海崎照美と鋳崎はるかは、呼称されるにあたって、どちらを望んだことだろう。
 しかし、いじめの被害者である由加里や、痴呆男たちにとってみればどうでもいいことにちがいない。
 由加里は肩を落として、まるで病傷兵のように廊下に黒い影を写す。心なしか影が薄い。もう自分は死ぬのだろうか。由加里は両手で小さな顔を覆って落ちる涙を防ごうとした。しかし、一滴だけはそれができずに床に落ちてしまった。それは一瞬だけきらめいて、消滅してしまった。真珠のように美しかったが、少女にはなんの意味もない、ただ、悲しみに拍車を掛けるだけである。
「もう、イヤ!」
 放送室で起こったことが少女を再び襲う。いやでも回想のフィルムが見たくないスクリーンに投射される。

「さて、ようこそ西宮さん」
「ハイ・・・・・・・」
 いつものように由加里が正座をすると、照美が笑みを浮かべて言った。少女は自分の所有者に応じる奴隷のように応じた。その声は人間のそれとは思えないほどに、機械じみていた。
 人間は単純に、左脳が優先ならば論理、右脳が優先ならば感情と簡単に決めがちだが、事実はそうでないことがある。あまりに感情が優先されたために、それが凝固してしまったのかもしれない。
「じゃあ、いつものように挨拶してもらおうね」
 優しげな笑みを美貌に乗せる照美、そのかたわらに仁王のように立ち尽くすはるか。そして、その背後に原崎有紀と似鳥ぴあのが控えている。二人の囁くような笑い声は、少女を精神的に痛め付けるのに一躍買っている。
 由加里は恥辱に口を噛みしめながらも、二人に視線を走らせると口を動かした。

「わ、私、にしのみや、ゆ、由加里は、海崎さま、鋳崎さま、そして、原崎さま、似鳥さまの奴隷でおもちゃです。じ、人権のないゴミです。なのに、学校に行かせていただているご恩・・のために、ご、ご主人さ、さま方の、おっしゃることなら、なんでも聞かせていただきます・・・ウウ・・ウ!」
 由加里は有紀から送られたメールを読み上げた、
 照美は意味ありげにほくそ笑んだ。
 人権などという言葉使いが、あまりに笑止だったのである。実は公民という授業において、そのような言葉を習ったばかりだった。まるで中学に入ったばかりの子供が英語を使いたがる軽薄さが、照美の冷笑癖を刺激した。
 しかし、由加里はそのような心の行き違いがいじめっこたちの間になされているなどと洞察する余裕があるわけがない。
 泉のようにあふれてくる感情の対処に忙殺されるだけである。
 自然に涙がこぼれてきた。言葉というものは、本質的に意味を持ち合わせる。決して、単なる記号の羅列に留まるものではない。それは言葉を発する人間の奴隷でいられるわけがない。
由加里が流した涙はそれを意味していた。自分の意志とは違うこと言うために、舌を動かすことを余儀なくされる。その葛藤が流した涙だった。たとえ、記号にすぎないと割り切っても、それは無理だった。
 蛇足だが、このとき、少女は言葉の持つ本質的な意味を知ったのである。

 由加里は、さしずめ鍵盤楽器のようなものである。いじめっ子たちはそれぞれの思いを以て、鍵盤を叩く。少女はそれに従って要求された音を出すだけだ。鋳崎はるかは、少女が想像もしなかったキーを叩いたのだが、楽器はどのような音を出すつもりだろうか。演奏者は、楽器の音色にほくそ笑む。
「じゃあ、とりあえず裸になってもらおうか」
「!?」
 はるかの豪毅な声に動揺する由加里。
 ちなみに、少女は制服を着用することを許されている。もう少しすると命令されなくても全裸になるように『教育』されることになる。
 その日の出来事が、その記念すべき初日になるのだ。

「・・・・!?」
 由加里はキーボードを激しく叩いた。ピアノならば少女の苦悩に答えてくれたかも知れない。しかし、パソコンはごく無機的な操作音しか出すことができない。それは少女の苦悩を笑うだけだ。
 病室はすでに夕食の用意でてんてこ舞いだ。
 しかし、そんな物音は、由加里の耳には響いてこない。彼女だけ別の世界にいて、事態を針が通るほどの孔から、眺めているようだ。完全に現実感がない。いじめの回想のほうがよほど真実味に満ちているだろう。

 照美やはるかたちに、由加里は無毛の股間をさんざん嘲笑された。まるでその吐息が針のようになって股間に突き刺さるように思えた。痛い。ほんとうに疼くような痛みが股間を襲う。
しかし、その日起こったことはそれほど単純ではない。同時に、まったく相矛盾する出来事が少女の精神を引き裂くのである。
 少女の回想は続く。いやでも映画館から立ち去ることも目を瞑ることも許されないのである。
風車を動かすことは少女にはできない相談なのだろうか。彼女の頭の中には、暴風雨が闊歩している。しかし、外界に影響を及ぼすことはないようだった。
 少年が謹呈した風車は、微動だに、しない。

 さて、由加里が見たくもないフィルムに涙を添えているとき、西沢あゆみが運手する車は、テニスコートに到着していた。照美とゆららは不思議そうに目を丸くしている。
二人の目の前には高級そうなホテルが横たわっているだけだった。
「おい、はるか、こんなところにコートがあるのか」
「ああ?」
 めんどくさそうに親友の質問に答えようとする。しかし、あまりにばからしくて答える意味を見いだせないのだ。しかし ―――。
「この中にあるの?」
 ゆららが可愛らしい口を開くと、魔王は機嫌を一変させた。その親友の変わりように相当あきれたのか、照美は美貌を磨り減らせて酸っぱい息を吐いた。
 はるかは、まるで我が家のように、今入ろうとしている建物を紹介する。

「そうさ、会員制でね」
「でも ―――」
「大丈夫さ、特別会員の唇ひとつでどうともなる、ね、あゆみさん」
 はるかは、師匠の顔を見ながら言った。
――――「西沢さん」と「あゆみさん」。どういう風に使い分けているのかな?
 照美ははるかの発言を聞いていて思った。別にどうでもいいことかもしれないが、親友は明かにそれを使い分けているのだ。もしかしたら、気分だけでそうしているのかもしれないが、照美の目には、 両者で呼ぶときの顔つきが微妙に違うような気がするのだ。
 その差異に意味があるのだろうか。照美は両者の会話を聞きながら思った。
「唇ってやらしいわね」
「そういう年頃なんですよ」
「何、ナマ言っているのよ、このガキが」

――――この二人のほうがよほど姉妹みたいじゃない。
 髪を引っ張られて、おもわずつんのめりそうになるはるか。とたんに起こる二人の笑声。それらを端で見物している由加里は思った。
 一方、ゆららは、この人たちと係われば係わるほどに、思ってしまうのだった。

―――私はこの人達とは世界がちがうのだわ。
 家庭の問題からこの年令になるまでまともに旅行すらしたことがない。記憶にあるのは、小学校の 修学旅行で日光に行ったことだけだった。幼いながらに家庭の経済状況を鑑みて、家族には辞退したゆららだったが、母親のせっとくによってやっとのことで旅行に行くことになった。
 賢治の詩ではないが、まさに「ぢっと手を見る」状態だったのである。たまたま真夜中に起きると台所から明かりが漏れている。母親が起きているのだ。盗み見ると、何枚かの干からびた紙幣とコインを目の前にして頭を抱えている。一日中働きどうしの母親は、全身にガタがきているはずだ。その手はまさに賢治の詩そのものの状態である。

―――はたらけど
  はたらけど 猶わが生活楽にならざり
  ぢっと手を見る。

  ちょうど授業でならったフレーズが頭を過ぎると涙が落ちたものだ。

 とたんに、甘い匂いともに優しげな力が右肩にかかった。辛い回想から救ってくれたのは、照美の手だった。
「どうしたの? 暗い顔しちゃって?」
「・・・・」
 とっさのことで返事に窮した。
「きっと、オナカ空いたんでしょう ―――」
 言ってから照美は後悔していた。はるかが睨んでいる。何かを察したのか、このときは目で合図を送ると反論しようとしなかった。ゆららにバレないように話題を換えようとする。
「大丈夫よ、私がオゴってあげるから」
 あゆみの台詞は、はたしてゆららの心を癒やすことができたのか。それは永遠の謎だというべきだ。
 とりあえずゆららは微笑で答えた。
 あゆみは少女の境遇は知らないし、はるかと照美もそれと察しているだけだった。







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『マザーエルザの物語・終章 19』
 何処かの梢の上で泣いている雀。遠くの空に棚引いている雲。
 車窓から見える風景は変わらないのに、そして、車自身が立てる呼吸音も変わらないのに、少女を取り巻く境遇は180度変わってしまった。
 その証拠に彼女の特定席だった助手席ではなくて、バックに座っている。肩を怒らせてちょこんと座る姿は、何処かはかなげで所在なげに見える。

 ――――どうしてなの? ママ?どうしてそんな顔をするの?

