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『新釈氷点2009 3』
 家族を見送り終わった夏枝はしばらく空を見ていた。蒼天という言葉はこのためにあるのだと思わせるくらいに、透けるような青空が広がっている。
――――これから、ずっとこうだといいわ。
 自分に言い聞かせるように、空に視線を遣ると、人の背の二倍くらいはある板チョコのようなドアを閉めた。
 玄関を入ると客人は正面にある絵画に魂を奪われることになる。キュビズムと言うべきか、それともシュールレアリズムなのか、大抵の客人は評価に苦心することになる。
長崎城主の邸宅ともなれば、客人の数は、普通の家の倍増しとなる。彼らは、この絵をどう批評しようかと頭を悩ませる。
 ところが、彼らは総じて同じ感想を持つ。
 それは、この絵が醸し出している圧倒的な幸福感である。

 同時に、女主人の笑顔を見ると救われるような気分になる。同時に、彼女の娘がいたとすれば、それは完全なものになるだろう。ちなみに、彼女は絵の制作者である。もっとも、その年代はほぼ10年前という断りがつくのである。
 言うまでもなく次女である陽子が描いた幼児画である。両親と姉である薫子が楽しげに並んだその絵は、ひとつの幸せな家庭を余すところなく表現しきっている。誰しも、その絵がこの家庭のフラクタル図形になっていることを思い知る。言い換えれば幸福の雛形になっているということになろうか。
当の陽子は恥ずかしがるのだが、夏枝は来客の度に、それを紹介するのだった。あたかも、自分の家の幸福を喧伝するように。

 玄関から90度曲がって、回廊が続く。その設計は、あたかも、この絵が飾られるために為されたかのようだ。
 この邸宅は陽子がこの世に生を受ける以前から建っているのだから、当時の建築家がそれを予見していたとしか思えない。
 それほどまでに、この絵は建物に溶け込んでいたのである。ほぼ同一化していると言っていい。

「・・・・・・・・」
 夏枝は、意味ありげに微笑を浮かべると履き物を脱ぐ。良家の子女らしく、優雅な手つきでそれを整えて置いた。
 鈍く光る皮は、彼女の複雑な心理をぼんやりながらも描写しているようで、気持ち悪くなって思わず目を背けた。あたかも、罪を犯したばかりの人間が鏡で自分の顔を仰ぐようなそんなイメージである。
――――別に、私は犯罪者じゃないのに ・・・・・・・・・そうだ、今日は電話が。

  その時、ルルルルルという電話の呼び出し音が響いてきた。まるで、彼女の心理を読み取ったようなタイミング。まさに、その相手らしいと受話器を取りもしないのに、勝手に相手を決めつけていた。
はたして ――――。
「春実でしょう?」
「え? 夏枝? またわかちゃった?」
「またまた、人を超能力者みたいに ―――」
 夏枝は、さきほど流行のSFアニメを思い浮かべた。陽子から又聞きしたのだ。学校でも流行になっているらしい。
「夏枝のエスパー能力は廃れないようね。昔は、おにぎりの中身を当てたりとか ――」
「偶然だってば ―――」
 普段は見せない笑顔をこのときとばかりに発揮する。もっとも、今、彼女以外に、この広い邸宅にいるのは猫の、ピエトロだけなのだが・・・・・・・・。優しい母親の姿しかしらない陽子にとってみれば、こんな彼女の姿は意外かもしれないが、けっして、単なる良家の子女に、その性格は留まらないのである。
 普段は、誰もいないとはいえ、簡単に油断した顔などを晒すようなマネはしない。愛娘の絵が視線に入ると、すこしばかり表情を整えて口を開いた。

「今頃、あなたから電話があることは、わかっているのよ。毎年のことだし ――――」
「そうだね。薫子ちゃんはどうなの」
「あの子なら、定期的に行っているみたいだし ――――それに」
「あまり大がかりにやると、ばれちゃうか ――――」
「お春ちゃん?!」
 夏枝は、声に感情を込めた。怒りを親友に対して表すとき、決まってこの幼名とでも言うべき呼び方をする。別に、彼女が嫌がるという理由でもなさそうだが、その由来は、本人でもわからない。
「電話じゃ、詳しく話せることじゃないけど、さ、いつか ――――だよ。あの子、あなてに似て、見かけによらず勘が鋭いからさ」
「うん ――そうだけど」
 心配げに、再び絵に視線を戻る。それを止まらせたのは、親友の次のような台詞だった。
「これから、あなたの家に行っていい?」
「春実?!」
 何故か、親友に今の自分を見せたくなかった。しかし、別に断る理由も見あたらないので ――。
「わかったわ。だけど仕事は? 今、何処にいるの?」
「諫早駅前の喫茶店。車で五分ってところかな。大丈夫よ、それでいつも子連れてくるの?」
「夏枝、未だに子もないじゃない? 少なくとも、私の夫なのよ、ははは。」
 
 当時としては大変珍しいできちゃった婚だった。そんな言葉すらなかった時代のことだ。それに、春実は、夏枝に劣らず良家の子女なのである。城下町は噂でかまびすしかったが、そんなものにへこたれる春実ではなかった。
 ちなみに、その時に産まれた娘の永和子は陽子の親友である。
「じゃあ、切るね ―――」
 夏枝は、アールデコ的な意匠に彩られた受話器を置くと、しばらくそれに両手を添えた。機械がその重力に悲鳴を上げて、はじめて、電話を壊しかけた自分を発見して、苦笑した。
――――こんな顔はとても娘たちに見せられないわね、春実にだけで十分。
「ま、お茶の準備くらいしてあげなきゃ ――――」
 そう言うと、夏枝は紅茶の準備を始めた。ダージリンの一風変わった品である。口ではそう言うが意外にはりきっている城主婦人であった。

 ものの、五分と係らずに、女弁護士はやってきた。
 ちなみに、夏枝が子呼ばわりした谷崎はいなかった。

「クビにしたのよ、育児役に再雇用したわけ ――――」
 自分の首を手刀で切るマネをして、笑っているのは、言うまでもなく財前春実弁護士である。結婚を再雇用などと言うのは、まさに春実らしい。
 「まったく、まだ用意も出来ていないのに、まあ、いいわ。いつものところで座ってて」
 親友をリビングに押しやると、自身はキッチンに戻って、自家製のレモンケーキを切り分け始めた。

 春実は、言われる通りにリビングに向かう。両家は家族同士の付き合いをしてきたので、かつて知った家と言って良い。
 12畳ほどのリビングの中央に降りるシャンデリアやコの形に配置されたソファは、ここが、家族のための部屋であることを暗示している。それら記号としての家族はたしかに機能している。しかし、その実情はどうか。親友の目からすると、それなりに機能しているように見える、それはそれでいいのだが・・・・・・。
 いつまでその状態が保全されるのか、大変心配である。
もっと、懸念されるのはその種を蒔いたのが自分だからだ。
「12年か ――――」
 しみじみと春実は、部屋を見回す。こんな大邸宅の割に、こぶりのリビングである。全城主である建造に言わせると、「家族の団欒のためには、このていどの大きさがちょうどいい」ということになる。もっとも、この家に招待される一般市民からすると、その考えに首肯する気にならないだろう。
 それにしても小綺麗にしているのは、さすがに、専業主婦の鏡である夏枝の面目躍如ということだろう。これが春実ならそうはいかない。家庭のことはほとんど夫に任せている。
 沈思黙考していると、レモンの甘酸っぱい匂いが漂ってきた。

