あおいの脊椎に電撃のような衝撃が走る。
「あおいちゃん! あおいちゃん! 大丈夫なの? 具合悪いの!?」
なおもエキセントリックな声がトイレ中に響き渡る。床に散りばめられたタイルというタイルに反響して音の芸術を作り出した。
しかし、それはあおいにとって鑑賞すべき対象ではない。いや、現在少女の内面を形作っている感情が、それを許さないのだ。
全身を凍りつかせるような羞恥心。
それが今のあおいを支配している感情だ。目の前に存在する現実にどうやって対処していいのかわからずに戦慄している。
「だ、大丈夫だよ・・・・・・け、啓子ちゃん・・・・」
あおいは、指を性器の中に食い込ませたままやっと人語を発することができた。
「あおいちゃん_?」
「う?!」
啓子に神経をとられるあまり指を局所に深く食い込ませてしまった。得体の知れない軟体動物の臓物を摑みとってしまった。
しかも、いやらしい粘液が糸を引く内臓の間を泳ぎ回る。その度に、少女の未成熟な官能は、乱雑に刺激されて、経験したことのない感覚に身を躍らせる。
しかし、大人の女性のように何処かいちばん感じるのを熟知しているわけではない。
めちゃくちゃに動かした指がたまたま触れる。その部分によって、官能を感じ取る度合いがちがう。 いわゆる、試行錯誤の段階なのである。幼児が手足を動かして触れながら世界の基礎を知るように、発達心理学が言う、初段階を踏んでいるわけである。
啓子が聞いたくぐもった声。
それはいわば宇宙語だった。このとき、自分が大人の入り口に立っていることに気づくことがなかった。
ただ、あおいの具合にたいする懸念だけが少女の初々しい脳を支配していた。その年令にしては大人びた性格を有しているとはいえ、しょせんは小学生の女の子にすぎなかった。
「しまった ―――」
あおいは冷たいドアに頬を押しつけて、火照りを取り除くことにした。
「あおいちゃん!」
「ちょっと、待ってよ!」
思わず大声を出すあおい。その態度が常ならぬ様子であることは声の様子から明かだった。しかし、壁の向こうに起こっていることを露知らない啓子は、あおいのことを察しようにも察しえなかった。
自分の親友が隠れて自慰に耽っているなどと、啓子は、想像もできなかったのである。ついでに触れておくと、この時、すでに啓子は自慰という言葉を知っており、自覚してそれを行っていた。自分よりもはるかに幼いと踏んでいるあおいがそれを知っているはずがない、少なくとも、啓子の主観から説明すれば――――の話しだが。
「あおいちゃん、もしかして、アレなの?」
「アレって?」
あおいはうそぶくことなく返した。本当にわからなかったのである、啓子が仄めかしたことが。言うまでもないことだが、啓子は生理のことを言っているのである。
もちろん、年頃から羞恥心のあまり言葉を濁したのだ。しかし、もとよりあおいは生理を迎えておらず、その言葉の意味することもわからなかった。
「何よ!?それ?」
不機嫌そうな声が響いてきた。まるで地獄の底から這い上がってくるように思えた。あまりにガラガラ声だったために、親友のそれだとは思えなかった。
あるいは時間の彼方から吹いてくる嵐のようにも思えた。それがあまりに距離が遠いために音はそれほど大きくないが、当地では大地が割れて何万人もの人がそこに落ち込んでいく。かつてそこに巨大な城がそびえていたとは信じられないほどに、昔の偉容は消え去ってしまった。
城が、街そのものが灰燼に帰したのである。二人が共有する遠い異世界が、彼女らに何かを語りかけたのかもしれない。
「大丈夫、おばさん呼ぼうか?」
「ヤメテ! それだけは?!」
「あおいちゃん!?」
親友の剣幕に、胃を抜かれたような気がした。今まで、自分は榊あおいについて何を知っていたというのだろう。今更ながらに猛省させられる思いだった。それとも何かあったのだろうか。そうでなくては説明がつかない。啓子は無理にでも個室に入り込もうとした。すなわち、あおいが入っている個室の隣に入り、便器を伝って侵入を試みたのである。
少女は親友の予期せぬ行動に度肝を抜かれた。意表をつかれるとはまさにこのことである。
「ナ!? け、啓子ちゃん!?」
「あお、あおいちゃん・・・・・・?」
啓子はすばやい身のこなしで颯爽と立ち落ちると、親友を見下ろした。何だか意地悪な気持が胃の中にあふれてくる。それは食道を通って口腔にまで込み上げてくる。
「な、何よ! け、啓子ちゃん・・・・・う?!」
あおいは蛇に睨まれたカエルのように身をよじった。しかし、狭い個室の中。逃げられる場所はない。自分を顧みると、パンツの中に手を突っ込んで立ち尽くしている。あまりに無様な格好だ。
「あら、何をしていたの?」
いままであおいに対して感じたことのない感情がふつふつとわき起こってくる。
――――これは憎しみ? でも、どうして?