 あおいは運転席に座る人物に問うてみたくなった。彼女は少女の遺伝上の母親である。さいきん、精神上のそれを降りると宣言した。その理由は彼女の妹、すなわち、あおいの伯母の突然の入院が原因らしいと姉の有希江が言っているが、定かなことはわからない。母親である久子は黙して語らないからだ。
 あおいは、元母親の顔を盗み見る。サングラスで顔を隠しているとはいえ、相変わらず美しい。金貨の輝きを黒い布では隠しきれないというのと似ている。少女の位置から見ると、サングラスの隙間から、美貌が垣間見えるのである。
「何見ているの? 盗み見なんて、本当にハシタナイ子ねえ」
「・・・・・・・」
 あおいは顔を真っ赤にして俯いてしまった。
 低いうなりを上げるエンジン音は、少女の悲しみと涙を覆い隠してくれない。ごまかしてくれないのだ。少女は高級車に乗っていることを恨んだ。自分のそのような境遇にはじめて疑問を感じた。だから、小さな手で両耳を覆うことで、現実から逃亡しようとする。しかし、意地悪な久子はそれを許すほど寛大ではなかった。

「そんなにママの声が聞きたくないのね、やっぱりあなたは私の子じゃないのね?」
 これほどあおいを動揺させる言葉はないだろう。一体、何を考えているのだろうか。
 あおいは、小さな顔を上げると久子を覗き込んだ。今、たしかに彼女は言った、ママと。
 その残酷なまでに懐かしい響きに、あおいは頭を掃除機に吸い取れるような心持ちになった。
 あたかも飴のように頭を伸ばされて吸い込まれる。ふいに青以外の色彩が消える。視力も声も失い掛けたそのとき、あおいはやっと声を発した。

「ママ?」
 まるで100万人の群衆から母親を見つけた思いがした。
 かつて戦争体験のある有名人が語っていたことだが、彼は10年ぶりに父と出会ったらしい。戦後まもなくのこと、まさに大陸に残された人々が引き上げに躍起になっていたときの話だ。食糧を奪おうとある男を襲った瞬間、声をあげた、肉親を出会ったときに上げるアノ声だ。なんと父親だったのである。テレビでその話しを聞いたとき、あおいは「まさかそんなドラマみたいなことが ―――」と笑ったものである。
 しかし、自分がそのような境遇に陥ると ――――言わんや、二人は性別はおろか、ほんのお泊まり会を別にすれば、一日として夜を過ごす家を別にしたことがないのである。
 それなのに、一方的に肉親としての別れを宣言させた。何の断りもなしに、理由らしい理由も直接告げられずに、生別を突きつけられたのである。それも同居の上に ―――である。
 夫婦ならば同居離婚というのがあるが、この場合はどのように表現すればいいのだろう。とても、啓子に話すことなどできない。説明する言葉を発見できないのだ。

 ――――啓子ちゃん?

 困りに困ったときには、必ずと言っていいぐらいに彼女の顔が浮かぶ。しかし、次の瞬間には、説明できない感情が鎌首を擡げてくる。それはあおいを自在に操ろうとする。自分の記憶でもないものに言いようにされるとはそういうことだ。自分が犯してもいない罪に対して、罪の意識を感じるようなことである。それは、久子に対する感情にも似ているところがあった。

 罪悪感。

 それが少女を絡め、自在に操っていた。それに意思や感情があるならば、あおいはその奴隷に堕ちていたのである。
 本来、それは少女にとっていわれのない罪、いわば、冤罪のはずだった。
 しかし、何処かに説得力がある。
 あおいは、経験したことのない感情に溺れそうになった。次から次からと、大波が迫ってくる。水死しないように凌ぐだけで精一杯だったのである。今も巨大な波が迫ってくる。
「ママ?」
「・・・・・・」

 あおいは幼い顔を向けることでしか、自分の意思を表現できない。しかし、久子はイエスかノーかで答えさせることを望んでいた。
 あおいの幼気な表情からはそれを窺い知ることは不可能だった。だから語気を強めた。
「ママ?!」
「お、オクサマ・・・・・・」
 可哀想な少女はそう答えるしかない。
 それは言葉というよりは単なる記号にすぎなかった。オ、ク、サ、マ、という単なる音にすぎない。右脳を伴わない電算機の声は、せめてものあおいの抵抗だったかもしれない。
 しかし、それは意識して行われたわけではない。むしろ、飛んできたボールに対して手を出すといったごく本能的なあるいは反射的な行動に過ぎなかった。

「ふん、それでいいわ。だけど、今日は特別に許してあげるわ、言ってゴラン。前にみたいにね」
 なんと人を食った言い方だろう。心を弄ぶにもほどがある。そのようにあおいが意識の辺境で思ったことは事実だろう。しかし、ランドセルを背負った小学生に、意識してそれを求めるのは無理なはなしだった。
「ウウ・ウ・・ウ・ウ・・ママ?」
 あおいにとって、それがどれほど残酷なことか。
 久子は意識してそれを行ったのである。血のつながった相手にたいして、自らの腹を十月十日も貸した相手にたいして、唾を吐いてその顔を汚物を踏んだ足で踏みにじったこととほぼ同じだろう。
「ほら、泣かないの。あそこのレストランで昼食にしようか。あおいの好きなハンバーグ食べたいでしょう?!」
「ウウ・ウ・・ウ・・ウ・ウウ!?」
 久子はさらに鞭打つ。もはや立つことも叶わない駄馬に米俵を担げと命じているようなものである。
 あおいは、その小さなカラダで四方八方から迫ってくる鞭に対応している。
 その清らかな白い肌は若いだけに防御反応も強い。だから、オトナよりもはるかに発赤が強い。まるで若葉に傷を付けたときのように芳しい匂いが充満している。初々しい傷口は新鮮な若々しさに満ちていて、その香りは、さらに塩を塗りたくなる欲求を刺激する。

 奔流のように蘇ってくる過去の記憶との格闘で神経がどうかなってしまうかのように思えた。
「ほら、楽しいでしょう? だったら笑いなさい」
 残酷にもさらに言い放つ。
「ウウ・ウ・ウウウ」
「ほら、あおい!ウグ?!」
 急激に締まるシートベルト。それは飛び蛇のように唸りを上げながら、ボンデージスーツのように、少女の柔らかな身体に食い込んだ。
 そう、ブレーキを掛けたのだ。別に事故を起こしたわけではない。目的地に到着したからこそブレーキをかけただけだ。
 この体験は少女の近未来を暗示していた。しかし、この時の彼女にそれを知る余地はない。
 あおいは、苦痛に形の良い眉を歪めながらも大きな瞳に光を湛えた、

 『ステーキハウス、オデット姫』
 少女の視界に可愛らしい文字が飛び込んでくる。
―――ええ?また、あおいの好物?
―――この前も来たジャン! ママったら?!
 とたんに蘇ってきたのは、二人の姉の奇声だった。徳子はまだ中学生で、有希江も小学校高学年にすぎなかった。そんな昔の記憶がいまにも目の前に存在するように聞こえる。ふたりの声帯があたかも目の前に存在するようだ。
 そんな甘い記憶は今となっては、恐竜時代の伝説にすぎない。もはや家の中に自分を温かく迎えてくれる家族はひとりもいないのだ。
「早く降りなさいよ、ハンバーグは待ってくれないわよ!」
かつての久子のそれのように快活な声が、少女の耳に生えている産毛を直撃する。あおいは辛うじて泣くのを堪えた
――――こんなことではいけない。これから啓子ちゃんに出会うんだから! 
 少女は短すぎる足。車をバックにするには、あまりにも足りない足を地面に落としながら思った。
 煌びやかな店のネオンサインが目を打つ。
 いかに苦しくても笑顔を保つことにあおいは馴れなくてはいけなかった。けっして、啓子に影のありかを発見されるわけにはいかない。
 この考え方に根拠があるわけではない。ただ、親友に負担を掛けたくないと言ったあるいみ大人びた理由ではないし、もしくは、単純明快な思考でもない。
 少女の感情が許さなかったのは、もっと不可解な理由だった。まるで多量に水を浸みこませた体育用のマットのように、彼女自身の心は、反応らしい反応を返してくれなかった。
「いらっしゃいませ ―――ぁ 榊さんに、お嬢さん」
 機械仕掛けのフランス人形が人語で迎える。

