白亜の宮殿に、無声の泣き声が、響く。
「お前達、若い映画人には、理解できまいが、トーキー映画からは、雲の歌すら聞こえたものだ」とは、ある老映画人の繰り言だが、あながち、それは、嘘ではないだろう。
その老人が喜びそうな演出が、病院になされていた。
少女の哀しみは、建物にすら影響を与えている。よく見てみるがいい、廊下や壁には罅が入っているようだ。無水の涙は、密かに、病棟を侵食しているのだ。
その廊下を照美とはるかが歩いている。外部から見ると、大小の箱を取り合わせたように見える。その簡素な建築様式は、ル・コルビュジエを思わせる。
モダニズム建築が、宮殿と矛盾すると言う人がいるかもしれない。
しかしながら、アラビア世界あたりに、そのような宮殿があったような気がする。病院という女性を収容し、性的な羞恥を与える施設には、相応しい比喩であろう。言うまでもなく、この文脈においては、イスラム世界のハーレムを志向しているのだ。
イスラム世界といえば、女性は、全身のほとんどを白衣で覆っていると聞く。今の由加里はまさにその状態である。一人残された少女は、シーツを頭から被って、泣き続けている。いじめという刻印が少女に、刻み込まれているのである。
二人の足音が、薄れていくにつれて、それとは反比例に、その痛みはその色合いを濃くしていく。二人に身も心も支配されて、所有される。その証拠に、痛みを苦痛と思わなくなっていく自分を発見して、唖然とするのだった。
「ウウウウ・・ウ・・ウ・・ウ・・ウ・・・・うう!」
由加里は、声をひそめて泣き続ける。地平線近くにぼやける太陽は、オレンジ色に色褪せている。それは彼女が辿る運命を思わせた。赤色巨星。言わずとしれた恒星の終末期である。少女には、その太陽が、今現在の、自分の境遇を映しているようにしか、思えなかった。
さて、二人が由加里の病室を離れて、数分経ったころ、ようやくロビーに辿り着いた。ジャンボジェットの客室を何列も合わせた様子を思い浮かべてほしい。その壮観さがわかるにちがいない。一方向にきちんと並んだ様子は、何処かの空間を思い起こさせる。しばらく照美は、思い出せなかった。
―――そうが、学校か。
鋭敏な彼女は、すぐにその解答に辿り着いた。しかし、教卓がない。
そして、受付時間が枯れようとしているのか、空席が目立つ。黄昏れた老人たちが、数人、杖をついているだけだ。自分の名前を告げられて、立ち上がる様は、順番待ちの老人たちが、その死を告げられているようにも見える。
しかしながら、老人たちは、その死を黙って受け入れているようだ。既に、人間的な感情は、遠い過去に放り投げてしまったのだろう。
その席の一つに、鈴木ゆららが腰掛けている。彼女は別に美少女では、ないのだが、そんな黄土色の風景の中で、一本の花だった。しかし、それはタンポポや月見草の類であって、まちがっても、桜や橘の類ではないだろう。
ゆららは、肩を崩して、丸くなっている。その姿は、まるでネコのようだ。
「鈴木さん・・・・・・・・・・」
照美は、すまなさそうな顔をして、ゆららの肩を軽く叩いた。
「・・・・・」
彼女の瞳は、こころなしか、潤んでいるように見えた。その奇麗な瞳は、影が色濃く射していた。
照美は、優しげな表情を見せた。ゆららが見た照美は、とんと、由加里には縁のない代物である。 由加里が見たことがあるのは、自分に対する敵意と蔑視が微妙にブレンドされた、奇妙な表情。それに、肉食獣の嗜虐心が加わると由加里にとって、なじみの照美になる。
一方、ゆららが見たのは、その真逆を行く照美だった。だから、簡単に心を許す気になった。しかし、そうは単純な彼女ではない。自分の分際というものをわきまえている。いや。それ以上に、自分に対する評価が低い。それゆえに、照美のような素敵な人間に、まともに相手にしてもらえるとは思っていない。そのために高田のような輩の走狗となってしまってもいる。
「どうしたの? 今日はすまなかったね ―――」
照美は、表情にも増して、優しげな声をかけた。はるかは、自分はそんな甘い顔を見たことがない ――――と不満そうな顔つきだ。
「ど、どうして、こんなことをするんですか?」
「敬語? 友だちどうしなのに?」
「友だち?」
顔を顰めたゆららの顔はとても可愛らしい。これで中学生というのは詐欺だろう。単に、サイズの問題ではなく、本質的なところで、純粋に少女なのだ。簡単に表現すればませたところがないというべきか。
多少、天然パーマのかかった髪は、しっとりとしていて、パッと見では、整髪料をつけているようだ。当然のように中学では、校則でその利用は禁止されているために、何度も格子の魔の手に引っかかっては、涙を呑むような目にあっていた。
