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『新釈氷点2009 8』
 はたして、夜明けはまたやってきた。窓の外に顔を出しているのは、安価なインクでべた塗りしたような陳腐な太陽だ。
 なんと不快な朝か。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
 ――――来てしまった。朝なんて二度と来て欲しかったのに!
 寝具の上で長崎城婦人は我が頭を摑んだ。しばらくその姿勢のまま、あまりに冷酷な朝日を恨むしかなかったが、隣に城主が寝息を立てているのに気づくと、急いで姿勢を元に戻した。
 「う・・・・、どうした、夏枝、日曜日だと言うのに、こんな早く?」
「いえ、嫌な夢を見たものですから」
 夏枝はかぶりを降って、夫の視線を巻こうとした。
 しかし、短く別れの言葉を残すと、建造はすぐにもといた夢の世界へと舞い戻ってしまった。
「そうか ―――」
「まるで、私のことなどもう興味がないみたいに・・・・・・・・・」

 城主婦人は忌々しそうに、寝具からあぶれた夫の頭を睨みつけると、水面から飛び出るカワセミのように起きあがった。
 だが、カワセミは獲物を口にしているものだが、彼女は果報を何ら手に入れることはできなかった。ただ、気だるい朝という海にまた舞い戻ったたけである。

――――――――――――――――――。

 それに追い打ちを掛けたのは、部屋の外から聞こえる非常に聞き慣れた声だった。ラメ入りのピンク色リボンのような声が響いてくる。
「まあ、お姉さまったら、あははっ、陽子も欲しいです!」
「陽子! 朝ご飯中に遊ばないの、食べさせてよ!」
 言うまでもなく、薫子と陽子の声だ。また年甲斐もなく姉妹でふざけあっている。

――――姉妹なものか!
 
 普段では考えられないほど慌てた動きで、キッチンまで走り寄ると、いちおう息を整えてから中に入った。
「何をやってるの?」
 自分では呼吸を整えたつもりだったのだが、思うとおりにはいかなかったようだ。自分では気づかなかったが、よほど怖い顔をしていたのか、陽子は、怪訝そうな顔を向けてくる。一方、薫子は、まったく感情を乱していない。その違いが二人の性格の差異を如実に表しているのだが、そんな風に理性的な観測をしていられるような状態ではなかった。
 辻口家のお姫様は、姉の頭にとりついたまま、時間を止められたかのように凍りついてしまった。
 「お母様・・・・・・」
 言いつけを守らなかった子犬のような顔を向けた。それに苛立った夏枝は、いつにない声を荒げた。
「何をやってるのって、訊いているんだけど、お母さまは」

―――私ったら、お母さまだなんて・・・・私はもうこの子の母親じゃないのに!
 
 メロンの編み目よりも複雑な表情を上品な顔に乗せて、夏枝は密かに苦笑した。だが、陽子の顔を見たとたんに、真顔に戻ってしまった。
「お母さま・・・・・ご、ごめんなさい」
「どうしたのよ、ママ?」
 やっと、母親の異変に反応する気になったのか、薫子は口を開いた。彼女はけっして無神経ではない。ただ。神経が強いだけだ。だから、すべてにおいて知悉していながら、無知蒙昧の仮面を被って、わざと静観していただけなのである。
「いや、なんでもないわ、ちょっと、苛立っただけ、あなたたちも、小さい子供じゃないんだから、こんなところで遊ばないのよ」
 ごくありがちな言葉を残して母親は去っていった。

 母親に残された三女は、このままだと卒倒しそうなまでに、顔が青ざめていた。そして、母親よりも、もっと陳腐な感想を洩らした。
「お母様、どうなさったのかしら?」
「陽子?」
 
「ほら、落ち着きなさい、さ、座って。姉さまのパンケーキ食べていいから」
「・・・・・・・・・・お姉さま」
 改めてじっと見ると妹の顔は、憎らしいほどに愛らしい。こんなに辻口陽子という少女は人を惹き付ける魅力に満ちた子供だったろうか。
 辻口家の長女は、有無を言わさずにマホガニーの椅子に座らせると、やや冷たくなったパンケーキを切り分ける。そして、皿に盛ると妹の目の前に置いた。しかしながら、その手つきはあまりに上品だったために、妹は気づかなかったくらいだ。
「お姉さま、陽子は、お母さまに嫌われてしまったのですか?」
「何をバカなことを、これからママに問いただしにいくから、安心なさい」

 かつて観た英国は、ロンドンの蝋人形のように妹はそこにある。何世紀も前の人物が生きているように再現されているのだが、今の陽子はまさにそれと酷似している。

 ――――誰にも冷たくされないってある意味不幸かもね。それも、ママにこんな風にされるなんて・・・・。

 薫子は、心底、妹のことを思っているはずだった。少なくとも、そう思っていたかった。しかし、塩を掛けられた菜っ葉に、そこはかとない優越感を覚えていたのもまた事実である。それは自分ですら気づかないうちに、この少女の精神に根っこを生やしている、あるいは、まだ繁殖こそ始めていないものの、確実にその勢力を拡大すべく他国の領土に野心を燃やしていたことは確かな事実である。
「わかったわね、さあ、食べていなさい」
「わかりました、お姉さま・・・・・・・」
 気が乗らない陽子だったが、ようやくナイフとフォークに手を伸ばした。それを確認した、薫子は、自分が頼りになる姉だと自己満足に浸りながら、キッチンを後にした。
さて、母親は何処にいるだろう。寝室か、それとも、庭だろうか。薔薇の手入れをしているということは十分にありうるが、まだこんなに早い時間から、それも朝食を取らずにそんなことをしているとは思えない。
辻口家の長女は、逡巡の末、寝室に急行した。

「あれ、パパ、ママは何処?」
「おはよう、薫子」
 どうやら、この才女の予測は完全に的を外したようだ。母親は庭にいるということだろうか。
「夏枝はもう起きたのか、早いな、休日なのに ――」
「パパったら呑気なんだから、あれ、ママ、何処か具合がわるいの?」
 薫子の視線はベッドの隅にある薬袋に向かっていた。
 「利尿剤さ」
「え?ママ、腎臓が悪いの?」
 「いや、薬剤師のヤツがまちがえたんだよ、風邪薬とね」
 投げやりな手つきで袋を出窓に向けて投げつけた。薫子は何の気もなしにそれを眺めると、やがて注意の焦点から消し去って言った。
「ママは庭ね」
「そう思うよ、パパは、昨日まで立て続けて手術が三日さ。もうすこし、寝かせておくれよ」
 相手が薫子だと何の緊張もなしに、自分を出すことが出来る。それが我が家において貴重な存在であり、神棚にでも飾っておきたくなる人材である。彼じしん、その理由がなへんにあるのか、その答えを知らなかった。いや、知ろうしなかったのかもしれない。それは自分が営む家庭の平和を根底から揺らす主因になりかねないと予感した可能性もある。
 ともかくも、ねぶた眼で長女を見送った建造は、再び、罪のない寝息を立て始めた。
 それを確認することなく、娘は庭に向かって歩み出した。
 
 母親、陽子、利尿剤、複数のキーワードを並べてみるが、たいした答えを期待できそうにない。だが、自分の名前をその中に入れなかったのはどういうわけだろう。それは彼女らしくないミスというべきだろうが、いかに賢い人間でも足下のことは見えないということが人間の世界にはよくあることだろう。