「春実、何しているのよ、座りもしないで ――」
「そうね」
 ハンドバッグを膝の上に載せながら体重を荘重なソファに預ける。その仕草がいかにもおもしろかったのか。カラカラと笑う。
 不満げな色を綺麗な形の頬に乗せる
「何よ」
「妙に他人行儀だから」
「弁護士なんてやってると誰でもそうなるわよ、いやでもね。そうだ、本題に入ろうか ――」
 話題を転じようとすると、とたんに夏枝の顔が曇った。
「いい加減に真相を告げなさいよ、陽子に」
「・・・・・・・・・・・・・・」
夏枝は黙りを決め込んだ。
――――真相ね。
 我ながらよくもそんな単語を舌の上に載せられると感心させられる。しかし、あえて言わねばならない。

「鋭敏なあの子のこと、きっとおかしいと思っているわよ。いかにこの土地の人が古風で、口が堅いって言ってもね。旧い新聞を調べられたらアウト。今まで、あの頭の良い子にばれなかったのは奇蹟と言ってもいい ―――もしかしたら、すべて知っているのかも」
「お春ちゃん!?」
 気色ばむ夏枝。
「あなたに何がわかるのよ! どれほど気を遣ってきたか。私だけじゅない、あの人や、薫子も ―――」
「それをうすうすとわかっているって言うのよ。具体的にはわからなくてもね」
春実の言うことはわかる。しかし、それが正論ゆえに腹が立つのだ。これまでどれほどあの子のために骨を折ってきたか。
「あの子が、ルリ子が ―――」
 春実は目を見張った。あの子というニュアンスがすこしばかり違う。
「ああいうことになって、すぐに、妊娠だなんて不自然でしょう?!」
 自分の論理がいかに不自然か、すぐれた知性に恵まれた夏枝がわからないということはない。自分で言っていて不思議だった。どうして、ここまでルリ子の存在を陽子に隠匿してきたのだろう。あの優しい子のことだ。あまりに可哀想な死に方をした姉のことを心から供養するにちがいない。たとえ、一回も出会ったことがなくても ――――。

 たしかに啓三の意見もあったが、忘れたかったのだ、あのような悲劇があったことを! そして、あの時抱いていた珠のような赤ん坊に、影響を与えたくなかった。それほどまでに、赤子の温もりに触れた瞬間に、愛情を感じたのだ。
しかし、そうであっても、ルリ子のことを忘れたわけではない。そんなことはありえない。一時であっても、あの子ことが脳裏から消え去るなどということはない。陽子はあの子の代わりではないのである。
 もっとも、怖ろしいのは、自分の醜さだった。
 本当に、大事だったのは身の保全ではないか。
 やはり、あの出来事を嘘にしたかったのだ。だが、そうなると矛盾する ―――――。
 夏枝は頭を抱えると、ソファに伏した。そして、声に泣き声をしのばせた。

「そうよ、どうしたらいいのかわからないの。言うべきタイミングを失ってしまったのよ、いまさら ―――」
「夏枝、陽子は家族でしょ!」
その言葉に、母は飛び上がった、あたかも、身体の中にバネがあるのではないかと、春実に錯覚させたぐらいだ。
「当たり前でしょう!? お春ちゃん!!」
 夏枝は寄り添ってきた春実にしがみついて抗議した。しかし、それこそ親友が望んだことだった。
―――ワタシ、悪魔ね。
 本当に泣きわめきたかったのは、春実である。自分が侵した罪を考えると、胸が張り裂けそうな気がする。しかし、あの時、自分を裏切った夏枝に対して反感を持っていたのは事実である。それは今も影響しつつある。
 複雑な気持を孕みながら、春実は夏枝を抱き締めた。その身体に流れる血潮を感じるとやはり、罪 悪感に身を焼かれる。その流れは、ツライ、ツライ!と言っている。

「夏枝、ごめんなさい。でも、私だって簡単に言っている訳じゃないのよ、考えて欲しいって ―――――」
 春実の声を遮る何かが、その時、空間をまっぷたつに引き裂いた。扉が開く音と、哀しいまでに高音の金切り声。その不思議な二重奏は、春実の耳には死刑の通告に聞こえた。
「ルリ子って誰? はあ、はあ・・・・・」
「よ、陽子!?」
「陽子ちゃん・・・・・・」
 かたつむりの身体と殻のようにふたりは一心同体のように、陽子は見えた。しかし、その姿は涙のだめにぼんやりとなっている。まるでセザンヌの印象画にしかみえない。この世でももっとも信頼しているはずの二人が自分に何を隠しごとしていたというのだろう。
「どうしたの? お昼前よ ―――」
何故か、冷静な言葉が出てくるのが不思議だった。朝、弁当を持たせたことが一秒前の出来事のようだ。
「忘れてはいけないものを忘れてしまったのよ、お母さま ――――。それよりも、ルリ子、いや、ルリ子さんって誰?」
 陽子の怒った顔に久しぶりに出会った。何処か哀しげな色を整った顔に乗せる。その時、上品な鼻梁は小刻みに揺れて、いささかなりともピンクを帯びる、そして、大きな瞳は涙に揺れている。まるで黒曜石だ。
――――総てを悟られた。
 ふたりは心の内をすべて見抜かれたように思えた。ただし、両者にとっての真実とはその色合いを異なるものにしている。意味合いが違うのだ。
だが、夏枝は踏みとどまった。ここはもっとも大事な宝箱を開けてはならない。それはパンドラの箱なのである。
「ルリ子はねえ、ルリ子は・・・・・・・」
「お母さま?!」
 しかし、陽子は只ならぬ母親のようすに表情を変えた。怒りの武装を解こうとしていた。一言、発するたびに、身体中の痛覚が刺激されるようだ。それは、しかし、陽子にも伝わっていたのである。
愛する母の苦痛が我が事のように感じられる。しかし、ここで垣間見てしまった真実に背中を向けるわけにはいかない。
「?お母さま? その方は?」
「ルリ子はねえ、あなたのお姉さまなのよ」
 この時、はじめて、茫然自失の春実は意識を取り戻した。冷静沈着な本分を発揮させようとする。親友の重荷をかづくことにした。
「あなたのお姉さんは、殺されたのよ。あなたが産まれる前にね」
「お春ちゃん!?」
 