自分自身にたいしても説明できない感情。
それは、居心地の悪い椅子に座らされているようなものである。啓子は非常に気持ちの悪い思いに身を悶えさせていた。
――――裏切られた。捨てられた!
「どうして、私が知らないことがあるのよ!?」
それはどう考えても自己中心的な考えだった。そんなことがわからない啓子ではない。しかし、理性でわかっていても感情が動いてくれない。まるで他人に強制されたように、預かり知らぬ思惟が産まれてくる。
――――お前は裏切って、去っていった。それなら。
「もう知らない!」
「ぁ、啓子ちゃん!? 待って!!」
あおいは自分に尻を向けて去っていこうとする親友を魚の目で見た。そして、近づいていった。
「じゃあ、何をしていたのか話して! パンツに手を突っ込んで何をやっていたの?」
右回れ右の要領でふり返った啓子は、あおいが思いも及ばないことを突きつけた。
「・・・・・・・ウウウ」
「どうしたの? 答えられないなら行くわよ。それに私を裏切るなら家に来なくてもいいわよ」
「ウウ・ウ・ウ・・ウ・ウ!?」
あおいは声を上げて泣き始めた。頬を伝っていく涙は、無言の抗議が含まれていた。そのことに少女じしん、はたして気づいていたのか疑問である。
しかし、幼い少女の洞察力では真実を摑むのは難しい。少女は立ち往生して事態を見つめることしかできなかった。
事実、答えようがなかったのも事実である。今、自分が行っていたことの意味も名称も知らないのである。
「わ、わからない・・・ただ?!」
「ただ?」
啓子は畳み掛ける。詰問の度合いを緩めようとしない。
「さ、さわると変な感じがするの・・・・ウウ・・ウ・ウ」
言い終わるなり幼児のように泣きじゃくりはじめるあおい。啓子はかぶりを振ると個室の扉を開けた。
「その話しは家でしょう」
「け、啓子ちゃん ――――私」
啓子は表情を和らげると、まるで恋人にそうするように口吻をあおいの耳に近づけた。そして、しかる後に、こう言ったのである。
「そんなこと、私だってやってるんだよ」
甘い吐息とともに、何か不思議な感覚が自分の胎内に、産まれるのを感じた。それは既視感の一種だったかもしれない。
しかしながら、それは懐かしいという一言で表現出来ない何かにまぶされていた。今、目の前にそれが存在し抱きしめることができるように思えたからだ。今、側にいる啓子は、啓子でない何者かのような気がする。しかし、両者は他人ではない・・・・・・・・・。
「何しているのよ、ママたち待ってるわよ」
「うう、うん ――――」
急いで両手を洗うと啓子を追った。
席に戻ると、そこは相変わらずレストランだった。給仕は客に畏まった表情で注文に対応しているし、趣味の悪いごちゃ混ぜ趣味といえば、相変わらずルイ14世とビアズレイがチークダンスを踊っていた。
それぞれの娘のことなど露知らぬと言った顔で、久子と祥子は、話し込んでいる。
「あら、ごちそうを待たして何をしていたの?」
久子はさらりと言ってのけたのである。あたかも今まで起きたことがあおいの妄想にすぎないかのように・・・・・。
あおいは真っ青になっていた。彼女よりも後に来たのに料理を完全に平らげていることにも、気づかなかったくらいだ。
「あおい、ママはこれで帰ることにするわ、赤木さん、娘をよろしくお願いします」
「ええ」
祥子はガラリと変わった久子の態度に、すぐには対応できなかった。そして、耳を傾けようとしたとき、既に彼女はいなくなっていた。
遠くで車のエンジンが発動する音。
そして、凍りついた娘だけが残された。
「どうしたの具合がわるいの? あおいちゃん?」
祥子はごく個性のない呼びかけしかできなかった。
「あ、雨が降ってきたんだね ―――――」
あおいを呼び覚ましたのは人間の声でなくて、自然の配剤だった。
「みぞれかもね ――――」
啓子は返した。
子供たちの夢見がちな態度にあきれたのか、とにかくこの場を離れるように、祥子は切り出した。
「そうだね、でもいいの? あおいちゃん、まだ半分も残ってるじゃない」
「ううん、いい」
あおいは、現実に戻された不快感を噛みしめながら言った。
「そうだ、あおいちゃん、絵は好きだったよね」
祥子のとつぜんの申し出に、あおいは戸惑いを隠さない。しかし、しばらくするとある画家の絵が好きなことを思いだした。
