「そうだ、家政婦、忘れ物、あんたの夕御飯よ!」
「茉莉!」
残照を切り裂くような声とともに、あおいの頬に飛んできたものは、500円硬貨だった。榊家の浴室は広大で、目標までかなり距離があるにもかかわらず、それは、的を誤らなかった。あおいの眉間に当たって、タイルの床に転がった。
犠牲者の目には、それが螺旋に回転しながら、堕ちる様が、まるで、自分の運命を暗示しているように見えたかもしれない。
たしかに、見えない血が、少女の白い眉間に、不気味な糸を垂らしていたのである。それは、少女が美しいだけに、その不気味さを際だたせていたのである。その血は、心が流した血だったかもしれない。
悲しければ、心は涙を流したりもするし、血も流したりもするのだ。
しかし、あおいは、血まみれになった顔で、硬貨を見続けていた。それは、タイルの床に異次元の音と、奇妙な残像のハーモニーを造りながら、回転を終えた。
――――夕御飯?
最初、少女はその言葉の意味を理解できなかった。
「茉莉?」
あおいは、叫んだが、その意味を問うべき相手は、あっという間に消え去ってしまった。
「ウウ・・ウ・ウ、ゆ、有希江お姉ちゃん?!」
だから、それを有希江にぶつけるしかなかった。
「私にもわからない、一体どういうこと?」
有希江は途方にくれた。何が起こっているのだろう。茉莉が、あおいに対する不満を溜めていることは、端から見ていても、わかった。だから、いつか注意しようと、機会を見つけようとしていたのだ。しかし、いざ、爆発してみて、これほどとは思っていなかった。
いや、家族全体の、あおいに対する態度が、こんなに急変するとは、とてもついて行けなかった。だが、有希江自身、妹に対して、感情が変わっていくことに気付きはじめていた。敵意や憎しみというのではないが、熱意が失せようとしている。
それは、肉親なら会って当たり前の熱意だ。例え、互いの感情が愛情やいたわりといったプラスでなくてもよい。憎しみや殺意といった、一般的にはマイナスのエネルギーであっても、そこには、他人にはない熱意があるはずなのだ。
いま、その熱意が失せようとしている。今、有希江の膝で、おいおい泣いているあおいを見ても、(かわいそう)と思うだけだ。それは他人に対する憐憫である。街を歩いていて、誰も知らない小学生が、いじめられていたとする。その子を哀れむのと同程度の(かわいそう)にすぎない。それは、いくら払ってもただの、同情であって、おのれの身を切り売りしても、与えたいと思う、肉親の情ではない。
―――わかったわよ! あなたは、私たちよりも、何処の馬とも知れない人たちを選んだのね、汚らわしい有色人種の土民を!! だったら、いいわよ、あなたなんて、他人だわ! どうとれもすればいい!!
――――ええ?え?!有色人種だって? 土民? 何だって?私たら、こんなことを!?
その時、有希江の脳裏に差し込んだのは、光の矢だった。その矢には、彼女が想像したこともない映像と音声が塗られていた。それは、毒だったかもしれない。一本の毒矢が、飛んできたのである。
「あれ? 私、何してたんだろう?」
「有希江お姉ちゃん! ウウ・ウ・ウ・ウ・・ウ!」
気が付くと、あおいが、まだ泣き伏していた。有希江は、この場所にいながら、億万浄土の彼方へ旅をして、鳶帰りで戻ったような気がした。
しかしながら、こともあろうに、つい、数秒前に見聞きしたすべての映像と音声を忘れてしまったというのである。
「あおい、それにしてもとんでもない寒さね――」
まだ、覚醒がしっくりと来ないのか、返事も何処か抜けている。
「有希江お姉ちゃん、どうしたらいいの? 私? 何がいけなかったの?」
「・・・・・・・・・・」
その言葉に、有希江は敏感に反応した。その理由はわからない。しかし、億万浄土からやってきた通信のように思えた。
「あなたは、やっぱりそうなのよ! 人のことなんて何も考えないのよ!」
「有希江お姉・・・・・・!?」
ふいをつかれた由加里は、姉の顔をまざまざと見た。急に、温かい膝から投げ出されて、あどけない顔は、苦痛と恐怖に歪んでいる。
無性に腹が立ってくる。その理由がわからないのが、余計に有希江を苛立たせた。しかし、そんなことがあおいに通じるわけはない。何かわからないが、自分の態度が、姉を怒らせたらしい。由加里は、その理由を探ろうと、自分の体内に指を入れてみたが、答えらしい答えに手を触れることはできなかった。
「ど、どうしたの? ゆ、有希江お姉ちゃん!?」
「あなた、一体、みんなに何をしたの?!」
それは、妹にではなく、自分に対しての問いだったかもしれない。
「あ、あおい、何もしてないよ!」
おいは、500円硬貨を握りしめながら泣くばかりだ。母親がこんなことを、まさか本当にやるとは思っていなかった。腹立ちまぎれの冗談かと高をくくっていたのだ。しかし、同情の念がわき起こってこない。怒りが込み上げてこないのはどうしてだろう。
自分は、この妹をとても可愛がっていたはずだ。わがままだけど、本当は人の気持ちがよくわかる優しい子。しかし、そのやり方がひとと違うために、数々の誤解を買っていた。そんなあおいをみんな好きだったはずだ。すくなくとも、自分は好きなはずだ。そういう認識を持っていたはずなのに。
「とりあえず、ママのところに言いに行くから」
「あおいも ―――」
「いや、あんたは一緒に行かないほうがいい」
それは直感的に出した答えだった。有希江は、妹の顔を見た。完全に、顔面蒼白で、ほとんど生きた死体のようになっていた。息が白い。ふと視線を下げる。
「あおい、足が真っ赤じゃない」
「裸足で、やれって言われたから・・・・」
あおいは、自らの足を改めて見つめた。その足はまるで蛸の足のようになっている。こんなに早く霜焼けになるものだろうか。いや、少女は生来、そんな病気になったことはない。そういう状況に堕ちいる機会がなかったのである。
「早く、出ないと本当に霜焼けになっちゃうよ。よく拭くんだよ。」
「うん ―――――」
姉の優しい言葉に、あおいは、思わず目が潤んでしまった。こんな時でないと、感じない温かさだ。普段、自分はこんな温かい愛情に、守られていたのか。今更ながらに気づいて、涙の量が増える。
姉に促されて、浴室を出ようとしたとき、聞き慣れたメロディが鳴った。携帯である。本人に似合わない、それはあくまで、あおいが言い続けた言葉だが、ショパンのノクターンは、赤木啓子の着信だった。
「あああ、啓子ちゃん?」
「どうしたの? 何かあったの? あおいちゃん?」
携帯の向こうから、すっとんきょうな声が聞こえてくる。平時、冷静な彼女らしくない。しかし、その理由が、自分にあるとは、このときあおいは露ほどにも考えなかった。ただ、自分が急に着せられた服のひどさに、対応できなかった少女は、友人に気を遣う余裕などあるはずはなかった。
しかし、有希江が背中を耳にして、聞いたあおいの声からすると、すでに、かつての元気さを取り戻しているのがわかる。だが、よく聞いてみれば、無理して、作っているのは、明かだった。
有希江はそれに気づかなかった。いや、気づこうとしていなかったのかもしれない。この時、彼女は、榊家が向かっている大きなベクトルに、無意識のうちに従うことにしていたのかもしれない。
「え? 行っていいの?」
あおいの声は、たしかに浮き足だっていた。彼女が、浴室から出るとき、有希江の姿はなかった。
「もう、ママのところに行ったのかな」
多分、うまく取りなしてくれるにちがいない。少女は姉に期待するほかはなかった。いまのところ、正気でいてくれているのは、有希江だけだった。彼女の主観からすれば、この家はほとんど狂っているとしか思えない。
何か巨大な車輪が、回っているような気がする。何かが動いている。何かが変わろうとしている。昨日見た柱は、今日、見ている柱と、決して同じではない。
それを考えると、経験したことのない不安で押し潰されそうになる。
あおいは意を決して、久子のところに行くことにした。啓子と交わした約束のことを話すためである。
母親がいるはずのダイニングからは、家族の団欒の声が聞こえる。それはいつもと変わらない光景だった。たったひとつだけを除けば、昨日と全く同じである。そのたったひとつとは、あおいが抜けていることである。
――――私もあの輪に入りたい、いや、かならず、入れるはず。
根拠のない確信の元に、扉を開くと、一瞬で、笑い声が凍り付いた。四人のあおいに降り注ぐ視線は、かってのそれではない、家族に対するそれでなかった。
「あ、あの ――――」
「ご苦労さん、お掃除は終わったのね、あおいさん」
「・・・・・?!」
久子の言いようはさらに酷薄で、辛辣だった。
「あおいさん、部屋に入るときはノックするのよ」
「・・・・うん、ごめん」
「ごめんだって?」
久子は怪訝な顔をしたが、あおいはそれを無視することした。機先を制することにしたのだ。懐から、500円硬貨を取り出すと、母親の前に置いた。コトリという音は、あおいに耳には、なぜか、とても大きく聞こえた。まるで、鼓膜が破れそうになるほどだった。
「ママ、これって、冗談だよね、夕御飯って、冗談きついよ! それに、あした、啓子ちゃんに誘われたんだ、泊まりにいってもいい?」
一気に用件を言い終わると、あおいは笑ってみせた。今までのように笑ったつもりだったが、口の端当たりが、微妙に引きつるのを防ぐことはできなかった。
「度重なる失言ね、あおいさんは、他人をママって呼ぶの? それにごめんですって? とんでもない家政婦ね、今すぐにでも出て行ってもいいのよ」
「・・・・・・・・」
凍り付いた空気に、罅が入った。すくなくとも、あおいの網膜は、そのような情景を映した。
「・・・・・なんの。なんの冗談なの!? ねえ! もうヤメテよ!! いや!ねえ! 有希江お姉ちゃん?!」
あおいは、藁を摑む思いで、有希江に救いを求めた。
「・・・・あおい」
「有希江お姉ちゃん!」
何かが違う。確かに、さきほどの彼女は、あおいに同情的だったはずだ。それが、どうしたというのだろう。たった数分に、何があったというのだろう。まるで、あおいを憎む病原菌があって、次々と感染してしまったかのようだ。
「何を世迷い言を言っているの? この子は、あなたのお姉さんじゃないのよ、もしかして、頭がおかしくなったのかしら? 実家のご両親にそう報告してもいいかしら?」
決して、芝居をしているように見えない。久子にそういう趣味はなかったはずだ。あおいの知っている範囲では、少なくとも、そうだった。もしかして、学生時代に、演劇部にでも所属していたのだろうか。
有希江は、変わり果ててしまった母親を見つめた。あおいは、涙で部屋中が濡れてしまうのえはないかと思われるほどの剣幕で、泣きわめいている。
「ごめんなさい! 本当に、ごめんなさい!ねえ、教えて、ママ! あおいが何をしたっていうの!?」
「・・・・・・・・・」
有希江はある事実を見逃さなかった。茉莉がかすかに笑っているのである。その笑みは悪魔のそれを彷彿とさせた。いままで、有希江が知っている茉莉ではなかった。
―――やはり、あのことが、茉莉を追いつめていたのかしら? でも、ずっとそんな風には見えなかったのに。
有希江には、それが榊家に刺さった棘のように思えてならなかった。しかし、そのことで、あおいが茉莉をいじめたことはなかったはずだ。少なくとも、彼女が知る限りでは、見たことがない。