 はじめて、春実のことをそう呼ぶのを聞いた。ただでさえ親しい間柄だが、目の前のふたりは姉妹のように見える。
 しかし、今はそんなことはどうでもいい。今は、再び蘇ってきた憤怒の感情に身を委ねるだけだ。
「なんで ・――――、私は、知らないの? か、薫子お姉さまも知ってるんでしょう!?」
 歳柄にも遭わない大人びた上品さをかなぐり捨てて、単なる12歳の童女に戻っていた。
「私は ―――、私は ―――??はあはあ」
 まるでフルマラソンを始めて走りきったランナーのように、息を乱す陽子。夏枝は、我が子を抱きしめたくなった。しかし、身体が動かない。全身が麻痺している。
 激しい憤怒と自責の念で身体が張り裂けそうになった。
 自分が産まれる前に殺された? しかも、それを知らずにぬくぬくと育ってきた。お母さまや家族を独占して? そんな自分を許せなかったのである。そのことを自分に隠してきた家族に対する憤怒よりも、自責の念が凌いだ。

「ウウウ・ウ・ウ・ウ・ウウウ、うう。お、おかわいそうに、ルリ子お姉さま・・・・ど、どうして、殺されたの!?」
床に伏して激しく泣きじゃくる陽子。夏枝は、このまま彼女をこのままにしていたら、異なる次元に飛ばされてしまうのではないかと危惧した。
「陽子ちゃん、ルリ子は、ねえ、ルリ子は・・・・」
 ようやく、身体の自由を取り戻した夏枝は、覆い被さるように愛娘に辿り着く。
一方、春実は自分のすべきことを思いだした軍人のように、任務に足を踏み出そうとする。
 陽子のピアニストのような手を摑むと、大人の口を開く。
「それは、聞いちゃだめ。陽子ちゃん。そうすると、みんなが傷つくことになるわ。きっと、夏枝はもう生きていけないわよ。約束してちょうだい。16歳になるまで詮索しないって ――」
「おばさま ――――」
 陽子の手はとても冷たかった。凍りついているのではないかと、思った。しかしながら、16歳などという年齢を持ち出すところ、自分は法律家なのだと思った。
――――とんでもない悪徳弁護士だ。
 凍りつきそうな美少女の手を必死に温めながら、春実はそう思わざるを得なかった。





テーマ:官能小説 - ジャンル:アダルト

『新釈 氷点 2009 2』
 啓三は、ただ黙って机の上にあるものを見つめていた。それは彼の家族のポートレイトだった。自分と妻である夏枝、そして、二人の前に長女である薫子が立っている。そして、その前にはお客用の豪奢な椅子が置かれ ――――。
 その上には ―――――。
 次期城主の視線は写真の中の聖域に注がれていた。それは、現在の彼がけっして見てはならないものだった。何故ならば、彼じしんの精神の健康を非常に害する危険を内包していたからである。  しかし、何十キロも走ったランナーが水を求めるように、愛娘の顔を探しあてていた。

「ルリ子!!」

 根の国からわき起こってくるような嗚咽とともに、彼は愛娘の名前を呼んだ。写真に映っている元気な姿は、もうこの世の何処にも存在しない。変わり果てた姿になって骨壺に入っている。
 啓三は、嗚咽を抑えられなかった。
ソテツの群生が作る影に、まるで生ごみのように捨てられた我が娘。その姿を啓三は死んでも忘れられないだろう。
 それはあのパーティの日だった。
 犯人は簡単に逮捕された。
 
  佐石土雄

 啓三は、この世が終わろうともその名前を忘れないだろう。
 よもやあるまいと思うが、死刑以外は認められなかった。もしも国が殺してくれないなら、我が手で同じ目に合わせてやろう! そのためには裁判所に赴こう! そう誓ったはずだった。
 しかし、その憎き犯人は、まもなく留置場で首を吊って自死に至った。この手で殺すはずだったのに!!
 行き場を失った怒りは、今の今まで啓三の中で蜷局を巻いている。やがて、その毒牙を食い込ませる敵手を求めて、いつか鎌首を擡げるだろう。それを佐石のために温存していたのに。
いや、その目標は手短にいた。なんと、彼がこの世でもっとも愛しているはずの ―――女性だった。

――――あの時、夏枝はいったい、何をしていたのだ!!

「もしや、ルリ子が殺されたとき、あいつら、抱き合っていたんじゃ!!」
「・・・・・啓三?」
 春実が見た親友の顔は、かつて温厚で誰に愛される青年医師のそれではなかった。復讐の悪鬼と化した。
「ありえるかもね ――――」
 ルリ子の死亡時刻を考えてみれば、合ってはならないピースが嵌ってしまう。
 春実は、愛らしいルリ子がむさ苦しい浮浪者に陵辱され絞め殺される場面を思い浮かべた。そのとき、あの二人は不倫の愛に溺れていたのだ。
 常に冷静沈着な性格がウリの春実でさえ、その顔を直視することはできなかった。リノリウムの床をみつめながら、自分が火を扱ってはいけない場所でマッチを擦ったのだと危惧した。
 しかし、もう後戻りはできない。もう、行けるところまで突き進むまでだ。

「啓三、理解してくれたのね」
「ああ、善は急げだ! 安斎くん!」
 啓三は、秘書が入ってくる前に叫んでいた。
「これからのオペはキャンセルだ。他の先生を当たってくれ ―――」
「啓三!!」
 メラメラと燃え上がる炎を目の前に、春実は、何も出来ずに立ち尽くしていた。改めて、もう引き返せないのだと実感した。さきほど思い浮かべた地獄の映像を、思い出すことにした。そうしなければ、とても立っていられないと思ったからだ。

「辻口先生!!」
 秘書も、自分が何も言い出せないことを理解していた。温厚な上司の変容をただ絶望的な視線で見つめていた。そして、悲しみと怒りのない交ぜになった視線をその犯人に向けることでしか、自分を納得させられなかった。
 しかし、春実のほうではそんなことを忖度している余裕はない。
「私の車で ―――」
「ああ」
 白衣も脱がずに廊下へと駆け出す。
「先生!」
 甲高い男の声は谷崎のものだった。用を足していたのである。
「谷崎くん、車を回して、愛児院に向かうわよ」
 彼も、啓三のただならぬようすに肝を冷やしたようだ。口の中に異物を突っ込まれたような顔をすると、上司と青年医師を車に先導する羽目になった。
 谷崎は背後を見るのを恐れた。まともに医師の顔を見る勇気が自分にあるとは思えなかった。上司の顔を伺ってみたかったら、そうしたならば、悪鬼の顔も視界に入ってしまう。気弱な青年としてはそれは避けたかったのである。
 リノリウムの床は、どんな気分で靴音を3人に返してやったのだろう。どんな気分で見送ったのだろう。病院を象徴するような清潔の白は、ただ、沈黙を守っていた。