照美の目には、好ましく見えた。髪の豊かな輝きは、目の保養になるような気がした。高田や金江など口差がない連中からは、よく、ゴキブリ呼ばわりされていたものだが、何を言われても、全く反論らしい言葉を聞いたことがない。
高田のあくどい命令によって、針金で作った触角を頭につけて、教室中を走り回った。それは恥辱などという言葉では、表現できないほど辛い体験だった。
しかも、笑いながらそれを行ったのである。付け加えれば、積極的という但し書き付きである。
「ゴキブリ!あははは!ゴキブリ! 」
などと高田と金江たちは、腹を抱えて笑っていた。
ちなみに、すべてが終わったあとで、高田と金江によって、頭をなでなでしてもらっていた。まるで幼児扱いである。
そうやって、ジャブのように弱いいじめを永年に渡って受けてきたゆららと、由加里とでは自ずと状況が異なる。前者にとってみれば、ヘンな言い方だが、後者はいじめ初心車のぶんざいで、騒ぐなともで言いたくなる。もっとも、その残酷な仕打ちを思えば、同情もしたくなる。しかし ――――――――。
「あの人、小学校の時にいじめをしていたって本当なんです ――――の?」
「本当だとも」
照美の手が、ゆららのウエットした髪に触れる。
ゆららは、頬が自分のものではないように、なるのがわかる。そこが赤く発熱していくのが、見ていなくても、あたかも、視覚的に理解できる。まるで、幽体離脱して、第三者的に自分を見ているようにわかる ――――ということだ。
―――どうして、これほどの人が自分のような人間に目を向けるのだろう。
不思議でたまらないのだ。
「私、ばかだし ―――」
それは、彼女の常套句だ。由加里も聞いた。
「誰がばかだって?」
照美の意外と大きな手がゆららの頬を触れる。少女の脊髄に電気が流された。
音楽家の手の強さと温かみ。楽器を扱うには、その筋肉の発達に柔らかさと強さの微妙な複合が要求される。
まさに、彼女の手は、それに相応しい。百合絵などは、それを見越して嫌がる照美をその道へいざなったものだ。もしかしたら、未だに、それをあきらめていないかもしれない。
ゆららは、しかし、その手よりも声に注目していた。女性とは思えない低い声、アルトというには低すぎる。まさに低音の美声というべきだろう。
もしも、この声で歌ったらどれほど美しいか。そう、彼女に唯一誇れるものと言えば、歌だけだった。密かに歌を愛好しているのだが、その性格から表に出すのは、はばかれている。
「そんなの、照美さんが、知ってるでしょう?」
「友だちで、照美さんはないじゃない?」
「・・・・・・・・・・・・・?!」
その時はるかが、黙っていられなくなったのは当然だ。彼女を呼び捨てで呼ぶのを許しているのは、彼女だけなのだから・・・・・・・・・。
「照美ちゃんでいいじゃないか? くくくくくクククククク!!」
「ちょっと、何を笑っているのよ?!」
「ウウ・・ウ・ウ・ウ・ウウウ・・て、照美チャンだって?! くくくクククくくく!」
照美は抗議するが、照美は意に介さず、笑いこけている。自分で言って、ツボにはまってしまったのである。思えは、哀れな光景ではある。
「いい加減にしてよ」
照美はふくれた。
しかし、以前のような嫌悪の波を発してはいない。しかし、そんな自分に改めて気づくと、ばつが悪そうに顔を赤らめた。しかし、すぐに表情を元に戻すとゆららに向き直った。
「いいこと、あなたは、決してばかじゃないわ。他ならぬこの私が言うんだから本当よ」
「・・・・・・・・・・・」
たしかに、照美が言うなら真実の一端は存在するかもしれない。しかし、その一言だけでは、永年かかって、刻印されたレッテルが剥がれることはないのだ。ゆららの表情が変わらないのを見て取った照美は、言い方を変えることにした。
「必ずしも、知能指数が成績に反映するわけじゃないのよ。あなたはやり方が下手なだけ。いいわ、 私が教えてあげるわ。成績アップは保証するわよ」
「いいか、バカの好例を教えてやろうか、高田のような輩だな ――」
はるかが口を挟んだ。
「そうね、安心したらいいわ」
「・・ウウ・ウ・・ウ・・・」
照美の長い指が、ゆららの髪をかき分け、広い額を探り当てたときのことだ。彼女は思いあまって泣き出した。
今まで、彼女を人間として扱ってくれた他人はいなかった。
由加里の泣き顔が浮かんだが、あえて、打ち消した。
いや、家族でさえ、ゆららが成績が悪いことは、既定事実となっていた。優しい家族は、申し合わせたわけではないが。彼女のことを慮って、成績の話しは、タブーにしていた。
しかし、それ故に互いに、見えない気を遣い合い、永年の間に、見えない疲労が重なってしまった。その結果、笑い声が絶えない一家は、いつの間にか閑古鳥が鳴く家になってしまった。
家庭でさえ、そうなのだから外の世界のことは言わずもがなである。