――――私は、なんだか、仲間はずれにされているみたい。

 薫子が考えたことは、非常に幼稚な感想だった。だが、それを表に出さないぐらいの知性と理性を兼ねそろえていた。
 心配なことはある。このまま母親の前に立って、彼女にぶつけない自身があるだろうか。それが問題だったが、会わないわけにはいかない。
 居間を抜けて大きな戸を開くと、広い庭に面する。辻口家の庭には薔薇園が存在する。夏枝が丹精を込めて育ててきたものだ。ちなみに、三つにわけられている。薫子はその理由をうすうす知っていた。それぞれ、自分たち、3人の娘を模したものであろう。
 だが、ルリ子のことがあるから、娘たちにそのことを告げていなかった。もちろん、それは薫子の予測だが、ある時に、「ルリ子ちゃん」と言いながら水をやっていることがあったか、ほぼ確かなことだと見なしていた。
庭に出た薫子は、母親を見つけるのに一秒も係らなかった。ちょうどルリ子と呼ばれた薔薇ともうひとつの薔薇のまん中に居た。
 
「ママ・・・・・・・・・」
 娘の呼びかけに、夏枝は背中で応じた。黒いカーディガンに覆われた背中はいつもよりも華奢に見える。
「一体、どうしたって言うのよ。陽子に当たっても何にもならないでしょう?」
「・・・・・・・・・・」
「?」
 改めてふり返った夏枝に辻口家の長女は言葉を失った。その憔悴ぶりは目に余るほどだったのである。眼は落ち込み、心なしか皺も深くなっている。20代後半に見えるとさえ言われた美貌は何処に言ったというのだろうか。
「ママ ――――」
 返事の代わりに返ってきたのは、園芸用の鋏だった。それはずっしりと重かった。薫子は無視されることを別に悲しいとは思わなかった。だた、現在、辻口家が置かれている状況がある困難に直面している。その思いを強くしたが、その正体についていくら考えてみてもその答えは容易に出そうにない。

 一方、寝所に戻った夏枝はある紙袋を睨んでいた。朝日はすでに昼にバトンを渡そうとしている。
 リニョウザイと片仮名にその文字を読んでいた。そうでもしないと、夏枝の心は彼女が袋を持ち、睨んでいることを認めないだろう。

――――私は、いったい、何を考えているのだろう。何をしようとしているのだろう。

 そんな物憂いを止めさせたのは、瓶が転がるような音だった。部屋の外から聞こえてきた音だったが、その主が誰のものなのか直感的にわかった。

―――――陽子!

「誰です?!そこにいるのは!!」
「ぁ・・・・」

 ドアを開けると、はたして、そこには辻口陽子が小さな口を限界まで開けて立っていた。その大きな双眸からは涙が光っていた。
「・・・・・・・・・・」
 彼女の足下には花瓶が転がっており、床に水玉ができていた。それは、陽子の涙のように思えた。
「あ、ご、ごめんなさい。お母さま・・・・・」
 急いで花瓶を持ち上げようとする陽子。そんな娘に声をかけた。
「あなたは何か用があったんじゃないの」
「え。だから、花瓶をお持ちしようと・・・・玄関に、綺麗なお花が咲いておりましたので・・・」
とても綺麗な声だった。小さいころから耳に親しんできたものだ。だが、それは夏枝にはない属性だった。
思えば、自分の声には子供のころからコンプレクスを感じて、友人に綺麗な声の子がいると意地悪をしたくなったものだ。
「そう、ありがとう、床は私が拭いておくから」

―――私?

 敏感な陽子はそれを感じ取った。自分にたいして、自分のことを「お母さまは」と呼ぶはずだ。それが「私」とは ――――。このとき、夏枝はほくそ笑んだ。陽子にそれを感じさせることを計算して言ったのである。しかし、同時に不快な感情だった。決して、それを後悔とは呼びたくない。しかし、それに近い感覚であることは確かである。
「・・・・・・・・」
 言葉を失った陽子は、今にも泣きそうな顔を晒している。

――――陽子!

 夏枝は彼女を抱き締めたい衝動にかられた。

――――自分はこの子を確かに愛しているのだ。

 圧倒的な濃い紫の感情に包まれながら、長崎城主の正室はそう思わざるを得なかった。だから、次の台詞が口から零れた。
「お母さまがちゃんとしておくから」
「で、でも、お母さま、具合が悪そうでしたから ・・・・・・」
「死んじゃうとでも思ったの?」
「そ、そんな・・・・・・」
 陽子は絶句せざるをえなかった。そんなことは、彼女の予定に全くなかったからだ。だから、母親が持っている袋に何が書かれているのか ―――そんなことにはまったく気づかずに、それが自分に対してもたらす重大性になど考えが及ぶはずがなかった。
 




 

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『新釈氷点2009 7』

 
 少女は一体何処にいたのだろう。
 気がつくと、寺の庭崎に設えられた座席に未発達の尻を乗せて、遠くに息づく長崎の町並みを眺めていた。

―――あそこにお父様の病院があるのかしら?

 紺のブレザーは心なしか露を散らしていた。水晶の珠をあしらっているのだ。建造は、娘の胸を見ていた。年齢に相応しくこんもりと盛り上がりつつある。その頂点の部分には他の部分よりも余計に宝石が乗っているような気がした。

――――もう、年頃なのだな。一昔前ならば、嫁入りもそう遠いことではない。

 墓参りは無事に済んだ。一時はどうなることかと思ったが、建造の不安は杞憂に終わってくれるようである。少なくとも、そう思わないと帰りに事故を起こしてしまいそうである。若い院長は、自分の不安をごまかすために、娘に話しかけることにした。
「陽子、どうだい?」

――気は済んだのかい?と言おうとして、咄嗟に言葉を差し替えた。娘の心を気遣ってのことである。
 
「お父様・・・・・」
「ルリ子もきっと喜んでいるよ、とても優しい子だったからね」
 ありがちな台詞を口の端に載せたのは、建造自身の精神安定のためである。こうすれば、娘は安心してくれるだろうという ―――。
 いや、もうひとつの可能性を述べてみれば、そうすれば、父親の役割を果たしたという自己満足の心がないとはいえないだろう。
 自縄自縛に陥った建造は、かたわらにいるはずの夏枝に助けを求めようとした。
「夏枝もそう思うだろう? え?」
はたして、長崎城主婦人はそこにはいなかった。

「夏枝は何処に言ったんだ?」
「ママは、茶屋に行ったよ」
 「薫子か ――」
 まるで待ち受けていたかのように、辻口家の長女は答えた。茶屋とは大きな霊園にあるような喫茶店のようなものである。しかし、なにぶん、小さな寺なので規模は極小規模であり、住職が趣味で参拝者をもてなしている。
 それは、住職とその家族の住居の近くにある。匿名庵と名付けられた風雅なたてものは、千利休の待庵にいささか似ていた。
 お嬢さんとして育った夏枝は、その方面にかなり明るい。だから、住職との会話もはずんでいた。

「まあ、ご住職は千利休の専門家に知見がおありなのですね」
「ええ、従兄弟が大学教授でして ――」
 住職に振る舞われた宇治茶をすすりながら、院長夫人は娘が見ている風景とはまったく逆のそれを見ていた。長崎の街ではなくて、峻厳なる自然を眺めていた。素人ではとても登れそうにない絶壁やどんな残酷な環境でも力強く生きる松を、彼女は見ていた。

――――はたして、自分や娘はあのようになれるだろうか。
 絶壁に根を張る松の木は、今にも落ちそうな姿勢でなおも絶壁にへばり付いている。くねくねした根っこは、まるで大蛇のようだ。
 これから母娘を襲う障壁を考えると、闇々(あんあん)たる気持になるのだった。しかしながら、遠くない未来に、いや、すぐ手の届く次の瞬間に、それを180度逆転させる情報に、彼女が境遇するなどと夢にも思わなかった。
 それはとつぜんに起こった。

「おや、おや、会話がはずんで折られるようですな、ご住職」
「おや、神父さん、一年ぶりですね」
おや、と思って、ふり返るとそこには十字架が立っていた。おそらく、ここが寺などと言う伝統的な空間だったために、あり得からざるべきオブジェに目が行ってしまったのだろう。
 よく見ると、老人は、おそらく70も半ばを過ぎていると思われる。小さいころから祖父と祖母によくされた夏枝は、老人には親切に接する習慣ができているし、それに従って娘たちにも躾を行ってきた。
 だから、十字架に奇妙なものを見る視線を送ってしまったことに気づいて、それを人知れず恥じた。しかし、人生の妙を極めたと思われる老人は、そんなことなどお見通しといった風に、言葉をかけた。

