西宮郁子が友人とともに校舎から出てきた。彼女は、その瞬間に太陽から感じる以外の眩しさに反射的に虹彩を閉じた。
彼女が照美であることは一目瞭然だった。校門の先に咲いた美しい花は、周囲に存在するあらゆるものを凌駕して輝いていたからである。
「・・・・・」
既に一緒に帰宅しようとしていた友人のことなぞ、郁子の目と耳から完全に除外されている。それでも、そこいらへんに転がっている蛙の死体程度の注意を払うぐらいの、反応はしてやる。
「え?郁子ちゃんのお姉さって、入院しているんじゃなかったけ?」
「アレは、別のお姉さん、あの人は照美お姉さんって言うの」
「ふうん」
予め、ハードディスクに記録しておいた音声ファイルを再生するかのように、機械的な声をだした。
「私、用があるから先に帰って」
「うん」
友人を追いやるように返すと、郁子は照美に顔を向けた。
「あの子、友だちなの?いいのかしら?」
最近は、小学校でも人間関係が複雑だと聞く。いま、照美が籍を置く中学生も、当然のことだが、みんなかつては小学校に身を置いていたわけで、あの複雑な人間関係の萌芽は小学校にこそあると極限しても差し支えがないような気がするのである。
「いいの、照美お姉さんと話しがしたかったから」
はたして、当時の自分はこんな屈託のない笑顔を浮かべていただろうか?ふと、照美は考えてみたが、あいにくと、幽体離脱の術を心得ていなかったので、かつて、自分がどんな顔をしていたのか、思い出せない。
鏡で見た顔は、あくまでも、身構えた自分じしんであって本来の自分ではなかろう。幽体離脱でもできないかぎりは、人間は偽りの自分の顔をしか観たことがないと極言できるのである。
「照美お姉さん、どうしたの?」
少しばかり、自分の世界に填り込んでいたようである。
「ううん、なんでもない」
この子には、さすがの照美も調子を崩されっぱなしだ。完全無欠だと思っている由加里が、今の自分を観たらどう思うのかと自答自問してみると、意外と面白い映像が浮かんでくる。
それらのいちいちに従っていたら、自我が持たないので、郁子に集中することにする。
「ねえ、郁子ちゃん」
「なあに」
「由加里さんに抱きついたりしないの?」
「どうして?郁子はそんな子供じゃないよ」
「私は、一人っ子だから、姉妹って関係に幻想を抱いているのかもね」
「げんそう?」
公園へと下りる石段に向かいながら、照美はしまったと思った。これでは小学生にじぶ自分の意思を通じさせるのは至難というものだろう。
「妹か姉が欲しかったな」
「はるかお姉さんは、そういうもんじゃないの」
年齢よりもはるかに幼いと思っていながら、こんな大人めいた言い方もできる。照美は、じっさいに、痛いところをつかれたと実感した。しかし、彼女を相手に虚勢を張る意味をこの美少女は発見できなかった。
「そうよ、あいつは私の妹だな」
「お姉さんじゃなくて」
「こいつ!」
気が付くと郁子の首を背後から捕まえていた。とても華奢で可愛らしい肩だった。ピンク色の鎖骨がぴくぴくと言っている。辛うじて青い筋が血管だとわかる。抱き心地は、柔らかくてとても気持ちよかった。
この時、願望でなく、本当にこの小学生の女の子が自分の妹のように思えた。
「いいから、見舞いに行ったらすぐ、西宮さんに抱きついてごらん、きっと喜ぶよ」
・・・・できるだけ下半身に力を込めて、とはさすがに注文しなかった。実の妹に辱められる由加里を思うと、自然に 冷たい、そして、非常に乾いた笑いを抑えきることができなかった。
「照美お姉さんって、由加里お姉ちゃんとそんなに仲が良いの?」
「どうして?」
悪びれずに郁子は答える。
「由加里お姉ちゃんのことを言う時、とても楽しそうだもん」
「私が楽しそう?」
意外な妖精の反応に、照美はどんな表情をすべきか脳内会議にかける必要性を感じた。しかし、すぐには回答がでないことを理解すると、軽い笑顔でごまかすことにした。
「はるかお姉さんの試合って、何処でやるの?」
既に郁子には伝えてある。
「県立競技場で、あくまでも練習試合だからな」
「ふうん」
小学校とは目と鼻の先で、徒歩10分ほどで到着する。
郁子を連れていこうと思ったことについては、照美に他意はない。ただ、由加里のことで情報を得たいために、たまたま、はるかの試合に行く予定があったために、誘ったというわけである。
県立球技場までの道筋には、由加里が入院している病院が建っている。
見舞いというほどでもないが、立ち寄ることを郁子に提案した。
「西宮さん、もう退院できるんでしょ?」
「うん、ママによるともうすぐみたい」
「今日は、見舞いに行かないの、いや、行こうよ」
「いいよ、照美お姉さん、それって反語法っていうんでしょう?」
またもや、想定外の回答に照美は、郁子はそれを視ていなかったが、苦笑いでごまかすしかなかった。妖精の脚はすでに病院に向かっていた。どうやら、照美と姉の見舞いにいけることが楽しくて堪らないらしい。
それがどのような心理に基づくのか、類い希な美少女は理解できなかったが、予想する必要性も感じなかった。無駄話を交わしながら歩いたので、病院までの道筋はそれほど時間を感じずに済んだ。
エントランスで、ゆららと出くわした。
「照美さん・・・・」
「どうしたのゆららちゃん、フィアンセの浮気現場に出くわしたような顔をして」
精一杯の冗談を言ったつもりだが、ゆららの暗い表情が回復することはなかった。次に見つけたのは妖精よりも小さく感じた、彼女の後ろ姿だったからだ。
「あの人も、由加里お姉ちゃんのお友達なの?意外に多いんだね」
「意外に?」
照美は、眩しさに思わず眉をしかめた。病院というところはどうして必要以上に明るいのだろうと思う。リノリウムの床は常に往来者が映り込むくらいに磨き立てられているし、白い壁や天井は、それに拍車をかけている。
一体、一年で何人が命を落とすのかわからないが、そのような場所でこの明るさはないだろう。もしも、自分の 大事な人が命を落とすことがあって、リノリウムの輝きはどのように映るのだろうか?