「その啓子ちゃんって子しらないけど、そんなに行きたいなら、言ってもいいわよ、ただし、もう帰ってこなくてもいいわ」
久子は、泣きじゃくる我が子を足下にして、ごく自然に言いのけた。
「ウウ・ウ・ウ・ウ・ウ・ウ・ウ!ママ!?」
その小さな躰が、涙で溶けそうになる勢いで、泣きじゃくるあおい。仕方あるまい、産まれてからずっと、虐待を受けてきたならともかく、今日の今日まで、温かい愛情の毛布にくるまれて育ってきたのだ。それが、急に寒風吹き荒む大地に、放り出されたのだ。動転しない方が異常だろう。
しかし、久子は、溺死寸前の娘に、情け容赦なく次ぎの言葉を吐いたのである。
「いいわよ、帰ってきても。だけど、条件があるわ、明日までに、主人である、私たちに奉仕しなさい」
「な、何すれば、ウウ・ウ・ウ・ウ・ウ・ウウ・・・・・・・!」
「それは自分で考えなさい。もしも、みんなが満足できたら、行ってもいいわよ、特別に、休暇を上げる。だけど交通費は、毎日の食事代から貰いますからね」
有希江は、久子が目をつり上げているのが、背後からでも、手に取るようにわかった。妹は、水の全く存在しない部屋で、溺死していた。
家族の急変は、あおいの予想をはるかに超えていた。まるである時刻を境に、世界が一変してしまったかのようだ。自分は、何処か別世界に飛ばされてしまったとでもいうのだろうか。家も家具も、家族もみんな同じなのに、何かが決定的に違う。有希江がいつも身につけているイヤリングまで同じなのに、世界は、あおいにとって完全に異国になってしまった。ちなみに、それは、サーファーである彼からプレゼントされた品で、サーフボードを形取っている。
少女は、確かに家族とは違う流れに迷い込んでしまったのだ。皮肉なことに、元々、それは自ら望んだことだった。
今、あおいは風呂場にいる。昼間のこんな時間に、ここにいることは、今までほとんどなかったことだ。しかし、ここにいる理由も、普段とはまったく違う。今までほとんど家の手伝いなどしない彼女にとって、完全に不慣れなことだった。
シュシュシュという音が、この薄暗い空間に響く。何か、硬い者どうしを擦り合わせる音だ。
何処か孤独を思わせる音。現在、あおいが置かれている状況を例えてみるならば、巨大かつ堅牢な石たちに囲まれた中世の牢獄。その中では、白髪白髭の老人が、何のおまじないか、石と石を擦り合わせている。惨めなことに、この行為だけが、彼の世界に対する働きかけだとでも言うのだろうか。
何処か、ここでない世界を、うつろな目で見やりながら、からくり人形のように、両手を互いに動かしている。石が擦り合うのも恣意的なことでなしに、偶然のようにすら思える。それほどに、その音は、生身の人間が持つ意識というものを感じさせないのだ。
何度この単調な行為を繰り返してきたのであろう。何時、どんな理由で、ここに連れてこられ、閉じこめられたのか、老人は、今となっては憶えていない。ただ、単調で陰鬱な時間が過ぎていくだけだ。
昼間だというのに、アポロンの祝福から完全に無視されたこの場所にいると、時間の感覚などあさっての方向へと去っていく。
真冬の浴室は、凍えるほどに寒い。まるで、全身の血液が凍って、躰から飛び出てしまいそうだ。コーラの瓶を冷凍庫に入れたときのことを思いだしてほしい。スコンという音とともに、割れたはずだ。
その時と同じように、あおいはその可憐な心が壊れてしまいそうなのだ。
浴室の場合、それほど極端ではないが、プライバシーの保護の観点から、光が射さない場所にあるのが普通だ。このことが、余計に、この場所をシベリアの流刑地にしたてている。あおいは、実の家族から追放されたのだ。そして、この地で、頬を冷気で真っ赤にして、かじかむ手足を動かしている。
厳寒の中での風呂掃除。慣れぬ手つきで泡を擦りつけていく。その泡のひとつひとつが、割れずに凍ってしまいそうだ。吐き出す息は、あくまで白い。こんなところで、恵子おばさんは、何も文句を言わずに、掃除をしていたのだ。かつて、久子は家政婦を雇うと言ったのだが、自分でやると恵子は言ってきかなかった。
そして、久子は、あおいに浴室の掃除を命じた。それも、この寒空に、裸足でするように厳しく言ったのである。
――――寒い、寒いよぉ! 今まで手伝ってあげなくて、ごめんね、恵子おばさん。
思わず、涙がこぼれる。どうして、今まで手伝ってあげなかったのだろう。こんなに辛いことだとは夢にも思わなかった。
「ひ! 痛い! つうぅ!」
思わずスポンジを落としてしまった。タイルとタイルの凹凸に指をぶつけてしまったのか、知らぬうちに、血の糸が這っている。そのとき、背後から冷たい声が聞こえた。
「ちょっと! 家政婦! 何をさぼっているのよ」
「ま、茉莉ちゃん!?ひ!痛い!」
そう呼んだとたんに何か硬いものが飛んできた。その方向にふり返ると、はたして、妹の茉莉が立っていた。
「何言ってるのよ! あたしはお嬢様なのよ!」
「痛い! やめ!ひ!うぐ!」
抗議する余裕すら与えられずに、次ぎの攻撃が加えられる。茉莉の足先が、あおいのみぞおちに食い込む。まさか、そこが急所だとわかってやったわけではなかろうが、結果として、あおいに、徹底的なダメージを与えた。猛烈な苦痛のために、しばらく、呻き声すら出せない。冷たい脂汗が額に滲む。その不自然な温かさと、タイルの冷たさは、少女の精神を異常な不均衡へと導くのだった。
いや、それ以上にあれほどおとなしい妹の変貌を、容易に、認めることはできなかった。あれほど、従順で、姉になついていた妹がどうしたことだろう。まさか普段から、自分を憎んでいたのだろうか。あんなにおとなしい妹の仮面の裏で ――――――――。
「ま、茉莉ちゃん!」
「まだ言うの? 家政婦のくせに!」
その時、浴室の鏡に、自分を見た。茉莉の足下に、まるで犬か奴隷のように、惨めに転がる自分が見えた。そして、彼女は、そんな自分を平然と見下ろしている。親友かふたごの姉妹のように思っていたのは自分だけだったのだろうか。上の二人が、自分たちと年齢が隔たっているために、竹馬の友のように育った。あおいは、妹が自分に信頼のすべてを寄せてくれていると思っていた。
「ほら、ちゃんと働きなさいよ、家政婦でしょう?!」
「グ」
茉莉の足が今度は、背中を踏みつける。まるで巨大怪獣に踏みつけられたドームのように、無惨に崩れ落ちる。
「ヤメテ ――――」
その声は、まるで壊れたオルゴールを思わせた。悲鳴と簡単に表すには、あまりにも涙を内包していた。茉莉は、そんなことは構わずに容赦なく踏み潰す。
「グぎィ ・・・・・・・」
オルゴールは、ごく器械的な音とともに、完全に潰されてしまった。
「本当に、役に立たない家政婦ね、きっと、もうクビよ、あんたなんて生ごみみたいに捨てられちゃえばいいのよ!」
上から振ってくる声は、とても茉莉のそれとは思えない。しかし、確かに彼女の声なのだ。9年間、その声を聞いてきたあおいが保証するのだから、それは確かなことだ。
「どうして? こんなことするの?!」
あおいは、妹の顔を仰ぎ見た。
「・・・・・?!」
濡れた大きな瞳が、上目遣いに光る。その光は、茉莉の心の何処かを刺激した。その部分は ―――、少女の脳深く沈む記憶を、多少なりとも蘇らせたかもしれない。しかしながら、ここのところ、その家を包んだ空気は少女をさらなる攻撃に踏み切らせた。
「ィぐ!」
「ほら、ちゃんと拭くの!!」
「ウウ・ウ・ウ・・ウ・ウ・うう!!」
あおいは、茉莉の、いや、茉莉の背後に控える力に圧されて、ぞうきんを拾った。そして、それを再び、浴槽に擦りつけはじめる。
「ちゃんと、お仕事するのよ、ごほうびにエサを持ってきてあげたんだから」
――――この子は、こんなに喋る子だったけ?
凍ってしまいそうな涙に手足を滑らせながらも、ぞうきんを動かしながら思った。天と地が逆転するほどの、ショックに心を動揺させられながらも、一方で、ある部分は健在で、理性的な思考を有し、物事を達観するのだった。しかし、それを直に見せつけられるあおいとしては、たまったものではない。手足を椅子に縛り付けられて、悪口を無制限に聞かされるようなものである。例え、それがビデオやテープであっても、とうてい耐えうるものではないだろう。
「ウウ・・・ウ・ウ、なんで、どうして? お姉ちゃんが何をしたっているの? うう・う・う・・う」
さらに暴力を受けることがわかっていながら、どうしようもない言葉が零れてくる。それは、必ずしも、 茉莉に向けて発した言葉ではないかもしれない。
「お姉ちゃんって誰のこと?」
「ウウ・・ウ・ウ・・ウ・うう!」
茉莉が見たのは、姉の恨めしさに満ちた瞳だった。それは、さきほどの上目遣いの目と違って、明らかに姉の視線だった。すなわち、人を上から見る目つきである。それは姉としての威厳を意味した。
「・・・・・・・・!?」
さすがにひるむ茉莉。生まれてきたころから、その目で言い意味でも、悪い意味でも睨みつけられてきた妹の身である。さすがに上の二人は、姉とは言っても、巨樹すぎた。
その一方あおいとは、双子の姉妹のように育ったのである。しかしながら、そこにはたしかに位階なるものが存在した。
それを家族は否定したが、無意識のうちに、あおいを上座に据えていたのである。もちろん、一方では、「あおいはお姉ちゃんなんだから」と常々、言われつづけ、そのことで、不利益を蒙ってきたと主張するにちがいない。
しかし、そんなことは茉莉にとっては無意味である。単に、姉によって理不尽な支配を受けてきたとしか思えない。今、目の前に、あれほど優越を示していた姉が、無残にも這い蹲っている。いまや、自分の思うがままに動く人形でしかない。
このことは、少女に一種の快楽を与えている。奴隷を所有するということは、世界最高の快楽を得る反面、想像しがたい重荷を背負うことにも通じるのだ。
それは、少女が今まで感じたことのない感情である。しかし、それはわずか9歳の少女にとって、劇薬でしかない。先ほど描いた、姉によって支配を受けていたなどという意識があったわけではない。ただ、意識しない場所で怪物のように、蠢いているぶん、残酷さも容易にK点を超えてしまう。
「あんたなんて、家族じゃない! お姉ちゃんじゃない!!」
「ヤ、やめて! おねがい! 茉莉! いや! イタイ!」
茉莉はたまたま、摑んだモップを手にすると、あおいを殴り始めた。9歳の子供が10歳の子供に暴力を振っている。傍から見れば、単なる兄弟げんかにしか見えないかもしれない。しかし、これは歴っとしたドメスティックヴァイオレンスなのである。夢中で、振り上げたモップを振り下ろす。それは無意識により、支配の否定だったかもしれない。しかし、幼い茉莉には、自分が何をしているのか、わかっていなかった。いったい、何を否定し、拒否しているのかさえ理解していなかった。その行為によって、いかに愛するものを傷つけているということにも気づいていなかったのである。
子供の暴力というものは、際限がない分、度し難い。あおいの身体は、瞬く間に、赤いあざだらけになってしまう。
「せっかく、ご褒美を持ってきてあげたのに!」
恩着せがましく言う茉莉。あおいは、そんな妹が怖くてはたまらなくなった。
―――お姉ちゃん、あおいお姉ちゃん!!