みんな、ゆららを小馬鹿にし、唾を吐き続けた。表面的に笑っていられたのは、少女の悲しい自己保存の本能にすぎなかった。その笑顔の仮面。その内側は塩辛い液体で濡れそぼっていた。しかし、金属製の仮面はいつか錆びて、朽ちる。その時のことは考えていなかった。考えることはイコール死につながる恐怖につながるからだ。
今、彼女はそれを考えなくていい相手に出会った。嘘でもいいから、自分のことをばかにしない人間が存在した。そのことが嬉しい。自分ごときに、嘘を付いてくれる照美たちの優しさが、何よりも嬉しいのだ。
今、彼女が遇されている方法は、彼女にとってVIP以外の何者でもない。まさに大統領扱いと言っていい。
ゆららが感涙にむせんでいるとき、由加里は何をしていたのだろう。
はたして、パソコンを枕に寝入ってしまっていた。その現場を、可南子に押さえられたのである。
「由加里ちゃん、お注射の時間ですよ ・・・・・・っとお眠りですか?赤ちゃん?」
彼女が病室に入ってまず目に入ったのは、由加里の寝顔だった。睡眠中は、宿世の苦痛から解放されているのか、その寝顔は、普段とちがってとても可愛らしかった。
その愛らしさは、思わず食べてしまいそうなほどだった。
しかし、めざとい可南子の目に入ったのは、由加里にとって、致命傷になるほどのものだった。
パソコンのモニターである。
「あら、何を書いているのかしら? ――――え?」
可南子は目を疑った。
「ゆ、由加里! な、何をしてる!?」
西宮和之は、唖然とした。何と、娘がジッパーをおろすなり、彼の巨大なペニスを亀頭部をパクッと口に入れたのだ。そして、いかにも大切そうに、両手で支えると溝にそって舌を這わせたのである。
由加里は、14年の生で、夢にまで視た瞬間を味わっていた。父親のペニスを銜えて、舐め回すことが、彼女のはかない夢だったのである。
「ウグウググ・・・・・! や、やめんか! 由加里!」
和之は、今更ながら、この娘の浅ましさに呆れたのである。妻が口癖を良く聞いていた。
「由加里なんて、生むじゃなかったわ」
その意味を今更ながらに、再認識したのである。
「やっぱり、お前なんて、うちの子じゃない!!」
「ひぐ!」
和之の蹴りが、由加里の腹に命中した。しかし、より苦痛を感じたのは父親のほうだった。娘の歯が、息子の茎に突き刺さったのである。
「うぎぃ!!」
「え? この子、一体なんて言う物を読んでいるの?」
可南子は、ノートパソコンのかたわらに本を見つけた。それは相当に古びた本だった。『O嬢の物語』ジャン=ジャック・ポーヴェール著、澁澤龍彦訳。そして、その下に隠れていたのは、B4版の大きな写真集だった。『SM美少女、K子の生涯』
表紙には、そうとうきわどい写真が飾られていた。かなりの美少女が縛られている。だが、古めかしい印象を受けるのはどうしてだろう。
それは、ともかく可南子の目を引いたのは、彼女の胸である。縄で縛られて、飛び出ているとはいえ、その大きさは尋常ではない。
しかも、セーラー服からは、たわわな乳房が零れている。その大きさに、密やかなる嫉視を向けた。
「ふん、どうせ胸が大きいオンナはバカなのよ、だからこんなモデルにしかなりようがないだわ!」
その写真集を手にとって見ると、さらにおもしろい秘密を手に入れた。その裏に油性マジックで、こう書いてあるのだ。
向丘第二中学 2年3組 西宮由加里
錦原町23-2―1。
「ふふ、何て言う秘宝を、私は手に入れたのかしら」
可南子はその写真集を密かに、本棚の扉を開けると、中に放り込んだ。そして、すぐさま彼女のかわいいペットを起にかかった。
「ひ ――――――――――?!」
由加里は、知的に輝く瞳を歪めると、悲鳴を上げた。それは、小動物の断末魔を彷彿とさせた。可南子は、悪魔的な性格で、子どものころ、捨てられていた子猫やモルモットをおのれの趣向のために、殺したことがあるのである。
「ふふ、何ていう声をあげるの? 私はアクマじゃないわよ、取って喰いやしないわよ」
「見た!? 見たの? 見ましたか?」
少女は、パソコンを華奢な体で隠した。
「あら? あなたに愛されるなんて、うらやましいパソコンね?」
由加里の頭上に、絶望的な声が落ちた。まるで、金属バットで頭をかち割られたような気がする。目の前に赤い血が流れる。目の血管が絶望のあまり、出血したのか。
「ふふ、みたわよ」
「ただしクンって?誰? 由加里チャンの思い人?」
「え?」
ふいに安堵の色を浮かべる由加里。まるで空気と格闘している気分に襲われた。そのむなしさに息を吐く。
しかし、そんな気分も長続きしなかった。
「お薬を注射の時間ですよ」
「?」
一体、何を注射するというのだろう。看護婦が可南子だけに、得体の知れない薬かもしれない。自分の生殺与奪を彼女に握られていることに、なんとも言えない不安を感じた。
「ふふ、でも、二の腕に注射するわけじゃないのよ」
―――――え? まさかお尻?