「そうだ、この前テレビでやっていた画家の絵が好きです。名前は憶えていないですけど」
「それってNHKでしょう?」
「井上順って言う画家なんだけど、外国人なのよ」
「ああ、そんなこと言ってましたっけ」
「ちょっと、待ってよ。どうして、井上順で外国人なのよ」
啓子は、すぐに話しに入っていけない苛立ちをストレートに表した。
「本名は、たしかミアエル=ィンギ、ニフィルテラピアの人よ。たしか、自分の過去のことは完全に忘れたいって日本に来たはずよ。それで以下にも日本人っていう名前が欲しいって頼んだらしいわ」
「それがどうして井上順なの?」
「ミアエル=ィンギ? ミアエル?」
祥子が啓子の質問に答える前に、あおいの動揺ははじまっていた。
あおいにとってみれば聞き慣れない外国語。しかし、少女の何処かでその名前は甘美な思いとともに受け止められていた。それが二日酔いのように、蘇ってきたわけだ。胃から込み上げ来るものに、少女は吐き気を憶えた。
テレビで視たときには、それほどに印象的でなかったのである。それが、今、少女の胸に響き、その体躯を叩き割ろうとしている。これはどうしたことだろう。
「行こうよ、行きましょうよ!」
「え!? う、うん」
自分から提案しておきながら、面食らった色に顔を塗り直してしまった。
「啓子、いいでしょう?」
「うん・・・・・」
何処か投げやりに答えた。実は、親友とは違う意味で、啓子も身の内の動揺を隠せずにいた。叩いてはならない扉を叩いてしまったかのように思われた。
しかも、それをしたのは啓子自身ではないのである。入ってはいけない部屋に踏み入れてしまいそう。そこにはきっと等身大の鏡があるにちがいないのだ。根拠もないのに啓子はそう感じていた。しかし、明快な反対理由もないので、あえて反論できなかった。
「あおいちゃん! あおいちゃん! 大丈夫なの? 具合悪いの!?」
なおもエキセントリックな声がトイレ中に響き渡る。床に散りばめられたタイルというタイルに反響して音の芸術を作り出した。
しかし、それはあおいにとって鑑賞すべき対象ではない。いや、現在少女の内面を形作っている感情が、それを許さないのだ。
全身を凍りつかせるような羞恥心。
それが今のあおいを支配している感情だ。目の前に存在する現実にどうやって対処していいのかわからずに戦慄している。
「だ、大丈夫だよ・・・・・・け、啓子ちゃん・・・・」
あおいは、指を性器の中に食い込ませたままやっと人語を発することができた。
「あおいちゃん_?」
「う?!」
啓子に神経をとられるあまり指を局所に深く食い込ませてしまった。得体の知れない軟体動物の臓物を摑みとってしまった。
しかも、いやらしい粘液が糸を引く内臓の間を泳ぎ回る。その度に、少女の未成熟な官能は、乱雑に刺激されて、経験したことのない感覚に身を躍らせる。
しかし、大人の女性のように何処かいちばん感じるのを熟知しているわけではない。
めちゃくちゃに動かした指がたまたま触れる。その部分によって、官能を感じ取る度合いがちがう。 いわゆる、試行錯誤の段階なのである。幼児が手足を動かして触れながら世界の基礎を知るように、発達心理学が言う、初段階を踏んでいるわけである。
啓子が聞いたくぐもった声。
それはいわば宇宙語だった。このとき、自分が大人の入り口に立っていることに気づくことがなかった。
ただ、あおいの具合にたいする懸念だけが少女の初々しい脳を支配していた。その年令にしては大人びた性格を有しているとはいえ、しょせんは小学生の女の子にすぎなかった。
「しまった ―――」
あおいは冷たいドアに頬を押しつけて、火照りを取り除くことにした。
「あおいちゃん!」
「ちょっと、待ってよ!」
思わず大声を出すあおい。その態度が常ならぬ様子であることは声の様子から明かだった。しかし、壁の向こうに起こっていることを露知らない啓子は、あおいのことを察しようにも察しえなかった。
自分の親友が隠れて自慰に耽っているなどと、啓子は、想像もできなかったのである。ついでに触れておくと、この時、すでに啓子は自慰という言葉を知っており、自覚してそれを行っていた。自分よりもはるかに幼いと踏んでいるあおいがそれを知っているはずがない、少なくとも、啓子の主観から説明すれば――――の話しだが。
