人間は何を思うのか、考えるのか、自分のものだといって本当に制御可能なのだろうか?中学1年生のごくふつうの女の子である如月美佐枝はリノリウムの床がきらきら光るのを見て、忘れかけていた、ある同級生のことがインスピレーションのように浮かんでいた。
彼女のクラスには一人の少女がいじめられている。
宮間未華がそのような立場に置かれたのは自業自得だと、美佐枝は思っている。いや、彼女だけでなくクラスのほぼ全員がそう考えている。
それにはある切っ掛けがあった。
ある朝、クラスメートたちが登校すると、教壇の上にCD_ROMが置かれていた。それを再生してみると、美香がクラスメートを罵倒する内容が長々と20分ほどに渡って録音されていたのである。誰の耳にも、それは彼女の声であることはあきらかだったし、本人も否定しなかった。
単に美貌で頭がいいというだけでなく、弱い人間に惜しみない助力を差し伸べるなど、精神的にも高潔な人間だと、みなに受け止められていた。しかし、録音はそれと完全に相反する内容だった。
いったい、誰がどんな目的で置いたのか、という根本的な問題を完全に忘れ去って、ただ、信頼していた人に裏切られた思いだけが勝ってしまった。その結果、少女は一瞬にして、クラスの人気者から忌み嫌われる存在に落ち込んでしまったのである。
あんな台詞を録音した声を聞かされてしまえば、クラスのほとんどは彼女を嫌うだろう。さすがにあそこまでひどいことをする必要はないが、少なくとも、かかわろうとしなければいいのだ。
今は、放課後、HRが終わったばかりで、運動部のかしましい声がまだ響いてこない。嵐の前の静けさとでもいうべきひと時だった。
音楽室に向うために渡り廊下を歩いている。
美佐枝の中学の音楽室は、二階の行き止まりにある。その扉を開こうとしたときだ。けたたましい足音がしたと思ったら、今の今まで脳裏にいた彼女が駆け込んでくるではないか。美しい顔が涙で汚れてクラスのアイドルだった見る影もない。
「如月さん・・お、お願い、階段の下に逃げたって言って!?お願い!きょ、今日は・・・うう」
悲壮な顔で迫ってくる美貌を美佐枝は無視しようとした。音楽室に逃げ込もうとするその姿は悲壮だった。かつての堂々たる姿は何処に消えてしまったのか。完全に興醒めで幻滅だった。
彼女を追いかけるように迫ってくるあの足音たちは、きっと、聡子たちのものだろう。言わずと知れた、未華をいじめている主要メンバーたちである。きゅきゅっという、上履きのゴムがリノリウムの床をこする音が、未華にさらなる恐怖を抱かせる。
音楽室の奥を見ると、美少女がさらに悲壮な思いで頭を下げている。両手を合わせて、自分は観音様かしら?と突っ込みを入れたくなった。
いっそのこと、聡子たちに突き出してもいいと思ったが、ある一言を一対一で告げる機会は今回しかないと思い立ち、気が変わった。音楽室のドアを投げやりな手つきで閉める。
激しい足音からキリンが集団で襲ってくるような錯覚を覚えた。
聡子を中心とする五人がそこに立っていた。
あの優しい顔がこんな風に変貌するのか。
美佐枝は自分に迫ってくるリーダーの顔を見た。あんな人をあいてにする必要はないのにと思いながら、聡子はこちらから声をかけた。
「どうしたの?聡子さん」
息せき切って走ってきた四人組の少女たちは、すぐには言葉を発せられないようだ。なんといっても、未華は運動が得意で足が速い。陸上部所属というわけでないが、一度、逃げられたら捕まえるのはむずかしいだろう。
そのうちの一人がまず質問してきた。
「はあ、はあ、ここにあいつが来なかった?」
クラスメートがあいつと言えば誰のことか、今では代名詞ではなくなっている。
「宮間のこと?来なかったよ」
「やっぱり、右に回ったのよ!急ごう!」
いじめっ子たちの駆け足は、サイやスイギュウなど大型草食動物が集団移動するさまを思わせる。
とおざかる足音が消えると、音楽室のドアが開いた。
そこには顔を両手で覆って泣きじゃくる未華がいた。
「ぁ、ありがとう・・・・如月さん・・」
「あの人たちもひまよね、あなたなんかまともに相手にする価値なんてないのに」
「・・・・うう・・如月さん・・」
「気軽に名前を呼ばないでくれる?穢れるから」
「如月さん・・・・」
「そうだ、今日はどうしたっていうの?どうせ、明日にはずっとひどいことされるのになんで逃げ回っていたの?別にあんたのことなんて興味ないのよ、ついでだから聞いてるだけ、答えたくなったら、答えなくてもいいよ」
「せ、生理だから・・・・うう」
「・・・・・」
その一言で、いじめっ子たちに普段どんな目にあわされているのか、如月美佐枝にもおぼろげながら摑めてきた。だが、こんな機会はもうないのだから言ってしまいたい。
「宮間さん、よくも学校に来れるわよね、そうとう図太いね、神経が」
「・・・き、如月さん・・・・」
今まであこがれていた。だが、彼女の傍にさえよることができなかった。だが、今ではぼろ雑巾のように彼女の目の前にいる。
美佐枝は無理に笑いを作った。クラスメートたちのように、みじめな未華を見ても心から笑うことができない。
だが、勇気を持って言わねば、ついこの前までこんな人に尊敬の念を抱いていた、かつての自分に対して申し訳が立たない。
「自業自得よ・・・」本心ではなかった。だが、畳み掛ける。「人を見下すとこういうことになるのよ!」
「・・・・・」
未華は黙っていた。だが、美佐枝の本心を見抜いたのか、目を伏せようとしない。そればかりか、美佐枝の肩を摑んだのだ。
「あ、あれは違うの!お願いだから信じて!」
制服のパットが破れるどころか、肩そのものが脱臼するほど勢いが強い。なんだろう、この圧力は?