由加里は恥ずかしさのあまり、それを言葉にすることができなかった。しかし、可南子がこれからしようとしていることは、恥ずかしいどころではないのだ。
「ちがうわ、これよ、普通のお注射とちがうでしょ?」
「な?」
それは注射というにはあまりに、不思議な形態をしていた。確かに注射器は注射器なのだが。まるでおもちゃのそれのように、チャチだ。そして、その先には針ではなくて、ストローのような透明な筒が嵌っている。
「それは ――――?」
由加里は、それを見たとたんに、悪寒を感じた。理性ではわかっていなくても、無意識ではその背後に存在するおぞましさをわかっていたのかもしれない。
「その注射器でね、これをお注射するの」
「?」
可南子が、見せたのは、正露丸ほどの大きさの薬瓶である。そこに横文字が書かれている。そして、その下に男性の名前が見えた。
SPERMA
遠藤唯司
その下の細かい文字は、角膜が汗を掻いたために、よく見えなかった。
「ス ――――スペル?」
「頭のいい由加里チャンならわかるでしょう?」
この時点で、先ほど見つけた秘宝のことを、明かにするつもりだった。しかし、よく考えて止めた。楽しいことは後に残しておこうと思ったのだ。彼女は食事でも、好きなおかずは後に残す。それが小さなころからの習慣ではないか。
悪魔の看護婦は、話しを続ける。
「この病院はねえ、避妊治療でも有名なのよ。知ってる?由加里チャン、避妊ってね、女性だけが原因じゃないのよ、たまに男性のせいってこともあるの」
「そ、それが、私になんの関係が、あるんですか?」
あくまで、自分には関係ないと思いたいらしい。要するに現実逃避である。
「これはねえ、ただしクンの精液なの?この中には、元気なオタマジャクシがいっぱい泳いでいるのよ、検査の結果わかったわ。問題ないってわかったから、破棄されるはずのを持ってきたのよ、由加里ちゃんのためにね?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
鋭敏な由加里のこと、この時点ですべてを理解してしまった。しかし、それを理性で認識するか否かは別であろう。目の前の人間は、自分に何やら、怖ろしいことをしようとしてる。粥のようになった脳細胞が理解できるのはその程度だった。
「由加里チャン、もう14歳でしょう?妊娠してもおかしくないわよね。初潮迎えてるんでしょう? 生物学的に、これは健康で正常なことよ。 それに由加里チャンは人間とは思えないくらい淫乱の変態さんだし ―――――――――」
「ヒイイィイイ!」
由加里は、悲鳴を挙げた。股間に可南子の手が伸びたのだ。子猫が踏みつけにされた声に似ていた。
かつて、高校生のころに犯した罪が蘇る。看護学校の受験に追われていた可南子は、道端で見つけた子猫を殺すことでストレスを処理していた。まるで、家のゴミを処理するように命を捨てたのである。人間として最低なのは、議論を待たない。
由加里は、その人非人に睨まれたのである。アクマの獲物にされたのである。生きたまま全身を刻まれ、苦痛の声を上げるだろう。この鬼畜は、少女が悶える姿を見物しなが、果てるのである。その後、少女の血があふれる風呂で、鼻歌を歌うにちがいない。
「ぃいいいいいいいいいい!」
すでに、少女の口は、人語を喋る道具ではない。声帯や舌は、声や言葉を構成するということを忘れてしまった。
彼女の瞳は、針になっている。その視線の先に、おぞましい注射器が薬瓶に挿入されるのが見えた。しかる後に、白い液体が逆注入されていく。
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その6個のアルファベッドは、由加里の頭のなかで、ばらばらに、ダンスを踊り始めた。
「ただしクンてどんな男だと思う? 白痴よ、知恵遅れなの! そんなのが子どもと持とうって言うのよ! 何て言うハレンチな話しかしら!?」
――――な!?
ヘンな話しだが、この時、可南子が汚らしい本心を明かにした。このことは、由加里にとって幸いだった ――――のだろうか?
それは歴史の神の判断に、委ねよう。
「ひどぃ! あなたアクマよ! 人間のクズだわ! 最低!どうしてそんなひどいこと言えるのよ!!」
由加里は、自らのことよりも、その見知らぬ男性のために、もちまえの優しさを発揮していた。
「そうね、由加里チャンは頭が良すぎるから、生まれる子は、その間を取って普通になるかもしれないわね」
「ムグググググぐぐぐ!」
由加里の口に、シーツを丸めたものが押し込められる。
「ちょっと、静かになさいね、子猫チャン」
なんと、はるかな昔、殺した猫たちと由加里を同一視しているのである。
「さ、用意できたわ、妊娠してもらいましょうか? そうね、たたしクンはこの病院に出入りしているわけだし、あなたを犯すっていう設定もムリないわね」
――――あなたの書いている小説に、相応しいじゃない?
そういう言葉をこのとき、すんでの所で、呑みこんだ。
喉に詰まったが、無視をした。愉しみは後まで残しておこう。
「さ、処女を失わないで、妊娠できるのよ、これってもしかして受胎告知かしら? 私って告知天使ね。まさに私に相応しい設定だわ」
このオンナにとって、現在起きていることは虚構なのだろうか。由加里は気が遠くなるのを感じた。今、口に詰め込まれているスーツは、あるものを思いだして、嗚咽を憶えた。
父親、和之のペニス。
目の前に、成人男性の亀頭が忠実に再生された。照美たちに見せられた映像だ。ネット世界に漂っている画像だと
はるかが教えてくれた。
それは、二人が西宮家を訪れたときのことだ。自宅のパソコンで見たのである。はるかは、由加里の耳元で囁いたものだ。
「いいこと? この履歴はずっと残るんだよ。 西宮のご両親に見てもらうかな?」
「心配しないでね、履歴の消し方は私たちだけが知ってるパスワードが必要なの? あなたが私たちの人形でいてくれる限り、ばらすことはないわよ」
こんなことを言う二人でも、可南子とは雲泥の差だ。何処というのではないが、人間の差というやつである。本来、人間というものは悪を行うでも善を行うでも、品というものがる。可南子が最悪とすれば、 照美とはるかは、最上級である。
――――助けて!ママ!パパ!冴子姉さん!郁子! 海崎さん、鋳崎さん!助けて!
