再び、あおいと啓子がニフィルティラピアという地名を耳にするのは、もうまもなくのことである。しかし、マザーエルザという固有名詞を聞いたのは2度目のことだった。その授業はマザーと呼ばれる修道女の手によって行われる宗教の時間に行われている。
しかしながら、宗教とは言ってもことさら戒律じみたことを強制するわけでもないし、学校が奉ずるキリスト教アリウス派の信仰を強いるわけでもない。ただ、聖書を通じた物語を通じて、物の道理を教えるだけである。
言いようによっては、もっと、意地の悪い表現も可能だ。薄い毒を飲まされているということである。精神の発育に準じて、キリスト教精神をやんわりと教え込まされるのだから、そのやり方は頭の良いやり方だと言えるだろう。
事実、卒業してから改めて洗礼を受ける生徒もいるのである。その割合は、日本のキリスト教信者の割合を考えると、突出した数字なのだ。
この段階において、あおいと啓子がどれほどキリスト教に毒されているのか、本人ですらわからないだろう。ただ、ふたりの言動からあるいていど、その影響を受けていることは確かだったと思われる。
ただし、この授業がどれほど与していたのか、やはり、はっきりとしないが・・・・。
「はい、今日は宿題の発表会を行いましょう。そうでしたね、マザーエルザについて調べてくるはずでしたね ――――榊さん」
浅黒い顔をくしゃくしゃにして、シスターテオドラは定型句を言った。そのとたんに、教室中に罪の薄い笑いが木霊する。そう、その定型句は枕詞のようなもので、その次ぎに榊あおいという固有名詞が並ぶのだ。それはこのクラスの決まり事だった。
しかし、シスターもクラスメートもいつにないあおいの様子に訝しく思っていた。
「どうしたの? 具合が悪いの?」
「ほら、百合河さん、私の言いたいことはわかりますね」
「はい、私語は禁止です」
「よくできました」
名指しされた少女は恐縮して答えた。しかし、心配そうな視線を送ることは止めなかった。あおいの足を見ると小刻みに動いている。その証拠にコトコトを音が鳴っている。椅子が唄っているのだ。
――――きっと、熱があるんだよ。
次ぎに、あおいの第一の親友だと目される啓子に視線を走らせる。彼女はあおいよりも前に座っているために、異常に気づかないようだ。いや気づかないはずはない。敏感な啓子のこと、この教室に漂う微妙な空気を察知しないはずはない。
この教室に、1デシリットルでもレモンの果樹液を垂らしたら、間髪入れずにその正体を明らかにしてしまいそう。それほどまでに敏感で神経質だと知られていた。あおいが彼女と仲よくなる前は、みんな、怖くて話しかけるのも憚られるほどだった。
―――具合悪そう。
さらに、あおいを気遣う少女。いや、彼女以外のだれもが心配していた。太陽に比べられるほどに明るかったあおいがどうしたと言うのだろう。大袈裟でなくて何事か恐るべき事が起こるのではないかと、みんな本気で心を砕いたのである。
だが、そんなことを察知できないシスターテオドラではなかった。
ただ、規律を信望するあまり、クラスメートの指摘を注意したのである。内心では、それを喜ばないはずはなかった。友愛は、彼女が奉ずる宗教が第一にあげる思想だった。だから、友人への気遣いを喜ばないはずがあろうか。
「榊さんどうしましたか?」
「い、いえ、なんでもないです・・・・・」
何でもないという顔ではなかった。いつもならほんのりと赤みを帯びた頬は青ざめ、心なしか頬が痩けているとさえ表現できそうだ。あんなにピチピチと生気に満ちていた少女の肌は、病人のそれのように温度を感じさせない。まるで発泡スチロールのようだ。
しかし、滑らかなその肌は一方で、亀の甲のような美しさを漂わせていた。鼈甲が醸し出す大人の雰囲気は当然のことながら、小学生の子供が出せる空気ではない。シスターは、訝しげに少女の顔を伺うと言った。
「保健室に連れていってもらいなさい、保険委員は誰でしたっけ?」
「はい、私です」
「あ、私が」
「駄目です、赤木さん ――――」
