佐原陽子は首をひねっていた。両親の遺体と対面して、そのショックから冷めるのにかなりの時間がかかったとはいえ、今、彼女が置かれている状況とは幸福とはほど遠い状態だからである。
かつて、伯母と呼んでいた相手は、ヴァージョンアップして、継母と呼ぶことになった。それを聞いて、ゲーム好きのお兄さんがそう言っていた。後から思えば、何とも無神経な中学生だったが、当時の陽子は、そんなことを忖度する余裕がない。
今からおもえば、赤西家に到着した夜に継母から聞いた言葉、「今日は、陽子ちゃんは
お客さんだからね」の意味が次の日になってわかるようになってきた。
翌朝、土曜日だったので学校は休みだった。
遠くから鶏が鳴く声が聞こえると途端にふすまが開いて、そこには継母が立っていた。昨日と裏腹に何処かかしこまっていて、非常に他人行儀だった。その態度に不自然に感じるより先に冷たい言葉をかけられた。
「このふすまを境に、ここは佐原家ですからね」
自分に対して敬語?と陽子は思った。
どういうとかと質問する前に、朝食が乗った盆が目の前を移動する。まるで浮遊しているように見えた。
「明日から、いえ、今晩からは自分で取りに来てもらいますよ。いいですね、陽子さん」
「え?・・・はい」
思いよらぬ言葉に、陽子は、半ば、いや、半ば以上、強制されたかたちで肯くしかなかった。
「お、おばさん・・」
「おかあさんでしょ?」
言葉の内容と裏腹に、冷え切った印象に頬を強張らせる。
以前の伯母とは打って変わった態度に、少女は言葉を失っていた。
「あ、あの・・・」
「何かしら?」
「学校のことですけど・・・・」
つられて、思わず敬語になってしまう。
「保護者になったんだから、当然の義務よね」
「な、何が?」
「あなたを学校に行かせること・・・」
保護者という言葉に、かっこ付がついていることがあからさまだった。いったい、どうしたというのだろう。何か、自分に落ち度があったとでもいうのだろうか。継母は、彼女にそんな考えをする余裕を与えない。
「それから、佐原家の玄関はあそこですからね」と指差したのは御勝手だった。すぐにわかったことだが、そのために少女にこの部屋を宛がったのである。佐原という、少女が失ったはずのみよじが異様に軽々しく聞こえて、とても不安に思った。
「いいですか、ここからは他の家ですからね。陽子さんはお友達の家に勝手にはいらないでしょう?どそういう時はどうする?」
「ピンポンを押します・・・」
「よくできました。ここにはそんな気の利いたものはないから、これで代用してちょうだい」と渡されたのはベルだった。
何か、ショックなことをいわれているのは、理解できるのだが、あまりにも矢継早に繰り出してくるために、頭が即座に吸収するのを拒否している。電気と同じでショートすることで、いちどに高い電圧がかかることを防いでいるのだろう。
そうしたときに、まず彼女が自分を守るために思い出したのが、従妹である、いま、姉妹になった、恵美たちのことだった。
「あ、恵美ちゃんは・・・・」
ふと、継母の顔が、かつて陽子が知った伯母に戻ったような気がしたが、それはごく一瞬にすぎなかった。
「恵美は友達のところに遊びに行っているわ。あなたには用があるんだけど、買ってきてほしいものがあるの」
昨夜、恵美と彼女の妹の百合は、陽子を訪れて、ずっと、泣き続ける彼女の背中をさすってくれた。記憶では、明日、友達に紹介してくれるということだった。きっと、後で連れてきてくれるのだと高をくくった。
継母から渡されたものは、お金と半分に折った紙だった。開く前に口頭で説明された。
「買うべきものと道順を書いたから、よろしく」とそっけない。だが、言うべきことを言わねばならない。
つい、伯母の態度につられて敬語になってしまう。事実、彼女がかけてくる無言の圧力にはそうしなければならないように思わせる迫力が備わっている。
「お、お願いが・・・あるんですけど」
それは、従妹たちにも言ったことだった。
「何かしら?」
「パパとママのことは、誰にも言わないでほしいの」
「そう、わかったわ」
本当に理解しているのだろうかと、疑わせるような言い方だった。その上、さらに渡された買い物籠をぶら下げてふすま跨ごうとすると、冷たい手と腕がにょっきっと出てきて、御勝手を指さした。無言だった。それがなおのこと冷たく感じた。顔を見上げると、普段は本当に美しいと感嘆していたのに、それゆえになおさら寒々と感じられて、おもわず涙ぐんでしまった。
とぼとぼと、外に出る。いつ、用意したのか、彼女が履いてきた靴がそこにあった。
しかし、元来、根が強い陽子のこと、「きっと、気に入らないことを私がしたんだわ」と気を取り直した。頑張って、この家に役立つことをすれば認めてくれるにちがいない、と健気にも、何の保証も担保もないのに、力瘤を作ってみた。
陽子がひたひたと買い物に向かうと、ちょうど、恵美たちがやってきた。