「さあ、妊娠しまちょうね。14歳のママのご登場ですよ!はーい」
悪魔が笑い声を上げた。
由加里の目の前には、注射器が彼女の女性器に突き刺さろうとしている。それは、あたかも、乳幼児のそれのように、あからさまになっていた。
「お前達、若い映画人には、理解できまいが、トーキー映画からは、雲の歌すら聞こえたものだ」とは、ある老映画人の繰り言だが、あながち、それは、嘘ではないだろう。
その老人が喜びそうな演出が、病院になされていた。
少女の哀しみは、建物にすら影響を与えている。よく見てみるがいい、廊下や壁には罅が入っているようだ。無水の涙は、密かに、病棟を侵食しているのだ。
その廊下を照美とはるかが歩いている。外部から見ると、大小の箱を取り合わせたように見える。その簡素な建築様式は、ル・コルビュジエを思わせる。
モダニズム建築が、宮殿と矛盾すると言う人がいるかもしれない。
しかしながら、アラビア世界あたりに、そのような宮殿があったような気がする。病院という女性を収容し、性的な羞恥を与える施設には、相応しい比喩であろう。言うまでもなく、この文脈においては、イスラム世界のハーレムを志向しているのだ。
イスラム世界といえば、女性は、全身のほとんどを白衣で覆っていると聞く。今の由加里はまさにその状態である。一人残された少女は、シーツを頭から被って、泣き続けている。いじめという刻印が少女に、刻み込まれているのである。
二人の足音が、薄れていくにつれて、それとは反比例に、その痛みはその色合いを濃くしていく。二人に身も心も支配されて、所有される。その証拠に、痛みを苦痛と思わなくなっていく自分を発見して、唖然とするのだった。
「ウウウウ・・ウ・・ウ・・ウ・・ウ・・・・うう!」
由加里は、声をひそめて泣き続ける。地平線近くにぼやける太陽は、オレンジ色に色褪せている。それは彼女が辿る運命を思わせた。赤色巨星。言わずとしれた恒星の終末期である。少女には、その太陽が、今現在の、自分の境遇を映しているようにしか、思えなかった。
さて、二人が由加里の病室を離れて、数分経ったころ、ようやくロビーに辿り着いた。ジャンボジェットの客室を何列も合わせた様子を思い浮かべてほしい。その壮観さがわかるにちがいない。一方向にきちんと並んだ様子は、何処かの空間を思い起こさせる。しばらく照美は、思い出せなかった。
―――そうが、学校か。
鋭敏な彼女は、すぐにその解答に辿り着いた。しかし、教卓がない。
そして、受付時間が枯れようとしているのか、空席が目立つ。黄昏れた老人たちが、数人、杖をついているだけだ。自分の名前を告げられて、立ち上がる様は、順番待ちの老人たちが、その死を告げられているようにも見える。
しかしながら、老人たちは、その死を黙って受け入れているようだ。既に、人間的な感情は、遠い過去に放り投げてしまったのだろう。
その席の一つに、鈴木ゆららが腰掛けている。彼女は別に美少女では、ないのだが、そんな黄土色の風景の中で、一本の花だった。しかし、それはタンポポや月見草の類であって、まちがっても、桜や橘の類ではないだろう。
ゆららは、肩を崩して、丸くなっている。その姿は、まるでネコのようだ。
「鈴木さん・・・・・・・・・・」
照美は、すまなさそうな顔をして、ゆららの肩を軽く叩いた。
「・・・・・」
彼女の瞳は、こころなしか、潤んでいるように見えた。その奇麗な瞳は、影が色濃く射していた。
照美は、優しげな表情を見せた。ゆららが見た照美は、とんと、由加里には縁のない代物である。 由加里が見たことがあるのは、自分に対する敵意と蔑視が微妙にブレンドされた、奇妙な表情。それに、肉食獣の嗜虐心が加わると由加里にとって、なじみの照美になる。
一方、ゆららが見たのは、その真逆を行く照美だった。だから、簡単に心を許す気になった。しかし、そうは単純な彼女ではない。自分の分際というものをわきまえている。いや。それ以上に、自分に対する評価が低い。それゆえに、照美のような素敵な人間に、まともに相手にしてもらえるとは思っていない。そのために高田のような輩の走狗となってしまってもいる。
「どうしたの? 今日はすまなかったね ―――」
照美は、表情にも増して、優しげな声をかけた。はるかは、自分はそんな甘い顔を見たことがない ――――と不満そうな顔つきだ。
「ど、どうして、こんなことをするんですか?」
「敬語? 友だちどうしなのに?」
「友だち?」
顔を顰めたゆららの顔はとても可愛らしい。これで中学生というのは詐欺だろう。単に、サイズの問題ではなく、本質的なところで、純粋に少女なのだ。簡単に表現すればませたところがないというべきか。
多少、天然パーマのかかった髪は、しっとりとしていて、パッと見では、整髪料をつけているようだ。当然のように中学では、校則でその利用は禁止されているために、何度も格子の魔の手に引っかかっては、涙を呑むような目にあっていた。