 榊家の面々はこの高級な店にとって馴染みの客だった。ロココやらバロックやらアールデコやらが、縦横無尽に配された装飾は、見る人に不快な感覚しか与えない。もっとも、見る人にまともな審美能力があればのはなしである。
 パヴァリアの狂王、ルードヴィッヒ2世などが来客したならば感嘆の声を上げたかも知れない。店内に湛えられた湖を泳ぐ白鳥の模型のごときは、彼の幼い審美感を満足させたにちがいない。
 しかし、ここは彼の吐く息が汚したドイツでもなく19世紀でもない。
 すでに21世紀を20年ほども過ぎている。
 しかし、いま榊家で行われている家庭騒動の類は、けっして新しい話しではない。19世紀はおろか、古代ギリシアの悲劇などでも題材とされたモティーフである。
「さて、注文しましょうか。あおいはいつものでいいの?」
 席に案内されると、久子はいつものように応対しようとする。マニキュアの塗り方から
 ネックレスが胸骨に嵌る位置まで、かつての母親のそれとそっくりなのだ。いま、彼女が目の当たりにしているのは、あおいが大好きだった母親そのものだ。あきらかに高い知性を纏った瞳の開き方や、上品なつくりの唇がコケティッシュに歪む様子など、どれもあおいが好きでたまらない、あるいは、慕ってたまらない母親そのものだった、

「うん・・・・・そうする」
 力無く答えたあおい。それは彼女の意思によってではなく、まるで自動機械のように反応した・・・・・・だけのことである。


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『由加里 68』
 南斗太一郎くんへ

 いつも、あなたのこと見ています。授業中も休みもずっとです。体育や家庭科でも、いつも太一郎くんの顔を思い浮かべています。
由加里は、あなたのことが大好きです。
太一郎君のことなら、なんでもできちゃいます。裸になれって言われたら、何時でも、何処でも、なっちゃいます!
好きです!
 お願いです。由加里を恋人にしてください。
             
            あなたの永遠の恋人 西宮由加里より


 なんという下手な文章だろうか。もしも、このような境遇でなかったならば、一笑に付したにちがいない。しかし、これを目の前に提示されたとき、少女はけっしてそのような心境に浸っていられようはずはなかった。
 由加里は、それこそ、血の滲む思いでこの手紙を書き写した。塚本誠二が考えた文面をそのまま紙の上に再現する作業は、恥辱と苦痛に満ちていた。
 二人の少年の背後に、高田と金江の恫喝と嘲笑に満ちた視線が控えている。二人、いや、全クラスメートが吐き出した唾の雨が降ってくる。その屈辱的な冷たさは、由加里を絶望の海に叩き込むだけでなしに、怒りの葡萄を潰し、その中身をまき散らすにちがいない。
 もしも、心に血管があるならばそれは拡張して炎症をつくり、やがて膿に満ちた噴煙をあげるだろう。
 これからは男子にまでいじめられるようになるのだろうか。
 由加里は暗澹たる思いに、自分の心が色づいていくのを感じた。青ざめるとはこういうことか。血の気が引いていくのが手に取るようにわかる。
 これまでは、男子というのはいわば添え物にすぎなかった。由加里を辱め、引き裂くためのおかずではなく副食にすぎない。暴力を震ったり、言葉でいじめたりするのはほぼ100%少女たちの役割であり。男子は側で控えているだけだった。言い換えれば観客にすぎない。
 しかし、劇が劇として成り立つためには、客がやはり必要なのである。その存在は舞台とプリンシパルにとって必要不可欠な存在なのである。由加里は、同性に侮辱され殴られて、床に引きずりおろされるときに、男子の視線を感じる。もしも、それがなかったならば、単なる暴行と位置づけられてしまうかもしれない。彼ら、観客がいることで、由加里いじめはひとつのショーとしての色彩を得ることになったのである。
 その男子が積極的のいじめに参加するというのは、どういうことだろうか。暴力の程度は、女子の比ではない。あまりの怖ろしさに身の毛がよだつ。命の危険すら感じると言っても過言ではない。
 それに性の疼きが少女を襲っているのである。
 由加里は、そのような辱めを受けることで、身体にある変化を憶えるようになった。それは、照
美やはるかたち四人によって性的ないじめを受けるようになったことと、軌道を同一にする。ただし、照美たちに加えられた性的な虐待が由加里のそれを刺激した、あるいは思い起こさせたのか ――――は、はっきりとしない。

 そもそもそのような属性が由加里に内在していたのか、否か、その答えは誰にもわからないのである。
 由加里は、下半身に淡い、あるいは幼い、芽吹きを感じていた。
――― ああ、私ったらこんなときに!?
由加里は、二人にばれないように股間を押さえたものだ。
 照美やはるかたちに性的ないじめを受けている時のことを思いだした。
いやで、いやでもたまらないのに、性器が湿り気を帯びる。もちろん、この時は秘密の花園を剥かれ、嘲笑されることはなかった。少女にとって本当の地獄がはじまるのは、少し後のことである。

 あろうことか少女は性的に敏感になっていたのである。照美とはるかに性的ないじめを受けるようになって、自分の身体が変えられていくことを如実に感じ取っていた。自分の意思とは全くちがうところで、身体が反応してしまう。

―――ああ、私ったらどうなっちゃうの!?
 少女は黒板にむかって問いをぶつけた。彼女が大好きだった彼は何も答えてくれない。もともと聡明な彼女に、彼はいつでも恩恵を与えてくれた。常に教師は誉めてくれたし、生徒からは羨望と尊敬の入り交じった視線を貰い受けた。
 それは大変晴れがましく、そして誇らしい匂いにみちていた。少女にとって心地よいことこの上なかった。それがこの黒板に象徴される時間だ。旧くは小学校一年生から、中学入学、そして、ごく最近まで・・・・・・・。
 現在では、成績優秀というステータスは憎悪の対象でしかない。いじめをさらにエスカレートさせる事由でしかない。
 少女をこの陰鬱な状態から解放したのはチャイムだった。

 解放? 解放だと?
 
 この地獄から別の地獄へと檻舎を移動されるだけだ。例えば、血の池地獄から針の山地獄というぐあいに・・・・・。
 由加里は急いで手紙を隠し、少年二人は舌打ちしてそれぞれの席へと消えた。しかし、四つの目がどれほど陰険な視線を追っていたか。
 由加里は本の中で呼んだクトゥールーの化け物を思い浮かべた。添付されていたイラストには、幾つも目が生えた化け物に、クトゥールーがイラストレイテッドされていたはずだ。

 由加里は病室の一部。
 少女の中で芽生えた、いや、芽生えさせられた作家の才能はいやでも、消したい記憶を呼び覚ます。

―――ああ、鋳崎さん、あなたは悪魔よ!
 由加里は褐色色の悪魔を思い浮かべて、ただおいおいと泣くだけだった。


 ちょうどそのころ、少女に怖れられた褐色の悪魔は、まったくそれらしくない笑顔を満面に満たしてただ、恐縮していた。
 今、四人は地上を時速50キロのスピードで移動している。この車の性能からすれば遅すぎるスピードだが、日本の公道なればしょうがない。

 あゆみの左側、すなわち助手席という監獄で、哀れな囚人を演じている。
「に、西沢さん、リハビリの方はどうなんでしょうか? 大丈夫なのかなあと思って・・・・ヒ!?」
「万全に戻らなかったら、コートに立つはずはないでしょう?!」
「ハイ・・・・・では・・・・」
「そうね、今日は頼むわよ、将来のエースさん」
 はるかは知らないはずはなかった、怪我開けのちのテニスプレイヤーの状態というものを。もしも、怪我をしていなければ、あゆみがこんなところにいるわけはない。プロテニスプレイヤーというものは、常に四大大会その他に参加しているものだ。人にもよるが、オフというのは無いに等しい。
 
 ウィンブルドンで怪我をしたあゆみは、ここ一年ほど満足にコートに立つことはなかったのである。
「ねえ、はるか」
「ナ、ナンでしょうか?」と敬語の意地混じった奇妙な受け答えは、少女の内面の動揺を暗示している。
「あなた、一ヶ月でもコートに立たなかったことってある?」
「それは三歳のコロならはい・・・・え?・・・あ、スイマセン・・・・最近ではないです・・・・」
 下手な一人芝居は、見物だったが、ゆららは笑う気にならなかった。完全にこの大人に肝を潰されていたのである。一方、照美はクスクスと笑っていた。はるかは、それを横目で見やりながら ――後で見てろ!と内心で牙を磨いていた。
「お相手よろしくね」
「ハハ・・・お、お手柔らかに・・・・でも名山さんとかどうなんです?」
 名山幸太郎は、さきほど引退した男子プレイヤーである。この国にあゆみと対等にやれるプレイヤーなど存在しないのだ。
「名山君は忙しいのよ、キャスターやってるし、引退したばっかりで違う世界に生きるためには真剣なのよ」
「そ、ソウデスネ・・・・・でも・・・・」
「なあに、私とやりたくないの!?」
「イエ・・・・と、どんでもない! こ、光栄でアリマス・・・ハイ」
 端から見れば喜劇でしかないが、本人からすれば命がけだ。プロテニスプレイヤーのサーヴィズなどと言ったら、ほとんど凶器である、命がかかっている。
ほとんど硫黄島の虎口から逃れた日本兵士という感じで、はるかは刃の方向を変えようとした。
「その前に、この照美なんてどうです?これでも一応やるんで・・・」
「・・・・・?!」
 はるかは、動揺する精神状態の下でも、あゆみの表情が微妙に変化したことを見逃さなかった。
「西沢さん?!」
「そう、照美さん、テニスやるの?」
「はい、すこし、こいつに無理矢理ですけど」
「・・・・・・・・」
 まるで、以前から照美を知っているかのような口調。