シスターは啓子を制するように言った。規律をこよなく愛する身として面目躍如の説諭を行ったわけである。親しい友人である啓子が連れて行きたいと思うのは人情であるが、ここは保険委員にまかせるべきだと。その言い分は理路整然としていたので、啓子が口を挟む余白はなかった。
「大丈夫?」
「うん・・・・・」
伊東俊子は、あおいの言うことを額面通りに受け取るわけにはいかなかった。青白い汗を額に滲ませたその姿は、どうみても正常には見えなかったからだ。しかし、たしかに普通ではなかったが、病気では ――なかったのである。
「ウウ・ウ・、いえ、大丈夫です、先生・・・じゅ、授業を受けさせてください」
あおいは懇願した。ここで保険医に診察されることだけは何とか避けたかった。幼い少女の自我は、秘密が露見してしまうと思ったのである。 ―――下半身の秘密が・・・・・。テオドラが大人の女性の直感によって、それを見抜いていたのは、大人の女性としてとうぜんの成り行きだった。官能を憶えているとき、女性は変わるものである。
しかし、それがたった10歳の少女に、それが訪れるとは夢にも思わなかったのである。洞察できなくて当然だ。しかしながら、あるひとつの可能性があった。それならば、納得がいく。さいきんの子は早いと聞く。テオドラはその可能性を見た。
「あおいさん、あなた ――――。ここはたしかに保健室に行ってもらわないといけません」
ただでさえ、峻厳なシスターの表情がよりいっそう厳しいものになった。あおいには、それが鋼鉄の壁に思えてならない。しかし ――――。
「うううっ!?」
シスターの手があおいの首に絡まるとカラーごと、身体にめり込んだ。それは少女の主観である。 恐怖に基づいた主観は、ただしい見方を誤らせるものだ。
―――――このことを知られたら終わりだ。学校にいられなくなる!!もう、たいせつなものを失いたくないわ。
あおいは、絶望の空の下で呻いた。もはや舌は味を感じる器官ではなくて、単なる口腔内の異物にしか思えなかった。プラスティックかゴムを咬んでいるいやな感覚が口中に広がる。そして、俄に苦い味も同時に感じた。
もちろん、それは異物そのものの味ではなくて、自らの唾液そのものが催す味にすぎない。言い換えれば、じぶんじしんを憎悪しているということになる。もちろん、小学生にすぎないあおいに直截的に得た事実を論理的に説明させることはほとんど不可能である。
ただ、単純に気持ち悪いとしか答えられないだろう。
「せ、せんせい、お、お願いですから・・・・」
「あおい、駄目だよ、先生の言うとおりにしないと ―――」
いきなり啓子が立ちあがって親友の元に近づいた。両手を握ってみる。なんという手の冷たさだろうか。
彼女の言いようといい、あおいをいたわる視線といい、絶対に彼女に対する以外では見ることができない表情だった。
その時である、啓子を驚かせる事件が起こったのは。
「触らないで!」
空気を劈くような声は、すくなくとも、声変わり前の少女のそれではなかった。あるいは過去から響いてくるような声だった。
その声とともに、あおいの右手が動いたのである。啓子のぬくもりを感じたとたんに、それは動いた。そして、啓子の頬を平手打ちにしていた。
「・・・・・・・・・・け、啓子?!」
実は殴られた啓子よりもあおいの方が心を乱していた。クラスメートたちは驚いた。あおいの表情は、かつて見たことのある顔でなかった。幽霊のように青ざめた顔に、一筋の涙ができている。その表情はとうてい自分たちを同じ年齢の少女には見えなかった。あきらかい大人の女性がそこにいたのである。
「ぁ、ご、ごめん、啓子ちゃん」
まるで親友の名を確かめるように言い直す。ふたりの間に悠久の歴史が控えているように見えた。永遠の宇宙が背景になっているように見えた。そこはふたりだけのために神が用意した特別な空間なのか。
「ご、ごめんなさい、大丈夫です・・・・・」
「榊さん ――――」
シスターが畳み掛けようとしたときに、都合良くチャイムが鳴った。しかしながら、誰にとって都合がいいのか、あおいにとってか?