照美の目には、好ましく見えた。髪の豊かな輝きは、目の保養になるような気がした。高田や金江など口差がない連中からは、よく、ゴキブリ呼ばわりされていたものだが、何を言われても、全く反論らしい言葉を聞いたことがない。
高田のあくどい命令によって、針金で作った触角を頭につけて、教室中を走り回った。それは恥辱などという言葉では、表現できないほど辛い体験だった。
しかも、笑いながらそれを行ったのである。付け加えれば、積極的という但し書き付きである。
「ゴキブリ!あははは!ゴキブリ! 」
などと高田と金江たちは、腹を抱えて笑っていた。
ちなみに、すべてが終わったあとで、高田と金江によって、頭をなでなでしてもらっていた。まるで幼児扱いである。
そうやって、ジャブのように弱いいじめを永年に渡って受けてきたゆららと、由加里とでは自ずと状況が異なる。前者にとってみれば、ヘンな言い方だが、後者はいじめ初心車のぶんざいで、騒ぐなともで言いたくなる。もっとも、その残酷な仕打ちを思えば、同情もしたくなる。しかし ――――――――。
「あの人、小学校の時にいじめをしていたって本当なんです ――――の?」
「本当だとも」
照美の手が、ゆららのウエットした髪に触れる。
ゆららは、頬が自分のものではないように、なるのがわかる。そこが赤く発熱していくのが、見ていなくても、あたかも、視覚的に理解できる。まるで、幽体離脱して、第三者的に自分を見ているようにわかる ――――ということだ。
―――どうして、これほどの人が自分のような人間に目を向けるのだろう。
不思議でたまらないのだ。
「私、ばかだし ―――」
それは、彼女の常套句だ。由加里も聞いた。
「誰がばかだって?」
照美の意外と大きな手がゆららの頬を触れる。少女の脊髄に電気が流された。
音楽家の手の強さと温かみ。楽器を扱うには、その筋肉の発達に柔らかさと強さの微妙な複合が要求される。
まさに、彼女の手は、それに相応しい。百合絵などは、それを見越して嫌がる照美をその道へいざなったものだ。もしかしたら、未だに、それをあきらめていないかもしれない。
ゆららは、しかし、その手よりも声に注目していた。女性とは思えない低い声、アルトというには低すぎる。まさに低音の美声というべきだろう。
もしも、この声で歌ったらどれほど美しいか。そう、彼女に唯一誇れるものと言えば、歌だけだった。密かに歌を愛好しているのだが、その性格から表に出すのは、はばかれている。
「そんなの、照美さんが、知ってるでしょう?」
「友だちで、照美さんはないじゃない?」
「・・・・・・・・・・・・・?!」
その時はるかが、黙っていられなくなったのは当然だ。彼女を呼び捨てで呼ぶのを許しているのは、彼女だけなのだから・・・・・・・・・。
「照美ちゃんでいいじゃないか? くくくくくクククククク!!」
「ちょっと、何を笑っているのよ?!」
「ウウ・・ウ・ウ・ウ・ウウウ・・て、照美チャンだって?! くくくクククくくく!」
照美は抗議するが、照美は意に介さず、笑いこけている。自分で言って、ツボにはまってしまったのである。思えは、哀れな光景ではある。
「いい加減にしてよ」
照美はふくれた。
しかし、以前のような嫌悪の波を発してはいない。しかし、そんな自分に改めて気づくと、ばつが悪そうに顔を赤らめた。しかし、すぐに表情を元に戻すとゆららに向き直った。
「いいこと、あなたは、決してばかじゃないわ。他ならぬこの私が言うんだから本当よ」
「・・・・・・・・・・・」
たしかに、照美が言うなら真実の一端は存在するかもしれない。しかし、その一言だけでは、永年かかって、刻印されたレッテルが剥がれることはないのだ。ゆららの表情が変わらないのを見て取った照美は、言い方を変えることにした。
「必ずしも、知能指数が成績に反映するわけじゃないのよ。あなたはやり方が下手なだけ。いいわ、 私が教えてあげるわ。成績アップは保証するわよ」
「いいか、バカの好例を教えてやろうか、高田のような輩だな ――」
はるかが口を挟んだ。
「そうね、安心したらいいわ」
「・・ウウ・ウ・・ウ・・・」
照美の長い指が、ゆららの髪をかき分け、広い額を探り当てたときのことだ。彼女は思いあまって泣き出した。
今まで、彼女を人間として扱ってくれた他人はいなかった。
由加里の泣き顔が浮かんだが、あえて、打ち消した。
いや、家族でさえ、ゆららが成績が悪いことは、既定事実となっていた。優しい家族は、申し合わせたわけではないが。彼女のことを慮って、成績の話しは、タブーにしていた。
しかし、それ故に互いに、見えない気を遣い合い、永年の間に、見えない疲労が重なってしまった。その結果、笑い声が絶えない一家は、いつの間にか閑古鳥が鳴く家になってしまった。
家庭でさえ、そうなのだから外の世界のことは言わずもがなである。
