その真っ白な人はプラナというらしい。
マンションの44階にある彼女の部屋に招じ入れられた少女は、まず最初に、人間の女性に吠えかけられた。先生は彼女を犬だと扱っているようだが、少女が目の当たりにしたのはあきらかに人間だった、けっして犬ではない。保健所で数知れぬ犬たちに出会ったが、彼女を強姦しようとした雄犬も含めて・・・、彼女はあきらかに人間の若い女性だった、それもかなり美人で、先生とは完全にタイプが違う。
そんなプラナが、いま、少女が身に着けさせられている首輪と胴輪、しかも、フリルやリボンが所せましと飾られている、それゆえにむしろ、破廉恥にみえる。
少女は顔を赤らめた。
すると、今度は軽蔑のまなざしを向けてきた。
「プラナ、この子はカコっていうのよ、仲よくしてね。私は仕事があるからPCに向かうから、あとはお願い」
そう言って先生は、プラナが最初に示した態度とは打って変わって優しげに少女に近づき、その顔をなめ始めると奥の部屋に引っ込んだ。みずなの方も、安心してそのやさしさに寄り掛かろうとした瞬間、首を噛まれた。
「い、痛い!」
思わず少女はのけ反った。
改めて向き直ると見事な白い毛を誇るコリーは、軽蔑のまなざしを投げつけてきた。
「この、兇状もち、近づかないでよ!けがらわしい!」
そういわれた瞬間に、プラナは犬になった。少女は、それほど犬種に詳しいわけではない。だが、絹を思わせる輝きを放つ直毛からは、それが相当の高級種であることに疑問を挟ませない存在感が醸し出されている。
「兇状もちの分際で、上から目線?いいご身分ね?」
「え?」
プラナは自分の心が読めるのだろうか?少女はおじけ附いた。
「まったく、子犬じゃあるまいし、それほど簡単に恣意を解放するんじゃないわよ、この兇状もちは、そんなこともできないのかね!?」
象牙の輝きをみせる牙が、プラナがオオカミの末裔であることを象徴している。
「オオカミなんかと一緒にしないでくれる?」
「心を勝手に読まないで!!」
ついに少女はべそをかいて泣き始めた。
それにしてもどうしてプラナは、自分のことをこんなにまで知っているのだろうか?そうか、先生が教えたのね。人間が犬に語りかけるって、特に愛犬家だとありえるもん。
「トウコさんはそんなマネをすると思ってるの?あなたのような兇状もちの面倒をみてあげるって人よ!もはや誰にも相手にされない、あなたのような・・・ふん、トウコさんのいるところでは親愛なふりをしてあげる、だけど、いないところでは金輪際、近づかないでちょうだい!」
少女はどんな顔をしていいのかわからなくなった。自分は誰からも愛される資格なんてないんだ。自分が諏訪良子を絞殺す瞬間のことが突然思い出される。とても苦しそうだった。空気を求めて目がさまよっていた。考えてみれば人間は誰も呼吸止めて自殺することはできない。あまりにも苦しいからだ。肉体が酸素を求める本能はあまりにも強烈で自律意識の制御の効く相手ではない。
「偽善者、きもちわるいから話しかけないでくれる?」
もはや、心を読まれることに離れてきた。
「誰か、兇状もちの心なんて読むものか?!まだわからないのか?あなた本当に犬なの?犬よね?」
くんくんと長い鼻を動かす。
「私は犬じゃない!人間よ!人間の女の子よ!!」
「何?自分を人間と思い込む精神病なの?いい医師を紹介しましょうか?」
犬にも精神科医がいるのか、この世界は?
「あなたの話を聞いていると、むろん、精神病患者の言葉を真実だと仮想する前提の上だけど、まるで人間の世界の付属として犬がいるみたいじゃない」
「ちがうの?」
「そんなことも知らないの?兇状もちになるわけだ」
「お願い、教えてここはどこなの?私は!?」
「近づくなと、言ってるでしょ?」
本当に凍りつくように思えた。プラナは本格的にみずなを嫌っている。言葉に温度の存在すら感じさせない。まさに絶対零度だ。
「それ以上、近づいたら、本当に噛むわよ」
「どうして、そこまで嫌うの?!」
何度も説明された理由をあえて訊きたくなった。
「何にもわかっていないオネンネちゃんだから教えてあげる。人間は犬にとって慈しみ、育て、愛してあげる対象よ、それを殺すなんて、犬のクズよ!!けがらわしい!」
主語と目的語が入れ替わっていた。しかし彼女が言うところの、この世界の構図からするとそうなっているらしい。そのことは置いておいてもっとべつな疑問を尋ねるべきだ。
「どうして、あなたが兇状もちだってわかったって?みんながうわさしてるよ、聞こえない?」
「え?アアアア・・・・・?そんな・・・・・・・・・・・・・・いやあああああ!!やめて!お願いだから・・」
少女は耳をふさぎたくなったが、犬となった彼女の不器用な手ではそれすら満足にできない。聞こえてくる声はいずれもみずなを兇状もちだと非難し、かつ蔑視するものばかりだった。
「プラナ、災難ね、トウコもこんな兇状もちを囲い込むなんて」
「殺されちまえばよかったのにな、どうしてトウコも、こんなのを助けたのかわからねえな」