「だけど、お手柔らかにお願いしますよ、私はテニスプレイヤーになるつもりはないんですから」
「お、お前!」
 照美が、簡単に口を聞く。そのことをはるかは、信じられないのである。
「そうね、照美さんはお嬢さんだし、年頃の女の子に傷付けたら親御さんにどういわれるかわからないわね」
「そ、それって、私ならいいんですか?」
 不平という言葉を呑みこみながら、ほうぼうのていで、彼女の言葉は外見的な礼儀を失わなかった。
「あはは、お嬢さんって言って欲しいんだ、はるかがね ―――」
「西沢さん・・・・」
―――やはり、おかしい。普段の西沢さんじゃない・・・・。
 はるかは、いつもとちがうあゆみの様子に、何か鎌を掛けてみたくなった。しかし、なかなかその瞬間と機会を得ることができなかった。
「ねえ、照美さん、テニスってどう思う?」
「さあ、学校の部活なんかでは、サッカーとならんで格好がいいスポーツっていうイメージがありますけど?」
「そうだろ? そうだろ?」
 はるかは、我が意を得たりと手を叩く。
「何言ってるのよ、あんたが格好が良いなんて一言も言ってないじゃない?」
 相手がはるかとなると照美は血相をかえる。それがゆららにはおかしかった。普段の冷静な仮面がいとも簡単に脱げ落ちてしまうのである。
「ふふ、ふたりともいいお友達のようね。」
「仲の良い姉妹にも見えますよ ―――」
 うららの何気なく言った台詞が、車内にどよめきを起こした。

――――西沢さん?
 完全に黙りこくってしまった師匠に視線は自然と向かう。しかし、それを意図的に壊したのは照美だった。
「ヤダネ、こんな図体のでかい妹なんて、まるでウドの大木じゃない」
 そう言われてははるかは、黙っていられない。
「ちょっと、待て! ウドってどういうことだ。それよりもどうしてお前が姉で私が妹なんだ!?」
「世間の目って奴かな?見る人は見ているものよ」
 根拠のないことを言う照美の顔をミラー越しに見つめていたのは、あゆみだった。
「それにしても安心だわ、あなたみたいな姉妹がいて」
「・・・・・・・・?!」
「・・・・・?」
 一瞬、あゆみの言葉はどちらをさしているのか、わからなかった。しかし、少し考えればわかることである。

「そうですね、こんな妹で大変ではありますけど」
「そうね ――」
 短く答えたあゆみだったが、どうして夜にもかかわらずサングラスを掛けたのか、そのとき、はるかは理解できなかった。
―――まさか・・・・・・・。
 はるかはその瞬間、我が目を疑った。サングラスが彼女の目を覆う瞬間、まるでスポイトで蒸留水を垂らしたかのように、濡れた彼女の瞳がかいま見えた ―――と思ったからである。まさかそんなことはあるまいと、はるかは、目の錯覚ということにした。それは、どうしても西沢あゆみのイメージから乖離しているからである。
 それはあくまでのはるかの独断であったが、同時にメディアを通して一般が知りうるあゆみのイメージでもあった。しかし、海崎照美は、それから自由だった。
はるかと違ってもろにメディアの洗礼を受けているはずの照美が、彼女とは違ったイメージをあゆみから得ていた。
 はるかはあまりにあゆみの身近にいるために、近視眼的な視線に陥っているのだろうか。

―――な、何?この感覚は?
 照美は、あゆみと接するごとに、一言新たに交わすごとに、心臓の鼓動が増すのを感じた。何か特別なホルモンが、彼女を触媒にして増色しているように思えた。ある意味に置いて由加里とはじめて出会ったときと、何かが似ている。
 しかし、あの時は意味不明の憎悪と焦燥感だけが、美しい少女の仮面の下に芽吹くだけだった。
あえて言うならば焦燥感が、デジャブーを呼び起こしたのかもしれぬ。
 相手が呼び起こす予想外の効果に、照美は汗の一筋も顔に浮かせないわけにはいかなかった。ただ、古代ギリシアの名工の手による彫像に垂れた月の涙の一滴のように、周囲の水分を氷らせないわけにはいかなかった。液体窒素のように、融点が異常に低いために液体でありながら、周囲を氷らせずにはいられない。
 周囲に冷気をまき散らしながら、本人は泰然自若としている、あくまで外見だけのことだが・・・・・。
 はるかは、しかし、この時神経をほとんどあゆみに対して使っていたために、親友の心境の変化を見抜くことができなかった。
 本来ならば、姉妹のように通じ合っている二人のこと、けんかをしていても、否、そうしていれば、いるほどにかえって見防備になった相手の機微が見えてしまうのである。

 四人が乗る車は、テニスコートに向けて夜の街を疾走していた。




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『マザーエルザの物語・終章 18』
「そうだ、宿題やらなきゃ、きっと、あおいは全然やってないのだわ―――」
 親友に出会った頭から降り懸かってくる台詞を、赤木啓子は簡単に予測できた。

――――最初は、何も言わないにちがいない。良くっておざなりな挨拶が渡されるていどのことだろう。
 きっと『粗品』って書いてあるにちがいない。だいぶ前、母親と行った会話に出てきた言葉を、心のなかで使ってみた。中学に入ったばかりの生徒が友人をからかうのにも英語を使いたがるのに似ている。2年後、BE動詞も理解されておらず、高校に入れないと泣いているかもしれないのに・・・・・・。
それはともかく、啓子は『粗品』などダッシュボードに突っ込むつもりだ。

――――ところで、啓子ちゃん
 親友はおずおずとした口調で、言葉を発するのちがいない。しかし、啓子は思った。
「騙されるものか」
 しかし、親友の顔がちらつくといっしゅんでそれが崩れていくのが見える。

――――しゅくだい、全然、やってないんだ。
 親友の顔が目の前にあるようだ。罪のない笑顔がそこにある。

―――わかったよ、見せてやるよ。まったくしょうがないなあ。
 しかし、相手の発言はおろか、自分のそれまでが聞こえてくるのだ。全くやりきれない。
 彼女と出会ってからそのペースに乗せられっぱなしだ。それは、はじめて出会ったときからそうだった常に助けなくてはならない。そう考えさせる何かが、あおいの中にあるのだ。
 陽気な笑顔を絶やさないあおいだが、その一方、見ていて危なかっかしいこと、このうえない。
 親友の浮き足だった脹ら脛などを見ていると、無理矢理にでも着地させてやらねばと思う。

 しかし、同時に強いマイナスの感情が浮かぶのを感じる。それは信頼していた相手に裏切られるような、人生で最も重要な選択をするべきときに、あっさりと逃げられるというような不思議な感覚だった。なぜならば、二人はまだ10年とちょっとしか生きていないからだ。そのそも人生がなどいう主語が、文章の頭に来ることじたい、異様なことなのだ。

―――あおい。
 親友の頬に太陽が当たる。あふれんばかりの笑顔は、彼女が黙っていればかなりの美少女であることを忘れさせる。整った顔の作りを無惨にもだいなしにしてしまうのだ。むろん、その代償として、新しい金貨を転がしたような陽気さを得ることが出来たし、それは周囲の絶対的な指示をも得ることにもなった。
 いちばんさいしょ、この少女に出会ったとき理由もわからずに、顔面にパンチを食らわせてやりたい衝動に駆られた。
 あたかも、誰とでも友人になることができる ――――そんな自信満々な顔。自分の名前を出すことで世界中の人間が、友人になるとでも言い足そうな顔。なんて無神経なのだろう。いやその極みは、自分の傲慢さにまったく気づいていないことにあるのだろう。
「啓子ちゃんでいいよね、あたしはあおいだよ!」
太陽のような顔が目の前で輝いていた。とてもまぶしかった。しかし、次ぎの瞬間、水をさすような声が聞こえた。

「止めなよ、あおいちゃん、あの子は一人がすきだから」
―――なんだ。
 そう思った。いつものことだ。自分はひとりでいるべきなのだ。目の前の太陽もそれを自覚するだろう。自ら光る恒星としては、自分の我が子の顔は覚えているだろうが、その子供たちの隠し児にまで興味を示すことはないだろう。言うまでもなく月やフォボスのことだ。
 自分は十分に成績優秀で美人だ。誰しも興味を持たずにはいられない。しかし、そのような状況であえて、一人でいる。おそらく、端から見ればそれは重大な決意に見えることだろう。
 それでも、あおいは付きまとってくる。
 啓子はそこで少女に提案をした。
―――私を選ぶか、みんなを選ぶかどっちかにしな。私を選ぶなら、もうみんなとは一生口を聞かないんだよ。
 あおいは困ったような顔をした。
 それみたことばかりと思った。しかし ――――。
「うん、わかった」
 どうしても、自分を友人にしたいようだ。きっと、これを機会に仲間に引き入れられると思ったらしい。

