しかし、すぐにゆららの視線に気づくとあゆみは、何か重大なことを気づかされたような顔をした。あたかも、出陣寸前の騎士が戦いを前に矛を収めるように、それは重大な決意に見受けられる。戦闘までに、人は相当な精神の高ぶりが必要だろうが、いちど完成形にまで準備できた精神の高揚を鎮めるのは、端で見るよりも大変だろう。ゆららは、その真意を測りかねるようにあゆみの顔をさりげなく見遣った。
「そ、それにしても、はるかったら本当に大人げないわね ――――」
「え?」
いきなり直球を繰り出されて、ゆららは即座に反応できなかった。
目の前では、死闘が繰り返されている。ただし、それは片方だけに言えることだった。
「ほら、照美、何してるのよ!!」
怒声がコートに響き渡る。
はるかの怖ろしい一打を打ちそこねた照美は、珠のような汗を周囲に煌めかせて、天を仰いだ。ここにいるものは、みな、その女神を思わせる美しさに息を呑んだ。しかし、はるかは、自分を奮い立たせて魂を奪われるのを防いだ。
それは、あたかも己が剣を足に突き刺してまやかしから自分を解放する故事に似ている。
「やる気あるの!?」
声量豊かに、さらなる怒りをコートに爆発させる。
まるでホテルにまで聞こえるのではないかと思わせる。発声者からすれば、その声は別に、怒りを表しているわけではない。アスリートの本能がそうさせているだけである。
しかし、テニスを本気にやっていない身からすれば、それは狂気に身を躍らせた犯罪者にしか見えないである。ちょうど、今、照美の優雅に回転する腰を掠めたボールなどは、とうてい素人が対応できる代物ではない。それでも、どうにか目標に向かって身体を動かすことができたのは、彼女の高い身体能力を裏付ける証拠だとしか言えないだろう。
しかし、はるかにすればそれは許し難いテニスへの侮辱なのである。そのような才能を持っていながら、遊びでテニスに取り組むのが許せない。だが、そもそもはるかが無理矢理引っ張り出したはずであるが、もはや、少女の記憶の庭に、そのような樹木は植えられていない、当に、伐採されたはずだ。いや、そもそも植えていたことさえ憶えていないかもしれない。
「とりゃあ!!」
「はるか! もう止めなさい!!いい加減になさい!!」
まるで少女とは思えない雄叫びを上げた瞬間に、あゆみの鶴の一声が、コート獣に編み目模様の闇を作り出した。
そのとたんに、照美は膝を地面に着地させた。
「はあ、はあ、はあ・・・・・・」
非常に珍しい光景に、ゆららは目を丸くしていた。
―――あの海崎さんが膝をつくなんて・・・・・・。
その表現は、暗喩であってもじっさいであっても、この才色兼備の女神には似つかわしくない表現だった。その照美が、膝をコートにつき、肩で息をしている。しかしながら、真珠の汗を、美貌いっぱいに埋める照美の顔は、敗者であっても煌々と輝いていた。
―――同じ、人間なのにこんなにちがうなんて・・・・・・・。
高田たちにプライドを人間以下の存在にまで貶められ、辱めを受けても、いじめられているという自覚まで忘れて、笑っていた。そんな自分とは天と地の差がある。
しかし ――――――――――。
同じ敗北の汗にまみれていても、ゆららよりももっと惨めな状態に置かれている少女が、このとき、同じ時間平面上に ―――――いた。
言うまでもない西宮由加里である。
ノートパソコンに伏して自分の髪の匂いに鼻腔を犯されながら、夢の世界へと逃げ込んでいた。
はるかに命じられた小説を書くために、過去の記憶を編み直しているうちに、とつぜんの眠気に襲われたのである。破損した骨や筋肉がその組織を回復するために、脳に眠りの申請を行ったのだろうか。
由加里は、中学生にしては大人びた外見ながら、その中に多分に幼い部分が人よりも生き残っている。両者のせめぎ合いは、このぐらいの年齢の少年少女にとってみれば日常茶飯事だろうが、この少女を精神を不安定にし、危うくさせているのだった。普通の少年少女よりも両者に揺れる振動の幅が半端ではないのである。
――――ふふ、可愛らしい。
ひとりの看護婦が薄闇に意味ありげな笑みを浮かべていた。
似鳥可南子、この病院の看護婦である。