少女は、ある人物を思い浮かべて、勝手に怯えていた。それは榊有希江その人である。聖ヘレナ学院、高等部一年生に所属している。
「榊さん、お昼の後でも具合が悪かったら保健室に行くのですよ」
半ば投げやりに、言葉の数珠を壊してやや控えめに、教室にばらまいてシスターは教室を後にした。残されたのは、大魚を逃した釣り師のような児童たちだった。
シスターテオドラの足音は時計の秒針に似ていると言う。たしかに、正確無比な音は彼女の性格を暗示している。まるでウォーキングの模範のように前を向いて颯爽と足を運ぶその姿は学園の時計と言われるだけはあった。
そのシスターがかつての教え子を見つけたのは、螺旋階段に足を踏み込もうとしたときだ。有希江の秀麗な顔が上がってくるところだった。教え子と書いたが、この学園の教諭に名を連ねているかぎり、ほぼ全員が教え子のはずである。
ただし、有希江は、いや、彼女に限らず榊姉妹は、四人とも何かしらの理由でシスターの脳細胞に刻まれている。どの子もいちど顔を見たら忘れられない。
長女の徳子は、型どおりの優等生であるが、その型に支配されずに、自らが型になり変わってしまうほどの力量を備えていた。一方、次女の有希江は型破りであるが、型を卒業しているだけの自身を兼ね備えていた。
シスターが、まず声をかけたわけだが、第一声はまさに彼女らしい言葉だった。「あら、榊さん、ここは初等部ですよ」
有希江は、形の良い唇を上品に開けると、懐かしげといった風に返事を繰り出した。
「先生、許可はもう取ってあります。家族の話がありますので、母の言付けです」
シスターは教え子が差し出したものを見て思わず噴き出してしまった。それがあまりにあおいらしかったからである
「あら、あら、榊さんがこの世でもっとも愛するものじゃない。天変地異でも起こりそうね」
――――もう一回、処女懐妊が起こるかもしれませんよ、明日ぐらいに、私のところに告知天使が来られるかもしれません。
有希江は、冗談を言う相手を心得ている。だからその言葉を呑みこんだ。同じ言葉を彼女が所属するクラブの顧問に漏らしたところ。
「お前、よくこの学園でそんなことが言えるな、時と場所をわきまえろよ」と峻厳な顔で言われたものだ。もっとも、その後押し殺したような笑いに部室が充満したのだが。
「あ、そうだ榊さん ――――」
有希江が立ち去ろうとしたとき、シスターは彼女の耳に何か囁いた。
「そうですか? いちおう聞いてみますね。そういうことならば、応対室を利用していいですか?父兄ってことで」
「初等部の? わかったわ。担任に言っておくわ」
―――――さすが、オトナの女ね。でもまさかってことがあるから・・・・・・・・・。
有希江はほくそ笑んだ。昨日の昨日まで、妹の局所を弄んでいたのだ。それが起こったか、起こらなかったのか、知らないはずはない。もっとも、今のこの瞬間に起こるということもじっさい、あり得ない話しではない。
――――ふふふ、告知天使があの子の元にやってきたのかしら?