「お寺に、十字架など無粋ですかな? いえ、すいません、ここにはややいわくつきの人が眠っておられるのでね、一年の一度だけ、今日だけ改宗してでも、祈りを捧げているのですよ」
「今年は、一日だけ遅いようですね」
「いえ、今年は昨日までヨーロッパに行っておりまして ――」
 老人は杖を頼りに着席する。
 住職が茶と菓子を用意するために奥に消えると、夏枝はこの老人に不思議な興味を感じた。
「神父さまは、どうしてここに来られるのですか? あ、すいません、ぶしつけなことを」
「いえ、かまいませんよ」
 まるで孫を見るような目で神父は記憶の糸を辿るように言葉を紡ぎ始めた。
「それも今年で最後です。このとおり、この老体にはあの坂道はこたえるのでね。それにあの子たちもきっと幸せになったことだろうし」

「あの子たち?」
 老人が微笑んでいるのをいいことに、やんわりと追求を始めた夏枝。これから悪夢が待ち受けているとも知らずに、老人を見つめた。断っておくが、それは好奇心に基づくものではない。何やら分からないものに引かれて、いつのまにか、老人に吸い込まれていったのである。
 「ええ、今一人は、天国に、いえ、極楽でしたかな。そして、もうひとりはきっと幸せな家族に囲まれて笑っていることでしょう」
「・・・・・・・・・・」
 夏枝は怪訝な顔を隠そうとしなかった。それは何処かで聞いた話だったからだ。旅行先で思わぬデジャブーを感じたと思ったら、小さいとき両親に連れて行ってもらったことがあった ――というドラマにはありがちな設定を思い浮かべた。
「神父さんはその子と面識がおありなのですか?」

 注意深く言葉を選ぶ。その狼狽したようすから、神父の意図を探ろうというホンネが見え見えだが、これでも細心の注意を払ったつもりなのだ。
神父はそれを見定めたか、そうしないふりをしているのか、何でもないという顔で口を動かす。
「ええ、せいかくには彼女の父親に、ですがね」
「神父さん・・・・・、もしかして、その女の子は、その、害されたのではないですか?」
 殺されたと表現しなかったところに、母親としての意識が見て取れる。神父はそれだけでなく、彼女が女の子と言ったことに目をつけた。彼は、そうは言っていない。あくまで子供と言ったにすぎない。
 互いが見えない糸と針で互いを釣り上げようとしている。ふたりの対峙は端から見ているとまさに息を呑む展開だった。
 だから、茶と菓子を持ってきた住職は危うくそれらを零してしまう憂き目を見るところだった。
しかし、彼の苦労を見ているものはひとりもここにはいない。互いが互いに注目しすぎて、周囲に注意が向かわないのである。

「あなたは、もしかして、いや、まさか、辻口さんとおっしゃるのでは? やっぱり」
「私の  ―――された娘はルリ子といいます・・・・」
 例え婉曲された表現であっても、もういっかいその言葉を使うことは、夏枝には堪える相談だった。そして、その語尾は叩いたばかりのギターのように震えている。
「や、やっぱり ――――」
「それではあの愛児院の院長先生ですねの」
「それは過去の話ですよ、院長夫人!陽子ちゃんはお元気ですか」
 もはや互いに言葉は必要ない。ふたりはすべてを悟ったのである。
 二人は、20年ぶりに出会った親子のような顔をした。仄かに心の芯が温もりを帯びていくような気がした。しかし、老神父の次の言葉がそんな気持を一瞬で崩壊させることに気づくことはなかった。

「あなたはすばらしい! 本当にありえないほどに!!あんなこと普通の人間ならとうでいできないことですよ。陽子ちゃんはお元気ですかな?」
「それはどういうことですの」
 夏枝は苦茶を粉のまま噛んだ。
 思えば老人の言葉はおかしい。ルリ子が殺されたことと、陽子を養女として迎え入れたことにどのようなつながりがあるというのだろう。
 このとき、ふたりの間に微妙ではすまされない、ボタンの掛け違いがあった。
 老神父は院長夫人の態度に、奥歯に何か引っかかったような感覚を味わいながらも、言葉を続ける。
「そうでしょうね、なかなかできることではありませんよ」
 「・・・・そうですわね」
 夏枝もだてに歳をかさねていない。良いところのお嬢様出身とはいえ、院長夫人としてそれなりの経験を重ねている。それにはこの事件の発端となった不倫も含めていいだろう。
 実は、話をはぐらかしてみせたのである。どうやら、その秘密とやらを夏枝が知っていると神父は践んでいるようだ。
 もしも、「知らない」と答えてしまえば、その秘密は永遠に隠匿されてしまうかもしれない。孔の隙間に挟まっていた鍵を取ろうとして、失敗した挙げ句、永遠に入手できない羽目に陥るということはよくある話だろう。

 寄る年波には勝てないということか、神父は見事食い付いてきた。それとも、孫のような夏枝を甘く見たということかもしれない。
「ご自分の娘さんがあんなことになって、憎むべき相手の御子に許しを与えて、育てるなどと、まさにイエス様の教えに叶っております」
「・・・・・・・・!?」
 九州そのものが音を立てて割れたような気がした。あるいは、ソ連の核弾頭が降ってきたのかも知れない。夏枝が立つ大地は音もなく崩れていった。
「どうかされましたか?」
 自分が大量破壊兵器になってしまったことなどまったく気づかずに、老神父は酸素を吸う。
 夏枝は体裁を取り繕うのに持てる全エネルギーを使った。
もしも、自分が本来もつ性質に従って、ここで感情を爆発させてしまえば、そのことは、建造にも伝わるだろう。それは断じて避けねばならない。

 何故ならば ――――。
 この時は、その理由には思い付くことがなかった。ただ、女性らしい直感がそう告げていただけである。
 間違っても復讐の2文字が頭に浮かぶことはなかった。
「だ、大丈夫です、神父さま」
その時、地獄から天使の声が聞こえてきた。
「あら、お母さま、どうされたのですか? 具合が悪そう」
「・・・・・・・・・・?!」
 院長夫人は、予想だにしなかった声に、脳が溶け出すような気がした。網膜には確かに自分の脳が腐乱して視神経を犯すシーンが映り出されていた。
「な、何でもないわ!」
「お、お母さま?!」
 陽子のヴェネティアンガラスの指は、悲しくもはねのけられた。
「ああ ――」
 どうして、こうまでして自分の悲しくも口惜しい思いを韜晦せねばならないのか。夏枝の中でいろんな感情が互いに波を作って、激しく叩いた音叉を水中に入れたようになってしまった。

――――憎い! この綺麗な顔をキリで傷だらけにしてやりたい!!ダケド・・・・!?
 