一主任でありながら、この大病院の看護婦だけでなく、医者連中にまで権力の触手を伸ばしている。それは、彼女が院長の血縁だからである。表向きは、そのような権勢家じみた振る舞いにうつつを抜かすことはないとはいえ、裏では、この病院をこの手アノ手で、操っている。そのことは、この病院に所属する者にとってみれば、言わば、公然の秘密なのである。
さて、この何処にでもいそうなジャガイモを彷彿とさせる女性は、薄闇が支配する病室にあっては、悪魔的なヴィジョンをオプションとしてタブらせている。もしも、由加里がその気配に感づいてその姿を仰ぎ見ることができたならば ―――――きっと、彼女を悪魔と呼んだことは想像に難くない。
さて、可南子は、物音を立てないように細心の注意を払って由加里に近づいた。
「ウウ・ウ・ウ・ウウ? 」
「?」
それほど広いとはいえない病室ぜんたいにも、それは響き渡らない音の小ささだった。
―――どんな夢を見ているのかしら?
可南子は、透明なエナメルの鈍く光る爪で傷をつけないように、少女の額を優しく撫でた。少しでも力を余計に入れたならば、まるでヴェネティアングラスのように、容易に罅がはいってしまいそうだ。
―――可愛らしい。
きっと、あまりに怖ろしい夢のために、肌が上気しているのだろう。真珠と言うよりは、水晶を液体化したような汗が、少女の肌を潤していた。
可南子には、3人の娘がいるがその3人全員とひき替えに由加里を貰い受けたくなった。
それは金貨と銅貨に横たわる価値の差に似ていた。それは、洋の東西を問わずに、何処の地域の何処の歴史時代においても、金貨一枚と銅貨三枚では等価値と見なされたことはないだろう。可南子にとって、そのくらいに、由加里は貴重な存在なのである。
――――ぜひとも手に入れたい!
可南子は、冷たい肌の下に熱を放出しない炎を燻らせて、邪悪な唄を歌い始めていた。とうぜんのことながら、その唄はメロディラインも歌詞も存在しない。ただ、可南子と彼女を怖れる心だけにしか聞こえない心の唄なのである。
「・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・?!」
由加里は、氷の鞭を受けて飛び起きた。見上げると、似鳥可南子がにこやかに笑っていた。薄闇の中で、外灯に照らし出された看護婦の顔は、幽霊のように温度がないように見えた。そのあまりの怖ろしさのせいで、全身の血が蒸発してしまった。立ちのぼる生臭い臭気ごしに視る可南子の顔は、さらにすごみをまして、由加里を睨め付けていた。
「どうしたの? 右手を何処に入れているの?」
「・・・・・・・・・?!」
由加里は、全身の血管に線虫の侵入を許したような気分になった。その醜く蠢く白い虫は、少女のシルクの肌を無惨に食い破り、彼女の魂ごと血管に侵入するのだ。その虫は、可南子の身体から這い出てくるではないか。
「どうしたの? 日本語を忘れたの?」
「え?・・・・・・ぁ?」
畳み掛けるように言葉の槍を繰り出してくる可南子に、由加里は返答せざるをえなくなってしまった。右手を捜す。しかし、それはすぐには見付からなかった。
「どうしたの? 由加里ちゃん」
「・・・・・・・・・・!?」
その声は100メートル近く離れた学校から響く輪唱のように聞こえた。子供は天使だと一般に信じられている。それは正義の別名だ。だから、遠くから聞こえるその歌は、正義を代弁しているのだ。それは由加里を告発している。
「・・・・・・・!?」
ここで、はじめて由加里は自己を取り戻した。彼女に馴染みの世界を取り戻したわけだ。しかしながら、その代償は空前絶後の絶望だったのである。
手が濡れている。どうしてだろう。重ねて、どうして右手を下着に忍び込ませているのだろう。それらの問いは、少女が誰よりも知っているはずの疑問だった。
「何をしているの? 由加里ちゃん?」
可南子は、なおも氷の槍を突き刺してくる。それは、唯一健在な右手をめちゃくちゃにしてしまうかもしれない。きっと、それで隠しているはずだ ――――由加里はそう思いたくなった、しかし、彼女が来る前にそれは行われていたのだ。だから、それは自ずから矛盾する。そんなことを由加里が理解できないはずはない。じっとりと濡れる右手は、そのような浅はかな思想をいとも簡単に破砕してしまうのだ。
――――そうだ、私は、やっていたのだ、オナニーを!