まるで、ライトノベルズの題材になりそうなストーリーをフライパンで料理しながら、有希江は、彼女の子供の部分にダンスを踊らせた。
もうそろそろあおいの教室だ。小学生たちは有希江を見つけると、誰も感嘆の声をあげる。彼女に振り向かない人間は、教師をふくめて誰もいない。
それに加えて、誰も彼女を単なる学園生としてみなさない。高等部の生徒が初等部に侵入するのは、校則違反のはずなのに、教師の中で、それを指摘するのはシスター以外にいなかった。
それだけではない、この学園の制服である、古くさいブレザーには、ひときわ大きい十字架がデザインの常識を越えて生地を席巻している。
それは単なる制服ではない。鎧だ。心と体の内外から、清い心を護るための防具なのである。
一見、制服は、この学校の校風を暗示するように厳格な鎧を纏っている。
しかし、それだからこそ、この傑出した少女を閉じこめておくには、それは狭すぎるのだ。精神的にも身体的にも十二分に、鎧を突き破るだけのポテンシャルを誇っているのではないか。
高等部卒業まで二年余り、この段階で見る人にそのような衝撃を与えるだけのものを確かに持っている。有希江はそれだけの少女だった。
ある人物以外にとってみれば、彼女の到着は歓迎すべき事態のはずだった。
ごく一名を除いて・・・・・・・・・・。
しかしながら、宗教とは言ってもことさら戒律じみたことを強制するわけでもないし、学校が奉ずるキリスト教アリウス派の信仰を強いるわけでもない。ただ、聖書を通じた物語を通じて、物の道理を教えるだけである。
言いようによっては、もっと、意地の悪い表現も可能だ。薄い毒を飲まされているということである。精神の発育に準じて、キリスト教精神をやんわりと教え込まされるのだから、そのやり方は頭の良いやり方だと言えるだろう。
事実、卒業してから改めて洗礼を受ける生徒もいるのである。その割合は、日本のキリスト教信者の割合を考えると、突出した数字なのだ。
この段階において、あおいと啓子がどれほどキリスト教に毒されているのか、本人ですらわからないだろう。ただ、ふたりの言動からあるいていど、その影響を受けていることは確かだったと思われる。
ただし、この授業がどれほど与していたのか、やはり、はっきりとしないが・・・・。
「はい、今日は宿題の発表会を行いましょう。そうでしたね、マザーエルザについて調べてくるはずでしたね ――――榊さん」
浅黒い顔をくしゃくしゃにして、シスターテオドラは定型句を言った。そのとたんに、教室中に罪の薄い笑いが木霊する。そう、その定型句は枕詞のようなもので、その次ぎに榊あおいという固有名詞が並ぶのだ。それはこのクラスの決まり事だった。
しかし、シスターもクラスメートもいつにないあおいの様子に訝しく思っていた。
「どうしたの? 具合が悪いの?」
「ほら、百合河さん、私の言いたいことはわかりますね」
「はい、私語は禁止です」
「よくできました」
名指しされた少女は恐縮して答えた。しかし、心配そうな視線を送ることは止めなかった。あおいの足を見ると小刻みに動いている。その証拠にコトコトを音が鳴っている。椅子が唄っているのだ。
――――きっと、熱があるんだよ。
次ぎに、あおいの第一の親友だと目される啓子に視線を走らせる。彼女はあおいよりも前に座っているために、異常に気づかないようだ。いや気づかないはずはない。敏感な啓子のこと、この教室に漂う微妙な空気を察知しないはずはない。
この教室に、1デシリットルでもレモンの果樹液を垂らしたら、間髪入れずにその正体を明らかにしてしまいそう。それほどまでに敏感で神経質だと知られていた。あおいが彼女と仲よくなる前は、みんな、怖くて話しかけるのも憚られるほどだった。
―――具合悪そう。
さらに、あおいを気遣う少女。いや、彼女以外のだれもが心配していた。太陽に比べられるほどに明るかったあおいがどうしたと言うのだろう。大袈裟でなくて何事か恐るべき事が起こるのではないかと、みんな本気で心を砕いたのである。
だが、そんなことを察知できないシスターテオドラではなかった。
ただ、規律を信望するあまり、クラスメートの指摘を注意したのである。内心では、それを喜ばないはずはなかった。友愛は、彼女が奉ずる宗教が第一にあげる思想だった。だから、友人への気遣いを喜ばないはずがあろうか。
「榊さんどうしましたか?」
「い、いえ、なんでもないです・・・・・」
何でもないという顔ではなかった。いつもならほんのりと赤みを帯びた頬は青ざめ、心なしか頬が痩けているとさえ表現できそうだ。あんなにピチピチと生気に満ちていた少女の肌は、病人のそれのように温度を感じさせない。まるで発泡スチロールのようだ。