そう言って、いつも彼女の後ろを付いてきた妹は、いったい何処に行ってしまったというのだろうか?
「ちょっと! あんたたち!何やっているのよ!」
突如として、有希江の声が響いた。その声は、茉莉の耳を劈いた。そして、彼女に恐怖心を与えるのに十分だった。
「・・・・・・・・・・・・・・・!?」
「止めなさい! 何やってるの!? バカ!!」
スリッパのまま、浴室に滑り込むと、有希江は、茉莉が振り上げたモップを鷲摑みにした。
「ゆ、有希江お姉ちゃ! ・・・いや!いや!」
「止めなさい! 茉莉!」
激しく暴れる茉莉を力で押さえ込もうとする。しかし、少女はなおも抵抗しようとする。その動きは、まるで混乱する少女の心を暗示しているように見えた。茉莉の手も自分の手もわからなくなったとき、有希江は、力任せに封じ込めるべく力を込めた。その時、悲劇は起こった。
ビシッ!!
「ィ、痛い!!ィイイイイイイ!!うううう!ゆ、有希江姉ちゃん?!」
あきらかに頭蓋を打つ鈍い音が、浴室に響いた。
モップの柄が、茉莉の小さな顔を直撃したのだ。その勢いでは、可愛らしい妹の頭は、まるで関羽の 青龍偃月刀よろしく、空へと吹き飛んでしまうのではないかと思わせた。
「有希江お姉ちゃん!! こいつは家族じゃないのよ!」
「ううう・う・うウウ・ウ・ウ・ウ・ウ・・ウ・う・う・う・・ううう!!」
あおいは、有希江に頭を撫でられると、姉の懐に飛び込んで、泣きじゃくりはじめた。
「気持ち悪くないの!!ううう!!」
茉莉も、負けずに泣き声を上げながら抗議の意を示す。
「いいかげんになさい! 茉莉!!」
「・・・・・・もう、知らない!!」
「茉莉!!」
有希江は、みぞおちに向かって言葉の刃を投げつけたが、梨の礫だった。痛くもかゆくもないという顔で、見下ろしてみせる。無理もない彼女の背後には、母親と徳子という絶対的な保護者がいるのだ。
茉莉は、あおいのすぐ目の前に、モップを投げつけると踵を返して出て行った。
「うううう・う・・う・・う・う・・ううう!! ひどい! 何も悪いことしていないのに! ウウ・ウ・ウ・・ウ・ウ・・・・・う・う・うううう!!」
モップがまっぷたつに割れる音は、さらにあおいの泣き声を高ぶらせた。
「ど、どうして? どうして、あおいがこんな目に、ああ、あわないといけないの!?ウウ・ウ・ウ・・ウ!何もわるいこと・・・・・・していないのに!!?ううう・う・・・うう・・う・うう!」
「わかってるわよ! あおい、後で話してみようね」
有希江の腕の中で、まるでモーターが振動しているように思えた。
―――たしかに、可哀想なはずなのに、この空虚感はなんだろう?
目の前で起こっていることは、非道の極致なはずなのだ。完全な幸せを謳歌していたはずの、榊家に一体、何が起こったのだろう。
両親の離婚や、ドメスティックバイオレンス、それに、兄弟姉妹の非行、有希江の同級生には、そのようなことで涙を流すものがいた。みんな有希江を慕ってその心を預けてくる。その中には、先輩すらいた。そのときは、心底彼等のことを同情し、その深い悲しみは、手に取るように理解できた。しかし、今度のことはどうだろう。あおいは大切な妹だ。しかし、彼等ほどに同情できない。いや、同情という感情が大風の前の砂のように、消え去ってしまったかのようだ。
加えて、彼等のような家族問題とは、榊家は無縁のはずだった。しかしながら、伯母の入院によって、あたかも歯車のひとつがおかしくなってしまったようだ。永年の使用によって、金属疲労でも起こったのか。榊家の何処か、おかしくなってしまった。
少女は、確かに家族とは違う流れに迷い込んでしまったのだ。皮肉なことに、元々、それは自ら望んだことだった。
今、あおいは風呂場にいる。昼間のこんな時間に、ここにいることは、今までほとんどなかったことだ。しかし、ここにいる理由も、普段とはまったく違う。今までほとんど家の手伝いなどしない彼女にとって、完全に不慣れなことだった。
シュシュシュという音が、この薄暗い空間に響く。何か、硬い者どうしを擦り合わせる音だ。
何処か孤独を思わせる音。現在、あおいが置かれている状況を例えてみるならば、巨大かつ堅牢な石たちに囲まれた中世の牢獄。その中では、白髪白髭の老人が、何のおまじないか、石と石を擦り合わせている。惨めなことに、この行為だけが、彼の世界に対する働きかけだとでも言うのだろうか。
何処か、ここでない世界を、うつろな目で見やりながら、からくり人形のように、両手を互いに動かしている。石が擦り合うのも恣意的なことでなしに、偶然のようにすら思える。それほどに、その音は、生身の人間が持つ意識というものを感じさせないのだ。
何度この単調な行為を繰り返してきたのであろう。何時、どんな理由で、ここに連れてこられ、閉じこめられたのか、老人は、今となっては憶えていない。ただ、単調で陰鬱な時間が過ぎていくだけだ。
昼間だというのに、アポロンの祝福から完全に無視されたこの場所にいると、時間の感覚などあさっての方向へと去っていく。
真冬の浴室は、凍えるほどに寒い。まるで、全身の血液が凍って、躰から飛び出てしまいそうだ。コーラの瓶を冷凍庫に入れたときのことを思いだしてほしい。スコンという音とともに、割れたはずだ。
その時と同じように、あおいはその可憐な心が壊れてしまいそうなのだ。
浴室の場合、それほど極端ではないが、プライバシーの保護の観点から、光が射さない場所にあるのが普通だ。このことが、余計に、この場所をシベリアの流刑地にしたてている。あおいは、実の家族から追放されたのだ。そして、この地で、頬を冷気で真っ赤にして、かじかむ手足を動かしている。
厳寒の中での風呂掃除。慣れぬ手つきで泡を擦りつけていく。その泡のひとつひとつが、割れずに凍ってしまいそうだ。吐き出す息は、あくまで白い。こんなところで、恵子おばさんは、何も文句を言わずに、掃除をしていたのだ。かつて、久子は家政婦を雇うと言ったのだが、自分でやると恵子は言ってきかなかった。
そして、久子は、あおいに浴室の掃除を命じた。それも、この寒空に、裸足でするように厳しく言ったのである。
――――寒い、寒いよぉ! 今まで手伝ってあげなくて、ごめんね、恵子おばさん。
思わず、涙がこぼれる。どうして、今まで手伝ってあげなかったのだろう。こんなに辛いことだとは夢にも思わなかった。
「ひ! 痛い! つうぅ!」
思わずスポンジを落としてしまった。タイルとタイルの凹凸に指をぶつけてしまったのか、知らぬうちに、血の糸が這っている。そのとき、背後から冷たい声が聞こえた。
「ちょっと! 家政婦! 何をさぼっているのよ」
「ま、茉莉ちゃん!?ひ!痛い!」
そう呼んだとたんに何か硬いものが飛んできた。その方向にふり返ると、はたして、妹の茉莉が立っていた。
「何言ってるのよ! あたしはお嬢様なのよ!」
「痛い! やめ!ひ!うぐ!」
抗議する余裕すら与えられずに、次ぎの攻撃が加えられる。茉莉の足先が、あおいのみぞおちに食い込む。まさか、そこが急所だとわかってやったわけではなかろうが、結果として、あおいに、徹底的なダメージを与えた。猛烈な苦痛のために、しばらく、呻き声すら出せない。冷たい脂汗が額に滲む。その不自然な温かさと、タイルの冷たさは、少女の精神を異常な不均衡へと導くのだった。
いや、それ以上にあれほどおとなしい妹の変貌を、容易に、認めることはできなかった。あれほど、従順で、姉になついていた妹がどうしたことだろう。まさか普段から、自分を憎んでいたのだろうか。あんなにおとなしい妹の仮面の裏で ――――――――。
「ま、茉莉ちゃん!」
「まだ言うの? 家政婦のくせに!」
その時、浴室の鏡に、自分を見た。茉莉の足下に、まるで犬か奴隷のように、惨めに転がる自分が見えた。そして、彼女は、そんな自分を平然と見下ろしている。親友かふたごの姉妹のように思っていたのは自分だけだったのだろうか。上の二人が、自分たちと年齢が隔たっているために、竹馬の友のように育った。あおいは、妹が自分に信頼のすべてを寄せてくれていると思っていた。
「ほら、ちゃんと働きなさいよ、家政婦でしょう?!」
「グ」
茉莉の足が今度は、背中を踏みつける。まるで巨大怪獣に踏みつけられたドームのように、無惨に崩れ落ちる。
「ヤメテ ――――」
その声は、まるで壊れたオルゴールを思わせた。悲鳴と簡単に表すには、あまりにも涙を内包していた。茉莉は、そんなことは構わずに容赦なく踏み潰す。
「グぎィ ・・・・・・・」
オルゴールは、ごく器械的な音とともに、完全に潰されてしまった。
「本当に、役に立たない家政婦ね、きっと、もうクビよ、あんたなんて生ごみみたいに捨てられちゃえばいいのよ!」
上から振ってくる声は、とても茉莉のそれとは思えない。しかし、確かに彼女の声なのだ。9年間、その声を聞いてきたあおいが保証するのだから、それは確かなことだ。
「どうして? こんなことするの?!」
あおいは、妹の顔を仰ぎ見た。
「・・・・・?!」
濡れた大きな瞳が、上目遣いに光る。その光は、茉莉の心の何処かを刺激した。その部分は ―――、少女の脳深く沈む記憶を、多少なりとも蘇らせたかもしれない。しかしながら、ここのところ、その家を包んだ空気は少女をさらなる攻撃に踏み切らせた。
「ィぐ!」
「ほら、ちゃんと拭くの!!」
「ウウ・ウ・ウ・・ウ・ウ・うう!!」
あおいは、茉莉の、いや、茉莉の背後に控える力に圧されて、ぞうきんを拾った。そして、それを再び、浴槽に擦りつけはじめる。
「ちゃんと、お仕事するのよ、ごほうびにエサを持ってきてあげたんだから」
――――この子は、こんなに喋る子だったけ?