 さて、車に滑り込んだとき、啓三はまだ白衣を着ていた。
「啓三、白衣・・・・・」
「ああ ――」
 そんなことはどうでもいいとばかりに、白衣を車の背後に押し込む。任務を与えられなかったスピーカーは、文句を言いいたげにうなった。男の体臭が染み込んだ白衣など押しつけられたら迷惑だ。そう言わんばかりに見えた。
 エンジンは、そんな友人の不平など何処吹く風とばかりに、凶暴なうなり声をあげる。啓三は、それが犯人である佐石のいまわの際の声に思えた。
 実は、彼が死亡したとき、警察から連絡を受けていた。

「実は、遺書を残しているのですが、それが辻口さん宛でして ―――」
「結構です!!」
 ただ、その一言を以て、啓三は受話器を乱暴な手つきで投げづけた。
 何て、世間とは無神経なのだろうと思った。被害者の遺族がそんなものを知りたいなどと、誰が思うものか。ひたすら、思考はマイナスの方向に下った挙げ句、どうして、自分の娘は死んでしまったのに、他人の子供たちは呑気に笑っているのだろうなどと思うようになっていた。
 病院に産婦人科から聞こえてくる声や音。新生児の産声や、親たちの歓声。それらを聞く度に耳を塞ぎたくなった。妊婦を路上に放り出して、産婦人科を閉めたいとまで思った。たまに、流産や奇形児の出産を聞くと胸がすく思いだった。しかし、とうぜんのことながら、次の瞬間には全身を切り裂かれるような罪悪感に苛まれるのだが・・。
 今、それらをすべて解消してくれそうな気がした。

 愛児院に収容されているという佐石の娘。その子は二重の意味で啓三を救ってくれそうな気がした。
 自分を裏切った夏枝に対する復讐。
 そして、失ったルリ子の変わりとして。
 しかし、後者には問題があった。自分がその子を目の当たりにして、手を出さないという自信がなかった。少女が足にまとわりついてきたとたんに、その首を絞めてしまわないか。その衝動を自分で抑えきる自信がなかった。
 そんなことを考えながらも、車は山の中に入っていく。その愛児院の名前は啓三の耳に親しんでいるとはいえ、じっさいにその場所に行ったことはなかった。その辺の雑務は産婦人科以下、専門に行うセクターがあるし、啓三はそれに口を出したこともなかった。彼の父親である現院長などは、知人を会して容姿縁組みの世話をしたことがあるが、よもや、自分がそれにかかわるとは思わなかった。
 彼と夏枝には長女がいる上に、次女である、いや、だったルリ子も生まれて間もなかったからだ。

 それが ――――。

 啓三は、考えまいと思った。いま、車は急勾配な坂にぶつかったところだ。急に重力が身体にかかって、空が見えた。雲が太陽を隠そうと企んでいるところである。その木漏れ日が地上に差し込むと、それが天なる神から光が自分たちに分け与えられているようにも思えた。
 それは、何か意味があることなのだろうか。もしかして、預言ということはこういうことだろうか、あの光の帯を言語に変換する方法がこの世にはあるとでも言うのか。
 苦悩する啓三は、愛児院が視野に入るまで一言も言葉を発しなかった。

「そうだ、あの愛児院にはうちの産婦人科医が常駐しているはずだ」
「あんた、自分の病院のことなのに、そんなことも知らないの?」
 友人が落ち着いたのを確認するように言葉を紡ぐ。
「産婦人科のことは親父に任せているからな ――」
 ドアを開けながら山の気を吸い込む。とても呑気な場所だ。啓三は思った。ここ数日の苦悶が嘘のようである。もしかして、すべて嘘なのではないか。性格の悪い悪魔が魔法でもかけて、自分をたばかったのではないか。
 青年医師の中に多少なりとも残っていた希望の光か、あるいは妄執とでも表現すべきか、何れにしても、そのような部分が彼に一瞬の白昼夢を提供したことは事実である。
 さて、その建物は啓三を待ちかまえるように建っていた。

「キリスト教関係だったのか」
「そんなことも知らなかったの?」
 教会とキリスト教を象徴する記号を指さしながら言う啓三。今度は、あからさまな蔑視を向けながら、言葉の塊をボール代わりにして、啓三に投げつける。
「そんなことはどうでもいい。もう連絡はしてあるのか、春実」
「そうよ、その辺、抜かりはないわ。もう手配してあるから、父親のつてを利用してね」
「この院長とかかわりがあるのか」
「そうらしいわ」
 ハイヒールの音も軽やかに小石を飛ばす。先導する春実に駆け寄る啓三。運転主、件、秘書である谷崎は神妙な面持ちで背後に控えている。
 3人が通されたのは教会の説教部屋だった。キリスト教に関係ない者にとっては、単に教室を変形させたようにしか思えないだろう。あえて、両者の違いを指摘するならば、机がないということだろうか。

「ああ、お嬢さんかぁ、赤ちゃんのことははがきで知ったよ。その後どうかな? お父上は引退されたと聞いたが ―――」
「ええ、健在ですわ。それに父は、第二の人生に邁進中ですわ。白眉さん」
 春実は、隣に座っている院長を気遣いながら言う。ちなみに、啓三は春実の横に座っている。
「院長先生は、神父様と兼職なさっておられるのですか」
「そうじゃよ。イヤ、今はもう医療のほうには携わってはいないが、医師免許は健在じゃな。別に破いてすてる必要はないから、そのままにしておる」
「はぁ ―――」
 別にキリスト教徒ではないが、宗教的な権威には総じて弱い啓三は、このような人物と出会うと思わず恐縮してしまう。

「ああ、坊や、君も座りなさい」
「はぁ」
 豆鉄砲を喰らった鳩のような顔で、坊や呼ばわりされた谷崎は啓三の横に座る。これで四人が並んだわけだ。
 教会の窓を装飾するステンドグラスの主題は、『ドラゴンを退治する大天使ミカエル』である。この手の内装にはありがちな内容だが、愛児院という舞台には相応しくないような気がして、春実は笑いたくなった。啓三は、ただ畏れ入るだけでそんなことに思考が赴くはずはない。
 春実が口を開いた。

「白眉さん、赤ちゃんの件ですか」
「聞いているよ、そちらの旦那さんかい。引き取りたいと言われるのは。」
「はい、院長先生」
 畏まって啓三は答える。自分の名前からすべてを察しているだろう。それは覚悟の上である。
「どうしても引き取りたいと、彼女から伝え聞いておるが、このことを奥さんは知っておられるのだろうね」
 念を押すように言う。頭を見れば頭髪はほとんど残されていない。毛根はすでにその役割を完全に忘れ、数本の白髪が、枯れ木を思わせる。
 しかし、口調はしっかりしている。この話題に入ってから、まるで脂の乗り切った30代に戻ったようだ。その肌は湿度を増し、目の色も黒曜石のように光り出している。
「では、改めて問うがが、どうして彼女を引き取りたいと思われたのか」
 だが、啓三にしては寝耳に水だった。春実は、もう、ここまで話を進めていたというのか。自分が言い出したなどと。しかし、老翁の勢いは、啓三をして釈明せしめる意図を途絶させた。
「・・・・・・・・・・相手の、罪を許すのがキリスト教だと聞きます。私はクリスティアンではありませんが、  その教えには首肯せざるをえません。しかし、犯人が死亡したいま、私には許す対象がいないのです」
 啓三は、驚いていた。こんなに見事にいい訳が言の葉になるとは思ってもみなかった。まるで何者かが、自分の口を借りて捲し立てているかのように思えた。
「それで、その変わりにあの子をと?」
「え?」
 老翁が指さした先には。
 ドアが開く音とともに、出現した、それは。
 春実は声も出ないようだった。