――――そうはいくものか、あなたのコレクションに加わるつもりはない。
 啓子はそう思った。
 しかし、軽く考えていたのは彼女のほうだった。あおいはそれを見事に実行したのである。そのことは予想以上に啓子を追いつめることになった。産まれてはじめて憶える感情に、大脳新皮質の裏側が、きりきりと痛んだ。
 だが、事態はそれどころではなくなっていく。
 人気者だったあおいがクラスにおいて、抜き差しならない状況に追い込まれることになたのである。 今まで太陽のように輝いていたあおいは、白色矮星のように黙りこくってしまったのである。しかも、これ見よがしに啓子とは仲良く語り合っている。こんなに気に入らないことはない。
あおいはいじめられるようになった。
 
 しかし、いくらそれが非道くなっても約束を違えることはなかった。
ついに啓子は折れた。クラスメートの面々で涙を流したのである。すべてを打ち明けて、あおいとクラスメートに、許しを乞うたのだ。カタルシスとは言うが、涙とどうじに、永年鬱積していたものがすべて流れ去っていくように思えた。
 その後、紆余曲折はあったが、友人というものをはじめて得ることになった。しかし、驚いたのは、あおいのことである。ぜったいに自分を許さないと思われていたあおいが、あっさりと許してくれたのである。もっとも、そんな無邪気な太陽から、ビンタが飛んでくるとは思わなかったが・・・・・。

 このことを機会に、啓子は生活が変わったわけだが、それは必ずしも不快ではなかった。たしかに生まれつきの習性というものを変えることは無理だったが、友人というものをはじめて知った。そのこと動かしがたい事実である。
「もう、こんな時間か、寝よ」
 啓子は、ネグリジェをケースから取り出した。その音は、机上の蛍光灯がやはり蛍光灯であることを示すだけだった。やがて、すぐに用無しになる。そして、少女は夜の闇にその肢体(みさお)を捧げることになった。


 そのころ、あおいは携帯ひとつを握りしめて夢の世界に旅だっていた。少女にとって、それはたったひとつの財物(たからもの)なのである。
 少女が家族によって惨めな境遇に叩き落とされていらい、この家に確かな意味において、彼女の所有物などという物は存在しないようになった。
 有希江はさすがにしないが、茉莉が彼女の部屋に勝手に入って、物色するようになったのである。もちろん、あおいはそれに対して抵抗することはできない。まるで、父親の目の前でその娘を強姦しているようなものである。少女はただ泣くことしかできなかった。
 だが、携帯だけは身から離すことはしなかった。やがて、茉莉が暴力を厭わなくなると、特別の隠し場所を決めて、そこに安置するようになった。
 携帯は、何よりも大切な品だったのである。これがあれば常に啓子をはじめとする友人たちを連絡が取れる。自分を対等の人間として扱ってくれる相手とつながっていられる。それは、自分が奴隷でもペットでもなく、新正の人間であることを証明してくれることも付随している。

 だが、不思議なことがある。事ここにきて、どうして久子は携帯の使用料金を払い続けているのだろう。
 あおいは、そのような疑問を持たなかった。
 このような境遇に置かれてもこづかいはなおも与えられている。小遣い帳を書くことからは解放されたが、それはかえって悲しみを呼び起こした。「あなたはもう娘じゃない」と言外に言っているようなものだからだ。そのような発言を直接されるよりも、態度でされるほうがよほど辛い。身に応えるものだ。
「ぁ」
 少女は低く悶えた。携帯がベッドから落ちたのだ。眠るときは隠し場所から取り出して、壊れんばかりに握りしめる。合成プラスティックのメタリックなぬくもりが伝わってくる。あたかも、それは啓子の肌であるかのように思える。

 ――――啓子ちゃん・・・・・・。
 あおいは吐息で親友の手を、胸を、探り当てようとする。手は確かに、指は確かに、そして、掌は確かにそれを摑んでいるはずだった。哀しみの刻印を押しているはずだったのである。しかし、完全に摑んでいるという感じがしない。たしかにプラスティックの留め金はきりきりと音を立てているというのに・・・・・・・・・。
 だが、この時少女は何処かで自らの意思でそれを拒否していたのである。それは自分の制御の向かわないある記憶に基づいていた。しかし、それは大海が描く水平線の向こうに埋葬されていた。死者は常に生者を縛る。後者の窺い知れぬところで、見えない鎖と枷を操っているものだ。
 好きな食べ物にアレルギーを起こすように、あおいは訳の分からない衝動に自分の公道を制御されている。摑みたくとも摑めない。そのもどかしい思いは、夢の中においても少女を苛む。しかし、彼女をその悪夢から揺り起こしたのはさらなる悪夢だった。人はそれを別名、現実と呼ぶ。
 
 あおいは何か得体の知れない力に、身体の自由を奪われた。
 
 いや、それだけでなくて意図しない動きを強要された。例えば、サメに襲われる海水浴客のごときと、そのような体験を共有するのかもしれぬ。
「ママ・・・・・!?」
 ベッドの下に突き落とされたあおいは、遺伝上の母親をそう呼んでしまった。既に禁じられているにも係わらずである。
 あおいの行為を夢の世界のうわごとだと黙認することはなかった。
「何ですって?!」
「ヒ!?、お、オクサマ、ご、ごめん、いや、申し訳ありマセン!!」
 少女は、全身をスリッパで打たれながら泣きわめいた。命じられた礼儀作法を、筆舌に尽くしがたい苦痛の下で、思い出す。そして、ひっしに絞り出すが、『遺伝上の母親』はそれを許そうとしてくれない。
「まだ、お嬢サンのつもりなの?!あなたは!?」
「ウウ・・・ウ・ウ・ウ・?!痛い!お、お願いです
・・・・ウウ・・!! お、お許しクダサぃ!!・・・」
 
 泣き叫びつづけるあおいは、髪の毛を乱暴に摑まれ、床を縦横に移動させられる。それは、見方によれば、さしずめ犬の散歩のように見える。
 彼女の行為は相当に荒っぽいにも係わらず、どことなく上品な空気に包まれている。それはどういうわけだろう。その表情にも所作に粗野な色合いはいっさい感じられず、高貴な紫のいろだけがやけに目立つ。
 悪魔にだけ、高貴な暴力という形容が許されるという。
 そうならば、いまの久子はまさに悪魔としか言いようがない。その悪魔はこうのたまった。
「ほら、さっさと用意しなさい。出かけるわよ」
「・・・・・何処へ?」
 あおいは決して、とぼけたわけじゃない。畳み掛けられる暴力によって、意識が混濁させられていただけだ。
「そうなの?お前にはトモダチもいらないの? そうならいいのよ!」
「ヒ!?」
 地獄の黄泉に煽られているあおいの脳裏に、親友の横顔が、ちらつく。
 しかしながら、久子の声がそれを呼び覚まさせたわけではない。携帯のメタリックなキラメキがそれを呼び起こしたのである。プラスティックの安っぽい石油の手触りが、それを呼び覚ましたのである。
 久子の締まった尻はあおいに、拒否のダンスを踊っている。少女はそれに向かって呼びかけた。
「お、オネがいです・・・・」
「ふん・・・・・・」
 『遺伝上の母親』は、冷たい足音を立てて部屋を後にした。










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『由加里 67』
 『鬼』は自らの車に寄りかかって文庫本を手にしていた。その様子は異様さを極めている。
 
 街を歩く人たちは、ほとんどある距離にいちどは立ち止まって様子をうかがう。そして、しばらくすると去っていくのである。明かに一定の距離以上に近づくことができない。それは、プライベートエリアというわけではない。明かにそれよりも遠いからである。むしろ、彼女のオーラに惹かれ、あるいはそのオーラに妨げられている。そういう感じなのだ。
 それに加えておかしいのは、当該人物の自意識である。自分が人を惹き付ける存在であるという自覚が、明かに欠如している。
 鋳崎はるかもその例に漏れなかった。いや、普通の人たちよりもその人物の見えぬ力に圧倒されていると言って良いだろう。

「ああ、あの人が西沢あゆみね」
「照美! おまえなにを!?」
 照美が、当該人物の氏名を呼んだ。はるかは、相当の衝撃を以て受け止めた。
「ええ?あの西沢さんなの?!」
ゆららの声は、ほぼ多次元の世界から聞こえてくるようだ。信じられないというニュアンスが織り込まれて、他の味がしないぐらいである。
「ねえ、はるか、はやく紹介してよ」
 照美はまるで一ファンのような口調で、はるかの背中を押した。
「ヒ?何するのよ」
「何を緊張しているのよ、あんたの師匠でしょう?」
 照美は、ほくそ笑んだ。こんな風に凍りついてしまった親友を見ることはとても珍しいことだ。おそらく彼女がそうする相手とは実母と照美の母親くらいだろう。他所に、そのような存在がいるとは、照美にとって非常に興味深かった。だから、好奇心の触手を巡らせて情報を得ようとした。