しかし、滑らかなその肌は一方で、亀の甲のような美しさを漂わせていた。鼈甲が醸し出す大人の雰囲気は当然のことながら、小学生の子供が出せる空気ではない。シスターは、訝しげに少女の顔を伺うと言った。
「保健室に連れていってもらいなさい、保険委員は誰でしたっけ?」
「はい、私です」
「あ、私が」
「駄目です、赤木さん ――――」
シスターは啓子を制するように言った。規律をこよなく愛する身として面目躍如の説諭を行ったわけである。親しい友人である啓子が連れて行きたいと思うのは人情であるが、ここは保険委員にまかせるべきだと。その言い分は理路整然としていたので、啓子が口を挟む余白はなかった。
「大丈夫?」
「うん・・・・・」
伊東俊子は、あおいの言うことを額面通りに受け取るわけにはいかなかった。青白い汗を額に滲ませたその姿は、どうみても正常には見えなかったからだ。しかし、たしかに普通ではなかったが、病気では ――なかったのである。
「ウウ・ウ・、いえ、大丈夫です、先生・・・じゅ、授業を受けさせてください」
あおいは懇願した。ここで保険医に診察されることだけは何とか避けたかった。幼い少女の自我は、秘密が露見してしまうと思ったのである。 ―――下半身の秘密が・・・・・。テオドラが大人の女性の直感によって、それを見抜いていたのは、大人の女性としてとうぜんの成り行きだった。官能を憶えているとき、女性は変わるものである。
しかし、それがたった10歳の少女に、それが訪れるとは夢にも思わなかったのである。洞察できなくて当然だ。しかしながら、あるひとつの可能性があった。それならば、納得がいく。さいきんの子は早いと聞く。テオドラはその可能性を見た。
「あおいさん、あなた ――――。ここはたしかに保健室に行ってもらわないといけません」
ただでさえ、峻厳なシスターの表情がよりいっそう厳しいものになった。あおいには、それが鋼鉄の壁に思えてならない。しかし ――――。
「うううっ!?」
シスターの手があおいの首に絡まるとカラーごと、身体にめり込んだ。それは少女の主観である。 恐怖に基づいた主観は、ただしい見方を誤らせるものだ。
―――――このことを知られたら終わりだ。学校にいられなくなる!!もう、たいせつなものを失いたくないわ。
あおいは、絶望の空の下で呻いた。もはや舌は味を感じる器官ではなくて、単なる口腔内の異物にしか思えなかった。プラスティックかゴムを咬んでいるいやな感覚が口中に広がる。そして、俄に苦い味も同時に感じた。
もちろん、それは異物そのものの味ではなくて、自らの唾液そのものが催す味にすぎない。言い換えれば、じぶんじしんを憎悪しているということになる。もちろん、小学生にすぎないあおいに直截的に得た事実を論理的に説明させることはほとんど不可能である。
ただ、単純に気持ち悪いとしか答えられないだろう。
「せ、せんせい、お、お願いですから・・・・」
「あおい、駄目だよ、先生の言うとおりにしないと ―――」
いきなり啓子が立ちあがって親友の元に近づいた。両手を握ってみる。なんという手の冷たさだろうか。
彼女の言いようといい、あおいをいたわる視線といい、絶対に彼女に対する以外では見ることができない表情だった。
その時である、啓子を驚かせる事件が起こったのは。
「触らないで!」
空気を劈くような声は、すくなくとも、声変わり前の少女のそれではなかった。あるいは過去から響いてくるような声だった。
その声とともに、あおいの右手が動いたのである。啓子のぬくもりを感じたとたんに、それは動いた。そして、啓子の頬を平手打ちにしていた。
「・・・・・・・・・・け、啓子?!」
実は殴られた啓子よりもあおいの方が心を乱していた。クラスメートたちは驚いた。あおいの表情は、かつて見たことのある顔でなかった。幽霊のように青ざめた顔に、一筋の涙ができている。その表情はとうてい自分たちを同じ年齢の少女には見えなかった。あきらかい大人の女性がそこにいたのである。
「ぁ、ご、ごめん、啓子ちゃん」
まるで親友の名を確かめるように言い直す。ふたりの間に悠久の歴史が控えているように見えた。永遠の宇宙が背景になっているように見えた。そこはふたりだけのために神が用意した特別な空間なのか。
「ご、ごめんなさい、大丈夫です・・・・・」
「榊さん ――――」
シスターが畳み掛けようとしたときに、都合良くチャイムが鳴った。しかしながら、誰にとって都合がいいのか、あおいにとってか?