「もう、いっかい、聞くわ。何をしていたの? 由加里ちゃんは?」
「お、オナニーです・・・・・・・・・・・・・・・」
あまりにもあっさりと解答されたので、思わず拍子抜けの気分を味合わされた可南子であるが、ノドから欲しかったものがいきなり目の前に提示された時と同じで、思わず立ち止まっただけである。
これからは攻勢のみ。別に、開戦の雄叫びを上げるわけではないが、可南子は目の前に横たわるほぼ無抵抗の可憐な少女を自由にできる悦びに、今更ながら身の幸せを噛みしめるのだった。
しかし、可南子は作家やその志望者たちとちがって、自分の行為を常に達観することができるほどに、知性的あるいは醒めきっているわけではない。まるで青春時代の思いを再びといった風に息込んだ次第である。
「そう、オナニーね?」
「ウウ・・ウ・ウウ?!」
告白してしまって、後悔しても遅い。たとえ、その追求が非合法でやりすぎだったとしても、いちど供述してしまっては元も子もない。これから生涯、犯罪者扱いされるのである。
たとえ、後の裁判にて無罪が決定されたとしても、そのレッテルを引き裂かれることはない。一回でも、肌にはり付けらてしまったシールは、その模様を江戸時代の刑罰としての刺繍のように告白者の身体に未来永劫、刻みつけてしまうものである。
由加里は臍を噬んだ。
俯いた少女の顔は、まさに死刑執行を宣告された囚人のように青ざめている。しかし、そんな彼女に同情の念を示すほどに、可南子はあまくない、さらに畳み掛けてくる。
「じゃあ、その右手を見せてごらんなさい、是非とも拝みたいわ」
「ウウ・ウ・ウ・ウ・ウウウ?!」
まるで猫にいたぶられる瀕死の鼠のように、縮こまる由加里。その華奢な身体で、か細い心を守れると本気で思っているのだろうか。ひっしに右腕を硬直させて汚れた手を見せまいとする。
「いいかげんにしなさいね、由加里チャン?」
「・・・・・・・・?!」
泣きぐずる由加里に業を煮やしたのか、可南子は強引に少女の脇に腕を回した。
「ひっ、痛い!?」
半身を襲う激痛に思わず、典雅な細面を歪ませる由加里。
「看護婦らしくないことをさせないでくれる?」
「・・・・ウウ?」
可南子は、身勝手な理屈を少女の整った鼻がしらに突きつける。しかる後に、無理矢理に腕を下着から引きはがす。
「ぁぁ」
飛び去っていく幸福の天使に追いすがるような目と手で、由加里は、可南子を見た。その顔は一種の壁を形成している。頑としてはねのけるような容赦ないものをそこから感じ取れた。だが、次の瞬間、少女の目の前に展示されたものはそれとはちがう壁だった。可南子は外部に逃げ出すことを禁ずる壁だったが、それは内部への逃亡を禁ずるそれだった。
由加里の濡れた手。それはぬちゃぬちゃする粘液が糸を引いていた。
それは、ある意味、鏡だとしか言いようがない。いやらしい由加里の恥ずかしい姿があられもなく目の前に迫っていた。
「ウウ・・ウ・ウウ?」
由加里はこれから受ける陵辱は、これまでとちがうものになることを、無意識のうちに直感していた。
「そ、それにしても、はるかったら本当に大人げないわね ――――」
「え?」
いきなり直球を繰り出されて、ゆららは即座に反応できなかった。
目の前では、死闘が繰り返されている。ただし、それは片方だけに言えることだった。
「ほら、照美、何してるのよ!!」
怒声がコートに響き渡る。
はるかの怖ろしい一打を打ちそこねた照美は、珠のような汗を周囲に煌めかせて、天を仰いだ。ここにいるものは、みな、その女神を思わせる美しさに息を呑んだ。しかし、はるかは、自分を奮い立たせて魂を奪われるのを防いだ。
それは、あたかも己が剣を足に突き刺してまやかしから自分を解放する故事に似ている。
「やる気あるの!?」
声量豊かに、さらなる怒りをコートに爆発させる。