「あおいちゃん、もしかして、アレなの?」
「アレって?」
あおいはうそぶくことなく返した。本当にわからなかったのである、啓子が仄めかしたことが。言うまでもないことだが、啓子は生理のことを言っているのである。
もちろん、年頃から羞恥心のあまり言葉を濁したのだ。しかし、もとよりあおいは生理を迎えておらず、その言葉の意味することもわからなかった。
「何よ!?それ?」
不機嫌そうな声が響いてきた。まるで地獄の底から這い上がってくるように思えた。あまりにガラガラ声だったために、親友のそれだとは思えなかった。
あるいは時間の彼方から吹いてくる嵐のようにも思えた。それがあまりに距離が遠いために音はそれほど大きくないが、当地では大地が割れて何万人もの人がそこに落ち込んでいく。かつてそこに巨大な城がそびえていたとは信じられないほどに、昔の偉容は消え去ってしまった。
城が、街そのものが灰燼に帰したのである。二人が共有する遠い異世界が、彼女らに何かを語りかけたのかもしれない。
「大丈夫、おばさん呼ぼうか?」
「ヤメテ! それだけは?!」
「あおいちゃん!?」
親友の剣幕に、胃を抜かれたような気がした。今まで、自分は榊あおいについて何を知っていたというのだろう。今更ながらに猛省させられる思いだった。それとも何かあったのだろうか。そうでなくては説明がつかない。啓子は無理にでも個室に入り込もうとした。すなわち、あおいが入っている個室の隣に入り、便器を伝って侵入を試みたのである。
少女は親友の予期せぬ行動に度肝を抜かれた。意表をつかれるとはまさにこのことである。
「ナ!? け、啓子ちゃん!?」
「あお、あおいちゃん・・・・・・?」
啓子はすばやい身のこなしで颯爽と立ち落ちると、親友を見下ろした。何だか意地悪な気持が胃の中にあふれてくる。それは食道を通って口腔にまで込み上げてくる。
「な、何よ! け、啓子ちゃん・・・・・う?!」
あおいは蛇に睨まれたカエルのように身をよじった。しかし、狭い個室の中。逃げられる場所はない。自分を顧みると、パンツの中に手を突っ込んで立ち尽くしている。あまりに無様な格好だ。
「あら、何をしていたの?」
いままであおいに対して感じたことのない感情がふつふつとわき起こってくる。
――――これは憎しみ? でも、どうして?
自分自身にたいしても説明できない感情。
それは、居心地の悪い椅子に座らされているようなものである。啓子は非常に気持ちの悪い思いに身を悶えさせていた。
――――裏切られた。捨てられた!
「どうして、私が知らないことがあるのよ!?」
それはどう考えても自己中心的な考えだった。そんなことがわからない啓子ではない。しかし、理性でわかっていても感情が動いてくれない。まるで他人に強制されたように、預かり知らぬ思惟が産まれてくる。
――――お前は裏切って、去っていった。それなら。
「もう知らない!」
「ぁ、啓子ちゃん!? 待って!!」
あおいは自分に尻を向けて去っていこうとする親友を魚の目で見た。そして、近づいていった。
「じゃあ、何をしていたのか話して! パンツに手を突っ込んで何をやっていたの?」
右回れ右の要領でふり返った啓子は、あおいが思いも及ばないことを突きつけた。
「・・・・・・・ウウウ」
「どうしたの? 答えられないなら行くわよ。それに私を裏切るなら家に来なくてもいいわよ」
「ウウ・ウ・ウ・・ウ・ウ!?」
あおいは声を上げて泣き始めた。頬を伝っていく涙は、無言の抗議が含まれていた。そのことに少女じしん、はたして気づいていたのか疑問である。
しかし、幼い少女の洞察力では真実を摑むのは難しい。少女は立ち往生して事態を見つめることしかできなかった。
事実、答えようがなかったのも事実である。今、自分が行っていたことの意味も名称も知らないのである。
「わ、わからない・・・ただ?!」
「ただ?」
啓子は畳み掛ける。詰問の度合いを緩めようとしない。
「さ、さわると変な感じがするの・・・・ウウ・・ウ・ウ」
言い終わるなり幼児のように泣きじゃくりはじめるあおい。啓子はかぶりを振ると個室の扉を開けた。
「その話しは家でしょう」
「け、啓子ちゃん ――――私」
啓子は表情を和らげると、まるで恋人にそうするように口吻をあおいの耳に近づけた。そして、しかる後に、こう言ったのである。