凍ってしまいそうな涙に手足を滑らせながらも、ぞうきんを動かしながら思った。天と地が逆転するほどの、ショックに心を動揺させられながらも、一方で、ある部分は健在で、理性的な思考を有し、物事を達観するのだった。しかし、それを直に見せつけられるあおいとしては、たまったものではない。手足を椅子に縛り付けられて、悪口を無制限に聞かされるようなものである。例え、それがビデオやテープであっても、とうてい耐えうるものではないだろう。
「ウウ・・・ウ・ウ、なんで、どうして? お姉ちゃんが何をしたっているの? うう・う・う・・う」
さらに暴力を受けることがわかっていながら、どうしようもない言葉が零れてくる。それは、必ずしも、 茉莉に向けて発した言葉ではないかもしれない。
「お姉ちゃんって誰のこと?」
「ウウ・・ウ・ウ・・ウ・うう!」
茉莉が見たのは、姉の恨めしさに満ちた瞳だった。それは、さきほどの上目遣いの目と違って、明らかに姉の視線だった。すなわち、人を上から見る目つきである。それは姉としての威厳を意味した。
「・・・・・・・・!?」
さすがにひるむ茉莉。生まれてきたころから、その目で言い意味でも、悪い意味でも睨みつけられてきた妹の身である。さすがに上の二人は、姉とは言っても、巨樹すぎた。
その一方あおいとは、双子の姉妹のように育ったのである。しかしながら、そこにはたしかに位階なるものが存在した。
それを家族は否定したが、無意識のうちに、あおいを上座に据えていたのである。もちろん、一方では、「あおいはお姉ちゃんなんだから」と常々、言われつづけ、そのことで、不利益を蒙ってきたと主張するにちがいない。
しかし、そんなことは茉莉にとっては無意味である。単に、姉によって理不尽な支配を受けてきたとしか思えない。今、目の前に、あれほど優越を示していた姉が、無残にも這い蹲っている。いまや、自分の思うがままに動く人形でしかない。
このことは、少女に一種の快楽を与えている。奴隷を所有するということは、世界最高の快楽を得る反面、想像しがたい重荷を背負うことにも通じるのだ。
それは、少女が今まで感じたことのない感情である。しかし、それはわずか9歳の少女にとって、劇薬でしかない。先ほど描いた、姉によって支配を受けていたなどという意識があったわけではない。ただ、意識しない場所で怪物のように、蠢いているぶん、残酷さも容易にK点を超えてしまう。
「あんたなんて、家族じゃない! お姉ちゃんじゃない!!」
「ヤ、やめて! おねがい! 茉莉! いや! イタイ!」
茉莉はたまたま、摑んだモップを手にすると、あおいを殴り始めた。9歳の子供が10歳の子供に暴力を振っている。傍から見れば、単なる兄弟げんかにしか見えないかもしれない。しかし、これは歴っとしたドメスティックヴァイオレンスなのである。夢中で、振り上げたモップを振り下ろす。それは無意識により、支配の否定だったかもしれない。しかし、幼い茉莉には、自分が何をしているのか、わかっていなかった。いったい、何を否定し、拒否しているのかさえ理解していなかった。その行為によって、いかに愛するものを傷つけているということにも気づいていなかったのである。
子供の暴力というものは、際限がない分、度し難い。あおいの身体は、瞬く間に、赤いあざだらけになってしまう。
「せっかく、ご褒美を持ってきてあげたのに!」
恩着せがましく言う茉莉。あおいは、そんな妹が怖くてはたまらなくなった。
―――お姉ちゃん、あおいお姉ちゃん!!
そう言って、いつも彼女の後ろを付いてきた妹は、いったい何処に行ってしまったというのだろうか?
「ちょっと! あんたたち!何やっているのよ!」
突如として、有希江の声が響いた。その声は、茉莉の耳を劈いた。そして、彼女に恐怖心を与えるのに十分だった。
「・・・・・・・・・・・・・・・!?」
「止めなさい! 何やってるの!? バカ!!」
スリッパのまま、浴室に滑り込むと、有希江は、茉莉が振り上げたモップを鷲摑みにした。
「ゆ、有希江お姉ちゃ! ・・・いや!いや!」
「止めなさい! 茉莉!」
激しく暴れる茉莉を力で押さえ込もうとする。しかし、少女はなおも抵抗しようとする。その動きは、まるで混乱する少女の心を暗示しているように見えた。茉莉の手も自分の手もわからなくなったとき、有希江は、力任せに封じ込めるべく力を込めた。その時、悲劇は起こった。
ビシッ!!
「ィ、痛い!!ィイイイイイイ!!うううう!ゆ、有希江姉ちゃん?!」
あきらかに頭蓋を打つ鈍い音が、浴室に響いた。
モップの柄が、茉莉の小さな顔を直撃したのだ。その勢いでは、可愛らしい妹の頭は、まるで関羽の 青龍偃月刀よろしく、空へと吹き飛んでしまうのではないかと思わせた。
「有希江お姉ちゃん!! こいつは家族じゃないのよ!」
「ううう・う・うウウ・ウ・ウ・ウ・ウ・・ウ・う・う・う・・ううう!!」
あおいは、有希江に頭を撫でられると、姉の懐に飛び込んで、泣きじゃくりはじめた。
「気持ち悪くないの!!ううう!!」
茉莉も、負けずに泣き声を上げながら抗議の意を示す。
「いいかげんになさい! 茉莉!!」
「・・・・・・もう、知らない!!」
「茉莉!!」
有希江は、みぞおちに向かって言葉の刃を投げつけたが、梨の礫だった。痛くもかゆくもないという顔で、見下ろしてみせる。無理もない彼女の背後には、母親と徳子という絶対的な保護者がいるのだ。
茉莉は、あおいのすぐ目の前に、モップを投げつけると踵を返して出て行った。
「うううう・う・・う・・う・う・・ううう!! ひどい! 何も悪いことしていないのに! ウウ・ウ・ウ・・ウ・ウ・・・・・う・う・うううう!!」
モップがまっぷたつに割れる音は、さらにあおいの泣き声を高ぶらせた。
「ど、どうして? どうして、あおいがこんな目に、ああ、あわないといけないの!?ウウ・ウ・ウ・・ウ!何もわるいこと・・・・・・していないのに!!?ううう・う・・・うう・・う・うう!」
「わかってるわよ! あおい、後で話してみようね」
有希江の腕の中で、まるでモーターが振動しているように思えた。
―――たしかに、可哀想なはずなのに、この空虚感はなんだろう?
目の前で起こっていることは、非道の極致なはずなのだ。完全な幸せを謳歌していたはずの、榊家に一体、何が起こったのだろう。
両親の離婚や、ドメスティックバイオレンス、それに、兄弟姉妹の非行、有希江の同級生には、そのようなことで涙を流すものがいた。みんな有希江を慕ってその心を預けてくる。その中には、先輩すらいた。そのときは、心底彼等のことを同情し、その深い悲しみは、手に取るように理解できた。しかし、今度のことはどうだろう。あおいは大切な妹だ。しかし、彼等ほどに同情できない。いや、同情という感情が大風の前の砂のように、消え去ってしまったかのようだ。
加えて、彼等のような家族問題とは、榊家は無縁のはずだった。しかしながら、伯母の入院によって、あたかも歯車のひとつがおかしくなってしまったようだ。永年の使用によって、金属疲労でも起こったのか。榊家の何処か、おかしくなってしまった。
榊あおいが、その運命の時間を迎えたのは、数ヶ月前のことである。
今は、ちょうど冬休みの最中である。最近では、珍しく、首都圏の街々も白化粧を施すことになった。榊家も久しぶりに、甘そうな雪で味付けされることになった。このころのあおいにとって、雪は、冷たさの象徴ではない。先進国の恵まれた環境に産まれ、愛されて育ちつつある少女にとって、完全な防寒具を備わっての雪は、甘い砂糖菓子と変わりはなかった。
しかし、この年の冬、榊家では、ひとつの事件が起こっていた。
「えー?真美伯母さん、入院しちゃったの?」
榊あおいが、まず、黄色い声を上げた。
「そうよ」
「で、どんな様子なの?」
榊家の長女である徳子。四人姉妹の中で、一番冷静なのは、さすがに、この長女のようだ。それぞれ、次女と四女である有希江と茉莉も心配そうに母の口から出る言葉を見守っている。
四姉妹にとって、真美は二人目の母親に等しいのだ。仕事と家事の両立を願った久子であったが、娘が四人もいては、一人ではままならなかった。
そんな時、久子の妹である真美は力強い援助者となった。それは普通の家族以上の働きと言って良かった。真美は、久子に負けずに容姿端麗で、才色兼備だったが、小さいころから引きこもりがちで、他人とあまり付き合わなかった。しかし、姉の娘たちと出会うことで、その性格が一変した。いわば、双方にとって救世主だったのである。
久子の職業は、弁護士である。女性ながらに、かなりのやり手であると、業界には知られた存在だ。
とある大企業の顧問弁護士の一人となって、相当の高給を頂いている。そう、彼女にとって弁護活動は人助けではなくて事業なのだ。間違っても弱気を助け、強気をくじくと言ったタイプではない。確かに、弁護士として、そういう価値観も存在することは認めるし、尊敬もしている。しかしながら、少なくとも、自分はそういうタイプではない。見ず知らずの社会的弱者ならば、自分の家族の方が万倍も大切だ。それが彼女一流の割り切り方である。
「ねえ!ねえ!ママ!どんな様子なの!ねえ!!」
「あおいったら、うるさいわね、静かにしなさいよ、恵子伯母さんが心配なのはみんな同じなのよ、あんたが一人で四人分心配するから、私たちが入る隙間がないじゃない!」
いちいち、斟酌しながら、話すのは、この娘の癖である。その度にいちいち、目をつぶるので、相手をしている人間が疲れる。なれているはずの家族たちでさえ、気になるほどだ。
多少、やぶにらみがちな、目つきを向けるのは、榊家の次女、由希江である。
徳子は今更ながらという顔をしている。四女である茉莉は、そのおとなしさと控えめな性格を主張するように、ただ、ひとりで泣いている。
一家が明るいとき、暗いとき、いつも中心になって、それを代弁するのは、あおいの役割である。この家の、ライトメーカーであると同時に、トラブルメーカーでもあるのだ。
「とにかく、お見舞いに行こう!」
「とにかく、それだけはだめ、絶対に安静なの!」
久子は頑として譲らない。
「なんでよ! 家族でもだめなの?」
「そう!」
「いい加減にしなさいよ! あおい!」
徳子が言う。さすがに、この長女の言には、説得力がある。あおいは、押し黙ってしまった。
「とにかく、家でおとなしくしてなさい!それが、おばさんのためなのよ」
「徳子!今日、一日あの子を見ていてね、押しかける可能性があるから ――――」
「いやよ!一日中、妹の世話を押し付けられるなんて、こっちだってやることが山とあるんだから」