まるでホテルにまで聞こえるのではないかと思わせる。発声者からすれば、その声は別に、怒りを表しているわけではない。アスリートの本能がそうさせているだけである。
しかし、テニスを本気にやっていない身からすれば、それは狂気に身を躍らせた犯罪者にしか見えないである。ちょうど、今、照美の優雅に回転する腰を掠めたボールなどは、とうてい素人が対応できる代物ではない。それでも、どうにか目標に向かって身体を動かすことができたのは、彼女の高い身体能力を裏付ける証拠だとしか言えないだろう。
しかし、はるかにすればそれは許し難いテニスへの侮辱なのである。そのような才能を持っていながら、遊びでテニスに取り組むのが許せない。だが、そもそもはるかが無理矢理引っ張り出したはずであるが、もはや、少女の記憶の庭に、そのような樹木は植えられていない、当に、伐採されたはずだ。いや、そもそも植えていたことさえ憶えていないかもしれない。
「とりゃあ!!」
「はるか! もう止めなさい!!いい加減になさい!!」
まるで少女とは思えない雄叫びを上げた瞬間に、あゆみの鶴の一声が、コート獣に編み目模様の闇を作り出した。
そのとたんに、照美は膝を地面に着地させた。
「はあ、はあ、はあ・・・・・・」
非常に珍しい光景に、ゆららは目を丸くしていた。
―――あの海崎さんが膝をつくなんて・・・・・・。
その表現は、暗喩であってもじっさいであっても、この才色兼備の女神には似つかわしくない表現だった。その照美が、膝をコートにつき、肩で息をしている。しかしながら、真珠の汗を、美貌いっぱいに埋める照美の顔は、敗者であっても煌々と輝いていた。
―――同じ、人間なのにこんなにちがうなんて・・・・・・・。
高田たちにプライドを人間以下の存在にまで貶められ、辱めを受けても、いじめられているという自覚まで忘れて、笑っていた。そんな自分とは天と地の差がある。
しかし ――――――――――。
同じ敗北の汗にまみれていても、ゆららよりももっと惨めな状態に置かれている少女が、このとき、同じ時間平面上に ―――――いた。
言うまでもない西宮由加里である。
ノートパソコンに伏して自分の髪の匂いに鼻腔を犯されながら、夢の世界へと逃げ込んでいた。
はるかに命じられた小説を書くために、過去の記憶を編み直しているうちに、とつぜんの眠気に襲われたのである。破損した骨や筋肉がその組織を回復するために、脳に眠りの申請を行ったのだろうか。
由加里は、中学生にしては大人びた外見ながら、その中に多分に幼い部分が人よりも生き残っている。両者のせめぎ合いは、このぐらいの年齢の少年少女にとってみれば日常茶飯事だろうが、この少女を精神を不安定にし、危うくさせているのだった。普通の少年少女よりも両者に揺れる振動の幅が半端ではないのである。
――――ふふ、可愛らしい。
ひとりの看護婦が薄闇に意味ありげな笑みを浮かべていた。
似鳥可南子、この病院の看護婦である。
一主任でありながら、この大病院の看護婦だけでなく、医者連中にまで権力の触手を伸ばしている。それは、彼女が院長の血縁だからである。表向きは、そのような権勢家じみた振る舞いにうつつを抜かすことはないとはいえ、裏では、この病院をこの手アノ手で、操っている。そのことは、この病院に所属する者にとってみれば、言わば、公然の秘密なのである。
さて、この何処にでもいそうなジャガイモを彷彿とさせる女性は、薄闇が支配する病室にあっては、悪魔的なヴィジョンをオプションとしてタブらせている。もしも、由加里がその気配に感づいてその姿を仰ぎ見ることができたならば ―――――きっと、彼女を悪魔と呼んだことは想像に難くない。
さて、可南子は、物音を立てないように細心の注意を払って由加里に近づいた。
「ウウ・ウ・ウ・ウウ? 」
「?」
それほど広いとはいえない病室ぜんたいにも、それは響き渡らない音の小ささだった。
―――どんな夢を見ているのかしら?