「兇状もち!死になさい!死ね!!」
少女の視界はすべて自分への罵声によって埋め尽くされた。プラナの恣意がまるで聖母マリアの慈悲に聞こえるから不思議だ。犬になってはじめて死にたいと本気で思った。しかしこの声はどこから聞こえてくるのか?そう、においかしら?人間の何万倍も優れて官感情に影響される、となると・・・。
「まったく人間並みの唯物主義者ぶりね、そうか、あなた人間だったけ?カコだっけ?兇状もちの名前なんて記憶する価値なんてないけど・・・」
「わ、私は、人間の女の子だもん・・・いつの間にか犬にされちゃったの・・・」
「・・・・・・・・・」
「そ、そんな目でにらまないで・・・」
思わず恥じらうみずな。
「兇状もちでも羞恥心なんて高級な感情があるとは思わなかった」
プラナの冷たい言葉に重なるように、だれか老人の男の声が耳に侵入してきた。彼女の声とちがって温かみをあるていど感じさせる。
「その子は犬じゃないぞ、プラナ」
二人が同時に同じ声を出したが、意味合いはかなり違っていた。少女は、まったくその正体を知らず、一方、プラナはいつもの会話仲間のようだった。
「先生、犬じゃなかったら、人間だとでもおっしゃるんですか?」
「いったい、どこにいるんですか?」
もしかしたらプラナには見えて、自分には不可視ということがありうるのだろうか?少女がかつて住んでいた世界でも犬同士は距離を克服して互いにコミュニケーションを取っていたのだろうか?
再び、雄のものだと思われる声が響く。
「わしはそちらからは3kmほど離れたところに住んでいる。この地域の医師を務めさせてもらっている」
「3km・・・・!?」
少女がたどった記憶によると、名前は忘れてしまったがある野生動物は何キロも先にある臭いの発信源をたどることができるそうだ。それが犬、一般に可能でもおかしくない。すると、これは臭いを互いに交し合っているということだろうか?しかしそれにしては通信速度が速すぎはしないか?
「確かにこれほど救いがたい唯物思考の持ち主は人間以外にはありえない」とプラナ。それに応じる老人の声、「だが、人間でもない。それがわしの見立てじゃ。それからさんざん、兇状もちだとみなが罵っているようだが、その理由を訊いてやってもいいのではないかね」
それは少女にとって天の救いに思えた。しかしプラナは端正は顔で少女を一瞥しただけで、奥の部屋に戻ろうとした。人恋しい少女は彼女に付いていこうとする。
一瞬、影が飛んできたかと思った。そして、次の瞬間、いや、ほとんど同時だったかもしれない。首にものすごい衝撃を受けた。一瞬、彼女の牙が食い込んだと思った。
「殺シテ、オネガイ!」
もういっそのことその方がどれほどましかわからない。生きていてもいいことはまったくないだろう。
少女は涙ながらに、プラナに頼んだ。呼吸ができるという時点で牙が食い込んではいないことはたしかだが、これまで彼女が経験したことのない、死に対する恐怖が、自分の状況を達観する能力を完全に奪ってしまった。かつて、諏訪良子ですら成し遂げられなかったことである。
すでに彼女のなかでは、まるでライオンによって首にかみつかれた羚羊のようにグタっとなって絶命し、捕食者とその家族の腹に納まる運命を待っているだけだった。
しかし突如として下半身あたりから這い登ってきた感覚は、少女の予想を完全に裏切るものだった。なんと、あれほどまでにみずなを嫌っていたプラナが、その優雅に細長い顔を少女の股間に埋めていた。
「ぅひぃいいいつ!!あぅ!!?」
自分に起こっていることが信じられなかった。プラナの舌が少女の性器に食い込んでくる。これは舐められているという、生易しいものではなかった。あたかも処女を失ったようなショックが少女を襲う。
「なんていう声をだすの?人間の女の子はこんなにいやらしいの?」
プラナは、少女の性器に齧り付いたまましゃべっているのだが、よく考えてみたらそれはまったくおかしくない。なんとなれば、彼女は口や舌、そして、喉といった器官を使って物理的に声を合成しているわけではないからだ。
なんとか論理的思考に逃げなければならない。このまま背筋を這い登ってくる快感に身を任せてしまっては本当に人間ではなくなってしまう。だれか、助けて・・。なんとか身をよじらせて逃げようとするが、自分よりも大きなプラナに肉体的に対抗できるはずがない。
「フワアア・・ああ!?」
諏訪良子と伊豆頼子が、わざとみずなに聞こえるように、後に実行するいじめの内容を語っていたことがある。それは、少女の性器にバターを塗って犬に舐めさせるといういじめだった。
もしかしたら、それに対する恐怖感が少女を同級生殺しという暴挙に出させた動機なのだろうか?しかし諏訪良子を絞殺す瞬間のことは、いまだにわからない。その瞬間を思い出すと、とたんに阿多あの中が真っ白になってしまうからだ。
背後からドアが開く音がした
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