「そうね、家政婦の一人でもほしいものだわ ―――――――」
久子が言ったとたんに、あおいが口を開いた。その一言が、想像を絶する不幸を呼び寄せるとも知らないで ――――――――。
「いい、アイデアがあおいにあるよ」
「ほら、自分のことを名前で呼ばない、もうねんねじゃないんだから」
「あおいは、いつまで経ってもねんねだもんね」
由希江が悪意を隠さずに言った。それを無視して、あおいは続ける。
「四人の中で、一人が家政婦になるの
「何よ、それ?」
「よく、わからないな」
一様に、不安と不満を織り交ぜた表情をする四人。
「それはどうやって決めるの? 当然、四人でじゃんけんするの?」
「それで、間違ってさ、加えて、よりによってさ ――――――」
「何よ、その持って回った言い方?いやらしいな」
「あんたに決まったらどうするつもりなの?ママの足を引っ張るだけじゃない?」
「もしかしたらたら、腕もひっぱるかも?」
「徳子姉さん!」
「それ、当たってると思う、悪夢よ、榊家の黄昏は近いというもの ――――。それで、どうして、あおいちゃんは、家政婦ごっこなんかしたくなったの、もしかして、この前、テレビで『家政婦は見た』見たからっていうんじゃないでしょうね!?」
徳子は、自分で出した質問に、自分で答えた。
「あおいは、困ってらっしゃるお母さまを、お助けしたくて、申し上げられて ――――え?っと?」
「できもしないくせに、敬語を無理に使わなくてもよろしい」
由希江が、つっぱねるように言う。
「もう、いい、あんたやれ!」
「由希江!?」
徳子は、不安を隠さなかった。思わず、頭を抱える。しかし、思いもよらない久子の言葉を聴くと、二の句が次げなくなった。
「いいじゃない、あおいにやってもらえば ――――」
「やた ―――――!」
「ねえ、あんた真美伯母さんが入院したの、嬉しいの?」
「そうじゃないよ、伯母さんとか、みんなのために役立てるのが嬉しいの!」
無邪気に笑うあおい。
「あんたは無邪気ね ―――――」
徳子は、テーブルに肘をつきながら、言う。
「で、どんな風に、家政婦やってくれるわけ?」
榊家の長女の顔には、全く期待していないと書いてある。口の端に、たまたま落ちていた野菜の屑を噛んでいる。そんな態度に、あおいは不満を隠さなかった。
「徳子姉さん!何よ、その態度!折角あおいがはりきろうって言っているのに」
「そんなこと、あんたに頼んでないよ」
有希江が言った。
「でも、あおい姉さんが、せっかく、言ってくれているんだから ―――」
茉莉がようやく、口を挟むことができた。
「茉莉! 私たち、この子との付き合いにかけては、一日の長があるのよ」
「?」
「あの事件、あの事件、すべて、この家のトラブルの中心には、この子がいるの!」
「大丈夫だって! あおいは、もうネンネじゃないって!」
「不安だなあ ――――――――」
「ま、いいか、で、何をしてくれるの? うちの新しい家政婦さんは!?」
「徳子姉さん!?」
「もう、やぶれかぶれよ、有希江」
「・・・・・・・・・・」
「だから、家政婦をやるのよ、順々でね、でも、あおいが言い出しっぺだから、まず最初にやる!」
「それは正論ね」
「セイロンって? 何処?」
「よく、あんた、それで、お受験をとおったな」
「有希江!」
その時、かすかに茉莉が顔色を変えたのを、徳子は見逃さなかった。実は姉妹の中で、唯一、彼女だけ公立の小学校なのである。その原因は言うまでもない。
「それで、普段よりも余計にお手伝いをしてくれるってことでしょう? 早い話」
「それじゃ、おもしろくないな、どうせなら本格的にやろうよ、有希江、服とかちゃんと用意してさ」
「服って?」
この時、何か話しが変な方向に行っていることに、この時気づかなかった。しかし ―――
「家政婦って家族じゃないよね」
さすがにその言葉を聞いたとき、あおいの顔色が変わった。
「何?!」
「何、血相変えているのよ、単なるゲームでしょう? それもたったの一週間」
有希江が笑った。
「だって、余計にお手伝いをするってことでしょう!?」
自分で言い出しておいて、あおいは、事態を収拾できなくなりつつあった。
―――― 一体、家族じゃないって、どういうこと?
「家政婦の制服は、すぐに用意できるよ、あおいのサイズはわかってるし、バースディプレゼントで、前に服を作ったことがあるでしょう」
「うん、わかった、ありがとう・・・・・・・・・・・」
家族の空気が、自分の予期しない方向に向かっていることは、あおいにもわかっていた。しかし、わかっていながら、あたかも蜘蛛の巣に絡み撮られた蝶のように、身動きとれなくなっていた。
さて、その日から一週間、榊家の家政婦になったあおいは、いろいろと用事を押しつけられることになった。たまたま、日曜日だったために、父親をはじめ、家族はみんな揃っていた。最初は、笑顔で、それらを受けていたものの、やがて、不満そうな顔をあからさまに、仕事をこなすようになった。そして、昼食後に、部屋の掃除を徳子から命じられたときに、ストレスは爆発した。
「もーいや! やめよ! こんなこと!」
「何を、バカなことを言っているのよ、自分で言い始めたことしょ!最後までやり通しなさい」
久子はまったく、意に介さずに言った。
「いやだ! いやだ! いやだ!」
あおいは、いつものように、じたんだを踏んだ。
「そう、もうあなたみたいな子は、いりません、何処へでも行ってしまいなさい! 」
「え?!」
久子は、あおいの華奢な手首を一摑みすると、小雪の降る庭に放り出したのである。それには、その場にいた三人も目を丸くした。「ママは、あおいには甘いんだから!」いつも、徳子と有希江に、言われる久子である。
彼女は特別なんだと、一家、全員が思っていた。いや、実際は、約一名だけは、それを知らなかった。いうまもなく、あおい本人である。しかし、今や、何かが、あおいの周りで変わりつつあった。しかし、あおいを含めたほぼ、全員がそのことに気づいていなかった。
「ママぁ?!」
昨晩は大雪が降った。
それは、見事、庭を雪原に変えていた。真っ白な平野が、ちょうど、少女のかたちにくり抜かれた。服を通しても、全身に突き刺さる雪の結晶に、あおいは身震いした。それは寒さだけのせいではなかったであろう。
立ち上がって、部屋に戻ろうとした瞬間、開き窓が、酷薄な音を立てて、閉まった。ガラス越しに、見たこともない久子の冷たい顔があった。
「ママぁ! ごめんさい! 言うこときくから、入れて! オネガイ!!」
あおいは、声を上げて泣きながら、窓を叩く。その時、再びドアが開いた。久子の顔は、もっと雪よりももっと冷たくなっていた。
「あなたは、誰です?」
「ママぁ!ごめんさ――」
「だったら、どうすればいいの?」
「ママの言うとおりにすれば―――――」
次の瞬間、三人を驚かせたのは、久子が続けた言葉だった。
「ママじゃないでしょう!? あなたは、この家の家政婦なのよ、だから奥様と呼びなさい」
「え・・・・?!」
二の句がつげないとは、まさにこの場面のことを言うのだろう。あおいは、驚くことすらなかった。実際に、久子の声が聞こえなかったのである。それを心身的難聴というのだろうか?その内容があまりに衝撃的なために、耳が受け付けなかったのかもしれない。
「聞こえなかったの?私のことは、奥様と呼びなさい」
「オクサマ?」
それは冗談にしか聞こえなかったが、その表情は真剣そのものだった。
「ほら、部屋が濡れるでしょう?!玄関に回りなさい!それから、スリッパは、穿かないで裸足で玄関に回りなさい、濡れるでしょう」
「ウウウ・ウ・・ウ・ウ・ウ・ウ・!」
あおいは泣きながら、しんみりと歩き出した。濡れながら、歩く雪は、痛むほど冷たい。
「あんまり、みんなをからかうからだよ、ほら、靴を持ってきてあげるから ―――――」
有希江が、珍しく仏心をだして、靴を持ってこようと、立ったときだ。久子が言った。
「甘やかさないの、有希江。家政婦なら裸足で十分、これまでが甘かったのよ、どれだけみんなが迷惑しているか、もう、あなたのこと、どう思っているか、その冷たさを裸足で実感しなさい!」
あおいは、皺だらけの老婆のような顔で、母親の言葉を受け取った。玄関までの道のりは、数キロにも感じた。雪の結晶、結晶は、それこそ、鉄の針となって、少女の足に突き刺さった。生まれてはじめて、雪というものが、仄かな美しい、あるいは、可愛らしいものではなく、冷たいものであると実感した冬だった。
今は、ちょうど冬休みの最中である。最近では、珍しく、首都圏の街々も白化粧を施すことになった。榊家も久しぶりに、甘そうな雪で味付けされることになった。このころのあおいにとって、雪は、冷たさの象徴ではない。先進国の恵まれた環境に産まれ、愛されて育ちつつある少女にとって、完全な防寒具を備わっての雪は、甘い砂糖菓子と変わりはなかった。
しかし、この年の冬、榊家では、ひとつの事件が起こっていた。
「えー?真美伯母さん、入院しちゃったの?」
榊あおいが、まず、黄色い声を上げた。
「そうよ」
「で、どんな様子なの?」
榊家の長女である徳子。四人姉妹の中で、一番冷静なのは、さすがに、この長女のようだ。それぞれ、次女と四女である有希江と茉莉も心配そうに母の口から出る言葉を見守っている。
四姉妹にとって、真美は二人目の母親に等しいのだ。仕事と家事の両立を願った久子であったが、娘が四人もいては、一人ではままならなかった。
そんな時、久子の妹である真美は力強い援助者となった。それは普通の家族以上の働きと言って良かった。真美は、久子に負けずに容姿端麗で、才色兼備だったが、小さいころから引きこもりがちで、他人とあまり付き合わなかった。しかし、姉の娘たちと出会うことで、その性格が一変した。いわば、双方にとって救世主だったのである。
久子の職業は、弁護士である。女性ながらに、かなりのやり手であると、業界には知られた存在だ。
とある大企業の顧問弁護士の一人となって、相当の高給を頂いている。そう、彼女にとって弁護活動は人助けではなくて事業なのだ。間違っても弱気を助け、強気をくじくと言ったタイプではない。確かに、弁護士として、そういう価値観も存在することは認めるし、尊敬もしている。しかしながら、少なくとも、自分はそういうタイプではない。見ず知らずの社会的弱者ならば、自分の家族の方が万倍も大切だ。それが彼女一流の割り切り方である。
「ねえ!ねえ!ママ!どんな様子なの!ねえ!!」
「あおいったら、うるさいわね、静かにしなさいよ、恵子伯母さんが心配なのはみんな同じなのよ、あんたが一人で四人分心配するから、私たちが入る隙間がないじゃない!」