すがるような目つき。
写真で見たアフリカの子供たちがこんな目をしていたっけ。だけど、自分の知っている宮間未華はこんな目をしていなかった。あんたなんて、あの人じゃない!相手が間違っているならば、たとえ教師にでも繰ってかかる負けん気の強かった彼女は何処に言ったというのだ?
肩をいからせると、簡単に手を引いた。
「ぁ、あ、如月さん、ごめんなさい・・だけど、聞いてほしいの・・・・」
まるで幼女の瞳を彷彿とさせる。黒目勝ちな瞳。まったく邪気が感じられない。それが怖くてなって思わず、「気持ち悪いから傍に寄らないで!」と突っぱねてしまった。
「・・・・うう」
「ちょっと、何処に行くのよ!?」
階段を下りようとした未華に美佐枝は訊いた。
「石岡さんが言っていた方に行くから・・・」
水銀のような涙が数滴、パイプのような欄干に落ちるのが見えた。
討ち入り前の赤穂浪士のような悲壮な覚悟を決めた顔だった。
「庇ってくれてありがとう・・・・」
「ちょっと、待ちなさいよ」
「・・・・!?」
ふりむいた未華の顔は同一人物とは思えないほどに変容している。
吊り上った眼からは涙がこぼれているが、さきほど見られた気弱さはまったくといっていいほど消えてなくなっている。その代りに持ち前の負けん気の強さが凌いでいる。
それを見せられた美佐枝は思わず呟いた。
「わかったわ。信じる、嘘なのね・・まだどういことなのか、わからないけど」
「・・・・・」
未華はクラスメートに背中を向けたまま俯くと、レモン汁を絞り出すように涙を一滴、二滴とこぼし続ける。
だが、再びキリンの蹄の音が聞こえた。
「はやく、こっちへ、音楽準備室から外に出られるよ」
「え?2階なのに?」
「歌唱部だけが知ってる秘密の通り道よ、体育準備室の屋根に出られるの」
未華の肩を摑むと、音楽室へと誘い込む。
「ヒィ・・・・?!」
彼女の顔が怯えている。石岡聡子の声が風に乗ってきたのだ。華奢というよりは、中学生にしては大人びた、スリムな身体がぶるぶると震えている。まるで真冬の外に全裸で放り出されたような塩梅だ。
そんなに聡子が怖いのか。いったい、どんな目にあわされているのだろう。ちなみに、あの五人のうちのひとりは如月美佐枝の幼馴染である。しかし、その日は病欠だった。もしも、彼女がいればイの一番に自分に質問してきたにちがいない。そうしたら、嘘を突き通せたのか自信がない。
彼女、栗下蘭によれば、性的な行為を強制したりするらしい。ならば、生理の彼女は
どんな目に合わされるのだろう。身体を密着させると、ほのかに鉄っぽいにおいが漂ってくる。少女には、それが未華の悲しみのように思えた。
思春期にはじまる生理は、将来、赤ちゃんが生まれる序章のようなものである。そんな大事な儀式をいじめのネタに使われるなどと、たとえ、彼女の声が真実だったとしても、とうてい許されることだとはおもえない。
準備室に入ると、嗅ぎなれたにおいが鼻孔になじむ。
「こっちよ・・・そんなに高くないでしょ?」
「イヤ・・・怖い!!」
「宮間さん、もしかして、高いところが苦手なの?」
窓辺に立ってぶるぶると震えている。先ほどよりもはるかに怯えている。どう見ても病的にしか見えない。高所恐怖症であることは火を見るより明らかである。
背後をうかがえばキリンの足音が迫りつつある。
「もうそこまで来てるよ、宮間さん」
「・・・・・」
何かを心に決めたのか、未華は窓際から離れて机の上に両手を滑らせた。そこにはカッターナイフが置かれていた。おもむろにそれを摑むと美佐枝に突きつけた。
「しっ、私の言う通りにして!」
もう、何がなんだかわからない。もはや、怯えていた姿は微塵もない。
数秒後、石岡聡子をはじめとする四人が入ってきた。
キリンのくせに肉食獣めいた凶暴さをむき出しにして、二人に迫ってくる。そのうちのひとりがまず牙をむいた。美少女は、美貌を歪めて、そんなものに負けじと真正面から向かっていく。
「宮間?あんた、何してるの!?」
いじめっ子たちのひとりは美佐枝をすぐに被害者だと認定したようだ。
「美佐枝さん!!」
「近づかないで!!」
未華は、スリムな体型からは信じられないほど強い力で、美佐枝の右腕をひねると聡子たちに向けた。刃物は、少女の首筋に光っている。