少女は、ある人物を思い浮かべて、勝手に怯えていた。それは榊有希江その人である。聖ヘレナ学院、高等部一年生に所属している。
「榊さん、お昼の後でも具合が悪かったら保健室に行くのですよ」
半ば投げやりに、言葉の数珠を壊してやや控えめに、教室にばらまいてシスターは教室を後にした。残されたのは、大魚を逃した釣り師のような児童たちだった。
シスターテオドラの足音は時計の秒針に似ていると言う。たしかに、正確無比な音は彼女の性格を暗示している。まるでウォーキングの模範のように前を向いて颯爽と足を運ぶその姿は学園の時計と言われるだけはあった。
そのシスターがかつての教え子を見つけたのは、螺旋階段に足を踏み込もうとしたときだ。有希江の秀麗な顔が上がってくるところだった。教え子と書いたが、この学園の教諭に名を連ねているかぎり、ほぼ全員が教え子のはずである。
ただし、有希江は、いや、彼女に限らず榊姉妹は、四人とも何かしらの理由でシスターの脳細胞に刻まれている。どの子もいちど顔を見たら忘れられない。
長女の徳子は、型どおりの優等生であるが、その型に支配されずに、自らが型になり変わってしまうほどの力量を備えていた。一方、次女の有希江は型破りであるが、型を卒業しているだけの自身を兼ね備えていた。
シスターが、まず声をかけたわけだが、第一声はまさに彼女らしい言葉だった。「あら、榊さん、ここは初等部ですよ」
有希江は、形の良い唇を上品に開けると、懐かしげといった風に返事を繰り出した。
「先生、許可はもう取ってあります。家族の話がありますので、母の言付けです」
シスターは教え子が差し出したものを見て思わず噴き出してしまった。それがあまりにあおいらしかったからである
「あら、あら、榊さんがこの世でもっとも愛するものじゃない。天変地異でも起こりそうね」
――――もう一回、処女懐妊が起こるかもしれませんよ、明日ぐらいに、私のところに告知天使が来られるかもしれません。
有希江は、冗談を言う相手を心得ている。だからその言葉を呑みこんだ。同じ言葉を彼女が所属するクラブの顧問に漏らしたところ。
「お前、よくこの学園でそんなことが言えるな、時と場所をわきまえろよ」と峻厳な顔で言われたものだ。もっとも、その後押し殺したような笑いに部室が充満したのだが。
「あ、そうだ榊さん ――――」
有希江が立ち去ろうとしたとき、シスターは彼女の耳に何か囁いた。
「そうですか? いちおう聞いてみますね。そういうことならば、応対室を利用していいですか?父兄ってことで」
「初等部の? わかったわ。担任に言っておくわ」
―――――さすが、オトナの女ね。でもまさかってことがあるから・・・・・・・・・。
有希江はほくそ笑んだ。昨日の昨日まで、妹の局所を弄んでいたのだ。それが起こったか、起こらなかったのか、知らないはずはない。もっとも、今のこの瞬間に起こるということもじっさい、あり得ない話しではない。
――――ふふふ、告知天使があの子の元にやってきたのかしら?
まるで、ライトノベルズの題材になりそうなストーリーをフライパンで料理しながら、有希江は、彼女の子供の部分にダンスを踊らせた。
もうそろそろあおいの教室だ。小学生たちは有希江を見つけると、誰も感嘆の声をあげる。彼女に振り向かない人間は、教師をふくめて誰もいない。
それに加えて、誰も彼女を単なる学園生としてみなさない。高等部の生徒が初等部に侵入するのは、校則違反のはずなのに、教師の中で、それを指摘するのはシスター以外にいなかった。
それだけではない、この学園の制服である、古くさいブレザーには、ひときわ大きい十字架がデザインの常識を越えて生地を席巻している。
それは単なる制服ではない。鎧だ。心と体の内外から、清い心を護るための防具なのである。
一見、制服は、この学校の校風を暗示するように厳格な鎧を纏っている。
しかし、それだからこそ、この傑出した少女を閉じこめておくには、それは狭すぎるのだ。精神的にも身体的にも十二分に、鎧を突き破るだけのポテンシャルを誇っているのではないか。
高等部卒業まで二年余り、この段階で見る人にそのような衝撃を与えるだけのものを確かに持っている。有希江はそれだけの少女だった。
ある人物以外にとってみれば、彼女の到着は歓迎すべき事態のはずだった。
ごく一名を除いて・・・・・・・・・・。
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