いちいち、斟酌しながら、話すのは、この娘の癖である。その度にいちいち、目をつぶるので、相手をしている人間が疲れる。なれているはずの家族たちでさえ、気になるほどだ。
多少、やぶにらみがちな、目つきを向けるのは、榊家の次女、由希江である。
徳子は今更ながらという顔をしている。四女である茉莉は、そのおとなしさと控えめな性格を主張するように、ただ、ひとりで泣いている。
一家が明るいとき、暗いとき、いつも中心になって、それを代弁するのは、あおいの役割である。この家の、ライトメーカーであると同時に、トラブルメーカーでもあるのだ。
「とにかく、お見舞いに行こう!」
「とにかく、それだけはだめ、絶対に安静なの!」
久子は頑として譲らない。
「なんでよ! 家族でもだめなの?」
「そう!」
「いい加減にしなさいよ! あおい!」
徳子が言う。さすがに、この長女の言には、説得力がある。あおいは、押し黙ってしまった。
「とにかく、家でおとなしくしてなさい!それが、おばさんのためなのよ」
「徳子!今日、一日あの子を見ていてね、押しかける可能性があるから ――――」
「いやよ!一日中、妹の世話を押し付けられるなんて、こっちだってやることが山とあるんだから」
「そうね、家政婦の一人でもほしいものだわ ―――――――」
久子が言ったとたんに、あおいが口を開いた。その一言が、想像を絶する不幸を呼び寄せるとも知らないで ――――――――。
「いい、アイデアがあおいにあるよ」
「ほら、自分のことを名前で呼ばない、もうねんねじゃないんだから」
「あおいは、いつまで経ってもねんねだもんね」
由希江が悪意を隠さずに言った。それを無視して、あおいは続ける。
「四人の中で、一人が家政婦になるの
「何よ、それ?」
「よく、わからないな」
一様に、不安と不満を織り交ぜた表情をする四人。
「それはどうやって決めるの? 当然、四人でじゃんけんするの?」
「それで、間違ってさ、加えて、よりによってさ ――――――」
「何よ、その持って回った言い方?いやらしいな」
「あんたに決まったらどうするつもりなの?ママの足を引っ張るだけじゃない?」
「もしかしたらたら、腕もひっぱるかも?」
「徳子姉さん!」
「それ、当たってると思う、悪夢よ、榊家の黄昏は近いというもの ――――。それで、どうして、あおいちゃんは、家政婦ごっこなんかしたくなったの、もしかして、この前、テレビで『家政婦は見た』見たからっていうんじゃないでしょうね!?」
徳子は、自分で出した質問に、自分で答えた。
「あおいは、困ってらっしゃるお母さまを、お助けしたくて、申し上げられて ――――え?っと?」
「できもしないくせに、敬語を無理に使わなくてもよろしい」
由希江が、つっぱねるように言う。
「もう、いい、あんたやれ!」
「由希江!?」
徳子は、不安を隠さなかった。思わず、頭を抱える。しかし、思いもよらない久子の言葉を聴くと、二の句が次げなくなった。
「いいじゃない、あおいにやってもらえば ――――」
「やた ―――――!」
「ねえ、あんた真美伯母さんが入院したの、嬉しいの?」
「そうじゃないよ、伯母さんとか、みんなのために役立てるのが嬉しいの!」
無邪気に笑うあおい。
「あんたは無邪気ね ―――――」
徳子は、テーブルに肘をつきながら、言う。
「で、どんな風に、家政婦やってくれるわけ?」
榊家の長女の顔には、全く期待していないと書いてある。口の端に、たまたま落ちていた野菜の屑を噛んでいる。そんな態度に、あおいは不満を隠さなかった。
「徳子姉さん!何よ、その態度!折角あおいがはりきろうって言っているのに」
「そんなこと、あんたに頼んでないよ」
有希江が言った。
「でも、あおい姉さんが、せっかく、言ってくれているんだから ―――」
茉莉がようやく、口を挟むことができた。
「茉莉! 私たち、この子との付き合いにかけては、一日の長があるのよ」
「?」
「あの事件、あの事件、すべて、この家のトラブルの中心には、この子がいるの!」
「大丈夫だって! あおいは、もうネンネじゃないって!」
「不安だなあ ――――――――」
「ま、いいか、で、何をしてくれるの? うちの新しい家政婦さんは!?」
「徳子姉さん!?」
「もう、やぶれかぶれよ、有希江」
「・・・・・・・・・・」
「だから、家政婦をやるのよ、順々でね、でも、あおいが言い出しっぺだから、まず最初にやる!」
「それは正論ね」
「セイロンって? 何処?」
「よく、あんた、それで、お受験をとおったな」
「有希江!」
その時、かすかに茉莉が顔色を変えたのを、徳子は見逃さなかった。実は姉妹の中で、唯一、彼女だけ公立の小学校なのである。その原因は言うまでもない。
「それで、普段よりも余計にお手伝いをしてくれるってことでしょう? 早い話」
「それじゃ、おもしろくないな、どうせなら本格的にやろうよ、有希江、服とかちゃんと用意してさ」
「服って?」
この時、何か話しが変な方向に行っていることに、この時気づかなかった。しかし ―――
「家政婦って家族じゃないよね」
さすがにその言葉を聞いたとき、あおいの顔色が変わった。
「何?!」
「何、血相変えているのよ、単なるゲームでしょう? それもたったの一週間」
有希江が笑った。
「だって、余計にお手伝いをするってことでしょう!?」
自分で言い出しておいて、あおいは、事態を収拾できなくなりつつあった。
―――― 一体、家族じゃないって、どういうこと?
「家政婦の制服は、すぐに用意できるよ、あおいのサイズはわかってるし、バースディプレゼントで、前に服を作ったことがあるでしょう」
「うん、わかった、ありがとう・・・・・・・・・・・」
家族の空気が、自分の予期しない方向に向かっていることは、あおいにもわかっていた。しかし、わかっていながら、あたかも蜘蛛の巣に絡み撮られた蝶のように、身動きとれなくなっていた。
さて、その日から一週間、榊家の家政婦になったあおいは、いろいろと用事を押しつけられることになった。たまたま、日曜日だったために、父親をはじめ、家族はみんな揃っていた。最初は、笑顔で、それらを受けていたものの、やがて、不満そうな顔をあからさまに、仕事をこなすようになった。そして、昼食後に、部屋の掃除を徳子から命じられたときに、ストレスは爆発した。
「もーいや! やめよ! こんなこと!」
「何を、バカなことを言っているのよ、自分で言い始めたことしょ!最後までやり通しなさい」
久子はまったく、意に介さずに言った。
「いやだ! いやだ! いやだ!」
あおいは、いつものように、じたんだを踏んだ。
「そう、もうあなたみたいな子は、いりません、何処へでも行ってしまいなさい! 」
「え?!」
久子は、あおいの華奢な手首を一摑みすると、小雪の降る庭に放り出したのである。それには、その場にいた三人も目を丸くした。「ママは、あおいには甘いんだから!」いつも、徳子と有希江に、言われる久子である。
彼女は特別なんだと、一家、全員が思っていた。いや、実際は、約一名だけは、それを知らなかった。いうまもなく、あおい本人である。しかし、今や、何かが、あおいの周りで変わりつつあった。しかし、あおいを含めたほぼ、全員がそのことに気づいていなかった。
「ママぁ?!」
昨晩は大雪が降った。
それは、見事、庭を雪原に変えていた。真っ白な平野が、ちょうど、少女のかたちにくり抜かれた。服を通しても、全身に突き刺さる雪の結晶に、あおいは身震いした。それは寒さだけのせいではなかったであろう。
立ち上がって、部屋に戻ろうとした瞬間、開き窓が、酷薄な音を立てて、閉まった。ガラス越しに、見たこともない久子の冷たい顔があった。
「ママぁ! ごめんさい! 言うこときくから、入れて! オネガイ!!」
あおいは、声を上げて泣きながら、窓を叩く。その時、再びドアが開いた。久子の顔は、もっと雪よりももっと冷たくなっていた。
「あなたは、誰です?」
「ママぁ!ごめんさ――」
「だったら、どうすればいいの?」
「ママの言うとおりにすれば―――――」
次の瞬間、三人を驚かせたのは、久子が続けた言葉だった。
「ママじゃないでしょう!? あなたは、この家の家政婦なのよ、だから奥様と呼びなさい」
「え・・・・?!」
二の句がつげないとは、まさにこの場面のことを言うのだろう。あおいは、驚くことすらなかった。実際に、久子の声が聞こえなかったのである。それを心身的難聴というのだろうか?その内容があまりに衝撃的なために、耳が受け付けなかったのかもしれない。
「聞こえなかったの?私のことは、奥様と呼びなさい」
「オクサマ?」
それは冗談にしか聞こえなかったが、その表情は真剣そのものだった。
「ほら、部屋が濡れるでしょう?!玄関に回りなさい!それから、スリッパは、穿かないで裸足で玄関に回りなさい、濡れるでしょう」
「ウウウ・ウ・・ウ・ウ・ウ・ウ・!」
あおいは泣きながら、しんみりと歩き出した。濡れながら、歩く雪は、痛むほど冷たい。
「あんまり、みんなをからかうからだよ、ほら、靴を持ってきてあげるから ―――――」
有希江が、珍しく仏心をだして、靴を持ってこようと、立ったときだ。久子が言った。
「甘やかさないの、有希江。家政婦なら裸足で十分、これまでが甘かったのよ、どれだけみんなが迷惑しているか、もう、あなたのこと、どう思っているか、その冷たさを裸足で実感しなさい!」
あおいは、皺だらけの老婆のような顔で、母親の言葉を受け取った。玄関までの道のりは、数キロにも感じた。雪の結晶、結晶は、それこそ、鉄の針となって、少女の足に突き刺さった。生まれてはじめて、雪というものが、仄かな美しい、あるいは、可愛らしいものではなく、冷たいものであると実感した冬だった。
失禁。その行為は、ふつう、そう呼ばれている。しかし、今、少女に見舞われている災難を、そう呼ぶのはあまりにむごいだろう。何故ならば、多分に、不可抗力の性格が強いからである。
「ィヤあああアアアアアアア・・・ア・ア・」
自らの汚物で、躰が汚される感触。自分の汚い温かさによって、浸食されるおぞましさ。それを股間から、舌の先まで感じさせられたのである。あおいは、いつの間にか、縛られたまま、雨に打たれていた。完全に感覚がマヒしている。土砂であっても食べたくなるくらいの空腹も喉の渇きも感じない。自分が何処にいるのかわからない。きつく縛られた手首と足首は、もう痛くないし、雨は冷たくなかった。そして、身体が濡れる気持ち悪さからも、解放された。
――――私はもう死ぬのかな。
まだ11才。その若さで、あおいは、そんな気分に溺れていた。