 しかし、神父に対して行った行為とはまた違う感情が、陽子に対してわき起こっていた。
この時、大切なものが壊れてしまったことに、陽子は気づいていなかった。しかし、母親のようすが普段と違うことは容易に知れる。
だから、意識の何処かでそれに気づいていたのかもしれない。

 神のいたずらか、あるいは、配下の天使のひとりが出来心を働かせてしまったのか、いま、二人は邂逅してしまった。知ってはいけない事実を把握してしまった夏枝は、もはや、以前の彼女ではないだろう。
一方、陽子はまだおむつが取れたばかりの、ほんの、乙女にすぎなかった。
 この二人の境遇と心情のちがいは、どのような物語を紡ぐことになるのか。それは、この時、誰もまだ想像だにできないだろう。


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『新釈氷点2009 6』
 ルリ子の墓参りはしとしとと、いささか鬱陶しい雨が降りしきる日に行われた。
 初夏だというのにやけに雨に濡れた肩が冷たい。助手席に座る夏枝は、バックミラーで愛しい娘の顔に視線を送っている。
 銀色に鈍く輝くフィルムからにょきっと花束が生えている。それは、まるで雨後の茸のように見えた。やけに元気に見えるのは、持ち主から栄養を奪っているからにちがいない。
 俗にそれは寄生と呼ぶのだろうが、夏枝はそれを嫌な記憶ともに呼び起こしていた。それは、彼女が少女時代、家族でパリに旅行したときに美術館で見た絵画のことだ。『寄生』と題されたある有名画家の作品だが、無数の茸が美しい少女からにょきにょきと生えていた。
 夏枝はそれを見たとたんにトイレに駈け込んだものだ。寄生されている少女はそれは美しい少女だった。ちょうど横にかけられているラファエルロの作品に棲まう少女のように、この世のものとは思えないほど清らかで美しい少女だった。

――――ちょうど今の陽子のように。
 きがかりでたまらない。ふとした仕草で彼女が真実を気づいてしまわないだろうか。
夏枝の期待以上に知的に育っていることが、この時ばかりは恨めしい。絶対に、あのことだけは気づかれてはならない。
 自分と彼女との間に偽りがたい断線があるなどと。

―――もしも、陽子と薫子の間に囲まれているのが、春実ではなかったら、どんなに幸せだったろう。
こんな憎々しい雨空などではなく、麗しい初夏の陽光に祝福されて辻口家3人姉妹と両親は、仲良くピクニックとあいなる ―――はずだった。

――――いや、ちがう。
 しかしながら、鋭敏な夏枝はあることに気づいた。もしも、そんなことになったら、陽子が辻口家に養女として迎えられるなどということはなかったにちがいない。彼女の存在すら知らなかっただろう。

―――そんなことは絶対にちがう!! 可愛い陽子を知らないなんていう人生なんてとても考えられないわ!
 夏枝は、ひそかに慟哭した。
 しかし、もうひとつ気がかりなことがあった。花束のことである。もしも、薫子の仕業でなければ、いったい、誰の手によるものなのだろう。陽子の両親だろうか。陽子を養女に迎えたとき、可愛い赤ん坊の背景をいっさい知ろうとしなかった。あふれるような太陽光の神々しさのために、そのようなことに意識が向かわなかったのである。すべての感心は、我が子になる幼きイエスだけに向かっていた。自分は慈愛深いマリアになると人知れず誓ったのである。
 建造から神父の手紙を渡された。
 一生、夏枝は忘れないと思う、陽子と出会ったあの瞬間を。

「誓ってください。幼いイエスを抱くマリアになると ―――」
 
 車のエンジン音を聞きつけると、深窓の令嬢が裸足で外に飛び出してきた。驚く建造は幼い陽子を差し出した。
 手紙は産着に添付されていた。しかし、そんなものを見るまでもなく、現在完了形ですでに誓っていたのである。
 ちなみに、薫子は祖母の家に預けられていた。だから、その光景を知らない。しかしながら、帰宅したとき母に抱かれていた陽子に出会ったとき、何よりも耐え難い宝を手に入れたことを知覚ではなく、もっと別の深いところで悟った。
 当時まだ幼女にすぎなかったとはいえ、太陽が自分の家に落ちたことだけは憶えている。いつの間にか、辻口家のお姫様という身分は奪われることに、そのとき気づいていなかった。
 だが、今となっては下のきょうだいができることによる赤ちゃん返りを起こしたことなど憶えていない。一歳と半年という驚異的なスピードでおむつはずしに成功したというのに、三歳でおもらしをしてしまったのである。
 そうはいうものの、それをくぐり抜けた薫子は夏枝に負けず劣らずに、陽子を愛しはじめた。ある年齢まで自分の本当の妹であることを疑いすらしなかった。しかしながら、母親に似て、人一倍鋭敏な彼女が早い段階でことの矛盾に気づかないということはほとんど考えられなかった。

 もちろん、その主語は夏枝と建造だが、彼らはルリ子の記憶を家から退去させることで、事態の収拾を図った。自宅に仏壇などは設置せず、アルバムや、当時は珍しかった8mmフィルムなど、彼女に関するいっさいの記憶をとある場所に封印することで、薫子が口を挟む余裕を奪い去ったのである。このことによって、ルリ子の名前を辻口家において出すことは、いつの間にか決められた不文律に抵触することになった。
 薫子は、妹を春実ごしに見つめた。
 明かに普段の陽子とはちがう。直視できないほどまぶしさを感じるくらいに輝いていた彼女はいったい何処に行ってしまったのだろうか。
 そんな物憂げな視線を止めたのは春実だった。
「そう言えば、今日は土曜日よね、学校はいいの? ふたりとも」
「今日は、創立記念日だから、休み――」
 気を取り直した姉はそう答えた。二人が通う学園は幼稚舎から高等部までエスカレータ式の一貫教育を行っている。当然のことながら、学園の創立記念日ならば、休みは同日である。
「・・・・・・・・・・・」

 妹の耳には全く届いていないようだ。ぴくりとも反応しない。いや、できないと表現したほうが適当だろうか。まるで腹を空かせた蛇を目の前にしたカエルのように微動だにできないようである。
再び、愛おしい妹に神経は向かってしまう。

 一方、車を運転する建造は、この時、どういう心づもりだったのだろう。
 この家長は、ウインカーが水滴をはじき飛ばすのを無心に見ていた。安全な運転というただ機械的な作業に神経を徹することで余計なことを考えないようにしていたのである。
 その点、夏枝とは好対照だったが、陽子にたいする愛情について負けているわけではなかた。だが、自分でも不思議なことがあった。

―――どうして、自分は陽子を愛していると言えるのだろう。
 カーブするときに陽子とはちがう中学校の制服を視野に収めたとき、青年医師の心に黒い膜が張った。
 自分を裏切った夏枝に当てつけるために、陽子を養女に迎えたのは自分自身なのだ。その事実を知らない妻はともかく、自分が陽子に憎しみを憶えないのはどういうわけだろう。
 建造はその事実を前にして愕然となった。何故か、院長の言葉が蘇る。
 車に乗ろうとした青年医師に白眉院長はこう語りかけた。
「このことは奥様も後存知なのですね。本当にすばらしいことだとおもいますよ」
 窓を閉めようとした建造に付け加えるように言った。
「あ、そうだ。ルリ子ちゃんでしたね。畏れながらお墓がある場所をお教えできませんか?」
 老翁という外見に比較して若々しい声に、意外そうな顔を隠せなかった。
 建造は、詳しい理由も聞かずにあとで連絡する旨を伝えた。

―――まだ生きているのだろうか。
 
 あの時の年齢を考えるならば、もう70は優に超えているはずだから、院長の椅子に座っているはずはない。ならば神父としてはどうだろう。
 ほんらいならば、付属の施設である乳児院の人事は、建造が握っているはずであるが、意識的にそれを除外することで、記憶から逃げ出していた。おそらく、父親が人事権を握っていた時代に処理されたのだろう。仕事をしている上で、その乳児院の院長というポストに関するはなしが出たことはなかった。

――ならば、もしかして、あの花束は彼ではないのか?
 