 まるで何者かが予め書いた舞台のように、事態が進んでいく。啓三と春実は、それに巻き込まれていくことに驚きとともに畏怖を感じていた。
 そこには白衣の男性がいた。彼は、ひとりの乳幼児を抱いていた。まるで、赤ん坊のイエスを抱くマリアが出現したのかと、ここにいる全員に思わせた。
 何よりも、そのタイミングの良さが皆を圧倒させた。真っ白な光がこの乳幼児から放たれていた。啓三の頭の中は、もはや、その光にすべての感情が帳消しにされてしまった。怒りも、恨みも、悲しみも、そして、愛すら。それらすべてが光に溶かされ、いや、光と同化してしまった。
 啓三は、震える手を光の中心に据えた。


 それから、12年が経った。
 海の見える高台にその家は建っている。瀟洒な3階建ての建物は、よく教会と間違えられる。しかし、じっと見れば十字架がないことを知って、はじめて、それが普通の住宅だと認識する。もっとも、どう見ても普通のサラリーマンが一生かかっても建てられる家には見えない。
 それが当然だと誰の口にも言わせる事情がある。
 辻口啓三、言わずと知れた辻口医院の若き院長。長崎城主である。
 今、その豪華な玄関に口が開いた。

「言ってきまあす!お母さま! お父さま!」
 結婚式の花嫁が両親に告げるような声が朝の海に響く。しかし、その後に通じたのは、お通夜の挨拶だった。
「言ってきます」
「薫子、何ですか?朝からそんなに元気がないことで、どうします!?」
「陽子と一緒にしないでくれるかな?」
 走り寄ってきた女性は、目の前で我が子がトラックにはねられた母親のような顔をしている。薫子と呼ばれた少女は整った顔をくすませて言う。
「お母さま、大丈夫ですよ、薫子は元気です」
「お姉さまは朝がお悪いですからね ――」
 その笑顔はまるで太陽だ。薫子はクラクラする頭を掻いた。
「ねえ、聞くけど ―――」
「何ですか?」
 さらに光を増す太陽と、相当に大きいはずの自宅が人の頭ほどになっている ―――にもかかわらず、母親の、夏枝の送迎の声が響いている。
 それらのせいで、射殺処分を覚悟の上で、戦闘忌避を軍隊に申し込みたいところだったが、あえて、武器を手にすることにした。

「陽子、今って開明時代だったかしら?」
「何を言っておられるンですか? お姉さま、今の年号は大礼ですわ」
 きょとんとした顔で、妹は答える。姉が言った年号は、自分たちが産まれる前の、前の、年号だったはずだ。
「もういい、先を急ごう」
「お姉さま、どうなさったのですか?」
 姉に抱きつかんばかりの勢いで追いすがってくる妹から逃げられるはずはなかったのだ。
 気が付くと、彼女の右手は太陽によって喰われていた。

 一方、父親である啓三は娘たちの姿を微笑みながら眺めていた。きょうび、手を繋ぎながら登校する姉妹などお目に掛かれるものではない。
――開明時代か?
 啓三は車のキーを弄びながら海を吸った。 

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新釈『氷点 2009』1
 青年がエンジンを踏むと、黒塗りの国産車はうなり声を上げた。それは生命の呼吸を思わせる。
 背後で扉が締まると意志の強さを感じさせる女の声が聞こえる。
「谷崎君、啓三のところね」
「え? もしかして、辻口 ――――さんとお知り合いなんてすか?」
 突然のことなので、敬称をつけることを忘れるぐらいだった。国選弁護人としてこの事件に係わろうとしていた矢先のことだ。そのために秘書兼、運転手である谷崎は、ある程度の情報を得ていたのである。
「啓三と彼の奥さんとは、幼馴染みよ」
「ということは、親友の娘を殺した犯人を弁護しようとしていたんですか?」
 悪魔の笑みを浮かべて口を開く。

「ベンゴを不必要にさぼって、死刑になるように細工をするとでも行っておけば納得すると思ったのよ」
――――怖ろしい人だ。
 谷崎は今更ながらに思った。いったい、何を考えているのかわからない。辣腕弁護士であることは痛いほどにわかっているが、その信条がどのベクトルに進んでいるのかわからない。そもそも彼女を動かす信念などと言うものは、存在しないのかも知れない。
 
 車は、しなやかに地下車庫から吐き出されていく。そのエンジン音はほぼ無音で、これが一般サラリーマンの年収ではとうてい購入できない代物であることを想像させる。
 しかし、外見では、それが高級車であることは伺えない。財前春実はそういうことを露出することを好まない。だから、谷崎に言って、それらの条件を満足させるような車を用意させたのである。
 春実は25歳。この若さでひとつの弁護士事務所をかまえている。父親が元弁護士でありそれを受け継いだということもあるが、それだけは、事務所を発展させることはおろか、維持することすら難しいだろう。
 それどころか、春実は、新進気鋭の弁護士として法曹界に飛び込んだ彼女は、まさに紳士の外見を纏った獣どもが獲物にヨダレを流すこの世界へと切り込んでいる最中である。
 父親の人脈がものを言ったこともたしかに真実だった。

「お父様は、あの若さで引退なさったそうですな、お嬢様はその若さで城持ちとは。財前さんにはお世話になりましたから、ごひいきにさせてもらいますよ」
 口では、白くなった髭をむやみに動かしていた老人たちだったが、その実、「小娘め」と完全に見くびっていることはあきらかだった。。彼の視線は、娘を通り過ぎて彼女の父親である元重鎮に注がれていたのである。
 しかし、彼女はただの小娘ではなかった。
 新進政治家の政治資金流用疑惑を見事解決したのである。それは彼女の華やかなデビュー作だったが、クライアントは春実と同じような立場だった。
 すなわち、父親の地盤と看板を承け付いて、見事というか当たり前のように議員の席を得たのである。
 ところが、それが初っぱなから躓いてしまった。政治資金流用の疑惑を掛けられたのである。当然のように離党、離職の憂き目にあった。当然のように起訴にまで至ってしまった。
 父親や支持基盤から見捨てられそうになった彼に、手を差し伸べたのは春実だった。
 彼女は自分の、というか元父親のものだった、人脈を利用して、事態を丸め込んだあげく、見事、無罪を勝ち取ることに成功した。言うまでもなく灰色の解決であり、見る人にはその内実が明かだったが、むしろ、それだけに法曹界における彼女の地位を保証したのである。そればかりか、政界の歓心をも得ることになった。
 たがが、20代そこそこの弁護士が、である。
 この時、北の大地、九州にあってたしかな第一歩を踏み出したのだった。いささか、灰色の翼を隠し持っての ―――ことではあるが。