本来なら、家族と楽しい夕食後のひとときを過ごしているはずだった。しかし、今や、少女は生きながらにして、無惨な屍を晒していた。
赤いハイヒールが、あおいの目に入ったのは、雨が止んだ後だった。
「ゆ、有希江姉サ・・・・ウグ・・・・!有希江お、お嬢さま・・・・・・・」
とても懐かしい名前を呼んだとたんに、あおいの喉元に、ピンヒールが突き刺さった。
雨が止んだというのに、少女の頬は濡れ続ける。
「あおい!何て、無様な姿なのかしら?あなたにふさわしい恰好ね」
しゃっくりを上げて、泣いている妹に、さらに追い打ちをかける。
「アレ?ヘンな臭いがするわね?」
有希江は、何かの棒を取り出すと、それで、あおいのスカートを捲り上げた。
「イヤアアァアア!や!ヤメテ!」
無力な小学生相手に、この暴虐である。しかも抵抗できないように、四股を縛っているのである。
「臭いわ、当然、あなた自身が臭いんだけど、コレは別の臭いね、あんたお漏らししたでしょう?」
羞恥心のあまり、頬がリンゴのようになった。まるで、顔のすべての毛細血管が、固有の意思を持って暴れるかのような感覚が襲う。
「あ、雨です!」
「う・そ!ふふふ、卑しい捨て猫は、嘘もつくのね」
「す、ステネコ?ウウ・・・・・・・・・・・・ウ!」
想像を絶する非道い言葉に、返す方法を思いつかない。家族、すなわち誰よりも少女を保護すべき存在から、このような仕打ちを受けている。あおいは、その事実をまだ受け入れられずにいた。
「それで、言いつけは守ってくれたんでしょうね」
有希江の口元が、意地悪に歪んだ。
「ウウ・・ウ・ウ・ウ・・ウ・ウ!お、お願いです!もう、ゆ、許してくださいィ!!」
「そう、見付からなかったのね、本当にどうしようもない捨て猫だわ!じゃあ素直に自分の状態を説明したら、許してあげる」
「ウウ・・ウ・ウ・す、捨て猫の、さ、榊、あお、あおいは、お、おもらししちゃいました・・・ウ・・ウ・・ウ・・ウ」
このままの状態から、抜けだしたい一心で、命令に従った。しかし、その後は、まるで、全身の内蔵のすべてを吐き出すように、泣きじゃくった。
中でも、『捨て猫』という表現は、あおいの境遇と酷似していた。そのために、いたく少女を傷付けた。
「あなた、幾つなの?!」
急に優しくなった姉。そのわざとらしい仕草が、かつての彼女を思い出されて、あまりに悲しかった。
「ウウ・・ウ・ウ・ウ・ウ!じゅ、11才です・・・・・・ウ・ウ・ウ・ウ・・ウ・ウ・・ウ・ウウうう!」
「11才の女の子が、お漏らししちゃったんだ?!トイレまで我慢できずにね」
「だ、だって、縛られていたら、」
「うるさいわね!お漏らししたことは確かでしょう!?それに」
「それに?」
「もしも、人間としてのプライドがあったら、舌を噛んで死ぬはずよ、そんなみっともない姿になるならね。あんた死ねばよかったのよ」
まるで、猫の目のように変わる態度。これは、有希江の真骨頂である。
「・・・・・・・・・・・・・・」
もう、泣き声さえ出ない。
「さてさ、中で仕事が待ってるんだけど、その汚い姿じゃ、入れないわね、今日はお姉 ―――違う、ご主人様が洗ってあげる」
―――今、お姉ちゃんって言おうとした、まだ、あおいのこと妹だって思ってくれているのね。
こんな小さなことでも、喉の奥からうれしさが込み上げてくる。少女は喜びの涙を流した。しかし次の瞬間、少女を襲った衝撃はこんなものじゃなかった。
「ひいぃいいイヤアアアアアアア!ぁあああああ!!」
雨に濡れたばかりだと言うのに、多量の水がかけられる。庭用の特別な仕様で造られたホースだ。榊の家のように広大な庭を所有していると、こんなものが重用される。だから、その衝撃もただごとではすまない。とにかく、痛い。叩きつけられているというのが近いであろう。
「ウウウ・・・ウ・ウ・ウ・ウ・・!うううう!どうして、どうして、こんなひどいことを!ウウ・・・・ウ・ウ・・ウ・!!」
「さ、これからが本番よ、腐りきったあなたの躰を洗うんだから、相当の石鹸が必要ね」
粉のようなものをかけられた。
「ひ!」
<黒も白に変えるドメスト!>という文字が見えた。洗濯用石鹸ではないか。
しかる後に、全身を激痛を襲った。デッキブラシで、容赦なく全身を擦られる。華奢な肩も、雷が舌を出しそうな臍も、そして少女らしく不格好な脚も、どこもかしこもデッキブラシの餌食になった。耐えられなくなったあおいは、ついに悲鳴を上げた。
「痛い!痛い!!痛いよぉ!!ママ、助けて!ゆ、有希江姉ちゃん!お、お願いだから!許してぇえええええええええええええ!!あぶう!」
顔にまで、ブラシが侵入する。さすがに、そこは力が弱められた。
「ほら、キレイになったよ、汚くて、臭いあおいちゃんがキレイになった?うん?まだするね、これってドジンの臭いかな?これはだめだわ、あんたに生まれつきついた臭いだもん、ドメスト!でもだめだわ」
有希江は、わざわざ、あおいの顔付近に、鼻を近づけた。そして、くんくんと臭いを嗅ぐ。そして、わざとらしく、顔を顰める。
「ほら、拭きなさいよ、お前ならぞうきんで十分ね」
「・・・・・・・・」
あおいは、やっと、戒めを解かれた。そして、頭にに、投げつけられたのは、柔らかなフキンではなくて、汚らしいぞうきんだった。いつだったか、まだ、あおいが小学校に上がる前、雨に濡れて帰ってきたことがあった。そのとき、有希江は、やさしくフキンで拭いてくれたものだ。
「全く、あおいはしょうがないわね」
その手つきの優しさと温かさで、思わず眠ってしまったほどだ。
しかしながら、今の有希江に、そのひとかけらも見いだせない。ただし、それは、あおいに対してであって、もうひとりの妹、茉莉に対しては優しさがかえって倍増したように見える。それが、少女にとっては、妬ましくもあり、哀しくもあった。
「はやくしなさい!仕事が待っているのよ!」
有希江は、残酷な言葉を投げつける。あおいは、心身共に、ぼろぼろになっているというのに、係わらず、全く容赦しようとしない。
よろよろと立ち上がると、姉に従って、玄関に入る。
濡れた服を着替えようと、しているあおいに、さらに残酷な言葉が投げつけられる。175センチもある相手から、見下ろされると、まさに言葉が降ってくるという表現が相応しい。
「あれ?ドブネズミじゃない?!帰ってきたの?肺炎になって死ねばよかったのに」
榊徳子は、あおいを見ると美貌を凍らせた。
「と、徳子姉ちゃ・・・・・・お、お嬢様・・・・・・ウウ・・ウ・ウ・ウ・」
少女は、激昴される前に、言い直した、
今更ながらに、この家の子でなくなったことを、自覚させられるあおいである。
「裸?じゃ、あなたにふさわしい服を貸してあげるわ」
「ウ・・・」
空から降ってきた布は、はたして、今の今まで、徳子が来ていた服だった。
―――濡れてる?
「今まで、トレーニングしてたの。内蔵から腐りきったあなたを、浄化してあげるわ」
今の今まで、着ていた下着は、洗ったままのように、濡れそぼっている。
その時、奥から久子の声が響く。
「コラ!徳子!こんなところで裸になって恥ずかしくないの?あおいじゃあるまいし、さっさといオフロに入りなさい!」
「はーい、じゃお風呂に行くか・・・・・アレ?私の服が着れないっていうの!?」
目を狐にして、睨みつける。それだけで、あおいは震え上がった。
「ひ!き、着ます!着れます!着させていただきます!」
徳子の恐ろしさを誰よりも知っているあおいである。
「それにしてはいやそうな顔ねえ?!」
「ひ!!う、嬉しいです!」
「徳子姉ちゃんが折角、あんたに恵んでくれたのよ!なんで、笑わないの!?」
騒ぎを聞きつけて、やってきたのは、茉莉である。フキンを肩にかけて、躰全体から、芳しい石鹸の匂いが漂っている。おそらく、入浴後なのだろう。少女の肌は上気して、かすかに汗が滲んでいる。
「ま、茉莉ちゃん!」
「何ですって!?」
「ヒ!」
茉莉は、まだ、小学四年生である。背丈だって、まだ、あおいの肩ぐらいにすぎない。そんな小さな妹にまでいじめられるのは、屈辱以外のなにものでもない。ちなみに、彼女だけ、『お受験』に失敗して、三人の姉とは、違う小学校に通っている。
「ま、茉莉お、お嬢さま・・ウウ・・・・ウウ・・ウ!」
激しく号泣するあおい。流れる涙と嗚咽は、鼻水を伴って、可愛らしい顔を無惨にしている。三人三様の悪意に囲まれながら、あおいは悶えた。全身から、塩っぽい臭いが漂う。徳子の汗のせいだ。いままで、トレーニングをしていたという。下着が下半身に張り付く。まるで、濡れたまま、サランラップの中に閉じこめられたようなものだ。石油臭のする生地が、毛穴の内部まで、容赦なく侵入してくる。
その肌触りはぬめぬめとしていて、まるで、生きながら、首まで沈められたようだ。
ひどく気持ち悪い。徳子の下着は、ナイロン製なので、湿り気を帯びると、引き締めが強いのだろう。当然、体格が違うために、引き締めは弱いが、それでも、少女の眉間に皺を寄せさせるくらいに、不快なことは変わりはない。
しかしながら、今、少女を苦しめているのは、それが主因ではない。三方からやってくる魔の手である。三人の姉妹から悪意が、少女を摑み、嬲り引き倒す。そして、遠方からは実母である久子のそれが、延びてくる。一番遠いはずなのに、一番強力なのである。それをひしひしと感じて、失禁しそうなほど恐怖を感じているのだった。
どうして、あおいは、どうして、こんな境遇に落とされているのだろうか。どのような罪があって、こんな目に遭わないと行けないのだろうか。
その問いに答えるために、いったん、時間を戻したい、少しばかり・・・・・・・・。
榊あおいは、車上の人になっている。当たり前のことだが、運転しているのは、少女ではなく彼女の母親である。榊久子、年齢的には、30才を幾つか超えるほどだが、まだ20代前半と言っても通用する肌と目の光りを保っている。
サングラスで両目を隠してはいても、その美貌は、おおよそ見当が付く。そして、その表情をも見当がつく、いや、ついてしまう。尖った鼻先は、彼女の苛つきを暗示しているようだ。
「何なの?!あちらで1日過ごしただけで、お嬢さんになったものね」
久子は、バックミラーで背後の席を、ちらちら見ながら、棘のある言葉を吐き出す。
「そんな ――――ママ!」
「ママ!?」
彼女の声が、さらに鋭利さを増す。
「・・・・お、奥様・・・・・ウウ・・ウウ・!」
言い直したあおいは、辛気くさく泣き始めた。
「もう、許して!お願いだから・・・・・・こんなことヤメテ、お遊びでしょう?!」