 この時、夫婦は同じことを考えていたのである。しかしながら、妻はその詳しい内容を知るすべはなかった。ルリ子の元係累のだれかではないかと考えていただけである。あれだけ大きな事件になれば、報道されたことによって彼女の死を確認したことは想像に難くない。
 だからこそ、まだ大人としても理性が備わっていないうちに、陽子がルリ子のことを知ることを怖れたのである。街の人には口封じをしているとはいえ、しょせんは、人の口に戸は立てられない。何時の日か真実に気づく日はくるはずだ。しかし、それはできるだけ先延ばししたい。それは同時に自分が養女であるという事実にも直結してしまうから ――――。
 しかし、夫と妻では、それに関する怖れは自ずから性格を異にする。
 その真実が表に出ることはありえないとは思っていても、ルリ子を殺したのが陽子の実父であるという事実は、若き長崎城主の頭の中で、まるで常に疼いている。それは春実も同じである。いや、犯行をそそのかしたのは春実なのだから、その思いは建造よりも倍増しだと言っても良い。
 自責の念は陽子が美しく、そして、可愛らしく育っていくのを見るにつけて、強くなっていった。
 若き日の軽はずみな衝動から犯した罪に打ち震えた。
 罪を犯した夏枝のことはともかく、この少女には何の罪もない。自分の持てる力をすべて使ってでも彼女を護ろうと決めていたのである。

 呉越同舟という四字熟語ほど車内の状況を説明するのに適当な言葉はなかった。五人ともそれぞれが違う思いを心に内包し、発散できないストレスを溜めていた。だが、それは互いに平行線を構成し、何万光年進もうとも交わることはないと思われる。
 この鬱屈とした空間がいかに高級車の胎内であろうとも、成員にとって苦痛であることには変わらない。その属性がいかに贅を尽くしたとしても、彼らの慰めにはならないのだ。
 車は、ほどなくして目的地に到着した。
 坂道を相当登ったとみえて、かなりの山奥だった。陽子は、そこが何処なのか詮索しようとしなかった。彼女にとって地名などたいした意味はない。それが本州にあろうとも五国にあろうが、はたまた、南海道にあろうともたいした意味はない。

 昼間だと言うのに、高い樹木は陽光を透さないのか、神気に満ちた静寂を為している。それでも木漏れ日のいくつかは地面に達している。そのようすは、まさに現実離れしていたが、陽子にその目的を忘れさせるほどの妖力はないようだった。
「ルリ子お姉さまはここにいらっしゃるのね ―――」
 出会ったもともない姉だが、薫子と区別するためにそう言った。それがまったく演技じみていないことは四人を驚かせた。
 忘収寺と銘打たれたその寺の門を潜るには山道に似た階段を数分ほど上らねばならなかった。木材と石で組み合わされた旧い建物が醸し出す空気はあきらかに時間から何百年も取り残されているように思える。
 
 まるで時代劇のようなセットは陽子を黙らせることはできなかったが、他の四人を憮然とさせることには成功していた。それをもっとも感じていたのは建造と夏枝であろう。夫妻は、しんじつ、歴史時代のセットに迷いこんだような気がしたのである。もう何回も上がっているはずの階段だが、どうしてこんなことを感じるのか二人は不思議でたまらなかった。
 衣服と身体の間にビニールでも入れられたような違和感を打ち消すことができない。
だが、陽子を先頭にした行列は寺の門を潜らねばならない。五人の中で彼女だけが心が目に向いているである。それは贖罪という一見否定的な概念に基づく感情であったが、それでも、意味不明な違和感に苛まれている四人に比較すれば前向きだと定義できた。

――ああ、やっとルリ子お姉さまにお会いできるのね。

 陽子は、翼がついたヘルメスの靴よろしく、跳躍してこの階段を上がっていけるような気がした。思えば、今、履いている靴もピンクのワンピースも両親がプレゼントしてくれたものだ。
 黒曜石のように光るエナメルの靴は、父親が、そして、ワンピースは母親が誕生日にプレゼントしてくれたのだ。もしも、ルリ子が生きていれば彼女もその栄誉に預かれたかもしれない。そう思うと、涙が水滴になって零れていくのだった。
 「陽子、危ないから急がないの!」

―――お母さまから、今、頂いているありがたい言葉も、ルリ子お姉さまは・・・・・・。

 罪悪感にかられるあまり陽子は足がもつれるのを認知することができなかった。
――――!
バランスを崩した少女は ――――。
 ――――。
「ほら、危ないわよ!」
「お母様!!」
 夏枝に抱かれた陽子は、危ういところで転落を免れることになった。しかし、陽子にしてみれば、その温かい腕の感触、いつもつけている香水の匂い、それらは余計に罪悪感を倍増させるだけだったのだが。
 一方、夏枝にしてみれば、いかにしっかり抱いたとしても、やっと摑んだ水晶の珠が手の上で砕かれてしまう比喩と同じで、無に帰ってしまうような気がした。
 だが、それが比喩ではすまなくなるような出来事が彼女に襲い掛かろうとしていたのである。大河ドラマの監督が喜びそうな古びた門こそが、彼女から人を愛する喜びのすべてを奪い取ってしまう大蛇の口だったのである。未だ、その可能性すら読み取れていない。
 
 寺の門を潜った一行はいつものように住職に挨拶をすると手桶を受け取った。今までと人数がちがうことにやや怪訝な顔を見せたが、追求することはなかった。

「ルリ子はこの奥に眠っているんだ ―――」
 建造は手桶を抱えながら、愛娘に語りかけた。
「かすかだけど、海が見えるとても綺麗な場所だよ。ルリ子は海が好きだったからね」
「あ、あなた ――――」
 夏枝は、嗚咽を止めることができなかった。
――――なんていうことだろう。私は、まったく成長できていない。あの子が身罷って10年以上が経つというのに・・・・・・。
 喪服と見まごうばかりにシックなつくりのツーピースに身を包んだ淑女は、自分の反応を恥じた。
 ルリ子の墓を目の前にした陽子はすでに泣いていなかった。しかし、手桶から流れる水によって墓石が清められるのを見ながら、必死に歯を食いしばっていた。
だが、やがて、はっきりとした口調で語りかけ始めた。

「ルリ子お姉さま、こんなに長い間、来れなくてごめんなさい」
その一言だけで一同は巨大な雷に打たれた。全身がピシっとなる。まるで最高司令官を目の前した士官候補生のように、背筋をまっすぐになる。
陽子は、辻口という墓の刻印を見ながら思った。

――――どうして、こんなことになったの? 
 木魚が叩かれる音が赤ん坊の泣き声に聞こえる。思えば、ルリ子はまだ言葉もおぼつかない年齢でこんな冷たく暗い場所に眠ることになったのだった。
「・・・・・・・・・・!?」
 
 四人の前にふり返った中学生の女の子はある言葉を言おうとして、絶句した。春実の顔が見えたのである。母親とはちがう意味で整った容姿は黙っていても、いや、黙っているだけでそこはかとない凛とした雰囲気を醸し出しているのであるが ―――そもそも、内心の思いに関係なく、ただ黙ってさえいればそれを周囲にまき散らすのである。
ちなみに、この時。彼女はあることを言っていた。

――――大人になるまで知ったらだめ。

「どうしたの? 陽子ちゃん・・・・・」
 夏枝は、娘の肩を砕かんばかりに両手を食い込ませた。
彼女が尊敬してやまない母親は、この世でももっとも美しい顔をくしゃくしゃにして震えているではないか。

――――言えない、絶対に、言えない。
 陽子は可愛らしい顔を梅干しにして立ち尽くすことはできない。ただ、涙を流すことはもうなかった。
涙を流す母親を目の前にして、自分こそががんばるべきだと思い立ったのである。
「ありがとうございます、お母さま、やっと、ルリ子お姉さまにお会いできて嬉しいです」
「陽子!」
 夏枝は、娘を抱いておいおいと泣きじゃくった。その姿は一同のものにある種の感慨を与えた。しかし、そこに複雑な心境が迷いこんでいたのは以前に書いたとおりである。
 陽子は、しかし、―――――。
 幼児みたいな状況に耽溺しつづけるほど子供ではなかった。
だから、目敏く何かに気づいた。そこには花束がおいてあった。