可南子は、透明なエナメルの鈍く光る爪で傷をつけないように、少女の額を優しく撫でた。少しでも力を余計に入れたならば、まるでヴェネティアングラスのように、容易に罅がはいってしまいそうだ。
―――可愛らしい。
きっと、あまりに怖ろしい夢のために、肌が上気しているのだろう。真珠と言うよりは、水晶を液体化したような汗が、少女の肌を潤していた。
可南子には、3人の娘がいるがその3人全員とひき替えに由加里を貰い受けたくなった。
それは金貨と銅貨に横たわる価値の差に似ていた。それは、洋の東西を問わずに、何処の地域の何処の歴史時代においても、金貨一枚と銅貨三枚では等価値と見なされたことはないだろう。可南子にとって、そのくらいに、由加里は貴重な存在なのである。
――――ぜひとも手に入れたい!
可南子は、冷たい肌の下に熱を放出しない炎を燻らせて、邪悪な唄を歌い始めていた。とうぜんのことながら、その唄はメロディラインも歌詞も存在しない。ただ、可南子と彼女を怖れる心だけにしか聞こえない心の唄なのである。
「・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・?!」
由加里は、氷の鞭を受けて飛び起きた。見上げると、似鳥可南子がにこやかに笑っていた。薄闇の中で、外灯に照らし出された看護婦の顔は、幽霊のように温度がないように見えた。そのあまりの怖ろしさのせいで、全身の血が蒸発してしまった。立ちのぼる生臭い臭気ごしに視る可南子の顔は、さらにすごみをまして、由加里を睨め付けていた。
「どうしたの? 右手を何処に入れているの?」
「・・・・・・・・・?!」
由加里は、全身の血管に線虫の侵入を許したような気分になった。その醜く蠢く白い虫は、少女のシルクの肌を無惨に食い破り、彼女の魂ごと血管に侵入するのだ。その虫は、可南子の身体から這い出てくるではないか。
「どうしたの? 日本語を忘れたの?」
「え?・・・・・・ぁ?」
畳み掛けるように言葉の槍を繰り出してくる可南子に、由加里は返答せざるをえなくなってしまった。右手を捜す。しかし、それはすぐには見付からなかった。
「どうしたの? 由加里ちゃん」
「・・・・・・・・・・!?」
その声は100メートル近く離れた学校から響く輪唱のように聞こえた。子供は天使だと一般に信じられている。それは正義の別名だ。だから、遠くから聞こえるその歌は、正義を代弁しているのだ。それは由加里を告発している。
「・・・・・・・!?」
ここで、はじめて由加里は自己を取り戻した。彼女に馴染みの世界を取り戻したわけだ。しかしながら、その代償は空前絶後の絶望だったのである。
手が濡れている。どうしてだろう。重ねて、どうして右手を下着に忍び込ませているのだろう。それらの問いは、少女が誰よりも知っているはずの疑問だった。
「何をしているの? 由加里ちゃん?」
可南子は、なおも氷の槍を突き刺してくる。それは、唯一健在な右手をめちゃくちゃにしてしまうかもしれない。きっと、それで隠しているはずだ ――――由加里はそう思いたくなった、しかし、彼女が来る前にそれは行われていたのだ。だから、それは自ずから矛盾する。そんなことを由加里が理解できないはずはない。じっとりと濡れる右手は、そのような浅はかな思想をいとも簡単に破砕してしまうのだ。
――――そうだ、私は、やっていたのだ、オナニーを!
