PCの電源をオンにしながらも、奈留は、PCのメーカーや品番が微妙に違うことになぞ一向に気づかなかった。
ただ、ひたすら、日時に注目した。
「え?5月12日?」
それは、少女がまさに帰宅しようとして拉致されたその日だった。あれから三日が経過している。いったい、その間に何があったのだろうか?
恐ろしいことだが、彼女の好奇心はネットに向っていた。自分たちの事件はどのように報道されているのだろうか?小説やテレビドラマから学んだことだが、人間が誘拐されたとき、人命が尊重されるために報道協定という名の規制を行うという。万が一、犯人を刺激したら、人命が脅かされかねない。そのための配慮であろう。
しかし、あの事件から三日が経過し、見事、自分たちは助かっているのだから、マスコミが動いていてもおかしくない。犯人が確保され、被害者がほぼ無傷で解放となれば、彼らはよだれを垂らして迫ってくるはずだ。しかし、病院の周囲にはそのようなものの気配などまったくなかった。
試しにネット検索にかけてみる。
姉妹、誘拐、外国人、というワードを打ち込む。
しかし、自分たちに関連する事件はいっさい起こっていないようだ。もしかして、PC電源を入れた瞬間にもといた世界に帰還したのだろうか?いや、すこし、考えればそれはおかしいことがわかる。なんとなれば、病院の周囲にマスコミはいなかったからだ。それとも、自分たちが知らないだけで、山村刑事や病院がうまく処理したのだろうか?
「そうだ、山村さん・・・?え?!」
腰をひねった瞬間に、何か紙切れのようなものがふらりと床に落ちた。それを拾ってみると、はたして、山村莞爾、携帯909・・・・・・・。という文字列が並んでいる。そうか、この世界では、909で携帯の番号は始まるらしい。
携帯を開いた瞬間に、はたして、その番号を押していいものか、奈留は悩み始めた。おそらく、別れるときに気づかないように入れたものだろう。恐ろしく完璧な手際だ。刑事というよりもすり師と言った方が適当かもしれない。
もっとも、あの時はかなり感情的に乱れていたから、気づく暇もなかったのかもしれない。だが、いま、彼女が実質的に頼れる存在は彼のみ、だということだ。
それよりも・・・さらに不可解なことがある。ようやく、元の回転速度を取り戻した少女の脳は、矢継早に記憶をよみがえらせる。
この世界の両親は、奈留を疎んじているにもかかわらず、この携帯やPCを与えているのだ。前者に限ってみれば、以前の世界から持ち込んだとも考えられるが、PCに関していえば、それはちがう。しかも、メーカー名が微妙にちがう。携帯もそうだ。この世界に持ち込んだ品ではないようだ。
目を皿のようにして点滅するモニターを睨み付ける。
使い方も違うのかと思ったら、それは杞憂だったみたいだ。
だが、・・・少女は、携帯を握りしめて、どんな顔が浮かぶのか確かめていた。しかし、誰も浮かばない。友人はいた。たくさん、自他ともに認めるほどの人気者だったはずだ。しかし、いざ、このような困った状況に置かれて、頼るべき人間が浮かばない。
もしかして、本当は自分に友人なぞ一人もいなかったのではないか。実に空恐ろしい考えが少女を襲ったのである。
何処かで犬が吠えている。帰宅当時に出会ったと同じだろうか。あいにくと、彼女にはそれと同定する材料がなった。
そのような、どうでもいいことに意識が逃げるほどに、少女は打ちのめされていた。あえて、心に浮かぶのはあの少女のことだ。
今井真美。
いままで、それほど仲がよくなかった子だ。だが、クラスのだれしもが自分を好いていない、そのような状況が耐えられずに、友人たちの制止を踏み切って話しかけた。彼女は、いつも、ぽつんとひとりで文庫本を広げているような子である。同じく、読書が好きな奈留は話が合うと踏んだのだ。しかし、奈留はそのような情報を友人たちには知らせていない、彼女たちとの間では、いつも流行の最先端を追いかけているような自分を演じていたのである。そうした方が、誰にも好かれる奈留を楽に演じられた。
それはともかく、真美はこともあろうに、奈留の申し出を断ったのである。
それも、気が弱そうでどんな嫌がらせを受けても眉間に皺ひとつ作らない彼女が、それいやそうな顔で言った。
「近づかないで」
真美の、そんな態度に、教室中は奈留の味方になったが、それを背に交際を迫るほどに奈留はプライドが低くなったので、クラスメートを制した。だが、さきほど以上にものすごい形相でこちらを睨み付けていた。
大げさな表現ではなく、比喩でもなく、少女は後ずさって床にへたり込みそうになってしまった。寸でのところで、それを防いだのは、このクラスのリーダーだという自尊心のなせるわざだったのだろう。
断っておくが、過去を見ても彼女と深いかかわり合いがあったとは思わない。実は、小学校の1,2年のときに同じクラスになっているが、奈留の表層記憶には残っていない。
いったい、この状況をどう判断するべきか。
机に手を乗せて、辛うじて体重を支えることに成功した。その手は震えているのに
気づいたのは、その机についている少女だけだった。あろうことか、本人すら気づいていなかったのである。
そんな苦い記憶がよみがえる。
だが、彼女の携帯番号は知らないだから、かけようもない。否、かけることもできない。しかしながら、安心したのも束の間、携帯が聴いたこともないメロディともに震えだしたのである。