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『新釈氷点2009 5』

 辻口建造が自宅に足を踏み入れたとき、なぜか名状しがたい不安を覚えた。俗に虫の知らせというが、建造は意外とそのようなものを信じるほうだった。
 いわゆる経済高度成長時代の青年、しかも、医師などという職業に就いていた人間にはありうべからざる態度であろうが、時代を先取りしていたのか、その反対だったのか、周囲にいる者たちは判断しかねた。

―――何かあったのか?
 その不安は、妻の顔を見ると完全に現実化した。
「夏枝、何かあったのか?」
「あなた・・・・・・・」
 普段、温和な夫が怪訝な顔で迫ってくる。何か言うべき言葉を求めて、脳内を検索するが、何も見付からない。
「何故、目をそらす? 娘たちに何かあったのか? 薫子か陽子か?」
「・・・・・・・・・・・?!」
 建造は、的確に事実を言い当てている。そのことに、夏枝は驚きの声すら出てこない。健気にもそんな母親を救ったのは娘だった。
「パパ、帰ってきたの?」
「薫子、陽子に何かあったのか?」
 居間から飛び出してきた長女は心なしか顔色に曇ったものを感じる。母親と違って感情の起伏をあまり外に出さない彼女が、みごと、その目論みに失敗している。
「あなた ――――」
 ここまできても、夫にかける言葉を見つけられないでいる。

 外は夜のとばりが降りて、閑静な住宅街は安眠を貪ろうとしている。しかし、辻口家ではその通例に従えないような事態に見舞われていたのである。
 その事実は、家族の成員すべての心をかき乱すのに十分な災厄に満ちていた。だが、一名とその他ではその意味合いはかなり違った色合いを示していた。そして、後者のうちでも1名と2名ではまた異なる世界を彷徨っていた。
 その2名は、けっして公にできない罪をそれぞれ背負っていた。しかし、その意味合いもまた両者の間には、金星と火星ぐらいの距離があった。

 さて、この場にてもっとも理性的だったのは、薫子だということができるだろう。この件に関して、彼女は共犯ではない。ただ、気が付いたら妹が側にいただけである。おぼろげな記憶の中では、ある日、可愛らしい赤ん坊が母の腕に抱かれていた。妊娠などという前触れもなく、とつぜんにである。
 両親と違って手枷足枷から自由な薫子は、事態をそれなりに達観することができた。
「パパ、早く、こっちに来て―――すべてが知られたわ」
「何!? すべてを!!」
「薫子!?」
 二人は、しゅんかん、時間が凍りついたと錯覚した。
 薫子は、「すべて」という単語をいとも簡単に使った。何も知らないのだから当然だろうが、そのことは、両親の心に対して、すぐには回復不可能な傷を負わせたのである。
 もっとも、その傷口は自分たちで穿った結果であり、薫子は瘡蓋を剥ぎ取ったにすぎないのだが。

 その上に、大事なことがある。彼女がどうしてそのことを知っているのか―――という疑問を抱かせる余裕すら与えなかったのだ。

 その傷口を抉るような行為を自らするのが、居間に入るという行為だった。中には目に入れても痛くない愛娘がそこにいる。おそらく、長い遠征から帰還した王を迎え入れるように、彼女は歓待してくれるだろうが、それはこれまでのようにはいかないだろう。きっと、瞳は今も美しいだろうがそれは涙で潤んでいるせいだろう。もぎ取ってまもない桃のような頬に痛々しい傷が走っているなどということはあるまいが、真珠を液体にしたような涙が糸を引いているにちがいない。
 はたして、男は娘を視界に収めた。
「陽子・・・・・・」
「お父様・・・」
 そこには、変わらぬ美しさを湛えた娘がいる。ソファに細めの躰を差し込んでいる。しかし、父親を仰ぐそのすがたはいつになく凛とした空気を醸し出している。
 年齢相応にふっくらとした頬には、そこはかとなく影が入っているが、双眸には確かな意思を秘めた黒曜石が光っている。それは、とても12歳のこどものそれとは思えない。わずか一日ほど見ないうちに大人になってしまったようだ。建造は考えたくないことだが、ウェディングドレスを纏った娘をすら垣間見たのである。

「陽子、あなた ――――」
「・・・・・・・」
 背後から走り寄った姉と母は、父娘が無言ですべてを悟ったことを知った。しかし、必ずしも共有する根っこが違うことをそのとき、悟っていなかった。それは、これからの物語において、より色彩を濃くしていくことになるのである。
 だが、この時点においては、鮮やかすぎる花もまだ蕾もつけていなかった。あどけない顔から想像するに、彼女はまだ自分が持ち合わせている高貴で知性的な美貌をどのように利用していいのかまだ知らないだろう。きっと、自分が将来薔薇の花に似た武器を備えようなどと、気が付きもしないのだ。

―――お前は、母親の血を引いて・・・・!?
 ここまで考えて、建造は自らに絶句せざるをえなかった。なんと言うことだろう、この美少女は、夏枝の血を一滴も受け継いでいないのだ。
 すると、この典雅な属性は何処からきているのだろうか。あの殺人犯に一滴でもそのような血が流れていたとはとうてい思えない。いや、思いたくない。すると、彼の妻だろうか。それほどまでに美しい女性だったのだろうか。すると、彼は彼女を力づくで手に入れたのだろう。そんな女性が佐石のような男を好きになるとは考えにくい。
 しかし、それでは疑問が残る。
 どうして、彼女は陽子を生んだのだろう。そして、今も何処かで生きているのだろうか。陽子に似た女性が・・・・・。
 いや、こんな無意味な想像は止めにしよう。今、彼がすべきは目の前の陽子を愛することだ。夏枝もきっと同じ思いにちがいない。彼女はあの悪魔の秘密を知らないのであるし ―――――、こんなにまで二人が酷似している理由も、きっとそこにあるにちがいない。
 建造は、天を仰いだ、正確には、豪華なシャンデリアが下がっている天井を ――であるが。
 そして、夏枝や陽子とは違った意味で整った顔に両手をあてがう。しかしながら、いかに、両目を塞ごうとも彼に安息を意味する暗闇はやってこない。彼が犯した罪はそう簡単に消えることはないのだ。
 再び、手を離したとき、シャンデリアが視界に戻ってきた。そのとき彼がよく見知った女性の声が耳に響いた。

――――これって、建造の趣味でしょ、本当に悪趣味ね。
 
 財前春実の端正な顔が浮かぶ。氷の彫刻が見せる鋭利な面たちのように、その声は黒い、そして、白銀の響きを見せる。
 それらは交互に出現し、男を、あるいは検事を籠絡する。

――――あいつはこの件にどのように関係しているのだろう?

 建造は、美しい共犯の骨格に忍び込もうと努力した。想像した美しい彫像に自分の心を潜ませる。そうすることによって、怖ろしく頭が切れる友人と記憶と思考回路を共有できると思ったのだ。
 しかし、それは徒労に終わった。彼女が何を考えているのかどれほど考えても手がかりすら摑めない。
 
 もはや、陽子にかける言葉はなかった。ようやく事態が収束を迎えたとき、時計をみると九時を回るところだった。その時、自分を含めた家族がまだ夕食を取っていないことを知った。
 この家にとっては、その夜は記念すべき日になった。
 辻口家が出前を取ったのである。もちろん、他の家庭のようにスムーズにいかなかった。もちろん、小説などを通してそのような世界があることは知っていた。しかし、実際に行動に結びつくわけではない。出前と言ってもどのような店に連絡したらいいのか検討すらつかない。彼らはそのような階級に生まれ育ってきたのである。
 困り果てた末、夏枝がかつて実家でお手伝いさんをやっていた女性に電話をかけて、問題の解決を計った。
 その結果、近所にあるラーメン屋の存在を知ることになったのである。こうして、家族四人で麺をすするというこの家にしては珍妙な行為に身をやつすることにったわけだ。
 建造は、陽子を密かに盗み見した。フランス料理のフルコースを食べるような仕草でラーメンに挑んでいる。その姿から何かしら娘の真意を測れると考えたのである。
 しかし、乳白色の額にひっそりと浮かんだ真珠のような汗に心が惹かれるだけだった。
 