「じ、時間が・・・・・」
「約束に間に合わなかったのね、でもそれは仕方ないでしょう?」
 さすがに可哀想になったのか、照美は優しい声をかけた。
「お前らのせいだろう? だから急げって」
はるかはまるでこの世に自分しかいないかのような言い方をした。それがおかしくて照美は、親友の 背中を押すことに決めた。
「ほら、はやくなさい!!」
「ヒ!?」
 あゆみへの距離は10メートル以下だった。しかし、その距離でも届かないくらいに寡少な声だったのである。
 そして、次ぎの瞬間、彼女は弟子のあられもない姿を発見することになる。
「ほう? どこぞのお嬢さんですかな?」
 文庫本を車の中に投げ入れると、無表情のまま言い放った。はるかは何も言えずに、作り笑いを浮かべるだけだ。

――――こいつが、人の歓心を買うためにこんな顔をするとは・・・・・。
 それは照美にとってはじめて見るはるかの顔だった。
「あいにくと時間を守れないような人間に知り合いがいないものでね、何処かで会ったかな?」
「はあ ―――――」
「いいから! お前の気持ち悪い顔を見続けるくらいなら、皮肉を言わないほうがましだ。全く、友だちが来るなら予め、電話くらい ――――!?」
「あゆみさん?」
 あゆみは、この間まさしく三変化と言って良いくらい、顔の変貌を遂げていた。
 
 はるかは恐縮するあまりそれに気づかなかった。だから、この時自分を達観する余裕を失っていた。端から見たらどれほど素っ頓狂な、たとえるならばひょっとこのような、顔をしているなどと思うこともなかった。
 自分を常に第三者的な視線に置き、達観する。
 本来の彼女ならば、それぐらいのことは日常的に行っているものだ。
 しかし、この時はるかにそのような余裕はなかった。だから師匠の心の機微を読み取ることができなかった。

「ああ、あなたがはるかの親友って言う照美さんかな?」
「はい・・・・そうですけど」
 まるで文章上の説明のようなあゆみの言葉を受けて、照美は答えた。
「しかし、君もご奇特な子だねえ、こいつの友人をやってられるなんて」
 元々、このようなことを言われて黙っていられるような照美ではない。言い換えれば、親友の悪口を言われてその武器を温存しているようなことはない ――――ということだ。
 
 照美のその美貌は、周囲の空気が一瞬で凍りつくような冷気を発し、その知性は相手の人格を産まれる前から否定するような言葉を、持ち主に吐かせる。同性ならなおさらだろうが、照美の美貌は、もはや嫉妬する気すら失せさせる。
 そして、ほとんどの人間の知性が照美についていけるはずがないのだ。彼女はそれを惜しみなくさらけ出す、もっとも由加里ならば彼女を凌ぐ知性を持っているはずである。しかし、心身ともに打撃を受けているいま、それを攻撃の性格を持って、発揮されることはまずない。もっとも、少女の性格から言って、そのように自分の知性を使うことはほとんどないのだが・・・・。
 その照美を威圧する何かに、この女性は満ちていた。さもあらん、目の前の女性は照美よりも10年ほど年長であり、世界ランキング三位のプロテニスプレイヤなのだ。だが、人間の肩書きによって一ミリグラムほども、心を動かされるような照美ではない。あゆみが持つ本質が、何事か感化させたのだ。

――いえ、こちらこそ、このようなプロレスラーの友人は苦労が尽きぬものです。
 本来、こう答えておきかった。しかし ―――。
「いえ、はるかさんのような人格者の友人のひとりに、加えさせていただいて光栄です」
――――ひとりだと?
 この時本来のはるかならば、一撃の下に親友を叩きのめしていたであろう。しかし、このとき、少女は通常の状態に置かれていなかった。カンプリア紀の大気のような薄い酸素濃度の中で、ニューロン同士の会話がマトモに行われていたのか、はなはだ疑問ではある。
それを救ったのはあゆみの次の言葉だった。
「さて、そこのお嬢さんは?」
「わ、わた、私のなま、な、名前は、す、鈴木、ゆ、ゆららと言います・・・・・・・」
 それは妖怪たちの宴において、ひとつの清風とでも言うべき事件だった。あゆみはふたつの大木の元に、可愛らしい花が咲いているのを見つけたのである。それは、木漏れ日に照らされてひときわ美しく輝いていた。
「とにかく、みんな車に乗ってよ、時間も時間だし」
 あゆみの号令によって、3人とも赤い芸術品の一部になろうとしていた。


 その時、由加里は病室の一部だった。
 
 不自由な体でノートパソコンに向かっている。右手だけでキーボードを操るのは骨が折れる。しかし、照美を凌ぐほどの知性の持ち主は、あるていどの苦労の末、人並み以上に扱えるようになっていた。もっとも、そのことが少女を幸せにすることはないだろう。
 しかし、それは、同時に“逆もまた真なり”を意味するのである。
 少女のか細い右手は、キーボードの上を器用に渡り歩く。ノートなので、音が緩やかなのはせめてもの救いだった。はるかと照美の命令によって、自宅で課された“宿題”をこなしているときなど、カタカタという音が自分の胎内に侵食していくような気がした。あるいは、それは声にも聞こえた。
「お前は、淫乱なのだ」
 それは見知らぬ女性の声だったが、「由加里、なんて恥ずかしい子かしら?あなたなんてもう、娘とは思わない! 汚らわしいィ!!」
「由加里お姉さんなんて、大嫌い! 死んじゃえ!!」
 家族の声が交代で由加里を責めさいなむ。扉の外で何か物音などがしたりすれば、それこそ、この世が終わるかのようなおもいをしたものだ。
ヒヤヒヤで、予め開いていたネット画面に転換したものである。これは少年がパソコンを扱っているときに使う手である。

「お前さ、Hサイトを見ているときに、親が入ってきてさ、とんでもない目にあったよ」
「へ、お前バカ?オレなんて大丈夫さ、いい手があるんだよ」
「どんな?」
「予め、別のサイトを開いておくんだよ、健全な、たとえば“おはよう日本”のサイトとかね」
 由加里はそれを側で聞いていたのだ。
 ちなみに、このとき少女は情報の代償というものを支払わねばならなかったことを特記しておきたい。少年たちは次ぎのような会話を続けたのである。
「あら? ユカリちゃん、何を盗み聴きしているのかな?」
「こんなところで、何をしているかと思ったラ?」
 加えてちなみに、ちょうど昼休みだった。クラスメートたちはあるものは、図書室に、あるものは校庭に陽光を浴びに向かった。しかし、どの生徒たちも友人たちと連れだって青春の喜びを詩にものしあっていた。ひとりぼっちなのは由加里ぐらいである。そして、女子で残っているのは少女だけだった。
「ユカリちゃん、おトモダチはどうしたのヨ、ホラ、校庭をミテごらん、みんな楽しく遊んでいるじゃん。あ、あれは、海崎たちじゃん」
 自分をいじめる主犯の名前を聞かされて、由加里は股間に釘を打たれるような衝撃を受けた。
 もう一人の男子がそんな由加里を笑う。

「よせよ、こいつにそんなのがいるわけねえじゃん」
 少女は脳天を割られたような気がした。男子にまで嘲笑される。こんなミジメなことがあるだろうか。
「・・・・・・・・」
 由加里は、何とか威儀を保とうと立ち上がった。この年頃の少女の涙ぐましい習性である。異性に対する特別な態度は、思春期の本能とでもいうべき属性だろう。由加里もそれから自由ではなかった。
「ドコ行っちゃうの? お兄チャンたちが遊んであげよって言うのに」
「そうだよ、鬼の言うマニってネ」
 由加里がいじめられっ子に堕ちるまで、彼女は尊敬の対象だった。成績はバツグンで、容姿もそこそこの美人、男子はおろか女子にも相当の人気があった。ただし、積極的な態度に出るということはなかったので、教室内のステータスやヘゲモニーに関係することはなかった。
 だから、原崎有紀たちの由加里に示した悪意は、男子たちのそれと似ている。一言で表現するならば、それは劣等感の裏返しということになる。
 この二人、塚本誠二と南斗太一郎は、まさにそのカテゴリーに当てはまる男子である。ちなみに、太一郎は小学校のころから由加里と同級だったことが多く。密かに歪んだ恋心を焦がしてきた。
由加里としてもそんな二人と間違っても友人になろうとも思わない。よもや、自分を見下して、「友人になってやろう」という態度に出られたら、それに答えるほどに落ちぶれていいないのである。颯爽と教室を後にすることにした。たとえ、その態度とうらはらに心を乱れていようともこの二人などに見せる心はない。しかし ―――。
「ドコにいくの? 高田に言われているんだろう?」
「ヒ?!」
 もしもあるならば由加里の尻尾を引っこ抜くほどの衝撃を、太一郎の言葉は持っていた。少年は、摑んだ尻尾を引き抜く寸でのところで止めた。そして、少女の整った鼻梁を撫でた。揶揄に満ちた視線を向ける太一郎に、少女は心底ぞっとさせられた。