「そんなこと、私だってやってるんだよ」
甘い吐息とともに、何か不思議な感覚が自分の胎内に、産まれるのを感じた。それは既視感の一種だったかもしれない。
しかしながら、それは懐かしいという一言で表現出来ない何かにまぶされていた。今、目の前にそれが存在し抱きしめることができるように思えたからだ。今、側にいる啓子は、啓子でない何者かのような気がする。しかし、両者は他人ではない・・・・・・・・・。
「何しているのよ、ママたち待ってるわよ」
「うう、うん ――――」
急いで両手を洗うと啓子を追った。
席に戻ると、そこは相変わらずレストランだった。給仕は客に畏まった表情で注文に対応しているし、趣味の悪いごちゃ混ぜ趣味といえば、相変わらずルイ14世とビアズレイがチークダンスを踊っていた。
それぞれの娘のことなど露知らぬと言った顔で、久子と祥子は、話し込んでいる。
「あら、ごちそうを待たして何をしていたの?」
久子はさらりと言ってのけたのである。あたかも今まで起きたことがあおいの妄想にすぎないかのように・・・・・。
あおいは真っ青になっていた。彼女よりも後に来たのに料理を完全に平らげていることにも、気づかなかったくらいだ。
「あおい、ママはこれで帰ることにするわ、赤木さん、娘をよろしくお願いします」
「ええ」
祥子はガラリと変わった久子の態度に、すぐには対応できなかった。そして、耳を傾けようとしたとき、既に彼女はいなくなっていた。
遠くで車のエンジンが発動する音。
そして、凍りついた娘だけが残された。
「どうしたの具合がわるいの? あおいちゃん?」
祥子はごく個性のない呼びかけしかできなかった。
「あ、雨が降ってきたんだね ―――――」
あおいを呼び覚ましたのは人間の声でなくて、自然の配剤だった。
「みぞれかもね ――――」
啓子は返した。
子供たちの夢見がちな態度にあきれたのか、とにかくこの場を離れるように、祥子は切り出した。
「そうだね、でもいいの? あおいちゃん、まだ半分も残ってるじゃない」
「ううん、いい」
あおいは、現実に戻された不快感を噛みしめながら言った。
「そうだ、あおいちゃん、絵は好きだったよね」
祥子のとつぜんの申し出に、あおいは戸惑いを隠さない。しかし、しばらくするとある画家の絵が好きなことを思いだした。
「そうだ、この前テレビでやっていた画家の絵が好きです。名前は憶えていないですけど」
「それってNHKでしょう?」
「井上順って言う画家なんだけど、外国人なのよ」
「ああ、そんなこと言ってましたっけ」
「ちょっと、待ってよ。どうして、井上順で外国人なのよ」
啓子は、すぐに話しに入っていけない苛立ちをストレートに表した。
「本名は、たしかミアエル=ィンギ、ニフィルテラピアの人よ。たしか、自分の過去のことは完全に忘れたいって日本に来たはずよ。それで以下にも日本人っていう名前が欲しいって頼んだらしいわ」
「それがどうして井上順なの?」
「ミアエル=ィンギ? ミアエル?」
祥子が啓子の質問に答える前に、あおいの動揺ははじまっていた。
あおいにとってみれば聞き慣れない外国語。しかし、少女の何処かでその名前は甘美な思いとともに受け止められていた。それが二日酔いのように、蘇ってきたわけだ。胃から込み上げ来るものに、少女は吐き気を憶えた。
テレビで視たときには、それほどに印象的でなかったのである。それが、今、少女の胸に響き、その体躯を叩き割ろうとしている。これはどうしたことだろう。
「行こうよ、行きましょうよ!」
「え!? う、うん」
自分から提案しておきながら、面食らった色に顔を塗り直してしまった。
「啓子、いいでしょう?」
「うん・・・・・」
何処か投げやりに答えた。実は、親友とは違う意味で、啓子も身の内の動揺を隠せずにいた。叩いてはならない扉を叩いてしまったかのように思われた。
しかも、それをしたのは啓子自身ではないのである。入ってはいけない部屋に踏み入れてしまいそう。そこにはきっと等身大の鏡があるにちがいないのだ。根拠もないのに啓子はそう感じていた。しかし、明快な反対理由もないので、あえて反論できなかった。
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