 黒い車は、白亜の城に接近しようとしていた。
 街の中心に位置する辻口医院は長崎一円の中心的な医療を担っている。季節が季節ならば流氷が見える高台に、その建物が建っている。
 地方都市のために、他に高い建築物を見つけることが難しい。そのために見方によると長崎城にも見えないこともない。町民は半ば、尊敬、半ば、囃し立てる意味で、歴代病院長を『長崎城主』と呼んできた。
 現在の院長は、辻口建造がその身分を担っているが、病気のために息子に継がせる日も遠くないとみんなが噂している。病院関係者だけでなく、町の人たちにとってみても公然の秘密である。 
 その息子というのは啓三と言って、まだ27歳の若さだが、九大では、未来を嘱望され、教授連中がなんとしても大学に残そうと運動したが、昨年、故郷に帰還した。目下の噂では、結婚してまもない奥さんのことが心配だとか。しかし、彼女じしんのことよりも彼女の不貞が心配だったらしいとの噂も立っている。
 妻である辻口夏枝は大変な才媛ということで有名である。

「でも、アポしなくていいですか、先生」
 谷崎は病院の駐車場に車を入れながら言った。
「私と啓三の仲よ」
「でも手術してるかもしれませんよ」
「手術室に闖入してやるわ」
「せ、先生・・・・・」
 ―――血迷ったりすればそのぐらいのことをやりかねない。
 頭では、冗談だとわかっていながらも、谷崎はそう危惧する。今まで、さんざん見せつけられた行動力を考えればしぜんな考えだった。それがプラスのベクトルに向けば、効果は倍増だが、一旦マイナスに向けば事態はとんでもないことになる。
――――同時に外科の先生なのだな。
 しかし、同時にそのようにも考えた。
 ヘンに冷静な観察眼を併せ持っている運転手である。
 
 車のキーを捻るときには、もうずかすかと玄関を潜るところだった。まるで自分の病院のような勢いである。
「せ、先生!」
 まるで荒ぶる神を修める神官のような心持ちで、雇い主の後を追う。
 エレベーターに到着したときには、谷崎はふらふらになっていた。ハンケチで額の汗を拭う。
「運動不足ね、男のくせに ――――」
 すこし走っただけで息も絶え絶えになっている部下に文句のひとつでもぶつけようとしたところで、エレベーターのドアが開いた。
 中から出てきたのは、杖を携えた老人である。春実は親しげに声をかけた、

「ああ、びっこ先生」
「え? 春実ちゃんじゃないか。何処か悪いのかね? 君が?」
 まるで可愛い孫を見るような目つきである。それをうける春実はまさに孫に見える。
 このような春実の一面を、谷崎は始めて見せられた。感慨もひとしおである。
 まるで杖が頼られているのではなくて、杖に老人が付属しているようにすら見える。
「啓三君に用があるのよ」
 街の尊敬を一身に集めているこの老人に敬語を使わないのを興味深い目で見る。

「ああそうかい、副院長室におるよ」
「わかったわ」
 短く答えるとエレベーターのボタンを押した。
 老人がいなくなったところで、疑問に思ったことを雇い主にぶつけてみる。
「先生とびっこ先生は、ご懇意にされているのですか?」
「啓三たちとはきょうだいみたいにして育ったからね」
 春実は遠い目をした。
 この人にも少女時代があったのだなと当たり前のような感想を漏らした。
「どうしたのよ、不思議かしら? 私にも子供時代はあったんだからね。この大きさじゃ子宮を破っちゃうでしょう?」
―――なんて鋭い!
 谷崎は心臓を剣で貫かれたような気がした。話題を元に戻して逃げることにする。
「びっこ先生って昔からのあだ名なんでしょうか?」
「あれはねえ、若いころからそうだって話よ。なんでも戦傷らしいわ。南方らしいわ。でもそのおかげで帰還できたって哀しげに言っていたわ」
「哀しげに?」
「自分だけが助かったって、いつも陽気な先生が泣いてたっけ。お酒を呑んだときにはね」
 
 浅瀬からいくらばかりか、深い海を臨んだような気がする。自分は、財前春実という人間について何も知らないと思いしらされた。
 しかし、もっと不思議だったのは、殺された孫の話に言及しなかったことだ。それほどまでに深い間柄ならば、いや、他人どうしであっても定番の挨拶ぐらいあってもおかしくはない。
 いや、深い間柄なればこそ、ということもありえるかもしれぬ。

 そんなことを考えているうちに副院長室に到着した。春実は、ノックもせずに部屋に入っていく。

「誰だ!?ノックもせずに ―――うん、春実か?」
 始めてみる次期『領主』は、かなりの美男だと谷崎は思った。ハンサムという言葉から連想される語感ほどに冷たい印象はない。むしろ、美男という古くさい言葉の方が、この男性には等しいと思われた。その証拠に、論文を眺める難しそうな顔からも、仄かな優しさが漂ってくる。
 春実は、それをさらに和らげるように、机の上に腰を掛けた。二人が相当に懇意であることがわかる。
 難しい顔が春実を見つけると一変する。しかし、すこしばかり顔を赤らめると。わざと機嫌の悪さを演出する。

「何のようだ」
「ヤボ用よ、谷崎君、悪いけど席を ―――」
「わかりました」
「おい、悪いだろう、お前の従僕じゃあるまいし ――お茶でも」
「秘書よ」
 春実はまったく悪びれない。
「私はいいですよ」
「よくないって、安斎くん」
「はい」
 入室してきたのは和服が似合いそうな若い女性だった。清楚な仕草が谷崎の嗅覚を刺激する。
 谷崎は、その女性に連れられて隣室へと消えていった。

 彼を見送ると、春実は態度を一変させた。
「啓三、私は、許せないのよ、あの夏枝を!」
 まるで英語のシンタックスを日本文に移し替えたような言い方は、春実のどんな内面を暗示しているのか、啓三は計りかねた。
「今、思いだしても腹が立つ!」
 夏枝主催のパーティで発見してしまったのだ、こともあろうに、彼女と学校を出たばかりの若い医師が逢瀬をしているのを。
 いくら春実を信頼している啓三であっても、彼女からの伝聞だったら俄には信じなかったかもしれない。しかしながら、その現場に彼じしんが居合わせたとしたら。

「なあ、もしもオレがそこにいなかったとしたら、伝えたか」
「当たり前でしょう?」
「・・・・・・・・・・」
 啓三は、すぐには返答しかねた。
「お前が怒っても仕方ないだろう」
「そんなことはないわよ、私は一番の親友に裏切られたのよ、私は!!」
「お前、まさか ―――」
 気が付いたときには、親友の美貌が目の前にあった。こんなに間近に見るのは幼少期いらいである。当時は3人で一緒に寝たものだ。夏枝のそそのかしによって、啓三の寝顔にキスしたこともある。
 それから、しばらくそのことで脅迫されつづけたものだ。
 後で、建造にばれて、こっぴどく叱られたものだった。悪の計画は潰えたというわけである。
 思えば、あの老人が怒った姿を見たのはその場面が最後だった。
 しかし、今の春実にはそのようなノスタルジーに満ちた子供時代などは、思い返す気にもならない。
 