 高田あみる。彼女は由加里いじめの二大勢力の一方の雄である。もう片方は、言うまでもなく海崎照美とはるかだが、あみると金江は、由加里にとってみれば別の意味で恐怖の対象だった。平気で暴力に及ぶのである。身体に残る傷跡や痣のほとんどは彼女たちの仕業である。しかし、照美とはるかならば、そのようなミスを犯すことはない。由加里にあみたちのそれを凌ぐインパクトを与えておきながら、なんら足跡を残ることはないのだ。その辺が知性レベルにおいて、はるかに叶わないという証左であろう。

 閑話休題。

 太一郎は確信を持って、言葉を弄んだ。
「トイレに行くのも、高田の許可が必要なんだろう? 知っているんだからな」
「命令されているんだろう? 休み時間に教室を動くなってさ」
 塚本誠二が続く。
「・・・・ウウ」
 由加里は不覚にも落涙してしまった。何と言うことか、これだけはいやだった。男子の前で、しかも塚本や対一郎ごときの目の前で頬を塩辛くしてしまうなんて・・・・。
「かわいそうに・・・・」
――あなたなんかに!そんなこと言われたくない!!
 少女は自尊心の一端を2匹の動物に見せた。思わず、ひるむ二人、なかでも太一郎は背後の机にぶつからんばかりに驚いた。しかし、彼が次ぎに取った態度はまさに逆襲という表現に相応しい。
「ヒ!?何を?」
 由加里は絶句した。さすがに誠二も驚きを隠さない。

 なんと、太一郎は少女の両手を摑んだのである。あたかも白粉をまぶした餅のような感触が、少年の手の中に広がる。逃げようとするのを無理矢理に摑むと、苦痛の汗が滲む。少年に性の目覚めを実感させた瞬間である。
 その汗の温度は、少年に官能の悦びを教えたのだ。
 しかしながら、少女にとってみれば、太一郎ごときに、同じ感覚を覚えさせるのは無理な話である。ただ、何万匹ものミミズに全身を這い上がられるような不快感だけが猪突するだけだ。
「ぃぃいやあ!ぃいやあ!」
 もはや、抵抗する力なぞ雲散霧消してしまったかのごとく、いやいやをするしかない。制服や床に大粒の涙が音もなく落ちる。
 ところで、由加里はこのころには、四人による性的ないじめを受け始めている。照美とはるか、それに原崎有紀と似鳥みるくによるいじめは、しかし、レッスンワンを履修したばかりだ。まだ下着を触れられるていどにしかすぎない。まだその中身を自分の意図を越える状態にさせられる―――などという恥辱からは無縁なのである。まだ、はるかが持ってきた性的に過激な下着を着けさせられ、スカートを短くさせられて校内や街を歩かされる ―――ぐらいのいじめである。
 
 そのぐらいとはいっても、この時の由加里にとっては、全身をなますにされるような苦痛と悲哀を伴っていた。そして、際限なしにエスカレートするいじめにただ怯えるだけだった。
今、それを男子にされようとしているのだ。
 少年たちの背後に見えないいじめっ子たちが見える。言うまでもなく、高田や金江の類である。周囲の女子たちも、由加里を嘲笑しながら腹を抱えている。
 由加里は小説を書く、いや書かされるようになって、自由自在に記憶を得られるようになった。いや、その感覚を自由と言うのであろうか。あたかも巫女が神の言葉を伝えるように、何か得体の知れない超常的存在から、知識や体験を預かっているようにも思える。
 考えれば、作家という仕事とはそれを文字に置き換えるだけではないか。この時、由加里はそれを直截的に感じ取っていた。
 照美やはるかの命令は、由加里にもう顔も見たくない記憶との再対面を強要する。あの二人はどれほど悪魔なのか、どれほどまでに自分を恨んでいるのか?
 底なし沼のような恨みの深さに、由加里は戦慄した。
 少女の体面は、まだ、まだ続く・・・・・・・・。










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『由加里』
『マザーエルザの物語・終章』 著者

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いじめ文学専用サイト総合美術監督 オーギュスト・ルノワール

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いじめ文学専用サイト総合美術監督オーギュスト・ルノワール画
『マザーエルザの物語・終章 17』
 やっとのことで屈辱的な食事を終えると、突如として、有希江が言い渡した。
「わかったわね、家では私がみんな世話してあげるから、自分で何もしちゃだめよ。そうしたら、ちゃんと可愛がってあげるわ」
「・・・・・・・・・」
 放心状態のあおいには、有希江の言葉が届かない。まるで恐竜のように神経が緩慢になった状態では、心身両面において理解することは、まず無理というものだ。
「わかったの?!」
「ハ・・・ハイ!」
 ほとんど、パフロフの犬のようにあおいは反応した。有希江が語気を強めたために、反射的に答えただけで本当に理解した上のことではない。その証拠に、小学生らしくふっくらとした頬は、わずかに上気し紅に染められている。そして、心なしか肩で息をしているのがわかる。
 華奢な肩がわずかに上下しているのだ。筆舌に尽くしがたい恥辱が与えたショックは、あまりに強烈だった。そのために、少女はまだ意識を回復していない。
「だったら、もうおネンネなさい」
「ハイ・・・・」

 こともあろうに、あおいは全裸のままで、それも四つんばい姿勢で部屋を後にしようとした。寒さを感じることすら、ショックは、少女から奪ってしまったというのか。さすがに有希江も声を掛けた。
「ちょっと、あおい、その恰好じゃ風邪引くって!」
 同時に手足が動いて、手短にあった毛布で妹の肢体をくるんでいた。
「ウウ・ウ・ウ・・ウ・ウウ!!」
 突然、あおいは激しく号泣をはじめた。生半可な優しさは余計に哀しみを誘うものかもしれない。ささくれだったあおいの神経は、氷柱のような手で逆撫でられたのである。少女の中で起こった化学反応は、通常の数倍のスピードと勢いで全身を覆っていく。すべての毛穴は縮み、皮膚は弾力を失った。
 一瞬だけ同情を催した有希江だったが、次の瞬間、冷たく言い放った。

「あなたはお手伝いさんでしょう? 明日は仕事があるでしょう? さっさと寝る事ね」
 そういうと、尻に書かれた顔を蹴り飛ばした。
「ぅぐうう!?ヒア!?」
 まるでコミックのように転がって部屋から放逐される瞬間、あおいは有希江の言葉を思いだしていた。
――――ちゃんと可愛がってあげるわ。
 それは、犬か猫にたいする言い方だった。決して、かつての有希江の態度ではなかった。
 しかし、そんな愛情でもあおいは欲しかった。とてもこのような状態で、家にいることは耐えられそうにない。もちろん出て行くという選択肢は、今のあおいにはない。いやあるはずがない。生活能力のない少女にとって家から追放されることはイコール死を意味する。
 もちろん、国家には児童を保護する義務があり、それは成人と条件が異なるのだが、小学生の幼い判断能力と知力ではそれを洞察することはできなかった。

「ウウ・ウ・・ウウ! ゆ、有希江姉さ ――――」
 哀れなあおいの呻き声を、有希江はドアを閉めることで制した。一方、少女にとってみれば、幸せへの門がすべて目の前で閉じられてしまったかのように思えた。たった10センチ足らずにすぎない木製の扉が、数メートルはある鋼鉄の扉のように見える。もう、自分に扉を開ける家族は、この家にはいないのだと、いやでも納得させられた。
―――――そうだ、伯母さん・・・・・・・。
 この時、あおいが思い浮かべたのは真美伯母である。生来の精神病を拗らせて入院している。少女にとってみれば幼いころから自分が一番愛されたと思っている、このことが徳子や有希江が無意識ながら妹に反感を抱いてきた理由なのだが、とにかく、どんなときでも自分を庇ってくれた最高の保護者だったのだ。
 どのような符合かわからないが、真美伯母の入院と少女が家族としての身分を失ったことは、軌道を同一にしている。それに入院したのは、あおいが原因だと有希江が言っていた。少女はそれに反論する能力も意思も用意できない。