みんな、ゆららを小馬鹿にし、唾を吐き続けた。表面的に笑っていられたのは、少女の悲しい自己保存の本能にすぎなかった。その笑顔の仮面。その内側は塩辛い液体で濡れそぼっていた。しかし、金属製の仮面はいつか錆びて、朽ちる。その時のことは考えていなかった。考えることはイコール死につながる恐怖につながるからだ。
今、彼女はそれを考えなくていい相手に出会った。嘘でもいいから、自分のことをばかにしない人間が存在した。そのことが嬉しい。自分ごときに、嘘を付いてくれる照美たちの優しさが、何よりも嬉しいのだ。
今、彼女が遇されている方法は、彼女にとってVIP以外の何者でもない。まさに大統領扱いと言っていい。
ゆららが感涙にむせんでいるとき、由加里は何をしていたのだろう。
はたして、パソコンを枕に寝入ってしまっていた。その現場を、可南子に押さえられたのである。
「由加里ちゃん、お注射の時間ですよ ・・・・・・っとお眠りですか?赤ちゃん?」
彼女が病室に入ってまず目に入ったのは、由加里の寝顔だった。睡眠中は、宿世の苦痛から解放されているのか、その寝顔は、普段とちがってとても可愛らしかった。
その愛らしさは、思わず食べてしまいそうなほどだった。
しかし、めざとい可南子の目に入ったのは、由加里にとって、致命傷になるほどのものだった。
パソコンのモニターである。
「あら、何を書いているのかしら? ――――え?」
可南子は目を疑った。
「ゆ、由加里! な、何をしてる!?」
西宮和之は、唖然とした。何と、娘がジッパーをおろすなり、彼の巨大なペニスを亀頭部をパクッと口に入れたのだ。そして、いかにも大切そうに、両手で支えると溝にそって舌を這わせたのである。
由加里は、14年の生で、夢にまで視た瞬間を味わっていた。父親のペニスを銜えて、舐め回すことが、彼女のはかない夢だったのである。
「ウグウググ・・・・・! や、やめんか! 由加里!」
和之は、今更ながら、この娘の浅ましさに呆れたのである。妻が口癖を良く聞いていた。
「由加里なんて、生むじゃなかったわ」
その意味を今更ながらに、再認識したのである。
「やっぱり、お前なんて、うちの子じゃない!!」
「ひぐ!」
和之の蹴りが、由加里の腹に命中した。しかし、より苦痛を感じたのは父親のほうだった。娘の歯が、息子の茎に突き刺さったのである。
「うぎぃ!!」
「え? この子、一体なんて言う物を読んでいるの?」
可南子は、ノートパソコンのかたわらに本を見つけた。それは相当に古びた本だった。『O嬢の物語』ジャン=ジャック・ポーヴェール著、澁澤龍彦訳。そして、その下に隠れていたのは、B4版の大きな写真集だった。『SM美少女、K子の生涯』
表紙には、そうとうきわどい写真が飾られていた。かなりの美少女が縛られている。だが、古めかしい印象を受けるのはどうしてだろう。
それは、ともかく可南子の目を引いたのは、彼女の胸である。縄で縛られて、飛び出ているとはいえ、その大きさは尋常ではない。
しかも、セーラー服からは、たわわな乳房が零れている。その大きさに、密やかなる嫉視を向けた。
「ふん、どうせ胸が大きいオンナはバカなのよ、だからこんなモデルにしかなりようがないだわ!」
その写真集を手にとって見ると、さらにおもしろい秘密を手に入れた。その裏に油性マジックで、こう書いてあるのだ。
向丘第二中学 2年3組 西宮由加里
錦原町23-2―1。
「ふふ、何て言う秘宝を、私は手に入れたのかしら」
可南子はその写真集を密かに、本棚の扉を開けると、中に放り込んだ。そして、すぐさま彼女のかわいいペットを起にかかった。
「ひ ――――――――――?!」
由加里は、知的に輝く瞳を歪めると、悲鳴を上げた。それは、小動物の断末魔を彷彿とさせた。可南子は、悪魔的な性格で、子どものころ、捨てられていた子猫やモルモットをおのれの趣向のために、殺したことがあるのである。
「ふふ、何ていう声をあげるの? 私はアクマじゃないわよ、取って喰いやしないわよ」
「見た!? 見たの? 見ましたか?」
少女は、パソコンを華奢な体で隠した。
「あら? あなたに愛されるなんて、うらやましいパソコンね?」
由加里の頭上に、絶望的な声が落ちた。まるで、金属バットで頭をかち割られたような気がする。目の前に赤い血が流れる。目の血管が絶望のあまり、出血したのか。
「ふふ、みたわよ」
「ただしクンって?誰? 由加里チャンの思い人?」
「え?」
ふいに安堵の色を浮かべる由加里。まるで空気と格闘している気分に襲われた。そのむなしさに息を吐く。
しかし、そんな気分も長続きしなかった。
「お薬を注射の時間ですよ」
「?」
一体、何を注射するというのだろう。看護婦が可南子だけに、得体の知れない薬かもしれない。自分の生殺与奪を彼女に握られていることに、なんとも言えない不安を感じた。
「ふふ、でも、二の腕に注射するわけじゃないのよ」
―――――え? まさかお尻?
