マザーエルザという名を知らない者はいないだろう。今、1997年9月5日、彼女の名前に、ふさわしくないくらいに、慎ましい病院で、息を引き取ろうとしていた。
1910年8月26日に生を受けていらい86年。アギリは、いや、世界はこの女性と時間を共有できたことを神に感謝すべきである。
世界の誰からも愛され、尊敬された聖女は、今、約束された最後の呼吸をしようとしている。
「ああ、もう息ができないわ」
そのか細い声は、世界のすべてを貫くほどの衝撃を持っていた。
「マザー!!」
「あああー!!マザー」
医師の確認を待つまでもなく、修道女たちは、マザーの御たまが、天に召されたことを知った。目の前に横たわる、人間としてはあまりに、華奢な肉体の中に、マザーはもういない。このことを自己に銘記しなくてはならない、それを自覚するには、よほどの時間が必要だろう。
今更ながらに、マザーの修行に叶わない自分たちなのだ。そう自覚しても、あまりの悲しみのあまり、理性を失わざるを得なかった。
「ああ、マザー叱ってください!どんなに蔑まれてもかまいません、もういちど、お目を開けてください!」
その若い修道女は、天に祈った。
マザーの顔は、それは晴れやかな顔だった。神々しいまでに、清らかだった。
それは、その部屋にいる人間の総意のはずだった。
しかしながら、ある少年、黒人の少年だけは、そうは見ていなかった。
「おばあちゃん、本当に幸せだったの?」
その言葉は、修道女にとってみれば、涜神ともいうべき恐ろしい言葉だったにちがいない。ただし、その場の誰も、自失のあまり、ちっぽけな子どもの声に耳を傾けなかった。
「おばあちゃん、本当に幸せなの?」
その声は、小さかったが、分子の一つ一つに食い込んでいくだけの力と執拗さを持っていた。
今、陽光はきらめく。この世界の人は、みんなそのきらめきを恨んだ。1997年9月5日という、この日付を誰もが恨んだ。
しかし、その少年だけは、永遠に、この日付を複雑な気持ちで、思い返すに違いない。
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