「何を考えているの?!美佐枝さんを離しなさいよ!!」
四人のうちのひとりが叫んだ。
しかし、聡子はあくまでも冷静だった。
「そんなことして、どうなると思っているの」
「もう、あんなことイヤよ!先生を呼べばいいじゃない。警察でもなんでもいいわ!」
泣き叫びながら引き下がる未華。しかし、あまりにも感情的になっているためにそこが窓際であることに気づかない。
それを知らせたのは、二階から見える園芸用の如雨露に光が反射したせいかもしれない。
「ぁ・・・!?」
本質的な恐怖が少女を襲った。とたんにナイフが落ちる。すとんと床に突き刺さった刃物を、引き抜くと聡子はそれを未華に突きつける。
「さきほどの威勢のよさは何処に言ったのかしら?・・・ま・ふふ、自分で言っておきながら、あまりにもお笑いな台詞ね。三流映画みたい」
美佐枝の知っている聡子はけっしてこんな饒舌ではなかった。
「ちょうどいいわ。今日のショーはここでやりましょ。蘭ちゃんがいないことだし、今日は美佐枝さんに加わってもらいましょう。被害者だし・・・」
理知的な視線を向けてくるいじめっ子のリーダー。
事、ここに至って、美少女の意図に気づいた。彼女は、自分を庇うためにこんな芝居めいたことをやってみせたのだ。思えば、彼女は子役プロダクションに関係していると聞いたことがある、これほどまでの美少女ならば、それもうなづける話だが。
「美佐枝さん、今日の予定は?」
聡子の優しげな微笑の向こうに、未華が首を振っているのが見えた。リーダーに刃向ってはいけないと言っているのだ。
仕方なく、少女はコクンと頭を下げた。
「この子、今日は生理なのよ。驚きでしょ?こんな性格破綻者が子供を産もうっていうのよ」
「ウウ・・ウ・ウ?!」
未華の小さな顎を乱暴に摑むと、自分の方向へと無理やりに引き寄せる。
「性格破綻者の上に、性的な異常者でもあるのよね、宮間は?」
主人が奴隷にその身分を確認させるように怒鳴りつける。
「宮間?!」
「ヒ・・・?は、はい」
尽かさず。平手打ちを未華の美貌に炸裂させる。高貴な美術品がゴミ袋のようにしわくちゃになった。
「い、淫乱です・み、宮間、みか、未華は・・・・やらしいことが、だい、大好きな、淫乱な女の子です・・・・・うう」
悪魔の手からやっと頭部を解放された少女は、顔を覆って号泣しはじめた。その瞬間に、ちらっと、美佐枝に視線をうつした。
そのとき、聞きなれた足音が彼女の耳に届いた。視覚障害者などが足音だけで誰のものかよくわかる、ということがよくあることだが、同じく音楽を長年やってきた者にも同様のことが見られるという。
美佐枝はその好例だろう。声楽家を母にもつ彼女は小さいころから歌唱に慣れ親しんできた。
彼女が聞き取ったところによると、掃除を終えた部員がやってきたのだ。
「そうか、ここは歌唱部の活動の場だったわね。将来、歌手になる美佐枝さんは練習しないといけないわね」
石岡聡子の言葉が終わると同時に部員たちが入ってきた。
「ぁ、聡子さん、それに、宮間?」
その名前を聞いたとたんに、一変して汚らわしいものを見る目に変わった部員。
一方、聡子は打って変わってしおらしくなった。美佐枝には見慣れた彼女の姿である。
「宮間さんが寂しいからお友達がほしいって・・・」
「無理やりに言い寄られたの?まるでストーカーじゃない。ちょっと、いくら誰からも嫌われたからって、おとなしい石岡さんに近付くってどういうこと?」
「ぁ・・ああう?!」
その部員、佐竹登美子は、歌を歌うというよりは柔道の方が部活としては似つかわしいほど強靭な身体を持つ少女である。未華のほっそりとした身体など軽々と片手で持ち上げてしまう。
哀れにも両足は床から引き離されてしまった。だが、ばたばたさせるほどの気力も残っていないようだ。ぐたっと海藻のようなさまを晒している。
あまりにも無体な扱いである。だが、そこにいる誰も被害者に同情する視線を送ってこない。
思わず、美佐子は援助の言葉をかけたくなったが、未華の思いを考えるとそう簡単に嘴を突っ込めずにいた。
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