 愛おしい人に唇を重ねようとして、身体を寄せたが、意を決したように背中を彼に向けた。
「・・・・・・・・・・」
啓三はその続きを音声にすることができなかった。何よりも、彼女のプライドを護ろうとしたのである。 もう過去は戻らない。
「啓三、何も言わずに私の計画にうんと言ってちょうだい」
「計画? 何のための!?」
「夏枝に復讐するためよ!!」
「・・・・・・・・!?」
「これを見てちょうだい、国選弁護人として、私は選出されたの」
「君が、国選かい?え?!」
 啓三は、心底驚いた。胃の底が抜けるかと思った。それな何あろう、左石陽蔵の弁護依頼の書類だったのである。
「お前、これを承けるつもりだったのか?」
「まさか」
 春実は息をついて、再び口を開いた。
「下の書類を見て」
「何? あいつに娘がいたのか、三歳?」
「そこの愛児院にいるわ。その名前に憶えはない? それで、私は弁護士なのよね」
 
 二つの文章はまるで関連性がないと思われた。しかし、啓三と春実の身分を知っている人間ならばその隠された意味を推測できるはずである。
「夏枝は、娘が欲しいって泣き叫んでいたわね。もう自分は子供が産めないからって、もうひとり娘が欲しいって ――――忘れないでね、私は弁護士なのよ」
 春実は、悪魔的な微笑を浮かべた。この時、彼女は、これから自分が行うはかりごとによって、どれほどの重荷を背負うのか、激しい憎しみのために未来を想像すらできない状況に陥っていた、この人並み外れて知的な女性が。







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 新釈『氷点』2009  発表会
「そうなの、被疑者には娘がいるの? あ、そうか、被疑者ね」
「そうですよ、先生、被疑者死亡のまま送検されると思いますが・・・・・」
 自分の雇い主にそう答えた青年は、赤いネクタイがグレイのスーツに似合っていない。センスが残酷なほどに破壊されているのだ。しかし、仕事は至ってまじめで、春実の期待を裏切ったことはない。

「だけど、先生ほどの人がどうしてこんな仕事を承けようとなさったんですか、国選弁護人なんて」
「この手の犯人には同情を禁じ得ないわ」
「幼女殺人犯にですか?」
 驚きと意外性を表情に混ぜ合わせて、表情を造り出す。
「犯罪なんて、複雑な計算の結果よ、社会という方程式に因果を混ぜ合わせた結果ね、髪神の意志とでも言うべきだわ。何?私みたいな人間がそんな単語を言ったことがあまりにも意外かしら?」
「いえ・・・・・・・・」
 青年は、言葉を失った。

「私は、ねえ、自分たちがいかにも正義漢ってカオをする人間が許せないのよ、マスコミとか検事、ケーサツによくあるタイプね」
 雇い主、こと、財前春実弁護士は、青年に渡された書類を広げた。
「そう、・・・・え?辻口記念病院? 啓三のところじゃない・・・・」
 その時、春実は美貌に狐を潜ませた。青年は雇い主の上目遣いに、何か憑きものが降りたのではないかと本気で錯覚した。
「わかったわ」
「え?」
 顔の表面を剥ぎ取られたような奇妙な表情だった。春実はそんな顔に容赦なく言葉を突きつける。
「新しい仕事の件はキャンセル、用ができたわ。付いてきなさい、あなた秘書件、運転手でしょう?」
「え? 先生、あさま銀行の件ですよ」
 青年の申し出を無視して、春実はハイヒールに髑髏の音楽を奏でさせた。
 その音があまりにかまびすしかったので、春実の囁きを聞くことが出来なかった。
―――あの女、ぜったいに許せないわ!!

 新釈『氷点』2009


 キャスト
辻口陽子 :海崎照美
辻口夏枝:浅野篤子 
財前春実:池上貴見子(25歳)
辻口啓造:三浦友数
辻口薫子:未定
村井靖夫:未定

          急告!
 
 この度、新釈『氷点』2009を発表することになりました。突然の報告になりますがくれぐれもよろしくお願い申しあげます。


『新釈 氷点2009 1』


 青年がエンジンを踏むと、黒塗りの国産車はうなり声を上げた。それは生命の呼吸を思わせる。
 背後で扉が締まると意志の強さを感じさせる女の声が聞こえる。
「谷崎君、啓三のところね」
「え? もしかして、辻口 ――――さんとお知り合いなんてすか?」
 突然のことなので、敬称をつけることを忘れるぐらいだった。国選弁護人としてこの事件に係わろうとしていた矢先のことだ。そのために秘書兼、運転手である谷崎は、ある程度の情報を得ていたのである。
「啓三と彼の奥さんとは、幼馴染みよ」
「ということは、親友の娘を殺した犯人を弁護しようとしていたんですか?」
 悪魔の笑みを浮かべて口を開く。

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『新釈 氷点2009 2』

 啓三は、ただ黙って机の上にあるものを見つめていた。それは彼の家族のポートレイトだった。自分と妻である夏枝、そして、二人の前に長女である薫子が立っている。そして、その前にはお客用の豪奢な椅子が置かれ ――――。
 その上には ―――――。
 次期城主の視線は写真の中の聖域に注がれていた。それは、現在の彼がけっして見てはならないものだった。何故ならば、彼じしんの精神の健康を非常に害する危険を内包していたからである。  しかし、何十キロも走ったランナーが水を求めるように、愛娘の顔を探しあてていた。

「ルリ子!!」

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『新釈 氷点2009 3』

 家族を見送り終わった夏枝はしばらく空を見ていた。蒼天という言葉はこのためにあるのだと思わせるくらいに、透けるような青空が広がっている。
――――これから、ずっとこうだといいわ。
 自分に言い聞かせるように、空に視線を遣ると、人の背の二倍くらいはある板チョコのようなドアを閉めた。
 玄関を入ると客人は正面にある絵画に魂を奪われることになる。キュビズムと言うべきか、それともシュールレアリズムなのか、大抵の客人は評価に苦心することになる。
長崎城主の邸宅ともなれば、客人の数は、普通の家の倍増しとなる。彼らは、この絵をどう批評しようかと頭を悩ませる。
 ところが、彼らは総じて同じ感想を持つ。
 それは、この絵が醸し出している圧倒的な幸福感である。

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『新釈 氷点2009 4』
「そうだ。学校戻らなきゃ ――――」
「陽子ちゃん!?」
 まるで他人事のように言う陽子。夏枝と春実から見るとあまりに現実感が欠けているように見える。 いわゆる素人芝居にありがちなぎこちない動きと台詞回しである。
「音楽の授業で合奏をやるのよ、それにはねえ、陽子はヴァイオリンの担当になったのよ、それなのに ――――」
「陽子!」
 夏枝の耳には、合奏が合葬に聞こえた。それは春実も同じ思いだった。
「陽子ちゃん・・・・・・」
 改めて見ると、己の罪が服を着て歩いている。しかし、どうしてこんな愛らしい罪があったものだと、変なところで感心させられる。
―――――自分たら、この非常時に!!