「ウウ・ウウ」
 少女は、ようやく立ち上がると自室へと急ぐ。こんな時に茉莉にでも見付かったりすれば、どのような仕打ちを受けるかわからない。本来ならば可愛いはずの妹の影に憶えている。少女はそのような事実に涙しながらも、そして、足をひきずりながらも走り始めた。
 彼女じしん気づいていないのだが相手を可愛いと思うことは、必ずしもその対象への情愛だけを意味しない。対象を自由に扱えるということも孕んでいるのだ。自分の好きなように思うがままに扱えるという自負が、『可愛いはず』という言葉の中に、産卵されている。産んだあおい自身はとうぜんながら、それに気づいていない。

  しかし、何もかも見通せることが幸せとは限らない。
 この地上には、DNAを持たない多細胞生物が存在する。その生物は食物連鎖に組み込まれていないから、滅んでもかまわない、いや、絶滅すべきである。
 全人類の精神的健康のために、消えてなくなるべきだ。そうなっても害虫駆除会社以外、誰も困らない。 
 恐怖の生き物。
 そう怖れられる。ことに、主婦連中には、親の敵のように忌み嫌われる。
 それは、真夏の台所に密かに棲んでいる。しかし、何のきまぐれか、陽のあたる場所に姿を見せることがある。すると、台所の主は、この世の声とは思えない叫び声を上げるのである。
 例えば、その主婦連中が、台所の隅々まで見透おすことができたら、幸福と言えるだろうか。
 その結果は考えなくても明白というものだ。
 行き先はよくて精神病院で、おおかたは泉の下だろう。彼女らは、美しいソファに横たわりながら表面だけの美を享受して偽りの愛を唄っていたいのだ。たとえ、その背後で汚らしく蠢く毒虫が笑っていようとも・・・・・。

 閑話休題。

 あおいは、自室の扉を開いた。真っ暗で冷たい部屋。何故か、部屋を奪われることはなかったが、新しい風が入ることは完全に遮断されてしまった。たった数日のことにすぎないのに、廃屋のようになってしまっている。いや、何百年も人の手が入っていない廃墟という趣すらある。
「ウウ・・・・ウウ・ウ・ウ!」
 あおいは、かびくさいベッドに身を投げ出した。端から見れば呼吸ができなくなるのではないかと思われるくらいに、顔をシーツに埋めて泣き声を押し込める。かつてはいつも太陽の匂いに満ちていた。今は、カビとダニの巣と化している。
 どうしてこんなことになったのだろう。永遠に続くと思われる煩悶は、何処までも少女の頭のなかで燻り続けた。

 その時、有希江は母親である久子と話し込んでいた。
「自分の娘と携帯で呼ぶってやめてくれないかな?」
 有希江は、苺を摘みながら文句を言った。
「話しは真美のことよ」
「――伯母さんのこと? それがあおいのこととどう関連するのかわからないな」
 鷹の目を母親に向ける。
「そもそもあれってママが考えたの? そこまでする必要性ってわからないんだけど」
「とにかくするのよ!」
「・・・・・・・・・・」
 有希江は母親の剣幕にやや驚いていた。まるで人が変わったかのように、青筋を立てて自説を押し通そうとする。
「それならいいけど、これをやるころであおいの何がわかるっていうの」
「これは躾なのよ、これまで甘やかしすぎたわ」
 まるで噛み合わない会話がえんえんと続く。
「それで、伯母さんの様子は?」
「状態は変わらないわ」
「じゃあ、私が会いに行っていい?」
「あなたが行ってどうするの?」
 まさに、暖簾に腕押しというより他にない。会話のための会話が繰り広げられる。
「とにかく送ったメールどおりにお願いね。ママは寝るわ」
「ちょっと、お願いって! 茉莉には?」
 有希江の言葉が終わるまえに、久子は姿を消していた。
「全く、どういうつもりよ!」
 一人毒づくと携帯を開いた。

 その時、携帯の待ち受けが鳴るのを、頭骨が削られる思いで、あおいは聞いていた。
「け、啓子ちゃ? そっかあのことか」
 そのメロディを聞いただけで、全身の血が浄化されるような気がする。新しい血が流れると頬の色も好転する。かつての陽気なあおいが戻ったのだろうか。
 しかし、啓子の声に答えるまでに相当の時間を要した。携帯に出るたったそれだけのことが、あおいには地獄の門を開けることに匹敵するのである。
「・・・・・」
「ちょっと、あおい? 一体どうしたのよ!?また寝てたんでしょう? この脳天気!! 聞いているの!? あおい?」
 最初の『あおい』と最後のそれは、自ずから声の質量とともに格段の差があった。
「ウウ・ウ・・」
「あおい? 何かあったのか?」
 少女は嗚咽を漏らしたくはなかった。しかし、一番の親友を電話の向こうに回して、気が緩んだ。
「ご、ごめんね、具合が悪いんだ」
「えー、じゃあ、あした来れない?」
「そ、そんなことないよ!?」
「何よ?」

 啓子の声からは、疑念があふれてくる。あきらかに仮病を疑っているのである。親友の背後に何かあるのか。いくら彼女の洞察力が優れていようとも、それを見抜くことはできない。もしも、それが可能だとしたら、それは彼女が人間でないという一番の証明になるだろう。
「もしかして、宿題をみんなやれって言うんじゃないよね?」
「ち、ちがうよ、でも、図星かな?」
 この時、啓子はおかしいと思った。簡単に自分の非を認めたことが、あまりに不自然なのだ。いつもはさんざんにごねるあおいが、一体どうしたというのだろう。啓子は訝ったがそれを直截的に表現することを躊躇った。声の調子が普段とちがいすぎることに、意識の周辺が文句を言ってきたのだ。陽気を絵にしたような女の子が、何があったらこんなに元気がなくなるのだろう。
「とにかく、約束だからね、あ、し、た!」
 啓子は返事を待たずに一方的に切った。
「・・・・・・・・・・・・・・・・?!」
 携帯を閉じて目の前を見たとき、啓子は絶句せざるを得なかった。扉が開かれて母親が入室していたからだ。何て事か、話しに夢中でドアの開く音も聞こえなかったというのか。
「どうしたのよ?ママ、勝手に入ってきて?!」
 その返事には、半ば抗議、半ば疑問がミックスされていた。
「大きな声が聞こえたから驚いただけよ。何かあったかと思ってね」
 当たり障りのないことを言って事態をくぐり抜けるようなことを言う。しかし、その裏には真意が隠されていた。この複雑な性格を有する娘が、このごろやっと、うち解けてきたように見えるのだ。それが一人の友人が好原因となっていることは明々白々だった。一人の親としても、事態を静観しているわけにはいかないのだ、そうすべきだとはわかっておいても・・・・。

「どうしたの?何か用?ママ」

――――そう突っ慳貪にならなくても。
 危うくそう言いそうになって、改めて平静を保とうとした。
「ママ、迎えに行こうと思って」
「え? あおいちゃんの方から来るんじゃないの」
 それは、あおいの母親が送りに来るということだが、久子はこのとき、鎌を掛けたのである。彼女との友人関係がうまくいっているのか心配だったのである。
「実は、久子さん用があるんだって」
 咄嗟に嘘が出てきた。どうせ、後で話しをつなげておけばいい。大人の都合でそう考えていた。
「わかったわ、もう寝るから」
 不機嫌そうに言うと、けんもほろろに、母親追い出した。
ドアに鍵を掛けるように、自分の身体を押しつけて座り込む。背中の肌を通して、母親がいなくなったのを感じ取るとすっと息を吸う。

「一体、なんなのよ!?」
 携帯をベッドの上に投げようとしたが、啓子は、間違えて脇にあるゴミ箱に入れてしまった。その失敗を心の中に巣くうもやもやのせいにする ――――そのような高等技術をまだ会得していなかった。
 あるいは、器用な人間であれば保育園や幼稚園の段階で、それを使いこなすことができるのかもしれない。しかし、啓子はそのような星の下に産まれることができなかった。
 『星の王女さま』のように、とつぜん、啓子の元に降ってきた少女。
 それが榊あおいだった。
 彼女に出会って以来、腹の中を変えられるような感覚を味わってきた。しかも、それが必ずしも不快ではない。いや、むしろ楽しくすらある。それは、『人生で一番大切なことは砂場で学んだ』以来、変わることがなかった人生哲学を変更する事態を招いていた。
 当時、彼女の記憶の中においても、母親や教師たちの脳裏にも、たったひとりで砂の小山を作っている影像しか残存していない。孤独。それが彼女の乏しい経験から産まれた哲学だった。どんなに目を掛けてもどうせ人は裏切る ―――という思いが、生後4年にして魂の根源にまとわりついていたのだ。
 それが、あおいに出会って何かが変わった。彼女の陽気な視線は、何事か、化学反応を啓子の中に起こした。
 しかし、それは単純な感情ではなかった。必ずしも不快ではないと言ったが、その逆もまた真なりだったのである。
 愛憎という言葉で表現するのが適当とは思えないが、この場合、それよりも適当な言葉を啓子は見つけることはできなかった。
 ゴミ箱の中に視線を走らせると、携帯が悲しげに光っているのが見えた。

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