由加里は恥ずかしさのあまり、それを言葉にすることができなかった。しかし、可南子がこれからしようとしていることは、恥ずかしいどころではないのだ。
「ちがうわ、これよ、普通のお注射とちがうでしょ?」
「な?」
それは注射というにはあまりに、不思議な形態をしていた。確かに注射器は注射器なのだが。まるでおもちゃのそれのように、チャチだ。そして、その先には針ではなくて、ストローのような透明な筒が嵌っている。
「それは ――――?」
由加里は、それを見たとたんに、悪寒を感じた。理性ではわかっていなくても、無意識ではその背後に存在するおぞましさをわかっていたのかもしれない。
「その注射器でね、これをお注射するの」
「?」
可南子が、見せたのは、正露丸ほどの大きさの薬瓶である。そこに横文字が書かれている。そして、その下に男性の名前が見えた。
SPERMA
遠藤唯司
その下の細かい文字は、角膜が汗を掻いたために、よく見えなかった。
「ス ――――スペル?」
「頭のいい由加里チャンならわかるでしょう?」
この時点で、先ほど見つけた秘宝のことを、明かにするつもりだった。しかし、よく考えて止めた。楽しいことは後に残しておこうと思ったのだ。彼女は食事でも、好きなおかずは後に残す。それが小さなころからの習慣ではないか。
悪魔の看護婦は、話しを続ける。
「この病院はねえ、避妊治療でも有名なのよ。知ってる?由加里チャン、避妊ってね、女性だけが原因じゃないのよ、たまに男性のせいってこともあるの」
「そ、それが、私になんの関係が、あるんですか?」
あくまで、自分には関係ないと思いたいらしい。要するに現実逃避である。
「これはねえ、ただしクンの精液なの?この中には、元気なオタマジャクシがいっぱい泳いでいるのよ、検査の結果わかったわ。問題ないってわかったから、破棄されるはずのを持ってきたのよ、由加里ちゃんのためにね?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
鋭敏な由加里のこと、この時点ですべてを理解してしまった。しかし、それを理性で認識するか否かは別であろう。目の前の人間は、自分に何やら、怖ろしいことをしようとしてる。粥のようになった脳細胞が理解できるのはその程度だった。
「由加里チャン、もう14歳でしょう?妊娠してもおかしくないわよね。初潮迎えてるんでしょう? 生物学的に、これは健康で正常なことよ。 それに由加里チャンは人間とは思えないくらい淫乱の変態さんだし ―――――――――」
「ヒイイィイイ!」
由加里は、悲鳴を挙げた。股間に可南子の手が伸びたのだ。子猫が踏みつけにされた声に似ていた。
かつて、高校生のころに犯した罪が蘇る。看護学校の受験に追われていた可南子は、道端で見つけた子猫を殺すことでストレスを処理していた。まるで、家のゴミを処理するように命を捨てたのである。人間として最低なのは、議論を待たない。
由加里は、その人非人に睨まれたのである。アクマの獲物にされたのである。生きたまま全身を刻まれ、苦痛の声を上げるだろう。この鬼畜は、少女が悶える姿を見物しなが、果てるのである。その後、少女の血があふれる風呂で、鼻歌を歌うにちがいない。
「ぃいいいいいいいいいい!」
すでに、少女の口は、人語を喋る道具ではない。声帯や舌は、声や言葉を構成するということを忘れてしまった。
彼女の瞳は、針になっている。その視線の先に、おぞましい注射器が薬瓶に挿入されるのが見えた。しかる後に、白い液体が逆注入されていく。
S P E R M A
その6個のアルファベッドは、由加里の頭のなかで、ばらばらに、ダンスを踊り始めた。
「ただしクンてどんな男だと思う? 白痴よ、知恵遅れなの! そんなのが子どもと持とうって言うのよ! 何て言うハレンチな話しかしら!?」
――――な!?
ヘンな話しだが、この時、可南子が汚らしい本心を明かにした。このことは、由加里にとって幸いだった ――――のだろうか?
それは歴史の神の判断に、委ねよう。
「ひどぃ! あなたアクマよ! 人間のクズだわ! 最低!どうしてそんなひどいこと言えるのよ!!」
由加里は、自らのことよりも、その見知らぬ男性のために、もちまえの優しさを発揮していた。
「そうね、由加里チャンは頭が良すぎるから、生まれる子は、その間を取って普通になるかもしれないわね」
「ムグググググぐぐぐ!」
由加里の口に、シーツを丸めたものが押し込められる。
「ちょっと、静かになさいね、子猫チャン」
なんと、はるかな昔、殺した猫たちと由加里を同一視しているのである。
「さ、用意できたわ、妊娠してもらいましょうか? そうね、たたしクンはこの病院に出入りしているわけだし、あなたを犯すっていう設定もムリないわね」
――――あなたの書いている小説に、相応しいじゃない?
そういう言葉をこのとき、すんでの所で、呑みこんだ。
喉に詰まったが、無視をした。愉しみは後まで残しておこう。
「さ、処女を失わないで、妊娠できるのよ、これってもしかして受胎告知かしら? 私って告知天使ね。まさに私に相応しい設定だわ」
このオンナにとって、現在起きていることは虚構なのだろうか。由加里は気が遠くなるのを感じた。今、口に詰め込まれているスーツは、あるものを思いだして、嗚咽を憶えた。
父親、和之のペニス。
目の前に、成人男性の亀頭が忠実に再生された。照美たちに見せられた映像だ。ネット世界に漂っている画像だと
はるかが教えてくれた。
それは、二人が西宮家を訪れたときのことだ。自宅のパソコンで見たのである。はるかは、由加里の耳元で囁いたものだ。
「いいこと? この履歴はずっと残るんだよ。 西宮のご両親に見てもらうかな?」
「心配しないでね、履歴の消し方は私たちだけが知ってるパスワードが必要なの? あなたが私たちの人形でいてくれる限り、ばらすことはないわよ」
こんなことを言う二人でも、可南子とは雲泥の差だ。何処というのではないが、人間の差というやつである。本来、人間というものは悪を行うでも善を行うでも、品というものがる。可南子が最悪とすれば、 照美とはるかは、最上級である。
――――助けて!ママ!パパ!冴子姉さん!郁子! 海崎さん、鋳崎さん!助けて!
「さあ、妊娠しまちょうね。14歳のママのご登場ですよ!はーい」
悪魔が笑い声を上げた。
由加里の目の前には、注射器が彼女の女性器に突き刺さろうとしている。それは、あたかも、乳幼児のそれのように、あからさまになっていた。
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