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『新釈 氷点2009 5』
 辻口建造が自宅に足を踏み入れたとき、なぜか名状しがたい不安を覚えた。俗に虫の知らせというが、建造は意外とそのようなものを信じるほうだった。
 いわゆる経済高度成長時代の青年、しかも、医師などという職業に就いていた人間にはありうべからざる態度であろうが、時代を先取りしていたのか、その反対だったのか、周囲にいる者たちは判断しかねた。

―――何かあったのか?
 その不安は、妻の顔を見ると完全に現実化した。
「夏枝、何かあったのか?」
「あなた・・・・・・・」

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『新釈 氷点2009 6』

 ルリ子の墓参りはしとしとと、いささか鬱陶しい雨が降りしきる日に行われた。
 初夏だというのにやけに雨に濡れた肩が冷たい。助手席に座る夏枝は、バックミラーで愛しい娘の顔に視線を送っている。
 銀色に鈍く輝くフィルムからにょきっと花束が生えている。それは、まるで雨後の茸のように見えた。やけに元気に見えるのは、持ち主から栄養を奪っているからにちがいない。
 俗にそれは寄生と呼ぶのだろうが、夏枝はそれを嫌な記憶ともに呼び起こしていた。それは、彼女が少女時代、家族でパリに旅行したときに美術館で見た絵画のことだ。『寄生』と題されたある有名画家の作品だが、無数の茸が美しい少女からにょきにょきと生えていた。
 夏枝はそれを見たとたんにトイレに駈け込んだものだ。寄生されている少女はそれは美しい少女だった。ちょうど横にかけられているラファエルロの作品に棲まう少女のように、この世のものとは思えないほど清らかで美しい少女だった。

――――ちょうど今の陽子のように。

  

『新釈 氷点2009 7』

少女は一体何処にいたのだろう。
 気がつくと、寺の庭崎に設えられた座席に未発達の尻を乗せて、遠くに息づく長崎の町並みを眺めていた。

―――あそこにお父様の病院があるのかしら?

 紺のブレザーは心なしか露を散らしていた。水晶の珠をあしらっているのだ。建造は、娘の胸を見ていた。年齢に相応しくこんもりと盛り上がりつつある。その頂点の部分には他の部分よりも余計に宝石が乗っているような気がした。

――――もう、年頃なのだな。一昔前ならば、嫁入りもそう遠いことではない。

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『新釈 氷点2009 8』
 はたして、夜明けはまたやってきた。窓の外に顔を出しているのは、安価なインクでべた塗りしたような陳腐な太陽だ。
 なんと不快な朝か。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
 ――――来てしまった。朝なんて二度と来て欲しかったのに!
 寝具の上で長崎城婦人は我が頭を摑んだ。しばらくその姿勢のまま、あまりに冷酷な朝日を恨むしかなかったが、隣に城主が寝息を立てているのに気づくと、急いで姿勢を元に戻した。
 「う・・・・、どうした、夏枝、日曜日だと言うのに、こんな早く?」
「いえ、嫌な夢を見たものですから」
 夏枝はかぶりを降って、夫の視線を巻こうとした。
 しかし、短く別れの言葉を残すと、建造はすぐにもといた夢の世界へと舞い戻ってしまった

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『新釈 氷点2009 9』

 夕食が済んで3時間が過ぎていた。
 長崎城主婦人は台所で食器棚を整理している。瀬戸物が発する銀色の音に誘われたわけではないが、陽子が入ってきた。
「お母さま・・・・・・」
「あ、陽子?!」
 おずおずと母親を上目遣いで見る娘に思わず息を呑む。
 思えば、この子にはいつも気を遣ってきたものだと思う。強いて優しくしてきた、言い換えればスポイルしてきた。それがこの結果である。少し冷たくしただけで、この体たらくである。塩を掛けられた青菜のようにしゅんとしている。
 しかしながら、そんな陽子を見せつけられると、自分の中に虹色の卵を発見して、とことんいやな気分を味わうのだった。その卵が孵ると陽子に対する情愛がぴーちくと歌を歌い始めるのである。
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『新釈 氷点2009 10』

 翌朝、渋る陽子を説得して病院に行かせることになった。
 その任を担ったのは、言うまでもなく長崎城主だった。午前10時に、母親である夏枝が連れて行くことになっている。
 新緑がかまびすしい季節なのに、車内は零下になっていると、陽子は思った。
「お父様ったら、どうして、こんなに心配性なのかしら」
「陽子、あなたのことを思ってのことなのよ」
エンジンにキーを差し込みながら言った。夏枝は思う。

――――どうして、建造!? あなたはこの子が誰の娘なのか、わかっていたんでしょう!?それなのに、よくも父親面して、私の前に立てたわね!?

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『新釈 氷点2009 11』

 辻口陽子が帰宅したのは昼食を母親と取った後だった。本来ならば、仲のいい母娘がどういう理由からか始終無言を通していた。そのレストランは辻口家に馴染みの店だったために、普段と違う二人の様子を目の当たりにして店主は不思議に眺めたものである。
 二人の頭の中はまったく違う考えが支配していた。母親は娘に対する憎しみと愛に引き裂かれ、娘は、かつて、経験したことのない羞恥心に身を焼かれて、まさに自愛の最中だったのである。
 だから、二人は同じレストランにいようとも、アフリカとアラスカに別れているのも同様だった。

 だが、辻口家の三女は帰宅して、室内用のスリッパに右足を挿入したとたんに、母親に対して自己主張するという、彼女の性向からすれば実に革命的な出来事を起こした。
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『新釈 氷点2009 12』



 そこはかとない眠気だった。
 しかしながら、よく考えれば、その理由は明かである。昨夜は絶え間のない尿意のためによく眠れなかったのである。それが今になってやってきたのだろう。
 娘の手が止まったのを確認した夏枝が同じことを繰り返した。
「どうしたの?陽子ちゃん、やっぱり、口に合わない?」
「そ、そんなことないですわ、お母さま・・・・・・」
 娘は何事もないように、スープを口に運び、そして、肉にフォークを刺し入れる。
 だが、美味しそうに湯気を立てる料理にはとんでもない秘密が隠されているのだ。料理を作った彼女だけは知っている。かつて、彼女が小学生のころ、生まれて始めて料理を作ってみたときのように、凄まじい味になっているはずだ。
 味というのは割合の問題である。その配合を少し替えただけでも、美味になったり、あるいは人間の食べるものとはおもえないとんでもない味になったりする。

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