そんなことを考えているうちに、由加里の病室が見えた。すかさず、妖精のかわいい耳に囁く。
「西宮さんに飛びつくのよ、もう、怪我はいいんでしょう、きっと、喜ぶと思うよ」
「わかった」
そう言い終わる前に、妖精はドアを開けると、姉を呼びながら走って消えた。
「い、郁子!?や・・・ぁ、何するの?、かい、海崎さん・・・・・・!?」
目まぐるしく知的な美少女の顔は転戦した。
妹への驚きと、上から目線と、そして、奴隷の主人に対する絶対服従の視線である。病室に入った照美は、自分が想像した以上の笑劇(ファルス)を観劇することに成功した。あえて題するならば、麗しい姉妹愛、ということになろうか。
郁子が由加里の腹に乗りかかっている。ジュースを飲んでいたらしく、妖精の頭にカップが逆さまに乗っていた。水の滴る美女ならぬ、美幼女がそこに存在していた。
「由加里おねえちゃんたら、冷たいなあ」
「うっ!?お、お願いだから、すぐに、下りて!」
「冷たいな」
「そうだね、冷たいね、実の妹、それにこんなに可愛らしい妹さんなのに・・・ふふ」
「か、海崎さん・・・・!?」
由加里の目の前に、氷の微笑が存在した。怖ろしいまでに整った顔が、迫ってくる。あたかも、恋人どうしのように、吐息がかかるほどに近づいている。無臭なのがかえっておそろしい。この人は人間ではなくて、死に神がなんかじゃないのか?あるいは、後者が前者に取り憑いて、罰を与えるために、由加里にひどいことをしているのかもしれない。
(・・・・・罰を?)
ここまで考えて、由加里は自分が罪人ではないかという意識に囚われていることに気づいた。
郁子は、なおも罪の意識のない天使の残酷さで、由加里の華奢な身体から下りようとしない。彼女の重量はそのまま、いや、動けばそれは物理の法則に従って加重され、由加里の下半身を直撃する。
「お、お願いだから、い、郁子、下りて!ウウ・・」
「どうしたの?由加里お姉ちゃん、具合がわるいの?」
姉の急変に驚いて、郁子はようやくリノリウムの床に降り立った。
照美はほくそ笑んだ。
由加里は、心底、恐怖を感じている。この人は自分から何もかも奪おうとしている。ならば、いっそのこと殺してくれたらいいのにと、言ってしまいたくなった。しかし、郁子がいる手前、そんなことは言えない。
何があっても、妹に、自分が学校でいじめられていることを知られるわけにはいかないのだ。非常に逆説的な言い方になるが、照美は絶対にそのことを郁子に告げることはあるまい、少なくともそれに関しては安心できる。
「こんにちは、西宮さん」
「こ、こんにちは、海崎さん・・・」
馬鹿げた芝居だと、照美は自嘲せざるをえない。だが、すすんでこのアドリブ猿芝居を楽しもうと思った。たまには木登りが得意でウキウキと鳴くメスザルになるのも悪くない。
サルとは思えないほどに整った美貌を武器に、由加里を精神的に痛め付ける。
「そろそろ、退院できるのよね」
「はい、いえ・・うん」
カクンと由加里は頭を下げた。その様子があまりに不自然なので、郁子は二人の間に何かがあると思ったが、その中身まで洞察できるわけではない。
「これから、あなたの大親友のはるかの試合を見に行くんだけど、言付けはないかしら」
携帯がある時代に、言付けはないよなと、自分で台詞を考えておきながら、あまりの不自然さに吹き出してしまいそうになる。
「由加里お姉ちゃんも、また、テニスをやればいいのよ」
「うるさいな、郁子に関係ないでしょ!?」
思わず、素を出した由加里を興味深く見つめた。そして、彼女がテニスをやっていたことにも関心を持った。
「前に、はるかの試合を見に行ったときにも、もう一度、やってみようかなあって言ってたじゃない」
「・・・!?」
照美は驚いた。自分に対して、あの由加里がこれほどまでに反抗的な表情を示せるとは、夢にも思っていなかったからである。そう思う一方、まだ攻める余地があるのだと、意外な形で安心した。
まだ、いじめ甲斐がある、ということである。こうでないと面白くない、とも、ゲーマの悦びに近い感覚も抱いた。
しかし、そんな挑戦的な表情も一瞬にすぎなかった。すぐに、はにかんだような顔になり、それは照美への恐怖に変わった。しかし、郁子の手前、それを素直に出すことはできない。学校でいじめられているときには、あくまでも、照美やはるかが相手の場合に限るが、悲しいときは、悲しい、苦しいときは、苦しい、と素直に感情に出せるだけにかえって楽だったと、逆説的な言い方もできるのである。
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