いったい、誰の待ち受けだと思って、携帯を見ると・・・・・。
今井真美・・・。
絶句という言葉がこれほど適切な状況もないだろう。
どうして、彼女が自分の携帯番号を知っているのだろう。しかし、いっしゅんでそれは氷解した。ここはかつて奈留が知っている世界ではないのだ。自分は迷った旅人であって、予想もしなかった出来事に出会っても何もおかしくないのだ。
恐る恐る携帯を耳に当てる。
すると、自分の口が自然に動いた。
「ご、ご主人様、こんばんは・・・犬以下の奴隷に何用でございますか・・・?」
信じられない言葉が堰を切ったように口から零れる。これはどういうことか?考えるまでもなく、自分は学校でいじめられているらしい。その主犯は、あくまでも、いじめが刑事罰に値する罪であると仮定したうえでの話だが、あの今井真美だということになっているのだ。
すこしばかりの沈黙があって、同年代のものと思われる少女の声が聞こえてきた。
「折原、かなり奴隷が板についてきたわね。いや、ほんとうの折原になったということかしら?」
「ハイ・・・おり、折原、奈留は今井様をはじめとして、クラスのみなさまの、奴隷でございます・・・こんなおぞましいゴミ屑が・・・」
声は、奈留を制した。
「今晩はそれでいいわ。私も眠いの。要件だけは伝えるわ。メールで送るから、その通りの格好で学校で来るのよ、みんなで、奴隷にふさわしいのを考えてあげたのよ。感謝しなさいね」
「ありがとうございます・・・ご主人様・・・」
みなまで言わずに携帯は切れた。まるで自動機械のように口が動いた。きっと、普段からなんども言わせられているのだろう。それにしても、なんとひどいいじめなのだろう。奈留は戦慄を覚えた。しかし、もっとも恐ろしいことは、自分があくまでもこの世界にとってみれば客人にすぎない、ということを忘れてしまうことだ。
どう考えても、さきほどの声が真美のそれとは思えないが、よく記憶を反芻してみると、そう聞こえないでもない。
いままでおどおどしていた彼女の表情しか印象にないから、すぐにさきほどの声には結びつかないが、自分を睨みつけたときのものすごい形相からならば・・・ちがう・・・それでも、想像だけでは奈留の中で合致しない。
「あ、メールだ」
奥原知枝。
その氏名が点滅した瞬間に、奈留の頬はほころんだが、ここは異世界なのだ。知枝という少女は奈留の信奉者なのだ。それはここでは通用しないだろうと、覚悟を決めて携帯を見る。
「折原にお似合いのエサを用意しておくからね。ご主人さまより」
そのメッセージが目に入った瞬間に、奈留の指は勝手に動いていた。
「このみっともなく、とても臭い折原奈留のエサを用意していただいて、大変に恐縮です
ありがとうございます。奥原さまの忠実な奴隷より」
「・・・・・」
いったい、エサとは何事だろう。どんなことをさせられるのだろうか?それを想像すると、思わず嘔吐したくなった。身体は知っているのだ、毎日、自分がどんな目にあわされているのか。
そんなことをしているうちに、今井真美からメールが来た。
「こんなに遅くで悪いけど、ミミズを用意してちょうだい。家の周囲にいくらでもいるでしょ?それを数匹、アソコに入れて、学校に来ること・・・・わかった?」
「ミミズ?アソコ?」
とたんに、性器がうずいた。身体が自然と動く。奈留に告げている。何処にミミズが多く住んでいるのか、それ以外に何が必要なのか、そう、アルコール。よく洗って消毒しないと・・・。
「9時30分・・・・」
奈留は、懐中電灯を押入れから取りだすと、お目当てのものを得るために外に向った。できるだけ音は出さないようにする。これからすることを家族にけっして知られてはならない。
こんな時間だから、両親は起きているから注意しないといけない。別に自分のことを心配するからではない。こんな目にあっているのはすべて自分が悪いのだ。だれのせいでもない。
そんな思いが身体からじかに伝わってくる。
奈留の心は完全に無艇庫のまま、身体の奴隷と化している。
家を出る。裏はちょっとした森になっている。鬱蒼としたというほどでもないが、昼間はともかく夜ともなれば、少しでも足を踏み入れたら二度と戻ってこれないような気がして恐ろしい。
2、3歩ほど足を踏み入れると、少しでも掘ればミミズが手に入る。いつものことなので、バケツと小さなシャベルが置いてある。
いつものことなんだ・・・・。
奈留は哀しくなった。想像するに、とても、人が人にするようなことではない、とてもひどいことをされているのに、それでもなお学校に通っているのだ。この世界の奈留はとても強いのか、頭がおかしいのか。
少女は、幼い子供がよくする膝を抱えた格好で、シャベルを地面に突き立てた。大粒の涙が意識とべつの働きをする何かによって流される。身体が泣いているのだ。それにたいして、少女はかける言葉を知らない。慰めるすべはいったいどこに隠されているのだろうか、すくなくとも、この地下には見いだせないだろう。
懐中電灯が見つけたものは、ぶくぶく肥ったミミズだった。はちきれそうな、その代物は血色がいいのか、ピンクよりも赤により近い色をしている。こんなものを性器にはめ込んで、登校しろと言うのだろうか。
奈留は絶望的な気持ちになった。
「本当なの・・・!?本当に、こんなことしなくっちゃいけないの!?ひどい・・・・」
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