「何を許すのか、わからないわ。それにそんな言い方を許した憶えはないわよ」
とうてい、娘と母の会話に聞こえない。もしかしたら、実の母娘ではないのだろうか。
「・・・・・・・・」
「いつまで、そんなお嬢さんみたいな恰好をしているつもり?早く着替えなさい。そこに服がおいてあるでしょう!あなたにはそれがふさわしいのよ」
「そ、そんな、ここで?」
「誰も、あんたの裸なんか見たくないわよ、そんな服はあなたにふさわしくないの!いい加減自覚なさい」
「・・・ハイ」
あおいは、シャックリを上げながら、服を脱ぎはじめた。そして、後部座席においてある黒い服に袖を通す。それは一見、喪服のように見えた。だれか不幸があったのだろうか。
それにしては、おかしい。何故ならば、久子は、そんな衣装を身につけているわけではないからだ。黒いシックなスーツは死臭を思わせるが、大粒の宝石をあしらったアクセサリー群は、明らかにそれを打ち消している。
「いいわよ、それがあなたにはふさわしいわ。使用人さん」
「・・・・ウウ、ひどい」
あおいは、『使用人』という言葉にひどく反応するようだ。細い首をビクつかせて、かすかに、震える。それはチック病のようだ。
少女の両の目から、大粒の涙がこぼれる。あおいが着ている服は、いわゆるメイド服である。今まで、着ていた服。高そうなブランド物とは比べるべくもない。
「・・・・ウウ、もう許して・・・・・」
両手で顔を覆って泣き続けるあおい。しかし、母親である久子は、かすかな微笑
さえ浮かべて運転を続ける。
「あら、お行儀よく、シートベルトしているのね、別にしなくてもいいのだけど」
「・・・・・・・・?!」
あおいは、母の言っている意味がよく理解できずに、目をぱちぱちとさせた。黒目がちな瞳には、まだ瑠璃のような涙が光っている。
「知ってる?シートベルトを付けないと、死亡率が何倍にも跳ね上がるのよ」
「ママ・・・!」
「ママじゃないって言ってるでしょう!!」
久子は、人がいないのを確認して、急ブレーキをわざとかけた。同時にスピンをかける。そのために、あおいの身体に余計な重力がかかる。
「ウグ・・・!!」
それは母の意思だと、はっきりわかった。
「言い直しなさい!」
「お、奥様・・・・・・・」
「今度、言い間違えたら、最高速度のまま、高速道路に放り出すわよ。あなたがいたずらしたって言えば、警察は納得してくれるわよ」
ドライアイスよりも冷たい言葉が、平気で投げつけられる。
あおいは、信じられないという顔をした。それは自分の感覚すべてに渡っている。五感のすべてである、手の感覚、足の感覚、すべてである。今、あおいは、ぬめっとした皮のシートに触れている。足下には当然の車の床があるわけだ。
しかし、それが信じられない。実感がない。
まるで、宇宙に放り投げられて、命綱のないままに、虚空を果てしなく泳いでいるようだ。
母親の心ない言葉の一葉、一葉は、それぞれ薔薇のように刺を持っている。
少女の心に否応無しに、母親の言葉は突き刺さってくる。それはまさに、ナイフ、凶器だった。これでもかと、あおいを傷付ける言葉が降ってくる。その言葉のひとつ、ひとつをとっても、とうてい、親が実の娘に、投げかけるような言葉ではない。
高速を降りたところで、久子は言い放った。あおいは、料金所のおじさんとたまたま目があって、笑い合っているときだった。
「あなたの言い分は聞いてあげたんだから、約束は守ってもらうわよ、何だったけ」
「一晩、ご、ごは、え、エサ抜きです・・・・・」
「それだけじゃないわよ、一晩中、寝ないで働いてもらうからね。覚悟なさい」
「ハイ・・・・」
おじさんの優しい笑顔と、母親の冷たい言葉の落差が、あおいを尚更深く、奈落の底に落としていた。
今、車は長いトンネルに入った。少女の暗い表情が、さらに闇を増す。それは偶然だったのだろうか。少女の今と未来を暗示しているのではなかったか。かつて巨大な山をくり抜いて、造ったことが想像される。
トンネルの出口は、何処まで行っても見えない。それが少女の未来そのものなのだろうか。オレンジ色の憂鬱なキラメキは、決して、少女の足下を明るくはしない。それでも、トンネルは出口を迎える。しかし、それはあくまで既成のトンネルだからだ。
決して、少女の未来ではない。陽光が復権し、黒い豊かな髪を奇麗な亜麻色に変えても、少女は表情を元に戻さなかった。いや、出来なかったにちがいない。むしろ、光が豊富になっただけ、そのどす黒い表情を白日の元に晒すだけだった。
小一時間ほど、走ると車は止まった。
「ほら、何ぼさっとしているの!?使用人の分際で寝るなんてどういうつもり!?」
「ひぃ!ご、ごめんなさい」
「ごめんなさいませでしょう?」
車から引きずり出されると、あおいは、耳を引っ張られて、引きずられた。
激痛とともに、起こされた少女は、我が家の前にいた。帰りたいが、決して帰りたくない場所だった。 できることなら夢の中にいたかった。
車から、邸宅が見えてくる。それは、赤木家に負けない規模と偉容を誇る。夕日に、映えている様子は、まるでオーストラリアの岩山のようだ。それはとても懐かしい風景だった。しかし、あおいは夢の中にいた。だから、本当の意味において、過去に安住していた。
「帰ってきたの、ママ。あーれ?何寝ているの?コレ!」
「有希江姉サ・・・・・・ひ!ご、ごめんなさい!ごめんなさいませ」
あおいは、みなまで言う前に、足を踏みつけられた。その犯人の名前は、榊有希江、すなわち、榊家の次女である、高校一年生、16才になったばかりだ。黒目がちな瞳と、笑うとえくぼができる頬などを見れば、二人が姉妹であることは、一目瞭然だ。
「ママ、コレの躾がなっていないみたいね」
「こんな子の相手をするなら、勉強にもっと身を入れなさい」
久子は苦笑するが、その表情は、有希江に対する顔と180度違う。娘に対する愛情に満ちている。あおいには、その落差がたまらなく辛い。
「じゃ、ママは仕事があるから」
そう言って、コツコツとハイヒールを鳴り響かせて、家に入った。ヒラメ筋がひきしまっているのが、黒いタイツの上からも見て取れた。
有希江は、それを確認すると、泣きじゃくる妹を睨んだ。
「ヒイ!」
それだけでダンゴムシのように小さくなってしまう。
「あんたに重要な仕事があるのよ」
有希江は、あおいの耳を引っ張ると、無理矢理立たせる。まだ泣き続けている。
久子が家に入ると、有希江は、あおいの目の前にあるものをぶらぶらさせた。
「・・・・・・・?!」
1円玉が一枚、有希江の手のひらに乗っていた。
「これが一枚、庭に落ちているわ、拾ってきてね」
「まさか、こんな広い庭に?そんなの無理よ!ひいい!無理です!?」
あおいは、泣いて抗議した。
「何だって?」
「わ、わかりました・・・・・」
「まだ、自分の身分がわかっていないみたいねえ?!何よ、その目!」
あおいは、姉を見上げた。その目からは、信じられないほどの憎しみが見て取れた。
「探すの?探さないの?」
「探します・・・ア?」
「そんなに抗議した罰よ、ただ、探したんじゃ、あんたのためにならないわ」
「いやあ!!!」
有希江は、妹の右手首と右足首とを縄跳びの縄で縛り上げる。左手首と足首も同様だ。ビニールの紐は、よく人の肌にフィットする。夏は、なおさらだ。何故ならば、汗と皮脂腺の働きが盛んなためだ。
少女の初々しい汗と脂がビニールの石油臭と合わさったとき、化学変化を起こす。その時、非常に芳しい匂いが発生するのだ。それは少女の背負うランドセルに似ている。
それが、どれほどある種の男にとって魅力的なのか、有希江には理解できなかった。
「姉ちゃん、有希江姉ちゃん!もう、やめて!やめて、私はあおいよ!どうして、こんな非道いことするの?!」
それは、さしずめビックバーンだった。
「さっさと探しなさい!戯言を言っていないで、あなたみたいなのから、姉よばわりされる言われはないわ、言ってみなさい、私を、正しい言い方で!」
「ひぎぃいぐ!ゆ、有希江、お、お嬢さま・・うぐう!!ウウウ!!」
「よく言えたわ、ほら、さっさとそのみっともない恰好で、探すのよ」
有希江は笑いながら、家の中へ戻っていった。コンクリートを叩く、靴音は、少女の頭を直撃した。脳の中に、鉄棒を打ち込まれて、金槌で叩きつけられているような気がする。
不自然な姿勢で、庭を歩きまわる。ただ歩くだけでなしに、1円玉という限りなく小さなものを求めて、さまよい歩く。それはもしかしたら、埋められているかもしれない。どうやって、不自由な体で掘り出すのだろう。額が熱い。気が付いたら、自分の涙だった。泣くことで、額が濡れるなんていうことあるのか。
―――――こんなことは、啓子ちゃんは経験できないよね、いや、しちゃいけないよ!
大切な親友を思い浮かべて、さらに泣いた。しかし、それは彼女に対する無限の愛だけではなかった。今、彼女は何をしているのだろう。たぶん、夕食を待っているのだろうな、自分を愛してくれる姉妹と楽しく過ごしているのだろうな。そんなこと思うと、自分が卑しい嫉妬にまみれていることに、気づいて、さらに額を濡らすのだった。
気が付くと、お尻が冷たいことに気づいた。雨だ。
―――お願い、有希江姉ちゃん、助けて、ママ、助けて、千香姉ちゃん、茉莉!ウウウウ!
あおいは、不自然な姿勢のまま、慟哭した。少女の尻を濡らした水滴が、胸を濡らし、頭を濡らす。その犯人が、雨なのか、涙なのか、汗なのか、おしっこなのか、わからない。
―――――――え?おしっこ?いや、いや、いや!いや!!
あおいは、必死にその小さな肢体を揺らした。尿意から逃げるためである。しかし、そうすれば、そうするほど、膀胱を刺激する。
―――いやあ!トイレ!トイレ!トイレ!ェエエエ!!
心の中で叫びながら、あるものを思い浮かべた。言うまでもなく。便器だ。TOTOの文字が印字されているアレだ。あの白い陶器の塊が、これほど愛おしいと思ったことはない。この世で、もっとも尊い存在のように思えた。
「あはははは!有希江姉ちゃんたら」
その時、聞こえてきたのは茉莉の笑い声だった。よく通る声だ、こんな遠くまで聞こえてくる。ちなみに、茉莉は、榊家の末っ子、すなわち、あおいの妹だ。
――――そろそろ、夕ご飯なのかな?お腹空いたな。もう、わたしには関係ないけど。
「千香姉ちゃん、何時帰ってくるのかな、でもあたしたち、兄妹が多い方だよね、三人姉妹なんてそういないよ」
――――茉莉!私だって、この家の娘なのよ!あ!いやああああああ!!あああ!!
あおいは、妹の暴言に気を取られたのか、石に躓いてしまった。当然、膀胱の筋肉が緩んだ。それは、必然的にある結末を導き出す。