 結局、今度の休みにルリ子の墓参りをすること、そして、何よりも彼女の仏壇を我が家に設置することで話は決まった。
 終始、陽子は不気味なまでに冷静で、これ以上父母を責めるようなことはしなかった。その裏に何かがあるのではないかと、スネに傷がある分、建造は気が気でなかった。だから、正直、妻の顔を直視することが出来ない。

――――お前が浮気したせいじゃないか。

 密かに小児病的な毒づきをすることでしか、自分を慰めることしかできなかった。
 この時、辻口家の歯車が何者かによって手を入れられたことに誰も気づかなかった。昨日のような明日が来ると誰しも疑っていなかったである。いや、気付きもしないし疑うこともしない。そう思いたかったのかもしれない。少なくとも2名は悪い予感ていどの悪寒を憶えていた。
 建造と薫子である。
 前者は言うまでもないだろうが、問題は後者である。
ルリ子が殺されたとき、まだ、彼女は幼児にすぎなかった。しかし、類い希な知性を持つこの少女はその存在が隠匿されたことに、長い間、疑義を抱いていた。陽子の存在があるとはいえ、どのような理由によってそこまで秘密にする必要があるのか。
 だが、薫子がいかに優れた少女であっても、そのタブーに手を触れることはできなかった。母親のようすからこれ以上、足を踏み入れてはいけない場所があることを無意識のうちに察知していた。
 それゆえに、夏枝が言い聞かせる前に、彼女の口から『ルリ子』という単語には封が為された。ある日、パンドラという女性が箱を持ってきた。両親はそれにその単語を入れて、永遠に閉ざしたのである。
 その時、パンドラが帰るとき、薫子に冷たい笑顔を見せたが、それがどうしても忘れられない。高校生になった今でもそれが夢に出てくるのである。
 しかし、そのことは家族の誰にも話すわけにはいかなかった。

 今度、墓参りに行くという。そのことを含めて、両親に質す必要性を感じた。その夜、妹が寝静まったのを確認すると、二人の寝室を訪ねた。
 とつぜん、現れた薫子に両親は別に驚きもしなかった。このことを予感しているようだった。しかし、すべてを打ち明けると建造は思わず声に感情の高ぶりを潜ませた。
 今さらに言う。
「―――お前、知っていたのか!?」
 父親は、この長女のことを娘ではなく息子のように思っている。だから、そのような呼び方になるのだ。
「知らないとでも思っていたの? たった一ヶ月預けられただけで、あの子が誕生したんだよ、幼児でもおかしく思うでしょう?」
 それほど感情を表に出さない薫子が珍しく言葉に抑揚を持たせた。あたかもこれまで表現できなかった思いをいちどに噴出しているかのように見えた。
 少女は、まるで妹の到来を警戒するように扉に寄りかかっている。
「ルリ子の墓参りにも行ってたし ――――」
「何だって? じゃあ、毎年おかれる花束はお前のものだったのか? それにしてもどうやって知ったんだ?」
「春実のおばさんに聞いたの ―――」
「え、お春ちゃんに?」
 その呼び方から、夏枝が動揺していることが見て取れる。今の今まで口を開かなかったのは、すこしもでそうしたらならば、大声で叫んでしまいそうに思えたからだ。
「10歳のときだったわ。そう言えば、花束って言ってたわね。私は、命日の次の日に行くのが習慣になっていたから、それは違うわよ、それに ―――」
「それに?」
 夏枝は頼るような目つきで娘を見つめた。いま、彼女が一番頼れるのは、夫たる建造ではなくて、目の前に屹立する彼女のような気がする。
「あんな高いお花は小学生の私には買えないわよ。その人はきっと命日の前に来てたのよね。それとも早朝だったかも ――――」
「そんなことはどうでもいいのよ! 問題は ―――」
「ママ、声が高い ――――」
 敵国に潜入した諜報部員のような仕草で母親を制した薫子はさらに畳み掛ける。
「ねえ、ママ、血がつながってないってそんなに大変なことなの? 私は気にしないわ。もしもパパとママが気にするなら、あの子を連れて家を出てもいいのよ ―――」
「薫子!」
 夏枝の声とともに、頬を打つ音が響いた。それは、九州の渇いた大地ぜんたいに轟いたのではないかと思わせるくらいの迫力と威力を有していた。
 ガウンを羽織った彼女が座っていたベッドから立ち上がって、頬を打つまでその動作は普段の夏枝から想像もできないくらいに、敏捷で猫科の動物じみていた。それに建造も当の薫子もまったく対応できなかった。
「ママがどんな思いで!」
「わかっているわよ、だから、こうして欲しかったの ―――」
 夏枝の言葉を封じるように、薫子は打たれた頬を見せつけた。
「・・・・・・・・・・・・・」
 加害者はすでに何も言えなくなっていた。ただ、うつむいて液体になった水晶を垂らすだけだった。
もはや、3人のうちに言葉は必要なかった。だた、数日後に控えた墓参りに控えることしかすることがない。
 それに心を砕くことだけだった。






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『新釈 氷点2009 4』
「そうだ。学校戻らなきゃ ――――」
「陽子ちゃん!?」
 まるで他人事のように言う陽子。夏枝と春実から見るとあまりに現実感が欠けているように見える。 いわゆる素人芝居にありがちなぎこちない動きと台詞回しである。
「音楽の授業で合奏をやるのよ、それにはねえ、陽子はヴァイオリンの担当になったのよ、それなのに ――――」
「陽子!」
 夏枝の耳には、合奏が合葬に聞こえた。それは春実も同じ思いだった。
「陽子ちゃん・・・・・・」
 改めて見ると、己の罪が服を着て歩いている。しかし、どうしてこんな愛らしい罪があったものだと、変なところで感心させられる。
―――――自分たら、この非常時に!!

 どんな過酷な状況下においても密かに冷静という名前の花を咲かせる春実である。何か言わねばならない。
 陽子は、今の今まで見せていた動揺をあさっての世界に投げ捨てて、普段の自分を演じている。しかし、その演技はあまりに見え透いていて、ところどころにほころびが見いだせる。
 すこしでも突っつけば、風船のように萎んでしまいそうだ。いや、単なる空気が入った風船なら大惨事になることはないが、水素100パーセントの上に失火となれば、もはや改めて描写する必要はないだろう。
 大惨事である ――――それでもあえて言えというならば。
 陽子は、このまま外出すれば、赤信号でも直進していまいそうに思えた。愛するわが子が凶暴な唸りを上げる車に飛ばされる。そんな残酷な映像が目の前に現出する。
「お、お願いだから、ここにいてちょうだい!! 陽子!!」
 我が手を娘の制服に食い込ませて、懇願した。身体はまだランドセルを背負っていたころと変わらないために、余った衣服が夏枝の手を翻弄する。
――――この子は、まだこんなに小さいんだ! ルリ子とそう変わらない。
 その観測は完全に誤っていたが、かえって、夏枝の陽子に対するあふれんばかりの愛情を暗示している。

 春実は、陽子を押さえながら、思わず泣きたくなった。感情の起伏に乏しい陶器のような美貌にうっすらとこの時ばかりは感情を表す。
「陽子ちゃん、あのね ――」
 完全に気が動転してしまった夏枝の代わりに、春実が説得に出ようとしたとき、けたたましいチャイムが鳴った。いや、長崎城主の豪邸だけに、その音はごく上品だ。しかしながらら、この時ばかりは  カケスのわめき声に聞こえた。
 カケスとはその鳴き声が激しいことから、かまびすしい人間を暗示する比喩によく使われる。
 二人にとって、まさに呼び出し音はそれにしか聞こえなかったのである。
 ところが、次に聞こえた声は耳に親しみすぎていた。