「もう、いっかい、聞くわ。何をしていたの? 由加里ちゃんは?」
「お、オナニーです・・・・・・・・・・・・・・・」
あまりにもあっさりと解答されたので、思わず拍子抜けの気分を味合わされた可南子であるが、ノドから欲しかったものがいきなり目の前に提示された時と同じで、思わず立ち止まっただけである。
これからは攻勢のみ。別に、開戦の雄叫びを上げるわけではないが、可南子は目の前に横たわるほぼ無抵抗の可憐な少女を自由にできる悦びに、今更ながら身の幸せを噛みしめるのだった。
しかし、可南子は作家やその志望者たちとちがって、自分の行為を常に達観することができるほどに、知性的あるいは醒めきっているわけではない。まるで青春時代の思いを再びといった風に息込んだ次第である。
「そう、オナニーね?」
「ウウ・・ウ・ウウ?!」
告白してしまって、後悔しても遅い。たとえ、その追求が非合法でやりすぎだったとしても、いちど供述してしまっては元も子もない。これから生涯、犯罪者扱いされるのである。
たとえ、後の裁判にて無罪が決定されたとしても、そのレッテルを引き裂かれることはない。一回でも、肌にはり付けらてしまったシールは、その模様を江戸時代の刑罰としての刺繍のように告白者の身体に未来永劫、刻みつけてしまうものである。
由加里は臍を噬んだ。
俯いた少女の顔は、まさに死刑執行を宣告された囚人のように青ざめている。しかし、そんな彼女に同情の念を示すほどに、可南子はあまくない、さらに畳み掛けてくる。
「じゃあ、その右手を見せてごらんなさい、是非とも拝みたいわ」
「ウウ・ウ・ウ・ウ・ウウウ?!」
まるで猫にいたぶられる瀕死の鼠のように、縮こまる由加里。その華奢な身体で、か細い心を守れると本気で思っているのだろうか。ひっしに右腕を硬直させて汚れた手を見せまいとする。
「いいかげんにしなさいね、由加里チャン?」
「・・・・・・・・?!」
泣きぐずる由加里に業を煮やしたのか、可南子は強引に少女の脇に腕を回した。
「ひっ、痛い!?」
半身を襲う激痛に思わず、典雅な細面を歪ませる由加里。
「看護婦らしくないことをさせないでくれる?」
「・・・・ウウ?」
可南子は、身勝手な理屈を少女の整った鼻がしらに突きつける。しかる後に、無理矢理に腕を下着から引きはがす。
「ぁぁ」
飛び去っていく幸福の天使に追いすがるような目と手で、由加里は、可南子を見た。その顔は一種の壁を形成している。頑としてはねのけるような容赦ないものをそこから感じ取れた。だが、次の瞬間、少女の目の前に展示されたものはそれとはちがう壁だった。可南子は外部に逃げ出すことを禁ずる壁だったが、それは内部への逃亡を禁ずるそれだった。
由加里の濡れた手。それはぬちゃぬちゃする粘液が糸を引いていた。
それは、ある意味、鏡だとしか言いようがない。いやらしい由加里の恥ずかしい姿があられもなく目の前に迫っていた。
「ウウ・・ウ・ウウ?」
由加里はこれから受ける陵辱は、これまでとちがうものになることを、無意識のうちに直感していた。
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