「どうしたの?買い物に行くなんて?みんなに紹介しようって言ってたじゃない」
「だって・・」
いつにない従妹の態度に、少女はサメに指を食いちぎられた気分になった。いったい、彼女が何を責めているのかわからない。買い物は継母に頼まれたから、やっているのだし、もしも、それを知らないというならば、きっと説明すればわかってくれるだろう。しかし、従妹は、陽子の予想外のことを言い出した。
「陽子ちゃんから、買い物に行きたいって、催促したんだって?・・・・」
何か言いたげに、従妹は黙りこくってしまった。そんなに睨まないでと、陽子は思わず涙ぐんだ。
恵美にしてみれば、今、自分を支配している感情をどう説明していいのか、うまく言語化できずに戸惑っているのだ。あいにくと、それは身近な大人が、しかも、それを言うのにふさわしい人間が変わりを果たしてくれた。
たまたま、所用があって出かけていた父親が帰宅したのだ。
「陽子ちゃん、別に気を使わなくていいんだよ」
少しばかり、頭に白い物が混じっているが、ふさふさした髪の毛からは、一見、学者風のインテリめいた知的さを醸し出している。陽子は、小さいころからこの叔父に好感を持っていたから、彼の好意を素直に受け止めたかった。しかし、それはできにくい状況だった。が、しかし、むしろ、彼が出現したことで場の空気は悪化の一途をたどったようだ。
陽子が、叔父、正しくは継父だが、彼に対していい子ちゃんの態度を取ったために、恵美が妹の清美の手を取って、みんなをあさっての方向に連れて行こうとした、少女の知らない場所へと。
もう一人の従妹、清美は小型の恵美というほどにそっくりなのだが、心配そうな顔でこちらを見ていたが、姉によって無理やりに引き寄せられた。ふと見えた、恵美の顔は、あきらかに自分に対して反感を抱いていた。顔をつぶされたとでも思っているのだろうか。だが、継母から買い物を頼まれたのは事実なのである。
継父は、すでに家の中に消えていた。だから、自分の心を補強してくれる相手をみつけようにも、そこには誰もいなくなっていた。
何かに促されて中の紙を取り出して開いてみると、はたして、そこには何も書かれていなかった。キツネに包まれた気分で玄関に入っていく。そして、家の中に入ろうとすると、継母が笑っていた。だが、それにはとてつもなく温度が感じられなかった。
「昨日、教えたこと、まだ覚えていないの?」
「・・・・」
むしろ、強烈に怒鳴りつけられた方がどれほど楽だろう。しかし、彼女は表情を変えずに続ける。
「何って言ったかしら?」
「・・・・・」
継母に言いたいことは山ほどあるが、頭の中が真っ白になってしまった。その様子を楽しむように、冷たい脅迫は続く。
「でも・・・」
「でも、じゃないでしょう・・」
「何も、書いてありませんでした」
「そう、書き忘れたみたいね」
勇気を振り絞って言いたいことを告げても、あっさりとそう返されると、もはや、どんな反応をしていいのかわからない。
「この件はわるかったわ・・・」
継母は無言で責めてくる。よもや、疑うようなことはないでしょうね、ということだ。
「ご、ごめんなさい・・・・」
思わず、涙ぐむ少女。
「別に泣くことないわよ」
「・・・・」
優しげにほほ笑むが、偽りのマリアにしか見えない。
「ちょうど、新しい用ができたから、そちらに行ってほしいの、買い物は恵美に任せるから」
「はい・・・・」
「そうだ、陽子ちゃんにはたんとオメカシして、言ってほしいいんだ」
急に猫なで声になったのに驚いて、少女は思わず唾を飲んだ。
怯える少女を玄関に招じ入れる。決して、入ってはいけないと言われているので、薄いえんじ色の床が、あたかも黄金のように思える。伯母が連れていったのは、少女も入ったことのある恵美の部屋だった。
アイボリーのクローゼットを開くと赤いワンピースのドレスを取り出した。まるで余所行きの服に驚いた。彼女の姿勢から、明らかに着用を命じているのがわかる。
従妹の服を、彼女の許しを得ずに着ていいものかと、訝りながらもそでを通す。彼女の方が背が高いし、目方もあるのだから、当然のようにサイズが合わない。だが、陽子がふとっているというわけではない。小学6年生にしては背が高いが、どちらかというと痩せている、ローレル指数からすれば、従妹よりもパラメーターが低いだろう。
陽子は改めて自分の身体を鏡に映してみた。
身体に食い込む生地。あきらかに、これは小さすぎる。もう少しで乳首が見えてしまいそうだ。思わず胸を隠す。幸か不幸か、少女は気づかないことだが、おとなの目線からすれば簡単に見えてしまう。
おまけに、丈が低いために少しでも歩けばおしりが見えてしまいそうだ。
とたんに、顔から火が出てしまいそうだ。
この格好で、いったい、何処に行けというのだろう。外を歩くなど、羞恥心の強い少女には耐えらないことだった。
| ホーム |