「陽子ちゃん、どうしたの? みんな待ってるんだよ!」
「え? 永和子!?」
 春実は目を丸くした。思いも掛けない人物が来訪したからだ。言うまでもなく、彼女の長女である財前永和子、陽子とは長馴染みの親友である。いわゆる竹馬の友というやつである。
「永和ちゃん!?」
 陽子の視線はまだ虚空を彷徨ったままだ。まるで目が見えないかのように見える。
 空気を切り裂くような声は、玄関からかなり距離があるはずのこのリビングに直で響いてくる。
「あの子ったら ―――」
 春実は頭を抱えた。親友の冷静を失った顔を見物するには、あまりに状況が危機に瀕している。

「永和ちゃんに入って貰いましょう ―――」
「おい、夏枝!」
「永和ちゃん、今行くよ!!」
 そう、朗らかに宣言すると、夏枝と春実の押さえをすり抜けて玄関へと走り去ろうとした。
「あ、そうだ、ヴァイオリン忘れちゃった ――――ちょっと、待ってね」
 陽子は、螺旋階段を回転しながら上昇していく。
「ああ、あの子どうしたのかしら?」
「あまりにショックな体験のために、一時的な記憶喪失になったのかしら」
 春実の声は、全く興味もない科目の教科書を音読しているかのように抑揚がない。
「お春ちゃん、あなたは何時精神科医になったのよ」
「田丸礼子っていう精神科医と知り合いになったのよ、彼女が教えてくれたの。こんな仕事をしているとね ―――」

 二人の精神も尋常ではないようだ。どうやら、非常事態に陥るとおしゃべりに興ずる。そのことで、理性を保とうとするのは、古今東西変わらない女性という生き物の性質だろうか。
 春実は尋常でない精神を振り切るように玄関に向けて叫んだ。
「永和子、入ってきなさい!」
「え?ママ?!」
 けたたましい足音を立てて入ってきた永和子の顔には、意外という文字が顔に書いてあった。
「永和子!」
「え? ママ!??」
 見たこともない母親の顔に、驚く暇もなく身体を引き寄せられる。次の瞬間、耳を喰われるかと思った。
少女の耳に食い込んできたのは、母親の歯ではなく言葉だった。しかし、その言葉は、気を失うほどに衝撃的な内容を含んでいたのである。
「ママ、それ、本当!?」
「嘘で、こんなこと言えるわけないでしょう!? とにかく陽子を外に出すわけにはいかないの、今の あの子を外に出したら、トラックに飛び込みかねないわ」
―――お春ちゃん。
 きょとんとした顔で、親友を見つめ続けながらも内面においては怪訝な思いを否定できずにいた。
―――この子の陽子の対する気持は、何なのだろう?
 確かに、親友の娘という設定をはるかに超えている、春実の陽子に対する熱い視線は。それは不思議な愛情に満ちている。実の娘に対する情愛とは違う別のエキスが混入しているようだ。しかし、今は、そんなことを忖度していられない。

「永和子ちゃん、先生に電話して、陽子が具合悪くなったって伝えてね」
アールデコの受話器を指さす。自分なら、彼女を呼び捨てにはできない。それは、可愛いとは思うが。
 気が付くと陽子がヴァイオリンを持って立ち尽くしていた。
「私、全然、具合悪くないよ ――」
「陽子ちゃん・・・・・」
 強いて冷静を保っているのがわかる。それこそ号泣しながらソファーを破って、中の羽毛を部屋中に飛び散らせたいだろうに。
 少女は、舌に黒鳥の舞を強制した。

「私を騙していたのね、永和ちゃんも知ってたんだ。それに町の人たちも」
「ええん、知らないよ、今、知ったんだよ」
 教師との話は済んだのに受話器を持ったままの永和子は、慌てて弁解する。母親そっくりの瓜実顔の、上品な容姿だがその内面は、母親とは一線を画すようだ。危機を目の前にして、とうてい、冷静を保っていることができない。
 どうやら、みんなに騙されていたことが我慢できなかったようだ。すると、そのことを彼女は悟っていたことになる。
「みんな・・・・・・・・それに、ルリ子さん、いや、お姉さんが可哀想・・・」
―――こんな時にルリ子のことを考えるなんて、貴女はほんとうに、私の娘よ!あの子のことをあからさまにしたら、ほんとうの母娘でないことまでが、明かになっちゃうと思うと!だから言えなかったの!
 夏枝は言いたくても言えないことをわかりやすい方法に変換した。
 それは ―――。
 それは、―――。
 涙である、いわゆるひとつの。
 光るものを母親の双眸に見いだした陽子は、凍りついた。しかし、それはショートしかかった少女の心を冷やす役割を担うことになった。
 この時、陽子は悟ったのである。

 春実が言わんとしたことのほんとうの意味のことである。18歳になるまで知ってはいけない。その中身自体のことではない。
 どういう理由が内包しているのか、わからないが、真実という黄身が詰まっている卵の殻を傷付けてはいけないらしい。もしも、そんなことをしたら、自分はおろか、自分のことを思ってくれている沢山の人々を傷付けるかもしれない。
 根が素直な少女はそう理解した。
 我を通すことを止めたのである。しかし、知ってしまった以上は、本来なら自分の姉がもうひとりいたということを否定することはできなかった。何としても墓参りをしたい。
 それにしても、我が家に彼女が存在したという足跡がないということは、何ていう不自然さだろうか。仏壇はおろか、 写真の一枚もないのだ。それほどまでに自分に隠しておきたかったのだろうか。その理由は何か。

―――――もしかしたら、自分に聞かせたくないくらいに残酷な方法で殺されたのだろうか。それにしても、それを自分に報せないほどの方法って?
 ソファに座らされ、改めて煎れられた紅茶をすすりながら思った。目の前にはレモンケーキが切り分けられ、甘酸っぱい匂いが漂ってくる。それに母の愛を感じながらも、鋭敏な少女の知性は、正解を求めて迷路の出口を捜していた。
そんな少女の思考を止めたのは春実の声だった。そこに笑顔が出現した。
「陽子ちゃん、食べ物の恨みは根が深いのよ、もしも、あなたたちが来なかったら、おばさんが独占できたのよ ―――」
「えー? おばさん、独占する気だったの?」
 今度は不満そうに柔らかで品の良い頬を膨らませる。むくれた陽子だったが、すっかり、春実に籠絡されたことに気づいていない。やはり、鋭敏な知性を持ち、年齢よりも大人びた陽子とはいえ、ふつうの中学生の、それもランドセルから肩掛け鞄に変わったばかりの、少女にすぎないのだろう。

 しかし、その年齢よりも幼い中学生が側にいた。陽子がしないような大きな口でレモンケーキを頬張っている少女だ。
「こら、永和子! もっと、遠慮して食べなさい! それに何であんたまで食べるのよ!」
 半ば笑いを込めながら、春実は、娘を怒鳴りつけた。
 それが契機になって、リビング中に温かい笑いが充満する。
 この時間が永遠に続けばいいと、陽子は思った。しかし、その心の何処かにおいて、黒くも、鋭敏な知性が蠢き始めていたのである。
 人間とはなんて迂遠な、いや、それだけでなく自虐的なのだろう。心とは時に、自分が傷つくことを望んですることがある。この時の、少女はまさにそうだった。
 しかし、もっと敷延すれば、彼女だけではない。陽子をはじめとする家族がその周辺の人たちまで含めた人間群像を動かす巨大な歯車が運命という動力に導かれて、誰も予期せぬ動きを見せ始めていたのである。ほぼ、全員がそれに絡め取られてしまうのだが、今のところ、それに気づく者はい なかった。
 あくまで、不安に持っている人物は、約一名ほど、いたが。
 もしかしたら、2名だったかもしれない。陽子の出生の秘密を知っている者は、誰と誰だろう?



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